46.揺らめく炎と
無限列車での任務が終わった後——鬼殺隊士たちは、駆けつけた隠たちの手によって、ひとまず蝶屋敷へと運び込まれた。
その中でも、最も重い傷を負っていたのは炭治郎だった。
魘夢との戦いの最中、魘夢に従っていた運転手の反撃から伊之助を庇い、深手を負った腹部には暗器による刺創が残されている。一夜に及んだ戦闘が終わり、ようやく警戒を解いた炭治郎は、すでに意識を失っていた。蝶屋敷へ運び込まれるなり治療が施され、そのまま入院することとなった。
善逸もまた、隠たちに運ばれる頃には疲労の限界を迎え、意識を失っていた。頭部を強く打ちつけたうえ、額には裂傷が走り、列車が横転した際に負った全身の打撲も軽くはない。こちらも炭治郎と同じく、しばらく蝶屋敷で療養することとなった。
一方、煉獄杏寿郎も全身に大小さまざまな傷を負っていたものの、幸いにも入院を要するほどの重傷はなかった。
しかし、上弦の参との死闘を終えた身体には、激しい戦いの疲労が色濃く残っている。診察を終えた杏寿郎には数日の休養が命じられ、蝶屋敷を後にすると、そのまま自宅で療養することとなった。
竹雄と伊之助は、今回の任務で大きな怪我を負うことはなかった。
とはいえ、二人の身体にも、長い戦いをくぐり抜けた疲労は確かに残っていた。竹雄は普段から世話になっている煉獄邸で休むこととなり、伊之助はそのまま蝶屋敷で預かられることになった。
もっとも——伊之助本人に、休むつもりなど毛頭なかった。
一昼夜のほとんどを眠りに費やした身体を起こすなり、伊之助はすぐにでも修行や任務へ戻ろうとしていたのだ。
当然ながら、しのぶがそれを許すはずもない。
少なくとも四日間の休養が必要だと判断され、伊之助には蝶屋敷で大人しく過ごすよう、きっちりと言い渡された。
そして、休養期間のうち、残る三日間をどう過ごすかについても——すでに決まっていた。
以前の療養中に取り組んでいた、小学生用の教材の続きを進めること。前回で低学年向けの内容を終えていた伊之助には、今回は中学年向けの教材が用意されていた。
それが伊之助にとってどれほど過酷な試練となるのか。猪の頭に隠された表情までは窺い知れないものの、その身に待ち受ける運命を思えば、本人がどれほど絶望しているかは想像に難くなかった。
伊之助にとって、身体を動かすことすら許されない三日間の勉強は、まさしく地獄の再来であった。
そんな中——— 灯麻希は木箱の中で、深い眠りに沈んでいた。
一日が過ぎても、その眠りが破られることはなかった。
ようやく意識が浮上し、重い瞼がゆっくりと持ち上がった頃には、無限列車での戦いから、すでにかなりの時間が経過していた。
灯麻希はぼんやりと天井を見つめたまま、しばらく動かなかった。やがて緩慢な動作で手を伸ばし、木箱の蓋を押し上げる。差し込む光に目を細めながら外へ出ると、視界に広がったのは、畳の敷かれた部屋だった。
板張りの蝶屋敷の病室とは、明らかに様子が違う。
しかし目に入った天井には、どこか見覚えがあるような気がした。視線を巡らせれば、襖に障子。けれど、記憶のどこを探っても、すぐには答えに辿り着けない。隣へ目を向けても、いつもならそこにあるはずの禰豆子の箱は見当たらなかった。
(ここは……どこだろう…………?)
まだ眠気の抜けきらない頭で、灯麻希は部屋の様子を確かめる。周囲の気配を探ろうと意識を向けた、その矢先だった。
すっと、襖が開いた。
「姉ちゃん、起きた?」
開いた襖の向こうから顔を覗かせたのは、竹雄だった。
「竹雄……?」
灯麻希は目を瞬かせる。
見慣れた顔を前にしても、まだ頭がうまく働かない。そんな姉の様子に、竹雄はほっとしたように笑みを浮かべ、部屋の中へと入ってきた。
「よかった。やっと起きたんだね」
「……ここは?」
掠れた声で問いかける灯麻希に、竹雄は何の疑問も抱いていない様子で答えた。
「師匠の家だよ!」
その言葉に、灯麻希はようやく合点がいった。
ここは、いつもの蝶屋敷ではない。自分は今、煉獄家の屋敷にいるのだ。
「………言われてみれば、確かに家の雰囲気が煉獄さんのお家だね」
灯麻希は改めて室内を見回した。それだけではまだ曖昧だった記憶も、意識を魂視へと切り替えたことで、少しずつ輪郭を取り戻していく。
目に映るものの形ではなく、その奥にある魂の気配を辿る。
すぐ近くに竹雄。そして、その先にもいくつかの気配があった。見覚えのある魂が、煉獄家の屋敷のあちこちに点在している。杏寿郎もいる。千寿郎も、槇寿郎も———どうやら、煉獄家の人間が全員この屋敷に集まっているらしい。
「それで———どうして、私が煉獄さんの家にいるか教えてくれる?」
「勿論!」
竹雄は待っていましたとばかりに頷いた。
「今回の任務は特に疲れたみたいだし、姉ちゃんを師匠の家に連れて行っていいか、診察の時に俺が胡蝶さんに頼んだんだよ」
「診察の時に?」
「うん!」
竹雄は明るく答えると、蝶屋敷での出来事を思い返すように話し始めた。
灯麻希が蝶屋敷で目を覚ましたら、きっといつものように手伝いを始めてしまう。そう考えた竹雄は、自分が診察を受けた際、しのぶに相談を持ちかけたのだという。
そして、その申し出に対するしのぶの返事は、拍子抜けするほどあっさりしたものだったらしい。
『いいですよ。今回の汽車の任務で灯麻希さんは大いに頑張ったと聞いてますので。灯麻希さんもしばらく休んだ方がいいですからね』
そこまでは、労いを込めた穏やかな言葉だった。けれど、しのぶはそこで一度言葉を切ると、柔らかな笑みを浮かべて、さらにこう続けたのだという。
『ちょうど今はそんなに人手を必要としていませんし……灯麻希さんのことですから、この屋敷にいるとちゃんと休まずに手伝いを要求してきそうなので』
そこまで聞いたところで、灯麻希の表情が微妙に曇った。
「そうだったんだね。それなら納得だ」
口元には苦笑が浮かぶ。
しのぶの言葉に、異論を挟む余地はほとんどなかった。
(しのぶさん……私のこと、よく分かってる)
自分では、ちゃんと休むつもりだった。少なくとも、本人はそう思っていたのだ。
けれど、蝶屋敷に戻ってしまえば、目の前に手伝えることがある限り、きっと何かしら動こうとしただろう。頼まれたからではなく、誰かに無理を強いられたわけでもない。自分にできることがあるのなら、放っておけない。
しのぶは、そんな灯麻希の性分をよく理解していたのだ。
しばし沈黙した灯麻希を見て、竹雄は何かを気にするように視線を窺わせた。遠慮がちに尋ねる声には、姉の気持ちを確かめようとする不安が滲んでいる。
「……もしかして、嫌だった?」
「ううん。炭治郎たちと離れるのは少し寂しいけど、竹雄がいるから全く嫌じゃないよ」
灯麻希がそう答えると、竹雄の表情がぱっと明るくなった。
「そっか!それなら良かった!俺も師匠の家で姉ちゃんと一緒に過ごせるの、嬉しいよ!」
弾む声とともに、竹雄の顔いっぱいに笑顔が広がる。そこに気負いや遠慮はなく、姉と一緒にいられることを心から喜んでいるのが伝わってきた。
そのあまりに素直な喜び方に、灯麻希もつられるように頬を緩める。
「それよりさ、胡蝶さんって姉ちゃんの性格をよく知ってるなって思ったんだ」
「そ、そうだね……た、確かにそれは否定できないかなぁ……」
竹雄からも同じように思われていたとは———灯麻希は僅かに目を泳がせ、気まずそうに言葉を濁した。
しのぶだけではない。身近にいる竹雄にも、自分がどういう人間なのか、すっかり見抜かれているらしい。
そう思うと、先ほどまでの苦笑に、ほんの少しばかり照れくささが混じるのだった。
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前回この屋敷を訪れたときには、ゆっくりと中を見て回る余裕などなかった。
だからこそ今夜は、屋敷で眠りについている杏寿郎たちを起こさないよう、竹雄は足音を忍ばせながら灯麻希を案内していた。月明かりが廊下に淡く差し込む中、二人は並んで歩いていく。竹雄は時折、進行方向を指し示しながら、起こさないようにと声を潜めて説明した。
「ここが風呂場で、こっちが師匠の家で二番目に大きい居間。あっちの奥が槇寿郎さんのお部屋だよ」
「ふむふむ」
灯麻希は小さく相槌を打ちながら、竹雄が指し示す先へと視線を向けた。
襖や障子の並ぶ廊下を進み、部屋の配置を一つずつ確かめていく。以前訪れたときには目に留める余裕もなかった屋敷の造りが、今はゆっくりと目に入ってきた。
その道すがら、竹雄からは炭治郎たちがこれまで通り蝶屋敷で療養していることや、杏寿郎がすでに目を覚ましたことも聞かされた。どうやら杏寿郎は、灯麻希より数時間ほど早く、夕餉の頃に意識を取り戻したらしい。
「師匠は夕餉頃に起きたんだけど、ご飯を沢山食べてそれから少し休んだ後に、また布団に帰ってしまったんだ」
竹雄は声を潜めたままそう話すと、そのときの様子を思い出したのか、ほっとしたように表情を和らげた。
「師匠があんなに大怪我して、一日中目が覚めないことなんて初めてだったから、目覚めるまで凄く心配してたんだけど……起きたら、蜜璃さんくらい沢山食べてて……」
「ふふ」
その言葉に、灯麻希の口元にも思わず笑みが浮かんだ。
あれほどの死闘を終え、長い眠りについていた杏寿郎が、目を覚ますなりいつも以上の食欲を見せたのだという。その姿を思い浮かべれば、竹雄がどれほど心配していたとしても、最後には安堵の笑みを浮かべてしまったことが、なんだかおかしくも微笑ましかった。
「あー……姉ちゃん。蜜璃さんは……」
「分かるよ。恋柱の甘露寺さんだよね」
「そう、その人!」
竹雄は小さく頷くと、声を潜めながらも、どこか嬉しそうに話を続けた。
「蜜璃さんも師匠の弟子で、俺より少し後に入門したんだ。なのに、あっという間に最終選別に合格して、柱にまでなっちゃった凄い人なんだよ。優しくて可愛い先輩なんだ」
尊敬する先輩のことを話す竹雄の声には、自然と熱がこもっていた。そして、最後には少しだけ胸を張る。
「姉ちゃんも会えたら、すぐに仲良くなれるよ。絶対!」
「そうかぁ。
灯麻希は相槌を打ちながら、ふと竹雄へ意味ありげな視線を向けた。
「もしかして竹雄、甘露寺さんのこと好きになったの?」
「違うよ!」
思わず声を張り上げた竹雄は、直後にはっとして自分の口元を押さえた。
静まり返った夜の屋敷に声が響いてしまったことに気づき、慌てて周囲を窺う。それから改めて灯麻希へ向き直ると、今度は声を潜めて必死に弁解した。
「そんなんじゃないよ……!ただ客観的に見て、可愛らしい人なのに凄く強くて、柱になった凄い先輩だって言いたかっただけ……!」
「ごめん、今のは姉ちゃんが悪かった。ごめんね」
灯麻希はクスクスと笑いながら、竹雄に合わせて声を落とした。
「分かってるよ。ちょっと意地悪なこと言いたくなっただけ……夜だから、静かにね」
「もう!」
竹雄は赤くなった顔のまま拗ねると、姉から逃げるように少しだけ歩調を速めた。
「誰か起きたら姉ちゃんのせいにするから」
「はいはい」
灯麻希は笑みを残したまま、その後ろについていく。月明かりに照らされた廊下を、二人分の足音が再び進んでいった。
(もう少し早く目覚めていれば、煉獄さんと話せたのにな…………)
ふと、灯麻希は胸の内で独りごちた。
杏寿郎が目を覚ましたと聞いたときには、すでに再び眠りについた後だった。せっかく煉獄邸に戻ってきたのだから、無事な様子を知るだけでなく、少しくらい言葉を交わしたかった。
「ねぇ竹雄。煉獄さんは、もう一度寝るときも大丈夫そうだったんだよね?」
「うん。『回復には家のご飯が一番効くな!もう一眠りしてくる!』って言ってて、すぐに寝入ったよ。傷の具合も悪くないって」
竹雄の声には、師匠が目を覚ますまで抱えていた心配が、すっかり安堵へと変わった様子が滲んでいた。
その声を聞きながら、灯麻希は張り詰めていた息をそっと吐き出す。
「そっかぁ………安心した……」
零れた言葉は、ひどく素直なものだった。
無限列車での戦いを終えてから、灯麻希の心には、猗窩座を取り逃がした悔しさが重く残り続けていた。加えて、自分のことで精一杯になるほどの心身の疲労もあり、杏寿郎が生き残ったという事実を、ただ喜び、噛み締めるだけの余裕がなかったのだ。
生きていることは分かっていた。
けれど、頭で理解していることと、その事実を心の底から実感することは、同じではなかった。
竹雄の話を聞きながら、灯麻希は月明かりの差し込む廊下をゆっくりと歩いていく。夜の静寂さに包まれた煉獄邸には、穏やかな時間が流れていた。その中で、ようやく心にまで届いてくる。
(煉獄さんは、生きている)
あれほどの大怪我を負いながらも、ちゃんと目を覚ました。食事を摂り、いつもと変わらぬ調子で笑い、再び眠りにつけるほどには回復している。
その姿を自分の目で確かめたわけではない。それでも、竹雄の話す声からは、杏寿郎が無事に目覚めたことへの安堵が確かに伝わってきた。その事実が、今になって胸の奥へと染み渡っていく。
——良かった。本当に、生きていてくれて良かった。
灯麻希は、ようやくその喜びを心の底から噛み締めることができた。
姉が安堵に頬を緩める様子を、竹雄は隣からそっと見つめていた。
無限列車での戦いで、姉もまた深い疲労と傷を負った。それなのに、目を覚ましてからも自分のことは後回しにして、他の者たちの様子ばかりを気にかけている。
それは、今に始まったことではない。
竹雄は、そんな姉が大好きだった。誰かを守ろうと懸命になる姿は、幼い頃からずっと誇らしかった。
けれど、だからこそ心配でもあった。
灯麻希は、時に自分が傷ついていることさえ顧みず、他人を優先してしまう。誰かのために動くことをためらわない姉だからこそ、せめてその身を案じる者がそばにいなければならないと、竹雄は思っていた。
だからこそ、自分はもっと強くなりたかった。
「俺、もっと強くなるから」
ぽつりとこぼれた言葉には、猗窩座との戦いで何もできなかった自分への悔しさが滲んでいた。
目の前で繰り広げられる上弦の参との死闘を、竹雄はただ見ていることしかできなかった。炭治郎も伊之助も同じだったが、それでも、あの場にいたからこそ思い知らされたのだ。師匠や姉のように戦える力があれば、できることがあったのではないかと。
姉に追いつきたい。師匠のように強くなりたい。そして、いつかは大切な人たちを守れるようになりたい。
胸の内で決意を重ねながら、竹雄は隣を歩く灯麻希を見上げた。
「ん?竹雄は十分強くなってるよ。列車の戦いだって、竹雄がいたから——」
灯麻希にとって竹雄は今も変わらず、守ってやりたい大切な弟だった。
初めて鬼と遭遇した頃、竹雄は恐怖に足を竦ませ、思うように動くことさえできなかった。それが今では炎の呼吸を身につけ、鬼殺隊士として戦い、杏寿郎の継子として日々鍛錬と任務を積んでいる。
あの頃と比べれば、見違えるほど強くなった。無限列車での戦いでも、竹雄は自分にできることを懸命に果たしていた。
だからこそ、灯麻希は弟の成長を伝えたかった。自分ではまだ足りないと思っているのかもしれないが、そんなことはないのだと、少しでも分かってほしかった。
けれど—————
「そうじゃないよ」
竹雄は小さく呟き、灯麻希の言葉を遮った。少し低くなった声には、姉の言葉をそのまま受け取ることのできない、もどかしさが滲んでいた。
灯麻希はふと口をつぐみ、隣を歩く弟へと視線を向ける。いつもと違うその声音に、何か思うところがあるのだとは分かった。けれど、それが何なのかまでは、まだ気づけなかった。
「……これで案内終わり!明日に備えて、俺はもう寝るから!」
竹雄は何かを振り切るように声を張り上げると、隣を歩く灯麻希へ、びしっと指を突きつけた。
「夜だから目が冴えるのは知ってるけど、遅くまで起きてちゃ駄目だよ!分かった!?」
言いたいことだけ言い切ると、竹雄は返事を待たず、足早に自分の部屋へと戻っていった。
廊下に一人取り残された灯麻希は、唐突に幕を下ろされた家案内に、ぱちぱちと目を瞬かせる。つい先ほどまで、あんなに普通に話していたはずなのに。何か気に障ることでも言ってしまっただろうか。
「? うーん……反抗期かな……?」
灯麻希は首を傾げた。
竹雄は現在十三歳。心も身体も変化していく、思春期の真っ只中である。
長男の炭治郎は、生来の性格もあってか、幼い頃から五人の弟妹の面倒を見ることに慣れており、いつだって素直でしっかり者だった。
けれど、炭治郎が十三歳だった頃には、すでに無惨によって家族を殺され、灯麻希と禰豆子までもが鬼にされていた。家族を守るため、必死に前へ進むしかなかった炭治郎と、煉獄家という安定した環境の中で成長してきた竹雄とでは、同じ年頃でも置かれた状況はまるで違う。
そう考えれば、竹雄には竹雄なりの繊細さや、姉には見せない思いがあるのかもしれない。
(難しい年頃なのかなぁ……)
灯麻希はひとまずそう結論づけると、弟の忠告を思い出して、夜更かしはほどほどにしておこうと考えた。
とはいえ、せっかく久しぶりに外に出たのだ。もう少しだけ散歩を楽しんでから、休むことにしたのだった。
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夏の暑さをそっと鎮めるような夜風が吹く中、灯麻希は煉獄邸の広い庭をのんびりと歩いていた。
鬼の身体はすでに傷を癒やしていたものの、猗窩座との戦いで消耗した心身には、まだ深い疲労が残っている。重たくなり始めた瞼をこすり、小さくあくびを零しながら、灯麻希は庭をひと回りしたら、もう一度眠ろうと考えていた。
そんな折、ふと縁側に目を向けると、千寿郎が腰掛け、星月夜を見上げている姿が目に留まった。
こんな夜更けに、どうしたのだろう。もしかすると、自分が起こしてしまったのだろうか。
そんなことを考えながら近づいていくと、足音に気づいた千寿郎が、こちらを振り向いた。思いがけない来訪者に、彼は少し驚いたように目を見開く。灯麻希は小さく手を振って応えると、そのまま千寿郎の隣へ腰を下ろした。
「灯麻希さん……!起きていらっしゃったんですね。無事に目覚めて良かったです」
「ありがとう。さっき起きたんだ。ごめんね、起こしちゃった?」
「いえ……灯麻希さんのせいじゃありません。ただ、少し眠れなくて…………」
千寿郎は申し訳なさそうに首を振った。
灯麻希はその様子に小さく頷くと、夜風に揺れる庭木へ一瞬だけ目を向け、再び隣の千寿郎へと視線を戻した。
「そっか……眠れないんだ。何か気になることでもあるの?」
そう尋ねてから、灯麻希はすぐに答えを求めることなく、千寿郎の顔をそっと窺った。
「もし話したかったら、私でよければ聞くよ。話したくなかったら、無理に話さなくてもいいからね」
千寿郎はすぐには答えなかった。
膝の上に置いた両手へと視線を落とし、何かを考えるように黙り込む。話してもいいのだろうか。自分の胸の内を、この人に打ち明けてもいいのだろうか。
迷いは、まだ消えない。それでも、しばらくしてから、千寿郎は小さく頷いた。
「ありがとうございます…………灯麻希さんがいいなら……」
一度言葉を切り、千寿郎はゆっくりと顔を上げた。迷いを残したまま、それでも目の前の人に向き合おうとするように、灯麻希を見つめる。
「僕の話を、聞いてくれますか?」
その金赤の瞳には、まだ躊躇いが揺れていた。
けれど、その奥には、ずっと胸の内に抱えてきたものを誰かに打ち明けようとする、小さな勇気も確かに宿っていた。
「僕は、物心がついた頃から剣を振っていました。始めは、兄上や父上の真似をして……ただ、二人のように剣を振るうことが楽しかったんです。
でも、父上が部屋に籠もるようになって、兄上が鬼殺隊の柱を目指すようになってから、真似事でしかなかった剣の稽古にも、少しずつ意味が生まれていきました」
夜風が庭木の葉を揺らし、さらさらと音を立てる。
千寿郎はその音に耳を澄ませるように、いったん言葉を切った。膝の上に置いた手に視線を落とし、躊躇うように指先を動かしてから、胸の奥にしまい込んできた願いを口にする。
「僕は……兄上の“継子”になりたかったんです」
灯麻希は何も言わず、静かに耳を傾けていた。
千寿郎にとって、剣の稽古はただ兄の背中を追いかけるためだけのものではなかったのだろう。兄のような立派な剣士になれたなら、いつか父も再び前を向いてくれるのではないか。かつてのように、父と兄が並んで剣を振るう姿を、もう一度見られるのではないか。
そんな幼い願いもまた、千寿郎が木刀を握り続ける理由の一つだったのかもしれない。
「けれど……どれだけ鍛錬を積んでも、僕の日輪刀の色は変わりませんでした。兄上のようには、なれなかったんです」
千寿郎の声が、僅かに沈む。その言葉を口にすることには、慣れているのかもしれない。けれど、何度自分に言い聞かせたところで、諦めきれない思いまで消えてくれるわけではなかった。
「そんな時に、竹雄君が現れました。竹雄君の日輪刀は炎の色に変わって、鬼殺隊士になって……無事に、兄上の継子になれました」
そこで千寿郎は、膝の上に置いた両手をぎゅっと握りしめた。
「嫉妬していないわけではありません。竹雄君が兄上の継子になれたことは、本当に凄いことだと思いますし……嬉しくもあります」
そこまで口にして、千寿郎は苦しげに唇を結んだ。
「でも……安心してしまったんです」
絞り出すような声が、夜の静謐さに落ちる。
「これで、炎柱の継承が途絶えずに済む。長い煉獄家の歴史に、傷がつかずに済むって…………そう思って、安堵してしまったんです」
言葉にするほどに、自分の胸の内にあるものが、ひどく身勝手なものに思えてくる。
千寿郎は俯き、握りしめた手を見つめた。竹雄の努力を認めている。兄の継子になれたことも喜んでいる。その気持ちに嘘はない。
それなのに———
「本当は、僕だって兄上のようになりたかったんです。それなのに、竹雄君が継子になったことで……これ以上、自分が頑張らなくてもいいんだって……どこかで、ほっとしてしまったんです」
最後の言葉は、今にも夜風にさらわれてしまいそうなほど小さかった。
灯麻希は、すぐには返事をしなかった。千寿郎の魂は、胸の内を吐き出すたび、揺れるように色を変えていた。けれど、灯麻希に見えるのは、その瞬間に表れている感情だけだ。彼が何を思い、何を恐れ、どんな思いを押し殺してきたのかまでは、魂の色だけで知ることはできない。
だからこそ、灯麻希は口を挟まず、千寿郎が自ら続きを語るのを待った。
「……それで、分からなくなってしまったんです」
しばらくして、千寿郎が再び口を開く。
「どれだけ稽古を積んでも、剣士になれないのなら……僕は、何のために剣を振り続ければいいんでしょうか」
その問いには、ただ答えを求めるだけではない、切実な響きがあった。
兄のようになりたい。その一心で、ずっと剣を振ってきた。けれど、どれだけ手を伸ばしても届かない。自分が諦めきれずにいた場所へ、竹雄が辿り着いた。
「兄上のようになりたかった。でも、なれない。竹雄君が兄上を支えてくれるのなら……僕が目指していたものは、もう必要ないのかもしれない」
千寿郎は再び俯いた。
「……そう思うと、これからどうすればいいのか、分からなくなってしまって」
握りしめた手には、まだ力がこもっていた。灯麻希は、隣に座る千寿郎の横顔を見つめていた。
兄のようになりたいという願いも、竹雄が継子になったことへの嫉妬も、炎柱の継承が途絶えずに済むという安堵も。どれか一つだけが本心というわけではないのだろう。竹雄のことは認めているし、兄の継子になれたことも嬉しい。それでも、自分がずっと目指してきた場所に竹雄が辿り着いたことで、もう頑張らなくてもいいのだと安堵してしまった。
相反する思いを抱えたまま、千寿郎は自分が本当は何を望んでいるのかさえ、見失いかけている。
けれど灯麻希には、その迷いを代わりに解きほぐしてやることはできなかった。
千寿郎が何を望み、これからどうしたいのか。それを決められるのは、千寿郎自身だけだ。どれほど考えたところで、彼の代わりに答えを出してやることはできない。
「……そうだったんだ」
灯麻希は小さく呟き、夜空へと目を向けた。雲の少ない空には、いくつもの星が瞬いている。
「竹雄が継子になって、安心したんだね」
責めるでも、慰めるでもない。ただ、千寿郎が打ち明けてくれた気持ちを、そのまま受け止める言葉だった。
千寿郎は少し驚いたように灯麻希を見つめ、それから、躊躇いがちに頷いた。
「……はい。そんな自分が、嫌になることもあります」
「どうして?」
灯麻希が問い返すと、千寿郎は困ったように眉を下げた。
「だって、僕は兄上のようになりたかったんです。それなのに、なれないと分かった途端、安心してしまった。まるで、最初から本気で目指していたわけじゃないみたいで……」
「そっか……」
灯麻希は静かに相槌を打ち、千寿郎の言葉を遮ることなく聞いていた。すぐに否定することも、励ますこともせず、彼が自分の気持ちを言葉にするのを待つ。
やがて、灯麻希はゆっくりと千寿郎の方へ向き直った。
「ねえ、千寿郎くん」
「……はい」
「千寿郎くんは、剣士になれなかったら……煉獄さんを支えることもできないと思っているの?」
千寿郎は、はっと目を見開いた。すぐには答えられなかった。灯麻希の問いを確かめるように、視線を向けたまま黙り込む。
剣士になれなければ、兄のようにはなれない。それなら、自分に何ができるのだろう。
これまで考えてきたはずのことなのに、そうして問い直されると、すぐには答えが見つからなかった。
「…………分かりません」
やがて、千寿郎は小さく首を振った。
「でも、兄上のようになれなければ、僕には何もできないんじゃないかって……そう思ってしまうんです」
灯麻希は、すぐには否定しなかった。
そんなことはない。剣士になれなくても、できることはある。そう伝えることはできるだろう。
けれど、今ここで自分が答えを与えてしまえば、千寿郎が自分の気持ちと向き合い、自分なりの答えを見つける機会まで奪ってしまうかもしれない。
それに、灯麻希自身も、すべての問題に答えを出し、解決できるわけではないのだと、少しずつ知り始めていた。
「……そうだね」
灯麻希は、小さく頷いた。千寿郎の言葉を否定するでも、無理に励ますでもなく、今の彼の思いを受け止めるように。
「じゃあ、千寿郎君はどうしたいのか、少しずつ考えてみてもいいんじゃないかな」
それは、答えではなかった。
剣士になれなかったら何ができるのか。兄を支えるために、自分には何ができるのか——灯麻希は、その答えを千寿郎に示さなかった。
ただ、これまで剣士になることだけを見つめてきた彼に、もう一つの問いを手渡したのだ。
——自分は、本当はどうしたいのか。
今すぐ答えを出す必要はない。けれど、問い直すことなら、今からでもできる。
千寿郎の胸に生まれた小さな戸惑いは、まだ答えの形をしていなかった。それでも、ずっと一つだと思っていた道の先に、別の可能性があるのかもしれない。そんな、ほんの少しの余白が生まれていた。