空想鬼譚   作:庵non

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タイトル右横の*は連動タイトルの印。


6.種火*

 

 

 狭霧山は、どんよりとした曇り空に覆われていた。

 七日後の夕暮れ。炭治郎が最終選別を突破して帰ってきてもおかしくない頃合いだ。

 私は壁にもたれ、膝を抱えながら布団に眠る禰豆子のそばにいた。浅い眠りのまま――炭治郎が戻る瞬間を、逃さぬように。

 鱗滝さんも隣に腰を下ろし、部屋はまるで息をひそめているかのように静まり返っていた。

 

 その時、布団がかすかに揺れた。

 禰豆子が、前触れもなくひょいと上体を起こしたのだ。

 あまりの急変に、私も鱗滝さんも、夢から現実へ引き戻されたように言葉を失う。

 

 次の瞬間、禰豆子は布団から飛び出し、戸口を勢いよく蹴り開けると、てててっと駆け出していった。

 

「禰豆子……!?」

 

 咄嗟に声を上げ、私と鱗滝さんはその後を追う。

 

 外に出ると、山の斜面の下にふらふらと歩く炭治郎の姿が見えた。“記憶”の中で見た杖代わりの枝は無いが、頭には包帯が巻かれている。疲労と痛みに顔を歪め、視線は朦朧としている――それでも、必死に禰豆子の姿を捉えようとしていた。

 

「あ―――っ!禰豆子、お前……起きたのかぁ!!」

 

 その声と同時に、炭治郎は足を滑らせ、膝から崩れ落ちた。禰豆子はためらうことなく駆け寄り、腕を回してぎゅっと抱きとめる。

 

 その瞬間、炭治郎の魂が大きく揺れた。黄色く温かな光が胸の奥からほとばしり、喜びと安堵の色が広がっていく。その震えと熱を、禰豆子も感じ取ったのだろう。

 二人の存在が、互いを確かに繋ぎとめていた。

 

「なんだよぉ……!なんでずっと、起きなかったんだ………!!ずっと心配してたんだぞ……!!」

 

 声は震え、涙が溢れ、炭治郎は嗚咽を漏らした。

 

 私は駆け寄り、二人を抱きしめる。すぐに鱗滝さんも加わり、私たち三人を大きな腕で包み込んだ。

 

「―――よく生きて戻った!!」

 

 鱗滝さんの声が、胸に響いた。

 

 言葉にできない熱さが胸を満たしていく。炭治郎の無事を、この目で確かめられる喜び。何よりも大きな、安堵感。

 胸の奥に、あたたかな灯がともる。涙と笑みが交じるその光景は、時間さえ息を潜めて見守っていた。

 この再会の温もりは、記憶の奥で静かに揺れ続けるだろう。

 

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 部屋の隅の小さな焚き火が、ぼんやりと炎を燃やしていた。

 炭治郎は疲れ切った顔で、食事の席に座り、箸を動かしている。私は正座のまま、隣で膝に頭を預ける禰豆子のぬくもりを感じながら、指先をそっとつまんで遊んでいるのを見つめていた。

 

 鱗滝さんが炭治郎の隣に腰を下ろし、穏やかに口を開く。

 

「炭治郎、話を聞かせてほしい」

 

 弟は包帯を巻いた頭をわずかに下げ、静かに息を整えてから答えた。

 

「最終選別のことですね……」

 

 鱗滝さんは小さく頷き、寄り添うように視線を向ける。

 私は禰豆子の重みを感じながら、そのやり取りをただ見守っていた。

 

「――開始早々、二人の鬼に襲われました。でも、鱗滝さんに教わった水の呼吸で……頸を斬ることができました」

 

 炭治郎の声には、まだ冷めやらぬ緊張が残っていた。

 鱗滝さんは黙ってその瞳を見据え、言葉少なに頷く。

 

 やがて炭治郎は、さらに大きな異形の鬼に遭遇したことを語り始めた。

 その言葉が部屋の空気を重くし、静寂の中に緊迫が張り詰めていく。私の胸の奥にも、ざらついたざわめきが広がっていった。

 

「“大型の異形の鬼”だと?」

 

 鱗滝さんの声が鋭くなる。

 藤襲山に閉じ込められている鬼は、人間を二、三人しか喰っていない程度のはず――育手としての彼の疑念は当然だった。

 私はその心情を“記憶”から知っているからこそ、鱗滝さんの言葉の意味を正確に読み取った。

 

「はい」

 

 炭治郎は小さく頷く。だが、次の言葉が続かない。

 “手鬼”について語ることに、ためらいがあったのだろう。下を向き、苦い顔をした彼の魂には、黒と灰色の靄がかかっていた。

 

「あの鬼は……江戸時代、鱗滝さんがまだ鬼狩りをしていた頃に捕らえられた鬼だと言っていました。鱗滝さんに激しい憎悪を抱いていて……中で、五十人は喰ったと」

 

 鱗滝さんの指先が、わずかに震えた。

 

「――そして、俺で、十四番目だと…これまでに十三人の、鱗滝さんの弟子を喰ったと、そう言ったんです……!俺は、錆兎と真菰に会いました!岩を斬れるように、ずっと修行をしてくれたんです!でも、あの鬼は二人を殺したと言っていた……!!鱗滝さん、錆兎と真菰は……!!」

 

 鱗滝さんの瞳から、静かに涙がこぼれ落ちる。

 

 炭治郎は、自分の言葉でその傷を抉ってしまったと気づき、悔やんでいるようだった。

 ――けれど、真実を伝えずにいられなかったのだろう。

 どれほど痛くても、信じたくなくても、目を背けることはできない。それが炭治郎という人間の強さであり、優しさだ。

 私はそっと心の中で、彼の行動を肯定する。どれだけ苦しんでも、すべてを受け止める勇気――それは決して間違いではない。

 

「炭治郎は、鱗滝さんの弟子たちの、みんなの仇を討ったんだね」

 

 私はそっと彼の頭に手を置いた。これ以上、優しい心を痛めぬように――ほんのわずかな祈りを込めて。

 鱗滝さんに、何を言えばいいか分からない。けれど、確かに伝えるべきことがあった。

 

「錆兎と真菰に、私も会いました。二人は――いいえ、弟子の子どもたちは皆、鱗滝さんのことを恨んでなどいません。鱗滝さんのことが大好きだから……魂になっても山に帰り、私たちに力を貸してくれたんです」

 

 炭治郎も深く頷き、私と彼はまっすぐに鱗滝さんを見つめた。

 

 

 「…………すまぬ……」

 

 その一言が、山間の夜気に溶けていく。

 狭霧山の夜は、次第に霧が晴れていった。雲間から星々が顔を出し、如月の澄んだ空気の中で淡い光が瞬く。その光はまるで、命あるものたちが持つささやかな希望の灯のようだった。

 そして――その夜空の下で、私たちの胸にもまた、静かな安らぎを取り戻していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 “歪みを孕む影”

 

 この選別は、何のためにあるのか――本当に、誰のためにあるのだろう。

 錆兎の年、彼以外の全員は生き残った。錆兎だけが死んだ。

 いや、この年だけではない。知っている限り、何十年も無駄に命を奪い続けてきた。

 そこから何を得て、学んだというのか。隊士の質は落ち、人手は不足し、柱は激務に追われる。時間は足りず、悪循環は繰り返される。

 この悪しき連鎖の源は、最終選別にあるのだ。

 ただ蠱毒のように、戦力を削り続けるだけ――それ以上の意味はないように思えてしまう。

 

 何もできず、この杜撰な選別に弟を送り出してしまった自分に、怒りと吐き気が込み上げる。

 

 最終選別は、必ず誰かを死に至らしめる。甘くはない。そんなことは百も承知している。

 改善すべき点が明確にあるのに、知っているのに――何も変えられなかった。

 その事実が、腹の奥をえぐるように突き刺さる。自己嫌悪と共に、たぎる憤怒が胸を焼いた。

 

 ――――炭治郎の話を聞き、怒りは決意へと変わった。

 このままでは駄目なのだ。手をこまねいてきた自分もまた、この歪みの一部なのだから。

 何かをせずにはいられない。

 焦燥が胸を焦がし、身を焼くのを止められなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ***

 

 

 

 北西の町。満月が夜空に冴え冴えと浮かび、屋根瓦を白く照らしていた。

 数週間前から、この町では少女がひとり、またひとりと姿を消している。

 

 婚約者を攫われた青年・和巳(かずみ)は、唇をかすかに震わせながら、鬼殺隊の新人・竈門炭治郎と肩を並べて歩いていた。頬には殴られた痕の青あざが残り、恐怖が表情に張り付いて離れない。

 

 背後には、一人の女が無言で付いていた。炭治郎の姉、竈門灯麻希。

 黒髪に葡萄色(えびいろ)の筋が幾重にも入り、狐の面が月光を鈍く反射する。腰には刀を帯びず、静かに、しかし研ぎ澄まされた刃のような気配で二人を護っていた。視線は常に周囲を走り、危険を測っている。

 

 炭治郎は夜気に混じる匂いを敏感に嗅ぎ分け、背負った霧雲杉(きりくもすぎ)の箱の重みを肩で受け止める。その重みは、彼が背負う使命の重さそのものだった。

 赤みがかった黒髪が揺れ、市松模様の羽織が月下で翻る。握りしめた日輪刀の先、瞳に宿るのは、決して揺らがぬ意志。夜の闇に溶け込みながらも、その意志は強く、凛として燃えていた。

 

 突如、炭治郎が地を蹴った。

 

「どうしたんだ、急に!!」

 

 和巳が慌てて声をあげる。

 

「匂いが濃くなった!!鬼が現れている!」

 

 迷いのない足取りで、炭治郎は路地を縫うように跳躍する。

 和巳が後を追おうと一歩踏み出した瞬間、灯麻希が腕を伸ばして制した。

 

「和巳さん、彼の向かう先は危険です。私が護りますが……それでも行きますか?」

 

 一瞬、足がすくむ。だが和巳は震える指先を固く握りしめ、頷いた。

 

 

 

 炭治郎が辿り着いたのは行き止まりの細い路地。

 人影はない。しかし鼻先には、確かに鬼と人間の女の匂いが混ざり合って漂っている。

 彼は日輪刀を抜き、黒く光る刃を地面に突き立てた。

 

「ギャッ!!!」

 

 地面から黒い液と鮮血が弾け、悲鳴が夜に響く。

 意識を失った女性が、押し出されるようにして現れた。炭治郎は咄嗟に抱き上げ、後方へ飛び退く。

 女性の破れた着物を握る鬼の手だけが、泥に残る。やがて三本角の鬼が顔を覗かせた。

 

「攫った女の人たちはどこにいる!!それから二つ聞く……」

 

 ギリギリギリギリ――路地に響く鬼の歯軋り。

 炭治郎は汗をにじませながらも、構えを微動だにせず保つ。そして、鬼は音もなく、地面に沈んだ。

 

 

 遅れて、灯麻希と和巳が到着した。

 炭治郎は青年に助けた女性を託す。和巳は震える腕で女性を抱きとめ、驚きと不安が入り混じったまま、その場に立ち尽くした。

 

 炭治郎は一歩下がり、ゆっくりと呼吸を整える。灯麻希は無言で彼を見つめていた。

 炭治郎は視線を灯麻希に向け、静かに言葉を放つ。

 

「俺がやりたい。姉ちゃんは和巳さんたちを頼む」

 

 灯麻希は無言で頷き、身を低く構えた。

 沼に潜む異能を嗅覚で察知する炭治郎に対し、姉は別の感覚でそれを掴んでいた。

 

 (――来た! “水の呼吸 伍ノ型……”)

 

 しかし、足元から浮かび上がったのは二体の鬼。

 

 ――“捌ノ型 滝壺”!!

 

 水が弾け、斬撃が走る。しかし、致命には至らない。

 次の瞬間、和巳と女性を庇う存在――灯麻希の前で、もう一体の鬼の腕が千切れた。

 

「“鬼”の癖に邪魔をするなァァァ!!!」

「え……この人も鬼なのかっ!?」

 

 和巳は思わず息を呑み、恐怖で引きつった体を震わせながら、一歩後ずさる。視線は灯麻希に釘付けだ。

 先ほど見た彼女の姿とは違う。爪が伸び、身体から放たれる気配は明らかに人間ではない。確かに鬼そのものだ。だが、その瞳には静けさと、人間らしい温かさが同居していた。

 恐怖と混乱の狭間で、和巳の胸は千々に乱れ、呼吸すらままならない。

 

「和巳さん!姉ちゃんは鬼だけど、人を襲ったりしない!!」

 

 炭治郎の声は震えていたが、力強く響いた。赤い瞳には真剣そのものの決意が宿り、必死に和巳の心に届くよう訴える。

 人である炭治郎の言葉だからこそ、和巳の動揺をわずかでも抑えられるのだと、彼自身もそう信じていた。

 

「チッ」

 

 沼鬼の一体が舌打ちし、炭治郎の足元の鬼たちと共に沼へ潜り込む。辺りに緊迫が張り付き、和巳の鼓動は速まった。

 塀や地面の割れ目から三体の鬼が現れ、狙いは女性に定まる。炭治郎と灯麻希は息を合わせ、鋭く動き攻撃をかわしつつ反撃を重ねる。だが守るべき者を抱える炭治郎は深追いできず、焦りが胸の奥で募った。

 

 やがて鬼たちは攻撃を止め、二体が挟み撃ちのように顔を出した。

 

「貴様らァァァァ!!女の鮮度が落ちるだろうがァ!!!」

 

 二本角の鬼が怒声をあげ、辺りに響かせる。

 

「もうあの女は十六歳だ。早く喰わねえと味が落ちる!」

「落ち着け、俺よ」

 

 一本角の鬼が冷静に返す。

 

「…まあ、いいさ。こんな夜があっても。この町では随分十六の女を喰ったからな。どれも肉付きがよく美味だった。俺は満足だよ」

「俺は満足してねえ、俺よ!!まだ喰いたいんだ!!」

「化け物……一昨晩攫った里子さんを返せ!」

 

 和巳は恐怖の中で、必死に声を絞り出した。体の震えは止まらない。

 左の屋根の上から別の鬼が顔を覗かせ、歯軋りを鳴らす。

 

「里子?誰のことかねぇ」

 

 一本角の鬼が胸元の着物を広げ、色とりどりの簪や櫛、串を無造作に見せつける。

 

「――この蒐集品の中に、その娘のかんざしがあれば喰ってるよ」

 

 和巳の目は釘付けになった。赤い蝶結びの髪飾りが、無造作に突き刺さっている。

 絶望が胸を突き刺し、呼吸が激しくなる。

 あの子はもう――

 

 炭治郎は顔を強張らせ、握りしめた拳に力を込める。彼女たちの髪留めは、彼の妹や姉の姿と重なり、切なさと激しい怒りが胸を焦がした。

 

 

 

 二人の鬼に炭治郎の視線が向いた間、その隙を狙うかのように――三本角の鬼が右側から鋭く迫り、爪を突き出した。

 炭治郎は瞬時に身をひねる。

 鬼の爪が壁に深々と突き刺さり、石片が飛び散る。心臓が跳ねるように脈打つ中、彼は迷いなく刀を振り上げ、凛とした呼吸とともに頸を狙った。だが、直前に鬼の体が血の沼に沈み、刃が通ったのは腕だけだった。

 

 次の瞬間、左の塀から二本角の鬼が飛び出す。両腕を大きく振りかぶり、炭治郎の頭を襲おうとする。その刹那、背後から床を踏みしめる鋭い音が響いた。灯麻希が静かに跳ね上がり、舞うように空中で回転しながら脚を振り下ろす。

 

 ――“ヒノカミ神楽 円舞

 

 正確無比な蹴りが鬼の両腕を砕き、骨ごと無残に千切り飛ばす。驚愕に染まる鬼の顔が月光に浮かび上がった。倒れかけた鬼に炭治郎は刀を振り下ろす。その体は緊張に満ていたが、呼吸は鋭く研ぎ澄まされていた。

 しかし、その瞬間、地面を割って一本角の鬼が飛び出す。炭治郎は間一髪で身をかわす――だが背後から、三本角の鬼が再び襲いかかってきた。

 

「くっ……!」

 

 炭治郎が技を繰り出そうとした刹那、背負った箱の扉が勢いよく弾け飛び、鬼の頭に激突する。

 重い衝撃音とともに鬼がよろめく。そこに現れたのは――禰豆子。

 力強い蹴りで兄を救い出した妹の姿に、空気が震えた。

 

 

 

 

 ・

 ・

 ・

 

「――禰豆子!!深追いするな!!こっちへ戻れ!!」

 

 三本角の鬼を追おうとした禰豆子に、炭治郎が声を張り上げて呼び戻す。軽やかな身のこなしで、彼女は兄と姉のもとへ戻った。

 鱗滝の言葉が禰豆子の心の深層に根付いているのを、灯麻希は感じていた。

 

 ――――人間は皆お前の家族だ。人間を守れ。人を傷つける鬼を許すな――――

 

 その暗示に疑問を抱くこともある。自我の薄い妹を鬼の本能から守るための策だと理解しているが、胸の奥にはざわつきが残る。だが、灯麻希と炭治郎は同じ思いでその方針を受け入れていた。

 

 灯麻希は、戻ってきた禰豆子に和巳と女性の護衛を任せた。頷いた禰豆子の背後で、炭治郎の足元に黒い沼が広がっていく。

 

 ――沼鬼の血鬼術だ。

 

 炭治郎と目が合う。その表情も、魂の色も、灯麻希に「助けはいらない」と伝えていた。

 その意思を信じ、灯麻希は追いかけたがる禰豆子の手を制し、残りの鬼と向き合った。

 

 動ける時間は限られている。

 

 炭治郎が戻るまでの持久戦は賢明ではない。どう動くべきか――灯麻希の頭は冷静に計算を巡らせていた。沼からゆっくり姿を現し、こちらに近づいてくる鬼を、灯麻希はじっと見据える。

 

「向かってこないのか?刀を持った人間は、今頃俺たちに殺られているだろうなァ」

 

 鬼が挑発めいた声を漏らす。灯麻希は囁くように、しかし逃げ場を与えぬ声で問いかけた。

 

「どうして、十六になったばかりの女の人を狙うの?」

 

 問いかけに、鬼は一瞬戸惑いの色を浮かべた。こんなにも真剣に、しかも真摯に理由を問われるのは初めてだった。

 

「……“俺”が言っただろう。十六の女が一番、味が良いんだよ」

 

 声は鈍く、まるで遠い記憶をたどるように震えていた。

 

「今はそうだね。でも、もっと昔のことを聞いてるんだ……どうして、十六の女がいいと思ったの?」

 

 その声音は穏やかで、けれど奇妙に深く――心の奥の、誰にも触れられたくなかった場所をやさしく抉るようだった。鬼の肩がかすかに震えた。胸の奥から、忘れていた痛みが滲み出す。

 面の奥から覗く一対の瞳が、かすかに閃く。

 空気が張り詰める。鬼の目は狐面に吸い込まれるように見つめ続け、心臓が跳ね上がった。動いてもいないのに、呼吸は荒く、制御できない波のように繰り返された。

 

 

 ――――抑えきれぬ記憶の波が、鬼を押し潰そうとしていた。

 

 

 鬼舞辻無惨の呪いに堕ちたあの夜――ただひとり愛した姫を、自らの牙で喰らい殺した忌まわしき記憶。黒い泥のように胸の奥から溢れ出すそれは、鮮血の匂いを伴い、魂を蝕み続ける。紅に染まった唇、白い首筋に残る温もり。愛おしさと飢餓が混じり、境界を失った瞬間。狂気と後悔が交錯し、精神は限界の淵に立たされる。

 

 

 「――あの時の姫の香りが……まだ胸にまとわりつく。愛していたはずなのに。なぜ、手放せなかったのか。俺は……お前を……貴方を――――!」

 

 沼の底に沈んでいくような声だった。

 もし今、姫が目の前にいるなら、きっと自分は許しを請うことしかできない。懺悔の言葉も届かぬまま、ただ己の罪を抱いて沈むしかない――

 

 嗚咽のように震える声が、沼の暗闇に吸い込まれていく。喰らい殺した事実は刃となり、何度も己を突き刺す。後悔は鉛の塊となり、胸を締め付け、呼吸すら奪った。愛だと思っていたものは、実のところは狂気だったのか。自分という存在は、ただ喪失の虚無に怯え、あの日の温もりを求めて彷徨う亡霊にすぎなかった。

 十六の女を執拗に追い続けるのは――取り戻せぬ姫を、狂った魂がなおも追い求めているからだった。

 

 鬼の脳裏に浮かぶのは、かつての姫の微笑み。柔らかな声、指先の温もり――すべて血に塗れて消え去った幻影。瞳は憎悪と悲哀、そして狂気に染まり、何かに取り憑かれたように震える。

 だが、その端から、ひとすじの涙が零れ落ちる。

 それは鬼となった彼の魂に、わずかに残された人間の残響だった。

 

 

 

 

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 沼の中で二人の鬼にとどめを刺し、地上へ戻った炭治郎は、呼吸を整えながら周囲を見渡した。

 

 目に映ったのは、道の中央で膝をつき、頭を垂れたまま動かない鬼。そしてその傍らに、静かに立つ姉・灯麻希の姿。少し離れた道端では、禰豆子と和巳たちが無言のまま、その光景を見守っていた。

 姉も禰豆子も傷ついた様子はない。辺りにも、炭治郎が沼に潜った後の戦闘の痕跡は見当たらなかった。

 では、何がこの鬼をここまで無力にしたのか――炭治郎は僅かに眉をひそめる。

 

 灯麻希の存在は、以前からどこか不思議だった。

 戦いの最中でも慌てず、鬼を前にしても恐れず、ただ鋭く見据えるだけ。その瞳の奥には、敵意でも憎悪でもなく、鬼の心を穿つ何かが潜んでいる。もしかしたら、この鬼を戦意喪失させたのも……姉が持つ特殊な力なのかもしれない。

 

 炭治郎が近づくよりも早く、灯麻希が口を開いた。

 

「――彼にはもう、戦う意思はないよ」

 

 その言葉に、鬼はわずかに頷き、肯定するように身を震わせた。鼻先に漂っていた腐った油のような匂いはいつの間にか薄れ、代わりに後悔と懺悔の重い匂いが混ざって空気を満たしていた。

 

「聞きたいこと、あるんでしょ?」

 

 灯麻希がそっと視線を向ける。

 

「――鬼舞辻無惨について。知っていることを話してほしい」

 

 炭治郎の言葉に、鬼の体が小さく震え出した。

 

「……言えない」

 

 掠れる声。

 

「言えない……言えない、それだけは言えない……!」

 

 骨の髄まで凍るような恐怖が、鬼の全身を支配しているのが匂いからも伝わる。怯え切った鬼を更に追い詰める選択は、炭治郎にはとても出来そうになかった。

 その時、灯麻希の手がそっと炭治郎の肩に触れる。温もりは緩やかに伝わり、彼は鬼を解放する決断を胸で受け止めた。

 

 荒い息を吐きながら、炭治郎は刀を下ろす。

 沼の水面は静まり返り、鬼の匂いがゆっくりと薄れていく。ただ、木々の間を抜けてくる夜風が、わずかに頬を撫でていった。

 視線の先には、力尽きた鬼の頭。その眼差しは責めるものではなく――まるで遠い日の誰かを探すかのように、どこか切なく柔らかかった。

 

 空が白み始め、夜明けが近い。

 禰豆子が小さく体を縮めながら走り寄り、灯麻希に飛びついた。炭治郎はその姿を見つめ、胸の奥で強く誓う。

 

 (また、陽の元へ歩けるように。俺が……必ず)

 

 灯麻希は炭治郎の頭を優しく撫でると、静かに身を縮め、まるで影のように滑るように木箱の中へ納まっていった。

 

 

 

 

 




沼鬼の過去を捏造した結果、とんでもない方向に突き抜けました。純愛でした。
炭治郎は原作通り、沼鬼×2にねじれ渦して勝った。
和巳さんのメンタルケアも長男がやった!流石我らの長男だ!
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