空想鬼譚   作:庵non

7 / 26

浅草編、前半です。


7.千年生きた虎の穴

 

 

 

 翌々日、浅草。

 日が沈み、夜の帳が街を包む頃、東京府の繁華街はガス灯の光に照らされ、なお賑わいを増していた。路面電車が軋む音を響かせ、真新しい洋館の窓から漏れる灯りが石畳を淡く染める。店先の(のぼり)が風にたなびき、人々の笑い声と呼び込みの声が幾重にも重なって、街全体がひとつの巨大な生き物のように脈動していた。

 

 その鼓動の中を、私はお面を手に持ったまま、炭治郎と禰豆子を連れて歩いていた。狐の面を付けたままでは、むしろ異物のように目立ってしまう。人の流れに紛れ込むには、素顔のほうが自然だった。

 

「………!」

 

 禰豆子を挟んだ向こうで、炭治郎が目を丸くして息を詰めていた。見上げる建物の高さ、人の波、灯りの眩しさ──その全てが弟の感覚を押し流しているようだった。

 

「炭治郎。辛そうだけど、大丈夫?」

「た、建物が高くて、人が……!うっ……」

「人の多さに酔っちゃったか。中心街から離れて少し休もう」

 

 ふらつく足取り。弟の嗅覚には、きっとこの街の匂いが洪水のように押し寄せているのだろう。露店の食べ物や甘い菓子の匂い、煤の匂い、人の汗、油、香水──それらが一度に押し寄せれば、目眩も起きる。

 

 私は二人を人通りの少ない裏通りへ導いた。

 街の喧騒が遠のいたところで、“うどん”の暖簾を掲げた屋台を見つける。鉄の車輪がついた移動式の小さな店だ。

 

「山かけうどん下さい……」

「あいよ。姉ちゃんたちは?」

「私と妹は大丈夫です。弟の分だけお願いします」

 

 坊主頭の店主に注文を告げ、木の腰掛けに座る。

 炭治郎は頭巾を深く被り、まだ耳の奥で残響する喧噪を遮ろうとしていた。禰豆子は歩きながら半分眠っていたが、腰を下ろすと同時に、静かな寝息を立て始める。

 

 店主が湯気を立てる急須を置いていった。三人分のお茶の香りが、油の匂いを柔らかく溶かしていく。炭治郎が小さく息を吐いた。

 

「……あんなに人が多いなんて……姉ちゃんは、平気なようだけど」

「私はなんともなかったなあ。最初は驚いたけど、すぐに慣れたよ。視魂の方も()()()ように遮断してたし。炭治郎の鼻も、調節できたらいいのにね」

 

 冗談めかして言ったつもりだったが、炭治郎は目を上げ、すぐに真剣な顔になる。

 ──この子は、冗談を冗談として受け流せない。まっすぐ受け止め、考え込んでしまう。

 

「鱗滝さんは、強くなればもっと鼻が効くようになるって言ってたけど……姉ちゃんの魂視みたいに、俺の鼻も自在に扱えるようになるのかな」

「うーん……五感の延長だから、どうだろうね。私のは少し違う系統。でも自動で反応するぶん、炭治郎の嗅覚の方が早いよ。戦いの中では、それが何よりの強みになる」

 

 うどんが茹で上がるまで、話は途切れず続いた。

 軽口のつもりが、いつの間にか嗅覚や魂視の仕組みを巡る真剣な議論になっている。四角四面な弟と、調子を合わせる姉。噛み合わないようでいて、どこか噛み合う。そんなやり取りが、不思議と心を落ち着けてくれる。

 いつの間にか、炭治郎の表情から強ばりが抜けていた。

 

「――――!?」

 

 炭治郎が突然立ち上がった。湯気の向こうで、息が荒く震えている。

 

「炭治郎?」

 

 声をかけた瞬間には、もう遅かった。

 弟は椅子を弾くようにして走り出し、路地の中、家屋の向こうに去ってしまった。

 

 空になった席に、微かに残る蒸気。慌てて伸ばした私の手は、空を切ったまま宙に残る。

 

「行っちゃった……」

 

 思わず漏れた独り言に、苦笑が混じった。

 反応の良さは彼の長所だが、考えるより先に動くのもまた、炭治郎らしさなのだろう。それを失えば、あの真っ直ぐさは消えてしまう。

 

 けれど――

 胸の奥で、ざわりと記憶が疼いた。

 この反応。あの匂いを捉えたのだ。

 鬼舞辻無惨。あの夜、私たちのすべてを焼いた匂い。

 

「禰豆子、起きて。ごめんね、すぐ行くよ」

 

 眠っていた妹を抱き起こし、屋台の外へ駆け出す。

 

「おい!もうすぐうどん出来上がるってのに、どこ行こうってんだ!!」

「すみません!弟が知人を見かけて、追いかけてしまって!……荷物は置いていきます、必ず戻ります!」

 

 言い終わる前に、私は地を蹴っていた。

 

 夜風が頬を裂くように冷たい。

 ――知人。

 確かに、そう言っても間違いではない。向こうは忘れているだろうが、私にとっては()()と呼ぶより他にない。

 

 灯の群れの中で、あの男の気配を思うだけで血が逆流する。

 人の姿を借り、家族を奪い、何もなかったように歩くその存在を、どうして許せるだろう。

 

 

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 

 “記憶”では――無惨は人通りの多い、中心の屋台通りで炭治郎と出会っていたはずだ。

 私はその記憶を頼りに、人波の隙間を縫うように駆けた。

 耳を澄ませば、屋台の呼び込み、電車の軋む音、油と鉄の匂い。けれどそのざわめきの奥に、確かに()()が混じっている。

 禰豆子も目を覚まし、私の足並みに追いついてくる。

 その目は、もう眠気など微塵もなかった――彼女も感じ取っていた、あの男の気配を。

 

 (……見つけた、炭治郎。それに――あれが)

 

 灯の洪水の向こう、青い頭巾の炭治郎の背が見えた。

 そしてその正面に立つ男。

 白い帽子に黒い洋装、抱かれた幼い少女と、その隣の妻らしき女性。まるで都会の一家に見えるその姿の中で、ひとりだけ世界から切り離されたように浮かぶ存在――鬼舞辻無惨。

 人の形をしていながら、そこに()()()()がない。どれほど上質な布で身を包もうと、彼の周囲の空気はひどく冷たい。まるで音をも吸い込んでいくようだった。

 

 炭治郎がその肩を掴み、刀の柄に手をかけている。

 通りの壁となる人々の波が私の進路を阻む。焦燥が胸の奥で軋んだ。

 

「お知り合い?」

 

 上品な女の声が、無惨へと向けられた。鬼の耳でその会話を拾う。

 

「いいや、困ったことに少しも――知らない子ですね。人違いではないでしょうか」

「まぁ、そうなの?」

 

 その声色には微塵の揺らぎもない。平然と嘘を吐くことが、呼吸と同じくらい自然なのだろう。

 

 すれ違う緑の着物の男が、何気なく無惨の脇を通り抜ける。

 刹那、空気が裂けた。

 音もなく閃いた爪が、その男の首を浅く抉る。

 

「……っ!」

 

 遅かった。

 男の体が崩れ落ち、血の匂いが風に混じる。濁った眼が妻を捉えた瞬間、理性の欠片が弾け飛び――()が生まれた。

 

 私は即座に飛び込み、女性を庇って男の身体を押さえ込む。

 地を擦る音と同時に、腕の中で鬼となった男が唸った。

 

「きゃあっ!あ、あなた!」

 

 女の悲鳴が響き、群衆のざわめきが一斉に波立つ。

 混乱が広がり、灯の明滅が乱れる中で――私は男を地に伏せさせ、動きを封じる。

 禰豆子はもう無惨を見据えていた。その瞳の奥で、怒りが燃えている。

 

 無惨は、ただ静かにこちらを見た。その無表情の奥に、何もない。痛みも、恐怖も、理解も。人を“人”として見ていない――まるで虫でも観察するような、冷たい目だ。

 その瞳と一瞬、視線が交わった。

 背骨に冷たい刃を滑らされたような感覚が走る。凍えるほどの静寂が、喧騒の中で私たち三人を包み込んだ。

 

 炭治郎が頭巾を脱ぎ、血相を変えて駆け寄ってくる。

 

 だがその時間だけは、街の喧噪から切り離され、異様にゆっくりと流れていた。

 私は、呼吸を忘れる。そして――いつもの癖で、知らずに覗き込んでしまった。

 

 あの男の魂を。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――黒く、冷たく、果てのない深淵

 

 そこには光の欠片ひとつなく、時間すらも凍りついたかのようだった。闇は重く、息をする間もなく膨張し、千年分の怨嗟と憎悪を孕んで、私の視界の隅々にまで染み渡る。

 嫌悪。傲慢。冷淡。それらが無数の声となって私の胸を圧迫し、魂の奥を掻き乱す。もはや、意志と憎悪の境界は溶け合い、そこにあるものが()なのか()()なのかも判別できなかった。

 暗黒の奥底で、何世紀にもわたる生への執着が蠢き、断末魔と歓喜が交錯する。

 それはこの世の終わりにも似た地鳴りだ――――

 

 (――これが、鬼の頂点。……千年の呪い……!)

 

 渦巻く漆黒の中に、ひと筋の白い閃光が走る。目を凝らした瞬間、全身を撃ち抜くような衝撃が走り、視界が一瞬、暗転した。

 違う――これは闇ではない。

 記憶の奔流だ。

 過去、現在、未来――時の断片が一気に流れ込み、私の意識を灼く。

 

 無惨が味わった孤独と狂気。

 鬼になる薬を呑み干した瞬間。

 太陽を克服するための飢餓と執着。

 青い彼岸花を追い求めて彷徨う数えきれぬ影。

 束ねられた鬼たちの慟哭。

 そして、崩壊する鬼殺隊の断片―――

 

 その全てが鋭い破片となって私の意識を切り裂き、容赦なく突き刺さる。

 胸が締めつけられ、頭が裂けるように痛む。思考が洪水に呑まれ、身体の力が抜け落ちていく。

 魂の深淵が私を掴み、暗い底へ――理性ごと、引きずり込んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 「――――姉ちゃん!!

 

 その声が、絶望の渦の底で私を呼び戻した。

 炭治郎――彼の声が、遠い夢の向こうから差し込むように響く。

 ぼやけた視界の中、禰豆子の姿が見えた。

 小さな拳を振り回しながら「ムー!」と抗議の声を上げている。その健気な仕草が、冷たい闇の中に燈火を灯した。

 

 ほんの一瞬、黒い手が緩む。そこに、夜明け前のような細い光が差し込んだ。

 それは微かで頼りなく、それでも確かに――()()()だった。

 私は必死にその光へ手を伸ばす。爪が割れ、指が千切れそうになっても、掴み取らずにはいられなかった。

 触れた瞬間、胸の奥で何かが弾け、重く淀んだ闇が少しずつ剥がれ落ちていく。

 光は温かく、懐かしい匂いがした。それは人の温もり――そして、失くしかけていた理性そのものだった。

 

 私は闇の底から這い上がった。

 

 意識が戻る。視界が鮮明になる。

 

 怪我もない。けれど、全身が鉛のように重く、呼吸をするたび胸が焼けるように痛かった。

 ほんの一瞬で流れ込んだ奔流が、脳裏でまだ轟いていた。

 

 視線を上げる。

 先にいたのは――鬼舞辻無惨。

 自らの魂を覗かれたことなど露ほども知らぬ顔で、人間の女性たちと穏やかに談笑していた。柔らかな微笑みを浮かべ、上質な黒衣を整えるその仕草。

 だが、その奥に潜むものを私は知ってしまった。千年の呪い。底なしの狂気――それを微塵も感じさせぬその姿こそが、何よりも恐ろしかった。

 

「鬼舞辻無惨……!!俺はお前を逃さない!!どこへ行こうと地獄の果てまで追いかけて、必ずお前の頸に刃を振るう!!」

 

 炭治郎の叫びが、夜の喧騒を裂いた。怒りと悲しみが燃えるその声が、胸に響く。

 隣で、禰豆子が私の汗を袖で拭ってくれていた。妹の指先は人のように温かくないが優しい。現実に戻ってきたのだと、ようやく実感した。

 

 私は荒い息を吐きながら周囲を見渡した。鬼化した男性は炭治郎に押さえつけられ、口には頭巾が詰められている。あの時、二人がいてくれなければ――私はきっと、鬼の一人として血に沈んでいた。

 迂闊だった。

 けれど、代償に得たものはあまりにも大きい。

 

 無惨の出生と半生。

 医師から与えられた薬で鬼と化した瞬間。

 太陽を克服し、完璧な存在となるために繰り返された変貌と執念。

 青い彼岸花を求め、幾度も人の姿を変えて彷徨った歳月。

 そして――炭治郎と禰豆子の出現によって崩壊していく鬼の世界。

 太陽の下で焼かれ、滅びの瞬間に()()を託した最期。

 

 ――私は視た。鬼舞辻無惨の過去と、“未来”を。

 その記憶の全てが胸に残り、恐怖と憤怒が心臓を締めつける。

 鼓動が脈打つたび、体の奥で何かが軋むようだった。

 視界が微かに揺れ、耳の奥で高い金属音のような耳鳴りが響く。全身に力が入りにくく、頭の芯に鈍い痛みが残っていたが、怪我はない――ただ、魂に刻まれた痕跡だけが静かに疼いている。

 

「絶対にお前を許さない!!!」

 

 炭治郎の力強い叫びが夜気を震わせた。その瞬間、遠ざかっていく無惨の気配が、ざわりと――ほんの僅かに揺らいだ気がした。だが、すぐに迫る足音が、その余韻を掻き消す。

 

「貴様ら何をしている!酔っ払いか!?離れろ!!」

「下がれ、下がれ! どけ!!」

 

 黒い制服に警帽。複数の警官が、周囲を取り囲むようにこちらへ近づいてくる。誰かが通報したのだろう。警察が来て事態が複雑になる前に、男性を移動させるべきだった――だが、無惨の魂を視て、思わぬ痛手を負った私のせいでその時間はもう残されていなかった。

 

「やめてください!俺たち以外は、この人を押さえられない!!」

 

 炭治郎が必死に訴えるが、警官たちの視線は鋭く変わり、こちらを敵と見なしている。

 

「少年少女はどけ!!……な、何だこいつの顔は……!正気を失っているのか!?」

「少年らを引き剥がせ!」

 

「待ってください」

 

 思わず言葉が零れる。伸ばしかけた警官の手が、私の声に反応してピタリと止まった。

 

 

「ご覧になってわかる通り、この男性は正気を失い、錯乱しています。こうなった者は、あなた方のような屈強な方でも抑え込めません。

 ……ですが、私たちはこのような状態になった人への対処方法を知っています。専門家です――身柄はこちらに任せてもらえませんか」

 

 私は警官たちを真っ直ぐ見据える。感情に訴えるより、理にかなった説明が効果的だと判断した。無惨を覗いた直後の衝撃は過ぎ、心は落ち着きを取り戻している。表情は抑えつつも、視線と手の微かな動きで誠意を伝える。威圧ではなく、理を示すため。その意図が通じるように。

 警戒を緩めた一人が、仲間に耳打ちをする。

 

「……少年の服装と…刀、()から言われている()()()じゃないでしょうか」

……(政府)非公認の………(鬼殺隊)か……なるほど………………(これが“鬼”ってやつか)?」

 

 さらに別の警官が小さく吐き捨てる。

 

「まあ、……………………………(上から深入りするなってお達しが来てるから)……………(俺らも知らん顔だ)

 

 やり取りを終え、警戒がわずかに緩む。引き離そうとしていた手が、ためらうようにそっと下ろされた。その瞬間――

 

 ――――“惑血 視覚夢幻の香”

 

「!?」

「わぁぁっ!なんだこの紋様は!?周りが見えないぞ!!」

 

 視界が一瞬にして、花弁の紋様で覆われた。空気までが柔らかく霞み、現実の輪郭はすべて溶けていく。まるで絵画のなかに閉じ込められ、世界そのものが歪んだ夢のように揺らいでいる。

 警官たちは淡く滲み、紋様の奥へ吸い込まれるように姿を消した。息遣いや足音さえ、遠くなる。

 炭治郎は刀に手を添え、体を低く構えて警戒を強めている。禰豆子は目を大きく開き、花の世界を楽しむかのように見渡していた。足元の地面が柔らかく沈み込むような感覚に、思わず息を呑む。

 

 (この血鬼術は……)

 

 ほのかに漂う花の香り。甘く、しかしどこか冷たい。意識の隅々にまで染み込み、感覚を揺さぶるその気配に、澄んだ女の声が重なるように響いた。

 

「あなた方は鬼となった者にも“人”と言う言葉を使い、助けようとしている。ならば私も、あなた方を助けましょう」

 

 花の世界がふわりと揺らぎ、淡い光の粒が舞い散るように、二人の人影が姿を現した。

 

 紺色の着物に、花の刺繍が繊細にあしらわれた女性。腕から流れていた血はすでに塞がり始め、傷跡すら消えつつある。その横には、炭治郎とさほど変わらない年頃の少年が立ち、静かに女性を支えるように寄り添っていた。

 二人の姿を視た瞬間、胸の奥に安堵がふわりと広がる。混乱と恐怖に満ちた夜の浅草で、やっと一息つけた気がした。

 

「………何故ですか。あなたの匂い、あなた方は…」

 

 炭治郎の声は驚きと戸惑いで震えていた。

 女性は小さく目を伏せ、ゆっくりと答える。

 

「ええ。私は鬼です……ですが医者でもあり――そして、鬼舞辻無惨を抹殺したいと願う者です」

 

 その瞳が一瞬、禰豆子へと向けられ、最後に私を捉えた。柔らかく微笑む瞳の奥に、わずかに“同類”の色が宿っているように感じる。心の奥が、静かに震えた。

 

 

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 

 

 互いに軽く名を名乗り合ったあと、珠世さんの血鬼術の効力が切れる前にその場を離れた。

 鬼にされた青年とその妻は珠世さんたちの拠点に運ばれ、私たちは後ほどそこへ合流することになった。

 

 ひとまず荷物を回収するため、あのうどん屋へと足を向ける。

 

 長椅子の上には、箱がそのまま置かれていた。店主の返事も聞かずに急に飛び出してしまったことが申し訳なく、私は深く頭を下げる。

 

「すみません、遅くなってしまって……」

「おっ、戻ってきたか!心配してなかったぜ。そろそろじゃねぇかと思ってたからなぁ。ほら、後ろの兄ちゃんが頼んでた山かけうどんだ。伸びる前に食えよ」

 

 差し出された出来たての温かいうどんに、炭治郎は胸を張って「ありがとうございます!いただきます!!」と礼を言った。

 長居はできないので、彼は麺を一気にすする。息継ぎすら最小限――それでも、顔には素直な喜びと満足感が滲んでいた。

 

「ところで……姉ちゃんたちは、無事に知人に会えたのか?」

 

 店主の何気ない問いに、炭治郎がウッと大きく咳き込む。意表を突かれたのだろう。

 嘘が苦手な弟が余計なことを口にする前に、私は少し微笑みを浮かべて答えた。

 

「ええ、会えました。ほんの少しですが、話もできたので……

 注文中にいきなり席を外してしまい、本当に申し訳ありませんでした」

 

 炭治郎はぎょっとした顔で私を見る。仇敵を()()と表現したことに驚いているのか、真実と偽りの間をすり抜ける返答に驚いているのか――今はどちらか判断する余裕が無いので、後回しにした。

 視線だけで炭治郎に黙っていてほしいと伝えれば、弟はきっと嗅覚で察してくれるだろう。

 その後、炭治郎は汁まで飲み干し、器をきちんと返した。

 

「ごちそうさまでした!!美味しかったです!!」

「いい食べっぷりだったぞ、兄ちゃん!また来てくれよ!今度は姉ちゃんたちも頼んでくれ。うちは蕎麦も美味いからよ!」

「蕎麦もあるんですね!姉ちゃんの好物です!次は――」

「次は、私たちも食べるよ……浅草に来たら、また寄りますね」

 

 炭治郎の言葉を引き継ぐように店主に言葉を告げ、禰豆子の手を握る。一瞬だけ不安そうだった炭治郎の表情が、安心したようなやわらかい笑みに変わった。

 

 それから炭治郎を先頭に、珠世さんたちの匂いを辿りながら、夜の路地へと足を踏み入れる。

 ガス灯の明かりも届かぬ細い路地は、静寂に包まれ、つい先ほどまでの喧噪がまるで夢だったかのようだった。

 

 その闇のなか、ひっそりと沈む少年の気配。愈史郎――珠世さんに付き従う少年鬼だ。

 禰豆子もその存在に気づいたらしく、足をぴたりと止める。そのわずかな変化に炭治郎も僅かによろめいた。

 やがて陰から姿を現した愈史郎は、盛大に不機嫌そうな顔をしていた。

 

「あっ、待っててくれたんですか? 俺は匂いを辿れるのに……」

「目くらましの術をかけている場所にいるんだ。辿れるものか。それよりも……暗い場所で見ても変わらない、醜女具合だな。その女どもは」

 

 不機嫌を通り越し、悪意すら漂う毒舌に、炭治郎の動きが止まる。空気が一瞬、固まった。

 

「醜女のはずがないだろう!!よく見てみろ、この顔立ちを!町でも評判の美人だったぞ!姉ちゃんと禰豆子は!!」

 

 炭治郎の怒涛の反論で、愈史郎にかけるつもりだった言葉が喉に引っ込む。毒舌の彼に少しムッとしながらも、弟の勢いの前では言い返す気になれなかった。

 

「行くぞ」

 

 愈史郎は返事も待たず歩き出す。それを追う炭治郎も必死に言葉を返す。

 

「いや、行きますけど!醜女は違うだろ、絶対!!」

 

 私と禰豆子もその背を追う。歩きながら、そっと妹の頭を撫でる。

 

「禰豆子は可愛い別嬪さんだよ」

 

 禰豆子は嬉しそうに目を細めた。

 その愛らしい仕草に、胸の奥がふわりと温かくなり、小さく笑みが溢れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。