空想鬼譚   作:庵non

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浅草編・中盤
連動タイトル2段階目


8.胚*

 

 

 愈史郎の案内でしばらく歩くと、敷地がゆったりとした邸宅が静かに立ち並ぶ区域へと入り込んでいた。喧噪はいつのまにか遠ざかり、まるで深夜のような静けさが満ちている。

 遠目には空地のようにしか見えなかった場所へ近づくと、二階建ての木造家屋がふっと輪郭を結んだ。血鬼術による結界だ。

 

 愈史郎が玄関を開け、手で中を促す。頭上には“目”を模した呪符が揺れ、家全体に結界の気配が細かく張り巡らされているのがわかった。

 

「戻りました」

「お邪魔します!」

「お邪魔します」

 

 室内に入ると、珠世さんが椅子に腰掛けた姿勢のまま、緩やかにこちらを向いた。

 白い割烹着をまとったその佇まいは、浅草の騒ぎとは正反対の静謐さを湛えている。傍らの寝台では、鬼にされた男性の妻が穏やかに眠っていた。

 

「あの……大丈夫でしたか?お任せしてしまって……」

 

 私が問いかけると、珠世さんは割烹着の紐に手を添え、首を振る。

 

「ええ、ご心配なく。この方は気を失っているだけです。ご主人の方は……危険ですので拘束し、地下牢に」

 

 淡々とした口調の奥に、微かに憐れむ色が滲んでいた。

 

 珠世さんは立ち上がり、隣の畳の間へと歩み出る。私たちも続いて正座し、腰を下ろした。

 禰豆子は九歳ほどの姿にまで縮み、畳の上に頬をすり寄せてころりと転がる――畳の匂いに、家の記憶を重ねているのだろう。膝元に寄ってきた妹の頭をそっと撫でながら、私は珠世さんの話に耳を澄ませた。

 

 彼女は語る。

 自分の身体を作り変え、無惨の呪いを断ち切ったこと。

 必要な血は僅かで足りること、輸血として買い取っていること。そして、愈史郎は彼女が()()鬼にした存在であることを。

 

「二百年以上かかって鬼にできたのは愈史郎ただ一人ですか!?……珠世さんは――むがっ!」

 

 その先を言わせまいと、私は即座に炭治郎の口を塞いだ。

 前半の弟の問いに、珠世さんは小さく頷く。

 

「気になっても聞いちゃいけないこともあるんだよ、炭治郎。特に……女性には」

 

 炭治郎はぱちぱちと瞬きをして、少ししゅんとした様子で頷いた。

 ふと横を見ると、先程まで珠世さんを見つめていた愈史郎が「無礼者」とでも言いたげな目つきで炭治郎を睨みつけていた。

 

 気まずい空気がわずかに漂った――が、珠世さんはその波を弛ませるように、話を続けた。

 彼女の清らかで嘘のない姿勢を、私は感覚で、炭治郎は匂いで感じ取ったのだろう。炭治郎は息を整え、本題をそっと切り出した。

 

「珠世さん……鬼になってしまった人を、人に戻す方法はありますか」

 

 真剣な声に、室内の空気が一度だけ静止する。

 珠世さんはゆっくりと頷いた。

 

「――――あります」

 

「!!っ教えて──」

「珠世様に近寄るな!!」

 

 前のめりになった炭治郎の頭を、愈史郎が容赦なく叩く。

 炭治郎は「うっ」と情けない声を上げて項垂れた。

 

「愈史郎、止めなさい。暴力はいけませんよ」

 

 諭す珠世さんの声音は柔らかいが、その奥に強い意志があった。

 

「……どんな病にも傷にも、必ず薬や治療法があります。今はまだ、鬼を人に戻すことはできません。ですが――私たちは必ず治療法を確立したいと考えています」

 

 そして、彼女は二つの願いを告げた。

 一つ、禰豆子と私の血を調べたいこと。

 二つ、鬼舞辻無惨の血が濃い鬼――上位の鬼の血を採取してきてほしいこと。

 

「禰豆子と私の血……ですか」

「ええ。お二人は極めて稀有な状態です。

 灯麻希さんは一年、禰豆子さんは二年……眠り続けたとのお話でしたが、恐らくその際に身体が特殊な変化を遂げたのでしょう。通常それ程長く、人も獣の血肉を摂取できなければ、間違いなく理性を失い凶暴化します」

 

 珠世さんの眼差しは穏やかだが、内容は厳然としていた。

 

「ですが、驚くべきことにお二人にはその症状が無い。この奇跡は、治療の鍵となり得ます」

 

 炭治郎が涙ぐみそうな瞳でこちらを見て、禰豆子の小さな手を握る。

 

「……師匠も、私たちの変化を見て驚いていました。

 珠世さんの仰るとおり、私たちは稀な存在なんだと思います。そして……鬼を人に戻す薬の鍵を握るのは、禰豆子だと私は思います」

「どうして、そう思われるのですか?」

 

 珠世さんが確かめるように問う。

 私は、自分の内と向き合うように息を吸った。

 

 “知識”では禰豆子が鍵だった。なら、私の妹のもそうだろうと、安直に考えているわけではない。

 私は理性を持ち、血鬼術も発現している――本来の()()()()()()に近い。対して禰豆子は、自我が薄く、身体の変化を優先しているように見える。

 “知識”と、観察と、直感が揃って同じ結論へ向かっていた。

 

 

「……理由は二つあります。

 一つは、()()()()()()()()()です。禰豆子は私より一年長く眠っていました。その間に、身体がより深く変化した可能性が高いです」

 

 珠世さんの視線が、そっと禰豆子へ向く。

 

「そしてもう一つは――()()です。

 私は人間の頃と変わらない自我を持っています。でも禰豆子は、まだ幼い子どものような精神のままです。

 鬼の身体は、その鬼自身の()()で姿や性質を変えます。

 禰豆子は自我を取り戻すより先に、身体そのものを()()()()()へ変えようとしている。血鬼術を発現した私以上に無惨の血を受けているのに、異能が現れないのも……身体の変化を優先している証拠だと思うんです。

 恐らく禰豆子は、これからも変わり続けます。自分が望む姿になるまで。何を優先しているのか断言はできません。でも今、自我の薄いあの子が一番強く望んでいるのは――」

 

「――太陽を克服すること、ですね」

 

 珠世さんが言葉を継ぎ、室内の空気がわずかに揺れた。

 炭治郎も愈史郎も息を呑む。

 珠世さんの表情にも、隠しきれない動揺が走っていた。

 

「はい……あくまで可能性ですが。けれど、身体を変えつつある深度は、私よりも禰豆子の方が深いはずです。その領域へ達する可能性は、あると思います」

 

 珠世さんは静かに目を伏せ、そして柔らかく頷いた。

 

「……十分にあり得ることです。禰豆子さんの変化の過程を考えれば、あなたの推測は確かに筋が通っています」

 

 そこで珠世さんは改めて、話を本題へ戻した。

 無惨の血が濃い鬼――つまり、無惨に近い力を持つ鬼からの採血という、命を落としてもおかしくない頼みを、それでも受けてくれるかどうか。私は迷わず炭治郎へと目を向け、力強く頷いた。

 

「……それ以外に道が無いなら、俺たちはやります。珠世さんが沢山の鬼の血を調べて薬を作ってくれるなら――姉ちゃんと禰豆子だけじゃなく、もっと多くの人が助かりますよね?」

 

「……そうね」

 

 珠世さんが優しく微笑む。

 その瞬間、炭治郎の頬がふっと赤く染まった。

 愈史郎はというと、番犬さながらの形相で炭治郎を睨みつけている。

 

 (笑顔を見るだけで咎められるのか……)

 

 私は心の中で、そっと肩をすくめた。

 

「!?」

 

 愈史郎の目が大きく見開かれる。さっきまで炭治郎を睨んでいた彼の表情が、焦りと戸惑いへ一瞬で変わった。

 

「まずい――ふせろ!!」

 

 叫びと同時に、鞠が壁を破砕して飛び込んできた。

 轟音とともに畳も天井も箪笥も、鞠が跳ねるたびに粉々に砕け散る。空気が震え、木片が雨のように降り注いだ。見た目は鞠なのに、実際は頭大の石が跳ね回っているような質量だった。

 炭治郎は禰豆子を、私は炭治郎ごと二人を庇い、愈史郎は反射的に珠世さんの前へ立つ。

 

「キャハハッ!矢琶羽の言う通りじゃ。何も無かった場所に、建物が現れたぞ!」

 

 鞠の跳躍が止む。

 大穴の向こうに立っていたのは、ざんばらな橙黒(だいだいくろ)の髪を振り乱した女の鬼。毛先と同じ色模様の着物に黒い羽織。両手に鞠を握り、こちらへにんまりと笑いかけてくる――朱紗丸(すさまる)だった。

 

「部屋の中からは見えないけど……外にもう一人いる。用心して!」

「わ、分かった!」

「キャハハ!見つかっておるぞ、矢琶羽(やはば)。無様じゃのう」

 

 朱紗丸が背後に声をかけるたび、外の気配が揺れる。魂視で感じる鬼の気配は二つ――鞠の女の鬼の他に、もう一人いることを示していた。

 

「まあよい。次は、当ててやろうぞ!」

 

 朱紗丸が右手を振りかぶる。鞠が放たれ、床を一度跳ねて軌道を変えたかと思えば、ジグザグに速度を増し、室内を容赦なく破壊しながら迫ってくる。

 

「っ……!」

 

 炭治郎は禰豆子を抱えたまま身を翻す。私は鞠の軌道を見切ろうと目を凝らすが――胸が痛む。無惨を魂視したときの衝撃がまだ燻っていて、呼吸が乱れ、体が重い。

 

 止められない。避けるしか、できない。

 だがその瞬間、落下寸前だった鞠がふっと軌道を変え、一直線に愈史郎の頭へ突き進んだ。

 

「!!」

 

 不可視の()()――外にいるもう一人の鬼の仕業だ。このままでは愈史郎の頭部を打ち抜く。死にはしないとしても、頭の再生には大きな体力を奪われる。そんな無駄を許せる状況ではない。

 深く息を吸い込み、脚と腕に力を叩き込む。

 

 “ヒノカミ神楽 陽華突

 

 陽炎のような熱をまとった爪が鞠を正面から貫こうと伸びる。だが、無惨を魂視した余波がまだ身体に残っているため、力が思うように入らない。指先に小さな炎が灯るような熱が滲む――しかし、爪が深く刺さる前に、弾力が勝って鞠は跳ね返った。

 

「鬼狩りの姉!」

「姉ちゃん!!……禰豆子!!今のうちに、奥で眠っている女の人を外の安全な所へ運んでくれ!!」

 

 元の大きさに戻った禰豆子が、すぐに隣室へ駆け込む。

 畳を蹴る軽い音が遠ざかった。

 

「……ふん、爪で突いたただけで鞠が止まるとでも……?」

 

 朱紗丸の声が揺れた。

 鞠は跳ね返らず、空気が抜けたように萎み、ぼすり、と床に落ちたからだ。

 指先には赤紫の微かな血の粒が散り、熱と()()()()ような感触が残っていた。

 

「姉ちゃんの……血鬼術の効果なのか?」

 

 炭治郎が刀を構えつつ、目を離さずに問う。

 

「いや……ヒノカミ神楽で突いただけ、なんだけど……」

 

 自分の指先をよく見れば、薄く血が滲んでいた。

 意図してはいない。それでも、()()()()()()()()()()()ような、不気味な手応えだけが胸の奥に残っていた。

 

 (息が苦しい……やっぱりヒノカミ神楽は負担が大きすぎたか)

 

 胸の奥で熱が暴れて、呼吸のたびに体を締め付けてくるようだった。

 

「俺を庇うな、鬼だぞ!」

 

 肩で息をする私に、愈史郎が怪訝な目を向ける。

 

「でも、あのままじゃ頭を潰されてた。黙って見てられないよ」

 

 私は即座に炭治郎へ視線を移す。

 

「炭治郎、私が二人を守る。あなたはあの鬼を――」

「……分かった!!」

 

 炭治郎が刀を構えると同時に、朱紗丸がその瞳を楽しげに細めた。

 

「一つで駄目なら、鞠を増やすまでじゃ……

 耳飾りの鬼狩りは、お前じゃのう!――十二鬼月である私に殺されることを、光栄に思うがいい!!

 

 その言葉に室内の空気がさらに張り詰めた。

 

「十二鬼月?」

「鬼舞辻直属の配下です!」

 

 炭治郎の疑問に珠世さんが即座に答える。その声には微かな緊張が滲んでいた。

 

遊び続けよう!!朝になるまで、命尽きるまで!!

 

 朱紗丸は着物をはだけさせ、白い肌を晒す。そこから、ぶつり、と音を立てて腕が四本、花開くように増えた。計六本の腕――そのすべてに鞠が握られている。

 

 無惨の刺客――朱紗丸の猛攻が始まった。

 

 

 ・

 ・

 ・

 

 

 六個の鞠が部屋の中を暴れるように跳ね回り、壁も床も容赦なく抉っていく。

 炭治郎は迫る軌道一つひとつに斬撃を合わせ、時には“水の呼吸 漆ノ型 雫波紋突き”を繰り出して応戦していた。だが鞠は空中で不自然に折れ曲がり、また別の方向へ跳ね飛んでいく。異常な動きに翻弄され、炭治郎が全て追いきれていないのが、手に取るように伝わった。

 朱紗丸の狙いは弟のため、こちらに流れてきた鞠は、軌道を見切って爪先で角度を変えるだけで済んだ。そのため負担は炭治郎の比ではない。

 

 背後では、愈史郎が珠世さんに抗議の声を上げていた。

 

「俺の“目隠し”の術は完璧じゃないと言ったはずです!貴方にもそれは分かっていますよね!?建物や人の気配や匂いを隠せても、存在自体は消せない!人数が増えるほど痕跡が残り、鬼舞辻に見つかる確率も上がる――!」

 

 必死な声音。しかし次の瞬間には、怒りと嫉妬に火をつけたように叫び出す。

 

貴方と二人で過ごす時を邪魔する者が、俺は嫌いだ大嫌いだ!!許せない!!

 

 (……私たちまで嫌われてるみたいに聞こえるなぁ………)

 

 呆れが胸をよぎるが、突っ込む暇はない。私はひたすら鞠の軌道を逸らし続けた。

 

「おい、間抜けの鬼狩り!!()()を見れば方向が分かるんだよ!矢印を避けろ!!そうしたら鞠女の頸ぐらい斬れるだろう!()()()()()()()()()()!!」

 

 愈史郎の声が鋭く響く。

 彼が炭治郎の額へ“呪符”を投げつけた瞬間、空気の流れが変わった。炭治郎の瞳が大きく見開かれる。矢琶羽の視線――“矢印”の力を視認できたのだろう。

 

「愈史郎さんありがとう!俺にも矢印見えました!――禰豆子、木だ!!木の上だ!!」

 

 炭治郎の叫びに、ちょうど女性を避難させ終えた禰豆子が反応した。

 庭の端にそびえる木。その梢に潜んでいた影めがけて、禰豆子は強く地を蹴る。跳躍は弾丸のようにまっすぐで、回し蹴りが矢琶羽へ叩き込まれた。空気が歪み、矢琶羽の気配が怯む。

 

 すぐさま炭治郎も動く。

 

 “水の呼吸・参ノ型――流流舞い”!!

 

 しなやかな連続の斬撃が、迫る鞠を奔流のように斬り断ち、刀が弧を描いた次の瞬間、朱紗丸の六本の腕が一気に斬り飛ばされた。

 

 

 

 戦況は、一気に動き始める。

 

 戦場は庭へと移り、緊張が張り詰めていった。

 炭治郎は見えざる矢印を操る矢琶羽と対峙し、禰豆子は朱紗丸の鞠を正面から受け止め、蹴り返すことで応戦していた。

 私と珠世さんたちは、二人の戦場を見守りながら支える立ち位置にまわる。

 

 幾度かの撃ち合いの末、禰豆子は鞠の一撃を受け切れず、右脚を粉砕されて吹き飛んだ。血の匂いが鉄のように立ちのぼり、胸が強く締めつけられる。それでも珠世さんの回復薬が彼女の再生を後押しし、折れた脚は瞬く間に元に戻った。

 そこからの禰豆子は、まるで別人だった。

 打ち返した鞠は次第に速度を増し、やがて朱紗丸の腕が視認できないほどの速さで応酬するようになったのだ。

 

「珠世様……これは」

「私が使った薬は、あくまで鬼専用の回復薬です。強化の作用はありません。

 禰豆子さん自身の力です。人の血肉を喰らわずに、彼女は自分の力で急速に強くなっている」

 

 愈史郎が目を見張り、珠世さんが静かに応える。二人の言葉を聞きながら、私もまた禰豆子の奮闘を見つめていた。

 

 妹が強くなっていくのが――ただ、誇らしくて嬉しい。

 

 その時、奥庭から響いていた激しい音が不意に途絶えた。

 ひとつの魂が消える。そして、遠く離れた位置に残った炭治郎の気配が、弱く、しかし確かに伝わってくる。

 

 限界まで消耗している。それでも――生きている。

 その事実だけで胸の奥がじんと熱くなった。弟もまた、この瞬間を乗り越えて強くなっていたのだ。

 ……なのに。

 全集中の呼吸すら満足に整えられない自分が情けなくて、同時に憎たらしかった。迂闊さのせいで、結局“知識”通りの戦闘を二人に背負わせてしまった。

 ――知っていたのに。もっと上手く立ち回れたはずなのに。“本来”の流れに、ずっと心が縛られていた。

 

 これから先も、綱渡りのような苦難が続くだろう。一歩踏み外せば奈落へ続く細い綱の上を、私たちは進んでいく。私がこれまでしてきたことなど、せいぜいその綱を少し太くする程度だった。

 けれど、それだけではもう足りない。

 

 ――あの夜、胸を灼いた焦燥が、今また私の背を押す。

 禰豆子の奮闘を見届けながら、私の目にはこれまでとは異なる“もう一本の道”が形を成し始めていた。

 

 

 

「――十二鬼月のお嬢さん。貴方は鬼舞辻の正体をご存知ですか」

 

 夜気を裂くような、珠世さんの囁くような声。その響きは矢のように鋭く、禰豆子に全力で応戦しようとした朱紗丸の心臓へ届いた。

 

「何を言う貴様!!……逃れ者めが!!」

 

 怒声を張り上げた朱紗丸の動きが、僅かに硬直する。珠世さんの問いは、彼女の内に沈む恐怖をそっと掬い上げ、剥き出しにするようだった。

 

「あの男はただの臆病者です。いつも何かに怯え、逃げ道ばかりを探している」

 

 淡々とした声なのに、重い。かつて無惨の近くにいた者だからこそ知る、()()()()()()()()()が宿っていた。

 

 珠世さんの手元から、微かに異能の気配が揺らぎ始める。

 しかし朱紗丸は、それに気づかない。ただ自分の恐怖に反応して叫ぶだけだった。

 

「やめろ!!貴様、やめろ!!」

 

 声は震え、怒りより先に怯えが滲む。

 

「鬼が群れられない理由を知っていますか?

 鬼が共喰いをする理由。鬼たちが束になって自分に逆らわぬよう、あの男がそう()()()のです。貴方方は――そのように操作されている

「黙れ――――っ!!黙れ、黙れ!!!あの方はそんな小物ではない!!あの方の能力は凄まじいのじゃ!!誰よりも強い!!」

 

 愈史郎が小さく目を細めた。珠世さんの狙いに気づいたのだろう。

 

鬼舞辻様は!!

 

 その名を叫んだ瞬間、珠世さんの左手首から鮮血が一雫落ち、庭に華のような芳香がふわりと広がった。

 

 “白日の魔香”――

 

 脳をとろかし、判断を鈍らせる自白剤の香。朱紗丸の呼吸も、思考も、徐々に揺らいでいたのはこの術のせいだ。

 

「その名を口にしましたね。呪いが発動する。可哀想ですが……さようなら」

 

 珠世さんが静かに瞼を閉じた。

 一瞬、庭の空気が凍りついたかのようだった。

 

 禰豆子も魔香に当てられ、焦点の合わない目で宙を彷徨わせている。

 

 禁忌の名を言ってしまった朱紗丸は、空に向かって必死に許しを乞いながら泣き叫んだ。

 その様を横目に、ふらつきながらこちらに来た炭治郎を支え、肩を抱き、懐から手巾を取り弟の鼻にあてた。

 

 

 ――その時、朱紗丸の身体が大きく跳ねた。

 

ギャアアアッ!!!ぐぅうっ………っ…………!!

 

 腹を抑えてのたうつ彼女の体内で、何かが蠢く。

 

  ――――――――バギッッ!!!

 

 腐敗した死体の色をした巨大なが、朱紗丸の口と腹を同時に突き破って出現した。

 

 頭部が握り潰され、骨と肉が裂ける音が庭に響き渡る。朱紗丸の声は引き絞られ、そしてすぐに――途絶えた。

 

 最後の大きな肉片が握り潰されると、巨大な手は塵のように砕け散った。血溜まりの中には、わずかな肉片と引き裂かれた衣の切れ端、そしてひとつだけ残された鞠がぽつんと転がっている。

 その光景を目の当たりにした私の胸の奥に、どうしようもない嫌悪が広がった。

 勝利の余韻は薄く、代わりに虚無と底冷えする感覚が先に立つ。誰も救われていない。誰も笑ってはいない。澱んだ静寂だけが、冷たく広がっていく。

 

 炭治郎は肩を震わせ、布の下で口を半開きにしたまま固まっている。禰豆子も意識の揺らぎの中で目を見開いてその光景を見つめている。愈史郎は無言で珠世さんの横に立ち、珠世さん自身もまた言葉を落とせず、ただ残骸を見下ろしているだけだった。庭に重く垂れ込めるのは、言葉にならない恐怖と衝撃だ。

 

 その沈黙を破るように、珠世さんの沈んだ声が告げる。

 朱紗丸の命が間もなく尽きることを。無惨の残した細胞が体内でゆっくりと有毒に増殖し、最期の時まで肉体を蝕んでいくのだと。理不尽さに、私は息を呑む。炭治郎の肩を支えるしかできない自分の無力さが、胸を重く締めつけた。

 

 珠世さんの言葉が終わると、愈史郎が静かに近づいてきた。彼の表情には冷静さと、わずかな安堵が混ざっている。

 

「鬼狩りの姉は、間抜けではなかったようだな。夜が明けるまでその布を外すなよ。珠世様の術は人体には害が出る」

 

 そう言うと、愈史郎は何事もなかったかのように珠世さんの元へ素早く戻っていった。

 珠世さんは、血溜まりの中から朱紗丸の眼球を摘み上げ、しばらくそれを見つめてから私たちに告げた。

 

「――――この方は十二鬼月ではありません」

 

 その声に、炭治郎は驚愕を隠せない。珠世さんは静かに続ける。

 十二鬼月には眼球に数字が刻まれているが、この者にはそれがない。もう一体も恐らく同様だろう、と。弱すぎるとも語った。

 

 無情とも取れる告知が庭に広がる。炭治郎の肩が小刻みに震え、何か言おうとして口を開けるが、言葉は出ずに閉じられた。

 それから、珠世さんは残された脳の一部から慎重に血液を採取すると、愈史郎と共に建物の中へ戻って行った。

 禰豆子も同行する。薬の影響や術の作用を確かめて、経過を見守るためだ。

 

 ・

 ・

 ・

 

 残されたのは、私と炭治郎だけ。

 辺りはまだ暗く、冷たい風が穏やかに庭を撫でていた。

 もうすぐ日が昇るだろう。朱紗丸の魂が消えかかり、残された残骸と血の匂いだけが、静寂の中で揺らめく。

 

 ――あの男はただの臆病者です。いつも何かに怯え、逃げ道ばかりを探しているいつも何かに怯えている

 

 珠世さんの言葉が頭の奥で反響する。

 朱紗丸を挑発するための言葉だろうが、事実を突いていることに変わりはない。無惨はを恐れ、ほんの小さな死の予兆さえも許せない。自分の命を脅かす存在には、目を光らせるしかない哀れな存在なのだ。

 

 そして、その首領を無邪気に信じて疑わない鬼たちも――どこか哀しい集団に過ぎない。朱紗丸の魂もまた、他の鬼と変わらず歪んでいた。だが、その核の色は幼子のように純粋な光を帯びていた。その光だけが、胸の奥に残っていた。

 

 私は炭治郎の肩に軽く触れ、震えを感じる。手巾を持たせながら、建物の中に先に戻ることを告げる。

 

 「私は先に戻っているね。これ以上は、ここに居られないから。

 ……せめて、最期くらいは誰かが見送ってもいいと思うんだ」

 

 悲しみを宿した瞳でこちらを見つめる炭治郎だったが、私の言葉に小さく頷いた。

 

 

 人も鬼も、絶え間なく奪われ続ける。

 その悲しみと憎しみの連鎖を、私たちが断ち切らなければならない。

 

 ――――ただ倒して終わらせるのではない。

 

 

    私たちは、止めるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




やっとこの作品がどの方向へ進むのか(オリジナル展開・原作改変の道)を示せました。素直に嬉しいです。







これって……
ああ……作者の勝ちだ
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