―― 人を襲わずにいた者は再び人間に戻る事が出来るが
人肉を食らった者は二度と人間に戻る事が出来ない
連合王国の首都は霧深き都である。
元来の地形より霧が多く発生する土地であった事に加え、
世界大戦前後の技術革新、それに因る大気汚染が街を包んでいた。
急激な科学の発展は様々な恩恵を人の世に齎したが、その内実、
扱う者たちの環境に関しては足並みを揃えているとは言い難い。
電気が街路を走り、ネットワークが液晶板の中で世界を繋ぐ中、
ガソリンの内燃機関は動き、蒸気電算機も未だ街に煙を吹いている。
何よりも、工場で、或いは暖をとるために巷で消費されている石炭。
戦後復興期、粗悪な石炭から生じた排煙は全土に硫酸の霧を生み、
例外無く数多の国民の肺を灼き、都に無数の犠牲者を発生させた。
経済界の抵抗も在り、数年の遅れが在った物の法規制は開始されたが、
改善こそ見られる物の何もかもが正しく修正されるはずも無く。
未だ光化学スモッグは街を覆い、霧の色を更に深くしている。
そんな都の大通りのひとつ、富裕層と労働者階級の狭間に在る通り、
比較的金の在る層が住む土地に、住居兼事務所が存在していた。
シャーロット・ホームズ探偵事務所。
巷の宵闇に踊る怪人たちに抗う、冒険探偵の事務所である。
建物の2階に在るそこは、落ち着いた色合いの家具が揃い。
家主のシャーロット嬢が、安楽椅子の上で体育座りをしていた。
肩口に掛からない程度に広がる赤い髪の下、室内にも関わらず肩に
インバネスコートを羽織り、ハンチング帽を雑に被っている。
豊か過ぎる胸元を膝で変形させながら、不機嫌そうに棒飴を齧っている。
下に履いた丈の短いスカートからは、意匠に締め付けられた太腿と、
人目に触れさせてはいけない部分なども垣間見えては居たが、無頓着。
そしてその横で、単眼の赤い巨大海星が糞デカ溜息を吐いていた。
互いの狭間、机の上には挟みパンが乗った皿が置いてある。
探偵の相方であり、琥珀の髪と紅玉の瞳を持つ太腿肉の豊かな女性、
ジェーン・H・ワトソンが少しばかり呆れた声色で感想を述べた。
「いやねホームズ、いくら何でもこれは無いだろ」
「食べてみたまえよワトソン君、意外にイケる物だよコレは」
先日に押しかけ居候と化した奇獣神パイラは、無駄に女子力が高く、
事務所の家政を一手に引き受け最早手放せない神材と化していたが。
その微塵も爆乳に敬意を払わない凪の姿勢に、家主の不満が爆発した。
ジェーン嬢には事あるごとに口説き文句を掛けているのも要因だったか、
別に口説かれたいわけでも無いが、ついうっかり言ってしまったのだ。
料理ぐらい、自分にも出来ると。
そして出て来た代物が、皿の上の挟みパンである。
炙ったパンを炙っていないパン2枚で挟んでいる。
トーストしたパンを挟んだパン。
連合王国に世を風靡している冒険探偵の、潤んで来たジト目の圧に負け、
元軍医の相方は、仕方ないなあと言う雰囲気を醸しながらパンを食んだ。
すかさず海星が、茶器より紅茶を入れている。
武威紅茶、姉の神殿より仕送りで送られて来た燻煙の
仄かに残る葉の野性味が、同居人たちからは好評を得ていた。
「まあ確かに意外に食えると言うか、パンが美味いねこれは」
なお、パンを焼いたのはパイラである。
もふもふと紅茶片手にパンを齧る助手の前で、望んだ反応を得られず、
明後日の方に椅子ごと向いて新聞を広げ隠れた爆乳探偵。
「ふん、食事など栄養を摂取できれば良いのだよ、栄養を」
「パンだけだと偏らないかね」
シャーロット嬢の新聞による防御が、さらに強固な物に変化した。
「何々、わっしょいアルちゃん様祭りイン連合王国開催中だと」
「アルちゃん様がまた何かやらかしたか、また随分と話題が飛んだね」
先日に旅先で莫逆の詩神アルフリーフから教えられ、何となく流れで、
帰国後も旅ちゅーばーの番組を追っていたジェーンであったが。
同居人のドハマりして、賽銭まで投げる有様には少し引いていた。
「私が賽銭しないと、アルちゃん様が死んでしまうかもしれないだろ」
「いやあれは、殺しても死なないタイプの生き物じゃないかな」
パイラは明後日の方に目を逸らして遠くを見つめている。
記事には連合王国調理十傑を包丁一本で制圧し、希少食材を強奪し、
そのまま行方を晦ました旅ちゅーばーを称えてなどと記されていた。
「しかし青式の料理勝負か、そこの海星も良い線行くのではないか」
「ふむパイラ神か、確かに日々の食卓の潤いが段違いにはなったが」
美女2人の視線を受けた奇獣神は、無い無いと触腕を振って応えた。
「特級調理神は包丁一本で物語の主役になる化け物揃い、無理」
所詮自分は1級止まりなどと、何か不穏な返答も混ざっている。
青の認定1級調理神と言えば、王侯貴族御用達の上澄みの階級であり、
うかつに触れて引き抜かれては困ると、そっと口を噤む食欲の2人。
「ふむ、羊の丘にまた獣が出たらしい」
取り急ぎ記事を読み上げ、話題を逸らしに走る探偵の言葉に、
先日から巷を賑わしていた、獣騒動の顛末を覚えていた助手が問う。
「軍が討伐したのでは無かったのかね」
「討伐したはずなのに、被害が止まっていないと書いてあるな」
首都より西、羊の丘と呼ばれる丘陵地帯に人を襲う獣が出たと。
被害が積み重なり、首都にもその恐怖が伝わって賑わった以前、
軍人貴族の音頭で王国が威信を賭けて討伐隊を組み。
見事に獣を討ち果たし、帰還したのが先日の話であった。
「まだ居たのか、それとも討伐隊が間違っていたのか」
「何にせよ、関係者の面子が丸潰れだね」
或いは記事が飛ばしではと海星が言い、違いないと女性たちが笑う。
そうこうしている内、事務所に外から荒々しい足音が響いた。
「探偵、居るか」
「入って来て問う事では無いね、警部」
扉を開け入って来た制服姿の壮年は、気軽な口調で言葉を交わし、
その後ろに居た青年共々、海星がコートを受け取り壁に掛ける。
首都警察の既製品と、古い緑に染められた羊毛のコート。
「まあそうなんだがな、おっと有難う」
2人来客用のソファーに座り、間を置かず奇獣神の置いた茶器に、
素直に礼を言う警部と、コイツ何物と固まっている若者。
探偵組にも紅茶を淹れ直し、茶請けには
南瓜など幾つかの野菜の種を混ぜ焼かれた、ライ麦の品。
茶に口を付け、パンを齧った官憲が口を開いた。
「やっぱ良いなあ、その海星くれよ署に」
「誰がやるか、ウチの貴重な従業員だ」
家政全般から肩揉みまでこなす奇獣神は、意外に評価が高かった。
「それで、そこに羊の丘の羊飼いさんが居るって事は、獣かね」
そして茶に一服を入れた後、会話を始める前に探偵が問う。
若者のを方を示し掛けた言葉に、来客たちが驚きの顔を見せる。
「まだ何も言ってねえぞ」
「簡単な推理だよ、君」
客の前で探偵は、指を折りながら退屈そうに言葉を重ねた。
爪の汚れと薬品焼け、変形の様は羊毛加工の職人によく見られる特徴で、
羊毛のコートに山岳向けの長靴、そのあたりで職種の方向性は見える、
そして年齢相応に健康的な身体と、衣服に使われている古い緑。
「使い込んでいる、つまり新しい緑に関わりの無い土地」
新開発の鮮やかな緑色染料が爆発的に流行した後、健康被害が発覚し、
数多の犠牲の上、全面使用禁止に踏み切ったのは少し前の話である。
その他諸々、戦前戦後の発展が国民に齎した様々な健康上の問題、
それらが一切見えない肉体を持った若者など外国人か、或いは。
「鉄道網から取り残された田舎の人間、例えば羊の丘とかね」
両手を上げ降参の意を示した警部の横で、若者が静かに頭を下げた。
そして探偵は聞く姿勢を見せながら、相方の席の茶請けを奪う。
ついでにジェーンに出された薄焼きパンには、ディップ用クリーム、
チョコとマシュマロまで出すパイラに、差が酷く無いかねと叫んだ。
ともあれもふもふと、会話と飲食を続ける来客込み4人の茶会に、
喰らえ、喰らうが良いフハハと1柱ほくそ笑む海星の奇獣神。
纏めれば、警察から紹介された依頼者の話は簡単な物で。
過去に羊の丘で発生し、今なお発生し続ける獣の被害、
その中には人が行った物が在るのではと、そう疑う余地が在った。
「恐ろしい程に鋭利な刃物でよ、内臓とかが切り取られてんだ」
「人の手と獣の牙、まるで、言い伝えの人狼が居るみたいに」
犬狼族などの獣人では無く、人より獣の身に変わる化生の伝説。
軍も警察も、面目丸潰れの獣対策に全力で取り組む事に成る前提、
個人の依頼などに対応するだけの余力は残っておらず。
そんな内容に、聞いていた元軍医も問い掛ける。
「軍がまた出るのだろう、それで全部終わるのではないか」
「いやな、また捕まえ損ねたりすると本当に駄目でな」
念を入れ、ちょっと現地で協力してきてくれと、そんな依頼であった。
「まあ季節の変わり目には、硫酸の霧が戻りかねないしね」
依頼料の交渉も終わり、溜息混じりに探偵が述べる。
空気の奇麗な田舎に避難するのも良いかなと、
そんな言葉を受け、海星が旅支度を整え出す探偵事務所であった。