イルドラードは夜明け前に動き始める。
まだ涼しい内に旅立つ者、城壁の外で午前の市に備える者。
人の動きと駱駝の流れが朝焼けの中に重なって響いた。
そんな中、アルフライラは水溶液で満ちた器を城壁で干す。
広く浅い容器の中に、たぷんと揺れている水は硝石を溶かした物で、
その吸熱反応を利用して、酒や食材を冷やすために使われていた。
硝石単体の効果では製氷が出来るほどの冷気は得られないが、
氷室から出した氷を併用する事で、その温度は氷点下を軽く下回る。
アルフライラに限定すれば、その保有する大神権能が在る以上、
薬品に頼る事無く冷蔵はおろか冷凍すら容易ではあるのだが、
宿場に住み着いているとは言え常駐しているわけでも無く、
店主の手持ちの冷却手段として、硝石は時折に使用されていた。
そして使用済み溶液を干せば、硝石が残り再利用が可能に成る。
天日干しの用意を終えたら、そのまま宿場裏の氷室へと移動して、
夜間の冷気を得た内部から軽く食材などを取り出し、扉を閉める。
外壁に沿って宿場酒場に戻り、朝食の支度に入る。
賄いの汁を作り、水に漬けた固パンを割り砕いて果実油で炒める。
やがて昼前の時間には手が空いて、少女は朝市を軽く覗いた。
近隣から旅をして集まった人々が宿場前に天幕を並べ、
春を通して朝と夕には市が開かれる、そんな時期である。
陽除けの時間が近いせいか、どこか店仕舞いの気配が漂っている。
馴染みの村人や開拓者の中に混ざり、幾らかの香辛料を買えば、
ふと、礫の砂漠を渡る熱風に気を取られた。
風上を伺えば、砂に霞む遥かがそっと旅路を誘っている。
「春も終わるかー」
近い内に宿場前の天幕も引き払われ、熱砂の季節が訪れるだろう。
夏の過ごし方を考える猶予は、さほど残ってはいなかった。
軽く物思いに沈んでいる板の横を、開拓者たちが通り過ぎていく。
陽除けに酒場に向かう者、たった今に近隣の宿場から辿り着いた者。
軽く挨拶を交わすアルフライラの知己も居れば、初対面の者も居る。
その中で猫系獣人たちの動きだけは独特であった。
親愛の情から近くに寄るも、あまり寄り過ぎると捕獲され愛でられる。
なのでインベタのさらにインを、高速で駆け抜けていく。
気が付いた時には既に居ない、尻尾すら掴ませぬと。
とは言え中では鈍臭い個体を幾つか捕まえるも、隙を見て逃げられて。
などと神が走り抜ける猫たちに翻弄されている内に、陽は高く昇る。
終に捕獲を諦めたアルフライラは、肩を落として酒場へ戻っていった。
炎天が砂を渡る風を炙る中、屋内は暗く涼しい。
「アルちゃんアルちゃん、
途端、マルジャーンがアルフライラに声を掛けた。
女性相互扶助の席に混ざり、杯片手に菓子を摘まんでいる。
机の上に在る菓子は佳月の聖餐、杏で造られた
シート状に成るまで果実煮を天日で乾かした熨斗果実の中で、
祭礼時に好まれる杏のそれは、佳月の聖餐と呼ばれ区別されている。
少女は薦められるままに短冊のそれを齧り、杯を受け取る。
次いで、割り水の中に大量に製氷すれば歓声が上がった。
続々と氷を杯に放り込む女衆の中で、アルフライラもそれに倣う。
軽く麦と樽の香りが漂うそれは、先日の
氷水で軽く割ってしまえば呑み易く、甘味にも好く合った。
「そ言えば、何かハジャルが店主から依頼振られてたわ」
結構な大物依頼らしく、今現在説明が長引いている最中だと。
「そろそろ旅立つ頃合いかな」
「何にせよ、夏の過ごし方を決める頃合いよね」
だから
ゴチに成ってますと杯を上げて笑う相互扶助団員たち。
結構な量が在ったはずだが、全て呑み尽くすと言う強い意志が見えた。
ならば無くなる前にと少女も杯を傾け、さくさくと酒が目減りしていく。
やがて呑み尽くす前に、机の上の肴が先に尽きた。
固パンか干し肉でも齧るか、或いは肴無しの生で呑むか。
そんな覚悟を決めようとしている男ッ気の無い集団の横で、
無駄に外見が整った少女は、無言で花椒を砕いた。
先程に市で買った品である。
そして砕いた花椒を塩に混ぜ、板から取り出した羊肉を一口大に刻み、
そのまま纏めて揉み込んだ後に、板上焜炉で雑に焼きだした。
塩花椒の
しかし酒の肴としては充分以上の品であり、歓声と共に杯が重なる。
やがて呑み尽くした後、相互扶助党首が秘蔵の
陽が傾き、旅路の算段を付けにハジャルたちが戻った頃には、
根こそぎ倒れ伏し、少女に水を飲まされ介抱されている惨状であった。
なお、呑み尽くされてしまった
出遅れた呑酒妖怪の嘆きが酒場に響いたのは言うまでも無い。