眠らない街、イルカサルアルク。
夜通しに市が立つ砂漠の交易都市であり、諸王国時代の城塞。
かつて白き獣神と千夜神も訪れた、交易の要地である。
そして陽も中天に近付く頃合いに、朝市は仕舞われ出す。
陽除けに入り出した街は暫し雑然とした音を出すも、
やがて静かに収まり、遠く熱風が砂を崩す音だけが響いた。
そんな時間帯に到着したアルフライラたちは、
護衛対象の商人と別れ、朝市の残滓で捨て値な売れ残りを漁る。
陽除けの時間帯に摂る食事を調達し、宿場へと向かった。
イルカサルアルクの隊商宿場は大きいが、イルドラードの様な
砂漠に単独で建つ施設とは違い、城塞都市に属している。
そのため酒場や小売り、氷室などの各種施設は揃っているが、
城壁は薄く、宿所や厩舎などは個別に建てられる構造をしている。
「お、あの時の猫神様の姉神さんか」
宿場酒場の店主が、来訪に気付いて声を掛けた。
他に幾人か居た知己とも再会の喜びを交わし、近況を語り合う。
ひとしきりに軽口を交わし合った後、陽除けの席に着いた。
水差しと、泡の少ない地麦酒の樽杯を人数分。
早速に少女が水差しへと生成した氷を放り込めば、
樽杯を傾けていた呑酒妖怪も、輝度の低い硝子瓶を取り出す。
いつぞやに、黒の獣人たちと酌み交わした獅子乳酒。
黒の神国側から回って来た、
「このあたりでは
「ああ、
水で割ると、乳の如く白濁する。
テルペン類である過泥子油が水に溶けないため、水分を加えると
微細な粒子と成って溶液の中に分散し、光を散乱させるからだ。
そんな理屈を水割りと共に呑み込んだ少女は、板から肉を取り出した。
市の売れ残り、アル・デバランから渡って来た牛の肉の加工品。
塩漬けにして乾かした肉塊に
香辛料と
そこから更に紐で吊るして、風に晒して熟成保存する干し肉の類である。
先史ではパストラミの源流と謳われた、南方の生ハム。
香辛料が強く、当然の様に薄く、透き通るほどに薄く切り分けていく。
雑に重ねてパンや野菜に挟むも良し、口に放り込み酒で洗うも良し。
そんな使い勝手の良い、柔らか目の干し肉を皿に並べていけば、
いつもの面々にさくさくと消費され、空いた杯が重なり続ける。
「何やら、目的地付近は雑然としておる様じゃのう」
ひとしきりに杯を空けながら、ハジャルが口を開いた。
イルドラードで受けた依頼、目的地はムダラアミーナ。
先の黒の継承にて、帝国が黒の神国から切り取った港湾都市である。
黒、銅、そして帝国の3国を繋ぐ海上交易。
その取り決め、条約などは適宜結ばれ更新され続けているのだが、
大神が後ろで支える黒と銅に比較すれば、帝国側は若干立場が弱い。
かと言って白き獣神を呼ぶには遠く、縁も薄く。
はてどうすべくかと困り果てている所で、状況を察した例の副王から
物凄く放浪している暇そうな偽りの大神へと話が向けられたと言う。
とりたてて何かをして欲しいと言うわけでも無いが。
一度でも、契約更新の時期にムダラアミーナを練り歩いてくれれば、
それだけで充分以上、帝国側は余裕を持って契約に臨めると。
「同席とかしなくても良いのかな」
「それをやると、向こうもそれなりを出さねばならんからのう」
匂わせる、圧を掛ける、何か在った時はお願いします。
そんな曖昧な内容でありながら、副王直なせいでやけに実入りは良く、
夏場の避暑を兼ねての道行きと考えればそれなりに良い話であった。
「アル・デバランは素通りかあ」
「ムダラアミーナが交易の起点になっておるからのう」
イルカサルアルクと直でやり取りする隊商は多く、護衛依頼も多い。
目的地がムダラアミーナである以上、その様な予定に成ると。
「そ言や、空飛ぶ顔とやらはどうなったんだろ」
「ふむ、聞く内では見たと言う者が結構増えてきたの」
話を切り替えれば、杯を空けながらマルジャーンが言葉を継いできた。
「だいたい海岸沿いで目撃されているみたいね」
ムダラアミーナで飛んでいそうと少女が胡乱な予想を付ければ、
何か情報が錯綜していて騒がしいみたいねと、呑酒女怪は他人顔。
「何でも、誰も泣かなくて良い世界、だったかしら」
かの空飛ぶ顔こそは完璧なる支配、永劫の楽園を統べる神である。
そんな事を謳う集団が、最近は海沿いに増えていると。
「んで、黒の神国に獣人を認めさせたのは自分たちの功績だとか」
酒場の温度が下がった。
「は?」
アルフライラは可憐な笑顔を零していたが、声に感情は乗っていない。
「あー、何かもう他にもいろいろ、言った者勝ちみたいに何でもね」
「そういうのが出るのも、まあ人間らしいのだろうけど」
少女の瞳からハイライトが消えているのに気が付き、
少し引き攣ったマルジャーンの目の前で、サフラが神の頭を掴んだ。
ぐりんぐりんと雑に回して、リセットを掛ける。
目を回してパタQと倒れる少女の横で、何か妙に涼しいなと、
そんな事を言いながら近くの席の開拓者が話に加わって来た。
「海の方で最近言われている噂なら、俺も知っているぜ」
いつぞや白猫獣神に腕相撲で錐揉み投げられた開拓者であり、
敗北の代価で麦酒を奢らされた過去を持つ知己の壮年である。
困った時に信仰する新しい神の噂。
「こう、べんとらあべんとらあと聖句を唱えるらしい」
すると赤い単眼の海星の形をした、すぺえすぴいぽおが降臨すると。
「それは偽りの大神、奇獣神パイラだね」
そっと蘇生した少女神が、奇獣教典を配りながら布教を開始する。
「どさくさで偽りの大神の名を弟に擦りつけようとしておるな」
「千夜神と奇獣神がごちゃ混ぜになるだけだと思うけどねえ」
千夜教典を配る奇獣神と同速度で、奇獣経典を配る千夜神が居る。
互いに信者を押し付け合い続けた姉弟の奮闘の歴史は、
後の時代に完全な習合、千夜信仰に於ける奇獣神の従属神化を招き。
獣の大神キットゥ・アスワドの正体が歴史に埋もれる事に成るのだが。
「アビヤドも居るし、一度聖域を訪れると良い良い良い」
「おお、そう言やいつぞやの猫女神様が居るのか」
そんな未来を知らず、奇獣教典の複製を続けるアルフライラであった。