月世界旅行。
表通りから少し外れた場所に在る天幕で、そう謳われていた。
天空の女神が月の都、美しき理想郷に導いてくれると。
見世物かと物珍しさで立ち寄った人々は、天幕の中で夜空を見た。
陽も高く陽光が降りしきるその時、天幕の中では星が瞬いている。
星々の瞬きの中、何かに浮かされた様に空を見上げる人々の上に、
夜空から整った顔立ちの女神が降り立ちながら寿ぎを述べた。
―― さあ、今こそ貴方たちを月の世界へ招きましょう
金の髪を持つ美しき女が謳う。
そして、人々の身体が次々と宙に浮かび始める。
驚愕の叫びが夜空の中を木霊して、やがて歓喜の言葉に変わった。
「月へ、月の世界へ行けるんだッ」
「苦しみの無い、誰も泣かなくて良い世界にッ」
月の世界が遥か天空で輝き、人々が夜の中を突き抜けようとしている。
「そこまでよッ」
途端、天幕を荒々しく押し開き突入してきた女神が在った。
青く長い髪を靡かせ、整っただけな月の女神とは格の違うその美貌。
青の大神、アズラク。
昼の陽光が天幕の中を照らし、その全てを露わにする。
ああ、夜空かと思えたのは黒い天幕と鏡、角灯の錯覚であった。
宙に浮く人々と月の女神の背には、黒く塗られた紐が繋がっている。
しかし全てが露わに成ったと言うのに、人々の目は虚ろなまま。
「催眠の権能ね、人攫いも随分と捗った事でしょう」
ゆらゆらと揺れる犠牲者を眺めながら、大神が呆れた声色を零せば、
警備隊に捕縛された小神は憎々し気に睨みつけた。
などと妹が活躍している頃、姉は安酒場で管を巻いている。
猫を吸い、酒を呑み、料理を造り、店主に苦情を寄せられ、猫を吸う。
そんな日々を過ごす中、旧知である黒の商人一行が酒場を訪れた。
土産にと大量の酒と食材が渡され、酒場は俄かに騒然と化す。
店主が雑に、商人に同行していた臨時雇いの料理人が手間を掛け、
幾つもの料理を造っては小皿に乗せて席に並べていく。
振舞いの麦酒樽の蓋も割られ、他の客も歓声を上げていた。
「まずは最初に、青の女神を抑えていただき有難うございました」
ひとしきりの後に改めて、黒の商人スクルがそう口を開く。
対しアルフライラは、無言でそっと器を置く。
スクルとマルフ、商人と踊り子の前に。
中に在るのは、細かな氷が大量に浮かぶ
食材の中に柑橘の
半分より多め程度の水で緩め、手持無沙汰な合間に凍らせた物。
「間髪入れず返礼品とは、相変わらずにお早い」
「うわあ、露骨に企みが在る感じの反応」
天を仰いだアルフライラがハジャルの姿を探すも、もはや遅く。
かの月長石の悪魔は舎利別を傍らに蒸留酒を傾けていた。
見るからに結構回っている。
「ちなみに、神への貢物は次々に出てきますよ」
「畜生、為す術が無さ過ぎるッ」
酒が回るのを待って口を開いたねと神が問えば、人は苦笑。
「まあ含みなどは無いですよ、単にエミーラ様からの心尽くしです」
棒読みである。
「わあ、妹が示した親愛に私は何が出来るかしらー」
棒読みであった。
至近距離でクフフさんと哂い合う神と人の有様を横目に、
席の踊り子は楽しそうねえと、軽く呆れた呟きを零す。
「それで、何か問題でも在るとか」
酒、食材、糖蜜、黒染めの絹など様々な貢物を並べ立てた商人に、
そろそろ止まれと言いながら大神が問い掛ければ。
「昨今、青の大神が活躍していましてね」
ムダラアミーナを駆け回り、様々な事件を解決していると言う。
その結果、商売敵であるはずのアズラクの人気が急上昇中であった。
「止める、様な事でも無いよねえ」
「ええ、本当に性質が悪い」
その人気は当然、そのまま3ヶ国契約に対する圧に変わる。
「なので正式締結までの間に、帝国側にも何か功績が欲しい所で」
一方的にやられ続けたまま放置していれば、締結後の商売にも差し支える。
その内に美食船団も訪れ、港に青の船が並ぶ事も目に見えていた。
3ヶ国の同盟、それ自体を骨抜きにする行い。
そう、戦火を交えぬ争いは既に行われているのだ。
「何か宛ては在るのかな」
「そうですね、先日から続々と捕縛されている連中なのですが」
誰も泣かなくて良い世界。
そう謳いながら人を攫い、脅し、奪い、会話をしない集団。
取り調べの最中に聞く耳持たず、ひたすらにご高説を並べ立てる様に、
まともな受け答えをしてもらえない官がほとほと疲れ果てていると。
「郊外の地下納骨堂でよく見かけるらしいんですよ」
お手隙だったらちょっと覗いて来てくれませんと、水を向ける商人に、
少女は肩を竦めて、ちょっとだけよなどと何処か蠱惑的な返答で返す。
「流石に貢がれた量には、見合っていない仕事だと思うけど」
「ええ、あくまでもついでの話です」
にこやかに語る神の言葉に、人が受ける言葉もにこやかで。
「あれって、どういうやりとりなの」
離れた場所でマルジャーンが杯を傾けながらハジャルに問えば、
良い感じに回っているまま、呑酒妖怪の相方に応える。
―― 本題はともかく、暇なら少し手伝ってください
―― 神を顎で使うとは正気か貴様、暇だから良いけど
―― でもこれやったら今回の貢ぎ分はチャラって事にならない
―― なるわけないでしょ、余り分は別途忖度してください
「こんな感じの面の皮の厚いやりとりじゃな」
さらに言えば、黒からの依頼で帝国に功績を稼がせる。
アルフライラから返された義理がそのまま帝国への貸しになる形だ。
「結局肥え太るのは、間に立つ者とな」
空いた杯から、からりと神製氷が鳴った。
なので気兼ね無く呑んで食えるのじゃ、などと酷い結論で妖怪が締めた。
なら遠慮無くと、妖怪の残りと無口な剣士も改めて料理に手を伸ばす。
「そう言えば、誰も泣かなくて良い世界とやらの絵が在りまして」
「布教のためにわかりやすく図解、とかそんな感じかな」
そんな使われ方をしていたみたいですねと、取り調べの結果が語られる。
「海の果て、或いは底に在る、誰も泣かなくて良い夢の世界とも」
「何その曖昧な理想郷伝説」
ちょうど今現在、少し離れた場所で月の都とも謳われていた。
などと内容を語りながら、スクルは荷物から薄い石板を取り出す。
板に細密に描かれているのは、この世界の何処にも無い光景。
これですと机の上に置かれ、周囲の視線が集まり。
「『首都高』―― ?」
その中で唯一、アルフライラだけが困惑の色を見せた。