帝国で唯一に大神の加護深き土地、ペル・アビヤド。
数多の獣人が集う人種の坩堝にして、断崖に守られた聖域を持つ神都。
その参道の先に在る千夜神殿に、本日は祀神が降臨している。
普段は招き猫の置物が置かれている祭壇には板が浮いており。
その上で黒猫を敷布団にして、アルフライラが長く伸びていた。
全身でしがみ付く様に猫を吸い、吸われる猫は嫌そうな顔をしている。
そんな猫に寄生している創世神の元に、1匹の家猫族が近寄って。
白一色の長毛種で、胴体程の太さのふさふさ尻尾がぴんと立っている。
黒猫に隣接し、アルフライラの目の前で巨大な尻尾がわさりと揺れた。
とりあえず、女神がその手で尻尾を寝かせる。
手が離れた途端にわさりと元に戻り、同時に顔に直撃した。
再度に撫でつけ、再度に戻り、再度に顔面を直撃して。
幾度かの尻尾打撃を受けている最中、少女はようやくに気が付いた。
いつのまにか馴染みの三毛が、目の前で香箱を組んでいる。
ふさふさの顎毛と胸毛が、香箱の隙間で妖しく誘っていた。
―― 差し込んでも、よろしくてよ
ただ視線だけで語った三毛の誘いに、ふらふらと手を伸ばす創世神。
黒猫の上から身体を伸ばし、白猫との狭間に挟まれながら。
伸ばされた右手が、そっと三毛猫の香箱に差し込まれた。
きゅっと締まる。
嗚呼、何と言う事であろうか。
罠、これこそは幼気な創世神を捕獲するための罠であったのだ。
三毛猫は体重と前足でがっしりと少女の腕をロックして、
胴体は黒猫と白猫に挟まれて身動きが取れない、完全な死に体。
そして即座、宙を舞う3匹が居た。
いつぞやに猫毛玉を受け取った3匹、白、黒、虎柄の子供たち。
それらは速やかに、アルフライラの尻、背中、首に着地した。
虚弱な創世神は、その衝撃に耐えうる生命力を持ちあわせていない。
それはどこまでも正しく、紛れも無く残酷な現実である。
しかし見てください、この幸せそうな死に顔。
あなたは、こんな顔で死ねますか。
そして神生の総決算を行おうとしているアルフライラの横で、
果実酒の水割り片手に通りすがったマルジャーンが尻尾を摘まむ。
少女の尻の上に居る白猫の。
持ち上げて、覗き込み、頷き、元に戻す。
雌だったから問題は無いと判断された様だ。
そのまま猫死している猫弾き神を放置して、厨房に向かう歌姫。
途中で血涙を流し手を伸ばす祟り神の檻が在ったが、放置である。
付き合いが長いせいか、慣れてはいけない事に慣れてしまったらしい。
そして暫く、肴と麦酒を確保したマルジャーンが戻って来た時には、
既に子猫と白猫は姿を消しており、黒猫と三毛が板に残っていた。
胡麻を振って素揚げした揚げ物を齧りながら、片手の麦酒を傾ける。
杯に入っている麦酒は、豚さん印の開拓者ラガーである。
そしてマルジャーンは、ふゆふゆと移動しだした板に乗り込み、
少女を乗せる黒猫を確認した後、空いている三毛にもたれかかった。
揚げ空豆を食べるかなと人が差し出すも、揚げ物はきついと断られ。
さよけとさくさく食べ進み、麦酒で流し込む呑酒女怪である。
やがて板が神殿を出れば、陽除けの時間も過ぎた頃合い。
俄かに動き出した様々な人々が聖域を行き交っている。
自称獣人と自称只人が混在する風景の中、遠くに海星が見えた。
奇獣人と豚人に囲まれ、奇獣神殿予定地で何やら語っている。
何であれ要は爆発しているのだろうと神と人が察し、華麗にスルー。
白猫獣神の首根っこを掴み運搬している剣士も居たが、これも同じく。
特にやる事も無く、ただの見回り。
しかし祀神が聖域を彷徨く事は、それ自体にそれなりの意味は在る。
なのでアルフライラは、散板を滞在時のルーチンワークとしていた。
散板、歩では無い。
そして猫2匹と呑酒妖怪も乗せた板は神殿からの水路に沿い、
溜め池から分岐した用水の先、神殿荘園の方へと流れていった。
冬法蓮草など、秋から冬の野菜が青々と実っている土。
幾つかの果樹も植えられているが、まだ実を付けるほどでは無く。
えいやさと土をいじるのは豚人や外に住む者の農民役たちと、
やたらな巨体を持つ岩の竜こと、蜥蜴獣人の若者であった。
挨拶を向けて来る人々に、神は猫の前足を持ち上げ肉球で応える。
そして物陰で、萎びた胡瓜状態のハジャルが休んでいた。
病み上がりの身体で酒精を取り込み続けたが故の衰弱である。
揚げ物を肴に麦酒を流し込む元貴族令嬢とは胃腸の格が違い過ぎた。
休みながら口にしている飲料は、岩の竜の地の発酵乳であるラバン。
かつてアルフライラが意識高い飲むヨーグルトと呼んだ品だ。
脱脂乳、酪を造って残った液体を発酵させて作った物であり、
酸味は強めだが水分は多く、随分と飲み易い代物である。
蘇生したばかりの創世神も分けて貰い、杯を傾ける。
「胃腸の腑が労わられている感じがする」
「寿命が延びる心持ちよのう」
「どう反応したら良いのか、ちょっと困るわね」
乳酸菌と言う物の効果は、これが結構馬鹿に成らない。
医療の発展していない世界ならば猶更である。
先史にて、生来胃腸が弱く二十歳まで生きられぬと言われた者が、
日露戦争前に大陸で軍馬調達を試み、ついに限界を迎えた事が在る。
死の床にて遊牧民に看護され、その時に呑んだ発酵乳。
その乳酸菌に因り、驚くほどあっさりと冥府より生還を果たした。
そして発酵乳を霊薬、仙薬の類と讃え、国に持ち帰る事になる。
後に三度の起業で国内普及を試みるも悉く敗北し、終に諦めた時。
たまさか起こった大震災への、やけっぱちの寄付を縁として、
会社を畳む僅かな間に国民的飲料の座まで昇りつめた発酵乳。
それが当時のカルピス株式会社製品、カルピスである。
なお、創業者の三島海雲は96歳の大往生であった。
それほどに、乳酸菌の力と言う物は侮れない。
そんな霊薬の類は確かに人と神の胃腸を労わっており、
物陰にまったりと休む2匹の虚弱生物の有様が在る。
そこに近寄って来る、蜥蜴獣人の巨体。
魔素で構成された肉体の腹部より、中の人の腕が突き出ていた。
両手でしっかりと鍋を持ち、アルフライラたちへと薦めて来る。
「部族で普段食いしてる手抜き飯だけどよ、腹には良いぜ」
鍋の中には蒸された
小麦生地の粒を果実油を混ぜた水で洗い、そのまま蒸した物である。
そして器に取ったそれへ、ラバンを雑に掛けた。
「サイコックって食い方だ、まあ上品とは言い難いか」
湯漬けならぬ、発酵乳漬けとでも呼ぶべきか。
「酸味が暑い中に嬉しい」
「流し込む様に食えるのは在り難いのう」
「意外に腹に溜まるわね」
さらさらと器の発酵乳漬けを匙で胃の腑に流し込みながら、
簡素な会話の後、マルジャーンが訝し気な様相でハジャルに尋ねた。
「しかしその調子で、南の島まで持つの」
「いやのう、こうして水溜めで休む内に何とかなるじゃろ」
南洋、大麦島と呼ばれる地が今回冬の旅の目的地であった。
青の古都より南方、諸島の中で最も大きい島であり、
南洋中継地として、帝国と黒の神国が植民している開拓地である。
「えーと、島って事は船に乗るんだよね」
道中を想い浮かんだ疑問をアルフライラが問えば、過去に乗船の度、
船酔いで死ぬ思いをしていたハジャルの顔面が蒼白と化した。
なお、船酔いに関して板は常時浮いているので珍しく問題は無い。
衰弱で頭が回っていなかったのか、漸くに想到した萎びた胡瓜の、
表情を蒼白のまま固めた有様を見て、マルジャーンは軽く溜息。
神殿荘園の長閑な空気が、人の絶望を優しく包んでいた。