霊峰の雪解け水が岩砂漠を流れ、礫の砂漠に注がれる。
季節で生まれる河川の袂で駱駝たちが憩い、
隊商とアルフライラたちは陽除けの時間へと入っていた。
秋とも成れば交易の季節であり、砂漠を渡る人も増える。
危急の要でも無ければ砂を渡る必要も無く、多くは礫の路を辿る。
隊商宿場の狭間に生まれた水場は、貴重な旅人の憩いであった。
―― 酒を呑み悲しむな 悲しみは心の毒
朝方に受け取った壺を河の流れに晒し冷やしつつ、
手持無沙汰を慰める様に、二弦を爪弾く少女が居る。
―― それを解く薬は酒と 古人も説いた
透明な歌声が水場に響けば、仮設の天幕で人々も謳う。
やがてそこかしこが歌舞音曲に満ち、炎天の礫が賑わった。
衆生を弄ぶ事に飽いた邪神が弦を爪弾く手を止めれば、
丁度とハジャルが湯冷ましの水を渡してくる。
河川の横に掘った穴から汲んだ上澄みである。
単純に土で濾過しただけの水ではあるが、
煮沸を合わせれば余程で無い限り問題は無い。
アルフライラは水を受け取り、権能で冷やしながら
作業用ハンドを飛ばして河川の壺を回収する。
中で冷やされていた物は、
出掛けの隊商宿場で受け取った、朝採りの逸品であった。
棗椰子の樹液も、他の椰子と同じく強力な乳酸菌を内包しており、
採取直後から発酵が進み、一昼夜もすれば椰子酒へと変じてしまう。
南方では椰子樹液は酒にして呑むが、砂漠では酒に成る前に飲む。
つまりは採ったその日、飲料として消費する物であった。
さっぱりとした水分に仄かな甘み、そして軽い酒精が香り、
冷やした水で割れば、陽除けの陰で傾ける贅沢な杯と成る。
「偉大なる千夜神の威光の御相伴じゃな」
「やーめーれー」
ハジャルが軽く笑って言えば、アルフライラが嫌そうに否定した。
朝方に発った隊商宿場に近い村は以前、千夜神に水回りを整備され、
安価極まる報酬に思う所を抱え続けてでも居たのか。
立ち寄っていると聞きつけて明け方、椰子の樹液を届けて来た。
樹液を摂った棗椰子は実を付けない。
そのため樹液採取は、多くの椰子を持つ土地で専用に育てる物だが、
実の採取を諦めさえすれば、ただの村でも確保自体は可能である。
相応に価値の高い心尽くしであった。
そしてそこそこ賑やかに昼を乗り越えていく。
砂混じりの風が、陽除けの布を鳴らし音曲に添えられて。
杯を傾けながら、待ち時間の手持無沙汰を慰める様に、
アルフライラは先日の衣装の分解を再開した。
金糸で彩られた黒染めの絹のドレス。
裏返し、布同士を粗く縫い留めている糸を切っていく。
糸を抜けば、残るのは幾枚もの縫い跡が残る反物であった。
裁断と言う行為は、実は非常識な程の贅沢に分類される。
布の価値が高い時代、鋏を入れると言う行為自体が忌避された。
そのため衣服を作る時は四角い布を張り合わせ、折り、曲げ、重ね、
ありとあらゆる手段で形を造り、身体に沿わせる工夫が為されている。
衣服の縫製も、刺繍などの精緻な縫い目とはまったく違い、
布に負担を掛けない様に縫い目は極めて粗く、単純に。
糸を切れば解いて簡単に布に戻せる様に造られていた。
なのでアルフライラはばらした絹を、くるくると反物に丸め。
そのまま出来上がる度、流れ作業で板に仕舞い込んで行く。
なお、先史でも布の裁断と言う概念が一般化したのは近代、
ミシンの登場と普及が行われた以降の話であった。
解けないほどに密な縫い目が、布の確保を諦めさせた形に成る。
「さて、ぶっちゃけ貰った所で使い道も微妙なんだよね」
「普段から着た切り娘だものねえ」
最後の反物片手に少女が酷い感想を零せば、
マルジャーンが頭痛を堪える様な表情で相槌を打った。
ドレスのデザインと言う物は、一種の会話として成立している。
各所の王侯貴族、夫人や令嬢は折々の夜会などの度に新しく仕立て、
季節、テーマ、身分、様々に合わせて布を組み合わせている。
何某かのお題が在り、それに応える衣装。
布の色や柄、刺繍の類は表現するための単語であり、
それだけに予算的にも、布の再利用の必要性が高くなるのだが。
白いワンピース着た切り砂漠の創世邪神には、関り無い世界であった。
たまに獣人礼装、気取った席では青の古装が精々である。
「とは言え黄金飾りの黒は、衣服にするには意味深が過ぎるわね」
「まあ仕方無いね、布はアビヤドにでもあげるとするよ」
かくして黒と銅の神国の下心尽くしは、獣神の縫いの元と化す。
実の所、型紙を使い生地を裁断し、緻密に縫い合わせて作られる、
神代、先史の感覚で造られる獣神の縫いは超絶贅沢品ではあるのだが。
投擲用とか造っている様に、姉共々その事実は見過ごされていた。
「さて、まだ少し時間が残っているかな」
最後の反物を締まった頃には、陽も僅かに傾き。
とは言え、まだ出立には幾らかの時間を必要とする塩梅。
「そう言えばアルや、いつぞやの未来世界とやらは何だったのじゃ」
朝方に買った作り置きの平パンを齧り、樹液の水割りで流し込みながら、
ハジャルが余った時間を埋める様に話題を投げて来た。
「ああ『首都高』、あれは素直に未来世界、文明が発達した光景だよ」
現在から見れば、20世紀東京なので過去の世界でもあったが。
とは言えアルフライラの言はそんな所には無く、単純な話である。
20世紀末に造られた映画の中で、ややディストピアと化した
未来の世界を撮影する折に、しかしセットなどは造られず。
監督が撮影機材を抱え海を渡り、隣国の首都高速道路を撮影し、
問答無用でこれが未来世界だと言い張ったと言う作品が在った。
惑星ソラリス、ソヴィエトSF映画の傑作と言われている。
「浮かぶ道と箱、自走馬車らしき物まではわかったが」
悉く想像の果て過ぎたのうと、ハジャルがしみじみと感を述べた。
「まあ先史の光景だし、同じ様な未来に成るとは限らないかな」
多分、猫と芸術とマッケローニの怪物が混入される。
それきりに若干の静寂が訪れ、砂が布を打つ音だけが響く。
やや離れた場所から水辺を駱駝が歩む音が響き、熱砂が過ぎた。
岩砂漠を背に、神と人の視界は礫の先の砂に在り。
「落ち着く」
「癒やされるのう」
生命を拒む決死の世界へ出て来た言葉で、残り2名が眉間を抑えた。
「厭人厭世が再発してる」
「夏の間、人が多い土地に居ついていたからな」
ムダラアミーナでの日々は、頭脳労働担当の人間不信組へ、
降り積もる様に深々とストレスを与え続けていたらしい。
やがて陽の傾きも過ぎ、陽を除ける必要の無い刻限。
流れる水を渡り、隊商と開拓者たちは次の宿場へと歩を進める。
礫と河を渡る風に、若干の湿り気が混ざっていた。