帆先が風を斬り、海原を船が進む。
もはや陸地を水平線が隠して暫く、全面に青き水の世界。
潮風を受け流しながら、アルフライラは板ごと甲板に転がっていた。
時折、甲板掃除する船員に頼まれ水を生成する。
船内は結構臭いが酷いのも在り、此度の航海の定位置であった。
どこまでも果てに青、海と空が遠くに繋がるが見える海の上。
軽く船上を見渡せば、ハジャルが口から魚の餌を撒いている。
そんな何事も無い航海の最中で、何か生えていた。
海原に突然、黒く巨大な一本足の台座の様な代物。
確実に人よりも大きく、船にも届くかと思える程の高さ。
「何かなアレ」
「鯨の尻尾だな」
神が口にした疑問に、近くに居た船長が応えた。
「あいつら身体を縦にして寝るからよ」
頭を下にした時、たまに尻尾が海面から突き出るのだと語る。
「船乗せてたら仕留めるんだがなあ」
そのまま残念そうに言葉を締め、船長は乱暴に頭を掻く。
荒く纏められた髪が崩れ、強い潮風に軽く踊った。
捕鯨用の小船を置いていた空間は、現在は資材に埋められている。
一応に銛と幾らかの小船は在りはするが、それだけである。
緩やかに荒く、どこまでも続く大洋の碧を人と神が眺める。
あれは何か、これはこうと、益体も無い会話は続いた。
畏ろしくも美しい、板子1枚下の地獄を海の男が語る内。
船内より甲板に、マルジャーンが出て来て口を開いた。
「ありゃ駄目だわ、アルちゃん中に入らない方が良いわよ」
アルフライラたち以外、船内に同乗している客も幾らか存在した。
開拓先に縁が在る者や、何かの商いの類に関わっている者。
そして、観光に向かう者。
マルジャーンと一緒に甲板に出てきた身形の良い夫婦、
恰幅の良い青年と見栄えの良いロリ爆乳夫人もそうであり。
船内に残った若干行状の悪い幾人かもその類であった。
「こっちの若夫婦も絡まれまくってたしね」
口を開けば身分を傘に着て、隙あらば尻を触りに来ると愚痴。
だから少女は、人目の多い甲板に常駐するのが正解だろうと。
「追いかけて来ないかな」
「サフラとお二人の護衛が睨んでるわ」
神の疑問に人が応え、軽く視線を回せば船員たちが力瘤を作る。
「え、もう誑し込んだの」
「水出すぐらいしかやってないんだけど」
嬢ちゃんに無体を働く輩は海に叩き込むぜと言いそうな空気の中、
苦笑を零しながら隻眼の船長が口を開いた。
「いや随分と楽になったぜ、纏めて船で雇いてえぐらいだ」
何より、航海病に関する知見が興味深かったと。
「長期航海になると出る病だっけ」
「ああ、ウチの副長も一度それで死にかけてな」
歯茎が崩れ歯が幾本か抜け、いよいよ人生これまでかと観念したが、
白兎族の看病が効いたのか、運良く復調し生還を果たしたと。
「緑の野菜と柑橘か、言われてみればまさに白兎の料理だ」
航海病に関し、美食船団なども病知らずと知られているが、
その理由を理解出来る者は少なく、現状では知見も錯綜している。
「船内で野菜を育てるのも良さげー」
そしてそんな事は知らぬと、勝手にお告げを投げる千夜神。
そこに一連を興味深そうに見ていた夫婦が、改めて挨拶を告げた。
「青の同盟、旧王家の者ですが現在は一介の商人です」
「私はアルフライラ、創世神だけど現在はただの野良だね」
何か神の中から対抗心が発露している。
「肩書の大きさで負けたのは久々ですな」
商人は愉し気な声色で零し、気負う事無く会話を続けた。
「青の身分制度は形骸化しているんだっけ」
「ですね、王族とは言え些少の年金が入る程度ですよ」
聞いたアルフライラが笑顔のままで視線を流せば、
首を振る船長とハンドサインで場合に因るとマルジャーン。
「ふむ、すると旅先はもしかして一緒かな」
「毒竜の山でしたら、御一緒かと」
毒竜が住むと伝承の在る火山を持つ土地、イルイトル。
アルフライラたちの目的の観光地で在り、船の進む先である。
「勇者が杭を打てば竜は毒を吐く、だっけか」
「古伝ですね、まあ火山の事なのでしょうけど」
潮風の中、観光客たちの話は弾み。
ハジャルが胃液に喉を灼く様になった頃、船は陸地に寄った。
道中の開拓村、錨と共に降ろされた小船で接岸を果たす。
アルフライラたちが土に足を置いた頃、既に空の色は茜に染まり、
停泊している帆船は茜を受けて暗く、夕宵の影に染まっていた。
乗客たちは思い思いに散っていき、それぞれに宿を取る。
そして開拓者たちは当然の様な顔で船員たちに同行し、
酒場を併設した船乗り向けの宿へと辿り着いた。
「いや別に良いんだけどよ、お上品な物は出てこねえぜ」
困惑交じりの船長の言を受けたのは、板の少女と商人夫婦。
護衛の者たちは困惑の色を見せ、呑酒妖怪たちは既に始めている。
杯には定番の廃蜜から造られた蒸留酒の水割り、
「安酒に安い飯、まあ
言われて出てきたのは、石窯で焼かれた丸い平パン。
上には赤茄子や刻んだ小魚、脂や乾酪などが乗せられ炙られていた。
躊躇無く手を伸ばしたサフラの横で、同じく軽く食む少女。
溶けた乾酪を伸ばしながら、口の中の熱を騒々酒で流し込む。
「うーん、安く簡素だけど組み合わせの妙が光る」
満足げな言葉の横に、固まっている商人夫婦と護衛が居た。
「どしたん」
「ああいえ、
迷いの在る声色が零れる横で、覚悟を決めた様な顔の夫人が、
私は食べますわと手を伸ばした所を、護衛に止められている。
「帝国ではズムルド公が平パンを好んだと聞きます」
「それと青の
何やらはじまった言い合いの内容が少女には理解できず、
船長へと疑問の視線を向ければ、頭を掻きながら口を開いた。
「青じゃ
「青に貧民窟なんか在ったんだ」
そりゃ在るわと軽く呆れた言葉が在り、海の男は平パンを齧る。
「こうして、ちゃんと作れば美味えとは思うんだがよ」
「ああ、作り置きの腐り掛けとかが流通してんのね」
貧困と不潔の象徴、疫病の時など発生源とまで疑われ、
そのせいか真っ当な人間には敬遠されがちだと、船長は語った。
その間も、食事を前にした騒動は止まらない。
「よしアルちゃん、やあっておしまいッ」
そして既に回っているマルジャーンが、ノリだけで焚きつけて。
言葉を受け、アルフライラは焼く前の平パン生地を受け取った。
机の上に置かれた生地に、周囲の視線が集まる。
「ここにアハマルの赤、アフダルの緑、アビヤドの白を置く」
言いながら潰した赤茄子を塗り、
「この女神の色を備えた1枚に、アルフライラの名で祝福を与えよう」
神威に満ちた厳かな宣告が机の上の平パンに掛けられ、酒場が静まる。
「国に帰ったら、アズラクに食べさせると良いよいよい」
微笑ましい笑顔で船長に告げれば、その顔は引き攣って固まっていた。
アズラクの青とエミーラの黒が抜かれた祝福を受けた女神の平パン。
青と黒の女神たちに真っ向から喧嘩を売っているような代物であった。
「さて、ここまでやったら食べても問題無いでしょ」
言いながらパンを焼かせ、夫婦の前へと届けさせた。
「この喉に流し込む熱がたまりませんわねッ」
「お、奥方様ッ」
早速に揺らしながら飽食の歓びに耽る夫人と慌てる周囲の有様に、
愉し気に笑うアルフライラが居て、我関せずと呑み続ける妖怪たち。
石造りの壁に角灯の光が揺れ、酒場の宵は更けていった。
こうして生まれた祝福のピタ・アルフライラは、後に女神に献上され、
マッケローニ・ボロネーゼの衝撃に揺れた美食船団を再度に揺らす。
青のアズラクと黒のエミーラに関してどうするべきかと言う問いに、
青か黒の酒を合わせれば良いのではと少女が言葉を託していたせいで。
ピタ・アルフライラに何を合わせるべきかと言う地獄めいた話題で、
青と黒の商人たちが喧々囂々と言い争う未来が訪れるのだが。
当然ながら、アルフライラは責任から全力でバックれたと言う。