ありましメイドと暮らしたら人生変わった話   作:メイドと暮らしたい

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アメノハル

 

その朝も、見事なまでに元気だった。

 

「おはようございまし〜、ご主人さまっ! 本日も清々しい朝でありましよ!」

 

 勢いよくカーテンを開けたその瞬間、窓の端に結ばれていたレースの紐が足に絡まり、彼女はたたらを踏んだ。ぐるりと一回転して、どうにか体勢を立て直す。スカートの裾を直しながら、すました顔で言い放つ。

 

「ふう……よし、無事にカーテン開けまし! わたくしの勝利でありまし!」

 

 勝利の意味はさておき、彼女はそのまま給仕用のワゴンを押してベッドのそばへとやって来た。銀のティーポットには、うっすらと湯気が立ち昇っている。彼女にしては珍しくこぼさずに運べている――と、思った矢先。

 

「あっ、ティーカップがちょっとだけ……! でもこぼしてなどおりません! ほんのちょっぴり、机を濡らしてしまっただけでありまし〜!」

 

 机の上にできた紅茶の小さな水たまりに焦りつつも、手際よく布巾で拭き取る。だが、慌てた拍子に書類の端がふにゃりと濡れてしまい、彼女はすぐに小声で詫びた。

 

「ご、ごめんなさいまし……お仕事の紙でしたか……?」

 

 だが、問題ないとわかると次の瞬間にはすでに笑顔に戻り、お盆を抱え直して再び声を張る。

 

「さあ、お洋服はご準備済みでありまし! 本日は爽やかさを演出して、青のネクタイがよろしいかと! 理由は特にありましせんが、なんとなく晴れやかな気分でありまし!」

 

 彼女が選んだネクタイは、彼女の瞳とよく似た澄んだ青色だった。コーディネートに自信満々の様子で微笑むが、ふと何かを思い出したように手を打つ。

 

「はっ、ハンカチが……洗濯中でありまし!」

 

 困った顔をするものの、次の瞬間には誇らしげにティッシュを一枚差し出す。

 

「でも大丈夫でありまし! 代用可能でありまし〜! ……え? ポケットに予備が? えへへ、さすがでありまし!」

 

 その天然とも言える反応に、空気が少しだけ和らいだ。彼女の不器用な動きと愛らしい失敗は、どこか朝の光とよく似合っていた。

 

 身支度の整った主を玄関まで見送ると、彼女は姿勢を正して最後の言葉を告げる。

 

「ではでは、忘れ物なきよう、お気をつけて――」

 

 その声は、ほんのり紅茶の香りがするような、やわらかな響きを持っていた。

 

「行ってらっしゃいまし〜!」

 

 

 ☆

 

玄関の扉が閉まる直前まで、彼女の声が追いかけてくる。

「行ってらっしゃいまし〜!」

 その明るさは、まるで朝の光そのものだった。

 ほんの少しだけ、扉の向こうで息をつく。

 紅茶の香りがまだ袖口に残っている。慣れない頃は、いつも少し濃すぎたり薄すぎたりしていたのに――最近は、ちょうどいい。

革の靴をコツコツと鳴らしながら僕は歩く。

 ーーコツコツ

 ーーコツコツ

 

 ふとあの日のことを思い出す。僕と彼女ーー「ハル」との出会い。あの日もこんなふうに何も考えず歩いていた。

 思い出すのは当時の記憶。紅茶ではなく、濡れた土と若い葉の匂い。

 季節は梅雨。街外れの小さな橋の上を、僕はゆっくりと歩いていた。

 人通りのない午後、灰色の雲の下。

 傘を差していても、雨脚はときおり強まり、手首のあたりまでしっとり濡れる。

 何かを考える気にもなれず、ただ足を運んでいたそのときだった。

「ま、待ってくださりまし〜! 紙、飛んでいきまし〜!」

 橋の向こうから、どこか滑稽で必死な声が響いた。

 顔を上げると、傘も差さずに走る少女がひとり。

 

灰色の髪――雨に濡れて重たく、頬にはりついている。

 その髪の隙間からのぞく瞳は、不思議なほど澄んだ青色だった。

 水たまりを映したような透明さで、雨の光をそのまま閉じ込めているようだ。

 体は小さく、せいぜい七つか八つほど。

 頬はこけ、腕も細い。栄養が足りていないのが一目でわかる。

 着ているワンピースは色褪せてほつれ、袖口には泥がついていた。

そんな少女が小さな身体で、風に煽られるように前へ進み、近ずいて来る。

 僕は運命めいた何かをその少女に感じていた。

 雨の日は良い出会いがある。そんなくだらない迷信を今思い出したのは何故だろうか。

 きっとこの出会いがうだつの上がらない僕に神様が変化をもたらしたのか。とめどない思考がぐるぐる回る。心臓は高鳴り、その様はまるで初恋のように思えた。

 

彼女が近ずき、そして――

 

 ずるり、と滑って転んだ。

 

「いたた……ま、まけたでありまし……」

 はらり、とまった一枚の紙が、僕のおでこに当たり、雨によって貼りつく。

 とって見ると、文字は滲んでほとんど読めない。

 それでも、辛うじて残っていた言葉があった。

 

 

ーお手伝いが得意ですー

 

 

 僕は紙を差し出しながら声をかける。

「これ、君のかい?」

「は、はいっ! わ、わたくしの……っ」

 少女はすりむき、泥がつき、血が滲んだ膝を気にする様子もなく、ぺこりと頭を下げた。

 

「え、えと――いえっ、ハルと申しまし!お手伝いの……お仕事を探しておりましてっ!」

「お仕事?」

「はいでありまし! あの……ご飯が、食べたくて……」

 その言葉は、雨の音に溶けるように小さく落ちた。

 冗談でも、甘えでもない。

 濡れたままの瞳は真剣で、必死だった。

 どこかからの帰りでも、誰かに頼まれたでもない。

 この子は本当に、“生きるため”に仕事を探してるのだとわかった。

「この天気に、求人探しか?」

「は、はいっ! 雨の日こそ出会いがあると、聞きましてっ!」

 その無理やりな明るさが、かえって胸に刺さった。

 

 ーーああ、そのとおりだ。

 

 

 気づけば、僕は傘を傾けて、彼女の頭上に差していた。

「……とりあえず、風邪をひく前に、どこかで温まろうか。」

「よ、よろしいのでありましかっ!?」

 ぱっと顔を輝かせたその瞬間、

 雨粒が頬をすべり落ち、光を反射した。

 それは、涙のようでもあり、

 新しい始まりの合図のようでもあった。

 

 

 ☆

僕は傘を少し傾け、ハルの頭の上に影を作った。

 彼女は濡れた靴を気にしながら、鼻歌を鳴らしながら僕の横を小走りでついてくる。

 ふたりで歩く道は、いつもより長く感じた。

 ――こんなふうに誰かと並んで歩くのは、いつぶりだろう。

 両親が亡くなってから、屋敷はやけに広くなった。

 遺された家具も、絵画も、ぜんぶそのままにしてある。

 手を加える気になれなかった。

 触れた瞬間、過去が崩れてしまいそうで。

 両親の代から仕えてくれていた使用人たちも、最初のうちは残ってくれた。

 けれど、彼らの目を見るのがだんだん怖くなった。

 ――“お坊ちゃん”はもう少ししっかりなさらないと。

 ――ご主人なら、こういうときどうされたかしらね。

 誰も口には出さない。

 それでも、彼らの目に映るのはいつも「父」だった。

 立派で、厳しくて、周囲に慕われたあの人。

 その影の中で、自分だけが色褪せていく気がした。

 彼らは悪くない。

 けれど、同じ屋根の下であの視線を浴び続けるのは、息が詰まった。

 だからある日、僕は全員に暇を出した。

 十分な金子と「しばらく一人でやってみたい」の言葉だけを告げて。

 彼らは驚きながらも、深く頭を下げて出ていった。

 屋敷の中から、人の気配が消えた瞬間――

 最初に感じたのは“解放”ではなく、“静寂の重さ”だった。

 それからの日々は、音のない部屋で過ぎていった。

 食事は適当で、時計の針の音だけが生活の証になった。

 誰にも必要とされないことに、少しずつ慣れていった。

 慣れるというより、諦めていたのかもしれない。

 そんな僕の横で、ハルは雨の中をまっすぐに前を見て歩いている。

 小さな手には、ぐしゃぐしゃになった紙。

 『お手伝いが得意です』――そう書かれた文字が、滲んでいた。

 “誰かに必要とされたい”という言葉を、僕はもう長く聞いていなかった。

 だから、たぶん――この子を見ていられなかった。

 放っておくことのほうが、よほど冷たく思えた。

 もしこれが、ただの雨の日の気まぐれだとしても。

 傘の下にもう一つの影があることが、

 どうしようもなく嬉しく感じてしまっている。

 

 

 ☆

 

 湯気の匂いが、屋敷の廊下をやわらかく包んでいた。

 古い木の床は雨を吸った靴音を飲み込み、静けさを取り戻している。

 僕はリビングの椅子に腰を下ろし、火の落ちかけた暖炉を眺めながら、まだ濡れた傘をそっと壁に立てかけた。

 あのあと、彼女を連れて帰るまでの道はほとんど無言だった。

「お邪魔いたしまし」と小さく呟いたきり、彼女はおとなしく、手にした紙を何度も胸に抱きしめていた。

 服も髪もずぶ濡れで、肩が細かく震えていたのを覚えている。

 ーーだから、まずは温まらせることにした。

 風呂場の戸の向こうから、ぽちゃん、と水音がした。

 それに続いて、かすかな鼻歌が聞こえてくる。

 おそらくは彼女の声だ。

 音程も怪しく、歌ともつかぬ調子だが、不思議と心がほどける。

 やがて、戸の隙間から湯気が漏れ、

 小さな足音が廊下をとんとんと進んできた。

「……お、おまたせいたしまし〜」

 振り返ると、そこに立っていたのは、先ほどとはまるで別人のような少女だった。

 灰色の髪はまだ少し湿っていて、光に透けて銀色に輝いている。

 頬には血のような赤みが戻り、青い瞳は湯気の中でいっそう透きとおっていた。

 借り物のパジャマの袖が長すぎて、手がすっぽり隠れている。

 それを気にするように、そっと両手を胸の前でまとめた。

「……どうだい、あたたまったか?」

「はいでありまし……! とっても、あったかくて……ふわふわいたしまし……!お風呂なんて初めてでありまし!それからそれから石鹸がふわふわで、」

 言葉の端々が、ようやく緊張をほどいた子どものように柔らかくなる。

 その無邪気な響きに、思わず笑ってしまった。

「よかった。それなら、これを。」

 僕はテーブルの上に置いたマグを差し出す。

 中には温かいミルク。少しだけ蜂蜜を落としてある。

 ハルは両手でそれを受け取ると、湯気の向こうで目を細めた。

「いい匂いでありまし!」と元気いっぱいに笑いかけてくれる。

彼女からしてみれば熱いのか、その小さな口で一生懸命息を吹いてからコクリ。と飲み始める。

「……あまいでありまし。…とっても!やさしい味でありまし」

 その満面の笑みを僕が忘れることは無いだろうと思えるほど、なぜか胸に染みた。

 

 暖炉の火がぱちりと鳴る。

 雨はまだ外で降り続いている。

「ねえ、ハル。」

「はいでありまし?」

「行くあては、他にないのか?」

 ハルはマグを抱えたまま、少し考えるように目を伏せた。

「……孤児院、潰れちゃったでありまし。どうにかしなきゃと思ってひとりで歩いてたら、雨が降って……」

 小さな声が、火の音に消えていく。

 僕は息をのんだ。

 何かを慰めるような言葉を探そうとしたが、うまく出てこなかった。

 かわりに、ただひとつだけ言った。

「なら、しばらくここにいなさい。」

 ハルはぱっと顔を上げた。

「ここに……?」

「ああ。仕事がしたいんだろう?」

「は、はいっ! お手伝い、がんばりまし!」

 小さな体でぴんと背筋を伸ばし、ぎこちない敬礼をしてみせた。

 そのしぐさが愛しくて、僕はまた笑ってしまった。

「じゃあ、明日からメイド見習いだな。」

「め、めいど……! すてきな響きでありまし!」

 そう言って、彼女はマグを胸に抱きしめる。

 その瞳は、雨の中で見たときと同じ、まっすぐな青をしていた。

 ーーこの小さな出会いが、僕の静かな日々を変えていく。

 そんな予感が、暖炉の炎よりも熱く、胸の奥で燃えていた。

 

 

「精一杯、頑張るのでよろしくお願いします!でありまし!!」

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