雷は、山の鼓動だ。
古い猟師がそう言ったのを、ライルは妙に覚えている。
雲が裂け、光が落ち、空と地の心臓が同時に打つ。
山が息をする音だと。
その日、山は六回、鼓動した。
六回目の稲光は、森の奥で眠っていた何かの瞼を、確かにこじ開けた。
禁域《フロストヴァレー》。
地図上ではただの渓谷にすぎない。
だが現地では「雷鳴が止まぬ谷」と呼ばれる。
季節が変わっても雲は晴れず、獣たちは子を成さず、鳥も巣を捨てた。
人々は“そこに何かが眠っている”と信じていた。
だからこそ、今この調査隊の名目が「再調査」になっているのだ。
十年前、一度目の調査で二十名が入山した。
帰還したのは六名。
彼らはみな、口を揃えて「雷の中に、影を見た」と語った。
影の正体を確かめるため、ギルドは再び隊を送り出すことを決めた。
ライル・エンデル。
若きハンターで、剣士でもあり、観測者でもある。
雷鳴を聞きながら歩くのは嫌いではなかった。
生と死の境界が、いちばんはっきりする瞬間だからだ。
隣を歩くのは、学者フェン・ドーヴ。
痩せた指で分厚い写本を抱え、足元に注意を払いながらも視線は常に地面の文字に向いている。
リーネ・カルマ。銃槍使い。
彼女はあまり喋らないが、背中から聞こえる金属の擦れる音が頼もしい。
「呼吸、深く。足音、浅く」
フェンが言う。
「いつも通りだよ、先生」
ライルが答えると、学者は薄く笑った。
「いつも通りじゃないことを、これから見るんだ」
その冗談は、乾いた風に溶けた。
森は、音を飲む場所だ。
苔に覆われた地面は靴音を吸い、風が枝を鳴らすこともない。
雷鳴だけが、世界を動かしているように思える。
やがて三人は、苔むした門にたどり着いた。
門の奥には、半ば地に埋もれた祠。
天井を失い、根に侵食された石柱が並んでいる。
中心に立つ一枚の碑には、風化しながらも古代文字が残っていた。
フェンが懐から紙を取り出し、写し取る。
「“雷の王よ、怒りを鎮め、再び天へ還れ”」
彼は低く呟いた。
「……封印文だ。おそらく、これが核」
「解除すると?」とライル。
「普通は解除しないね」
冗談を言ったはずのフェンの声には、微妙な震えがあった。
リーネが銃槍の柄を軽く叩く。
「笑えないな」
風が、止んだ。
木々の葉裏が一斉に裏返り、森の温度が一度下がる。
世界が、深呼吸をするみたいに。
雷鳴が遅れて落ちた。
碑の中心を貫き、光が地面を焦がす。
大気が裂け、鼓膜が軋む。
ライルはとっさに盾を構えたが、爆風は骨まで震わせた。
土煙が舞い、視界が白に塗り潰される。
熱と光の間に、ひとつの影が浮かんだ。
輪郭は崩れ、黒。
けれど、光の中でもなお黒い。
“光を呑む黒”。
それが最初に見えた。
煙が薄れ、紅の双眸が現れる。
それは血より深く、火より冷たい色。
黒褐色の毛並み、隆起した筋群、地を掴むような四肢。
――ラージャン。
だが、彼らが知る狂暴な獣とは違った。
荒ぶる狂気の泡が欠片もない。
そこにあるのは、沈黙。
観察者のような眼。
理性のある獣――いや、それを超えた何か。
ライルの背で、リーネが息を呑む。
「……目が、笑ってない」
「笑うラージャンがいたら、私は辞職するよ」フェンが応じた。
けれど、その冗談にも誰も笑えなかった。
森が黙った。
次の瞬間、別の咆哮が沈黙を破った。
ティガレックス。
封印の衝撃に引き寄せられたのだ。
斜面を崩しながら、斑の巨体が突進してくる。
獣竜の風圧で、空気が爆ぜた。
ラージャンは、動かない。
ただ首を傾け、空を見上げた。
雷雲が裂け、ひと筋の稲妻が走る。
その光が、彼の胸を射抜いた瞬間――
世界が、再び鼓動した。
稲光が落ちた。
音よりも速く。
その閃光が森を焼き、空気を裂くより先に、何かの心臓が脈打った。
ラージャンの体毛が、わずかに逆立つ。
黒の毛並みに光が差し、一本一本の毛先が金色の縁を帯びる。
雷が地を這うように、毛の中を駆け抜けた。
しかしまだ、それは“怒り”ではなかった。
怒りは、火種だ。
このとき彼の胸にあったのは――
目覚めの疼き。
ティガレックスの咆哮が木々を倒す。
巨竜は封印を破った原因を前に、容赦なく突進した。
その足取りは地震のように大地を震わせ、地鳴りが鼓膜を突き抜ける。
「退避――っ!」
リーネが叫んだ瞬間、
ラージャンが一歩、踏み込んだ。
その一歩で、空気が歪んだ。
雷鳴が止み、時間すら止まったように感じた。
彼は拳を握る。
その動作だけで、周囲の風圧が吸い込まれる。
――鼓動が重なる。
地の鼓動。
空の鼓動。
そして、獣の鼓動。
三つの拍動が一致した瞬間、
ラージャンの全身を雷が包んだ。
轟音が遅れて爆ぜた。
光が森を白に染め、陰影が消えた。
雷が形を持ち、金が溢れる。
放電。
ただの雷ではない。
彼自身が電流を導いた。
怒りに似た感情が、電の形を与えたのだ。
ティガレックスの突進が迫る。
咆哮が空気を裂き、土砂が巻き上がる。
しかし、ラージャンは微動だにしなかった。
拳が閃く。
音が遅れ、世界が歪む。
ティガの突進が、腕一本で止まった。
信じられない光景。
ライルは、思考が一瞬だけ途切れた。
ティガの顎が、ラージャンの掌に固定されていた。
黒い毛の間から雷が走り、巨竜の顎を包む。
稲妻が走るたびに、ティガの体が痙攣した。
ラージャンの喉奥から、低い唸りが漏れた。
怒りでも憎悪でもない。
闘志――喜びに似た音。
拳を引く。
その一動作で、世界が息を飲む。
ティガの頭部に、黄金の閃光が走った。
骨が砕け、衝撃波が円を描いて広がる。
木々が倒れ、風が上へと吹き上がる。
大気が、燃えるように震えた。
リーネは声にならない声を上げた。
「……冗談だろ……」
ライルは呆然と呟いた。
「違う……怒ってるんじゃない……」
フェンが紙を掴む手を止め、静かに言う。
「楽しんでいるんだ……闘いを」
ティガレックスが再び立ち上がる。
獣竜の誇りが、翼なき背中を支える。
怒りにまみれ、恐怖を押し殺し、
“生存”そのものを拳に変えている。
ラージャンは、それを見ていた。
目の奥が、わずかに細められた。
――愉悦。
金の毛並みが揺れるたび、雷が彼の内側を走る。
光が皮膚の下を流れ、筋肉が軋む音さえも旋律のようだ。
怒りを超えた集中。
それは、闘争の悦楽。
ティガが再び咆哮し、突進する。
前肢を振り下ろし、大地を裂く。
破片が弾丸のように飛び交う。
ラージャンは後退しない。
拳が交わるたび、雷が爆ぜる。
衝撃が土を抉り、地脈が揺れる。
ティガが牙を突き立てようとした瞬間、
ラージャンは逆にその頭を掴み、顎を外した。
雷光が閃き、爆風が広がる。
リーネの盾が唸り、土砂が壁のように押し寄せた。
息ができない。
視界が白い。
そして、音が戻った。
ティガの咆哮が途切れ、
ラージャンの拳が空を貫く。
黄金の閃光が天を割り、雲を裂き、稲妻を呼んだ。
森が光の中に包まれた。
稲妻は彼の拳を通り抜け、天へと返る。
「来たれり、焦熱が島――」
フェンの口から詩の断片が漏れる。
「純黒の獅子が牙を剥く……」
雷鳴が返答するように鳴り響いた。
大地の上に、金の巨体が立っていた。
放電状態――完全覚醒。
しかしその金は、ただの怒りの色ではなかった。
怒りを越えた“悦び”の金。
生命の底から溢れる闘争本能が、雷を形にした。
ティガが崩れ落ちる。
倒れる音が、ゆっくりと響く。
ラージャンは、その上に立っていた。
黄金の体がゆっくりと褪せていく。
雷光が散り、黒が戻る。
彼は空を見上げた。
雨は降らない。
ただ、雲が光を吐き出すように明滅している。
その顔には、怒りも憎しみもない。
そこにあったのは――
静かな満足。
そして、次を待つ者の眼。
風が吹いた。
森がざわめく。
ラージャンは背を向け、ゆっくりと歩き出す。
足跡を追う雷光が、地を這った。
その光跡はすぐに消えた。
彼の放電は、まだ不完全だった。
空の火を借りねば、次は生み出せない。
だが、雷を得た。
怒りを形にする術を、手に入れた。
そして彼は、
闘いの歓喜を知った。
森が、静まった。
長く続いた雷鳴の残響が遠のき、風が、音を取り戻した。
焦げた樹皮の匂い、濡れた土の匂い、そして鉄のような味が、空気を満たす。
ライルたちは、しばらく動けなかった。
衝撃の後遺症が身体を支配し、耳鳴りだけが現実を繋いでいた。
リーネは膝をつき、銃槍を支えに息を整える。
「……終わったのか?」
問いというより、祈りに近い声だった。
フェンは泥の中から碑文の残骸を拾い上げる。
割れた断片を指でなぞると、薄く光の粉が舞った。
「“怒りの神よ、天に還れ”……。還ったんじゃない。生まれ直したんだ」
ライルは視線を上げた。
空の彼方で、黒雲が裂けている。
そこには雷もなく、ただ淡い光が滲んでいた。
「……違う。あれは帰ったんじゃない。まだここにいる」
そう言いながら、自分でもその確信の根拠が分からなかった。
けれど、胸の奥に残る震えが、確かに“何か”を感じ取っていた。
彼は地に伏したティガレックスを見た。
巨竜は完全に沈黙している。
息がない。けれど、恐怖ではなく、穏やかだった。
あの拳を受けた者にしか分からない“納得”があったのだろう。
ラージャンの足跡は、すでに森の奥へ続いていた。
焦げた地面が残したのは、僅かな放電の跡と、
――獣の歩幅とは思えないほど整った、真っ直ぐな線。
フェンがぼそりと呟く。
「理性がある……いや、あった、か」
「そんなの、どうでもいいよ」リーネが顔を上げた。
「私、あれ見た瞬間、何も考えられなくなった。怖くもなかった。
ただ、“あの生き物の世界に、私たちは踏み込んでる”って分かった」
ライルは小さく笑った。
「俺もだ。……負けた気がした」
その夜、三人は森を下り、臨時の拠点へ戻った。
拠点では既に緊急報告の伝令が飛び交っていた。
「雷の獣出現」
「封印文崩壊」
「ティガレックス討滅、ただし討伐者不明」
テントの中で、ライルは記録書を広げた。
震える手で、報告を綴る。
⸻
『禁域《フロストヴァレー》にて未知の個体確認。
外見的特徴:黒褐色体毛。通常個体より筋群発達。
発光現象あり。外的要因による雷撃にて金色化(放電状態)を確認。
攻撃挙動は高知能的。怒気を制御し、強敵に対してのみ攻性反応を示す。
ティガレックスとの交戦により勝利。
目的は不明だが、敵対ではなく“闘争”を求める傾向あり。
封印文の意図は、鎮めるためでなく、“留めるため”の可能性。
――この獣は怒りによって進化する。』
⸻
ペン先が止まる。
ライルは少し間を置いて、追記した。
⸻
『金色は終わりではない。
あれは“入口”だ。
怒りの形は雷。雷の形は心臓。
雷は山の鼓動ならば、彼は――怒りそのものの心臓だ。』
⸻
筆を置き、息を吐く。
その瞬間、遠雷が一つ鳴った。
音は遠い。けれど、胸に響いた。
フェンが静かに言う。
「彼に“名”が必要になるだろう」
「名?」
「そうだ。存在を記すための。報告書には、識別呼称がいる」
リーネが目を細める。
「ラージャン……だけじゃ、足りないな」
沈黙。
その間に、雷がもう一つ落ちた。
「禁の森、禁域……」
フェンが呟く。
「――禁獅子。どうだ?」
リーネが頷き、ライルは目を閉じた。
その名を心の中で繰り返す。
“禁”――それは恐れと畏れの境界を示す言葉。
“獅子”――闘争の象徴。
禁獅子。
誰も触れてはならぬ、進化する怒り。
⸻
夜明け前、山の向こう。
雷雲の切れ間に、黒い影が動いた。
森を越え、谷を渡り、霧の海へと跳ぶ。
その瞳には、燃えるような紅。
怒りでも、恐怖でもない。
ただ純粋に、強さを求める光。
雷は山の鼓動だ。
ならばこの獣は、
――怒りを食らい、闘争で鼓動する心臓そのもの。
金はまた褪せ、黒が戻る。
だが、次の雷が落ちるとき、
彼は再び立ち上がる。
怒りを糧に、歓喜を纏って。
その姿を見た者がいた。
遠く離れた集落の老猟師が、夜明けの空を見上げて言ったという。
「雷が歩いた」
それが最初の伝承。
人々はその存在をこう呼ぶようになる。
――禁獅子。
雷を纏い、怒りと共に進化する、
山の心臓に最も近い獣。
伝説は、ここから始まる。