某菜野人みたいなラージャン   作:織田三郎ノッブ

1 / 2
目覚め

雷は、山の鼓動だ。

古い猟師がそう言ったのを、ライルは妙に覚えている。

雲が裂け、光が落ち、空と地の心臓が同時に打つ。

山が息をする音だと。

 

その日、山は六回、鼓動した。

六回目の稲光は、森の奥で眠っていた何かの瞼を、確かにこじ開けた。

 

禁域《フロストヴァレー》。

地図上ではただの渓谷にすぎない。

だが現地では「雷鳴が止まぬ谷」と呼ばれる。

季節が変わっても雲は晴れず、獣たちは子を成さず、鳥も巣を捨てた。

人々は“そこに何かが眠っている”と信じていた。

だからこそ、今この調査隊の名目が「再調査」になっているのだ。

 

十年前、一度目の調査で二十名が入山した。

帰還したのは六名。

彼らはみな、口を揃えて「雷の中に、影を見た」と語った。

影の正体を確かめるため、ギルドは再び隊を送り出すことを決めた。

 

ライル・エンデル。

若きハンターで、剣士でもあり、観測者でもある。

雷鳴を聞きながら歩くのは嫌いではなかった。

生と死の境界が、いちばんはっきりする瞬間だからだ。

 

隣を歩くのは、学者フェン・ドーヴ。

痩せた指で分厚い写本を抱え、足元に注意を払いながらも視線は常に地面の文字に向いている。

リーネ・カルマ。銃槍使い。

彼女はあまり喋らないが、背中から聞こえる金属の擦れる音が頼もしい。

 

「呼吸、深く。足音、浅く」

フェンが言う。

「いつも通りだよ、先生」

ライルが答えると、学者は薄く笑った。

「いつも通りじゃないことを、これから見るんだ」

 

その冗談は、乾いた風に溶けた。

 

森は、音を飲む場所だ。

苔に覆われた地面は靴音を吸い、風が枝を鳴らすこともない。

雷鳴だけが、世界を動かしているように思える。

 

やがて三人は、苔むした門にたどり着いた。

門の奥には、半ば地に埋もれた祠。

天井を失い、根に侵食された石柱が並んでいる。

中心に立つ一枚の碑には、風化しながらも古代文字が残っていた。

 

フェンが懐から紙を取り出し、写し取る。

「“雷の王よ、怒りを鎮め、再び天へ還れ”」

彼は低く呟いた。

「……封印文だ。おそらく、これが核」

「解除すると?」とライル。

「普通は解除しないね」

 

冗談を言ったはずのフェンの声には、微妙な震えがあった。

リーネが銃槍の柄を軽く叩く。

「笑えないな」

 

風が、止んだ。

木々の葉裏が一斉に裏返り、森の温度が一度下がる。

世界が、深呼吸をするみたいに。

 

雷鳴が遅れて落ちた。

碑の中心を貫き、光が地面を焦がす。

大気が裂け、鼓膜が軋む。

ライルはとっさに盾を構えたが、爆風は骨まで震わせた。

 

土煙が舞い、視界が白に塗り潰される。

熱と光の間に、ひとつの影が浮かんだ。

輪郭は崩れ、黒。

けれど、光の中でもなお黒い。

“光を呑む黒”。

それが最初に見えた。

 

煙が薄れ、紅の双眸が現れる。

それは血より深く、火より冷たい色。

黒褐色の毛並み、隆起した筋群、地を掴むような四肢。

 

――ラージャン。

 

だが、彼らが知る狂暴な獣とは違った。

荒ぶる狂気の泡が欠片もない。

そこにあるのは、沈黙。

観察者のような眼。

理性のある獣――いや、それを超えた何か。

 

ライルの背で、リーネが息を呑む。

「……目が、笑ってない」

「笑うラージャンがいたら、私は辞職するよ」フェンが応じた。

けれど、その冗談にも誰も笑えなかった。

 

森が黙った。

次の瞬間、別の咆哮が沈黙を破った。

 

ティガレックス。

封印の衝撃に引き寄せられたのだ。

斜面を崩しながら、斑の巨体が突進してくる。

獣竜の風圧で、空気が爆ぜた。

 

ラージャンは、動かない。

ただ首を傾け、空を見上げた。

雷雲が裂け、ひと筋の稲妻が走る。

 

その光が、彼の胸を射抜いた瞬間――

世界が、再び鼓動した。

稲光が落ちた。

音よりも速く。

その閃光が森を焼き、空気を裂くより先に、何かの心臓が脈打った。

 

ラージャンの体毛が、わずかに逆立つ。

黒の毛並みに光が差し、一本一本の毛先が金色の縁を帯びる。

雷が地を這うように、毛の中を駆け抜けた。

しかしまだ、それは“怒り”ではなかった。

怒りは、火種だ。

このとき彼の胸にあったのは――

目覚めの疼き。

 

ティガレックスの咆哮が木々を倒す。

巨竜は封印を破った原因を前に、容赦なく突進した。

その足取りは地震のように大地を震わせ、地鳴りが鼓膜を突き抜ける。

 

「退避――っ!」

リーネが叫んだ瞬間、

ラージャンが一歩、踏み込んだ。

 

その一歩で、空気が歪んだ。

雷鳴が止み、時間すら止まったように感じた。

彼は拳を握る。

その動作だけで、周囲の風圧が吸い込まれる。

 

――鼓動が重なる。

 

地の鼓動。

空の鼓動。

そして、獣の鼓動。

 

三つの拍動が一致した瞬間、

ラージャンの全身を雷が包んだ。

 

轟音が遅れて爆ぜた。

光が森を白に染め、陰影が消えた。

雷が形を持ち、金が溢れる。

 

放電。

ただの雷ではない。

彼自身が電流を導いた。

怒りに似た感情が、電の形を与えたのだ。

 

ティガレックスの突進が迫る。

咆哮が空気を裂き、土砂が巻き上がる。

しかし、ラージャンは微動だにしなかった。

 

拳が閃く。

 

音が遅れ、世界が歪む。

ティガの突進が、腕一本で止まった。

信じられない光景。

ライルは、思考が一瞬だけ途切れた。

 

ティガの顎が、ラージャンの掌に固定されていた。

黒い毛の間から雷が走り、巨竜の顎を包む。

稲妻が走るたびに、ティガの体が痙攣した。

 

ラージャンの喉奥から、低い唸りが漏れた。

怒りでも憎悪でもない。

闘志――喜びに似た音。

 

拳を引く。

その一動作で、世界が息を飲む。

ティガの頭部に、黄金の閃光が走った。

骨が砕け、衝撃波が円を描いて広がる。

 

木々が倒れ、風が上へと吹き上がる。

大気が、燃えるように震えた。

 

リーネは声にならない声を上げた。

「……冗談だろ……」

 

ライルは呆然と呟いた。

「違う……怒ってるんじゃない……」

 

フェンが紙を掴む手を止め、静かに言う。

「楽しんでいるんだ……闘いを」

 

ティガレックスが再び立ち上がる。

獣竜の誇りが、翼なき背中を支える。

怒りにまみれ、恐怖を押し殺し、

“生存”そのものを拳に変えている。

 

ラージャンは、それを見ていた。

目の奥が、わずかに細められた。

――愉悦。

 

金の毛並みが揺れるたび、雷が彼の内側を走る。

光が皮膚の下を流れ、筋肉が軋む音さえも旋律のようだ。

怒りを超えた集中。

それは、闘争の悦楽。

 

ティガが再び咆哮し、突進する。

前肢を振り下ろし、大地を裂く。

破片が弾丸のように飛び交う。

ラージャンは後退しない。

 

拳が交わるたび、雷が爆ぜる。

衝撃が土を抉り、地脈が揺れる。

ティガが牙を突き立てようとした瞬間、

ラージャンは逆にその頭を掴み、顎を外した。

 

雷光が閃き、爆風が広がる。

リーネの盾が唸り、土砂が壁のように押し寄せた。

息ができない。

視界が白い。

 

そして、音が戻った。

 

ティガの咆哮が途切れ、

ラージャンの拳が空を貫く。

黄金の閃光が天を割り、雲を裂き、稲妻を呼んだ。

 

森が光の中に包まれた。

稲妻は彼の拳を通り抜け、天へと返る。

「来たれり、焦熱が島――」

フェンの口から詩の断片が漏れる。

「純黒の獅子が牙を剥く……」

 

雷鳴が返答するように鳴り響いた。

大地の上に、金の巨体が立っていた。

放電状態――完全覚醒。

 

しかしその金は、ただの怒りの色ではなかった。

怒りを越えた“悦び”の金。

生命の底から溢れる闘争本能が、雷を形にした。

 

ティガが崩れ落ちる。

倒れる音が、ゆっくりと響く。

ラージャンは、その上に立っていた。

黄金の体がゆっくりと褪せていく。

雷光が散り、黒が戻る。

 

彼は空を見上げた。

雨は降らない。

ただ、雲が光を吐き出すように明滅している。

 

その顔には、怒りも憎しみもない。

そこにあったのは――

静かな満足。

そして、次を待つ者の眼。

 

風が吹いた。

森がざわめく。

ラージャンは背を向け、ゆっくりと歩き出す。

 

足跡を追う雷光が、地を這った。

その光跡はすぐに消えた。

彼の放電は、まだ不完全だった。

空の火を借りねば、次は生み出せない。

 

だが、雷を得た。

怒りを形にする術を、手に入れた。

そして彼は、

闘いの歓喜を知った。

森が、静まった。

長く続いた雷鳴の残響が遠のき、風が、音を取り戻した。

焦げた樹皮の匂い、濡れた土の匂い、そして鉄のような味が、空気を満たす。

 

ライルたちは、しばらく動けなかった。

衝撃の後遺症が身体を支配し、耳鳴りだけが現実を繋いでいた。

リーネは膝をつき、銃槍を支えに息を整える。

「……終わったのか?」

問いというより、祈りに近い声だった。

 

フェンは泥の中から碑文の残骸を拾い上げる。

割れた断片を指でなぞると、薄く光の粉が舞った。

「“怒りの神よ、天に還れ”……。還ったんじゃない。生まれ直したんだ」

 

ライルは視線を上げた。

空の彼方で、黒雲が裂けている。

そこには雷もなく、ただ淡い光が滲んでいた。

「……違う。あれは帰ったんじゃない。まだここにいる」

そう言いながら、自分でもその確信の根拠が分からなかった。

けれど、胸の奥に残る震えが、確かに“何か”を感じ取っていた。

 

彼は地に伏したティガレックスを見た。

巨竜は完全に沈黙している。

息がない。けれど、恐怖ではなく、穏やかだった。

あの拳を受けた者にしか分からない“納得”があったのだろう。

 

ラージャンの足跡は、すでに森の奥へ続いていた。

焦げた地面が残したのは、僅かな放電の跡と、

――獣の歩幅とは思えないほど整った、真っ直ぐな線。

 

フェンがぼそりと呟く。

「理性がある……いや、あった、か」

「そんなの、どうでもいいよ」リーネが顔を上げた。

「私、あれ見た瞬間、何も考えられなくなった。怖くもなかった。

ただ、“あの生き物の世界に、私たちは踏み込んでる”って分かった」

 

ライルは小さく笑った。

「俺もだ。……負けた気がした」

 

その夜、三人は森を下り、臨時の拠点へ戻った。

拠点では既に緊急報告の伝令が飛び交っていた。

「雷の獣出現」

「封印文崩壊」

「ティガレックス討滅、ただし討伐者不明」

 

テントの中で、ライルは記録書を広げた。

震える手で、報告を綴る。

 

 

『禁域《フロストヴァレー》にて未知の個体確認。

 外見的特徴:黒褐色体毛。通常個体より筋群発達。

 発光現象あり。外的要因による雷撃にて金色化(放電状態)を確認。

 攻撃挙動は高知能的。怒気を制御し、強敵に対してのみ攻性反応を示す。

 ティガレックスとの交戦により勝利。

 目的は不明だが、敵対ではなく“闘争”を求める傾向あり。

 封印文の意図は、鎮めるためでなく、“留めるため”の可能性。

 ――この獣は怒りによって進化する。』

 

 

ペン先が止まる。

ライルは少し間を置いて、追記した。

 

 

『金色は終わりではない。

 あれは“入口”だ。

 怒りの形は雷。雷の形は心臓。

 雷は山の鼓動ならば、彼は――怒りそのものの心臓だ。』

 

 

筆を置き、息を吐く。

その瞬間、遠雷が一つ鳴った。

音は遠い。けれど、胸に響いた。

 

フェンが静かに言う。

「彼に“名”が必要になるだろう」

「名?」

「そうだ。存在を記すための。報告書には、識別呼称がいる」

リーネが目を細める。

「ラージャン……だけじゃ、足りないな」

 

沈黙。

その間に、雷がもう一つ落ちた。

 

「禁の森、禁域……」

フェンが呟く。

「――禁獅子。どうだ?」

 

リーネが頷き、ライルは目を閉じた。

その名を心の中で繰り返す。

“禁”――それは恐れと畏れの境界を示す言葉。

“獅子”――闘争の象徴。

禁獅子。

誰も触れてはならぬ、進化する怒り。

 

 

夜明け前、山の向こう。

雷雲の切れ間に、黒い影が動いた。

森を越え、谷を渡り、霧の海へと跳ぶ。

その瞳には、燃えるような紅。

怒りでも、恐怖でもない。

ただ純粋に、強さを求める光。

 

雷は山の鼓動だ。

ならばこの獣は、

――怒りを食らい、闘争で鼓動する心臓そのもの。

 

金はまた褪せ、黒が戻る。

だが、次の雷が落ちるとき、

彼は再び立ち上がる。

怒りを糧に、歓喜を纏って。

 

その姿を見た者がいた。

遠く離れた集落の老猟師が、夜明けの空を見上げて言ったという。

 

「雷が歩いた」

 

それが最初の伝承。

人々はその存在をこう呼ぶようになる。

 

 ――禁獅子。

 

雷を纏い、怒りと共に進化する、

山の心臓に最も近い獣。

 

伝説は、ここから始まる。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。