砂は、風の骨だ。
折れ、削れ、鳴りながら、地平の形を変えていく。
その砂の海のただ中で、山から来た黒い獣が足を止めた。
ラージャン。
森で落雷を飲み、金色を一度だけ纏った巨猿。
彼はもう、怒りがなくても“起動”できる。
だが――燃やす火は、どこかから連れてこなければならない。
空の怒り、または己の怒り。
砂漠の空は乾いている。雷は遠い。
だから獣は歩く。焦げた山の味を忘れないために。次の心臓の音を探すために。
地の下が、息をした。
足裏に、低い脈動。
岩の奥に角の気配。
砂が僅かに、逆流した。
ライルは崖の陰から、その瞬間を嗅ぎ取った。
風上に匂いが乗る。乾いた草、獣脂、そして――土の鉄。
銃槍使いのリーネが短く顎を上げる。
「下にいる。角の王」
学者フェンはスコープから目を離さない。
「ここは彼(ディアブロス)の宮だ。静かに」
砂丘の斜面が、内側から破けた。
ディアブロスが、砂を噴き上げて出る。
太陽を反射する二本の角。体は砂色、影は刃のように鋭い。
砂漠の槍は、そのまま突進の姿勢に無理なく移る。
“縄張りから異物を排除する”という、簡潔で強力な意思。
黒い獣は、ただ立っていた。
砂の風が鬣に波紋を作り、瞳に真っ直ぐな紅が灯る。
彼は問うている。――お前は、何者だ。
答えは、音になって返った。
砂の骨が折れる音。
地の上の空気が押し潰される音。
ディアブロスの突進は、風景ごと運ぶ。
砂丘が崩れ、遠くの枯れた灌木が弾ける。
ラージャンは、胸でその風を受けた。
衝突の直前、空がわずかに暗くなる。
雲ではない。砂だ。
砂嵐が、熱と上昇気流で天蓋を作り、そこへ冷たい層の風が滑り込む。
フェンが息を呑む。
「……帯電する」
雷は、まだ生まれていない。
だが、呼吸が速くなる。
胸の奥に、細い怒りが点る。
理由は何でもいい――砂の痛みでも、風の理不尽でも、
まだ届かない自分への苛立ちでも。
ディアブロスの角が、黒毛の胸を貫かんと迫る瞬間、
ラージャンは腕を差し入れ、角を抱き止めた。
砂が波打ち、骨が軋む。
掌の中で、岩のような角の根元が微かに震える。
その振動が、導火線になる。
空が、白く閃いた。
砂嵐の蓋に、細い稲妻が走る。
それは天の怒りというより、砂の擦過音が火花に育ったもの。
電が落ちる。
獣の肩に、腕に、胸に。
散る火花、憤然。
毛並みが金を吸い上げ、一本、また一本と縫い取り、
やがて、黄金の猛風が形になった。
ライルは喉が鳴るのを止められなかった。
森で見た光景が、今度は砂で起きている。
違うのは、放電状態が――長いことだ。
放電状態はあの日より持続している。怒りは小さく、雷は薄い。
けれど、彼は覚えたのだ。
“火の抱え方”を。
ディアブロスが低く頭を振る。
左の角で押し上げ、右の角で抉るいつもの殺し。
ラージャンは左を押し返し、右に体を滑らせ、拳をもう片方の角の基部へ。
拳が入る音は、骨を叩いた音ではない。
雷が骨へ入った音だ。
角の根元に白いひび。そこから砂のように光が漏れる。
次の瞬間、角が砕けた。
砂丘が崩れ、風が叫ぶ。
ディアブロスは怯まない。
砂を掻き、半円を描いて旋回し、尾で薙ぎ、すかさず潜る。
地下の音が前後左右から混ざり合い、位置が曖昧になる。
リーネが舌打ちした。
「潜行だ。出る位置が読めない」
フェンが静かに指を立てる。
「聴け」
ライルは、砂を聴いた。
砂は風の骨。
骨は、折れると鳴る。
地表のわずかな沈降、ソールの裏で鳴る波。
そこ――!
地面が裂け、角が噴き上がる。
ラージャンは半身に捻って避け、角の根元に両拳を叩き込む。
雷が逆流し、角から全身に火花が走る。
口の奥に、鉄と雨の味。
砂がガラスに変わり、ひびを作って冷える。
ディアブロスの二本目の角に、ひとつ、致命の罅が入った。
怒りは、燃料だ。
だが、暴走の焔ではない。
拳を正確に運ぶための温度だ。
ラージャンはそれを知り始めていた。
金は吠えず、静かに唸る。
拳は荒れず、確かに落ちる。
砂雲の上で、細い雷がまた一本、縫い目を走った。
ラージャンは天を見なかった。
必要がなかった。
雷は、もう彼の皮膚の下で鳴っている。
借り物でも、抱え方を知っている者の手の中では――武器になる。
ディアブロスが地中から半身のまま、尾で横薙ぎに打つ。
砂が刃になって飛ぶ。
ラージャンは膝を抜いて沈み、肩で受け、拳で返した。
拳が、翼のない背中に入る。
轟。
砂嵐が一拍、呼吸を忘れた。
ライルは視界の端が白くなるのを感じた。
熱によるものでも、恐怖によるものでもない。
理解だ。
あの獣は、楽しんでいる。
弱きをいたぶる喜びではなく、
強きとぶつかることでしか得られない――生の歓喜。
ディアブロスが、吠える。
砂の王としての吠え。
片角にひびを抱え、それでもなお前へ出る誇り。
ラージャンの身体が一瞬だけ止まり、瞳の紅が柔らいだ。
礼。
戦士への礼。
次の瞬間、金がわずかに濃くなる。
決着は、短い詩だった。
ディアブロス、地中からの再突き上げ。
ラージャン、半身回避からの掌底――角基部。
電が骨へ、骨から神経へ、神経から脚へ。
脚が抜け、巨体が膝を折る。
ラージャン、空へ向けて拳を掲げ、天へ返す。
黄金の柱。
砂の天蓋が一瞬だけ裂け、光が降りる。
砂丘は風下へ崩れ、砂礫が雨の粒のように降った。
“倒せる”
そう理解した時には、拳は止まっていた。
ラージャンは、振らない一撃を選ぶ。
呼吸が静まり、金がゆっくりと薄れていく。
砂の王は、横たわった。
砂は、体温を覚えている。すぐには冷めない。
雷はもう鳴っていない。
空の稲光も途絶えた。
獣は、少しだけ長く空を見た。
彼の中で、怒りの火は小さくなり、闘いの火だけが残っていた。
彼は背を向ける。
砂丘に影を落としながら歩き出す。
足跡はすぐに風に消える。
砂は、忘れるのが上手い。
けれど、砂の骨は鳴り続ける。
次の鼓動が、どこか遠くで準備されている。
◇
夕刻、臨時拠点。
砂を吐き出しながら、三人は机に紙を広げた。
フェンがペン先で地図の風紋をなぞる。
「熱と対流で静電層が形成、上層の寒気で放電。落雷は偶然ではない、環境の必然だ。彼は――」
「雷を、呼んだのか?」リーネが眉を上げる。
「違う。待った。待つことを学んだだけでも、もう“獣”から遠い」
ライルは報告書の“所見”欄に、短い語をいくつか置いた。
『放電状態、維持時間の延伸。怒気は制御的。
潜行への対処に適応。
礼節の挙動あり(致死打を避ける)。』
ペンが止まり、別の言葉が勝手に浮かぶ。
『黄金の猛風、砂上を渡る。』
詩だ。報告書には不要だ。
けれど、消せなかった。
フェンが横目で見て笑う。
「詩は、現実に勝つときがある」
リーネが無骨に伸びをして、天幕の布越しの空を見た。
「で、次は?」
ライルは視線を北東に送る。
空の色が違う。
熱ではない。冷たい高空の青でもない。
黒曜の、砕ける匂い。
「火山だ。山が、別の鼓動を始めてる」
砂の底で、角の王が低く息をしたように思えた。
礼は済んだ。
次の相手がいる。
記録の余白に、ライルはもう一行だけ付け足す。
『金色は終わりではない。
あの獣は、“楽しむほどに”伸びる。』
◇
夜。
砂は冷え、星は近い。
黒い獣は、風下の岩陰で立ち止まった。
口を開け、砂と熱の匂いを舌で確かめる。
胸の内で、ささやかな電が踊る。
怒りは、いま要らない。
呼べば、金は来る。
ただし長くは続かない。
空の火を、また借りに行かねばならない。
彼は身体を傾け、遠くの山脈を見た。
そこは焦熱の島、岩が赤く息をする場所。
純黒の獣は、牙を見せた。
笑いにも、咆哮にもならない、戦いの前の顔。
砂がわずかに鳴り、風が応える。
跳ぶ。
地平が縮み、星が流れる。
砂漠の夜に、雷はない。
だが、心臓はある。
彼の胸の鼓動が、次の雷を呼ぶ。
――山は、また鼓動する。
雷はそこに落ち、金色はそこから始まる。