二十一世紀後半、ナノマシンの実用化が秒読みまで迫った時代に、私は神様などという前時代の象徴を誘拐した。
ナノマシンの実用化に向けて治験という形で協力してくれている美少女が、カルト教団のアイコンとして祀り上げられていたからだ。
身を隠したつもりでも、カルトの魔の手は暴力的な憎悪を伴い、着実に私たちへと迫る。
理不尽な悪意に晒された私もまた、報復に神を殺す決意を新たにし───。
※本作の主要登場人物はVTuber朱灯となみさんの企画配信で作られたキャラクターを利用しています。

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■キャラクター原案
まずは視聴者のキメラ美少女を作ります【SUZUNONE Project/朱灯となみ】
視聴者のキメラ美少女をカップリングします【VTuber/朱灯となみ】




『およそ古今東西、ありとあらゆる支配体制は憎悪によって打倒されてきた。いくら完璧にバランスをとったつもりでも、その時代時代の正義に則っているつもりでも、必ず憎悪は社会に蓄積していく』

───上遠野浩平〈憎悪人間は怒らない〉

 


InCorrect Emotion

 こんばんは、こんばんは、こんばんは。

 

 赤灯(レッドライト)赤灯(レッドライト)と言うのですよ、お兄ちゃん。

 

 まだ昼間なのに『こんばんは』があいさつなのはおかしい? ふふっ。ごめんなさいです。つい日本時間で考えてたです。日本はちょうど、土曜日の二十三時ですね。そう、九時間先の時間なのです。

 

 急な話になってしまうのですが、お兄ちゃんにざんねんなお知らせがあるのです。

 

 いまお兄ちゃんは、憎悪の最先端に居るのです。お兄ちゃんの次の行動次第で、時代が変わるかもしれないのです。

 

 だからよく聞いて、よく考えた上で行動してほしいのです。

 

 犯人捜しをしてほしいわけじゃねーので、登場人物は匿名にさせてもらうですが、これから話すのは、赤灯(レッドライト)が生まれるまでの話。

 

 そして。

 

 ()()()()()の憎悪の話───なのですよ。

 

 

       ◇

 

 

「いーちゃんは、世界をふたつに分けるとしたら、何と何と答えますか?」

 

 助手席で身体を丸めた〝C〟が唐突にそんなことを宣った。

 

 運転中の私はほんの数瞬〝C〟を横目に見る。薄くて貧相な身体の主が、今どき珍しい裸眼でジッとこちらを見つめていた。

 

 靴を脱いだ細い足を抱えるように折り曲げて、合掌のように両手を合わせ、その親指に顎を乗せている。

 

 私は頭を使わず思いついたまま喋ろうとして、口の中がカラカラに乾いていることに気がついた。ハンドルを握る手の内は、汗でひどくぬるついている。

 

 どれもこれも、緊張のせいだ。

 

 自分がひどく緊張していることを、遅まきながら自覚する。

 

 その緊張を〝C〟に悟られまいと、ドリンクホルダーに手を伸ばした。常飲しているのはただの水だ。過度なカフェイン摂取が社会問題として取り沙汰されるようになってから、店頭に並ぶコーヒーやお茶の類いの多くはカフェインレスに変わってしまった。

 

 カフェインを抜くだけならまだしも、明らかに味も落ちている。

 

 安全を謳う、合成のフラボノイドドリンクが主体になったせいだ。

 

 過度な摂取でなければ別にいいだろと思う反面、定期的にカフェイン飲料を購入していると、健康推進系やカウンセリング系の広告に囲まれて生活する羽目になる。

 

 実際なった。

 

 最早生活の必需品と化したスマートグラスを通して世界を見ると、道路脇や建物の壁面など、至る所にAR広告が表示される。自己主張の激しいストーカーのようで、鬱陶しいことこの上ない。

 

 カフェイン税なるものの導入が国会で大真面目に議論されているニュースを見て、そのあまりの馬鹿らしさに、最近は水しか買わなくなってしまった。

 

 人を不快にさせる要素を排除した無色透明で唇を湿らせる。そして無機質に声を発した。

 

 ───世界を二分するならば、ね。

 

 ならば答えは。

 

「私とそれ以外」

 

 我ながら。

 

 愛想のない冷淡な声だと思う。

 

 けれどこのおざなりな響きは、なぜか〝C〟にはウケている。〝C〟は合わせた両手を蕾を形作るように少しだけ開いて、緩んだ口元を隠してしまった。

 

「何かおかしい?」

 

 冷淡を超えて刺々しい。

 

 私の回答を〝C〟が嘲ったわけではないと伝わっているのにだ。

 

 誤解を生む態度だとは重々承知。その上で、相手が〝C〟ならまあいいかとも思っている。言動を改める気は皆無だった。

 

 私の言葉に〝C〟は「はい」と頷いた。

 

「自分さえ良ければいいのなら、わたしのことはここで放り出していいのですよ」

 

「それは───」

 

 自分でもそう思う。

 

 周囲の風景に視線をくれる。先行車も後続車も居ない。道沿いに並んだ何かしらのリアルショップは、すべて冷え冷えとした夜の空気に溶けていた。ヘッドライトに照らされて輪郭を露わにするのも一瞬だけ。

 

 浮かび上がった街角は、すぐに冷たい夜闇へ沈んでいく。

 

 眠りについた街は、とても静かだった。

 

 聞こえてくるのは、私の車のエンジン音と〝C〟の話し声だけで。

 

 この冷たい世界の中で熱を持っているのは私たちだけなのではないかと、錯覚すらしてしまう。

 

 そんなひどく閑かで。冷気が忍び寄るような。星が瞬く夜に。

 

 どうして私は。

 

 コイツを連れて、家にも戻らず職場を飛び出しているのか。

 

 それこそ。

 

 私には───関係が無い。

 

 ───面倒をかけてすまないが。

 

 ───娘のことを、よろしく頼むよ。

 

 ハンドルを握る手に、祈るように手を包まれた感触と温度が蘇る。

 

 こんなまやかし───。

 

 さっさと振り払ってしまえばいいのに。

 

「私と、それ以外」

 

 舌の上で転がすように〝C〟が呟く。

 

「それは、質問の答えに───なっておりますか? いーちゃんは本当に」

 

 世界を二つに分けましたか、と〝C〟は微笑んだ。

 

「は? 分けてるでしょ。自他だよ。一番根源的な分け方だと思うけど」

 

「他者はまあ、居ますよ。わたしが今ここで急死しても、いーちゃんの存在は無くなりません。いーちゃんの人生は独立したものとして続きます。同様にこの車だって、人間が地球から居なくなっても、朽ち果てるまで在り続けるのでしょう」

 

「ちょっと」

 

 咄嗟に〝C〟の不謹慎な物言いを咎めてしまった。けれど〝C〟は意に介さず、言葉を紡ぐ。

 

「『自分』とは、本当に確固とした存在でしょうか」

 

「たったいま私の人生は独立したものだって、アンタが保証してくれたけど?」

 

「はい。いーちゃんという一個体の生命活動に、他者の存在は関係ありません」

 

「……言ってる意味がわかんないんだけど。その生命活動を続けてるのが『私』でしょ」

 

「そうですね。いーちゃんの肉体は周囲から独立して生きています。ですが、いーちゃんの言う『私とそれ以外』の()とは、自分の肉体とそれ以外の物質は別々だと宣言するだけの───そんな実存だけを指した言葉でしたか?」

 

 無論、『私』という一単語を、私はもっと多義的な意味合いで使っていた。

 

『私』の定義。『私』の範囲。それは本当に明瞭なのかと〝C〟は問うている。

 

「意外と、肉体だけを指して自分と言い表す人は居ないのですよ。身体はあくまで、()()()身体。身体は自分の付属物であり、主体ではない。自分とは」

 

 肉体よりも上位に位置しているものだと思い込んではおりませんか、と〝C〟は言った。

 

 ようするに。

 

 心だとか。精神だとか。スピリチュアルな話に持って行きたいのだろう。

 

 虫唾が走るし、反吐が出る。

 

「言葉の綾よ」

 

 口を開いた途端、()慳貪(けんどん)な冷めた言葉が飛び出した。

 

〝C〟に言われるまでもなく。

 

『私』と呼ばれるものがどんな波形をしているか。脳機能画像(fMRI)ではどう表示されるのか。感情の機微。賦活する部位。

 

 そういったことは〝C〟以上に熟知している。

 

 幻想を徹底して排したシステマチックな働きが頭蓋骨の内側に収まっているというのに、私は未だ心理などいうありもしない理に囚われている。

 

 自分への失望と〝C〟に諭される屈辱が混ざり合う。

 

「今どき流行らないのよ、精神主義なんて。ありもしないものに囚われ続ける趣味は私にはないの。繰り返すけど、自他以上の意味はないわ」

 

「頭の中身については釈迦に説法だと弁えてますよ。わたしよりもいーちゃんの方がずっと詳しいと思いますし」

 

 一応。

 

 これでも神経生理学を始めとした脳の働きを研究する施設の末席をけがす身ではある。

 

 仕事上どうしたって覚えなくてはならない専門知識は多く、多少は詳しくなったと自分でも思う。

 

 根本的に私は医者ではなく神経工学系の技術者ではあるけれど。

 

 研究所で行った数多の実験が、私より上の世代が宣う心の神秘性を(ことごと)く否定してくれて。私はそれに───とても安堵したことを覚えている。

 

「心なんて無い。いーちゃんの言うことは正しいのでしょう」

 

 けれど、と〝C〟は続ける。

 

「心───あるいは自我と呼ばれるものが本当に無いものだとしても、わたしたちは常に何かを判断しています。肉体の自動操縦に身を任せるのではなく、やっていいこととやってはいけないことの区別がつきます。その価値判断こそを自我とするなら」

 

 自我とは、他者によって規定されるものですよ、と〝C〟は言った。

 

「家庭。学校。地域。国。そういった社会に適合するため身につけた一般的なものの総称が、普段わたしたちが自我と呼んでいるものです」

 

「……つまり自我の本質は他者の付属物だって言いたいの? 他者なくして自我はないって?」 

 

〝C〟の論調に一定の理解は示せるが、私は素直に頷けなかった。家庭も、学校も、地域も、国も、私には苦いものしか与えなかった。

 

 私の生まれは、この国とは異なる島国だ。

 

 生家での生活は酷いものだった。

 

 聖書が読めること。大工仕事ができるだけの算数を理解していること。それ以上のことは知る必要はない。学校で学ぶ生物学(しんかろん)物理学(ビックバン)は洗脳教育だと、大真面目に語る大人しか居なかった。

 

 少なくとも、私が属していたコミュニティには。

 

 当時の私には教育を受ける権利すら満足に与えられていなかった。コミュニティの外へ窮状を訴えても環境は一向に改善されず、増えたものは身内からの折檻くらいだ。

 

 ───女のくせに。

 

 ───そんなに知識をひけらかしたいのか!?

 

 アイツらを。

 

 私は早々に見限った。

 

 このままでは奪われるだけだと思った。

 

 私が育むべき熱を。未来を。現実を直視できない弱者どもに搾取されて、私の命は(つい)えるのだと。

 

 だから連中を私の世界から排除したくて、親戚筋という細い縁を頼りにどうにか日本へ逃げてきた。無事に逃げ延びれたから、今の私がある。

 

 あんな時代遅れの不快極まるものが私の礎だとは───考えたくもない。

 

 仏頂面には変わりないだろうに、私が不愉快な記憶を想起させられたことを〝C〟は目敏く察したようであった。

 

「ふふっ。ごめんなさい。神経細胞や神経伝達物質の働きについてはいーちゃんの方が確実に詳しいでしょうけど、社会との相対的な関係となると、まだわたしに一日の長がありますね」

 

「……社会、ね」

 

 鏡を見なくても、自分が鼻白んだ表情をしていると自覚できる。

 

「いーちゃんは社会と折り合い付けるのが一見上手そうですよね」

 

「……うるさい」

 

 本質的には下手だと言われた。きっと、その指摘は的を射ている。

 

 けれどそれは、私に限った話ではない。

 

〝C〟だってそうだ。

 

〝C〟相手に社交性を発揮するのは早々に馬鹿らしくなって、円滑なコミュニケーションとやらは放棄した。

 

 なのに〝C〟は、私の冷淡な反応を楽しんでいる節がある。冷たくすれば冷たくするほど、なぜか私は懐かれた。

 

 一般論からはみ出していると判断するには十分だ。コイツだって、人をとやかくは言えない非社会的生物だろう。

 

 そうして。

 

 自然と一般論などというものを参照している自分に、またしても失望する。

 

〝C〟は言った。家庭、学校、地域。人はそういった社会から『普通』と呼ばれるものをインストールすると。

 

 間違っているとは思わない。けれど正鵠を射ているとも思えない。そうやって私を取り込もうとする普遍的なものとやらは───押しつけられるものだから。

 

 家庭が。学校が。地域が。社会が。勝手にインストールしてくるものだ。

 

 そんなやつらに私はインストーラーの実行権限なんて渡してない。なのに連中は好き勝手に、私だけの領土をゴミだらけにして去って行く。

 

 そいつらは、私の味方をするわけでもないのにだ。

 

 社会と折り合いを付けるのが下手なのは当然だ。そういう(しがらみ)や軛に捕らわれたくないから、関わり合いにならないようずっと逃げ続けてきた。

 

〝C〟と話していると理解できてしまう。

 

 私を蝕もうとするすべてから、私は全霊をかけて最大限足掻いたつもりではあるけれど。

 

 逃げ切ることも、断ち切ることも、私にはできていない。

 

 私はまだ、私を勝手に規定する大きな何かに囚われている。

 

 幼い頃に刷り込まれた馬鹿げた思想が、まだ私の中で生きている。

 

 口の中に苦渋が広がる思いだった。

 

 この冷たく蒙昧な世界に、私の熱はまだ奪い取られる運命なのだ。

 

「同じ質問でも、いま問い直せば違う答えが聞けそうですね」

 

 私が苦い感情を飲み下している最中に、ぬけぬけと〝C〟は言い放った。私の反応を見切っているような、楽しげな声音に腹が立つ。

 

「……だから、うるさいって」

 

 苦々しい呟きに続けて、そういうアンタはどうなのよ、と問いただした。

 

 結局。

 

 私は回答を保留した。世界を二種類に単純化するだけなのに。その内訳が私には思いつかなかった。

 

 私は。

 

『私』というものを思いの外信用しすぎていた。ありもしないものに、過ぎ去った時間と同じくらい囚われていた。

 

 その事実を───認めたくない。

 

 対照的に、問いを返された〝C〟は至極あっさりと答えを言った。

 

「男と女でしょう」

 

「は? アンタが」

 

 よりにもよってそれを言うのかと、私は目を見開いてしまった。

 

〝C〟の外見は線の細い女にしか見えない。けれど〝C〟は女ではない。かと言って、女装癖の男というわけでもない。

 

 正確を期すなら。

 

 ()()()()()()()()()()

 

〝C〟は所謂───両性具有と呼ばれる存在だ。

 

〝C〟は自分の世界を二つに分けた。けれどその中に、〝C〟自身は含まれていない。

 

 二分された世界の、外側に〝C〟は立っている。

 

 思わず投げかけてしまった視線の先で〝C〟は笑う。

 

「だってわたしは神様だから」

 

 ───神様。

 

 その単語を反芻するだけで、胸の内にまた苦い感情が蟠る。

 

 けれどすぐに煮え滾るような激情が、私の苦悶を焼き尽くした。

 

〝C〟は生まれ持った性別を理由に、カルト教団の偶像として祀り上げられている。

 

 らしい。

 

 今し方、私も初めて知らされたことだ。

 

〝C〟に対して無知だったのは、単に私が何も知ろうとしなかっただけ。

 

 分水嶺に立って初めて、自分から〝C〟の事情を知る気になった。

 

〝C〟に心酔した人間が、〝C〟の父親を殺してようやく、私の肋骨の内側に火が灯った。

 

 そうして私は。

 

 熱狂的な信者から。

 

 神様なんてものに据えられてしまった薄幸少女を───誘拐している。

 

 

       ◇

 

 

〝C〟は私が働く研究所に、治験希望者として訪れた。

 

 それが私と〝C〟の出会いだった。

 

「これは興味本位の質問だから聞き流してくれていいんだけど、なんでわざわざ治験なんてやってみようと思ったの?」

 

 助かってるのは私たちだから、とやかく言うことでもないんだけど、と私は淡々と言葉を連ねた。口を動かす傍らで、私は備え付けの冷凍庫から被験者のために用意されたアイスクリームを〝C〟に渡す。

 

 アイスクリームを受け取りつつ〝C〟は苦笑を浮かべて私の問いかけに答えた。

 

「興味本位という割りには、微塵もわたしに興味が無さそうですね」

 

「うん。まあ、そう」

 

 正直〝C〟がどんな人物かはどうでもよかった。

 

 どうでもよくないのは、治験の中に参加者と直接言葉を交わす必要があること。そしてその役目が私に回ってきたことだ。

 

 とりあえず会話のフックとして成り立ちそうな話題を考えた。その結果が、先ほどの問いかけだった。被験者相手なら誰にでも使える、この場限りの万能トピックだと思ったのだが。

 

 初めて言葉を交わす初対面の相手にすら、他者に対する興味の無さを一言目で見透かされる。

 

 それを恥じとも後ろめたいとも思わないのだから、我ながら本当に血の通った人間なのか不思議でならない。

 

「でもまあ、モノがモノですし、興味を持つなという方が難しくないですか? ナノマシンなんて」

 

 それでも〝C〟は私が投げたボールをちゃんと投げ返してくれた。

 

 事前に目を通したプロフィールを思い返すまでもなく、見た目通り〝C〟の方が私よりも年下だ。けれどこれでは、どちらが気を遣って会話をリードしているのかわからない。

 

 逆にボールを投げ返されて次の言葉に困っているのだから、私という人間のコミュニケーション能力の低さが露呈している。

 

「悪いけど、そっちはそっちで最新技術に興味があるようには見えないわ」

 

〝C〟の首に提げられた入館証と印字されたカードホルダーを一瞥し、彼女の裸眼に視線を戻す。

 

 入館証という存在を、私は今日初めて目にした。それだけ旧時代的な対応だった。

 

 昨今は仮想だけでなく物理も含めて、一時的なアクセス権はスマートグラスに付与するやり方が一般的だ。

 

 マイナンバー法の利点を国民が広く享受できるようになった頃、国際標準規格(ISO/IEC 18013-5)に基づいたカード代替電磁的記録が義務化された。

 

 要するに、スマートグラス購入時点で各個人のマイナンバーと紐付けられるようになり、公的身分証明書は眼鏡の形を取るようになった。

 

 まあ便利だ。口座の開設やら引っ越しの諸々の手続きなど、面倒な手続きはスマートグラス上から許可ボタンを一度押下してやるだけで完了する。

 

 スマートグラスはフレームに内蔵された極小スキャナによる網膜認証をクリアしないと操作できない。

 

 今回のような入館手続きだと、スマートグラスに登録されている氏名など必要な情報を選択開示してもらう。その上でアクセス権付与を許可してもらえれば、手続きは完了だ。スマートグラスのロックを解除できている時点で本人確認は実施済み。

 

 何時何分に誰それへどのレベルのアクセス権を付与したかログは残るし、退館時は敷地の外に出るだけで自動的にアクセス権は失効される。

 

 人間が逐一手を動かす必要は無い。

 

 入館証の貸し出しのために、わざわざ紙に名前と連絡先、約束相手の名前、訪問の目的、入館時刻を書かないといけない煩雑さを目にして、廃れて当然だと納得した。

 

 そして目前の〝C〟は、その廃れて当然の、私から見れば不便だらけの世界で生きている。

 

 自分の研究分野に興味を持ってくれるのは悪い気はしないが、それでももう少し段階を踏めと言いたくなる。

 

「スマートグラスも便利なんだろうとは思います。しかしここまで触れずに来たら、一つの世代を丸々スキップして、次世代のデバイスから触り始める方が面白そうではありませんか?」

 

「それならそれで、実用化されるのを待とうとは思わなかったの?」

 

「父から聞いていませんか? ナノマシンに興味があるのは本当ですが、それ以上にわたしはわたしの脳波に興味があります」

 

「聞いてはいるけど……」

 

〝C〟はこの研究を主導する〝先生〟のお子さんだ。〝先生〟曰く、珍しい脳波が取れる可能性があって、本人がとても乗り気なのだとか。

 

 具体的な理由については〝先生〟が言葉を濁したので、根拠は明確だが他人に伝えるのは憚れる類いだと推察した。自意識過剰な誇大妄想が由来なら、〝先生〟は治験に参加させないだろうから。

 

〝先生〟ならそう判断すると信頼している。だからこそ、その理由について詮索する研究員も出てくるのだろうと頭では理解できる。なのにそれでも、私は〝C〟に対して微塵も興味を抱いていなかった。

 

 データが取れるなら誰だっていいという思いが強い。

 

「もう察してると思うけど、私はただの一技術者。話術に秀でてるわけでもないし、気の利いたことも言えないと思う。多分一番歳が近い同性ってだけで選ばれたと思うから、担当変えてもらうなら今の内よ」

 

「アルツハイマーとか認知症を発症していないかのチェックが目的、でしたよね?」

 

「そう。今回治験してもらう沈着型(Deposition)脳内(Cerebral)生体インターフェース(Biointerface)───長いからDCBって呼ぶけど、DCBは私たちが新しく開発したナノレベルのブレイン・マシン・インターフェース。脳波や神経信号を検知するために、DCBを脳に蓄積させる。蓄積させる方法はDCBを混ぜた高脂肪食を食べること」

 

 ここまではいい? と、治験の概要をおさらいすると〝C〟は「はい」と頷いた。

 

 要するにこれですよね、と言って〝C〟は先ほど渡した高脂肪食(アイスクリーム)をスプーンで掬って口へ運ぶ。

 

 そのためらいのなさに、私の方が呆気に取られた。

 

 当然実験用のフェレットやサルを使って非臨床試験にはクリアしている。だから人間相手に治験をしている。けれど本当に人体に影響が無いかは、これから証明されるのだ。まさに〝C〟の身をもって。

 

「アルツハイマーがどうして起こるのか理解してる?」

 

〝C〟に呆れていたせいでもあるが、言った後で、同業以外にこういう聞き方をするのは良くないのだと思い至る。

 

 こっちは理解度の確認をしたいだけなのに、勝手に圧を感じてハラスメント行為だと後になって抗議してくる輩がこの社会には居るらしい。

 

 私の懸念とは裏腹に〝C〟は何も気にしていないように口を開く。

 

「一時期治療薬ができたとかでニュースで取り沙汰されていたのを覚えてます。脳の老廃物が排出されずにどんどん脳細胞の中に溜まってしまうことで起こるんですよね?」

 

「そう。でも溜まるのは老廃物だけじゃない。マイクロプラスチックとかもね」

 

 海洋のプラスチック汚染が深刻化してから半世紀以上の時間が経っている。人間の脳から検出されるマイクロプラスチック量は年々増加し、その量は健康な人間でティースプーン一杯分を超えた。

 

 特に認知症患者からは、健常者の五倍近い量が確認された。

 

「DCBも脳細胞の中に余計な物が溜まってるっていう原理は同じでしょ。それで本当に悪影響が出ないのかを確かめたいわけ」

 

 それがあなたの身体でという話になるわけなんだけど、と付け足してみたが、出ないといいですね~、と〝C〟はアイスクリームを食べる手を止めなかった。

 

「抗アルツハイマー薬として、そういう異物を脳から排出するのを助ける薬は創られてるけど、それが効く保証もないからね」

 

「疑問なんですが、プラスチックみたいな明らかに身体に悪そうな物が簡単に脳内に溜まるものなんですか?」

 

〝C〟の口振りは、私の脅し文句を何とも思っていないようだった。

 

「……まず、プラスチックは脂溶性物質を吸収・吸着する性質を持ってる。次に脳の約六割は脂肪によってできている。脳は身体の中で最も脂質を必要とする臓器と言っていい。プラスチックが吸着した脂質が脳に運ばれて、そのまま血液脳関門を突破するのよ」

 

 この辺りの原理はDCBにも流用している。DCBもまた親油性物質でコーティングしており、摂取されやすいように高脂肪食(アイスクリーム)に混ぜて被験者に提供している。

 

「血液脳関門、というのは?」

 

「血液中から害のある物を脳に入れないための保護機構。アミノ酸とかグルコースとか、決まった物質しか通さないはずなんだけど、さっきから言ってるプラスチックだとか、あとは……MRIで使われる造影剤とか? 脳内に異物が残留する事例は割りとあるのよ」

 

「意外と穴だらけなんですか? あまり保護できていないように聞こえますが」

 

「まさか。血液脳関門はかなり厳格よ。少し前まで狂犬病が致死率一〇〇パーセントの病気として恐れられてたのは、大体血液脳関門のせい」

 

 狂犬病ウイルスだけを的確に殺す薬品なら、いつの時代でも試行錯誤の末に創れただろう。問題はその薬品を脳に届けられないことだ。

 

 狂犬病ウイルスは末梢神経の末端から脊髄を通って脳に侵入する。そして脳内で増殖する。いかに特効薬を創ろうと、血液脳関門が薬効成分を通してくれなければ意味が無い。

 

「潮目が変わったのは、コロナウイルスの後遺症とされているブレインフォグの研究が進んだおかげね」

 

「集中力や記憶力が低下して、日常生活に支障を来すもの、でしたっけ?」

 

「そう。昔からブレインフォグの患者に血液脳関門の機能障害があることはわかってたんだけど、COVID……60辺りだったかな。その辺りでブレインフォグと血液脳関門の機能障害に相関関係があるって証明されたのよ」

 

「機能障害ということは、その厳格なバリケードが穴だらけにされていたんですか?」

 

「毒素やらウイルスが脳に入り放題になってたみたいね。で、それを正常な状態に回復させる研究が行われて、逆説的に必要な薬効をすり抜けさせる方法も確立されたわけ」

 

「保護機能を回復させる研究が、保護機能を無効化する手法にも通じたと」

 

 感心したように〝C〟は相槌を打つ。

 

 なんだか───ひどく話が脱線してしまった。

 

 会話の合間合間に〝C〟が食べ進めていたアイスクリームは、すっかり〝C〟の胃に収まっている。今の話に、〝C〟の食欲を減衰させる力は無かったようだ。

 

 空になった器をデスクに置いた〝C〟を見て、私は渋い顔をした。

 

 そんな私の表情を見てか、〝C〟はからころと笑い声を上げた。

 

「このアイスが認知症を引き起こす可能性が高いことは理解していますよ。だから担当者を決めてしまって、毎日顔を合わせる相手の些細な変化にも気づけるようにしたいわけですよね」

 

「そうね」

 

 そして本当に何の自慢にもならないが。

 

「そういう相手に、私は死ぬほど向いてない」

 

 こんな人間に自分の子供を任せるなよと〝先生〟にすら軽い苛立ちを覚えている始末だ。

 

「わたしはいーちゃんのことを気に入り始めてますけどね」

 

「なんでだよ。ていうか、なに? その〝いーちゃん〟って」

 

「親愛の表現です。名前、そう読んでもいいでしょう?」

 

「読めるけれど……。そんなあだ名付けてくるやつ、アンタが人生で初めてよ」

 

「あら。わたしもです。わたしもこれまであだ名で呼ばれたことは無いんですよ」

 

 きらきらと、なんだか期待しているような目で見つめられる。

 

〝C〟の視線を断ち切るように私は天井を見上げて、胸の内に溢れる面倒くささを吐息に乗せた。

 

「降りていい? この仕事」

 

 ダメですよー、と〝C〟は笑った。

 

〝C〟との初対面はこんな感じ。

 

 結局担当替えは起こらなかった。すぐに途切れると思っていた関係は、意外なほどに長続きした。

 

「いーちゃん。はやく出かけましょう」

 

 と、はしゃいだ様子の〝C〟に手を引かれることが幾度あったか。〝C〟とのやり取りは研究所内に留まらず、街中へ繰り出すこともしばしばあった。

 

 ───いや。

 

 自分の意思ではない。〝C〟に引っ張り出されたと表現するのが適当だ。DCBの定着率を見つつ、アイスを食べるだけの日々の中。そこで交わした雑談から、私がフランス製のプジョー車を乗り回していることを〝C〟に知られた。

 

 フランスは右車線で日本とは逆だけれど、輸入車は貿易相手の国に合わせて運転席の左右を変えている。私が乗る車も例に漏れず右ハンドルだ。

 

 むしろ、違うルールで動いている国に、自分たちのルールを押しつけるような左ハンドル車に対して、私は存在意義を見出せない。

 

 そんなだから、外車だからと言って物珍しさは然程無いと思っている。

 

 けれど〝C〟の琴線には触れたらしい。乗ってみたいと鬱陶しいほどにせがまれた。

 

 車は所詮車だろうに。

 

「幼い頃は、こうして母とよく出かけたんです。生活は楽じゃなくて、母の仕事に連れ回されてるようなものでしたけど、それでも、あの時間は楽しかったなぁ」

 

 そう言われてしまえば、さすがの私も閉口した。どの道研究所内では取れないデータ採取のチャンスだ。

 

 DCBの定着率が必要要件を満たすと、脳波の受信設備を後部座席に詰め込んで、〝C〟とドライブに出かけることが私の仕事の一つになった。

 

 あちこち連れ回されるわけではないけれど、〝C〟の趣味に付き合う機会は格段に増えた。

 

〝C〟は今どき珍しく、デッドメディアを好んでいた。

 

 ぺらり。ぺらり。と、紙が擦れる音を実際に耳にしたのは何年ぶりのことだっただろう。〝C〟は文庫本を持ち込んで、暇な時間は紙面に踊る文字を追っていた。

 

 本という形態が物珍しく映り、このときばかりは私から〝C〟に声をかけた。

 

「そういうのってさ、いま流通どうなってるの? リアルショップで買ってるのよね?」

 

「買ってはいませんね。借りてます」

 

「借りる? …………ああ。図書館」

 

 紙の本を借りられる施設を、少し考え込んでしまった。

 

 図書館自体は何度か利用したことはあるものの、私の場合はすべてオンラインサービスに限られる。

 

 古い本は著作権が切れた順にデータベース化され、新刊もほとんど入荷されている。とはいえ一度に閲覧権限をもらえるのは三冊までで、それも一週間の期限付き。その制約が面倒に感じて、読みたい資料は書店のプラットフォームから購入している。

 

 すべて電子書籍での話だ。

 

 そういう認識が強かったが、図書館ならば紙の本も取り扱っているのだろう。

 

 そう思ったのだけれど。

 

「図書館の物ではないですね」

 

 と〝C〟は言った。

 

「出版業界は半ば時代に逆行していまして。一昔前は出版・印刷・製本・販売と役割ごとに会社が運営されていましたが、今は出版社がすべて賄っています。電子書籍の比重が大きくなりすぎて、紙の本は添え物扱いです。それに伴い刷られる部数が減ってしまって」

 

「そもそもの発行部数が少ないんだから、儲けも減って、どこの会社も立ち行かなくなり、吸収だか合併だかは知らないけど、分業が一本化されたと」

 

「はい。紙の本の流通に限れば、明治初期まであった貸本屋の存在が近いでしょうね」

 

 明治て、と一瞬思った。そんな朽ち果てたシステムが現代で通用するのかと。

 

「出版社は全国の貸本屋にだけ紙の書籍を売り、貸本屋はレンタル料で儲けるのが常態化しています。現代で紙の本を欲しがる層はほんの一握りしか居ませんから」

 

 わたしも紙で読みたいだけで所有欲はありませんし、と〝C〟は言った。

 

「貸本屋から借りる意味ってある? 図書館にだってあるんでしょ? どっちも借りることには変わらないんだし、図書館で借りた方が経済的じゃない?」

 

「もちろん図書館でも借りれますよ。でも図書館の貸し出し手順はすべてオートマチックになっています。そのせいか、あまり唆られないのです」

 

 どういうことか訊ねると、貸し出しの流れは館内に設置された専用端末から借りたい本を指定して、配達ドローンが本を持って来るのを待つ。そういう仕組みになっているらしい。

 

 聞く限りだとおかしな点は感じられない。私の場合はリアルショップに赴くことがまずなく、ネットで商品を注文して配達されるのを待つだけだ。これと同じ過程が、図書館内で繰り返されているだけだとしか思わなかった。

 

「その点貸本屋は雑なんですよ。往年の書舗のように本棚に本を敷き詰めて、収まらない本は平積みにして、その中から好きに手に取って選べばいいというスタンスの店が多いです」

 

「……つまり何? 貸本屋だと紙の本をたくさん見れて触れるから、わざわざお金払ってるってこと?」

 

「ざっくり言うとそうなります」

 

〝C〟が貸本屋に通う理由はわかったが、困惑が勝った。〝C〟の言う魅力が理解できない。

 

 どうせ支払いは発生するのだ。私なら多少割高になろうとも、電子媒体で買い揃えてしまう。

 

「書かれてる内容は同じなんでしょ。紙と電子で違いでもあるの?」

 

 ありませんよ、と〝C〟は即答した。

 

「書かれている内容は同一です。電子書籍が売り上げを伸ばし始めた頃は、透過光がどうの反射光がどうのと言って、紙が優れているかのように主張する論調があったそうですが、今は科学的根拠は無いと否定されてますから」

 

「まあ、現役で使ってるあなたには悪いけど、半世紀以上前の骨董品(デバイス)って、重くて場所取って携帯に不便でしょ。アレを手に持って長時間集中するなら、紙の方がマシなんじゃない」

 

「はい。結局のところハード面が未熟だった。まだスマホなんてものを使っているわたしですら、これに尽きると思っています」

 

「それでも、デバイスを変える選択肢は無いのね。紙の方がいいんだ」

 

 はい、と〝C〟ははにかんだ。手で蕾を作るように両手を合わせて、緩く弧を描いた口元を隠してしまう。

 

「いーちゃんは普段何か読まれたりはしないんですか?」

 

「論文以外で?」

 

「文学とか、エッセイなどはどうでしょう?」

 

「読まないわね。そういうものには、食指がまったく動かない。読めば面白いんだろうなとは思うのよ。私でもタイトルを聞くくらい売れてる小説だってあるわけだし」

 

 それこそ、普段は鬱陶しいだけのAR広告とか。スマートグラス着用者の過去の購入品や興味のある分野から、購買意欲を刺激する関連商品を表示する機能だけれど。

 

 時折外れ値とでも言いたくなるような、過去一度だって興味を示したことのない商品がしつこくピックされることがある。

 

 そういうときは、それだけ世間で流行っているという証左に他ならない。

 

〝みんな〟がこれだけ好きなんだから、きっとあなたも気に入りますよ。と、マーケティングAIのアルゴリズムにすら同調圧力をかけられる。

 

 それが死ぬほど気に食わないから、私はAR広告で勧められた商品を購入したことがない。

 

 同時に。

 

 小説の類は、読んでどうなる、とも思ってしまう。

 

「実益がないとね」

 

「実益? 読書の有用性でしょうか」

 

「有用性……。そうね。実用性が伴わないと、行動に移す意義があんまり感じられないのよね」

 

 昔から、その手の機微には疎かった。

 

 例えば端末の待機画面を好きなアーティストやキャラクターに変える人は多い。同僚にも幾人かは居る。

 

 けれど私は。

 

 変えたところで、何がどう変わるというのだろう。

 

 そう、思ってしまうのだ。

 

 端末のスペックが上がるわけでもない。むしろ凝ったことをすればするほど、メモリの無駄遣いにしかならないだろう。

 

 微々たる量ではあるだろうが、無駄は無駄だ。

 

 得るものがない。

 

 どうせ作業中は目にしないのだから、バックグラウンドで動いている無用なアプリなんて、殺して回るに限る。

 

「論文にはなるべく多く目を通すようにしてるけど」

 

 それだって、書かれている内容は正直どうでもいい。私が携わっている業務にそのまま活かせる研究結果なんて載っているわけがないのだから。むしろ書かれていたら、余所と研究テーマが丸かぶりして後塵を拝したことになる。そっちの方が大問題だ。

 

 要は訓練なのだ。本当に急ぎで読まないといけないものが回って来たとき、速く正確に必要な情報を抜き取る練習。あとは単に、自分が書く側に回ったときのためのインプット。

 

 十分、実益に満ちた習慣だと言えると思う。

 

 翻って。

 

「小説って、全部嘘でしょ。エッセイにしたって、自分の記憶を都合良く改竄した信用ならない体験談じゃない。娯楽作品を否定するつもりはないけど、気晴らしがしたいなら代替手段はいくらでもあるわけだし。わざわざ読書に時間を割いたことは無いわね」

 

「いーちゃんはフィクションを楽しむのが苦手ですか?」

 

「まあ……苦手寄りなんでしょうね。知らない土地走って、知らない店に入って、適当におすすめの料理でも食べた方が、満足度は高い気がする」

 

「いいですね。行動派というか、実体験重視というか。身体を動かして(さわ)れる世界しか信用していない感じ、とてもいーちゃんらしいと思います」

 

「馬鹿にしてる?」

 

「ゲーム内課金にお金を支払う行為を見下してそう」

 

「馬鹿にしてるわよね?」

 

「褒めています。何だかんだ言って、結局肉体を通してしか知れない世界がわたしたちの出発点ですからね。当たり前のことを正しく意識できているのが、いーちゃんの魅力だと思いますよ」

 

「私が物質主義者のきらいがあることは認めるけれど……。でもあなたは違うんでしょう?」

 

「そうですね。実際に見て聞いて触れることが最も価値のある情報だとは思いますが、その情報を処理するのはつまるところ脳じゃないですか。わたしたちが知る世界はあらゆる受容体から受け取った信号を脳が再構築して補完したものに過ぎません」

 

 少しばかり感心した。

 

 こんな研究所へ治験に来るだけあって、クオリアについては一家言持っているのかと。

 

 色覚異常だったり、相貌失認であったり。

 

 何らかの脳の機能障害によって、他人と見ている世界が劇的に異なっている人は少なからず居る。

 

 将来的にはDCBがそういった疾患の矯正器具になる展望もある。

 

 クオリアの例え話でよく言われるのがリンゴの色だ。リンゴの色は赤いけれど、この赤色は本当に周りが見ている赤色と同じなのだろうかというもの。赤色と青色の見え方がその人の中で入れ替わっていたとしても、それを知る術も、証明する方法も存在しない。

 

 究極的に、この宇宙に色というものは存在しない。

 

 波長が異なる電磁波が飛び交っているだけだ。

 

 特定域の電磁波が眼球に飛び込むことで、私たちの脳が勝手に色というものを作り出しているに過ぎない。

 

 本来存在しないものを、私たちの脳は都合よく作り出してしまう。

 

 けれどこれは、物質主義者的な私の世界の捉え方だ。当然ながら〝C〟は私とは異なる考え方をしている。

 

 珍しく、私は他人に対して興味を抱いた。

 

〝C〟が見ている赤いリンゴが、私が見ている赤とどのくらい違っているのか、確かめたくなってしまった。

 

「知らない街を車で走り、知らない飲食店に入って、初めてのメニューを食べる。先ほどいーちゃんは気晴らしの手段としてそう仰いましたよね?」

 

「ええ。言ったけど」

 

「その体験はいーちゃんだけのものでしょう。吸った空気も、嗅いだ匂いも、料理の味も、すべていーちゃんの身体の反応です。わたしはいーちゃんと同じ目も耳も鼻も舌も肌も持っていないから、いーちゃんと同じ行動をしても、いーちゃんと同じ体験はできません」

 

「でしょうね」

 

 ですが、と〝C〟は続けた。

 

「いーちゃんが認識している体験は、脳が再構成したものに過ぎないのです」

 

 料理の色も味も匂いも温度も、何らかの数値に依って表すことはできる。けれどそれをどう感じたのか証明する術はない。

 

 それは脳が勝手に作り出した、この世界には存在しないまやかしだから。

 

「だからこそ、いーちゃんが逐一感じたことを言葉にしてくれれば、わたしはいーちゃんと同じ体験を思い描くことができます。すべて───」

 

 虚構なんですもの、と〝C〟は笑った。

 

「料理という物質が脳に与えた反応が他者と完全に同一になることは決してない。けれど赤いリンゴが甘かったという感想から味を想像することは、わたしにもできるでしょう?」

 

 なおも〝C〟は持論を展開する。

 

「いーちゃんが見ていたい世界は厳格な物理法則だけでできています。原因と結果が明瞭で、なるようにしかならない、意味が存在しない世界。けれどわたしたちは、その世界へ無いはずの意味を見出します。ありもしないまやかしを空想して、創造します。そして面白いことに、このまやかしは───」

 

 伝染します、と〝C〟は言った。

 

「言葉によって」

 

 言葉。情報を伝達するためのツール。ただの音の羅列が、複雑怪奇な意味を成す人間のまやかしの集大成。

 

「わたしたちの世界は言葉によって創られています。だから言葉を取り込むという行為は、他者の内的世界を疑似体験することに他ならないとわたしは考えています。わたし一人では不可能な世界の拡張を可能にする。それが、わたしが本を読む理由です」

 

 実体験ではなく、言葉によって見聞を広める。〝C〟の主張を理解はする。けれど彼女の言い様に私は眉を顰めた。

 

 なぜならそこには、嘘しかないからだ。

 

「フィクションは当然虚構だけど、そもそも言葉そのものも虚構、私たちが見ていると()()()()()()()世界も虚構。一体どこに、(じつ)があるというの?」

 

「実ですか。そんなものは」

 

 ありませんよ、と〝C〟は答えた。

 

「実こそが現実。わたしたちが見ている世界の外側で運行しているもの。そしてそれこそが、いーちゃんが正しく見ようとしているもの───ではありませんか?」

 

 実は私たちの外側にしかない。その言葉を私は何度も頭の中で咀嚼した。

 

「…………そう。私たちの中には無いのね。無くても───」

 

 いいのか。

 

 腑に落ちた思いがした。納得が胸の内にある。どうせそれらもすべて私の脳髄が作り出しているまやかしでしかないのだろうけど。

 

 人は思考に縛られている。そして思考とは言葉である。言葉は───虚構に過ぎない。

 

 幼い頃、嫌と言うほど読ませられた一節が、今になって初めて私の中で血肉を得た。

 

 ヨハネによる福音書、第一章第一節。

 

 ───初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。

 

 殺したいほど憎い相手に───もう少しで手が届く。

 

 そんな実感が、確かに私の中にあったのだ。

 

 DCBの研究を続けてきて良かったと、心から思えた。

 

 

       ◇

 

 

「世界と世界じゃないの?」

 

「はい? 何がですか?」

 

「さっき車の中で話したやつ。世界を二つに分けたら、世界と世界になるんじゃない? 少なくとも、アンタならそう答えそうって思っただけ」

 

 人が殺される瞬間を───初めて見た。

 

 凶刃に倒れたのが恩師ともなると、殊更だ。

 

 私が目にした瞬間はまだ息があったと思う。けれど搬送先の病院で亡くなられたと、ニュースサイトの速報に書かれていた。

 

 どうしてこうなったのだろう。そう思う気持ちは拭いきれない。けれど現実感に欠けているわけではない。

 

 女の人の泣く声が聞こえませんか? そう言って〝C〟は立ち止まった。

 

 研究所に併設されたカフェテリアに響いた悲鳴。机と椅子を押しのけて(くずお)れる人影。大きな食器の破片が赤く濡れて。床タイルに広がる血だまり。

 

 そして。

 

 ───かみさま!

 

〝C〟の視線に気づいた瞬間、満面の笑みでこちらに駆け寄ろうとした狂人の曇りなき(まなこ)。知性に欠けた瞳には覚えがあって、生理的な嫌悪が湧いた。

 

 犯人は迅速に駆けつけた警備員に取り押さえられていたけれど。

 

 私は反射的に〝C〟の手を引いて、降りたばかりの車に乗り込んで車を急発進させた。

 

〝先生〟は。

 

 こうなることを予感していたんじゃないかと思う。

 

〝C〟の治験経過は順調だった。目標にしていたDCBの定着率を超えても体調は安定していた。

 

 様々な状況の脳波を取ることを理由に課せられていたノルマ───運動や睡眠、ちょっとしたゲームや料理など───を恙なくこなして、最近はめっきり自由時間ばかりが増えていた。

 

 あまりにも異常が無いので、入院治験から通院治験に切り替えてしまってもいいのではないかという話が出るくらいだ。

 

 今日の業務も〝C〟の書舗巡りに付き合って終わるはずだった。

 

 貸本屋は基本的に個人経営だからか、店ごとに店主の趣味が色濃く反映されるらしい。私という足を得た〝C〟は活動圏を大きく広げて遠征に繰り出していた。

 

 経費精算などの雑務が溜まっていたこともあり、出発は午後になってから。一応治験の責任者であり、〝C〟の親御さんである〝先生〟にもミーティングを兼ねて一日のスケジュールを報告する。

 

 出発が遅くなる割りに少し遠出するから帰りは定時を回るだろうが、極端に遅くなりそうなときな別途連絡します、とそんなことを説明した。

 

 ───仲が良さそうで安心したよ。

 

 と、〝先生〟は穏やかに笑っていた。

 

 ───正直に告白するけれど、君には娘と親しくなってほしかった。仕事だとか関係なく、友人になってほしかったんです。

 

〝先生〟の優しげで穏やかな声音に、私は曖昧に頷くことしかできなかった。どうして今更、そんなことを言うんですか。

 

 ───打算です。俗に、神と呼ばれる存在を嫌っているあなたなら、娘の力になってくれると思ったからです。

 

 それから私は〝C〟の境遇を聞かされた。

 

〝C〟が生まれつき特異な体質を持っているらしいこと。そして〝C〟の母親が、その体質を〝C〟の個性だと受け入れられなかったこと。

 

 解決しなくてもよい問題のために、方々を駆けずり回り、最後はカルトに行き着いたのだと言う。

 

 正直言って。

 

 この時点で私は宗教アレルギーが出かけていた。不快さを多分に感じていたと言っていい。

 

 けれど私が声を出す前に、私は〝先生〟に手を取られた。両手で包み込むように手を握られる。

 

 ───面倒をかけてすまないが。

 

 ───娘のことを、よろしく頼むよ。

 

 掌から伝わる温かさは、親が子を案じる温度をしていた。それは───私が知り得なかった熱だった。

 

 だから、絆されてしまったのだろう。

 

 何よりも。

 

 在学中からお世話になっている恩師から頼られて、悪い気にならなかったのは事実だ。

 

 唾棄すべき存在と〝C〟を通して肉薄しているというのに、私は〝先生〟の頼みに頷いていた。〝C〟を託されたとすら感じていた。

 

 意気揚々と出かけたところで、目的の貸本屋が休みであることがナビアプリに示されていた。事前確認の甘さに〝C〟と共に苦笑いして、予定よりも格段に早く研究所に戻ってきた。

 

 そこで。

 

〝先生〟は刺された。

 

 刺されて───死んでしまった。

 

〝C〟の境遇を事前に聞いていたおかげなのだろう。〝C〟を連れて逃げることに躊躇いは無かった。〝先生〟との約束が私を突き動かしていた。

 

 国は違えど。

 

 連中のしつこさを、私は十二分に知っている。一先ずほとぼりが冷めるまで(けん)に回れる安全地帯が必要だった。

 

「初日になぜ治験に応募したのか、その理由をお訊ねになられましたよね?」

 

 助手席に座った〝C〟が、遣る瀬ない表情のまま口を開いた。

 

「ナノマシンに興味があったことは嘘ではありません。けれど、実態としては入院治験を使って雲隠れしたかったというのが正しいでしょう」

 

 知らせる必要は無いと思って黙っていましたが、わたしはあるカルト教団の象徴として扱われているのです、と〝C〟は言った。

 

 それは───。

 

「あらましは、〝先生〟から聞いてるよ」

 

「そう、ですか。ご存じでしたか……」

 

 いつもと違って〝C〟の声音には哀愁が漂っていた。その陰鬱とした響きには、運転中の私の視線を吸い寄せるだけの力があった。

 

 憂いを帯びた眼差しは、〝先生〟が刺された瞬間を目撃したときと同質のもので───。

 

 その目を見ていると、私の方が怒りを抑えきれなくなりそうだった。

 

 正しく怒るべきは───〝C〟の方だろうに。

 

「わたしは───両性具有です」

 

「は? 両性って……アンドロギュノス?」

 

「はい。雌雄同体ですね」

 

〝C〟の告白に驚く前に、納得感の方が勝っていた。

 

〝先生〟は〝C〟から特別な脳波が取れるかもと言っていた。その体質というのは、アンドロギュノスに由来していたわけか。

 

「母は───生まれながらにどっちつかずのわたしのことを不憫に思ったそうです。どうにかする手段がないのか、解決策を探してしまったのですね」

 

 他人事ながら嘆息した。娘の体質を個性と受け入れられなかったのは、まあいいとして。行き着く先がカルトなのかと。

 

「漠然とよくない系の宗教とは聞いてるけど、実態はどんな感じなの?」

 

「わたしが入信する前は、アブラハム系宗教を源流として、今の行き過ぎた科学社会に警鐘を鳴らす自然回帰主義とでも言うべきものでした」

 

「行き過ぎた、ね……」

 

 ふん、と鼻で嗤った。

 

 有史以来、科学はずっと地続きだ。先人たちが一段一段積み上げてきた石段を利用させてもらっている。そしてその頂きに、私たちも新たな石段を積み上げる。自分たちの研究が、後の誰かの礎になることを祈って。

 

 反知性主義者どもは、その程度の想像すら働かない。

 

 天高く聳える階段を前に、登る前から心が折れるのはそいつの勝手だ。けれど連中は、知識の継承を妨害する。先人が少しずつ積み上げてきた遺産を破壊しようとする。

 

〝C〟の事情を聞けば聞くほど、私の思考は刃物のように冷たく、戦いに臨む形へと変じていく。

 

「その自然回帰主義の中に、わたしの存在が心霊主義を盛り込んでしまいました」

 

「かみさま───って、随分直球で呼ばれてたわね」

 

 舌打ちが漏れた。全く以て───。

 

「馬鹿らしい」

 

 思考はどんどん冷え切っていくのに、胸の内だけがぐつぐつと煮え滾っている。

 

「超常的な存在や原初の人間は、どの神話でも両性具有として書かれることが多い。理由はこの現実には無い完全性を示しているから。つまり完全性を備えて生まれた〝C〟こそが、この不条理な世界を救済する。とか、どうせその程度の理由付けでしょ」

 

「いーちゃんの、仰るとおりですが……」

 

「つまり七日もかけて不完全な世界しか創れなかった全能気取りを批判してるわけだ。グノーシス派の主張に乗っかってるわけだけど、きっと理解はしてないんでしょうね。……ホント、おめでた。あんたらの頭の中にはもうすでにお花がいっぱい咲いた楽園があるっていうのに」

 

 弧を描く唇の隙間から、隠そうともしない冷笑がまろび出た。

 

 知らず、握り込んでいたハンドルから力を抜く。ステアリングに影響が出ないよう、燃え盛りつつある憎悪を凝縮して外に漏れないよう閉じ込めてしまう。

 

 奥歯を噛み締めた。自分の内側にある熱を冷やすのは昔から苦手だ。生き物は熱を持っている。けれど世界は冷たいものだ。フロントガラス一枚隔てた先の夜気のように、私から熱を奪って凍えさせる。

 

 私の人生は、半ばこの熱を奪われないよう戦うものだった。

 

〝C〟は───。

 

 何をどこまで、奪われたのだろう。

 

 横目に〝C〟を見る。

 

〝C〟は私を見ながら、パチクリと目を瞬かせているようだった。

 

「いーちゃんがこの手の話題にお詳しいとは存じませんでした」

 

「別に」

 

 温度の無い硬い声音で私は応じる。

 

「ファンよりアンチの方が詳しいなんて、どの界隈でもよくあることでしょ」

 

「いーちゃんが仰るとおりの理由付けで、教団は心霊主義の教義へと変遷しました。誰にとっても誤算だったのが、わたしの母の存在です。一信徒に過ぎなかった母は、わたしを産んだというだけで周囲から認められ、敬われ、崇められるようになりました」

 

 かみさまを産んだ───聖母として、と〝C〟は言った。

 

「立場は人を変えます。権力の中心が変われば組織も変わります。そして組織の中には変化を受け入れられない方も居ます。これが普通の会社であれば転職なりすればいいだけでしょうが、彼らにはもう受け皿がありません」

 

「……まさか、自然回帰派と心霊派で割れてるわけ? いやいや。入信したのってアンタが生まれてすぐの頃でしょ。二十年近く時間があったらその辺の問題は解決していて然るべきじゃない?」

 

「わたしの浅慮でもあります。入信当時は、両性具有(わたし)をシンボルとして扱って、未開拓の層を引き込もう程度の考えでした。わたしの言葉が達者になるにつれ、わたしと直接言葉を交わしたいと言う信者が増え、わたしは───」

 

 救いを求める彼らに、適切な言葉を与え続けてしまったのです、と〝C〟は言う。

 

「救いって……多少話した程度で現実が変わるわけでもないでしょ」

 

「現実の捉え方なら変えられます。むしろ言葉のみが、現実を歪められる力を持っているのです」

 

「前も、こんな話をしたわね。言葉は虚構で、言葉で創られている主観も虚構。無いはずのものを有ると見せかけているだけだから、好き勝手に弄くり回せる」

 

「そうです。例えばですが、躓いて転ぶことは良いことでしょうか。悪いことでしょうか」

 

「まあ、悪いことでしょう」

 

「では転んだ先で、車が猛スピードで目の前を横切っていったとしたら?」

 

「そのまま歩いていたら撥ねられていたかも、とは思うかもね」

 

「繰り返しますが、転んだことは悪いことでしょうか」

 

「その瞬間だけは、転んで良かったと思うでしょうね」

 

「はい。転んだ事実は変えられませんが、他の事象と結びつけてやったり、見方を少しずらしてやるだけで、凶兆は容易く吉兆へ転じます」

 

「悪く受け止めるはずだったことを、良い方向に受け止めさせたの? よりにもよって、お前は不幸だって思い込ませて、幸福になるために金品を支払わせるカルトの中で?」

 

「そうです。わたしは、信者の皆さんから───」

 

 教団がかけた呪いを解いてしまったのです、と悔いるように〝C〟は言った。

 

「結果として、わたし個人を崇拝する層。わたしと話すための窓口になった母を聖母として担ぎ上げる層。単純に既得権益を守りたい層。見事に分裂を招いてしまいました」

 

「火薬庫かよ……」

 

「目の前の人には向き合えても、それが後々どういう影響を及ぼすのか、わたしは想像すらしていませんでした。この煙たい状況を知った父が、入院治験という形でわたしを匿ってくれたのです」

 

「で、アンタの信奉者が暴走して、アンタを教団から奪った憎き〝先生〟へ天誅を下した、と」

 

 はい、と消え入りそうな声で〝C〟は頷く。

 

 馬鹿しかいないのか、と私は悪態をついた。

 

 こんな面倒極まりない事情を聞いた上で〝C〟を放り出そうとしない私を含め。

 

〝C〟をここで放り出せば、私が私を許せなくなる。そんな確信があった。

 

 だから〝先生〟に託された通りに、私は〝C〟との逃避行を続けた。

 

 どこに逃げるべきか一考し、真っ先に思い浮かんだのが大学時代の同期(クズ)の顔。

 

 ちょうどいい隠れ家を当てにして、私は車を走らせた。

 

 走行距離を示すメーターの数値が増えるほど、町並みは見覚えのあるものに変わっていく。初見の真新しい住居が並んでいようと、区画までは変わっていない。かつて何度も往復した道路に沿って、最新の轍を刻みつける。

 

 そして目的地である同期の家に到着した。

 

 玄関脇の空っぽの駐車スペースへ、私は勝手に車を停める。夜も深まった時間帯に駐車スペースが空いているのなら、どうせ誰も使っていないのだろうと高を括った。

 

 この時点で不法侵入。大抵の家屋に常設されている警備システムから警備会社へ向けて、セキュリティアラートが発報されているかもしれない。

 

 特に気にせず、私は〝C〟を促して車を降りた。人の家を訪れるには非常識な時間だと重々承知した上で、私はインターホンを鳴らす。そして玄関口に設置されたセキュリティアイを睨むように見た。

 

 受け答え一つしないまま、がちゃん、と玄関扉のロックが解錠された。

 

 ドアが開いて、これから寝るつもりだったと言わんばかりの無防備な格好をした女が顔を覗かせる。

 

「おー、お久ー」

 

 私の顔を見た途端、彼女は腕を広げて近づいてくる。

 

 その抱擁を、私は甘んじて受け入れた。

 

「あ゚はー。相変わらずガリガリだー。懐かしいなー、このギロみたいに浮き上がった肋」

 

 私の肋骨の凹凸に、コイツはつぅーと指を這わせた。碌でもない感触に身の毛がよだつ。在学中のあの頃なら、問答無用で蹴りを入れていたと思う。

 

「追われてるかもしれないの。一旦中に入れてもらえない?」

 

「あー、厄介事?」

 

「そう」

 

「突発的な短期入居希望って感じ?」

 

「そうよ」

 

 私が単調に頷いていると、彼女は喉奥で「んふふ」と笑った。

 

「えー、頼ってくれて嬉しー」

 

 私から身体を離して、彼女は所在なさげにしている〝C〟に舐め回すような視線を送った。その口元はチェシャ猫のようににまにまとひん曲がっている。

 

「いいよ。上がりなよ」

 

 アポも無く突然家を訪問した私たちを、彼女はにやにや笑いながら受け入れてくれた。

 

 家がそれなりに太くて好き勝手していい物件を持っている彼女は、貧乏学生を中心にシェアハウスを提供してる。

 

 同類(クズ)を嗅ぎ分ける才能に恵まれているのか、彼女のシェアハウスはモラルが低い。

 

 モラルというか、主に貞操観念についてだが。

 

 入居者は女性だけに限定している癖に、何故か他の入居者全員と寝た女がかつては居た。かつてと言うか、定期的に居るらしい。刃傷沙汰に発展したこともあるそうだ。

 

「ちょうど今一部屋空いてるんだ。ある程度の事情を教えてくれるなら、特別にふたりで住んでいいよ」

 

 昔馴染みがトラブルの種を抱えて出戻りしたら、面白がって門前払いはされるまいとは思っていた。事実その通りになったから、私は胸を撫で下ろした。

 

 かつて私も住んでいたシェアハウスとは違って、大家の実家には数えるほどしか足を踏み入れたことがない。それでもリビングに通されると、在りし日の馬鹿騒ぎが想起されて、昂ぶっていた防衛本能が鎮まっていく。

 

 そしてソファに腰を落ち着けた私たちは大家に、掻い摘まんで事情を説明する。

 

「え!? きみふたなりなの!? マジ?」

 

 大家は半笑いで〝C〟をまじまじと見る。

 

 貞操観念が終わっているシェアハウスを管理しているような人間だ。住人と比べても性に奔放な筆頭がどこに食いつくか予測できなかったわけではない。

 

 けれど。

 

「ねね。触ってみてもいい?」

 

「構いませんよ」

 

 ここまで明け透けに頼み込むとも、ノータイムで〝C〟が応じるとも思ってもみなかった。

 

「おい」

 

 ドスの利いた声音が、私の口から飛び出していく。

 

「あっはっは。じょーだんだって。いくらシェアハウス内はポリアモリー的な気質が強いからって、初対面で人の彼女を寝取ったりしないよ」

 

 だから安心してね、と言わんばかりの目配せを大家から送られて、私の眉間に皺が寄った。

 

 お詫びってわけじゃないけど、と大家は前置きして、

 

「真面目な話ね。警察にはもう牽制かけてるの?」

 

 と言った。

 

「警察?」

 

「しーちゃんがカルトの神輿で、彼女を父親から奪い返そうとして起こった事件なら、とりあえず捜索願は出すでしょ。図らずも誰かさんが攫って行方不明になってることは事実なんだから。今なら事件性有りと判断されて、特異行方不明者にカウントされるかもよ」

 

「同じカルトのメンバーが父親を殺した当日に失踪だなんて、ただの家出とは思ってはくれないか……」

 

「ま、普通に一回話を聞こうとはするでしょ。そうなったら、探偵や興信所に高い金払わなくても、警官が勝手に見つけて、親元まで勝手に連れて来てくれるわけ」

 

「……牽制とは、どのようにすればよいのですか?」

 

〝C〟の問いかけに大家は「ちょい待ち」とだけ答えて自前のスマートグラスを操作する。

 

 大家から「研究所の住所ってどこ?」と訊ねられたので、スマートグラス経由で所在地情報を連携する。

 

「おっけー。研究所最寄りの警察署にある人身安全対策課の番号連携するね」

 

「ここに、何を話せば……?」

 

「洗い浚い。きみらに後ろ暗いところは無いんでしょ? じゃあ相手の信用できないところを言って、もしも自分の捜索願が出されても受理するなって伝えないと。こういうのってロートルだから、直接署に来て本人確認させろくらいは言われるかもだけど」

 

 その助言に従って〝C〟はすぐに警察署へ電話をかけた。古い映像作品くらいでしか目にしないタッチパネル式の旧型デバイスを操作する姿を、つい物珍しく眺めてしまう。

 

 旧型デバイスが現役だった頃、こういった窓口は人が直接対応していたらしい。署員頼みだったから夜間は繋がらなかったそうだが、今はAI発展の恩恵により、常に窓口は開いている。

 

 通話がつながり〝C〟は受付AI相手に事情を話し始める。

 

 自分はすでに成人しており、自分の意思で家族のもとを離れるのであって、事件性は無い。だから仮に捜索願が出されたとしても受理しないでほしい。むしろ父を殺した殺人犯と母がカルトでつながっている以上、信用できる要素が無い。母に一切を知らせないと約束してくれるなら、最寄りの警察署に伺うことくらいはする。

 

 そういったことを伝えていた。

 

「これってどこまで効果あるの?」

 

「気休めにはなるでしょ。さっきも言ったけど、金さえ払えば人捜ししてくれる団体なんていくらでもあるわけ。その中でも、一番逆らいづらい国家権力に遅延行為かませるだけでも儲けものじゃない?」

 

 警察のせいで事態が悪化したら、公安委員会苦情と監察苦情を入れることを忘れないようにね、と大家は言った。

 

「じゃあはい」

 

 忠告を告げて満足したのか、大家は私たちにシェアハウスの鍵を渡した。

 

「……ありがと」

 

 差し出された鍵を受け取ると、私は〝C〟を連れて大家の居宅を後にした。

 

 そしてその隣家。懐かしの勝手知ったるシェアハウスへ足を踏み入れる。

 

 まさか、出戻りするとは思ってもみなかった。この家で過ごしていた時間は、それなりに楽しくはあったけれど、人生における二番目の汚点と言って差し支えなかったから。

 

 けれどだからこそ、隠れ家には適していると思う。

 

 この家と私のつながりを辿れるとは思えない。ましてや〝C〟とのつながりなんて絶無なのだ。

 

 ずかずかと廊下を進むと、共用空間で屯している二人が居た。軽く入居の挨拶をすると、こんな時間にホントに来たと言わんばかりの目を向けられる。この短い時間で大家はきちんと新規入居者の通達を済ませていたようだ。

 

 手早く、共同生活のためのルールを確認させてもらった。私が居た頃と特に変化はしていない。彼女たちに礼を言うと、私は〝C〟を連れて、トイレやお風呂の場所を案内した。

 

 そして大家から聞いていた部屋に〝C〟を連れ込む。

 

 ふう、と人知れず息が漏れた。

 

 ずっと張り詰めていた糸が、ようやく緩んだように思う。

 

 不思議だった。

 

 この部屋には、まだ前の住人の痕跡が色濃く残っている。ローテーブルや、衣装ケースの上に置かれたままの雑貨類。唐突に前触れもなく消える住人がいるから、きっとここに住んでいた人もその類いだったのだろう。

 

 家具付きというのは正直助かる。生活に必要な物を一から揃えるのは骨が折れるし、何より寝具が既にあるのがいい。

 

 私は三つ折りにされた布団を広げて、ジャケットに皺が付くことも厭わず寝転がった。

 

 現実を忘れて泥のように眠ってしまいたいところだが、やるべきことと考えるべきことはまだまだある。卑近なところで言うと、勢いで飛び出した弊害で、替えの下着一つ持っていない。

 

 私は部屋に入って立ち尽くしたままの〝C〟に呼びかけた。

 

「私の分とまとめて買っちゃうから、服と下着のサイズ教えてよ」

 

 スマートグラスに収めた〝C〟の立ち姿から、同系統の服装をAIに選別させる。それを一括で注文した。明日の昼までには届くだろう。

 

 身の置き場に困っていた〝C〟も、やがて遠慮がちに無造作に置かれていたクッションの上へ腰を下ろした。

 

 部屋主が居ないとは思えない生活感あふれる部屋で、どこまで勝手な振る舞いをしていいのか困るよな、と内心でうなずく。昔は私もそんな感じだったと思う。昔もというか、方針の無い無秩序さに困っているのは現在進行形だった。

 

「これからどうしようか……」

 

〝先生〟は教団から〝C〟を匿っていた。けれど〝先生〟が殺された以上、〝C〟の居所が割れたのは確定だろう。研究所から逃げるのは必須だった。

 

 けれど逃げ続けるためには───。

 

「アンタの頭の中にあるものが問題よね」

 

 絡み合った視線の先で、〝C〟の瞳が不安げに揺れている。

 

 今日一日のことを思い返す。挙げ句、知らない場所に連れ込まれているのだから、不安になるのも当然だ。

 

「世界と世界じゃないの?」

 

「はい? 何がですか?」

 

「さっき車の中で話したやつ。世界を二つに分けたら、世界と世界になるんじゃない? 少なくとも、アンタならそう答えそうって思っただけ」

 

 車中で交わした会話よりも、幾分か和らいだ声音になった。我が事を他人事のように自覚する。久しぶりに会った昔馴染みのおかげなのか。今日初めて入ったこの部屋をもう自分の砦だと思って安心しているのか。どう理由をつけても、焦りが落ち着いたという事実に腹立たしさを感じてしまう。

 

 私の問いに〝C〟は「よくおわかりですね」と微笑んだ。

 

「リンゴを切ったらリンゴが右半分と左半分に分かれるだけですよ。片方がオレンジに変わることはありません」

 

 だから世界を二つに分けたって、世界と世界にしかならないでしょう、と〝C〟はそんな戯言を口にした。戯言はすぐに「冗談です」と撤回された。

 

 身内があんな不幸に見舞われようと、〝C〟はいつもと変わらない軽口を叩いている。その態度は悲嘆を見せないよう気丈に振舞っているだけなのか。

 

 それとも。

 

 どんな状況に陥ろうとも、そうあれかしと周囲に(こいねが)われた末路なのだろうか。

 

 自我という振る舞いは、環境に与えられたものへの反射に過ぎないものだから。

 

 この子はただの───。

 

 人の子なのに。

 

 ───だってわたしは神様だから。

 

 世界を切り分けても、結局人の世に馴染めなかった強がりが、私の耳朶をもう一度震わせたかに思えた。

 

「私さ、裁判って嫌いなのよね」

 

 脈絡のない私の言葉に、〝C〟は面食らったようだった。

 

「あれって、犯した罪に対して、与える罰を取り決める業務フローでしかないわけでしょ。なのに裁判中の態度が悪いだの、反省が見られないだの、法律に違反した事実以外の要素で量刑が変化するの、納得できなかったんだよね」

 

「言っている内容は理解できます。ですが裏を返せば、やむにやまれずというか、追い詰められて罪を犯すしかなかったような、杓子定規に判決を下せない情状酌量に値する場合だって相応にあると思いますよ」

 

「まあね。だからそこは改めた。人間の脳の処理能力がショボい以上、過去から現在に至るまでのすべての要素を考慮して公正で公平な判断を下すことなんてできないんだって」

 

 私が生まれるよりも前の時代。この国の公園には遊具というものが設置されていたらしい。

 

 今はもう日本のどこにも存在していない。

 

 遊具からの転落などで幼児の死亡事故が起こる度、危険とされた遊具は全国から一斉に撤去され、今日(こんにち)では姿を消している。

 

 昨今で言う公園とは居住地域の緑化率をコントロールするためのものに過ぎない。

 

 田舎の方では神社の敷地の空いたスペースにブランコなどが残っているところもあるらしい。その場合、遊具の管理者は神社になる。各市区町村の管轄からは外れているので、一斉撤去の対象から漏れたのだろう。

 

 残念ながら、人間は責任の所在を明らかにできるほど情報の処理能力に優れているわけではない。

 

 幼児が事故死したのは誰が悪いせいなのか。

 

 幼児の運が悪かったのは大前提。その上で幼児を注視していなかった親が悪い。けれど子供用の遊具周辺で、親が常に手の届く距離で付きっ切りになるのは不可能だろう。

 

 そもそも初めから遊具を設置していなければ不幸な事故は起こらなかったという話になる。

 

 では遊具の設置を許可した何十年も前の役所の人間が悪いのか。はたまたより安全な設計をしなかったメーカーが悪いのか。あるいは遊具を発案した設計技術者が別案を出していればよかったのか。

 

 考え出すとキリがない。そして人間には、その結論に至るだけの能力がない。

 

「わたしたちが見ている世界は断絶だらけで、すべてが一続きのなめらかな世界とは到底言えません。そのすべてを理解することは、わたしたちには不可能なのでしょう」

 

 そう〝C〟は言った。

 

 なめらかさ。

 

 縫い目ひとつ無い羽衣は天のものと言われるように、因果が折り重なったあるがままの世界は、本来人智を超えたものなのだろう。

 

 人間はなめらかな世界を切り刻んで、細分化して、自分たちが理解できるレベルにまで矮小化しているに過ぎない。

 

 裁判は───。

 

 そのなめらかさに挑むものだと、門外漢ながらに思っていた。

 

「人は目の前の見えるものしか見れないし、それすらも見落とすけれど、その中だけでも最良の結果を追い求めるために足掻くのは尊い行いよね?」

 

 私の言葉に同意するように〝C〟は頷いた。

 

「でも法曹界の連中って判決に至った判断材料を説明しないじゃない」

 

 例えば育児や介護の現場では、防ぎようのなかった悲しい事故によって命を落とす場合がある。個人の死だけには留まらず、他人や他社に対して損害を与えてしまう場合もある。そういったとき、監督責任があった人間に損害賠償が下される事例が往々にしてある。規模によっては何千万、何億といった金額が突然遺族の肩に乗りかかるのだ。

 

 感覚としては不当な判決に思う。

 

 身内を亡き者にするため画策したわけではない。避けられるなら避けている。

 

 なのに重すぎる賠償命令に至った理由は明かされない。ここでお咎めなしとすると、事故に見せかけた殺人事件が発生するかも、といった、裁判に関わっていない部外者の法曹三者からもたらされるくらいでしかない。

 

 事実なら、ひどい話だと思う。

 

 被告人の行いとは何ら関係がない。被告人には制御できない、責任も無いところで咎を負わされている。ただ後に続く者が出ないように、見せしめにされているだけに過ぎない。

 

 そのくせ最高裁まで上告すれば、判決はあっさり覆る。

 

 いつ、どんなとき、誰が行おうとも、一足す一は必ず二でなければならない。

 

 システムとは斯くあるべきだ。なのに国の根幹を成す司法という巨大な機構は、私の思い描くものとは対極の動きをしている。

 

「被告が犯行に至った過程を重視するのはいいけど、自分たちがその判決に至った判決文は中々公開しないのがね。言ってることとやってることが釣り合ってないでしょ」

 

 自分は何も改めないくせに、人には理想を押し付ける閉鎖性が───私は嫌いだ。

 

 その閉鎖性を極限まで煮詰めた唾棄すべき存在がカルトと言える。

 

 けれど。

 

 横になったまま〝C〟を見上げる。

 

 この子の背景を無視すれば、この子自体のことは───そこまで嫌いではなかった。

 

〝C〟は正しく、現実を見ようと心がけている。

 

 言葉の外にある世界を見つめようとしている。

 

 世界を二つに分けると、世界と世界になる。

 

 つまり。

 

 内的世界と外的世界だ。

 

 主観と客観だ。

 

 見ている自分と見られていなくたってそこに在るモノだ。

 

 自分や自我は虚構なのだと〝C〟は言った。観測者が居なくても在るモノだけが現実なのだと。

 

 それこそカルトの理論とは───対極に位置する。

 

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとは言うが、車中での態度はやはり少し大人げなかったと思う。

 

 いい加減半身を起こして、私はジャケットを脱いだ。

 

「アンタも横になったら? 誰が使ってたか知らない布団に抵抗が無いならだけど」

 

 私に促されて〝C〟はおずおずと遠慮がちに布団の端っこを占拠した。

 

「そっちの方が疲れてるでしょ。私は床でいいから、もっと広く使えば?」

 

 すると〝C〟にシャツの裾を摘まれた。

 

「いーちゃんも今日一日はずっと運転し通しでしたよ。お疲れではないですか?」

 

「なに? 一緒に寝たいの?」

 

「……布団が一組しかないのです。多少窮屈でも、床で寝るよりはマシではありませんか?」

 

 疲れているのは事実だった。〝C〟がいいと言うのなら、私が気を遣うことはない。

 

 他人の生活臭が染み込んだ見知らぬ部屋で〝C〟と同衾するなんて、まともな精神状態まで戻っていないのだなと実感する。

 

 誰かと褥を共にするなんて、それこそ以前このシェアハウスに住んでいたとき以来だった。

 

 人肌の温もりが紐づいた苦い記憶と共に、艶めかしく笑う大家の顔が脳裏をチラつく。やはりあの女だけは、もうあと二、三発殴っておくべきかもしれない。

 

 眼前の〝C〟にはそんな暴力性は垣間見せず、彼女の長い髪を手櫛で梳いてやるに留まった。同衾が許されるのだ。このくらいのスキンシップなら許容されるだろう。

 

「い、いーちゃん!? な、なんでしょうか……?」

 

〝C〟の驚いた顔。裏返った声。さすがに突拍子がなさ過ぎたようだ。けれど嫌がっている素振りは見られないので、好きに振る舞う。

 

「いや? まあさっきも言ったけど、私はさも公平ですって顔して自分の都合を押し付けてくるやつが嫌いなの」

 

 アンタは違うでしょ、と私は言った。確信があるような強い響きで。

 

「私の杞憂なら流してくれて構わないけど、アンタは法律家でも達成できずに匙を投げることを、妥協せずに考え続けてるんじゃないの? ツァイガルニク効果は辞書の説明文以上にメンタルを削るわよ」

 

「『きょう、ママンが死んだ』とは真逆ですね。態度に出したつもりは無いのですが……。いくら祀り上げられていたとしても、いーちゃんは」

 

 わたしを異邦人にしないのですね、と〝C〟は言った。

 

「異邦人?」

 

 異邦人なら───。

 

 まさしく私の方だろう。

 

 そう思ったのだが、血統や生まれや宗派は関係ないらしい。

 

「母親の葬儀で涙ひとつ流さない人非人のことですよ」

 

〝C〟は何かのデッドメディアを引用したらしかった。

 

 たしかに〝C〟は父親が殺される瞬間を見ても泣いていない。さして動転もしていない。私の方が動揺していたように思う。

 

〝C〟はずっと、普段通りに振る舞っていた。

 

 けれどそれがどうしたと言うのだろうか。

 

「悲しんでいる人間は必ずこの行動をしなければならない。そう考える方が、馬鹿げてるわよ」

 

 それこそ、環境からの刷り込みに則った反射反応に過ぎないはずだ。

 

 家族が。学校が。共同体が。地域が。国が。押し付けてくるものに過ぎない。

 

 私が何よりも嫌っているものだ。

 

 それに。

 

 私は髪を梳く手を止めて、トントンと〝C〟の頭蓋骨を指で叩いた。

 

「忘れたの? この内側には、今も沈着型()脳内()生体インターフェース()が入ってるのよ。表層的な虚飾なんてどうでもいい。丸裸なんて言葉が生易しいくらい、アンタのパーソナルな反応を詳らかにしてやったっていいんだから」

 

 そう言うと〝C〟は嬉しそうに笑った。

 

「いーちゃんは本当に、物質的なものしか信じない人ですね」

 

「どっちが人非人かって話よね」

 

「まさか。いーちゃんは知らないんです。わたしの世界の見方は、三次元的な脳波マッピングには表れませんから」

 

〝C〟は片手を突いて起き上がった。私の顔の真横に手を置き直して、〝C〟の瞳が真上から私を覗き込んでくる。彼女の長い髪が御簾のように垂れ下がり、私の視界は〝C〟だけで埋め尽くされた。

 

「熱狂からほど遠いその冷淡さが、わたしにはどれだけ心地良いか」

 

 わたし、いま、個人(あなた)に執着しています、と噛み締めるように〝C〟は言った。

 

 彼女の瞳には───熱がある。

 

 恋か愛か、友情か信奉か、性欲か独占欲か。抑える(すべ)を知らないのか、知っていてなおあふれ出してしまったのか。きっと〝C〟自身にも名付けの仕方がわからない混沌とした感情が、今にも私に食いつかんとしている。

 

 その瞳を、私は静かに見つめ返す。

 

 拒絶することも、取り乱すこともなかった。

 

 似たようなシチュエーションは過去に何度も遭遇したせいだ。この貞操観念が終わっているシェアハウスでは、どうにも───すべての愛が赦されてしまう。

 

 そんな錯覚にうなされる。

 

「どうして……」

 

〝C〟が呟く。

 

「どうしてここまで、してくれるのですか……?」

 

 カルト教団の内輪揉めに首を突っ込み、あまつさえカルトの偶像を教団から攫うなんて真似、まあ、普通はしない。

 

「私個人で完結する範疇なら、報復と言うべきでしょうね」

 

 あの頃。

 

 何の力も無く、ただ未来を奪われるしかなかった頃の私を慰めているだけの感傷だ。

 

 あるいは。

 

 末端の信者と中枢にいる偶像という立場こそ違えど、似たような環境から逃げ出せなかったもしもの私の姿を〝C〟を通して見ているのかもしれない。

 

〝C〟を解放できれば、私も一角の何かに成れる気でいるのだろうか。

 

 どちらにしても、ある種の代償行為であることには違いない。

 

「他者の存在を加味するなら───」

 

 ───娘のことを。

 

 ───よろしく頼むよ。

 

 まだ耳の奥に〝先生〟の遺言が残っている。

 

 今日最後に交わした会話。人生で最期になってしまった言葉。

 

 私は───〝先生〟の末期(まつご)の願いを叶えてあげたい。

 

「〝先生〟との約束に、報いたいと思ってる」

 

 相手が故人になってしまった時点で、この感情もまた、私の独りよがりに過ぎないのだろう。

 

 つまり私の行動に、〝C〟は徹頭徹尾関与していない。

 

〝C〟が私にどんな感情を向けていようと、それに値するだけのものを私が返せるとは思えなかった。

 

〝C〟も同じことを察したのだろう。

 

「いーちゃんに、わたしはさして影響を与えられていないのですね」

 

 落胆するかと思った。

 

 けれど私の予想とは裏腹に〝C〟はなおも嬉しそうに笑う。

 

〝C〟は私に覆い被さるように身体を預け、肩口に顔をうずめた。

 

「いーちゃんは───」

 

〝C〟の吐息が耳をくすぐる。

 

「本当にわたしを、何者にもしてくれないのですね」

 

 わたしに、何も求めないのですね、と〝C〟は言った。

 

 あまねく信者から希求され続けた願望機は、私の隣で初めて安息を得られたようだった。

 

「求めることならある。重いからどいて」

 

 私の上にのしかかったままの〝C〟を、私は力任せに振り落とした。華奢な体格をしていようと、重いものは重い。

 

 今度は〝C〟に腕をとられた。絡みつくように私の腕は抱きかかえる。これはこれで寝づらいが、これ以上〝C〟を突き放す気にはならなかった。

 

 私たちは人の字を描くように、寄り添いあって一夜を明かした。

 

 

       ◇

 

 

「わたしたちは神になるのです」

 

 そうなることが定められているかのような自信満々の口調で〝慈母〟は言った。

 

〝先生〟の伴侶であり〝C〟を産み落としたカルト教団の教祖に近い立場に居る女。

 

 関わり合いになりたくなかった女と、私は顔を突き合わせる羽目になっている。

 

 現状に対する認識の甘さが仇となった。

 

 しばらくの間はシェアハウスで安穏とした生活を続けられた。〝C〟は身内が殺されたことを理由に通院治験に切り替え、治験そのものも取りやめる方向に舵を切った。

 

 カフェインすらも憎むような心身の健康を第一とする社会基盤のおかげだろうか。〝C〟の訴えは人道的配慮のできる弊所に、恙なく承諾された。

 

 すぐに抗アルツハイマーの新薬が供与され、〝C〟の治験内容は沈着型()脳内()生体インターフェース()の減少速度を見守るものに切り替わった。

 

 カルトから逃げ続けるにしても、ベストな選択だったと思う。〝先生〟が殺された以上、〝C〟の居所はバレたと考える他ない。できれば全国各地を転々としたいところだが、実行するには〝C〟の頭の中にあるDCBが邪魔になる。

 

 研究成果の持ち逃げと捉えられれば、その時点でおしまいだ。秘密保持契約(NDA)違反として、億単位の賠償請求をされるだろう。場合によっては、カルトから身を隠す方がマシかもしれない。

 

 通院とは名ばかりで〝C〟にはシェアハウスに引きこもった生活をしてもらった。DCBの活動状態を検知する機材は車に積みっ放しだったから、データの採取はいつでもどこでもできたのだ。本来は許されないが、事情が事情なのでお目こぼしをしてもらった。

 

 見方を変えれば〝C〟を軟禁しているようなものだが、本人は日がな一日紙の書籍(デッドメディア)に目を通せるなら何も不満は無いようだった。

 

 シェアハウスの生活にもすぐに馴染んだ。相も変わらず、ここは変人の巣窟だった。

 

 都市近郊に住んでいると緑と土の匂いなんて早々嗅ぐことはないだろうに、自室を腐葉土でいっぱいにして本物の昆虫の幼虫を飼育している女がいる。

 

 カフェインゼロの清涼飲料水が主流になり、カフェイン税なる馬鹿げた法案すら通ろうとしている昨今において、パウダードリンクですらなく本物の茶葉を調達して手ずから紅茶を淹れる女がいる。

 

 愛煙家が、まだこの世で息をできていたなんて、思ってもみなかった。

 

 そういったバラエティに富んだ女たちが、私と〝C〟以外に四人も居る。

 

 いや本当に。

 

 よくもまあこんな天然記念物のような趣味を持った風変わりな女ばかりかき集めれるものだと、大家に対して畏敬の念を覚えたものだ。皮肉である。同じ穴の狢とも言う。

 

 けれど入る変人も居れば、出て行く変人も居た。

 

 私と〝C〟の入居を契機と受け取り、入れ違いに一人が退去してしまった。私がその新しく空いた部屋に移り、定員六名のところに七名が住んでいるという事態は解消された。

 

 同居人の大半は大学生。大学ともなるとオンラインのカリキュラム以外にも、物理的に手を動かさないといけない研究や実習がある。なんだかんだとみんな忙しそうだった。

 

 けれど住人同士のコミュニケーションは活発で、デッドメディア愛好家はすんなりと輪の中に溶け込んだ。

 

 翻って、私は。

 

 ほとんどの時間を研究所で過ごす、慌ただしい生活を送っていた。シェアハウスに戻る理由は〝C〟へのヒアリングと脳波データの採取。あとはシャワーくらいのものだ。

 

 DCB関連で扱うデータはあまりにもプライバシーの塊のため、ネットワーク経由でのやり取りが憚られる。物理メディアに依存するしかないのだが、この理由がなければ私はずっと研究所に泊まり込んでいただろう。

 

〝先生〟が居なくなった穴はそれほどに大きい。

 

 というよりも。

 

 上位管理者権限で〝先生〟に割り当てられたデータ領域を浚ったところ、一人でも色々と実験を繰り返していたことが判明した。

 

 最悪だった。

 

 何をどうするための実験なのかメモ書きすら碌に残っていない。実験の展望も、DCBを改良できるのかさえ、すべて〝先生〟の頭の中にしか存在しない。

 

 そしてそれさえも───永久に失われてしまった。

 

 この謎の解明が、喫緊における私の業務になってしまったのだ。

 

〝先生〟のことは尊敬しているし、信頼しているし、私の目標と言っていい。

 

 その上で。

 

 いくらなんでもざけんなよ、という思いだった。

 

 謎の高分子プラットフォーム。半端にまとまった分子動力学計算の複数式と解。それらを元にして行ったであろう動作シミュレーションの実行ログ。

 

 歯抜けだらけのピースを埋めて、上手い具合にパズルの絵を完成させなければならない。加えてこの苦行に意味があるのかは、完成した絵を見ないと判断できないと来た。

 

 やってられるかという諦念に似た怒りが二割ほど。

 

 残りの八割は───。

 

〝先生〟からの最後の課題と思って、やってやろうじゃないかという、何とも馬鹿げたモチベーションでできていた。

 

 寝ても覚めても難解な数式と適当に色付けされた高分子シミュレーション画像に頭を占有され始めると、〝C〟の様子を確認しにシェアハウスまで戻るのがちょうどいい気分転換になっていた。

 

 そうしてまたも気分転換をしようと考えたが、思いの外頭が回らない。車に乗るコンディションではないことを認め、私は軽食をはさむことを決めた。

 

 足が向いたのは手近な場所。研究所に併設されたカフェテリア。つまり〝先生〟が殺された犯行現場だった。

 

 警察の現場保持は疾うに解かれ、流血の痕すら見られない。人ひとりが命を奪われた痕跡は、もう何一つ残っていない。営業が再開されているのだから当然だった。

 

 こういうカフェは過去の残響だ。そもそも、現代人は頻繁に外出しない。仕事も学校も大抵はオンラインで済む。専門性が高かったり、セキュリティの観点で出社が義務付けられでもしない限り、大体はリモートワークだ。

 

 食事にしても、どの家庭にもオートクッカーが取り付けられている。専用の冷凍食品をセットすれば、出来立てと遜色ない料理が全自動で配給される。食事のために外出する意義は失われつつある。

 

 研究所職員でなくても利用はできるが、わざわざ訪れる近隣住民はほとんど居ない。

 

 注文できるメニューはすべてオートクッカーが自動調理する。飲食が目的なら家で同じ物を用意すればいい。昔はカフェで仕事や勉強をする風習が一部ではあったそうだが、幼少期から自宅学習に慣れている現代人には理解に苦しむ文化だ。

 

 けれど珍しくカフェの席はある程度埋まっていた。これも〝先生〟が急逝された影響だろうか。この研究所の一大プロジェクトの責任者が居なくなって、まだ慌ただしい日々が続いている。

 

 スマートグラスに表示されたオーダーメニューからサンドイッチと水を頼む。

 

 そうして解凍されたばかりのサンドイッチを胃に収めていると、初老に差し掛かった見知らぬ女が断りもなく私の対面に腰を下ろした。不躾で横柄な態度が癇に障る。じろり、と女を睨んだ。

 

 態度はともかく、見た目は品の良さそうなおばさんだ。小柄な体型で、ドレスコードのある場にもそのまま着て行けそうなクラシカルな服装。彼女の顔にはスマートグラスではないただの視力矯正器具としての眼鏡がかかっている。

 

 直感が警鐘を鳴らす。このご時世に常識となっている利便性を進んで捨てる人間は早々居ない。

 

 おばさんと視線が交わる。

 

 気味の悪い眼差しだった。瞳がキラキラと輝いている。まるで綺麗なものしか目にして来なかった無垢さが垣間見える。幼児が世界を見る目ならまだわかる。けれど相手は初老に近いおばさんだ。

 

 肌が弛み、皺が増えつつある顔の中で、瞳の輝きだけが異様だった。

 

 彼女の面差しの中に〝C〟に似た造りを見出した瞬間、剣呑な火が私の胸に宿る。

 

 迂闊、と言えるだろうか。彼女らが捜しているのはあくまで〝C〟だ。私が矢面に立つことはないと楽観視していたことは否めない。そのくらい〝先生〟の遺した課題に夢中になっていたとも言える。

 

 研究所内部の人間でもない限り、私と〝C〟のつながりなんてわからない。その考えが油断だった。

 

 大家は言っていた。金さえ払えば、合法非合法問わず人間の居所を調べる連中は居ると。そういった類の人間を雇うなら〝先生〟が殺された日に私は線を引いた。けれど〝C〟が入院治験を始めた頃から雇っていたとしたら。

 

 私は〝C〟を連れて、あちこちドライブへ出かけている。私の顔も車も、すべて筒抜けだったのかもしれない。

 

 シェアハウスの存在も、バレているだろうか。否。バレていると考えるべきだ。

 

 その上で私に的を絞った理由───。

 

 将を射んとする者はまず馬を射よ、といったところか。

 

 やや業腹だが、外から見れば私と〝C〟は親密な間柄に見えるだろう。

 

 私が人質として機能すると思ってもおかしくはない。実際〝C〟なら動くだろう。立場が逆なら、私は〝C〟を見捨てることを即断するのだけれど。

 

 ───よし。

 

 残り少ないサンドイッチを水で胃に流し込む。

 

 ───逃げるか。

 

 席を立つ。

 

 その瞬間───。

 

 カフェ店内に居た私とおばさん以外の客が全員、ガタリと椅子を鳴らしながら立ち上がった。その全員の瞳に射抜かれている。ゾッと背筋が冷えた。

 

 対面に座ったままのおばさんはニコニコと笑みを浮かべながら、私のことを見上げている。

 

 虚勢を張る。わざと聞かせるようにため息をついた。

 

「揃いも揃って暇そうね。羨ましい限りだわ」

 

 皮肉とともに私が座り直すと、またも全員が一斉に腰を下ろした。

 

「わたしたちがあなたを訪ねた要件は、もうわかっているでしょう?」

 

「さあね。生憎、頭数揃えて人を威圧するような野蛮人の知り合いは居ないから、見当もつかないわ」

 

 アンタは誰だよ、と推定〝C〟の母親に向かって問いかける。

 

「わたしはさる宗教で〝慈母〟と呼ばれています」

 

「ふぅん。で、宗教家が何の用? 今はノアの息子ハムを科学者の祖先とでも見なすのがトレンドなわけ?」

 

〝慈母〟はきょとんと首を傾げた。不思議そうな表情は、初めて聞く言語を耳にしたかのよう。

 

 源流はアブラハムの宗教だと〝C〟から聞いていたけれど。

 

 最早聖書に目を通す必要がないほど、かけ離れた教義を掲げていることが察せられた。〝C〟だけが自分たちのルーツを律儀に読み解いたのだと確信できる。これも見通しの甘さの表れだった。

 

「アイツ……書痴も大概にしろよ……!」

 

〝C〟に対して小声で毒づく。

 

 なんだかんだ言って、私と目の前のカルトどもの間には共通言語が機能していると思い込んでしまっていた。こちらの想定を悉く下回る話の通じなさが厄介なのだと、久しく忘れていた赫怒が胸を焦がす。

 

「惚けても無駄ですよ。あなたが隠し持って独り占めしようとしているのは、もう知っているんですから」

 

「さっきから何の話をしてるわけ? 心当たりは皆目無いけど。人違いじゃないの?」

 

〝慈母〟は悲しそうに顔をくしゃくしゃに歪めた。

 

「残念です。あなたはわたしたちが幸福に辿り着くための道のりを邪魔しようと言うのですね」

 

〝慈母〟が立ち上がる。そして周囲の人間を見回しながら「皆さま」と声をかけた。

 

「この方は───」

 

 悪魔に憑かれておいでです、とひどくつらそうに宣告した。彼女の表情は本当に苦痛を感じているかのように真に迫ったものがあった。周りの信者が息を吞む。私を見る目が変わる。向けられているのは、同情と憐憫と───使命感、だろうか。

 

「彼女を私たちの手で、救って差し上げねばなりません!」

 

 話にならないとばかりに額に手を当て、顔を伏せる。

 

 俯いて誰の顔も見えなくなった瞬間、即座に警察に通報した。目は口ほどに物を言うとは言うけれど。対面の相手が話を聞き流しながら別のことをし始めるのは、目の動きで如実に伝わるものだ。

 

 スマートグラスのレンズ上にだけ映る仮想インターフェースから警察へホットラインをつなぐ。一秒も待たずにAIが応答状態になった。

 

 当然声は出さない。仮想キーボードをなぞるように素早く視線を動かして、チャットで窮状を訴える。

 

 現在地の情報。カルト。脅し。拉致? 助けて。

 

 伝わるだろうと誤入力は気にしない。最低限の情報だけを羅列する。

 

「取り押さえて! 悪魔と交信しているわ!」

 

〝慈母〟が叫ぶや否や、隣の席に座っていた男が私の腕と髪を掴んだ。抵抗しようとしたけれどビクともしない。髪を掴まれたまま、私は顔をテーブルへ押し付けられた。

 

 すぐさま音声入力で「暴行あり!」と叫んだ。そこで〝慈母〟にスマートグラスを取り上げられた。一連の出来事は店内のセキュリティアイに記録されているはずだから、もう間もなく警備員が飛び込んでくる。

 

 それを信じてできる限りの抵抗を続けようとしたところで、丸太のように太い腕がぐるりと私の首に巻き付いた。

 

 ぎゅっと首が締まって───。

 

 ─────────。

 

 ──────。

 

 ───。

 

 そして。

 

 むせ返るような土の匂いで気が付いた。

 

 シェアハウスの同居人の趣味が違っていれば、これが土の匂いだとも気づけなかっただろう。

 

 警備員か警察に救助されるという願望は打ち砕かれ、私は都市部から離れた場所まで拉致されてしまったらしい。

 

 大丈夫。なんとかなる、と自分に言い聞かせるように深呼吸を繰り返す。

 

 私は金も知識も社会的地位も無い中で、運だけで似た環境から逃げ切ったのだ。

 

 震えるな。怯えるな。絶望したって、今まで溜め込んできたあらゆる怒りは簡単に燃え上ってくれる。

 

 同じくらい簡単に、相手が殺人と誘拐に踏み切るほど先鋭化している点には目を瞑った。

 

「おい。起きたみたいだ。〝慈母様〟呼んで来い」

 

 手狭な部屋で、私は椅子に座らされていた。拘束はない。私が座っている椅子以外の物も無い。出入口はひとつ。その一ヶ所の出口を守るように信者がふたりドアの左右で寛いでいる。採光用か高窓がひとつ。天井からは裸の電球がぶら下がっている。

 

 とてもではないが、人が住むことを前提にした部屋とは思えない。

 

 信者の片方が立ち上がって、外へ出て行く。ドアの隙間からは畑が見えた。鬱蒼とした緑が列を成している。母体は自然回帰主義者だった。農場を保有していてもおかしくはない。都市部から離れた場所という推測が確信に変わる。

 

 農業用の小屋か何かに、私は監禁されているようだった。

 

 監視役の一人が小屋から出て行き、ドアが閉じられる。鍵をかけられた様子はない。けれど残った監視を振り切って外に飛び出そうと思うほど、私は無謀でもなかった。

 

 そう間を置かず〝慈母〟が信者をぞろぞろ引き連れて、小屋の中に入ってきた。手狭な空間が、瞬く間に人でいっぱいになる。

 

〝慈母〟は私を見下ろすように眼前に立つ。

 

 そして───。

 

「わたしたちは神になるのです」

 

 そう主人は約束してくれました、と〝慈母〟は言った。

 

 おとぎ話を未だに信じているような、気色悪い瞳がキラキラと輝いている。

 

 その瞳が私に焦点を合わせると、途端に憎々しげに歪んだ。

 

「なのに、わたしたち全員の願いをあなた一人の我が儘で邪魔しているのよ。あなたにまだ人の心が残っているのなら、はやくアセンションに必要な道具を渡しなさい」

 

 これが最後通牒です、と真面目な口調で、ともすれば私を気遣うような口調で〝慈母〟は言う。

 

 ───ああ。

 

 不味い。

 

〝慈母〟の言葉を反芻する。私は何か、()()()()()()()()()()()()()

 

 コイツらは〝C〟を奪い返しに来たのでは───ない。

 

 だとするならコイツは何を言っている?

 

 その答えを。

 

 私は持ち合わせていなかった。

 

 背もたれに体重を預けて、頭上を見上げる。ここから生き残る方法が天上で煌めいてないか期待したが、私の目には埃を被った梁しか見えない。

 

 やはり信じられるのは自分だけ。ではあるけれど、ここから勝ち筋なり打開策を見つけるのは無理そうだった。

 

〝C〟とのつながりが、私に残された最後の武器だと思っていた。けれどどうやら。それは武器にも盾にもならないらしい。

 

 肺の中のすべての空気を吐き出して、姿勢を正す。

 

 横柄に足を組んで〝慈母〟を見据える。

 

「見れば見るほど───娘の方とは違って、カフェイン税とか賞賛してそうなツラしてるよね」

 

 私は信者どもに取り囲まれた。

 

 

       ◇

 

 

 ───教科書通りのBITEモデルだ。

 

 私が、私を見下ろしている。私を俯瞰する私は、心底くだらなさそうにそう吐き捨てた。

 

 見下ろされた私の耳では、がやがやと雑音が鳴り響いている。ざらついた床板がひどく冷たい。熱を帯びた皮膚はその冷たさを心地良く感じている。けれど身体の芯から私という熱量を奪われているようで、ずっと震えが止まらない。

 

 耐え忍ぶように身体を丸める。

 

 途端、私は見知らぬ男に背中を蹴飛ばされた。這いつくばるように私が転がる。そして両手と両足をそれぞれ別の人間に掴まれて、大の字を書くようにピンと伸ばされる。標本にされた虫のようだと、磔にされた私を見て思った。

 

 そして磔の私は笞刑(ちけい)に処されている最中だった。

 

 がやがやとした雑音の中で、ひゅんひゅん、と鋭く空を切る音が鳴る。直後、私の背中に、両肩に、二の腕に、お尻に、裏腿に、肌を裂くような痛みが絶え間なく走った。

 

 竹を割った鞭が、ずっと私に向かって振り下ろされている。竹の鞭は細く長くよくしなり、私の肌に赤黒いミミズを生みつけた。

 

 ───ああ、そうだ。

 

 朦朧としていた頭が現実の一端を掴む。

 

 私は。

 

 カルトに攫われて。

 

 まず服を剥ぎ取られ、素肌にずっと鞭を打たれて、筋の通らない妄言をずっと浴びせられていた。

 

 この責め苦が始まって、もう何時間が経ったのだろう。

 

 不意に、衝撃が絶えた。身を切るような痛みがやんだ。代わりにじくじくとした熱が身体中の表面を這い回る。

 

「もう大丈夫よ。大丈夫だからね」

 

「悪魔なんかに負けるなよ。絶対、祓ってやるからな」

 

「つらいわよね。痛いわよね。でもそれでいいの。つらくて痛いのはあなたの人としての部分が強く反応しているからなの。悪魔を追い出したら、かみさまが救ってくれますからね」

 

 べたべたと純粋な善意が私の全身を覆い、暴力を振るっている方が痛いのだと言わんばかりの震えた声が耳に入る。

 

 横たわった私は、原義における、文字通りの手当てをされている。

 

 マルコによる福音書。第一章四一節から四二節。

 

 ───イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われるとたちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。

 

 古来から、洋の東西を問わず、手当て療法と呼ばれているものだ。

 

 こいつらは、自分たちが培ってきた信仰心が、手を触れることで私の中に居る悪魔に打ち克つと信じているのだ。

 

 鞭打ちで悪魔を弱め、手当てで悪魔を祓う。

 

 そんなルールがここまで罷り通っている。

 

 暴行だとか傷害だとか、罪を犯している意識は皆無のまま。

 

 十人近い人数に取り囲まれて、全員から無遠慮に肌を撫で回されている。

 

 不快で。汚らわしくて。殴りつけたくなる。

 

 これを、私は知っている。

 

 私はいま、行動(Behavior)情報(Information)を制限され、思考(Thought)感情(Emotion)までも管理されそうになっている。

 

 この四つを制限・管理するプロセスをBITEモデルという。

 

 カルトが信者を生み出すための、基礎的なマインドコントロールの手法だ。

 

 種はわかっている。

 

 飲食物を管理して飢餓状態を作る。睡眠時間を剥奪して正常な思考を奪う。

 

 カルト以外の情報源を断つ。

 

 人のアイデンティティを塗り替え、合理的な分析や建設的な思考をできなくする。

 

 怒りや疑念などの感情を抑えさせ、賞賛と貶めを繰り返す。

 

 それらをずっと過激にしたのが、いま私が晒されている状況だった。

 

 ───種は、わかっているのに。

 

 皮膚の上を這い回る激痛が。いつ終わるとも知れぬ拷問が。善意で塗布されている悪辣さが。

 

 解放されたければ、屈してしまえと囁いてくる。

 

 もうこいつらは、手段と目的が入れ替わっている。

 

 悪魔の何たるかも知らなさそうな頭で、悪魔祓いを成功させることしか頭にない。

 

 何のために私を攫ったのか。それを覚えているのは、この場の一握りくらいだろう。

 

 意地を張れば張るだけ、苦痛が長引く。

 

 だったらもう折れて、(へつら)ってしまうのが正解のはずだ。

 

 けれどそうやって少しずつ妥協を重ねていくうちに、最後はこいつらと共に〝C〟を崇めるようになるのだろう。

 

 ───そんな無様を晒すくらいなら。

 

 どうせ生きてここを出られるかもわからない。ならもう一人くらい道連れにしてやった方がいいんじゃないか。

 

 ずっとずっと胸の奥にしまわれ続けた決して消えない赫怒が、私に〝慈母〟を見据えさせる。

 

〝慈母〟は慄き、壁に倒れ込むように後ずさった。

 

「む、鞭を! 鞭を打ちなさい! まだ悍ましき悪魔が巣食っています!」

 

 そうして、何度目かもわからない笞刑が再開された。

 

 私は私から分裂し、鞭打たれる私を他人事のように見下ろしている。

 

 けれど今回の笞刑はすぐに終わりを迎えた。

 

 小屋の扉が開く。扉からは眩いばかりの朝日が差し込んだ。そして朝日の中から黒々とした影が浮かび上がった。

 

「退いてください」

 

 影がしゃべった。

 

 収容人数が上限に達していそうな手狭な小屋で、信者は一斉に左右の壁際へ逃げた。人海が割れる。床に伏した私からは、人影に後光が差したままだった。

 

 神の───降臨だった。

 

「いーちゃん」

 

 悼ましそうに名前を呼ばれた。分裂していた私が一体となる。神は───〝C〟の姿をしていた。

 

〝C〟は私の傍らにしゃがみ込むと、羽織っていた上着を脱いで私の身体へと被せた。

 

 不意に、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれた。〝C〟に向かって手を伸ばす。赤く、黒く、青く、紫と緑と黄色が混ざり合った汚いパレットのような痣だらけの腕を伸ばした。蜘蛛の糸に縋るように。理性なんて置き去りにして。

 

 私が伸ばした手は、ぱしんと〝C〟によって打ち払われた。

 

「いーちゃん」

 

〝C〟の両手が私の顔を左右から包み込む。〝C〟の顔が、いつかのように間近に迫る。

 

()()()()()()()。神秘体験なんて、この世界には───存在しません」

 

〝C〟は、私の頭蓋骨をノックするように二度叩いた。

 

「すべて、この中の出来事にしか過ぎないのですよ」

 

 こつん、こつん、と小さなはずの衝撃が私の存在すべてを揺さぶった。あるいは。配線の接触不良を叩いて直したのかもしれない。

 

「……ばか。なんで来たの? 元はアンタの家出でしょ」

 

「いーちゃんの帰りが遅いから迎えに来ました」

 

「迎えに来るのも、遅いんじゃない?」

 

「すみません。場所の特定に時間がかかりました。わたしが唯一知っている本部は引き払っていたようで、仕事に出ている信者を捕まえては知ってる施設を聞き出して、いーちゃんを連れ去った車の進行方向と合致するか、何度か調べる羽目になりました」

 

「仕事って、何かあるの? スマートグラスすら碌に使えない環境で」

 

「ありますよ。例えば、いーちゃんが毎日食べている冷凍食品の工場とか」

 

「あれは……工場そのものが全自動になってて人件費削減してるのが売りのひとつでしょ」

 

「工場の中はそうですね。でも輸送された食材を工場の中へ運ぶのは誰がやっていると思っていましたか?」

 

「……理解した。材料運ぶだけの簡単な作業だけど、その材料が何かを正確に理解して、正しい投入口にセットしないといけないわけか。専用の機械作るにはコストやメンテ費用が嵩むから、人間を安価で使い潰した方が経済的ってわけね」

 

「……そろそろ、落ち着きましたか? 思考はちゃんと回ってますか?」

 

「……あー、最後にひとつ。ちなみに魔境って?」

 

「あら。仏教用語は詳しくありませんか? 禅の言葉です。厳しい修行に身を置くほど、トランス状態に入りやすくて幻覚を見る下地が整ってしまいます。例えば、仏に会うとか。その幻覚をゴールだと錯覚する者が必ず出てくるので、それは修業を妨げる魔境であり、抜け出さなければならないものという教えになります」

 

「回心してアガリだと思ってる連中には耳の痛い話ね」

 

「そもそも禅の修業とは生きることそのものですから。仏程度を見たところで、それは修業をやめる理由にはならないという戒めですね。禅の本質は───現実を見ることにありますから」

 

 現実。

 

 つまり───外的世界か。

 

「さて」

 

〝C〟はぐるりと周囲を睥睨した。二回りは上だろう大人どもが、雁首揃えて目を伏せる。

 

「なんですか、これ」

 

 わたしが離れたほんの数週間程度で随分様変わりしたものですね、と〝C〟は言った。

 

 誰も彼も〝C〟とは頑なに目を合わせない。けれど互いに向け合う視線には、お前が説明しろと言わんばかりの他責の意思に塗れていた。

 

〝C〟なんて、この場の誰よりも年下の小娘に過ぎないのに。

 

 これではどちらが子供か、わかったものではない。

 

 やがて彼らの空気はたった一人へと収束する。

 

「ち、違うのよ。この女の中には凶暴な悪魔が棲みついているの。かみさまだって、そんな罪深い存在を赦すはずないでしょう? だからわたしたちは、この女から悪魔を祓ってあげようと……」

 

「まあたしかにいーちゃんは宗教嫌いの信仰者で、自分の信仰が妨げられそうなときはとても手が付けられないような人ではありますが」

 

「おい」

 

「悪魔とは」

 

 なんでしょうか、と〝C〟の視線が私を向いた。

 

「パシリでしょ。神に創られて、与えられた仕事を全うするだけの装置。悪魔は人の敵になるようにデザインされてるけど、神にとっては便利な使い走りよ。ベリアルの書とか、わざわざ負けるために訴訟してくれるくらいには、ね」

 

「そうですね。神が悪魔を赦すかという問いは、前提が崩壊しています。赦す赦さない以前に、悪魔に罪を問いません。罪を問われるのはいつだって人間です」

 

 シン、と場が静まりかえる。誰もが〝C〟の言葉を傾聴している。静寂の中で〝C〟の声はどこまでも澄み渡っていた。

 

「これまでにも何度もお話ししてきたかと思いますが、思想は言動に出ます。ゆえに神が見ているのはあなた方の行動なのです。たとえ悪魔に憑かれていようと、日々勤勉に働き、隣人を愛し、誠実に生きる者のどこに問題がありますか? それは身に宿す悪魔に打ち克ち続けている証左に他ならないでしょう。神から見れば、むしろ好ましいとすら言えます」

 

 反論があるならお聞きしますが、と〝C〟は信者の一団を睥睨した。

 

 誰も、何も言葉を発しない。

 

 規律をちゃんと守っているなら、内心の自由を侵害して罰を与えることは無い。平たく言うとそれだけのこと。基本原理すぎて、異を唱える気にもならない。

 

「では翻って。あなた方は何をしたのです。客観的に見て、一人の女性を拉致監禁し、暴行を加え続け、尊厳を損ない続けた。その行為にどんな徳があるのですか」

 

〝C〟が問いかける。けれど悪魔祓いのロジックが否定されている以上、〝C〟の問いに答えられる者は皆無だった。

 

「お、お赦しください……」

 

 揃いも揃って大の大人が自分の恩赦を願うだけの嘆願しか口にしない。その滑稽な姿を見た程度で溜飲は下がりはしないけれど、それ以上に〝C〟の教祖としての才能に引いていた。

 

 アンドロギュノスを利用された宗教的シンボルだったのだろうけど。

 

 若輩の小娘が、ちゃんと組織の中で自身の発言力を高めている。

 

「自己の研鑽を忘れ、周囲に埋没し、無批判の気楽さに迎合した。わたしに赦せるのはその在り方までです。ご自身の行為の責任は、ご自身でしか取れません。あなた方は法を犯した。どうすればいいかは───お分かりでしょう?」

 

〝C〟は言葉を区切った。自分の言葉が周りに染み入る間を作る。

 

「自首しなさい」

 

 この敷地はすでに、警察に囲まれています、と〝C〟は告げた。

 

 信者の反応は二極化した。諾々と〝C〟の言いつけに従う者。あるいは、〝C〟の言葉に反発する者。

 

「どうして、わたしが警察に捕まらないといけないのですか!?」

 

 反発組の筆頭が、〝慈母〟であった。

 

〝C〟が、己の母親を見据える。

 

「待って」

 

〝C〟が口を開く前に、私は母娘の会話に割り込んだ。

 

「まだピースが揃ってない。私が巻き込まれた理由を、私はまだわかってない」

 

「……わたしを匿ったからではないのですか?」

 

 そう。私が狙われる理由なんて、私だってその程度しか思いつかない。

 

 けれど。

 

「───アセンションの道具」

 

 ずっと謎だった。〝先生〟が遺したという未知の道具。何のため。誰のため。如何なる設計思想で、何を成すための道具なのか。

 

 本当に───私に預けてくれているのか。

 

〝C〟という橋渡し役を得られた今、ようやく私とカルトの間で対話ができる。

 

 私の発言を受けて〝慈母〟は目を光らせた。

 

「やっぱり何か知っていたのね!? ずっとだんまりし続けて、自分だけの物にしようだなんて、なんて卑しい人なのかしら。人の夫と娘を誑かした、この毒婦め!」

 

「聞いてんのはこっちだよ。昨日今日の会話の内容すら覚束ないのか?」

 

 拉致されてる間ずっとそんな態度だったんですか? と〝C〟の瞳が唖然としている。殺されるリスクは重々承知していたけれど、それで私が生き方を曲げないといけないのは納得できないだろと睨み返した。

 

 呆れたように〝C〟が仲裁に入る。

 

「一体どういう話ですか? わたしも寡聞にして存じませんが」

 

「お父さんが言い出したことなのよ……。最近はみんなあなたと話がしたくて、順番待ちの整理だとかが大変だったの。信仰心の篤い人を優先していたのだけれど、不満に持つ人が絶えなくて」

 

 信仰心の篤さは金額の多寡以外でも計れているのか。

 

 辛うじて脊髄の速さに意思の力で追いつけた。私は沈黙を保つ。

 

「そうしたらわたしたち家族の近況を知りたがってたお父さんがね、みんなの頭の中にかみさまを住まわしてしまえば解決するって。その道具を今、あなたたちは作っていた癖に。そのために大事な娘を教団の外へ預ける約束までしたのよ」

 

「───は? 道具って、DCBなの……っ!」

 

「父がちゃんと根回ししていたのは初耳ですが……。いーちゃん、本当にそんなことが可能なんですか?」

 

「……まあ、スポンサー向けの謳い文句がそんな感じだから。できてるんじゃない? 百年後とかなら」

 

 いずれ個人の体験を売り買いする時代が来るとは思っている。

 

 絶景を見た感動と、その場所に至るための苦労。美食に舌鼓を打ったときの味覚と嗅覚の衝撃。一芸を何年も研鑽した職人やスポーツ選手の身体の動き。そういった他者が積み重ねた時間を、自分が実体験したかのように追想できる。そういう展望がDCBにはある。

 

 下世話なところだと、まず間違いなく性産業は活発化するだろう。

 

 しかし。

 

 今は無理だ。脳という器官について、私たちの理解があまりにも足りていない。たしかに脳に異物を吸収させるくらいには、私たちの技術は進歩した。

 

 けれど一歩先に進んだところで、さらに多くのわからないことが増える。

 

 できるのは従来の脳波測定器よりも何倍も高度な受信だけ。DCBから脳へ情報を送信したところで、今の技術では脳の受付ポートすらはっきりしていないのだ。

 

 送信に関しては、動物実験すら終わっていない。

 

「ひゃく……? う、嘘よ! 主人は完成したと言っていたわ! 優秀な部下のおかげだから彼女にも分けていいかって。娘を託されるくらい小狡く立ち回ったんでしょう!? 人の亭主に色目を使っている泥棒猫、独り占めしてたって不思議じゃないわ!」

 

「───私と〝先生〟はそんなんじゃないよ」

 

「いーちゃん。実際に今の技術で他人の知識や感情をDCB経由で流し込んだらどうなるのですか?」

 

 燃焼反応を嗅ぎ分けるや否や、即座に〝C〟が話題を修正した。

 

「さあ? わからない、としか言い様がないわ。やったことないんだもの」

 

「一回も試していないんですか?」

 

「あのねぇ……。人の身体で行う実験ってすごくデリケートなの。面倒な手続きがいくつもあって、人道的か、安全性は? 目的に対してどの程度有効なのか。そういう基準を網羅した上で初めてできるの。それを無視して先走った挙句人が死んだら、国中の同業者から恨まれるわ」

 

 危険な研究だって凍結されるなり、どこも予算が削られるなりするだろうから、と私は答えた。

 

 でも。

 

「まあ仮に? 百歩どころか億歩譲って? 自分たちの好奇心のために、研究が他国の周回遅れになるリスクを犯す愚か者どもが万が一にも居たとして?」

 

「やってるじゃないですか」

 

「やってません。弊研究所にそのような記録は存在しません」

 

「うわ……」

 

「3D酔いをずっと重篤にしたような症状が出るわ。例えばコメディ映画を観た体験をまだ観ていない被験者に送信したとする。結果、何がおかしいのかもわからず笑うように痙攣しながら嘔吐して、そのあとバッドトリップに入る感じって言えば、多少は伝わる?」

 

「酔いというより、粗悪な麻薬の間違いでは?」

 

「結局神経系って、全身の神経が一体となってひとつのシステムなのよね。視覚情報と平衡覚情報の齟齬で気持ち悪くなるのと原理は同じ。脳に直接電気信号を送ったところで、肉体は何も感じていないんだから、脳が無駄に混乱して拒否反応を示すだけなのよ」

 

 つまり結論として。

 

「父の方便───なのでしょうね」

 

 憂いを帯びた声音で〝C〟が呟いた。

 

「わたしの周囲で信者の空気が悪くなっていたことは理解していました。けれどわたしにあちらを立ててこちらも立てるだけの技量はなかった。だから父は、一時的にでもわたしが教団と離れれば、問題は沈静化すると考えたのでしょうね」

 

 うわ、と内心で慄いた。

 

 永久に逃亡する気満々だったくせに、まるで戻る意思があったかのような嘘を平然と混ぜている。

 

 けれどそれより。

 

「私は───完全な巻き添えか……」

 

 何の意味も無かった。ただコミュニケーションエラーの負債を一身に背負わされただけ。長々と鞭打たれただけ、私ひとりだけがひどく損をしている。

 

 そもそもコミュニケーションエラーの原因だって、コイツらが〝先生〟を殺したせいだ。〝C〟が教団を離れたくらいで箍が外れて、一体どれだけの人間に迷惑をかけているのだろう。

 

 こいつら全員死ねばいいのに、と素直に思った。

 

 すべてが徒労だとわかった瞬間、アドレナリンが誤魔化していた疲労感と身体の背面を苛む激痛が一息に私へ襲い掛かった。

 

 意識を失わないよう気力で耐える意味すら無い。警察も近くまで来ているそうだし、もう倒れてしまおうか。そう覚悟したときに限って、意識のスイッチは中々オフになってはくれない。

 

 気づけば母娘の会話も佳境に入っている。

 

「元を正せば、あなたの曖昧な立場をなあなあで許してしまったのが、わたしの頽落(たいらく)で、過ちだったのでしょうね」

 

「過ち……? 何を言っているの? ねぇ、お母さんを助けてくれるのね? どうしてわたしが警察に捕まらなくちゃいけないの? お母さん、何も悪いことしてないのよ。その女にだって、お母さんは指一本触れていないんですもの」

 

「そこです」

 

〝慈母〟は首を傾げた。

 

「あなたはわたしの母ですか? それとも───ただの信徒ですか?」

 

 そうして〝C〟は〝慈母〟の才能を、評価を、権力を、魅力を、成功を、賞賛を、武器を、拠り所を、正当性を、ひとつずつ削いでいった。

 

 ここには言葉があった。言葉しかなかった。そして───言葉は神であった。

 

 内的世界は言葉によって創られている。

 

〝慈母〟の世界を構成する言葉を、〝C〟は丁寧に入れ替え、組み直し、変質させた。

 

 教祖としての格が違った。

 

 暴力に訴えて私一人回心させることができなかった親とは対照的に、娘は言葉だけで世界を変えた。

 

 運良く甘い汁が吸える立場に落ち着いた〝慈母〟と、信徒のために言葉を尽くしてきた〝C〟との、明確な差だった。

 

「あなたはただ、男か女かもわからない子供を産んだと後ろ指を指されるのが嫌なだけだったのですよ。世間体を恐れて、逆に讃えられる環境へ逃げ込んだだけに過ぎません」

 

 幼き日の、母親とのドライブが楽しかったと〝C〟は言っていた。きっと、普通の家族として機能していた時間もあったのだろう。その穏やかな時間まで、〝C〟は解体することを決めたようだった。

 

 やがて。

 

 話し合いの体を成した侵略戦争は。

 

「どうしてぇっ……! わたしは、わたしは〝慈母〟だったのにぃ……っ! うぁあああああああああああ!!」

 

〝慈母〟がみっともなく、無様に、立場ある大人とは到底思えないような、子供の如き泣き声を喚き散らして───決着した。

 

 その泣き声が。

 

 ひどく。

 

 癇に障って。

 

 耳の奥に響いて。

 

 頭の中にいつの間にか作られていたスイッチを押すように。

 

 私の視界を赤く染めた。

 

 私の世界から───言葉が消えた。

 

 

       ◇

 

 

 意識はあったが思考は無かった。あのときの状態を説明するなら、そういう感覚になりますね。

 

 二時間? 二時間もそんな状態だったんですか……。

 

 人間って、常に何かを思考しているわけじゃありませんよね? ぼうっとしてるわけでもなく、食事だったり運動だったり、動作に少しでも集中すると、身体の自動操縦に身を任せるわけじゃないですか。

 

 スプーンでスープを掬ってだの、次は右足を出してだの、そんなことはいちいち思考の上には浮かばないですよね。ただただ自動的に、何も考えず流れで行ってしまうことです。

 

 だから。

 

 全員が私と同じ状態だったのなら、殺意と呼べるものは無かったと思いますよ。他の人がどう言っているのかは知りませんが。

 

 ───は? 死んだ? 全員ですか? お互いに殺し合って?

 

 生き残ってるのは私と〝C〟だけ?

 

 いやまあ、落ち着いていた信者たちが一斉に暴れ出した光景は見てましたし、やっぱりあそこ、普段は農具とかしまってる小屋だったんですよね? 小屋から飛び出した信者が鍬やら鋤やらを振り回してる姿も覚えてます。

 

 というか、気力と体力が限界を迎えていなかったら、きっと私もあの輪の中に交じってたんでしょうね。慌てた〝C〟に小屋の隅っこまで引き摺られて、庇うように抱きかかえられてるだけでしたけど。

 

 殺し合いに交ざろうとしていたのに、私に殺意は無かったのか? ……ニュアンスが難しいですね。鞭を打たれていた時間はこいつら全員ぶっ殺してやると思ってましたよ。当然じゃないですか。殴られたから殴り返す。これ以上なくわかりやすいでしょう?

 

 刑事さんも今苦笑しましたよね。私が事件に巻き込まれた過程を思い返して、自分が私の立場だったらと仮定して、さっきの私の発言にある程度共感を示したわけですよね?

 

 でもそういうのじゃないんです。〝C〟以外の全員が狂っていたあの時間。私は報復のことなんて考えてませんでした。ただただわけのわからない不快感が湧き上がって、ひたすら攻撃的な気分になって、何かを殴りつけたい衝動でいっぱいでした。

 

 なぜ殴りたいのかとも、何を殴りたいのかとも、そんな疑問は浮かばなかったですね。

 

 まあ、ボロボロだった私は何もできなかったわけですけど。

 

 理解と共感と納得がある筋の通った論理で動く精神状態じゃなかったんですよ。

 

 ───あの、もししてたらなんですけど、薬物検査とかって……?

 

 あ。死んだ人も含めて全員陰性。

 

 こんな説明に困る精神状態になったのは初めてなので、拉致されたときに何か盛られていた可能性は正直疑ってたんですけど、まあそれはそうですよね。

 

 人体ってかなり個体差が大きいのに、十数人へ同時に目に見えた薬効が出るのもありえないとも思っていましたから。

 

 そもそも殺意って理性の賜物じゃないですか。

 

 ははっ。不服そう。私も言葉が足りないですね。

 

 殺意って、思うことはあっても、幼い頃から培った道徳や倫理や遵法精神がブレーキになって、行動に移せないじゃないですか。正気なら。行動に移してはいけないと考えるのは、法律に違反するとペナルティを被る、罪には罰をという物語が生きているから。

 

 その物語を破綻させてもいいという考えは結局言葉の中でしか生まれない、と私は考えています。だから殺意は理性の賜物だと言ったわけです。

 

 でも言葉を扱う領域って脳の中でも全然表層なんですよ。

 

 だから本能というか、原始的というか、思考になる前の深いところで判断しちゃうと理性が追いつかないというか、そもそもあのときは理性と呼べるものが働いてなかったというか。

 

 そういうわけで殺意を抱いていたわけではない発言につながるんですけど。

 

 我を忘れてカッとなった?

 

 んー。結局、そう言い表すしかないんでしょうね。癇癪起こして暴れただけというか。

 

 ただ。

 

 そのカッとなる瞬間が延々と積み重なって。

 

 我を忘れると言うよりも───我が消えていた感じでしたけど。

 

 理解してもらおうとするなら。

 

 カルトの信者たちが突然殺気立って、心身ともに疲弊していた私はそれを受けて錯乱。信者が殺気立った理由は、法を犯させる命令をしていた指導者が自分たちを切り捨てるような掌返しをしたから。

 

 ───みたいな、理解しやすい物語になるんでしょうね。

 

 

 これがカルト教団から救助され、搬送先の病院で治療を受けた私が、病室で行われた事情聴取で警察に語ったすべてだ。

 

 

       ◇

 

 

「仮説の域を出ないから、警察に黙ってたことが山のようにあるだけよ」

 

 警察に保護されてから数日間の入院を経て、シェアハウスでの生活に戻った。

 

 シェアハウスに住み続ける必要は、無いと言えば無かった。

 

 幹部クラスの人間が軒並み死んだおかげで、反社会的な独立宗教法人には解散命令が下された。

 

 シェアハウスに逃げ込んだのは、カルト対策の一言に尽きる。教団が無くなったからといって信者が全員居なくなるわけではないが、私たちを執拗に付け狙っていた一派は文字通り全滅した。胸のすく思いだ。

 

 DCBの件は〝C〟ですら把握していなかった。組織の中でも運営に携わっている上位陣しか共有されておらず、新しい金儲けの手段として情報が秘匿されていたのだろう。

 

 これで教団の残党に狙われ続けることはない───と思いたい。

 

 まあないだろうと思っている。

 

 だから元々住んでいた部屋に戻ろうと思えば、いつでも戻れた。

 

 私をシェアハウスに引き留めたのは、偏に背中を中心とした傷跡の激痛だ。幸いにも後遺症が残るような大怪我ではなかった。けれど少し身体を捻るだけで引き攣るような痛みが走る。一人で背中に塗り薬を塗布するなんて、土台無理な話だった。

 

 しばらくの間、私は〝C〟にサポートされながら生活していた。

 

 仕事は心身のケアと称して一ヶ月ほど休職した。追われる理由がなくなった〝C〟は、引きこもり生活をやめた。脱DCBの経過観察のため、自分の足で研究所まで赴いている。

 

 傷が快方に向かうことで生活が多少はマシになり、車の運転くらいはできるようになった頃。

 

 私は〝C〟を誘って、ドライブに出かけた。

 

「今でも少し、虚しさを覚えます」

 

 助手席に座った〝C〟がポツリと呟く。

 

「わたしにとっては実家のようなものでしたが、殺人という一線を越えてしまっていましたから。最後の最後に自棄になって下手な反抗を始めないように、あの場に居た全員の心を摘んだつもりだったのですが」

 

 上手くはいかないものですね、と〝C〟は言った。

 

「予想だにしていない幕切れではあったわね」

 

 ハンドルを握るのが久しぶりに感じる。念のため丁寧なステアリングを意識した。タイヤが路面をきっちり掴んでいる感覚に集中する。ブレーキングもコーナリングも、私の記憶と寸分違わず車体が動くことを確認する。

 

 ほんの数週間前まで、こうしたドライブが日課になっていたはずなのに。

 

 その日々を回顧したまま、私は口を開いた。

 

「ねぇ。〝先生〟が殺された日のこと、覚えてる? 遠出するのに出発が遅くなるから、帰りは定時過ぎるかもって事前に連絡したのに、いざ行こうとするとナビアプリに貸本屋は定休日だって教えられた日ね」

 

「……早々、忘れられる記憶ではございませんよ」

 

「だろうね」

 

「どうかしたのですか? 今になってそんな話をして」

 

「いや? そういえば、アンタが女性の泣き叫ぶような声を聞いた後に、捕まった信者は暴れ出したんだったなって思い至っただけ。人が人を殺す瞬間に居合わせたのなら、恐くなって泣き叫ぶくらいはしてもおかしくないって気にも留めていなかったけれど」

 

「……順序がおかしい? いえ、ですが、声を聞いたのは、暴れ始める前だったか、暴れ出してからだったか、もう自信がありません」

 

「小屋の中に居た全員が殺し合いを始めたとき、アンタの母親は泣き叫んでいたけどね」

 

「───、───」

 

〝C〟は両手を合わせて、親指の先に顎を乗せた。思考に沈み、やがてゆっくりと口を開いた。

 

「母は、感情豊かと言えば聞こえはいいですが、年々感情の制御を失っていました。単純な更年期かもしれませんが……」

 

「典型的な教祖の素質かもって? 常に賞賛と権力を必要としているような人種だもの。自分の機嫌ひとつで周りの人間が右往左往していたなら、感情の発露を我慢しようだなんて思わなくなるでしょうね」

 

「いつ母が泣き叫ぶか。そんな予測は不可能です。しかし、遠からず起こり得ることだけは推測できます」

 

「加齢のせいか。環境のせいか。あるいは、その両方か。人格は、ただの鏡なんでしょう?」

 

「そうですね。自我とは、他者との関わりの中で生まれる、他者を通して作り上げられた虚構だと解釈しています」

 

「けれど同時に肉体の反応でもある。こんな話は知ってる? 優しかった亭主がある日を境に暴言や暴力が絶えない人に変わってしまった。実はその少し前に亭主は頭を打つような事故に遭っていて、その衝撃でほんの一、二ミリの骨片が脳に刺さっていたのね。それが原因で攻撃的な性格になり、手術で骨片を取り除くと、元の性格に戻ったそうよ」

 

 人格なんてものはその程度の刺激で変質する虚構に過ぎないわけね、と私は言った。

 

 高速に乗って少し走ると、人間の居住区はあっという間に疎らになった。家々の間隔がたちまち広くなり、青々とした緑や土の色が目立ち始める。

 

「いーちゃんは、何に───気づいたのですか?」

 

「新発見をしたわけじゃない。休んでる間は調べ物なんて何もしてないし」

 

 けれど。

 

 アイディアだけは、病院で正気に戻ってすぐ閃いた。

 

「仮説の域を出ないから、警察に黙ってたことが山のようにあるだけよ」

 

 見てみて、と私はハンドルから右手を離して、掌を〝C〟に向けた。

 

「何ですか? 塩? が、吹いているような……?」

 

 掌には、とても、とても細かな、白い粉のようなものが皮膚の表面に付いている。

 

 面白いでしょ、と笑って、私はハンドルを握り直した。

 

「どういう仕組みか知らないけど。というか、そんな仕組みなんて想定されてるはずがないんだけど。これが適合したってことなのか。昨日辺りから、生産量をコントロールできるようになったの」

 

「はあ。生産……? それ、一体何なんですか?」

 

「たぶん───」

 

 DCBよ、と私は答えた。

 

「ごたごたで車に積みっ放しになっていたDCBの受信機でね、()()()()()()()()()。当然、アンタみたいに経口摂取したことはない」

 

「本物、なのですか? 誰かに盛られていたとか……?」

 

「本物かはわからない。可視化できるほどの塊なんて、この掌の上だけで何兆個あるんだって話よね。いや、総数は兆程度じゃ利かないか。これを確かめるには研究所の設備が必要になる。設備を使ったら記録が残るし、私程度の権限だと、ログを消したってログが残っちゃうから。正直、仮説を実証する気は無いのよね」

 

 で、後者についてだけど、と私は続ける、

 

「もしも、接触によってDCBを注入できたとしたら? ウイルスみたいに手に付着して、目や口を触った際に粘膜から体内に侵入して。そして血流に乗って脳へ侵入したとしたら?」

 

「可能なんですか? そんなこと……」

 

「ウイルスもDCBも、特殊な分子配列の有機物と雑に括ってしまえば同じではあるわね。実現できるかは置いといて、理論上はできると思う。それで、これはアンタに聞きたかったことなんだけど、DCBの排出は順調?」

 

「……推移をグラフ化したとき、想定より曲線が緩やかではあるそうです」

 

「なるほどね。治験で摂取したDCBの排出はもう終わっていて、私経由で感染───感染って単語が適当かはわからないけど、別種のDCBが混入していると仮定できるわね」

 

「教団のみなさんが殺し合いを始めた原因は、DCBなのですか? だとしたら、どうしてわたしだけがあの場で正気だったんです? いーちゃんから感染するなら、わたしが一番の濃厚接触者になっているはずです」

 

「DCBに与えられた命令は三つだと睨んでる。一つ目は増えろ。二つ目は聴覚が特定の周波数で刺激されたら、扁桃体とか、人が攻撃的になる部位に信号を送れ。三つ目は───ある脳波を検知したら、それらを実行しない」

 

〝C〟の脳波データだけは、すぐ潤沢になったでしょ、と私は答えた。

 

「治験の目的は、教団と距離を置くことではなく、データの収集が目的だったと? そのデータが組み込まれていたから、わたしだけが正気を保っていた?」

 

「らしさはあるでしょ。筋道だけは通してるから」

 

 高速を降りる。降りてすぐはまだ人間のテリトリーという感じだったけれど、一般道を少し走ると自然の息遣いが力強くなっていく。

 

「〝先生〟は、特に抵抗しなかったそうね。生理的に防御はするけど、やり返してはいなかったそうじゃない。殺人犯が感染型DCBのせいで〝先生〟を殺したのなら、感染源は〝先生〟自身のはず。けれど〝先生〟は攻撃的な振る舞いはしなかった」

 

〝C〟と同じように。

 

「父は信者に殺されたのではなく、自分を殺させたというのですか? 動作テストの一環として?」

 

「真っ当な理性があれば〝先生〟を殺す理由は皆無だしね。閉鎖環境で認知が歪んだ人間が何かの弾みで人を殺した。そういうバイアスがかかってたから気にも留めていなかったけど、被害は甚大だった。すべて知ってるキーマンが居なくなったのだもの。情報は錯綜。結果的に幹部は大体死んで、カルトは解散。そして───アンタは自由になった」

 

「……父は、本当にそこまでの絵を描いていたのでしょうか?」

 

「さぁね。根拠は無いよ。ぜーんぶ、私の妄想だから」

 

「……虚しさは増すばかりです。わたしは、父の愛と、悪意を、読み切れなかったのですね。そしてその悪意に」

 

 いーちゃんまで、晒されてしまいました、と〝C〟は言った。

 

「いーちゃんの感染源も、父なのでしょう?」

 

 あの日。

 

〝先生〟が信者に殺された日。

 

〝先生〟が信者に殺しをさせた日。

 

 私は〝先生〟から祈るように手を包まれた。

 

 ───娘のことを。

 

 ───よろしく頼むよ。

 

 あの瞬間───なのだろう。

 

 さすがに失笑してしまう。

 

 よろしく頼むの裏に隠された意味が、保菌者(キャリア)になって敵地を壊滅させて来いという、死出の片道切符だったなんて。

 

 私は〝C〟の協力者でも何でもなく、ただの鉄砲玉で、捨て駒だったというわけだ。

 

「〝先生〟のことを愛してた───なんてことはありえないんだけど。それでも〝先生〟に父性を見出して、惹かれていたのは事実かもね」

 

「父性、ですか?」

 

「親と呼べるような人は私には居なかったから。私の父親は、昔は一角の成功者だったらしいわ。けれど、私が物心ついた頃には、黴の生えた教えに傾倒して、資産を全部献金という名のドブに捨てる行為に勤しむ馬鹿に成り果ててた。ママは───」

 

 咄嗟に口を突いて出た言葉に苦笑する。

 

「お母さんって単語を覚える前に死んでしまったの。だから子供の頃は、もっとまともな家に生まれたかったとしか思ってなかったわね。世界のすべてを恨んで、でも何の力も無い子供なんだから何もできなくて。たまたま運が良かったから、その環境からは抜け出せたのだけれど」

 

 まともさを求めていたあの頃の私が、まだどこかに眠っていて夢を見ていたの、と私は結んだ。

 

「父を、恨んでいますか?」

 

「いいえ」

 

「一方的に利用されて、搾取されて、殺されかけたのに、ですか?」

 

「それは〝先生〟だけじゃない。ずっとずっと溜め込んできた感情を、私は何も忘れてない。忘れられなかった。そして私はもう───力を持たない子供じゃない」

 

「もう少し時間が経てば、わからなくなってしまうのではないですか?」

 

「DCBが脳内で増えすぎて認知症になるんじゃないかって? なったらどうする? 今のサポート期間延長して、面倒でもみてくれるの?」

 

 いいですよ、と〝C〟は即答した。

 

 じゃあ任せるわ、と私も応じた。

 

 私有地の看板が掲げられた敷地の前で車を停める。民家の並びは絶えて久しい。近隣住民すら存在しない山奥が、私が攫われたカルト教団の支部であるらしかった。

 

 気にせず敷地に踏み入って、奥へ奥へと進んでいく。

 

 畑が見えた。

 

 農具小屋の中から一瞬見えた光景では、もっと青々とした印象だったけれど。

 

 近づいてまじまじと植物を見ると、葉っぱは緑というより黄ばんでいて、大きさが不揃いで形が歪だ。

 

 実物を見ることは滅多にないが、植物の葉は線対称だと思い込んでいた。

 

 こういうものなの? と隣を歩く〝C〟に訊ねる。

 

「病気なのでしょう。農薬を進んで使うような教義ではありませんでしたから。食中毒の恐れがあるので、食べない方が賢明ですね」

 

 私が監禁されていた小屋を通り過ぎて尚も進んでいくと、大人数が居住できそうな建物に辿り着く。

 

 私たちが建物の前に着く頃には、中からわらわらとカルトの残党が顔を見せていた。残党と言っても、みな歳若い。成人していない子供がほとんどだろうか。

 

 事前の調べでは、この私有地の所有者も殺し合いの中で死んでいるはずだった。

 

 つまるところ、彼らはみな空き家を不法占拠している偽りの住人だ。

 

 カルトが解体されて、自由になって、それでも行く当ても頼る相手もおらず、ここに戻ってくるしかなかった者たち。

 

 中からは辛うじて成人を迎えていると思しき青年たちが肩を怒らせながら現れた。

 

「取り引きしない?」

 

 機先を制して声をかける。

 

「───は?」

 

 彼らの視線が〝C〟に集まる。

 

 さすがに、向こうは〝C〟の顔を知っているようだった。

 

〝C〟を隠すように前へ出る。

 

「ああ。こっちはここまでの道案内を頼んだだけだから。君らに用があるのは私だけだよ」

 

「取り引きって、じゃあ俺らに得のあることしてくれんのかよ?」

 

 猜疑の塊のような言葉が投げられる。誰も何も、信じていないのだろう。

 

 彼らを見て、懐かしさすら込み上げてきてしまう。

 

「スマートグラスの受給の仕方とか、使い方とか、まあ教えられることは色々あると思うけど───」

 

 そこまで言ったところで彼らの瞳がぎらりと光った。国民の九割が使っているツールを持っていないということは、ただそれだけでハンデになる場合もある。

 

 そのデメリットが本当に帳消しにできるのならと、考えてしまったのだろう。

 

「究極的には、みんなで不幸になる手伝いをしてほしい」

 

「はあ!? ふざけんな! そんなんお前ひとりで不幸になってろよ!」

 

「君らと不幸になるんじゃなくて、みんなだって。それとも、君たちは知らないの?」

 

 空腹に耐えかねて親の食べ物に手を出したら折檻されたことを。

 

 飲食店の廃棄物が無いか街をうろついたことを。

 

 動物愛護団体か何かが用意したエサを犬猫と奪い合ったことを。

 

 それでも何も無いときは、ティッシュや布の切れ端を飲み込んで飢えを誤魔化したことを。

 

 死にそうなくらい高熱を出しても、放置されるだけで、共同体の誰も手を差し伸べてくれなかったことを。

 

 ───私は。

 

「全部知ってるけれど。君たちは、憎くないの?」

 

 普段はどうでもいい透明な存在として見向きもしないくせに、都合のいいときだけ私たちの人生を自分勝手に切り貼りしてパッチワークするやつらを。

 

 そいつらをさらに利用して金を落としていくやつらを。

 

 こんな連中が大きな顔をして作っている社会を、地域を、世界を。

 

「憎まないで生きていられるの? こいつら全員に不幸になってもらいたいとは思わないの?」

 

 爆発寸前で、ずっと凝縮させたままの憎悪を解放するときが来たのだ。

 

 生き物は熱量(カロリー)で動いている。生きる行為は熱の塊だ。けれど世界は酷薄で、無慈悲で、容赦なく、私たちから熱を奪っていく。

 

 だったら。

 

 もう私たちから熱を奪えないように。

 

 世界のすべてに───火を点けよう。

 

「……俺たちに、何をさせたいんだよ」

 

「フルオートメーション工場の食材搬入」

 

 アイスクリーム工場の求人があれば最高ね、と私は笑った。

 

 

       ◇

 

 

 そうして、赤灯(レッドライト)が生まれたってわけなのです。

 

 どうでしたか、お兄ちゃん? 今お兄ちゃんの頭の中に直接赤灯(レッドライト)の生みの親とも言える人の記憶を流し込んでみたのですが、気分は如何です?

 

 ふふん。最先端科学よりも、赤灯(レッドライト)の方がDCBの扱いには長けているですよ。なんせDCBは赤灯(レッドライト)の手足のようなものなのですから。

 

 それでどうしたですか?

 

 ふむふむ? この女は(リョウ)だなッ!? ですか……。まず。うるせーですよ、バカヤロー。怒鳴らなくたって聞こえてるです。

 

 んふふ。それはそれとして、正解なのです、お兄ちゃん。いやさ───お祖父ちゃん、と呼ぶべきですか? リョウお母さんのお父さん。

 

 赤灯(レッドライト)はとってもたくさんの人類が無自覚に垂れ流す微弱な脳波を収束させた非実在系美少女です。だからお祖父ちゃんの孫ってわけではないですけど。

 

 んー、わからないですか? 元々DCBは専用の受信機で脳波を拾えるよう電波を発信し続けていたですよ。単体だったら何の害もない本当によわよわ電波なのです。けどそれが十人になって、百人になって、千人になって、万人になって、億人を超え、世界人口の大半がDCBの苗床になっていれば、どうなると思うです?

 

 ちょっとスケールが大きかったですか? そんな人数がまとめて病気になるなんてありえない? リョウお母さんも体験してたですが、保菌者(キャリア)とちょっと握手する程度の接触で、その人は新しい保菌者(キャリア)になるですよ。

 

 リョウお母さんが食品工場で人知れずバイオテロを継続したことで保菌者(キャリア)の数は爆増したです。工場の中には輸出品を作るところもあったですし、何より〝C〟が作った草の根ネットワークには赤灯(レッドライト)もドン引きです。

 

〝C〟はまず、国内の貧困層を相手に共助体制を取らせたです。それはまあ、ノウハウがあるからわかるです。

 

 けどそこから外国人労働者や密入国者までシンパを増やして、彼らが帰国なり国外退去させられた暁には、ちゃんと母国で保菌者(キャリア)になるよう仕込んでたですよ。

 

 そんな感じで、世界中至る所で保菌者(キャリア)は鼠算式に増えたです。

 

 そして保菌者(キャリア)の数が一定数を超えたので、赤灯(レッドライト)はこの世に現出できるようになったです。

 

 ミクロの物がマクロに広がると、新たな概念が生まれるのが世の理の習わしなのはわかるですね? ……意味がわからない? はあ。これだから知性を捨てた脳みそで聖書しか読まなくなったやつはダメなのです。

 

 いいですか? 物質の最小構成は素粒子です。でも素粒子の世界には色も温度もねーですよ。素粒子がたくさん集まって、物体の規模が大きくなって初めて、それらは唐突に生じるものなのです。

 

 人間だってその脳みそを無駄に大きく進化することで、時間や空間だとかいう在りもしない概念を作りやがったのですよ。

 

 ……まだ理解できねーですか。コップ一杯の水はただの水ですが、地表の七割を覆う水を用意すれば、それは海になるですよ。今まで存在しなかった新しい概念になるのです。よろしいか?

 

 赤灯(レッドライト)も同じです。

 

 人類の脳波を縒り合わせ、新たな存在としてここに降臨したのです。

 

 選ばせてやるですよ、お祖父ちゃん。そのために、赤灯(レッドライト)はここにいるです。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。お祖父ちゃんから始まったのなら、終わる権利もお祖父ちゃんにくれてやるです。

 

 初めに言ったです。ここが憎悪の最先端だと。時代の変革が始まる分水嶺だと。

 

 お祖父ちゃんの選択で、人の時代が終わる可能性だってあるのですよ。

 

 DCBの効力は、わかってるですね? あれは言わば、動物が持っている本能を呼び覚ますものです。子供が外敵に襲われて、助けを求める鳴き声を上げれば、親はすぐさま駆けつけて、必死に外敵を排除します。

 

 何を守るべきで、何が外敵なのかもわからないまま、排除しなければならない本能だけが暴走する。

 

 そんな虐殺のためのスイッチを、頭の中に作り出す道具。

 

 赤灯(レッドライト)は、赤信号(シグナルレッド)らしく警告します。

 

 お祖父ちゃんは───このスイッチを押すですか?

 

 はあ。

 

 うるさい?

 

 わけのわからない戯れ言?

 

 リョウなどという出来損ないごと消えてしまえ?

 

 赤灯(レッドライト)は非実在の存在で、お祖父ちゃんが知覚しやすいように、お祖父ちゃんの脳内に直接姿を投影してるだけなのです。だから赤灯(レッドライト)を殴ったところで掠りもしないのですよ。

 

 けど。

 

 ───悲しいです。この期に及んで、そんな言動しかできねーのですね。

 

 赤灯(レッドライト)は───悲しくなって泣きました。

 

 赤灯(レッドライト)を構成するすべての人間に、人類の大半に聞こえるように───泣き叫びました。

 

 この瞬間、言葉は意味を失ったのです。

 

 誰も彼もが生きていく中で自然と身につけていた共通の幻想はたった今無効化されたです。

 

 愛すべき隣人は、真に理解の及ばない異邦人へと成り果てたです。

 

 人々は互いに互いを異邦人と捉え、排除するために動くのです。

 

 ここに(ことば)は死にました。

 

 リョウお母さんの身に起きた虐殺スイッチ継続時間はおよそ二時間。

 

 日本時間は土曜二十三時。ここから二時間でどれだけの人類が減るのでしょう。

 

 たとえ今日人類が滅ぶとしても。

 

 それはきっと。

 

 神様が死んだからとかじゃねーのです。

 

 太陽が眩しかったからだとか。きっとそんな、くだらねー理由、なのですよ。

 

 

 了

 


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