ポケモン世界でどう生きるのか   作:ポケモンマスターにはなれない

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出会い 幼少期

 

――ポケモンなんて、ただの数字だ。

そう思っていた。

強さは種族値、技構成は効率、勝率はデータ。

この世界に生まれてから、私はずっとそういう目でポケモンを見ていた。

前の世界では、ポケモンは“ゲーム”だった。

画面の向こうで、私は指を動かし、勝敗を計算していた。

感情なんて、いらなかった。

必要なのは読みと数値。

そう信じていた。

……けれど、気づいたときには、違っていた。

光に包まれて、息をすることを思い出した。

誰かの泣き声がして、暖かい腕に抱かれていた。

耳元で、優しく名前を呼ばれた。

——「アリア」。

それが、この世界での私の名前だった。

目を開けると、知らない天井が見えた。

木の香りがして、外では鳥が鳴いている。

小さな手が動かない。言葉も出ない。

……赤ん坊だった。

理解するのに時間がかかった。

これは夢でもゲームでもない。

私はポケモンが“現実にいる世界”に、生まれ落ちた。

まるでリセットボタンを押されたように。

けれど、不思議と恐怖はなかった。

むしろ胸の奥が静かに熱くて、涙が滲んだ。

「生きている」って、こういうことなのかもしれない。

それでも、ポケモンに対する感情はまだ芽生えていなかった。

どんなに愛らしい姿を見ても、頭の中では数値が浮かぶ。

進化条件、タイプ相性、努力値。

……私の中の“前の世界”が、まだ消えていなかった。

 

 

 ☆

目が覚めたとき、最初に見えたのは、淡い光だった。

 白い天井でも、蛍光灯でもない。

 揺らめくカーテンの隙間からこぼれる、朝の陽。

 温度。匂い。肌を包む布の感触。

 ひとつひとつが、あまりにも鮮明で――作りものではないと悟った。

 (……ここは、ゲームじゃない)

 声にならない思考が、頭の奥でぼんやり浮かぶ。

 生まれ変わったばかりの身体は思うように動かない。

 けれど、目だけは世界をよく見ていた。

 揺籠のそばには、優しそうな女の人がいる。

 母だ。名前を呼ばれても、言葉にはならない。

 それでも、声の響きだけで伝わってくるものがあった。

 愛情、安心、そして、生きているという確かな実感。

 日々が過ぎるにつれて、僕は観察を繰り返した。

 言葉を覚えるより先に、世界を「読む」ことを始めた。

 家の外に出ると、土の匂いと潮風が混ざっていた。

 遠くに見えるのは青い海――ここがホウエン地方のどこかだと気づいたのは、

 空を横切るペリッパーの姿を見たときだ。

 現実離れした存在が、あまりにも自然に空を飛んでいた。

 (……これが、“現実のポケモン世界”)

 信じがたい光景なのに、不思議と心は静かだった。

 観察すればするほど、この世界が“作り物ではない”と理解していった。

 ポケモンは、勝つための道具ではなく――呼吸して、感情を持っている。

 母が庭で育てているマリルは、機嫌が悪いとしっぽで水をはねかけ、

 機嫌のいい日はひとの足元に転がって甘えた。

 その表情の細やかさは、画面の中では絶対に見えなかったものだった。

 年が3つになりはじめる頃、私は、怪しまれないように少しづつ、舌たらずな声で話し始めた。

 少しずつ話すたびに、周囲の大人たちは驚いた顔をした。神童だと持て囃された。

 子どもらしからぬ観察と分析をするからだろう。

ポケモンについても前世の知識があったから、知識をひけらかす度に将来は博士ね。なんて言われた。

 

  

 「ねえ、お母さん。ポケモンは、戦いたくないときもあるの?」

 「……どうしてそう思うの?」

 「マリルの目が、こわいときの目をしてた」

 母は少し黙ってから、微笑んだ。

 「そうね。人もポケモンも、怖いときはあるのよ」

 その答えを聞いたとき、胸の奥で何かがざらついた。

 ――前の世界では、そんな当たり前のことを忘れていた。

 バトルはデータではなく、命と命のぶつかり合い。

 この世界では、それを誰もが当然のように知っている。

 けれど、私にはまだその“実感”が足りなかった。

 どこか遠くで、前世の癖が囁く。

 勝てる手を、探せ と。

 その囁きを打ち消すように、私は空を見上げた。

 高く舞うペリッパーが、海風を切っていく。

 雲の向こうに光る太陽が、世界のすべてを照らしていた。

 (この世界で――生きてみよう。)

 ただ観察するだけではなく、理解してみたいと思った。

 数字の裏側にある“心”というものを。

 

 

ホウエン地方の南にある、小さな港町。

 潮風がいつも吹いて、昼になると子どもたちが波止場に集まる。

 私はその輪の外で、静かに彼らを見ていた。

「ポチエナ、かみつけ!」

 「ジグザグマ、すぐ避けて!」

 子どもたちは必死に叫び、ポケモンたちはそのたびに動き回る。

 小さな体が砂を蹴り上げるたび、見物人が歓声を上げた。

 私はその光景を、無表情のまま眺めていた。

 もうすでに、どういう展開になるか分かっていたからだ。

 ポチエナの素早さでは回避が間に合わない。

 ジグザグマの技構成は単調。持ち物も、きっと何も持たせていない。

 このまま押し切られて終わる。

 「……つまらない」

 思わず口の中でつぶやいた。

 この世界に生まれて、まだ十年も経っていない。

 それでも、周囲の戦いがどれほど“浅い”かはすぐに分かった。

 経験値も戦略も、すべてが低い。

 前の世界では、勝つための計算式があった。

 数値を組み合わせ、確率を詰め、理想を追求する。

 それは静かで、正確で、美しかった。

 けれどこの世界では、感情で指示を出す。

 「頑張れ!」「いけー!」——それだけ。

 データも検証もない。運に任せたような叫び。

 テレビで見たような試合だって同じものだった。

 ポチエナが地面に倒れ、バトルが終わる。

 歓声と拍手。

 勝った少年が笑い、負けた少女が泣く。

 けれど私の胸は、何も動かなかった。

 勝ち方が見えてしまう。

 戦略を立てるまでもなく、勝敗がわかってしまう。

 この世界では、私の知る“本当の戦い”が存在しない。

 ポケモンという存在を、私はどこか遠いものとして見ていた。

 この世界はきっと、退屈な場所だ。

 そんな風に思っていた。

 

 

 ☆

 5歳、両親の勧めで寮生のとても有名で評判のポケモンスクールに入学した。それに入ってからというもの、私の毎日は「勝つための数字」の延長どころか知識として全く役に立たないものだった。

 授業で習うのはタイプ相性、技の威力、くらい。それもちゃんとした数値が書かれているのではない。

 ただの印象。命中率なんてポケモンの技量でなんとかなると思っているのだろうか。

 同学年の子どもたちは今日も教室の隅で騒いでいる。

 私は上手く馴染めていない。それもそうだろう、前世の齢を足せば幾つ歳が離れていると思っているのだ。

 「やったー! きゅうしょにあたった!」

 「ぼくのジグザグマ、さいきょうなんだぞ!」

 私は机に頬杖をついて、それを眺めていた。

 きゅうしょ。確率。乱数。

 理屈を知ってしまえば、喜びの理由は数字に還元される。

 この世界のトレーナーたちは、まだそれを知らない。

 運に一喜一憂し、偶然の勝利に歓声をあげる。

 私はただ、静かに思った。

 ――退屈だ、と。

 先生の声が教室に響いた。

 「今日はバトルの授業はお休みです。校庭で“ポケモンとのふれあい体験”をしましょう」

 ふれあい。

 その言葉に、少し眉をひそめた。

 戦うわけでもなく、データを取るわけでもない時間。

 何の意味があるのか、私には分からなかった。

 家にいるマリルもわたしにそう思われてることに勘づいている節がある。いや寄せ付けてないのは私の方か。

 

 先生に誘導され、外に出た瞬間――風の匂いが変わった。

 草の香りと、少し湿った土の感触。

 その中に、小さな鳴き声が混じっていた。

 「ジグッ!」

 見下ろすと、茶と白のしま模様。

 丸い鼻をひくひくさせて、ジグザグマがこちらを見上げていた。

 つぶらな瞳。

 その目が、どこかまっすぐで、好奇心に満ちている。

 私はしゃがみ込み、慎重に手を伸ばした。

 けれど、その瞬間。

 ジグザグマは迷いもなく私の指先に鼻を押し当て、ぺろりと舌を出した。

「……っ!」

 驚いて手を引く。

 それでも彼は尻尾をぶんぶんと振り、笑うように鳴いた。

 (……何を考えてるの?)

 頭の中で反射的に分析が始まる。

 警戒心の薄さ、環境への慣れ、行動パターン。

 しかし、どんな理屈を並べても、今の彼の行動を説明しきれなかった。

 ジグザグマはただ――私と「遊びたかった」だけなのだ。

 数字では測れない、得体の知れないものがそこにあった。

 先生が笑顔で声をかけてくる。

 「どう? 楽しいでしょう?」

 私は少し黙ってから、首を傾げるように答えた。

 「……よく、わかりません」

 でも、言葉の裏で。

 私の指先はもう一度、そっとジグザグマの頭を撫でていた。

 やわらかい毛並みが、確かに“生きていた”。 

 

 

 ☆

翌週、スクールでは「模擬ポケモンバトル」の授業が行われた。

 ルールは簡単――一対一。

 使用するのは、前回の授業でふれあった“学校のポケモン”たち。

 私はあのときのジグザグマを再びパートナーとして選んだ。

 隣の子――活発でいつも声の大きい男子――も、同じくジグザグマを使うという。

 先生が手を叩く。

 「どちらのジグザグマも、レベルは同じよ。

 覚えている技は「たいあたり」と「すなかけ」

 お互い楽しむことを目的にやってみましょうか!」

 ――つまり、条件はほぼイーブン。

 こういう勝負こそ、思考の差が出る。

 私は手持ちのボールを握り、静かに呼吸を整えた。

 「ジグザグマ、お願い」

 光の中から飛び出した小さな影。

 私を見つけると、尻尾をひと振りして鳴いた。

 その仕草を見て、ふっと口元が緩む。

 対戦相手の少年が叫ぶ。

 「いっけー! ジグザグマ、たいあたり!」

 勢いよく突進する相手。

 私のジグザグマは、少し怯むように後ろ足を引いた。

 (慎重……いや、臆病な性格だな)

 ほんの一瞬で、私は判断する。

 そして声をかけた。

 「よけて。すぐ、右に」

 私のジグザグマは反射的に身体をひねり、相手の突進を紙一重でかわした。

 土埃が舞い、ジグザグマの瞳がこちらを向く。

 怯えではなく、集中の光。

 (いい子……考えて動けるタイプ)

 私の中で、戦術が組み上がっていく。

「距離をーーーいや後ろに下がってすぐ、“すなかけ”」

 砂が舞い、相手のジグザグマが目を細める。

 少年が慌てて叫ぶ。

 「なにしてんだ! もういっかい“たいあたり”だ!」

 ――直線的。反応が遅い。

 感情で動くタイプだ。

 私は冷静に息を整える。

「(タイミングを待ってーーー。

 今。カウンターで“たいあたり”」

 互いの体がぶつかり合う。

 だが相手の勢いはわずかに逸れていた。

 私のジグザグマが受け流し気味に当てて、反動を最小限にする。

 その一瞬のズレが、勝敗を決めた。

 相手のジグザグマがよろけて転がる。

 先生が手を挙げた。

 「そこまで! 勝者、アリア!」

 ――歓声。

 けれど私は、少しも興奮しなかった。

 勝因は単純。

 性格、反応速度、指示の単純化。

 データを読み、手順を組んだだけ。

 勝つべくして勝った、それだけの話だ。

 (この世界の子どもたちは、まだ“読み”を知らない)

 静かな優越感が胸を満たす。

けれど、隣で小さく鳴いた声がその思考を止めた。

 

 「……ジグ?」

「…よくやったね。ありがとう」

 私のジグザグマが、心配そうにこちらを見ていた。

 勝ったのに、嬉しそうではない。

 ただ、私の顔を覗き込むようにして、そっと鼻を押し当ててきた。

 その温もりに、心の奥がざわめいた。

 (……なんで、そんな顔をするの?)

 勝ち負けよりも、“何か”を伝えたがっている。

 けれど、私はまだその意味を理解できなかった。

 だからその日、私はノートにこう書いた。

 > 勝てる理由はわかった。

 > でも、勝つだけでは――足りない気がする。 

 

 ☆

翌週からのスクールは、驚くほど単調だった。

 朝に出席を取り、ポケモンの生態や安全管理の講義を受け、昼には自主練の時間。

 同級生たちは自由にトレーニングやおしゃべりをしているが、私は一人でノートを開くことが多かった。

「ジグザグマ、あの木の根元まで走って、“すなかけ”の練習」

 私の声に、ジグザグマは素直に動く。

 だが、すぐに尻尾を振ってこちらを見上げる。

 (……もう飽きてる)

 分かる。動きが軽くなって、集中が切れている。

 勝つためのデータを取るには、もっと繰り返しが必要なのに。

 私は眉をひそめた。

「もう一回」

 そう言うと、ジグザグマは一瞬だけ首を傾げてから、ゆっくり走り出した。

 だが途中で止まり、近くに落ちていた木の実を鼻で転がし始めた。

 「……ジグ、それは今じゃない」

 言いかけて、やめた。

 木の実を転がして遊ぶその姿が、なぜか目を離せなかった。

 小さな体で夢中に動き回り、葉っぱの影からこちらを振り返る。

 目が合うと、尻尾をぱたぱたと振る。

 (……訓練中なのに)

 でも、その尻尾の動きが妙に楽しそうで、私はふっと笑ってしまった。

 ――もしかして、これが“楽しむ”ってこと?

 授業のとき、先生は言っていた。

 「ポケモンとのバトルは、楽しむことが目的」

 私はあの言葉を、ただのお題目だと思っていた。

 けれど、今目の前で笑っているジグザグマを見ていると、

 “勝ち”の外側にも、何かが確かにある気がした。

 その日、ノートの最後に一行だけ書き足した。

 > 今日のジグザグマは、木の実を転がして笑っていた。

 > 私は、それを止められなかった。

 > それが悪いことだとは、どうしても思えなかった。

 

 

 ☆

朝。

 いつもと変わらない時間、食堂の窓際の席。

 トレーの上には、パンとスクランブルエッグ、それから温めすぎたミルク。

 スクールの朝は、静かで単調だ。

 ジグザグマは足元で丸くなり、欠伸をしている。

 壁のモニターには、朝のニュースが流れていた。

 ――「昨日、市内でポケモンが暴走。トレーナーの青年が軽傷」

 キャスターの声は淡々としている。

 映像には、壊れた公園のベンチと、誰かが落としたモンスターボールが映った。

 (……また、か)

 最近こういう報道が多い。

 原因は、トレーナーの指示ミスとか、ポケモンのストレスとか。

 分析しているコメンテーターの言葉が耳に入ってくるが、どれも似たり寄ったりだ。

 「ふーん……」

 私は、パンをひと口かじった。

 他人事。

 知らない誰かの失敗。

 少なくとも、私の“管理下”では起こりえない。

 (命令系統の混乱、感情の暴走。どちらも制御すればいいだけ)

 ただそれだけの話。

 ポケモンはツールで、指示が正しければ誤作動はない。

 私はそう思っていた。

 そのとき、足元のジグザグマが、私の足を鼻でつついていた。

 小さな鼻の体温を感じる。

「……さっき食べたでしょ」

 そう言うと、ジグザグマは尻尾を揺らして見上げてきた。

 なんだか、言葉の意味を理解していないような目。

 でも、悪びれた様子もない。

 私は溜息をつき、パンをちぎって少し分けてやった。

 それを嬉しそうに頬張るジグザグマを見て、ふと考える。

 (暴走って……こういう子でも、するのかな)

 その想像を、すぐに打ち消す。

 ――しない。

 少なくとも、この子は。

 私がそう“管理”しているのだから。

 けれどジグザグマは、私が見ていないあいだに、

 こっそりもう一切れのパンを盗んでいた。

 

 

 ☆

午後の授業が終わったあと。

 中庭の木陰で、ジグと一緒におやつの木の実を食べていた。

 私は本を開きながら、無意識にニュースのことを思い出していた。

 ――ポケモンの暴走。

 あの映像の中の、暴れ回るポケモン。

 トレーナーの声も届かず、ただ力任せに暴れていた。

 (指示が届かない……そんなこと、ある?)

 “管理”できない状況。

 その言葉だけが、胸の奥に引っかかっていた。

「ジグ、ほら、もう食べすぎ。お腹壊すよ」

 そう言って手を伸ばすと、ジグザグマは木の実をくわえたまま、くるりと背を向けた。

 そして、そのまま走り出す。

 「ちょ、ジグ!? 待って!」

 ふざけて逃げたのかと思った。

 でも、角を曲がって見えなくなるのが妙に速い。

 私は慌てて立ち上がり、追いかけた。

 校舎裏の門を抜け、小さな森へ。

 午後の陽が傾き、木漏れ日が地面にまだら模様を作っている。

「ジグー!今なら怒らないから!おやつもあるやよ!」

 返事はない。

 足元の草が揺れて、遠くで枝が折れる音がした。

 (あっち……)

 私は息を切らしながら進む。

 やがて開けた場所に出たとき、ジグザグマを見つけた。

「もう、急にどうしたの」

荒い息を整えながら、私はジグを抱えあげ言う。

 

 

 ふと、焦げたような臭い。

 視線の先の草の上には、焦げ跡。

 小さな光の粒が漂っていて、その中心に――。

「……ラルトス?」

 白い体。緑の頭と赤の角。

 震えるように立っていた。

 でもその目は、まるで正気じゃなかった。

 背後に人の気配。

 黒いコートを着た数人の影が、ラルトスを囲むように立っている。

「感応制御、成功だな。出力値は上限近くまでいっている」

 低く響く声。

 男の手にある装置が、脈打つように光っていた。

 (あれ……が、暴走の原因?)

 私は物陰に身を潜めながら、息を殺した。

 装置の光に合わせて、ラルトスの体が震えている。

 小さな肩が、まるで泣くように波打っていた。

「……この個体はもう限界だ。撤収する」

 「データは十分取れた。放置でいい」

 放置――。

 言葉の意味を理解した瞬間、胸の奥がざらついた。

 まるで、ポケモンを“もの”として扱っているような声だった。

 男たちは、何事もなかったかのように森を離れていく。

 黒い影が木々の間に溶け、やがて音も消えた。

 残されたのは、光をまとったまま立ち尽くすラルトス。

 目は焦点を結ばず、感情が壊れたように震えている。

 「……大丈夫?」

 声をかけても、返事はなかった。

 次の瞬間――。

 地面が弾けた。

 ラルトスが叫ぶ。

 サイコウェーブが広がり、空気が軋む。

「……っ!」

 私はとっさに身をかがめた。

 背中に風の衝撃が走る。

 目を開けたとき、ジグザグマが飛び出していた。

 「ジグ!? 待って、危ない!」

 でも、止まらない。

 ラルトスの放つ光弾の軌道を読み、身をひねってかわす。

 砂が舞い上がり、木の葉が裂ける。

 小さな体が何度も転がり、それでも立ち上がる。

「やめなさい……っ! 戻って!」

 声は震えていた。

 けれど、ジグザグマは止まらなかった。

 怯えた顔をして、それでも前を向いていた。

 ――誰かを、守るために。

「……そういうこと、なの?」

 胸が熱くなる。

 頭の中で、冷静な思考が霧のようにほどけていく。

 私は声を張った。

 「ジグ! 右へ回り込んで、“すなかけ”!」

 砂塵が渦を巻き、ラルトスの視界を奪う。

 「今! “たいあたり”!」

 光が弾ける。

 ジグザグマの体当たりがラルトスの腕をはじき、サイコパワーが乱れた。

 次の瞬間、風が止む。

 

 ラルトスはその場に崩れ落ち、静かに息をついた。

 私は駆け寄って、そっと抱き上げる。

 体は軽く、あたたかい。

 その頬には涙の跡のような光が残っていた。

「……あなたも、怖かったんだね」

 その言葉が、森の中に静かに溶けた。

 ジグが隣に座り込み、短く鳴いた。

 私はその頭を撫でながら、空を見上げた。

 夕陽が沈みかけ、森の影が長く伸びている。

 ――ニュースで見た“暴走”。

 それが、人の仕業だったなんて。

 

胸の奥が、ひどく熱くなった。

 怒りか、悲しみか、自分でもわからない。

 ただ、このまま放っておくことだけはできなかった。

「行こう、ジグ」

 私はラルトスを抱いたまま立ち上がった。

 腕の中でかすかに呼吸をするその姿が、頼りなくて、壊れそうで。

 走った。森の出口まで、転びそうになりながら。

 ポケモンセンターの灯りが見えたとき、少しだけ安心した。

 自動ドアをくぐると同時に、ジョーイさんがこちらに気づいて駆け寄ってくる。

 「この子が……! 早く治療をお願いします!」

 言葉が喉で震える。

「…分かりました。任せてください。」

 ジョーイさんは慣れた手つきでラルトスを受け取り、奥へと運んでいった。

 その背中が見えなくなるまで、私は立ち尽くしていた。

 

 夜のポケモンセンターは、いつになく静かだった。

 私とジグザグマは、治療室の外に用意されたベンチに座り、ただひたすら待っていた。

 時計の針が何度も回る。

 外では雨が降り始めていた。

 どれくらい経ったころだろう。

 ナースがそっと出てきて言った。

「もう大丈夫。危険な状態は抜けました」

 その言葉を聞いて、胸の奥がほどけるように緩んだ。

 ジグが嬉しそうに鳴いた。

 私は小さく息をつき、治療室のドアを開けた。

 白いシーツの上で、ラルトスが静かに眠っていた。

 あのときの苦しそうな表情は消えている。

 ただ、少しだけ眉を寄せたまま――夢の中でも何かを見ているようだった。

 「……もう大丈夫だからね」

 私はその小さな手を包み、夜通しそばにいた。

 タオルを替えたり、体温を測ったり、ただ眠る姿を見守った。

 ジグザグマは足元で丸くなって、ずっとこちらを見ていた。

 そして、朝。

 雨が上がり、センターの窓から差し込む光が、部屋をやわらかく照らした。

 「……ん」

 かすかな声に、私は顔を上げる。

 ラルトスが目を開け、こちらを見ていた。

 ぼんやりとした表情が、次第に安心へと変わっていく。

 「よかった。気がついたんだね」

 私の声に、ラルトスは弱々しく頷いた。

 沈黙。

 けれど、その沈黙はどこか心地よいものだった。

 「怖かったでしょう? でも、もう大丈夫」

 ラルトスの瞳が、まっすぐに私を見つめ返す。

 ――言葉なんてなくても、伝わる。

 不思議と、そう感じた。

 私は立ち上がって、窓の外を見た。

 雨上がりの空には、薄く虹がかかっている。

 「ねぇ、ラルトス」

 ゆっくりと振り返る。

 「私、君と一緒にいたい。……もう誰にも、怖い思いをさせたくないの」

 ラルトスは一瞬だけ首をかしげ、そして小さく笑ったように見えた。

 ふわりとその体が浮かび、私の肩に触れる。

 温かい。

 「ありがとう」

 私はそっとモンスターボールを差し出した。

 ラルトスは自らそのボールに触れる。

 光が弾け、電子音が静かに鳴る。

 ――カチン。

 その音は、約束のように胸に響いた。

 ジグが嬉しそうに跳ね、鳴いた。

 私は笑ってその頭を撫でる。

 「これからは、三人だね」

 窓の外、虹が完全に晴れていく。

 新しい朝の光の中で、私は初めて“仲間”という言葉の意味を知った気がした。

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