「っ……痛っ、つつくなよ」
「またおじいさんとケンカしたの?」
「喧嘩じゃねー。稽古だよ、稽古」
市立
そんなお金どこから出たのだろう。とは今ハヤリの頬を突いている友人の
「お稽古だからって女の子の顔に傷をつけるのはさぁ」
「別に。道場ならよくあることだって」
ヒマワリは中学の時からの同級生だが話す様になったのは高校に上がってからだった。一年の時に席が隣になったのをきっかけに会話が増えて、気づけば教室ではいつも彼女と一緒にいるようになっていた。
緩くウェーブした髪はもこもことした印象で、少し羊をイメージさせる。実際当人の性格も相まって、いつもほわほわした空気を漂わせている。おしゃれ好きで叱られない程度の化粧やネイルはいつもしっかりとしており、古臭いと評判のこの高校のセーラー服もかわいく着こなしていた。
今日は青から白色のグラデーションの指先でハヤリをつついている。
「こーんな切り傷まで作って」
「だからつつくなって……!あー、うちは、ほらメインが
「かんしゅー?」
「貫き手。こうやって指揃えて突くやつ」
腰をわずかにひねり、肩から指先までの動きで慣れた動作をしてみせる。正しい姿勢、正しい位置で突くのが最良ではあるが、いつ何時どのような体勢であっても同じ一撃を放てるようになれというのが道場の教えだった。流派の教えとかではなく、単に祖父が言ってるだけの様な気もするが。昔から稽古をやらされてきたハヤリにはその教えが染みついていた。
何もない教室の空気をハヤリの指先が瞬くように斬り裂いた。
「……それってすっごく危なくない?」
「んー……」
鋭く振るわれたハヤリの指先に、思わずと言った風にヒマワリは呟いた。
そう言われるのがわかっていたから今日までヒマワリには話さずにいた。話さずにいたのだが、なんだか隠し続けるのも馬鹿らしくなって口にしたのが今日だった。付き合いも長くなってきたし、どうせいつかは知られるのだろうと。
「あーぶーなーくーなぁいー?」
「おま、髪を引っ張るなって。別に貫手を使うのはうちの道場に限った話じゃないからな。空手とかにだってある技だっての」
ハヤリは学校では髪を三つ編みにしている。
なんとなく、家の外に出る時はいつもこの髪型にしていた。この歳で子供っぽいだろうかとも思うことはあったが、これもひとつのルーティーンだった。髪を編んでいる内に、これから外に出るぞという気持ちになるのだ。それに単純にこの髪型がハヤリは好きだった。
その三つ編みがヒマワリに握られる。
いつもハヤリにもっとおしゃれにしろとか怪我に気をつけろとか言って聞かせる癖に。どうにもヒマワリからハヤリへのコミュニケーションは雑だった。
「もー、こんなにかわいい顔してるのに」
「そうか……?」
頬を膨らませるヒマワリにハヤリはなんとも言えない気持ちで首を傾げる。
それなりに整った顔立ちをしている自覚はあるけれど。かわいいかわいくないと言われても今一つピンと来ないのは年がら年中道場で祖父たちとどつき合っているからか。あるいは、そういうものにあまり興味がないせいか。
───美しい顔というのならすぐに思いつく顔はあるのだけれど。
今朝の光景を思い返すハヤリの頬をヒマワリの指がぐりぐりと捏ねる。
「まぁ、ハヤリが納得してるなら私がとやかく言う資格もないけどね」
しばらくハヤリを弄り倒した後、ヒマワリは満足したのか溜息を吐きながらそう言った。大体いつもの着地点だ。ヒマワリだってわかってはいるのだろうが、ハヤリが怪我をして登校するとどうしても一言言いたくなるらしい。その度に今日の様な話を繰り返していた。
特に今朝の稽古ではいつもより熱が入って、いつも以上に傷が多かったので堪らなくなったのだろう。
ぐちぐちと言われることに面倒と感じることもあるけれど、ヒマワリがそうして自分を心配してくれることがハヤリは決して嫌ではなかった。周囲が祖父や門下生など多少の怪我は当たり前の様な感覚の人間が多かった事もあるだろうか。ヒマワリの態度は少しくすぐったく、けれど悪い気もしないのだ。
まだ不機嫌そうな口元のヒマワリの頭に手を乗せる。
「なるべく顔に傷はつけない様に気をつけるからさ。許してくれって」
「む~、顔だけじゃなくてどこでもだよ!」
「はいはい、気をつけます」
窓を背にして。前と後ろの席で他愛ない話を続ける。
しばらく頭を撫でても機嫌が直らないヒマワリだったが、ふと登校前にコンビニで買ったお菓子の存在を思い出して口に突っ込んだらころりと機嫌を直して目を輝かせた。
求められるままに二個目を口に放り入れながら、ハヤリは彼女の機嫌の安さに少しだけ心配になる。うっかり食べ物を餌に宗教勧誘に引っかかったり、どこぞの高い壺を買わされやしないだろうかなんて。
「ほら、授業始めるぞー」
「あ、やべ」
「あって。
「わ、私じゃないです~。ハヤリ!ハヤリが持ち込んだんですよ!まったくもう」
「食ったのお前だろうが!
「バカヤロウ、持ち込んだ奴も食べた奴もどっちもアウトだ。それは没収。あと反省文な」
「今時反省文とか」
「ただ、お菓子を食べてただけなのに」
「校則は守れ。反省はしろ。それかバレない様にやれ」
「んぐ」
「そういうこと言ってると保護者にクレーム入れられますよ先生」
「知るか、ほらとっとと没収。あー、授業始めるぞ授業」
「あ、もう後ちょっとだったので残り食べちゃいました~」
「……反省文追加な」
「え、そんなぁ~」
いい性格をしている彼女には無用な心配だった。
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下校の時刻を告げるチャイムの音が鳴る。それが合図の様に、校舎のいたるところで生徒たちの話し声や足音が一気に大きくなる。この学校のざわめきが膨れ上がる瞬間がハヤリは嫌いではなかった。楽しさとか嬉しさとも少し違う、おもしろさ。決まった習性を持つ動物の、外から見ると一途にすら感じられる動きを眺めるような。一心に動く生き物をガラス越しに観察する様な。人間も動物なのだなというあたりまえを意識する。そういう類のおもしろさをハヤリは感じていた。
「ハヤリ、帰ろっか」
「うい」
ヒマワリと連れだって階段を下り玄関で外靴に履き替える。ハヤリたちの高校は靴にはあまり細かな指定がないので皆の好き勝手な靴が下駄箱には並んでいる。
ヒマワリはベージュのかわいらしいローファー。ハヤリは実用性重視の青のスニーカーだった。
「この後どこか寄る?」
「そうだなぁ……」
「私、ミクドの新作食べたいな」
「それじゃあ東口の方か。あ、なら途中で本買っていきたい」
「ハヤリが?珍しいね」
「獄殺宴苦凶杯先生の新作が出てさ、二年ぶりだぜ。テンション上がるよなぁ」
「お、おぅ……小説?」
「小説みたいなエッセイみたいな。大体十ページに一回は人が死ぬ作風なんだ」
「ふ~ん」
下校する生徒たちに紛れて二人も校門を出る。
高校の向かいには車道を挟んで寺が建っている。下校する生徒は車道を渡りその寺沿いを歩いてバス停に向かうか、高校の敷地沿いをぐるりと回って駅へ向かうかの二ルートに大抵わかれる。ハヤリたちは駅を使っているし、どこかに寄り道しようと思えば大抵は駅前を散策することになる。なので、車道は渡らずにフェンスに遮られたグラウンドの横を歩く。学校の敷地を越え、庭から植木の枝が道にまで覗く大きめの屋敷を通り過ぎ曲道に差し掛かる。
そこで。
「こんにちは、ハヤリ」
「……サユリさん」
大きな瞳がハヤリを見つめていた。
栗色の。
愛らしい瞳。
耳を雪ぐ優し気な声。
目に残る白い指先。
「よかった、また会えました」
花の綻ぶように笑うのは朝に神社で出会った黒髪の美女。深い緑のワンピースに、今は鍔の広い帽子をかぶっている。白く美しい手をあわせる仕草はどこか神聖な祈りのようにも見えた。
「ハヤリ?」
隣のヒマワリが怪訝そうにハヤリの名前を呼ぶ。見知らぬ人間に突然に声をかけられたのだ。当然の反応だろう。
だが、ハヤリもなんと説明していいのかわからなかった。今朝、一度会って互いに名前を名乗っただけの相手だ。友人でもないし、知人と言える程の関係性もないだろう。けれど、知らない人というのも憚られた。彼女はいったい何者なのか。ハヤリ自身も知りたいくらいだ。
ただ。
また会えてよかった。
サユリの言葉に応えるように、ハヤリの内にもそんな思いが浮かんでいた。
その感情を何と呼ぶものか、ハヤリはまだ知らない。
自分にとって
「よければ少しお話しをしたいのだけれど。お茶でもごちそうするので、どうでしょうか?」
耳を雪ぐサユリの声。その声に町中のざわめきが遠くなっていく。世界に開かれているはずの感覚がただひとつの方向へ収束していく。柔らかく笑う目の前の彼女へ。
「はい」
自分でも気づかぬまま、ハヤリは自然と頷いていた。
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「ハヤリ……結局、サユリさんとはどういう関係なの?」
「関係って言っても。えぇっと……今朝神社の前で会った関係?」
「今朝会ったって……んー、他には何かないの?」
「いや、本当に今朝初めて会って自己紹介しただけ。他はない」
「…………それって、大丈夫?」
サユリに誘われるまま駅前の市街地にやってきたハヤリたち。自分もついていくと言いだしたヒマワリに驚いたが、サユリは「わかりました、是非」とあの穏やかな笑みで頷いたので結果三人で街を歩くこととなった。
奢ってもらえると聞いて食い意地を張ったのか、と思う程流石に能天気ではない。彼女に心配されていることくらいはわかる。わかるから、こうして歩いている今もハヤリはヒマワリに対して申し訳なさと感謝を感じていた。
「つき合わせる感じになってさ、なんかごめんな」
「私が勝手についてきたいって言っただけだから……けど、そう思うならよく知らない人についてくのをやめなよね」
「うーん、まぁ」
「もぉ、気のない返事なんだから」
時間は午後四時前。雑多な人々が行き交う駅前をサユリを先頭に歩いていく。
「えっと、サユリ……さん。結局ハヤリに話ってなんなんですか?」
警戒を隠しきれない声音でヒマワリが問いかけるが、サユリは気にしていない様子で穏やかな笑みで答える。
「それはお店についてからで。歩きながらというのもなんですし」
「怪しい壺とか、買わせるつもりじゃないですよね」
「フフ、そういうお話ではないですよ。あぁ、けれど、あなたたちには少し突飛なお話にはなるでしょうか」
「宗教勧誘もお断りですからね」
「神社の巫女さんにそんな話をしたりはしませんよ」
「巫女さん……?」
「えぇ、ハヤリの緋袴はよく似合ってましたよ。普段は着てないんですか?」
「え、え?なにそれ?なにそれなにそれなにそれハヤリ……!」
「あれは朝の掃除の時くらいだから」
ヒマワリに肩を揺さぶられ視界が揺れる。思ったよりヒマワリとサユリが親し気に話せている様でハヤリは内心ホッとする。むしろハヤリの方が妙に上ずってうまくサユリと話せないくらいだ。
ヒマワリが間に入ってくれているおかげか今は比較的冷静に話ができていて、そういう意味でもついてきてくれたヒマワリには感謝していた。
赤信号。
足を止めて横並びに並ぶ。サユリ、ヒマワリ、ハヤリの並び。ふと足元へ視線を向けてサユリが灰色のブーツを履いていることに気づいた。
「この先に雰囲気のいい───」
向かいにはハヤリたちと同じ様に信号待ちの人が数人。
四車線の道路の前で相変わらず穏やかな笑みでハヤリたちに話しかけてくれるサユリ。
その向こうに、高速で突っ込んでくる影を見た。
「ヒマワリ、サユリさん……!!」
大きく蛇行して歩道へと突っ込んでくる青いミキサー車。
コンクリートを運ぶ巨大な車体がブレーキをかけることもなく迫っていた。クラクションはない。運転席の様子は逆光でよく見えないがこちらを避ける気配はない様だった。人がぶつかれば手足くらい簡単に千切れるだろう。下手すればミンチか。どちらにせよ生きてはいられない。
突然突きつけられた死を前に体は本能的に身構える。
世界の速度がハヤリを置いて減速する。視界が。広くなる。
「へっ……あ……!?」
「え?」
呼びかけた二人とも、驚いたように迫る車体を見つめるだけで体が動く様子はない。いや、動けないのだ。ハヤリは咄嗟に二人に飛びつき地面を強く蹴った。
今ほど毎日の稽古に感謝した時はないだろう。ミキサー車の進路を避け、できるだけ二人を車から庇う様にしながらアスファルトの地面に倒れ込む。二人を地面に押し倒す形になってしまったがそれは許して欲しい。
靴底に何かが掠る感触。
直後に大きな破砕音と耳をつんざくクラクション。悲鳴、ざわめき。更に重なるクラクション。ブレーキ音。サイレン。
なんの変哲もなかったいつもの駅前があっという間に阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
キチキチキチ
「え?」
鳴り止まぬ様々な音の隙間。なにか固く細いものが蠢く様な聞きなれない音がハヤリの耳に入った。聞くものの恐怖心を搔き立てるような不気味で不快な音。今の状況にあまりに不釣り合いなその音に咄嗟に振り返る。
視線の先、雑居ビル一階のショーウィンドウに衝突しているミキサー車の車体から何か黒く細長いものが這い出すのが見えた。平べったい体にいくつもの足を生やして車の表面を這い、そのまま建物の隙間へと消えていく。
それは巨大なムカデの様にハヤリには見えた。
「なんだよ、アレ……」
今見た現実離れした存在に呆然とした声が漏れる。と、同時に自分が何をしたのかを思い出して慌てて押し倒したふたりに意識を向ける。
「ごめん、ふたりとも!……大丈夫?」
無理な動かし方をした体に若干の痛みを感じながら起き上がる。少し離れて見たふたりに外傷は見当たらずホッと息を吐いた。とはいえ体のどこかを強く打っている可能性もある。あまり安心し過ぎるのもよくないだろう。
「あ、え?…………ハヤ、リ?」
ヒマワリは起き上がることができず、まだ混乱した様子だった。ただ、見る限り意識ははっきりしている様で、見開いた瞳には驚きと恐怖の感情がありありと浮かんでいる。
「……助けてもらったのですね。ありがとう、ハヤリ」
一方のサユリは既に落ち着いているのか、ゆらりと起き上がり礼を口にした。軽く肩の埃を払い顔にかかった髪を掻き上げ、どこか物珍しそうに騒ぎ立てる周囲を見回している。
通行人の誰かが通報したのか遠くパトカーのサイレンも聞こえてきた。ハヤリたち以外に巻き込まれた人がいるのか安否を確認するような呼び声がいくつか聞こえる。
大丈夫だろうか。呼び声を気にするハヤリにサユリが話しかける。
「驚きましたね。けど、お店はもうひとつ通りを越えた先なので大丈夫でしょう」
「え……?」
この状況に不釣り合いに穏やかなサユリの言葉。ハヤリはその意味を理解できず聞き返してしまった。
「あら、ヒマワリは腰を抜かしてしまったのですか?それなら私がおんぶしてあげましょうか」
「あの、サユリさん……」
「ハヤリは平気そうですね。そうそう、この前食べたばかりなのですがお店のアップルパイが絶品で。よければ」
「サユリさん……!」
たまらず声を荒げたハヤリにサユリはポカンとした表情を向ける。見開いた大きな瞳が愛らしい。けれど、ハヤリが何を思っているのか理解できないという表情はなにか薄寒いものを感じさせた。
サイレンの音が大きくなる。誰かを助け出そうとしているのか、掛け声のようなものが背後で聞こえる。そんな無数の音を今になって理解したかのようにサユリは改めて視線を巡らせた。
「……あぁ、お茶はまた今度ということですね」
「───」
仕方ないと心底残念そうに溜息を吐く姿はまるでこの惨状の中でひとり別世界にいるようだった。
いや、出会った時からそうだった。彼女はずっと世界から浮き上がっていて。その異質さにハヤリの心臓は高鳴っていた。
彼女がこういうものだと、ハヤリはわかっていた。だから、驚きはない。あるとすればそれを理解していながら自覚していなかった己に対する感情だ。
「仕方ありませんね。ハヤリ、今晩に朝の場所でまた会いましょう」
「またって……え?」
こんな時でも彼女は穏やかに笑っていた。大きな栗色の瞳。水面に咲く花の様に綻ぶ口元。こんな時でもハヤリは彼女の笑みに見入ってしまう。だからうまく言葉が返せない。
いつの間にか色づいていた夕日が彼女を照らしていた。オレンジの光が艶やかな彼女の輪郭を縁取っている。影の差すサユリの右目が一瞬金色に瞬いたのは夕日のせいなのだろうか。
周囲の喧騒など秋風の音と変わらない様にサユリは踵を返す。集まる人だかりも、駆け寄る救急隊員も警官も、誰も彼女の存在には気づかない。
夕日とハヤリだけが彼女を見つめている。
「約束ですよ」
最後にもう一度だけ優しげな笑みをハヤリに向けて、彼女はその場から姿を消した。
ハヤリは何も言えずその背中を見送った。
取り残されたハヤリは、夕日で長く黒く伸びた街の影たちが自分を逃がさぬように取り囲んでいるかの様に錯覚した。けれど、その向こうにこそ輝く黄金の夕日はあった。
影を踏み分けなければ、きっとその黄金の光の元へはたどり着けない。