胸の穴には花束を刺して   作:富野倒去

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【1-3】約束は呪う

 ハヤリが家に帰り着いたのは細い三日月が昇り夜も深まった頃だった。

 

 

 ミキサー車の暴走と歩道への追突。運転手が何かの原因で突如意識を失い、人の制御を外れた車は暴走。結果として惨事を引き起こしたのだと聞いた。死者は出なかったというが大小負傷者は幾人もいた。ハヤリたちも一応はそこに含まれている。傷といっても地面に倒れ込んだ際に軽く皮膚を擦った程度であるけれど。それでも鉄の塊に迫られて、辛くも生き延びたとなれば冷静ではいられないものだろう。

 

「ごめん、ごめんねハヤリ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」

 

 そんな風にひどく動揺するヒマワリを宥めて、救急車までつき添って───ハヤリも手当を受ける側ではあったけれど。

 病院の検査でヒマワリに異常がなかったことにホッとして。家への連絡をなんとかやめさせられないか渋りに渋って結局連絡されて。警官からなにやら事情聴取の様なものをされて。サユリの事を上手く説明できず大体の部分はよく覚えてませんと繰り返して乗り切って。ヒマワリが保護者につき添われて病院から帰るのを見送った後に、待たせた祖父にぐちぐち言われながら帰路についた頃にはとっくに外は暗くなっていた。

 

「風呂は沸いとる」

 

 自室で寝っ転がったハヤリに祖父のぶっきらぼうな声がかかる。風呂掃除はいつもならハヤリの仕事のはずだったのだけれど。珍しい事もあるものだ。

 

「なんて」

 

 口に出してみる。ひどく滑稽に感じた。ひとりで自室でふへへと笑う。疲れているのだろう。

 今日はとても疲れた。色々なことがあって、驚いたり、慌てたり、焦ったりした。救急車なんて初めて乗ったし、警察に何度も話を聞かれるのも慣れない経験だった。ヒマワリが憔悴していたのがとても心配だったし、祖父に迷惑をかけてしまったという負い目もある。

 今日は本当に疲れた。

 このまま目を閉じてもいいのではないだろうか。

 そう思う。

 

───ハヤリ、今晩に朝の場所でまた会いましょう。

 

 窓の外には月が見える。細くて頼りないが月には違いない。月が昇るのは夜で日付はまだ変わっていない。ほうっと横になったまま息を吐く。体から何か白い湯気の様なものが息と共に立ち昇っていくのを幻視する。

 なんとなく、疲れの一種なのだと思った。

 それが、体から抜け出て消えてゆく。だから、もう少しも動かせる気のしなかった手足に力が入る。

 体を起こす。胡座をかいた姿勢でもう少しだけ月を見上げる。

 

「約束、だったな」

 

 それで十分だ。

 

「じじい、ちょっと神社見てくる」

「んむ」

 ハヤリが夜中に(やしろ)に行くのは珍しくない事だった。嫌なことがあった時、祖父に負けた時、悩みがある時、嬉しいことがあった時。ハヤリは神社の境内をぶらぶらと歩いて過ごす。明確な理由はないが、そうしていると自分の中の飲み込み切れない大きな感情をゆっくりと馴染ませることができる気がするのだ。

 靴を履いて外に出る。服装は古臭い制服のままだが家の敷地みたいなものだ。問題ないだろう。髪をほどくのを忘れているな、とボンヤリ思う。冷たい秋の夜がハヤリの体を震わせた。

 

「そろそろ上着がないと厳しいか……カーディガンとか、なんか去年買ってたよなぁ」

 

 ぼやいてみても寒さは変わらない。

 冬物を買いに行こうと騒いでいたヒマワリの事を思い出す。たまには自分の方から誘ってみるか。そうしたら、少しは元気になるかもしれないし。奢ってやるほどに懐は温かくないけれど。服を両手にあーだこーだと話すヒマワリを見るのも悪くないだろう。

 

 なんて。

 気を紛らわせるような思考は鳥居の前に立つと溶けて消えていた。

 

「サユリさん……」

 

 当たり前の様にサユリはそこにいた。

 

「来てくれてうれしいです、ハヤリ」

 

 夜の闇の中では彼女は殊更に美しかった。

 鳥居の前。今日の朝と同じ。細く淡い月明かりの下では人影は黒く色彩も曖昧なはずなのに。それでも、彼女の黒髪は輝いて。大きく愛らしい瞳は星の光を溶かした泉の様に煌めいていた。怖気が走る程に見惚れて。けれど、笑ってしまう程に優し気で。

 今日の朝と同じ様に胸のあたりがじくじくと痛んだ。心臓の刻む鼓動が早まって呼吸が少し浅くなる。

 

「……?」

 

 一歩、彼女は後ずさった。

 ハヤリの顔をじっと見ながら小さく後ろへ。不思議に思いながらハヤリは追い縋る様に一歩前へと進む。鳥居の向こうへ。神社の外へ。

 彼女の目の前へ。

 サユリは頬を赤らめ笑っていた。

 

「サユリ、さん……?」

「さぁ、こちらへ。ハヤリ」

 

 白い頬に浮かぶ朱色。その鮮やかさにハヤリは息を飲む。わからない。何もわからないままひどく濃厚な感情を浴びて頭が酔う。

 白く細い指が流れるようにハヤリの手を握った。ひんやりと深い森の小川の様な温度がした。

 ハヤリの手を取ったままサユリは歩き出し、釣られるようにハヤリもその後ろを歩いた。どこへ向かっているのか、何故手を引かれたのか。わからない。わからないけれど、それでもいいとハヤリは思った。彼女が自分の手を引いて歩きたいというのなら、そうされていたかった。

 いつしか互いに握りあった手は、触れ合う部分が溶けて混ざってしまったかのようだった。じんわりとサユリの温度がハヤリへと流れ込んできて、代わりにハヤリの温度がサユリを溶かしていた。熱を交換し合い、その過程で皮膚や血や肉まで分けあったみたいにハヤリの指は白いその手に張り付いていた。段々と手を腕を伝って自分の中にサユリの温度が入ってくることに言葉にし難い心地よさを感じていた。

 暗く光の乏しい夜の内で、繋がった手の感触は殊更に浮き彫りになった。いつかは自分の吐く吐息すらサユリの温度になる様な気がして。

 

 サユリは神社の表通りを少し進むと進路を変えて、すぐ隣にある雑木林へ足を踏み入れた。ザクリザクリと一面を覆う落ち葉を踏みしめていく。秋の森は葉の落ちた木々の枝に淡い星が実っている様だった。

 そんな事、今まで一度だって思ったことはなかったのに。

 

 それからしばらく歩き続けた。おそらくは雑木林の中央付近へやってきた頃だろう。サユリの足はようやく止まった。

 

「この辺りでいいでしょう」

 

 そう言ってサユリは繋いでいたハヤリの手を解く。

 

「あ……」

 

 溶けあっていたと思っていた手と手が分かたれる。ずっと彼女の温度を感じていた手のひらを秋の夜の空気が無粋に撫でる。

 ふっと、熱に浮かされていた思考が少しだけ冷静になった。辺りを見渡せば街の光も届かない夜の闇で満たされた林の中だ。夜になんとなくで足を踏み入れるような場所ではない。月と星の明りだけが、立ち並ぶ葉を落とした木々と目の前の美しい女性を闇から浮き上がらせている。

 

「なんで、こんな場所に」

 

 今更過ぎる質問だった。それでも、口にしないわけにもいかない。

 自分たち以外には人の気配がない草木と土の匂いが強い空間。深い深い暗がりの中。人が恐れ惑う世界。そんな闇の中がどうしようもなく彼女には似合っていた。

 

「この時間では大抵のお店はしまっていますしね。それに邪魔がない場所の方が貴女ときちんとお話できると思ったんです」

「話……放課後に言っていたこと、ですか?」

「はい、あの時も貴女を見て何度も確かめました。朝は異教の巫女の振る舞いで神殿の中にいましたから、よく見えなかったんです。けれど、そういった邪魔のない場所で貴女を見て確信しました」

 

 少し離れた人の顔なんて見わけもつかない暗闇のはずなのに。とても嬉しそうに微笑むサユリの顔が、どうしてかハヤリにはよく見えた。花がほころぶ様な、見るだけで感情を動かされる笑みだ。とてもとても嬉しそうに大きな目を細めていた。

 けれど、彼女の話す言葉はひとつもわからない。

 

「───アリア」

「……はい?」

 

 突然の聞きなれぬ名前についそう聞き返してしまう。

 

「アリア・エーリスナイト。私はずっと待っていました。貴女ともう一度会えるこの日を。あなたが私と再会するこの時を」

「あの、何を言っているんですか……?アリアって……?」

「アリア、ようやく。ようやくです。ずっとずっと待っていたんですよ、アリア」

 

 人気のない雑木林の中へハヤリを連れ込んだサユリは、ハヤリの事を何度もそう呼んだ。

 アリアと。アリア、アリアと。

 

「あぁ、アリア───」

 

 同じ笑みで、同じようにハヤリの目を見つめながら。

 ハヤリではなくアリアと。

 それが耳障りだった。

 

「サユリさん、私はハヤリです。瞑務祇疒(くらむしはやり)。あなたにもそう名乗った。アリアなんて名前じゃない」

「あぁ、未だ目覚めていないのですね。けれど貴女の魂の色、魂の輝きを私は忘れていません。貴女は間違いなくアリア・エーリスナイト。その来世」

「魂の色……来世?わけのわからない事を言うのはやめっ……てください」

 

 今度は目を大きく見開いてサユリは笑っていた。愛らしい瞳。優し気な笑顔。それは今も変わらない。だからこそ不気味だった。今更になってハヤリは自身がとんでもない過ちを犯したのではないかと感じた。

 だが、それでも目の前で心の底から嬉しそうに笑っている彼女を拒絶しようとは思えなかった。

 ひどく心の奥がざわついて。焦燥の様な、けれど少し違う、心を追い立て急かす感情が喉元にずっと引っかかっているようなもどかしさを感じた。止まれないバイクに乗って出口の知れない迷宮を彷徨っている気分になる。

 街の光も届かない暗闇の中。夜空を彩るばかりの星に地上を明るく照らす事はできない。細い三日月の月光とてあまりに頼りない。

 呼吸が、浅くなる。

 夜は昏い。森の中は夜空に増して尚昏い。

 ここは深い夜の底。

 

「……大丈夫です。貴女は約束を違えはしない。私は知っています」

 

 光の届かぬ闇の底。

 何が潜んでいるかもわからない。

 

キチキチキチキチキチ

 

「……は?」

 

キチキチキチ

キチキチキチキチキチキチキチキチキチキチ

キチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチキチ

 

 それを指して呼ぶなら蟲という言葉が相応しいだろう。

 闇の中を、木々の隙間を無数の長く節くれだった体と足が這いずり回っている。この夜の闇に溶け込むように黒く平たい体。横幅だけでもハヤリの体よりも太い。縦の長さは言わずもがな。その先端には断ち切りバサミの様な巨大な顎が開閉を繰り返していた。

 

キチキチキチ

 

 恐怖心を搔き立てるような不気味で不快な音。

 それが、四方八方。夜闇を埋め尽くさんばかり。そもそも彼らこそが夜闇そのものであるとでもいうかのように。ハヤリたちの周囲を取り囲み蠢いていた。

 悍ましさすら逃げ出しそうな数えるのも馬鹿らしいほどの蟲の群れ。

 その全てが自分たちへと意識を向けていることをハヤリは本能的に感じ取った。人を超える巨大な蟲たちにとってハヤリたちは容易い獲物でしかないだろう。

 

「サユリさん……?」

 

 その蟲をハヤリは一度だけ目にしたことがあった。古い記憶ではない。ほんの少し前。夕方の駅前で。歩道に突っ込んだ車から這い出していた黒いムカデ。

 今周囲で蠢ているものたちはそれと瓜二つだった。

 

「貴女が己を思い出すための舞台です」

 

キチキチキチ

 

 恐怖が形を取ったような蟲たちに囲まれながらサユリは変わらず笑みを浮かべていた。嬉しそうに、期待するようにハヤリだけを見つめて微笑みかける。恐怖でおかしくなったのだろうか。そうであればよかった。

 今日の朝に出会った時から彼女は何ひとつ変わってはいなかった。

 黒い髪、大きな瞳、白い指先。

 心が高鳴る優しげな笑みで今もサユリはハヤリに笑いかける。

 ハヤリの知らない名前を呼んで。

 

「さぁ、アリア。久しぶりに貴女の勇ましい姿を見せてください」

 

 その言葉が合図の様に、夜闇に蠢いていた蟲が一斉にハヤリたちの元へと殺到した。

 

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