蟲。
蟲蟲蟲。
蟲蟲蟲蟲蟲。
夜の闇から悍ましい蟲があふれ出す。
我先にと殺到し、夜闇の森の中ぽかりと空いた少女ふたりの空隙を埋め尽くさんとする。殺して裂いて喰らって呑んで飲み干して。ふたりの存在そのものを己が闇の中へと取り込もうとしていた。
群がる異形の化け物を前に少女にできることなど憐れに悲鳴を上げることだけ。
「……ぁ?や……っ、あぁっ!!」
ハヤリは自分が冷静な人間だと思ったことはない。勇敢な人間だとも思わない。危機的状況に常に備えられているわけではないし、些細な事で慌てたり、カッとなったりなんていう事も日常茶飯事だ。ホラー映画は苦手だし、幼い頃に犬に手を噛まれたのがトラウマで今でも犬を撫でるのは怖い。苦手だったり怖いものは人よりも多いくらいだろう。
道場なんて場所で長年過ごして、祖父や門下生から叩かれ蹴られてきたから、暴力の気配みたいなものについては多少慣れがあるのかもしれない。けれど、その程度だ。人間の振るう暴力に怯まない。精々、それがラインだ。
夕方の車に撥ねられかけた一件はハヤリの行動としては奇跡的な部類に入る。いつでもあんな事ができるわけではない。多分ヒマワリたちの様に呆然と動けなくなってしまう可能性の方が高かっただろう。あれは万に一つの一を引き当てた様なものだった。二度も同じことができるとは思えない。
万に一つの一をほんの数時間前に引き当てた後なのだ。
だから。
人間を超える巨体の蟲が群れをなしてくる光景なんてものを前にしてハヤリにできることなどない。尋常でない状況を呆然と眺めるどころか、あまりの光景にショックで意識を失ってしまってもおかしくない。うぞうぞと蠢く無数の脚に生理的嫌悪を覚え震え上がる。かない様のない化け物に混乱をきたしまともな思考なんてできるはずもない。巨大な、人の手足など容易く両断しうる顎から逃れる術など持たないし、その脅威に身構えることすらできやしない。
意識を手放さないというのなら、後は憐れに悲鳴を上げることくらいしかできない。
はずだった。
キチ……
「あら?」
今にも鼻先が触れ合いそうな距離で、サユリの唇が驚いたように小さく開く。いつの間にか触れ合いそうな彼女の背後、その首にいち早く迫っていた蟲の顎をハヤリは正面から
サユリの耳元を抜け突き出した右の五指が、顎が大きく開いたタイミングで固く冷たいチキン質の蟲の頭を捉え───、まるで獣の牙の様に噛み砕いた。
ぐちゃり、粘性の蟲の体液が指に絡みつくのを感じた。その感触が気持ち悪くて。振り払うようにその手を薙いで、そのまま
「あ……」
体が、舞を踊る様にサユリを中心に大きく円を描いていた。その円の縁。大きく開かれた右手の五指を、まるで獣の爪のように鋭く尖った銀の光が覆い、触れる蟲の頭を胴を顎を引き裂いていた。
自分は今何をしたのだろうか。
この手の光がなんであるか、わからない。溢れんばかりの蟲の群れに恐怖を感じたはずだ。ただでさえわけのわからないサユリとの問答の末、現れた理解の及ばない光景に思考が停止しかけていたはずだ。多少の殴り合いの強さではどうにもできない事態に体は動かないはずだった。
なのに。
「あはっ」
左の五指に纏った銀の獣爪が、驚いた様に動きを止めていた蟲の一部を斬殺した。
「あははっ」
右の五指に纏った銀の獣爪が、恐れた様にわずかに後退った蟲の一部を惨殺した。
「あははっ」
自分たちを囲っていた蟲の群れに無遠慮に踏み入って、地を這う獣の様に駆け回りながら思うがままにその両手を振り回した。
「あははははははははははははははははは!!」
ハヤリの哄笑と動きは止まらない。
光も届かない夜の闇の中を息を切らすことなく駆け続ける。反撃に移ろうと頭を上げた蟲の体を踏みつぶし左の爪のひと撫でで寸断。左右から飛びかかる蟲の顎を宙返りでもする様に体ごと振り回した右の爪のひと振りで両断。そのまま着地点に待ち構えていた蟲を両の爪で貫通。
どういう仕組みかわからないけれど、この両の手の銀の爪は周囲を蠢く異形の蟲たちに対して強い力を持っているようだった。その光をわずかに浴びるだけで蟲たちは怯み、その光に貫かれれば硬質な体は容易く裂けて体液を巻き散らす。反撃すらままならず蟲たちは次々にその銀の爪の餌食となっていった。
キチキチと相変わらず蟲の音は鳴る。だがそれは最早無機質で理解不能な不気味な音ではなく、逃げ惑う獲物の悲鳴だ。
斬り裂くたび、ハヤリの視界は冴えていった。引き裂くたび、ハヤリの感情は高ぶっていった。笑うたび、ハヤリは自分がこれを望んでいたのだと理解した。
口が笑みの形をとることを止められない。頬が上気することを止められない。この胸の高鳴りを止めることなどできはしない。
弾ける様に放たれる笑い声は浮きたつハヤリの心そのものだった。
「あははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
化け物を
それこそが我が本懐。
これこそが我が本性。
人ならざる闇の異形の尽くをこの手で殺し尽くす。
足を踏み替え体を捻り、両の十爪を自在に振るう。本能が十全な戦闘行動を導き出してくれる。目の前の蟲の群れを引き裂くため、どう動けばいいのかがハヤリにはわかった。考える必要はない。ただ、その意思があれば体は望むままに化け物を引き裂く道程を描きだした。
蟲の白く粘ついた体液が髪を頬を腕を足を制服を汚す。不快なそれすらも殺戮の結果であれば心地よかった。
目の前の蟲たちは何か。自分がなぜここにいるのか。この銀の光はなんなのか。
全ては些事だった。
化け物を殺すことこそが己の役目であり機能だった。それを、いつぶりだろうか。これ程に果たせるなど、笑うなと言うのが残酷だ。胸の高鳴りを止めろと言うのはこの歓喜を知らない憐れな者の戯言だ。
食らうこと、眠ること、犯すこと等より余程上質な快楽なのだから。
───ああ、化け物が息絶える感触が心地いい。
キチ……チ……
夜闇を埋め尽くしていると思っていた蟲もやがて最後の一匹となっていた。人の喉を絞める様に、顎のついた頭を右手の五指でしっかりと握り動きを封じる。どれだけの蟲がハヤリの手にかかったのか光乏しい夜空の下では判然としない。だが、周囲にはハヤリによって引き裂かれた蟲の死骸が地面を埋め尽くすかのように広がっていた。
黒い蟲たちが死に絶えようと闇は闇のままハヤリたちの周囲を包み込んでいた。闇を吹き抜ける冷たい秋の夜風が今のハヤリには気持ちのいい涼やかなものに感じられた。
「はは……っ」
『オノ、レ…………獨一、入道……斯様ナ、退魔……ヲ飼イ馴ラシテ、イヨウ、トハ……』
キチキチと顎を鳴らす蟲からそんな言葉が溢れ、ハヤリは目を丸くした。
言葉など通じぬ本能だけの化け物だと思っていたから。まさか人の言葉を話すだなんて思っていなかったのだ。知性があり、言葉を話し人と意思疎通が取れるなら。
こんな一方的に殺し尽くしてよかったのだろうか。
対話による解決を図ることができたのではないだろうか。
「あはっ」
「ギャ…………ッ」
なんて。
そんな逡巡が頭をよぎる前に掴んだ右手に力がこもる。
グシャリ、と安っぽい音を立てて呆気なく最後の蟲は息絶えた。それだけで、ハヤリの胸にはポカポカと心地よい温かな感覚が湧き上がるのだ。
なんだか楽しくなってくるのだ。手に纏わりつく蟲の死した香りを肺いっぱいに吸い込む。腐ったような毒素に溢れた臭気だった。それも、今のハヤリには堪らないスパイスだ。
「飼い馴らす?馬鹿な事を。その子がそんな安い存在だと思ったのですか?」
動かなくなった蟲を地面に放り捨てるハヤリを眺めながら、最後まで笑みを絶やすことのなかったサユリはハヤリが初めて聞く冷たい声音でそう吐き捨てる様に呟いた。侮蔑と怒りの込められた、聞くだけで背筋の冷たくなる声だった。
「ねぇ、アリア」
そう名を呼ぶ声は一転して優しく慈しみに満ちていた。
「……」
腕を下ろし、サユリの方を見る。
ほんの僅かな月の光でも輝く黒い髪。夜闇の中でぼうっと浮かび上がる様な白い肌。大きく愛らしい茶色の瞳。
今日の朝、初めてみた時からハヤリの心を捉え揺さぶるサユリの姿。それをじっと見つめる。
積み重なる虫の死骸の河を隔てて当たり前の様にそこに立ち続けているサユリ。まるで、この夜の闇の中こそが本来の居場所であるかの様に収まるサユリ。
今だからわかることがあった。
押し寄せる蟲たちを引き裂いた後のハヤリだからこそ彼女の事を理解する。
その美しさの内側にある悍ましさを感じ取る。
「サユリさん……あなたは……」
闇の中で美女が微笑んでいる。
優し気に、穏やかに。
不気味に、凄惨に。
まるで己は夜の闇そのものとでもいう様に。
「まだ、思い出してはくれないのですか、アリア?」
その右目が、金色に変わる。
その左目が、沼に浮かぶ泡のように膨らみ───パチンと弾け散った。
弾けて散った血肉の雫。森を穢しその本性を露わにする。
いつしかその姿は見上げるほどに大きくなっていた。夜空の細い月がその影に隠される。代わりに丸く輝く己の瞳を掲げる姿はこの夜の支配者の様でもあった。黒い髪は長さを増し、今も闇の中で艶やかに輝いている。その巨体は襤褸をまとう様に草木が纏わりついていた。長い腕の先の大きな手には白く鋭い異形の爪が。地面を踏みしめる足にも同じように巨大な爪が伸びていた。
化け物は牙が並ぶ口を開いて呼びかける。
「アリア」
その化け物をハヤリは知っている。
「ねぇ、アリア」
その化け物を私は知っている。
「アリア───」
その化け物をアリア・エーリスナイトは知っている。
熊手の様にばらばらに開いていた指先をひとつに揃えて伸ばす。闇を薙ぐようにひと振りすれば指先に纏わりついていた銀の輝きが勢いを増し、肘上までを覆い輝く。その先端は指先を越え、まるで一振りの馬上槍の様に鋭く尖っていた。
闇なるものを討つ白銀の一振り。邪なるものを祓う無双の煌めき。
「───
まるで恋する様に熱の満ちた
手足の長さは多少違うが、それはこの体の記憶が補ってくれる。霊力は変わらず充々。技の冴はこれから試すことになるだろう。
軽く、地面を踏み擦る。足先の位置、膝頭の向き、股関節の広がり。思う通りに体は動く。
何ひとつ不足はない。
「ああ、待たせて悪かったな金眼のキュクロープスよ」
色素の薄い髪を三つ編みに。古臭い学生服を身につけたアリア・エーリスナイトは郷愁と共にいつかの夜のようにその化け物へと切っ先を向けた。
闇の中で金色に輝く丸い光へ。
「今ここに、約束を果たそう」