けれど、そんな
「
「
「やあ、はあ、とう!」
ですが、
「なんと
「
「やあ、はあ、とう!」
ですが、
「なんと
「さあ、これで
「やあ、はあ、とう!」
けれど、
「なんと
「
「なんだと。どうして
「
キュクロープスの
だから、
キュクロープスは
「あぁ、
そう
「
「うれしい。とてもうれしいです、
『騎士と一つ目の怪物』 八目十池著 より
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「かっ……ふ……」
日の光も碌に届かない薄暗い森の中。アリアは喉にたまった血を地面に吐き捨てた。纏う鎧は土にまみれそこかしこがひしゃげ、特に左足はひどいものだった。鉄が血肉と混然となり碌に原型も留めていない。携えていた武器は全て折れてそこらの地面に転がっている。残されたのは腰に差している小ぶりのナイフだけだが、こんなものではあの化け物に対抗することはできないだろう。
『今日も真っ赤になっていますね』
そんな負け犬同然の自分を大きな金の瞳が見下ろしていた。川のせせらぎの様に美しい女性の声。それが乱杭同然の鋭い歯が生えそろう化け物の口から放たれるのだ。それだけでも人によっては頭がおかしくなってしまうのかもしれない。
恐ろしい姿、美しい声、金の瞳。
その化け物はただそこにいるだけで人を狂い殺す極大の魔であった。
「まだ……だ。私は…………負けていないっ」
痛みを無視して立ち上がる。大丈夫だ。この程度であれば騎士団の治癒術式で完治可能だ。今必要なのは目の前の化け物の追撃を逃れ体勢を立て直すこと。
アリアは既に死に体だった。殺しに来たのだ。相手がこちらを殺そうとするのも当然の事。とはいえ、アリアはこの大地から神敵たる魔を打ち払うために力を与えられた騎士団の一人だ。その使命を果たすまではそうそう殺されてやるわけにはいかなかった。
アリアがこの森に遣わされたのは正式な騎士として認められて幾ばくも経たない頃だった。当時、既に若輩ながらアリアは何体もの魔を討ち有望な騎士として名を馳せ始めていた。聖別された白銀の槍で人に害なす魔を討つ姿から"
古代より続く人と魔の闘争。
アリアは自分がこの終わりのない争いに終着をもたらすのだと意気込んでいた。
それから既に三年。
アリアはこの森に住まう一つ目の怪物に挑み、ただ敗北を重ねていた。
神話の怪物になぞらえてそう呼ばれるこの化け物を討つことができず、アリアは数えるのも馬鹿らしくなるほどに挑戦と敗走を繰り返していた。いつしか槍の腕よりも逃げ足の方が上達する始末だ。かつて騎士になったばかりの頃の輝かしい誇りと自信は色褪せ、それでも魔を倒さねば、任じられた役目を果たさねばという使命感が彼女を支えていた。
キュクロープスは恐ろしい魔物だった。その肉体は幾度傷つけられてもたちまちに回復し、無造作に放たれる爪の一撃は撫でるだけで人の身体を両断する。そして金色に輝く一つの瞳は見る者の思考を侵し狂気を与える。その瞳を見つめ続けた者はやがて呼吸も忘れて狂い死ぬのだ。騎士団で特別な訓練を受け、邪視対策の装備をいくつも身に着けたアリアとて正面から長時間見つめ続けていれば危ういだろう。
敗北の度に手を変え品を変え、思いつく限りの手段でキュクロープスに挑んできた。だが、未だアリアの槍はキュクロープスの命に届かずにいた。挑む度、体のそこかしこを斬り裂かれ、千切られ、血を吐き潰されながらも逃げ帰り、無様な自分の姿に憤りを覚えながらもまた次の手を考える。
そんな事を繰り返している内にいつしか三年。
その日もまた、そうなるはずだった。
『あなたは虐められるのが好きなのですか?』
だが、その日のキュクロープスは少しだけ様子がおかしかった。震えながら立ち上がるアリアを見下ろすが、手を出してこない。禍々しい黄金の瞳でじっとこちらを見つめても、襲いかかる様子も、嘲笑しなじる様子もない。
ただ、不思議そうに首を傾げながらじっとアリアの事を観察し問いかけてきた。
時折、ポツリポツリと言葉を発することはあった。けれどそれは思いつきを単に口にしているだけで、アリアと会話する様なものではなかった。互いに言葉を投げ合ったとしてそこに対話はなかった。
こんな風にアリアへ問いかけてくるのはこれが初めてだった。
「そんなわけないだろうっ!」
『嘘です。だってそうでもなければ何度も私に会いに来るはずがありません』
「お前を討つのだと、初めて会った時にそう言っただろう」
『……そうでしたっけ?』
邪気のない声に激昂しそうになる。
三年間アリアはただそのためだけにこの森をで戦い続けてきた。繰り返す敗北に周囲からは期待外れと見放され、僻地故に既に騎士団中枢からも忘れられかけているに違いない。よそ者であり、繰り返し悪魔の森に足を踏み入れるアリアの事を土地の人間は影で悪魔に取り憑かれた魔女と呼んでいる。
それでも、目の前の化け物を放置してはならないと戦い続けてきた。だが、その倒すべき化け物にすら自分の行いは認識されていなかったのだとしたら。
まるで風車にひとり突撃する狂人だ。
「必ず……必ず貴様を討ち滅ぼしてくれる」
そんなものは騎士に相応しくない。アリアは理解していても怨嗟の感情を込めることをやめられなかった。
『おかしいです』
なのに目の前の化け物はそんなアリアの怨みもどこ吹く風で言葉を続けた。
『私の知る人間は死を願うものです。「殺してください」と願うのです。だからみんな殺してきました』
「お前がそう言わせたんだろう!」
『そんな馬鹿な。私はただ何をしにきたか尋ねただけです。こんなところへ何をしにきたか。すると彼らは言うのです。飢えに耐えきれず苦しいと。子や親に捨てられて行くあてがないと。村を焼かれて愛するものは殺されたと。それから皆同じ様に言うのです。もう生きてはいられない。だから殺してほしいと』
「…………」
その言葉を信じることはできない。目の前の化け物はアリアをこの三年間幾度も嬲ってきた残忍な化け物なのだ。
けれど。
そう、それど思い返せば。アリアは目の前の化け物が人を殺すところを見たことはなかった。悪魔の森と呼ばれ誰も寄り付かなくなっていた森なのだから当然かもしれないけれど。
人を食うところも殺すところも見たことはない。
「なら、お前は殺さないでと言われれば人を殺さないのか?」
『そうですね。そう願われれば殺さないのではないでしょうか?』
なんだこれは。
なんの会話だこれは。
「私が死を望んでないと言えばお前は私を殺さないのか?」
『えぇ……そうなのですか?死にたいわけではなかったのですか?いつも途中でいなくなるのでおかしいとは思いましたが』
私は何を話しているのだ。
「お前の事を討つと何度も言っていたではないか!なのに死にたがっているなどどうして思う!」
『だって他の人たちは皆そう言っていましたし。どうせ殺すのですから、正直あなたが何を言っているのかも気にしたことはありませんでしたし』
「ふざけっ……!」
化け物の大きな瞳がアリアの眼前にまで迫る。金色の中にアリアの顔が鏡面の様に映っていた。ひどく醜い。憎悪に歪んだ顔をしている。とても魔と戦う騎士の顔ではない。そんな己の顔を映す化け物の瞳は静かな森の泉のように澄んだ色をしていた。
『ごめんなさい』
とても傲慢で、そしてとても真摯な言葉だった。
───私は、何をしているのだろう。
その言葉が本当に申し訳なさそうだったから。当たり前で、だからこそ聞き間違えようのない謝罪であったから。
憎らしくて、恨めしい。そんな表情を浮かべる自分があまりに惨めで。かつて自分が思い描いた騎士のあるべき姿からあまりにも逸脱していたから。
理由は、どれが正解なのだろうか。
ただ、アリアは全身からどっと力が抜けるのを感じた。
気力を振り絞って立ち上がっていた体が大きく崩れる。鎧のぶつかり合う耳障りな音を立てながらアリアはその場に座り込んでいた。
先程まで頭の中を真っ白に加熱していた怒りが、冷水を浴びたかの様に引いていった。
「……何故謝る?」
『あなたの言葉も聞かずに、あなたが望んでいない死を与えようとしていたので』
「貴様を、殺しにきているのだぞ。殺し返して当たり前ではないか」
『殺したいというのならどうぞ……とは言っても私も私の殺し方などわかりませんが』
座り込んだアリアを真似するようにキュクロープスは大きな体を縮こまらせてその場に座り込んでいた。その姿がどこか子どもの様で、恐ろしい見た目のはずなのに愛嬌を感じてしまった。
「どういう意味だ?」
『言葉の通りです。私は死に方を忘れてしまった。あなたが何度も剣や槍を突き立てても傷が癒えてしまう様に、火で炙られ水に沈められてもいくらかの苦痛を感じる程度の様に。私はどうすれば死ぬのでしょうか?』
「私が三年も頭を悩ませて答えが出ていない事を私に尋ねるな」
『それを言うなら、私なんて記憶がある頃からずっとですよ?』
「なんだ。お前、死にたいのか?」
『……どうなのでしょう?正直それもよく覚えていません』
「そうか」
覚えていないと化け物は言う。だが、その口ぶりを聞いていると目の前のそれは自身の死を望んでいるかの様に感じられた。
三年間、アリアが倒さねばいずれ森から解き放たれ人々を殺して回ると思っていた化け物が。死にたがり。
何の冗談だろうか。
「お前、もう人を殺すな」
『お願いされてもですか?』
「……なら、人前に姿を見せるな」
『もうずっとあなたくらいしか会いに来てくれませんよ?』
「そういえば、そうだったな」
アリアは座り込んだ姿勢でこちらに顔を寄せるキュクロープスの瞳をもう一度見返した。美しい。夜空に浮かぶ満月の様に煌煌とされど静謐な金色の輝き。だが、それは狂気の光でもある。キュクロープスの瞳を前にして、常人は正気を保ってはいられないだろう。死を願ったという人々もこの瞳を前に狂気に飲まれてしまったが故とも考えられる。
死を乞わせる狂気の瞳。
だとすれば、やはり目の前で座り込んでいる一つ目の化け物は人が討ち倒すべき魔に違いはないのだろう。
「はっ」
そんな事を考える自分にアリアは嘲笑を浮かべる。
魔とは甘言により人を惑わすもの。その言葉は対峙する人を謀り欺き陥れる為にある。魔の言葉に耳を傾ける騎士などいない。ましてや、その言葉を信じて考えを巡らせるなど。
実際、アリアがこれまで対峙してきた魔とはそういうものだった。
あるいは───、気づかなかっただけでそうでないものがいたのかもしれない。だが、その全てをアリアは銀の槍で貫き滅してきた。たとえその言葉に嘘がなかったとしても人を殺し食らう存在には違いなかった。
過去を振り返ったところで己の行いに後悔はない。
アリアはそんな魔を討ち滅ぼすために騎士団に見出され幼い頃より神威を纏う修行を重ね騎士となったのだ。
今目の前にいる化け物とてその動機がどうであれ人を殺し続けてきたことには違いない。さもなくばこの森が悪魔の森などと呼ばれることもなかったはずだ。
だから、受け入れるというのなら目の前の化け物に槍を突き立て死ぬまで何度でもその体を貫くべきだ。アリアはそうしてきたし、これからもそうすべきなのだ。初めからそのつもりでこの森を訪れたのだ。
アリアはこの大地から神敵たる魔を打ち払うために力を与えられた騎士団の一人だ。その使命を果たすために存在し、その使命をはたすために力を振るう。そう信じて生きてきた。今も、そう信じている。
けれど───
『私を殺さなくていいのですか?』
大きな瞳が目の前にあった。力の抜けたひどい顔のアリアを映す
金眼。人を狂わす狂気の光。
きっと、アリアもその輝きに少しおかしくなったのだ。
「どうなんだろうな。……少し、わからなくなった」
『……そうですか』
「今日は、なんだか疲れたんだ。一度また、帰ることにする」
左足の治癒もほんの僅かではあるが完了した。キュクロープスとの会話の間にも治癒の術式を走らせていたから。鎧が刺さったままで治癒を進行させるとひどい事になるのだが、ひとまず歩く程度はこなせる状態まで無理やり治していた。そうでもしなければ身動きもままならないから。
帰ってから本格的な治療を施そう。
なんだか随分と軽くなった体でアリアは立ち上がりキュクロープスに背を向けた。
僅かにキュクロープスが身じろぎする気配を感じた。これまでの話しは全て嘘で、油断した瞬間を狙ってこちらに襲いかかってくるのかもしれない。
ただ、たとえそうだとしてもアリアはそれに抵抗しようという気持ちが湧いてこなかった。
自分の姿があんまりに情けなくって、今殺されてしまうならそれでもいいという気持ちになっているのかもしれなかった。自分でも本心はよくわからなかった。ただ、そういう気分だった。
気分に従って行動するなんていつ以来だろうか。
『また、会いに来てくれますか?』
背中にかかったのは爪ではなくどこか不安そうな声だった。
「もう三年も通い詰めてるんだ。今更止めたりするものか」
片手を振ってその声に応えた。
深く暗い森の中。そこに佇む一つ目の化け物の姿はこの上なく馴染んでいるように見えた。まさに闇の中こそが居場所である様にピタリとはまったピースのように。
けれど。たとえ、そこが彼女の居場所だったとして。
───もうずっとあなたくらいしか会いに来てくれませんよ?
誰も訪れぬ闇の中に留まるのはとても寂しいことだろうなと。
そんなことをアリアは思った。