ひゅう、と。
冷たい風が夜の森を切り裂くように通り抜けていった。あれから10年の時が流れていた。
狐太郎は、かつてイタチやアナグマを追って駆け回った森の奥で静かな日々を送っていた。ハロウィンの夜ならば、街中を歩いても誰も怪しまないし怒らない。むしろ狼男だの化け狐だのと呼ばれ、歓迎される。
だが、それ以外の日に街へ出ると「ヴィランだ!」「バケモノだ!」と恐れられ、逃げ惑う人々の声と足音が、やがて罵声に変わる。狐太郎はその度に慌てて森へと逃げ込んだ。最初の2年は街に降りたりもしてみたが、それ以降はやめてしまった。
深い森の奥。
夜の闇がすべてを覆い、しんとした静寂が支配している。月光が枝葉の隙間を縫い、地面に不規則な光と影を落としていた。その中を狐太郎は低く身を伏せて歩く。黒曜石のような肌に赤黒い毛並み。10年の歳月の中で、その身体は今やバスほどもある巨体へと成長していた。森を歩けば木々の幹を軋ませ、それらを薙ぎ倒してしまう。そのため彼は己の“個性”を使い、狼に姿を変えていた。
蜂蜜色の瞳が暗闇の奥を鋭く射抜く。そこでは、月明かりに照らされた一頭の鹿が何の警戒もなく草を食んでいた。狐太郎の喉の奥から、低く唸るような音が漏れた。
静かに、確実に、彼は獲物へと近づく。
足音は微塵も立たない。わずかな枯葉の擦れる音さえ、風のざわめきに紛れて消える。月光がちらりとその牙を照らした瞬間、筋肉が一気に収縮した。
次の瞬間、狐太郎の体が矢のように飛び出し、鹿が顔を上げた時にはすでに、喉元に牙が食い込んでいた。鈍い衝撃とともに鹿の悲鳴が夜を裂く。もがき暴れる四肢が地面を抉り、土が飛び散る。だが、狐太郎の前肢は獲物を逃さぬ力で押さえ込み、喉から熱い血が噴き上がった。赤黒い毛並みはさらに深紅に染まり、血の鉄臭さが夜風に乗って森全体に広がっていく。
やがて、動かなくなった鹿を見下ろし、狐太郎はゆっくりと息を吐いた。
その息は白く、冷えた空気の中でたなびいていく。
鹿の肉を噛み、骨を砕き、すべてを食らい尽くすと、満足げに背筋を伸ばした。化野の家で過ごした頃の彼は、栄養も満足に取れぬ痩せた子だった。だが、山で狩りを覚え、肉を食うようになってからは、見る見るうちに身体が逞しく成長していったのだ。
食事を終えた狐太郎は、倒木の幹に爪を立ててガリガリと研ぐ。
牡丹のように艶やかな光がその身を包み、体がぐにゃりと歪む。骨の形が変わり、毛並みが滑らかに流動し、次の瞬間、そこには立派な二本の角を持つ雄鹿が立っていた。
この姿なら、万一人の目に触れても、ただの野生の鹿としか見られない。狼のような姿で現れれば、怪物として追われるだけだ。狐太郎は、幾度となくそうした経験を積んでいた。
「わぁ、すごいですね。それって君の個性ですか?」
不意に、背後から声がした。
幼い声。狐太郎の全身がびくりと硬直する。反射的に変身が解け、大きな獣の姿に戻った彼はその場を飛び退き、近くの岩陰に身を隠した。巨大だから隠れきれていないが、岩の影からそっと外を覗く。
「驚かせちゃってごめんなさい。君って、すごく大きいんだね」
そこに立っていたのは、藤色の髪と黄色い瞳を持つ少年だった。
こんな夜更けの森に、子どもが一人でいるのは明らかにおかしい。いくら人の世から離れて久しい狐太郎でも、その異常さには気づいた。
「僕、福州ソロ。君は?」
「あだしのこたろう」
「喋れるんですか?自分で聞いといて驚いたな。動物に個性が発現した珍しいパターンかと思ったんだけど、ひょっとして異形型の人なんですか?」
「……?うん。こたろうはにんげんだとおもう」
少年はにこりと笑い「近づいてもいいですか?」と穏やかに尋ねた。
狐太郎は戸惑いながらも、少し考えてから頷く。福州は慎重に歩み寄り、恐る恐るその毛並みに触れた。温もりのある掌が、粗い毛を撫でていく。狐太郎は、どう受け止めてよいか分からぬまま、ただ大人しくしていた。
「名前、どういう字を使うんですか?」
「しらない」
狐太郎の答えに福州は小さく笑って、地面の枝を拾い上げた。そして、土の上に“化野 太郎”と書く。
「ここまでは多分あってると思うんですけど、“こ”はどういう文字を使うんだろう?」
「……?きつね?」
「きつねですか、じゃあコレですね」
福州はもう一度枝で地面をなぞり、“化野狐太郎”と書いた。その隣に“福州ソロ”と続ける。
「コレが君の名前、コレが僕の名前」
互いの名を指さし、二人はふっと笑い合った。
「そろ、なにしてる?」
「何でこんなところに居るって意味ですか?」
「うん」
「死のうと思って」
福州はあっけらかんとそう言い、無邪気な笑みを浮かべた。
狐太郎は少し目を見開いたが普通に受け止めた。生き物の死を何度も見てきた彼にとって、それは特別なことではなかった。自分から死のうとする生き物は初めてみたが、まあどうでもいい。
ただこの森に死体を残されては人間たちがまた押し寄せてくる。それが厄介だと思っただけだ。
狐太郎は立ち上がり、ゆっくりと歩き出した。新しい住処を探すつもりだった。だが、後ろを振り返ると、福州が当然のようについて来ている。
「なに?」
「最期だし、旅をしようと思ってたんです。実はもう家を出て2ヶ月経ってるし」
「そう」
「せっかくの出会いだし、ついて行ってもいいですか?」
「うん?うん」
頷いた狐太郎を見て、福州はぱっと表情を明るくした。こうして、二人の奇妙な旅が始まった。
朝。
陽光が山々の稜線を照らし始め、薄く漂う霧がゆっくりと晴れていく。夜露に濡れた草がきらめき、冷たい風が二人の頬を撫でた。
狐太郎の足取りは音もなく、ただ福州の小さな足音だけが山道に響く。鳥たちのさえずりが木々の間からこぼれ、遠くで沢の流れる音が微かに混ざっていた。
「そろ、これはなに?ぐるぐる」
狐太郎が顎で指し示したのは、小川のそばに群れて生える植物だった。普段は気にも留めないものだが、先程から福州がやれあの草はヨモギだ、やれあの花は彼岸花だと説明してくる為、興味を持ち始めたのだ。
「これはぜんまいという山菜ですよ。春先に出てくる芽を摘んで、天ぷらや煮物にするんです。栄養価も高いし、昔から山の恵みとして重宝されているらしいですよ」
「この草も食べるの?」
「大人は食べますね。僕は嫌いなんだけど。野菜って変な味しかしないし。でもちゃんと食べてますよ、栄養のために。君も人間なら野菜も食べないと栄養が偏ってしまうので、気をつけてね」
「そう、いらない」
「あらら」
穏やかな会話を交わしながら、二人はさらに進んだ。太陽が昇り、沈み、日付が流れる。山を越え、川を渡り、そして、やがて一面の草原へと出た。
風が草を揺らし、波のように広がっていく。青空の下、狐太郎の毛並みが陽光を浴びて赤くに輝いていた。
「ソロ、あれは何て名前?」
人間と会話を重ねるうちに、言葉がずいぶん滑らかになってきた狐太郎が、好奇心のままに遠くの木の枝を指差して尋ねた。そこでは小さな生き物がせわしなく動き回っており、枝葉の間を行き来する姿が陽光を受けてきらめいていた。
「リスですね。木の実や種を集めて食べるんです。秋にはどんぐりをたくさん集めて冬に備えるそうですが、どこに埋めたかを忘れてしまうらしいですよ」
「間抜けだね」
狐太郎は鼻先で笑い、ふさふさの尾を小さく揺らした。
「食べた事あるんですか?」
福州が振り返りながら尋ねる。
「あれはすばしっこいのに胃袋に溜まらないから、積極的には狙わない」
「なるほど。あれだけ大きいと、たくさん食べないといけなそうですしね」
「そうでもないよ。食事は4、5日に一度だし、普段はゴロゴロしててあまり動いてないから。あの、アレ」
「低燃費?」
「それ」
狐太郎は短く答え、リスの動きを目で追いながらゆるやかにまばたいた。枝先のリスは素早く体を丸め、次の木へと飛び移る。その姿を目で追っていた狐太郎はふと視線を逸らす。川沿いに咲く黄色い花が目に留まったのだ。
「あれは?」
「あれはミズバショウ。湿地に生える植物で、春になると綺麗な花を咲かせるんです。見た目は鮮やかだけど、毒があるから食べちゃダメですよ。綺麗な薔薇にはってやつです」
「バラって何?見たことない」
「おっと、これは僕がノンデリでしたね」
「のんでりって何?」
「またやってしまった」
狐太郎は首を傾げ、福州は苦笑する。
彼らの足取りは軽く、しかし風景の奥行きは徐々に深くなっていく。ミズバショウの花びらがわずかに風に揺れ、湿った空気に淡い香りを残していた。
しばらく進むと、草原の真ん中に一本だけ古びた木が立っていた。長い年月を刻んだ幹はねじれ、苔むした表皮が威厳を感じさせる。
「ソロ、木にも名前ってあるの?」
「ありますよ。あれはケヤキの木。昔から日本によく見られる木で、丈夫な材質だから家の柱や家具に使われていたんです。樹齢も長いから、あの木もきっと何百年も生きているんでしょうね」
「へぇ」
狐太郎は感嘆の声を漏らし、その巨木をしばし見上げた。陽光が枝葉を透かし、木漏れ日が二人の足元にまだら模様を描いている。
さらに山道を登ると、今度は空を悠々と旋回する大きな鳥が視界に入った。翼を広げ、風を切る音がかすかに響く。
「ソロ、あの鳥は?」
「あれはトビですね。猛禽類で、空から獲物を見つけて狩るんです。視力がとても良くて、地上の小さな動きも見逃さないらしいですよ」
「目がいいから、ネズミとか捕まえられるんだ」
「狐太郎は鳥に変身したらやっぱり飛べるんですか?」
「飛べるよ、変身したら体重も変わるから」
「へぇ、羨ましい。凄いですね」
二人が旅を続ける中、ふと福州が足を止め、道端に群生する草に目を留めた。
「狐太郎、あれを見てください。これはシシウドっていう草で、昔の人たちは薬として使っていたものですよ」
「これもただの葉っぱじゃないんだ」
「そう。役に立たないものなんてない。全てのものには名前があって、中にはこういう風に人の役に立つものもある。自然って個性的で面白いですよね」
福州は一瞬、言葉を飲み込むようにしてシシウドを見つめた。風が吹き抜け、草の穂先が波のように揺れる。その揺れを眺めながら、彼は何かを思い出しているような、少し遠い目をしていた。やがて顔を上げ、「行こうか」とだけ告げると、再び歩き出した。
──そして、さらに3ヶ月ほどの時が経った頃。
二人の旅は、静かに終わりを迎えようとしていた。
旅路の果てで彼らが辿り着いたのは、鬱蒼とした森だった。木々は空を覆い尽くすほど高く、葉の隙間から差し込む光は細い糸のように頼りなかった。湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつき、土の匂いと苔の香りが混ざり合う。足元では落ち葉がしっとりと沈み、踏みしめるたびに小さな音を立てた。近くには川があるのか、水の匂いと水が流れる音がした。先ほどまでの強い雨の影響か、かなり水流は早そうだった。
福州は肩の荷を軽く揺らしながら、少し不安げに周囲を見回した。それでも狐太郎の背中を見失うことなく、一定の距離を保ってついていく。
森を抜け、崖を通り過ぎ、川を渡る。やがて二人は一本の巨木のそばに辿り着き、その根元に腰を下ろした。近くには崖があり、その下を流れる激流の音が聞こえてくる。
しばしの沈黙のあと、福州が口を開いた。
「あの、僕の話を聞いてくれますか?」
その声には、どこか張り詰めた響きがあった。狐太郎はただ静かに頷く。
「ありがとう。死ぬって決めたのは良いけれど、やっぱり寂しいので。身勝手な話だけど、絶対に止めないでくれる誰かに話しておきたかったんです」
福州は俯いたまま、かすかな笑みを浮かべた。風が髪を揺らし、巨木の葉がさざめく。狐太郎は何も言わなかった。ただ静けさの中で福州の言葉を受け止めるように、微動だにせず座っていた。
そして福州は話し出した。
「そうだな……話すとは言ったものの、どこから話したものかな……狐太郎は“ヒーロー”とか“個性”とかって、どこまで知ってます?」
夜の森の奥。月の明かりが二人の影を地面に揺らめかせていた。木々の隙間から降り注ぐ光が福州の横顔を淡く照らす。狐太郎は火に照らされたその表情を静かに見つめながら、低い声で答えた。
「ヒーローにはよく追いかけられた。他の人間と比べて妙な服を着ている連中だろう?」
「あはは、やっぱりそう見えますか。狐太郎は個性を違法に使ってるヴィランに見えたんでしょうね。個性については色々と調べていたんだけど、完全に四足獣になる異形型の話は聞いた事がなかったし」
「ヴィラン?俺、よくそう言って怒られたぞ。“ヴィランだ!”、“バケモノだ!”って」
狐太郎の声には、興味よりもわずかな警戒が混じっていた。森の生き物が見慣れぬ音に耳を立てるような、そんな声音だった。福州は穏やかに微笑み、ゆっくりと火を見つめながら話を続ける。
「個性は、基本的に資格がないと公共の場で使ってはいけないんです。個性を使って身勝手な行いをする人間を“ヴィラン”、逆に個性を使って人助けを行う人を“ヒーロー”って呼ぶんです」
「俺は無断で個性を使ってこの姿になってると思われたのか……道理で……」
「よく逃げきれましたね」
「わはは、大した事のない連中だった」
狐太郎は牙を見せるようにして笑う。明かりが赤黒い毛並みに反射して、獣じみたその笑みに野性の影を与えていた。福州は少し目を丸くし、それから小さく息を洩らした。
「凄いなぁ。狐太郎は異形の姿を持った……いや、変形系個性に関係した異形なのかな?“水を操る”という個性なのに、体が水で出来ているようなヒーローがいたし、その類だと思います。変身するといえば、妖狐。狐は化けるもの、化かすもの。名付けるなら……個性“化け狐”?」
「俺の能力の名前か?」
「そう。勝手に名前付けられるの嫌でした?」
「別に。呼び方はある方が便利だろう?ソロの発案ならそれで良いよ。たった1人の友達だし」
その言葉に福州は少しだけ驚いたように目を見開き、それから照れたように笑った。火の粉がふっと宙に舞い上がり、夜気の中で儚く散る。
「そう言ってくれると嬉しいです。僕も君が初めての友達ですよ」
「お揃いだな」
静寂の中、二人の笑い声が森に溶けていく。虫の羽音と遠くの小鳥の鳴き声が、それを優しく包み込んだ。
福州は狐太郎の赤黒い毛並みを撫でながら、彼の個性についての考察を語った。その手のひらからは、ためらいのない好奇心と、どこか寂しげな温度が伝わってくる。だが今は自分の話ではないと悟り、狐太郎は短く息を吐き、低く促した。
「俺の事はもういいから、本題をさっさと話せ」
「そうだね……」
福州は目線の先にある崖をじっと見つめた。その瞳はどこか遠くを見るように揺れている。そして、静かに語り始めた。
「オチから話すと、僕は“無個性”だと思うんだ。まだ正確な検査はしてないから断言はできないけど、確信はありますから」
「無個性、個性がないのか?」
「うん。世のほとんどが個性を持っているこの社会で、僕には何の力もない」
その言葉は風のように軽く放たれたが、含まれる重みは夜の闇よりも深かった。狐太郎は黙って彼の横顔を見つめる。福州の唇は笑っているが、声はどこか乾いていた。
「それが原因?」
「そうだね。僕の母は幻覚を見せる個性、父親は犬科動物に変身する個性、姉は目の前の人間に変身できる個性。でも僕は無個性だ。もう12歳になったのに、やっぱり何の力もない。まあ、4歳で個性が出なかった人には希望なんて基本的にないんだけど」
「何で4歳?」
「個性が発現した人のほぼ全員が、4歳までに発現してるんです。それ以降に発現したのは、非常に珍しい例だ。個性に気がついていなかっただけとも考えられている」
「じゃあソロはもう確定なのか?」
「確定するんだよ、これから。検査されるんだ、足の小指に関節があるかないかっていうのは4歳の頃にやったんだけど。もっと精密な、個性因子を調べるテスト」
「足の関節?何だそれ?」
狐太郎の素朴な問いに、福州は少しだけ表情を和らげた。リュックからノートと鉛筆を取り出すと、膝の上に開き、迷いなく線を走らせた。月明かりの中で、紙に描かれていく骨格図は、少年の理性と知識の象徴のようだった。
「昔、一つの研究結果が発表されたんです。足の小指に関節があるかないかって話。不要なところは退化して無くなっていく。小指の関節は必要ない。要するに、関節がない人の方が型として新しいって事。古い型は関節があるんです。それは個性のない型。個性が混ざり合ってどんどん強くなっていく第五世代には珍しい、無個性の人間なんだ。ただ、この診断はあまり正確じゃないみたいですね。僕みたいに関節がなくても無個性の人間だっているわけだし……」
「それで、ショックを受けて死のうって?」
「うん、すごくショック。僕の母は元プロヒーローだし、父はヒーロー関連の大企業の社長だ。そんな人たちの元に無個性なんて生まれちゃいけなかったんだよ」
福州の声は静かだった。けれど、その沈黙の底には冷えた諦念が沈んでいた。月が雲に隠れて、闇が辺りを覆う。狐太郎は何も言わなかった。ただ、彼の長い尾がゆっくりと動き、地面の枯葉をかすかに鳴らした。
「そういうものなのか?」
「そういうものなんだ。僕になかなか個性が発現しないと分かってから、2人の態度は露骨に冷たくなったからね。息子なのに家庭内別居。ユウちゃ……僕の姉は庇ってくれてるみたいだけど、正直時間の問題だよ。“まだ発現する可能性はある、もしかしたら気がついていないだけでもう発現してるのかもしれない。というか、無個性だって別に良いじゃない”って、たまにメールが来るんだ。
でもそんなの、限界があるでしょ?もう本当に無個性なんだって2人にバレちゃうよ」
「バレるとどうなる?」
「どうなるんだろう?必死に隠すか、捨てられるか……どうなろうとも、両親の弱みになる事は確かだ。僕達の世代では無個性って絶滅危惧種と言われるくらいには少ないし、それだけでいじめの対象になるくらいのハンデなんだ」
「弱い奴を意味もなく虐めるのか。蹂躙は俺も好きだし他所のことを言えた口じゃないけど、人の世も意外と文明的じゃないんだな」
「君も人だろう?達観しすぎだよ」
「あ、そうだった」
短いやり取りの中に、わずかな笑いが戻る。しかし、その笑みはどこか空虚で、互いの胸の奥に沈む重い現実を照らしきれはしなかった。
「まあでも、確かに今の世の中は結構ギリギリだと思うよ……と、この話は関係ないね。……そう、それでね、僕が自殺を決めた理由だけど、さっきも言ったように病院で正式な検査を受ける事になったんだ。そうすると“無個性かも”が“無個性確定”になってしまう。だからそうなる前に家を出て来たんだ。分からないまま、闇に葬ってしまおうと思ってね」
福州はそう言って、小さく息を吐いて笑った。狐太郎はその姿を見つめながら、長い沈黙の末に、ただ一度、低く唸るように息を吐いた。
福州は立ち上がると、どこか白々しいほどに大きく伸びをした。「誰かに話せてよかったよ」と、狐太郎を見て微笑む。その表情には、不思議なほどの清々しさがあった。
そして、そのまま立ち去ろうとした。恐らく死にに行くのだろう。だが、ふと何かを思いついたように足を止め、狐太郎の方を振り返る。
「もう少しだけ歩きながら話さない?少し提案があるんだ」
そう言われて狐太郎は小さく頷き、彼に連れ添って再び森の中を歩き出した。
「君はこのまま森で過ごすつもり?森の動物みたいに?」
「特に考えてない」
「僕は勿体ないと思う。そんな凄い個性を持った賢い人なのに。人の世で過ごすのも、最高に楽しいと思うよ」
「今から死ぬ奴に言われてもな」
「あっはっは!それもそうだ。久々に笑っちゃったや。でも、僕も昔は夢見る少年だったんだよ?自分がヒーローになった時の設定とか考えてたんだ。ヒーローってキャラ付けが大切だからさ。家族の個性から推察するに、僕も変身系とか相手を幻惑する感じの個性が発現するって思ってた。トリックスターみたいなヒーローを夢想してたんだ」
「へぇ」
「あはは、興味なさそう。それでね、君って変身系の個性じゃん?これって運命なんじゃないかと思うんだ」
いい具合に切り立った高い崖の前に着くと、福州は足を止め、狐太郎に向き直った。その顔は、もう迷いを捨てた人間の顔だった。
「僕の顔と人生をあげるよ」
「……?意味が分からない」
「ヒーローに追いかけられたって事は、君はきっとヴィランとして登録されてる。出て行ったら多分逮捕されちゃうと思うんだよね。それに、ただでさえ異形型の個性って差別される事が多いのに、君は文字通り獣にしか見えないから」
「それで?」
「僕に化けて、“福州ソロ”として生きてみない?っていう提案。森でただ生きてるだけより、楽しいと思うよ」
「本気なのか?」
「本気も本気。誓ってもいいよ。神でも仏でも、天使でも悪魔でも、目の前にいる唯一無二の友達にでもね」
「なんじゃそりゃ」
「あはは、ねえちゃんとの身内ネタ」
狐太郎は少し黙った。特に断る理由はないが、受け入れる理由もない。けれど、福州がそれを望むのなら、きっと叶えてやった方が嬉しいのだろうと思った。
彼は賢い。だから気づいているはずだ。
“息子が無個性だった”という事実よりも、“息子を自殺させてしまった”という現実の方が、遥かに両親にとっての弱みになることを。
すぐにバレるんじゃないかとも思うが、いまだに捜索が得意なヒーローが探しに来ないあたりを見ると、恐らく両親は息子の失踪を隠しているのだろうと狐太郎は推測した。それに家族とももう何年もまともに会っていなし話してもいないと言っていた。それならば、入れ替わって戻ったところで、誰も気づくまい。
「バレたら君が僕を殺したと思われちゃうリスキーな頼みだけど、どうする?」
その問いを聞き、狐太郎は目を細め、牙を見せて笑った。
「良いぞ。森で過ごすより余程楽しそうだ」
「最高だ。それなら今日から僕の顔は君のものだ」
彼がそれを望むのなら、答えてやるのも一興だ。
これまで多くを教えてもらった恩もある。最期の願いくらい、叶えてやるのが筋だ。せっかく、それを可能にする能力を持っているのだから。少しくらい人を化かして過ごすのも悪くないだろう。
「そのリュックに予備の服と、今までのことが記されてる日記があるよ。“福州ソロ”の情報はそれで十分だ。君は頭が良いし、覚えられるだろう。それにさっきも言ったけど、家族ともほとんど会ってないし、誰も気づかないよ。学校も不登校だったし。ねえちゃんとも通話とかメールしかさせてもらえなかった。『無個性の落ちこぼれと話したら教育に悪い』って言われちゃってさ」
差し出されたリュックの中には、確かに日記があった。文字はテレビの字幕や化野の家にあった絵本で覚えていたし、この旅の中で福州からも教えられた。読めないはずがない。
「それじゃあ、僕は死ぬよ。この崖の下の川は海に繋がってる。崖にぶつかって死んで、死体は海の藻屑だ」
「何でちょっと楽しそうなんだ?」
「不謹慎だけど、最初で最後の大冒険だったからね。ちょっと達成感がある。そうだ!もし死体が崖に引っかかったりしてちゃんと流れてなかったら、適当に川にでも投げといてよ」
「まあ、ソロがそれを望むのなら」
「良かった。それなら安心して死ねるや」
福州は微笑みながら狐太郎の顔を撫で、木の方を向くようお願いした。狐太郎が後ろを向いたのを確認すると、小さく「振り向かないでね」と言い、彼の側から離れていく。
「最初で最後の友達が君で良かったよ。短い間だったけど、ありがとう。じゃあね、狐太郎」
その直後。
重く鈍い衝撃音が、森の静寂を裂いた。空気が震え、川の方から水飛沫が高く舞い上がる。鼻腔を刺す鉄の匂い。生々しい血の匂いが、風に乗って漂った。
狐太郎は静かに崖の上から川を見下ろした。
「じゃあな、ソロ」
崖の岩肌には、赤黒い血痕が生々しく残っていた。
これが見つかれば面倒だと判断し、その辺りの土を崩して上からかけ、証拠を隠す。そして狐太郎は、先ほどまで生きていた少年とまったく同じ姿に変身した。
リュックから地図を取り出し、福州の家の在処を確かめる。肩に背負い直すと、狐太郎……いや、“福州ソロ”は、軽い足取りで森を後にした。