お狐フレンズ   作:佐倉シキ

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愚かな道化

 

 

 

 

脳無は沈黙した。

そして、ソロはその傍らに立ち尽くしていた。

 

いや、正確には自分が本当に立っているのかすら曖昧だった。膝が抜けそうになり、地面と身体の境界がぐらつく。足元にぽっかりと深い穴が開いて、自分だけがその暗闇へ落ちていくような、底のない浮遊感。

 

(いやいや、何でこんなに動揺してるんだ……?仕方ないじゃないか、襲われたんだ、倒すしかないだろう、相手は脳無だったんだぞ……でも、だって……何でこんなに……ああ、最悪だ最悪だ、嘘だろう……)

 

胸の奥で、嫌な予感が形を得てしまった瞬間だった。想像を絶する最悪の真実。その可能性に気づいた時、脳は焼けつくように熱を帯び、目まぐるしく回転する。どうにか解決策を探そうと、必死にあらゆる案が浮かぶが、どれも現実味がなく、無意味で、救いにはほど遠い。理解した瞬間、世界が暗く閉ざされたように感じた。思わず頭を抱える。

 

「ご、ごめん……ソロ……お前の家族を、俺が……」

「福州さん……?」

 

背中越しに八百万はソロの気配が明らかに変化したことに気づいていた。わずかな呼吸の乱れ、揺れる肩、沈黙の重み。それらがソロの異常な動揺を物語っている。

 

ソロの胸中には、冷たい水が絶え間なく押し寄せるような後悔が溢れていた。たった一つの行動、一瞬の判断。それが、取り返しのつかない結果を招いてしまったかもしれない。その事実がじわじわと胸を締めつけ、肺の働きを奪い、呼吸が浅く苦しくなる。

 

(ど、どど、どうしようどうしようどうしようッ……!これ、俺、何やってんだよ……ッ!ソロのフリして、ソロの姉ちゃん殺して……どうするんだコレ……ッ!?

 

……いや、いやいや、そもそも、そもそもだ。ユウちゃんじゃない可能性、まだあるよな……?さっきだって喋ってたけど……脳無って謎技術いっぱいだし……あれだって本当にユウちゃんだったか分からないだろ……!?そもそも本物じゃない……ユウちゃんのフリした偽物が紛れ込んだだけで……!だって……俺が、俺が殺したなんて……そんなわけ……そんなわけあるかよ……!間違いだ、絶対……ッ!

 

そうだよ、これは、ただの敵!ただの脳無だ!俺は敵を倒しただけ!脳無を殺しただけだ!コイツはユウちゃんじゃない、ユウちゃんじゃないッ!だ、だったら……だったら俺……俺は悪くねぇッ!悪くねぇんだ!)

 

焦燥が全身を駆け巡る。

頭ではもう答えに触れかけているのに、そこへ踏み込むことだけは本能が全力で拒んでいた。もうとっくに転げ落ちているのに、まだ落ちていないと自分に言い聞かせているようだった。

 

覆水盆に返らず。

それなのにソロは、零れた水を零れていないと思い直そうとするかのように、崩れ落ちた現実にしがみついていた。

 

だからこそ、気づかなかった。

 

「ネホヒャン」

「ッ!?」

 

空気を読まない奇妙な声。

脳無がもう一体、いつの間にか背後に現れていた。複数の腕が胴から生え、その一本一本の先には刃物、ハンマー、金属棒など、武器のような異形の器官がぶら下がり蠢いている。

 

「逃げろッ!!」

 

ソロは叫び、振り向く。

しかし、その声は明らかに遅かった。

 

脳無は迷いなく腕を振りかぶり、ハンマー状の腕がうなりを上げてソロの頭部を叩きつけた。鈍い衝撃が空気を震わせ、骨と肉が悲鳴を上げる。脳が揺さぶられ、視界が白くはじける。その一撃は、頭蓋を簡単に砕き割る重さだった。

 

同時に、別の腕が振り回され、金属棒が八百万と泡瀬の身体を容赦なく薙ぎ払う。

 

3人の身体はほぼ同時に地面に叩きつけられた。

 

八百万は頭部を強打し、地面を転がった。額から鮮血が流れ出し、白い肌を赤く染めながら横たわる。ソロもまた、ハンマーの直撃で意識がほとんど吹き飛んだ。地面に叩きつけられた瞬間、頭の中で何かが弾けるような痛みが走り、そのまま身体から力が抜ける。藤色の髪が大量に滴り落ちる血でじわじわと赤に染まっていく。地面には瞬く間に血溜まりが広がった。

 

泡瀬には何が起きたのか理解が追いついていなかった。視界が揺れ、頭に鋭い痛みが走り、頬に温かい血が伝う感触だけが現実を知らせる。

 

(あ、あんなに……血が出てる)

 

息が浅くなる。恐怖で心臓が跳ねる。

八百万は意識が朦朧とし、ソロは見た限り致命傷に近い。泡瀬の喉が乾き、絶望が背筋を走る。

 

新手の脳無は「ネホヒャン」と奇妙な声をあげながら、倒れたソロの髪を乱暴に掴み上げた。その仕草は、瀕死の獲物を引きずり起こして息の有無を確かめるものだった。

 

藤色の髪は、流れ出る濃い血を吸い上げていく。頭部から徐々に色が侵食され、紫が汚れた赤に塗り潰されていく。開きっぱなしの口に血が容赦なく流れ込み、ソロは溺れかけたようにゴボッと咳き込んだ。その小さな反応だけが、辛うじて生きている証明だった。

 

しかし、それだけだ。

 

顔は既に判別も難しいほど血に覆われ、流れ出る血は止まらず、顎を伝い、首筋を汚し、服を染め、地面に濃い血溜まりを広げていく。

 

そして脳無は、ソロを軽々と小脇に抱えると、仕留め損ねた二人へゆっくり首を向ける。

 

「やばいってやばいって……!」

 

泡瀬は恐怖に突き動かされ、八百万の身体を抱え上げる。落とさないように自分の腕と彼女の腕を溶接し、必死に走り出した。脳無は腕を振り回しながら、ガキンガキンと地面を叩き割る勢いで二人を追い始める。

 

「やばいってこいつぅッ!!」

「ネホヒャン」

「八百万!!生きてるか!?おい!!頼む走れ!!追いつかれる!!」

 

脳無の振り回す刃物が、空気を裂きながら頭皮すれすれを掠めた。八百万と泡瀬は、もはや全力疾走というより必死に転げるように逃げていた。足は震え、呼吸は荒れ、肺が焼けるように痛い。地面に足がもつれて転びそうになる度、死がすぐ背後に迫っているのを痛感させられる。

 

「あ、泡瀬さん……福州さんは……?」

「脳無に捕まった!血塗れで、多分かなりやばい!ぐったりしてて全く動かねーッ!!」

「そんなッ……」

 

八百万は視界の端で揺れる世界を必死に正し、後ろを振り返る。脳無は2人を追跡しながら、ソロをまるで荷物のように乱暴に鷲掴みにしていた。ソロの体は完全に力を失ってぶら下がり、脳無の一歩ごとにぐらりと揺れて血が滴り落ちる。

 

二人は必死に走る。しかし脳無と彼らの距離は、呼吸が一つ乱れるたびに詰まっていく。

 

そして、泡瀬の首筋すれすれに刃が触れようとした瞬間、脳無はぴたりと動きを止めた。異様な静止。怪物の巨体がひと呼吸ぶん揺らぎ、次の瞬間、すべての武器を体内に収納して踵を返す。

 

なぜ逃げたのか、八百万の脳裏に嫌な予感が閃いた。

 

(役目を…果たした、と言う事……!?福州さんは捕まってしまった……まさか爆豪さんまで!?)

 

考えるより速く、決断が必要だった。最悪の状況。だがその中でも、ヒーローとして自分が今できる最善だけは選ばねばならない。

 

八百万は震える手で素材を構築する。体は痛みと恐怖で限界に近いのに、頭だけは鋭い意思で動いていた。

 

「泡瀬さん……個性でこれを!奴に!」

 

泡瀬は受け取るや否や、その物を脳無へと溶接しに駆け寄る。目の前で自分たちを追い詰めた怪物に飛び込む行為は、正気ではできない。それでも、ヒーロー科として見捨てることはできなかった。

 

──なんとか、何かしなきゃ。

 

その想いだけが、彼らを動かしていた。

 

渡されたものを溶接し、さらにソロへと手を伸ばす。だがその瞬間、脳無は泡瀬の手の届かぬ所へ信じられない速度で走り去って行く。

 

「クソっ……」

 

泡瀬は悔しさに歯を食いしばり、拳を地面に叩きつけた。あまりの無力感に、吐き出すように悪態が漏れた。それでも追うことはできない。今の彼らはあまりにも消耗し、脳無に敵う力など残っていなかった。

 

 

 

 

 

     *   *   *

 

 

 

 

 

場所は変わり、森の上空。

木々のてっぺんを踏み台にするような勢いで、緑谷と轟は障子に抱えられたまま空中をぶっ飛んでいた。風が耳を切る。枝葉が頬を叩く。狙うは常闇と爆豪を攫った男、Mr.コンプレス。

 

ヴィランたちの待機地点が近づくにつれ、空気が静まり返るような気味の悪い緊張が走る。ほぼ同時に、逃走するコンプレスの背中が視認できた。

 

「知ってるぜこのガキども!誰だ!?」

「Mr.避けろ」

「!了解」

 

トゥワイスの声に反応し、待機していたヴィランの一人、荼毘は状況を瞬時に見抜くと指を鳴らして燃え盛る炎を放った。青白い火柱が空を裂き、轟たちを呑み込もうと膨れ上がる。

 

緑谷と障子は完全には避けきれず、熱が皮膚を焼くような痛みが走り、焼け焦げた匂いが上がる。轟だけは炎を紙一重で避け切った。

 

すぐに反撃へ転じ、氷結が生まれ、ヴィランたちへ叩きつけられる。

 

そこへまた一人、トガが舞うように飛び込む。手にした刃物は光を反射し、笑顔のまま緑谷だけを狙って一直線に迫ってくる。

 

「トガです出久くん!さっき思ったんですけどもっと血が出てた方がかっこいいよ出久くん!」

「はあ!!?」

 

戦場は混沌とした。火と氷、刃と悲鳴、地面の震動。全てが交錯する中、コンプレスは荼毘に報告しようとポケットに手を入れる。だが表情が一瞬で固まる。

 

奪ったはずの爆豪達が、いない。

 

信じられないように手探りするが何もない。隙を突くように、障子がいつの間にか取り戻していたのだ。

 

荼毘たちが動揺した、その刹那。

 

頭上から影が落ちた。

 

脳無だった。

脳無は抱えた荷物を雑に地面へと叩きつける。血が散り、土が濡れる。

 

緑谷たちは、息を呑んだ。

声にならない叫びが胸の奥で弾ける。

 

地面にぐったりと倒れ、流れる血で顔が血で真っ赤に染まった少年……

 

「福州くんッ!!!」

「お、よくやった」

 

荼毘はソロの襟を無造作に掴み、ずるりと持ち上げた。雑に血を拭うと写真と照らし合わせるように顔を見比べ、満足げに笑う。ソロの顔は血で覆われ、白いシャツは赤く染まり切っていた。意識の欠片すらなく、完全に脱力した体は糸の切れた人形のようだ。

 

「ッ!何しやがった!」

 

轟が激昂し、一歩踏み出す。緑谷、障子も続こうとした。だがその瞬間、空間そのものが歪む。黒霧のワープゲートが広がったのだ。逃がしてなるかと叫ぶ間もなく、全てが闇に呑まれていく。

 

「ワープの」

「合図から5分経ちました。行きますよ、荼毘」

 

黒霧のゲートがゆっくりと口を広がる。まずトガとトゥワイスが軽やかにゲートへと身を沈める。次に、脳無がソロの体をずるりと引きずりながらゲートへ向かっていく。ソロの足が地面に擦れ、血の跡が途切れ途切れに残された。

 

緑谷は叫んだ。

 

「待てよ!!ッ!!福州くん!福州くんッ!!」

 

その叫びには、喉が裂けるほどの必死さが滲んでいた。だが脳無は一瞥すら向けず、ゲートに吸い込まれ消えていく。

 

荼毘は爆豪を取り返してから帰ろうと両手に炎を纏わせる。火柱が腕の周囲で揺らめき、焼けつくような熱が空気を歪ませる。しかしコンプレスが素早く手を伸ばし、それを止めた。

 

爆豪は奪われてなどいなかったのだ。

コンプレスの元には本物がある。障子が奪ったのは囮だった。

 

「それじゃー、お後がよろしいようで」

 

コンプレスが芝居がかった所作で頭を下げ、ゲートへと足を踏み入れた、その瞬間。

 

光が空気を裂いた。

レーザーが弾丸のような速度でコンプレスの顔面を掠め、仮面を粉砕する。破片が宙を散り、彼の口からふたつの丸い球が転がり落ちた。

 

爆豪と常闇だ。

 

轟達は反射的に飛びかかる。身体が悲鳴を上げても、痛みより早くに動いていた。緑谷も当然飛び出そうとした、だが。

 

激痛が全身を貫き、膝から崩れ落ちた。

筋肉が痙攣し、激痛が脳天を突き抜ける。息をするだけで痛む。動けない。

 

轟と障子が腕を伸ばす。

そして片方、常闇は掴めた。しかしもう片方、爆豪は荼毘の腕に奪われた。

 

「確認する。解除しろ」

「っだよ、今のレーザー…俺のショウが台無しだ!」

 

怒りを隠さずコンプレスが毒づき、渋々個性を解除する。

 

「問題、なし」

 

荼毘の手の中には爆豪。最悪の形で確保されていた。

 

緑谷は痛みに震えながら、それでも叫んだ。地面を這ってでも近づこうとする。だが爆豪はそんな彼に、短い言葉を投げた。

 

「来んな、デク」

 

その声は、これ以上来るなという拒絶ではなかった。仲間を巻き込まないための、最後の言葉だった。ワープゲートが爆豪を呑み込み、静かに閉じた。黒い闇は何事もなかったかのように空気に溶け、完全に消え失せた。

 

 

取られた。奪われた。攫われた。

 

森は轟や荼毘、ソロの炎の余波で火の海となっていた。青や赤の炎が木々の影を揺らし、黒煙が空を覆う。熱風が皮膚を刺し、ゴウゴウと燃え上がる音が耳を支配する。

 

その地獄のような光景の中で、緑谷の絶望に満ちた叫びが森に木霊した。

 

 

 

 

 

      *   *   *

 

 

 

 

ブラドキングが通報していたため、ヴィランが去ってから15分後、現場には救急隊と消防隊が雪崩れ込むように到着した。

 

生徒40名のうち、ヴィランが撒いたガスによって意識不明の重体者が15名。重軽傷者が11名。無傷だった生徒はわずか12名。

 

そして2名が攫われ行方不明。そのうち1人は血塗れのまま重体で連れ去られたことが確認されていた。

 

プロヒーロー6名中、1名は頭部を強く打ち重体。もう1名は大量の血痕だけを残し、行方不明。

 

一方でヴィラン側は、ほとんどが逃亡に成功していた。

 

 

 

──── 完全敗北だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

緑谷はぼんやりと天井を見つめていた。

気絶し、痛みによる悶絶を繰り返し、ようやく物事を考える余裕が生まれるまで2日かかった。両手はガチガチに包帯を巻かれ、指すら動かせない。わずかに首を曲げ、視界の端にあるテーブルを見る。

 

そこには切られたリンゴ。そしてメモ。

 

『起きたら食べて、電話してください』

 

母の字だった。

 

(お母さん、いつのまに……洸太くん、無事かな……)

 

まだ頭が霞んで、考えがまとまらない。

痛み止めが切れかけているのか、脈と同じリズムで傷がうずく。

 

「あー!!緑谷起きてんじゃん!!」

 

ドアが勢いよく開き、病室に上鳴の明るい声が弾けた。その後ろから、他のクラスメイトたちも次々と顔を覗かせる。消毒液の匂いがほんのり漂う、静かすぎるほど静かな病室。その静寂を押しのけるように、A組の面々が次々と雪崩れ込んでくる。

 

「なあテレビ見たか?学校今マスコミやべーぞ」

「春の時と比べものになんねーよ」

「メロンあるぞ!皆で買ったんだ」

「見舞いと言えばフルーツ!」

「フルーツといえばフルーツの王様メロン!」

「王様ってドリアンじゃなかったか?」

「シャインマスカットだろ!」

「おすすめはクイーンセブン」

 

軽口が次々に飛び交い、閉じこめられていた病室の空気が一気に色づく。緑谷は、いつもと変わらない賑やかさに胸の奥がふっと温かくなった。張りつめていた心がわずかに緩んだ。

 

「ありがとう、A組みんなで来てくれたの?」

 

だが返ってきた声は、明るく賑やかな空気とは裏腹に、現実を突きつける冷たさを帯びていた。

 

「いや、耳郎くん葉隠くんはヴィランのガスによって未だに意識が戻っていない。そして八百万くんも頭をひどくやられてここに入院している。昨日丁度意識が戻ったそうだ。だからここに来ているのはその3人を除いた」

「……15人だよ」

 

麗日の声は、小さく沈んだ。胸の奥がぎゅっと締めつけられるように痛む。

 

「福州と爆豪、いねぇからな」

「ちょっ、轟!」

 

轟のあまりに率直な言葉に、空気がわずかに揺れた。

緑谷の頭の中で、断片だった記憶がゆっくりと像を結んでいく。普段は傲岸不遜に騒ぎまわり、誰よりも怖くて、しかし芯の強い爆豪。賢く、強く、意地悪でサディスティックなのに、妙に人を惹きつける福州。2人で子どものように取っ組み合いをし、笑っていた姿はつい最近のものだった。

 

だが今、そのどちらも、ここにはいない。

 

胸の奥がざわりと波立ち、息が詰まる。爆豪がワープゲートに呑まれていった光景。福州が血塗れで地面に倒れ伏した瞬間。鮮烈な痛みとして、脳裏に何度も突き刺さる。

 

オールマイトの言葉が蘇る。

手の届かない場所には救けに行けない。

だからこそ、手の届く範囲は必ず救けだすのだ、と。

 

緑谷は、手の届く場所にいた。

救うべき場所にいた。

なのに動けなかった。 

 

相澤が言った通りになってしまった。肝心な時に動けず、ただ一人を助けて動けなくなる木偶の坊。

 

その事実が、喉の奥で苦い鉛のように重く沈んでいく。

 

「……救けなきゃ行けなかったのに……体…動かなかった……ッ!」

 

声がふるえ、視界が揺れる。

吐き出された悔恨は、あまりに重く、あまりに痛い。病室の賑やかさは消え、空気がひどく静かになった。

 

そんな沈黙を断ち切ったのは、一つの強い声。

 

「じゃあ今度は助けよう」

 

切島だった。

その声音には覚悟が宿り、ためらいは一切なかった。

 

「実は俺と轟さ、昨日も来ててよぉ……そこでオールマイトと警察が八百万と話してるとこに遭遇したんだ」

 

生徒たちの表情が揺れた。切島の言葉に耳を傾ける。八百万はB組の泡瀬と協力し、ソロを攫って行った脳無に発信機を取り付けていた。

 

「つまりその受信デバイスを、八百万くんに創ってもらうと……?」

 

飯田の声は鋭かった。その響きには、明確な警告が込められている。これはプロに任せるべきだ。生徒の領分ではない。当然の主張だ。当然、切島も分かっていないわけではない。

 

だが、それでも感情は理屈を押し返す。

 

友が攫われ、血を流し、消えていった。

知っていたのに、何もできなかった。

無力である現実が胸を抉る。

 

「ここで動けなきゃ俺ァヒーローでも男でもなくなっちまうんだよッ!!」

 

腹の底から吐き出された切島の叫びは、病室の空気を震わせた。

 

「切島落ち着けよ、気持ちは分かるが今回は」

「飯田ちゃんが正しいわ」

 

上鳴も蛙吹も正しさを口にする。その正しさが、余計に胸に刺さる。切島だって分かっているのだ、自分のやることは正しいことではないと。分かっているのに、それでも引き下がれない。

 

「福州は血塗れだった。下手したら死んじまうかもしれねぇような怪我に見えた」

 

轟の低い声が、部屋を一瞬で冷やした。あの場にいなかった者たちは息を呑む。

 

「もし俺らが何もしないまま、分かってたのに諦めたまま……もしも、アイツが死んだなんて言われたら……俺は2度とヒーローなんて名乗れねぇ」

「なァ緑谷……まだ手は届くんだよ!!」

 

その言葉が、緑谷の胸に深く刺さる。飯田の顔色が変わった。保須で自分を止めてくれた緑谷。その緑谷が、今度は衝動へと傾きかけている。

 

「爆豪だって危険だ。攫ったって事は生かして連れていく事に意味があったんだろうが、殺されないとも限らねぇ。俺と切島は行く」

「ふざけるのも大概にしたまえ!!」

 

飯田は堪えきれず声を荒げた。掴み掛かる勢いで前に出る。その顔には怒りと不安、そして仲間を失う恐怖が混ざり合っていた。

 

感情で動いてはいけない。それは正しい。

だが、胸に燃えあがる焦燥は誰にも止められない。

 

悔しさは皆同じ。

それでもこれは、プロに任せるべき戦い。

飯田の正論が部屋に重く響いた。

 

「皆、クラスの中心とも言える2人が攫われてショックなのは同じなのよ。でも冷静になりましょう。どれ程正当な感情だろうと、また戦闘を行うというのなら……ルールを破ると言うのなら、その行為はヴィランのそれと同じなのよ」

 

蛙吹の声は病室の白い壁に硬く反響した。

普段は柔らかな物腰の彼女から発せられた鋭利な言葉に、A組全員の息が止まる。感情をぶつけ合っていた空気が、一気に冷や水を浴びたかのように静まり返った。蛙吹の瞳は揺れていなかった。それは仲間を思うが故の真っ直ぐな忠告だった。

 

その張り詰めた空気のまま、緑谷の診察の時間がやってくる。看護師が声をかけると、生徒たちはゆっくりと立ち上がり、名残惜しそうに病室を後にした。足音だけがぽつぽつと響く中、切島だけが扉の前で立ち止まり、振り返る。

 

決意を噛みしめるように、低く短く告げた。

 

“決行するなら今晩だ”、と。

 

緑谷は返事をしなかった。ただ、切島の言葉の重さが胸の底に沈んでいく。

 

 

 

 

    *   *   *

 

 

 

 

そして、夜───

 

病院の敷地は深い静寂に包まれ、街灯の光が地面に長い影を落としている。空気は昼の喧騒を忘れたように冷たく澄み、遠くで虫の音だけが響いていた。

 

「八百万、考えさせてっつってたけど……どうだろうな?」

 

切島が小声でつぶやく。

その横で轟は、暗がりの一点を見据えながら短く答えた。

 

「……多分、来ると思う」

 

轟の言葉と同時に、静かな足音が近づいてくる。

闇の中から八百万が姿を現した。緑谷を伴って。

 

街灯の淡い光に照らされた八百万の表情は、硬く結ばれていた。緑谷もまた、傷を抱えた体を支えながら、それでも歩みを止める気配はない。

 

「八百万、答え……」

「わ、わた……私は……」

 

八百万が震える声で答えを口にしようとしたその瞬間、夜気を裂くような鋭い声が飛び込んできた。

 

「待て」

 

影から現れたのは飯田だった。走ってきたのか肩で息をし、眼鏡の奥の瞳は怒りと不安で揺れている。飯田は、押し殺していた感情を吐き出すように言葉を叩きつけた。

 

「なんで、よりにもよって君たちなんだ」

 

その声は震えていた。自分の暴走を止めてくれた、同じ特赦を受けた仲間たち。その2人がなぜ今、自分と同じ過ちを繰り返そうとしているのか。

 

一体誰がその責任を負うのか。

もし取り返しがつかなかったら、どうするつもりなのか、その問いが、飯田の胸を焼いていた。

 

「飯田くん違うんだ、僕らだってルールを破っていいなんて……」

 

緑谷が必死に説明しようとしたその瞬間、

飯田の拳が緑谷の頬を強打した。

 

乾いた衝撃音が夜空に響いた。

 

殴られた側より、殴った側の飯田の方が痛そうだった。震える拳。呼吸は乱れ、胸は大きく上下する。限界まで張りつめた感情が、ついに溢れ出したのだ。

 

「俺だって悔しいさ!!心配さ!当然だろ!!俺は学級委員長だ!クラスメイトを心配するんだ!爆豪くんや福州くんだけじゃない!!

君達が暴走した挙句、兄のように取り返しのつかない事態になったらってッ!!?

僕の心配はどうでもいいっていうのか!!僕の気持ちは……どうでもいいっていうのか……」

「飯田くん……」

 

緑谷は頬に残る熱を感じながら、絞り出すように名を呼んだ。飯田の目には、怒りよりも恐怖が宿っていた。地に伏して二度と立てなかったあの兄の姿。それが緑谷の傷だらけの姿と重なる。

 

恐ろしくてたまらないのだ。

また誰かが取り返しのつかない怪我を負うかもしれない。最悪、死んでしまうかもしれない。飯田の心はその不安で擦り切れる寸前だった。

 

だが、轟と切島の決意は揺らがない。彼らは無謀に突撃するつもりではない。戦闘無しで救い出す、隠密で行うつもりなのだ。

 

「私、何もできませんでした」

 

突然、八百万が口を開いた。

その声は震えていたが、逃げも隠れもしない真摯さがあった。

 

「八百万さん」

「福州さんが攫われていくのを、ただ見ているしかできなかった。脳無を倒せた事に喜んで、油断して、完全に足を引っ張ってしまった……。

助けたいという気持ちは当然あります。それでも、私達は市民の規範であるヒーローを目指しているのだから、ルール違反は見逃せません」

 

八百万の瞳には、悔しさと責任感、そして揺るがぬ意思が宿っていた。傷だらけの友が目の前で奪われていった。その光景は脳裏に焼き付いて離れない。

 

「八百万……でもさぁッ」

 

切島が食い下がろうとした時、八百万はさらに踏み込んだ。

 

「ですから!万が一を考え私がストッパーとなれるよう、同行するつもりで参りました。私がルールに抵触すると判断したら、その時点で諦めて帰ってもらいます」

「ああ、分かった。それでいい」

 

轟が短く応じると、飯田の表情に明らかな驚きが走った。八百万は止める側の人間、そう思っていたのに。誰よりも規範を大切にする八百万が、危険を承知で同行するという事実が飯田を揺さぶる。

 

緑谷は静かに口を開いた。

 

「僕……自分でも分からないんだ……手が届くと言われて、いてもたってもいられなくなって……救けたいと、思っちゃうんだ」

 

その瞳には、誰の制止も受け付けない強い光が宿っていた。もう引き返せない。そう悟らせる光。

 

飯田は息を呑む。

議論しても平行線のまま。

 

ならば───────

 

「ならばッ、俺も連れて行け!!」

 

叫びは夜の静寂を破る。怒りではない、覚悟の叫びだった。自分もまた、友を案ずる一人なのだ。誰かが傷つく未来をただ見ているだけなんて、耐えられない。

 

 

 

 

そして、運命の時間が迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

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