お狐フレンズ   作:佐倉シキ

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化野狐太郎:オリジン

 

 

 

 

冷たい廃倉庫の中だった。

 

少年の意識がゆっくりと浮かび上がる。

最初に襲ってきたのは、背中に染み込むような冷たい感触だった。コンクリートの地面は冬のように冷えきっており、そこに長い時間放り出されていたのだと嫌でも悟らせる。

 

重たいまぶたをなんとか上げると、薄暗い倉庫の空気が視界に滲んだ。古い機械油と湿った木材の臭気が入り混じり、鼻を刺す。天井近くの蛍光灯は壊れかけていて、途切れ途切れに明滅しながら廃墟の静寂を照らしていた。

 

トラクター、錆びた工具、積み上げられた木箱。用途の読めない物たちが無秩序に並び、その中心に自分だけが異物のように転がされていた。

 

ソロは身を起こそうとしたが、両腕に巻き付く圧迫感に気づき、苛立ったように舌打ちをする。硬く縛られた拘束具を引きちぎると、金具が悲鳴を上げて弾け飛んだ。

 

起き上がった瞬間、頭がぐらりと揺れた。倉庫全体が波打ったように見え、ソロは額に手を当てる。

 

何が起きた?

思い返そうとすると、頭蓋の奥がギリッと締め付けられるように痛んだ。

 

「人の体はやっぱり脆いな、あれで気絶しちまうとは……まあ確かに、死ぬほど痛かったけど……」

 

呟きながら、まだ霞む視界をゆっくりと巡らせる。

徐々に光が輪郭を取り戻し、ぼやけていた世界が像を結び始めた。

 

「倉庫か?……匂うな」

 

重たい空気の中、横の棚に並ぶ物体が目に留まった。何か透明なケースが整然と並び、その内部には淡い光を宿した液体が満ちている。粘度の高そうなそれは、人工的な温度管理をされているのか、微かに湯気のような揺らぎを帯びていた。そしてその中には見覚えのあるものが佇んでいる。

 

これは──

 

「脳無か」

「ご明察だよ、それらは全て新しい世代の脳無さ」

 

声は背後からした。気配すらなかったのに。

ソロの背筋が凍りつく。考えるよりも早く跳び退こうとした瞬間、こめかみを鋭い痛みが貫いた。強張った筋肉が悲鳴を上げ、膝が勝手に折れる。

 

「一応怪我はある程度治したのだけど、いくら君といえどもあの脳無の一撃は強烈だったみたいだね」

 

声の主を睨み上げる。だが、喉がひゅっと縮んでうまく言葉にならない。

 

「お前、は……」

 

体が震えていた。

寒さではない。もっと根源的な、生物としての恐怖。

 

薄闇の中に立つ男は、顔という形を持っていなかった。口元を覆う機械が微かに振動し、その駆動音が倉庫に不気味な律動を刻む。無機質なその存在感がソロの神経を逆なでる。

 

「いやぁ、こんな運命的な出会いがあるなんて驚いたよ。あの計画は完全に失敗だと思っていたからね。まさか成功した個体がいて、しかもここまでしっかり成長しているなんて、本当に驚いた。万が一があっても、とっくに壊れて死んでいるものかと思っていたよ」

「僕を、知ってる……?」

「当然。君も分かっているのだろう?脳無の事を。これらは言ってしまえば君の後輩達だよ。君は謂わば、脳無のプロトタイプさ」

「ヒーロー殺しの時の脳無はお前の差金か?」

「そう!君にメッセージを送ろうと思ったんだけど、あれは上手くいかなかったね。話すのがかなり下手だったし」

 

倉庫の冷たい空気が肌の上を這い、体温を奪う。逃げ道を探しながらジリジリと後退したが、背後にあるのは鉄製の棚と壁だけだった。完全な袋小路。

 

「そう怖がらないで。大丈夫さ。僕は君と仲良くしたいだけなんだ。君には弔の力になってあげて欲しいから」

「っ僕、は……嫌だ……」

「連れないね。でも手のかかる犬ほど可愛いものだ」

 

男の声音には、まるで旧友に語りかけるような柔らかさがある。しかしその裏側に潜む冷酷な愉悦が、ソロの体温をさらに奪っていった。

 

「ドクターと僕はね、昔からずっと脳無の様な改造人間を作り出す実験を続けていたんだ。だけどやっぱり、最初は何事もうまくいかない物でね。色々なパターンの実験を行なって、試行錯誤を繰り返していたんだ。

その中の一つがα計画。まあ、文字通り1番最初に考えた計画だね。受精卵の段階から手を加えて、胎児に少しずつ個性を与えて馴染ませていく。そうして最高の人間を作り出せないかって言う実験さ。4世代ほど試して、無理そうだったから破棄したんだ。1000人以上に試して、全てが失敗だったんだ。流産するか、死産か、母胎が死ぬパターンも多かった。たまに生きて産まれてきても、体が個性に耐えられずすぐに死ぬ。

だから、あの計画に使った被検体達はとっくに皆死んでる物だと思っていたよ」

「だから、何だと言うんだ」

「ああ、すまないね。歳を取るとつい話が長くなってしまうんだ」

 

男は変わらず楽しそうだった。

しかしソロの方は、目の前の存在が放つ圧に、精神の芯が削られていくのを感じていた。心の奥が軋み、嫌な汗が首筋を流れ落ちる。

 

「今更なんだけどさ。そういえば君、何でそんな窮屈な暮らしをしているんだい?」

 

その言葉が落ちた瞬間、廃倉庫の冷気がひやりと背骨を這い上がった。男の声は穏やかで、むしろ優しさすら帯びているのに、底に潜むものは別だ。静かで、残忍で、迷いがない。

 

「……何?」

 

ソロは反射的に返したが、声は掠れていた。

肺の奥が強張っているようで、呼吸が浅い。

 

「君の事はたくさん調べたから分かるよ。そんな姿で本能を抑え込んでは辛いだろう。疲れるだろう。本当は暴れたくて仕方がないんじゃないか?だってそうなるように設計したんだから」

 

男の言葉は、押しつけではなかった。

むしろ優しく、こちらの心の奥底に指を差し入れ、静かに引きずり出すような声音だ。

 

「別に……」

「誤魔化さなくていいよ。僕は君の味方だからね。体育祭の時もドラゴンに変身していたよね。その時、何度か相手を噛み殺そうとしていた」

「それは……」

「だって君はそれを求めて造られたんだ。壊し、殺し、喰らう為に造られた怪物だ君は」

「違う!」

 

反射的に声が荒ぶった。

胸の奥が焼けるように熱い。化け物だという言葉を咄嗟に否定したのは、そうでありたくないという願望からだった。

 

「違わないよ。だって君、脳無を楽しんで殺しただろう?」

「……ッ」

 

言葉が詰まる。

あの時の肉体の裂ける音、骨が折れる振動、血の匂い。全部、身体が覚えている。

 

「初めて見た時から殺したいと思っていたはずだ。初めは親近感を覚えて、その次は対抗心。そしてその後は、あんな木偶の坊より自分の方が優れていると証明したかったはずだ。ハイエナを見つけたライオンのように、本能的な殺意を感じたんだろう?」

「俺は……」

 

否定の言葉が喉まで出かけて止まる。

理性と本能の隙間で、衝動がのたうっていた。

 

「投げて、噛んで、叩き潰して踏み躙って、蹂躙するのは楽しかっただろう」

 

確信に満ちた声音。

その言葉に、心臓が一度大きく跳ねた。

 

男は静かに膝をつき、俯くソロの顔を掬うように顎に手をかけた。指先は冷たく乾いていて、生気のない皮膚がざらりと擦れた。引き上げられた視界の先には、目のない顔があった。それなのに、確かに見下ろされている、凝視されていると錯覚させられる。

 

まるで深淵を覗き込んでいるようだった。

覗き込むほど、吸い込まれ、底に沈んでいく感覚。

 

「自分を否定しなくていい、本能を隠さなくていい。鎖を自分の手で引きちぎった君は、美しかったよ」

「鎖……?」

「おや、気付いてなかったのかい?怪我の影響で一時的に記憶が混乱してるのかな?それとも見て見ぬふりをしている?いや、そのどれもかな」

 

男はゆっくりと立ち上がり、何かをソロの足元へ投げた。柔らかい何かが床に転がった。その瞬間、懐かしい匂いが鼻を掠めた。一週間前。たったそれだけのはずなのに、何年も前の記憶のようだった。

 

「君が楽しそうに蹂躙して殺した脳無だけどね」

「ぁ……」

 

床に落ちていたのは、まとめて結われた髪の毛だった。見覚えのある、藤色の髪。切り口は鋭利な刃物で断たれたように滑らかだった。

 

「福州ユウとその両親で作ったんだ。挨拶代わりに君に送ろうと思ってね。プレゼントは気に入ってもらえたみたいで嬉しかったよ。骨で遊ぶ犬のように無邪気に戯れていたじゃないか」

「ち、違う!違う違う!あれはユウちゃんじゃねぇ!ただの脳無だ!」

「違わないさ。あれの素体は福州ユウだよ。間違いなくね」

「ふざッけんな!俺は、俺様はユウちゃんを殺してない!そんな事しないッ!」

「ふざけてないよ。君は殺したんだ。間違いなく、完璧に、完膚なきまでに殺した。爪を立てて、焼いて、噛みついて、振り回して、踏み潰して殺した。分かるだろう、分かっているはずだ。現実を見るんだ。あれは間違いなく福州ユウだった。そしてそれを、君は殺した。楽しそうだったじゃないか」

「……ち、違う……俺は……ただ……!あれは……どうしようもなかったんだ……!脳無なんだ……だから……しょうがないだろ……俺、悪くない……俺は悪くないんだよ……!」

 

震えながら漏れた声を、男は柔らかく肯定した。

 

「そうさ。その通りだよ。君は、何一つ悪くない。彼らが弱かっただけだ。君の前に現れるには不向きだった。それだけのことだ。弱いものが強いものに淘汰されるのは当然のことだろう。彼らが君より弱かったのがいけないんだ。だから、死んだ。だから君に殺された」

「そ、そもそも、脳無にされた時点でユウちゃんは殺されてたんだから、俺が殺したって事にはならない!……だろ……?だよな……?俺は……間違ってない……よな……?ソロに、ユウちゃん達に酷いことをしちまったって事には……そ、そうさ!そうだとも!ユウちゃん達を殺ッ、殺したのはお前だッ!酷いことをしたのはお前だッ!俺様じゃない!」

「そうだね。確かに、彼らに先に手を出したのは僕だ。賢いねぇ。

僕はさ、君が生きていると知って年甲斐もなく嬉しくなってしまってね、腕によりをかけて脳無を作ったんだよ。福州家の3人を素体にしてね。個性は福州家の使用人や護衛たちから貰ったんだ。金持ちの家に雇われる護衛なだけあって、個性も優秀なものが多かったから、使える個性を探しに行く手間が省けて助かったよ、急いでいたしね。

あとはついでに君のゲーム仲間と放送委員の雄英生の個性も使ってみたんだ。隠し味程度にしかならない弱いものだったけど。君のための特製豪華ディナーさ」

「なッ……」

 

喉から漏れた声は呻きにも近い。喉が塞がり、言葉を探しても何一つ形にならなかった。ああ、大変だ。どうしてこうなったんだ。思考が苦く濁り、後悔だけが胸の内側を削った。

 

オールフォーワンはその様子を見て口角を上げ、手を口元にやり、笑うように語る。

 

「そういえば、話が戻ってしまうんだけどさ……福州ユウが素体の脳無、喋ったんだろう?惜しいことをしたね。あれはね、かなり出来が良かったんだ。声帯はおかしくなってしまったけど、話し方の間も、人間としての反応速度も、実に福州ユウらしい仕上がりでね」

 

ゆっくりとソロに近づき、愉快そうに笑う。

 

「君があんなに焦るほどだ。きっと魂の断片でも残っていたのかもしれない。……いや、本当に残っていたんだろうね。あれほど自然に喋れる脳無は滅多にいない」

 

そして、わざと囁くように。

 

「もし君が壊さなければ、もっと精密に解析できた。福州ユウとしての自我を完全に再現した、福州ユウの姿をした、至高の個体を作れたかもしれないのに。もしかすると、君の隣でユウとして生き続ける未来だってあり得たのに」

 

オールフォーワンはにこりと微笑んだ。

 

「でも……君が殺してしまった。その未来を壊したのはやっぱり僕じゃない。君だよ」

 

喉がひゅっと詰まり、息だけがかすかに震えて漏れるのに、言葉という形では一つも出てこない。ただ、呆然と、息を飲むことすら忘れたようにソロは立ち尽くしていた。

 

やっぱり自分が、殺してしまったのだ。

また人を、殺してしまった。

 

産まれる時に鋭い爪で母の体を裂いて殺した。

父を階段から突き落として殺した。

唯一の親友の死を止めず、ただ見ていた。

 

そして今度は、その親友の家族を、3人まとめて。それだけじゃない。福州ソロとして築いた3年間の交友、その全てをたった一夜で破壊した。壊された。

 

胸の奥に、ぎゅうっと重石を押し込まれたような痛みが走る。

 

「殺してしまったのは事実だけど、君は悪くないんだよ。

彼らを殺したのは罪じゃない。怪物が人を殺すのは、雨が下に降るのと同じ自然現象さ。そうして当たり前なんだよ。

ゴーレム然り、フランケンシュタインの怪物然り、モンスターは飼い主でも創造主でも、親でも友達でもなんでもいい。身近な人間を殺してこそ輝くんだ!ウラノス、クロノス、ゼウス。ギリシャ神話の時代から人間はそう言う話が大好きだからね。いやぁ、やっぱり、怪物はこうじゃないと面白くないよ!怪物には人間の知人も、友人も、家族も!そんなものは1人もいらないんだ!」

「…………」

 

声が出なかった。

言葉を探しても、喉が塞がる。

 

「見ていられなかったんだ、人間の真似事をする君が本当に窮屈そうで、可哀想で……柄にもなく助けてあげたくなったんだ。下らない約束をいつまでも守る必要なんてないじゃないか。短い人生、やりたいようにやってこそだろう!怪物は何者にも縛られず、自由でいてこそだ」

 

どうするべきか全く分からない。

どのように振る舞うのが正解なのか、どうしたら良いのか、もう何も分からない。必死に考えても、答えが見つからない。脳みそが沸騰するような、背骨が芯から凍るような、熱いのか寒いのかも分からないパニックがソロを支配する。

 

「君を封じる鬱陶しい鎖。人間のふりをするように縛る、鎖!見事君はその鎖を引きちぎってみせた!素晴らしい!それでこそ僕達が期待した怪物だ!今日この日を君の再スタートの日にしよう」

 

男は満足げに声を上擦らせ、優雅に手を差し伸べた。だが、

 

「……おや、すまないね。弔から連絡が来たみたいだ。すぐ戻ってくるから待っていてくれ」

 

そう言い残すと、男の姿は淡い蜃気楼が崩れるようにふっと掻き消えた。

 

「お、俺が…俺が悪いのか……全部……俺のせいで、みんなが……」

 

置き去りにされた静寂の中で、胸の奥のどこかが軋む。かつての自分にはこんな感情は存在しなかった。ただ日々を楽しく生きているだけ。腹が減れば食い、壊したくなれば木や岩を壊し、眠たくなれば眠り、陽だまりで転がるように気ままに呼吸する。それだけで世界は十分だった。

 

だが、福州ソロという肉体を借り、人としての生活を知り、誰かと関わり、笑い、戸惑い、思い悩むという体験を重ねてしまったが故に、もうあの頃の単純さでは満たされなくなってしまった。

 

「ユウちゃん……」

 

床に無造作に落とされた髪の毛を拾い上げる。自分のせいで死なせてしまった。いや、殺したのと何も変わらない。あんなに良い人だったのに、友達の大切な人だったのに。自分が気まぐれに殺したせいで、彼女はもう二度と戻ってこない。

 

「ソロぉ……」

 

静まり返った倉庫に声が滲む。

最近の自分は、確かに“楽しかった”のだ。ようやく理解した。

 

人の生活に触れた時間は、獣の本能をぼかしてしまうほど充実していたのだと腑に落ちる。新しく芽生えた思考が、獣としての自分の動きを邪魔をしていた。福州ソロの家族にも、クラスメイトにも、絆されてしまっていた。そしてそれは今、どうしようもなくなった。

 

「クソ…クソッ……クソクソクソッ、ちくしょうッ」

 

それを悟った瞬間、胸の奥に張りつめていた何かが音を立てて千切れた。頭を抱えるように髪を鷲掴みにし、呻く。そして、

 

「クッソがあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」

 

喉が裂けるほどの叫びを吐き出した。声が空気を震わせ、やがて痙攣するみたいに掠れ、それは乾いた笑いへと変わる。

 

「はは、ひゃは!あっはははは!はははははッ!

サイッアクのどん底なんだけど……マジで……。ソロぉ……俺これからどうすりゃいいのかなぁ……」

 

力が抜け、その場にどさりと座り込む。

背中がコンクリートに触れた瞬間、冷たさが皮膚を刺すように伝わる。そのまま、何もかも投げ出すように仰向けになり、天井の暗がりをぼんやりと見つめた。

 

重い静寂だけが、耳の奥で波のように揺れていた。

 

 

 

 

 

 

      *   *   *

 

 

 

 

 

緑谷たち5人は、発信機の反応を頼りに薄暗い街路を駆けていた。夜風は冷たく、焦りで早鐘を打つ心臓の音すら掻き消してしまう。

 

「今の声ッ!」

「福州じゃねぇか!」

 

聞き慣れた声の叫びが微かに響く。

ソロの身に異変が起きたことは明らかで、焦燥が胸を走り抜け、全員が一気に駆け出す。

 

(福州くんッ、無事でいてくれ!)

 

呼吸が苦しいほどの速度で走りながら、痛む身体を無理やり前へと押し出す。発信機の示す位置に辿り着くと、そこには古びた倉庫が佇んでいた。

 

切島がソロの名を呼ぼうとした瞬間、飯田が反射的に腕を伸ばした。

 

「静かに!中にヴィランが潜んでいる可能性がある!」

 

辺りは不気味なほど静かで、電気はついていない。人影どころか気配すら感じられない。だが、その静けさこそが異様だった。

 

倉庫を回り込み、他より低い位置にある窓を見つける。轟と飯田が肩車し、切島と緑谷を持ち上げて内部を覗かせた。

 

「様子を教えたまえ!切島くん!中はどうなってる!?」

「んあー……汚ねぇだけで特に、福州はどこだ……」

 

切島の声が急に途切れ、身体が震えたのが肩越しにも分かる。彼は動揺を隠しきれず、バランスを崩しそうになりながら暗視スコープを緑谷へ渡した。

 

緑谷が覗き込んだ瞬間、血の気が引いた。

 

「ウソだろ!?あんな無造作に…あれ、全部……脳無!?」

 

何やら見慣れない装置の中にある複数の人影、脳無だ。冷え固まった血と薬品の臭いが、窓越しでも伝わってくるようだった。

 

「おい緑谷、福州はいねぇのか?声したろ。アイツは無事なのか?」

 

轟の低い声が背中を押すように急かす。緑谷は必死に視線を走らせ、木箱の影で倒れ込むソロの姿を見つけた。

 

「いた!福州くん、1人だ!」

「まじか!?どうなってる!?」

 

拘束されていないのに動かない。呼吸の上下も確認しづらく、嫌な汗が背筋を伝う。緑谷は声を潜め、柵に指をかけて必死に呼びかけた。

 

「福州くん…!福州くん…!!」

 

返事はない。柵を軽く叩いて音を鳴らす、それでも反応はゼロ。その時、彼らを覆うように影が静かに揺れた。何かが動いたのだ。緑谷は息を呑み、そっと顔を上げた。

 

「Mt.レディ……?」

 

薄暗い道の向こうで、巨大な影がゆっくりと動いた。巨大化する個性を持つヒーロー、Mt.レディが、軽トラックをまるでサンダルのように片足へ履き込み、そのまま大きく振りかぶる。

 

振り下ろされた一撃が倉庫へと直撃した。分厚い扉は木片のように砕け散り、爆風のような風圧が内部を荒らし、緑谷たちの変装は一瞬で吹き飛ばされる。

 

警報のようにざわめく風の中、プッシーキャッツの虎、ギャングオルカ、ベストジーニスト、Mt.レディをはじめとするヒーローたちが次々と足を踏み入れ、散乱する脳無たちを手際よく拘束していった。

 

「脳無格納庫、制圧完了」

「うぇ〜、これホントに生きてんの?こんな楽な仕事でいいんですかねジーニストさん。オールマイトの方を手伝いに行くべきだったんじゃないですかね」

「難易度と重要性は切り離して考えろ、新人」

 

ジーニストの鋭い声に従い、機動隊が次々に中へと流れ込んでいく。虎は奥でぐったりしているラグドールを素早く確保し、そのさらに奥で、ゆっくりと起き上がる福州の姿を見つけて駆け寄ろうとした。

 

しかし、虎の前に“それ”が立っていた。

人影が、いつの間にかすぐ目の前に現れたのだ。

 

ギャングオルカは気配の異常に即座に反応し、鋭く命じた。

 

「止まれ!」

 

その声と同時に、闇の中から静かに響く男の声。

 

「こんな体になってから、随分とストックが減ってしまってね。ラグドールはいい個性だし、丁度いいからもらう事にしたんだ」

 

次の瞬間、世界が消えた。

 

強烈な閃光と衝撃が一瞬だけ走り、続いて訪れたのは不気味な沈黙。倉庫はまるで巨大な手で薙ぎ払われたかのように跡形もなく吹き飛ばされ、全てが更地になっていた。

 

「せっかく弔が自身で考え、自身で導き始めたんだ。出来れば邪魔はよして欲しかったな」

 

何が起きたのか、理解が追いつかない。

緑谷たちの喉が凍りつく。悲鳴の一つもあげられない。

 

一瞬の間に、救援に来たヒーローたちは全員が地面に倒れ伏していた。指一本動かせないほどに叩き伏せられ、息をする音さえ苦しげだ。

 

オールフォーワンは、ソロ以外を皆殺しにしようとしたのだ。その瞬間にベストジーニストが身を挺して守った。だから彼だけが血を流し倒れ込んでいる。

 

そしてそのベストジーニストでさえ、オールフォーワンは一瞬で沈めた。

 

(な、何が起きたのか……分からない……)

 

理解した瞬間、心臓が痛みを伴って跳ねる。

逃げなければ死ぬと分かっているのに、恐怖が四肢を縛り、身体が硬直してまったく動かない。

 

その時、

 

「ゲッホ!!くっせぇぇ……なんじゃこりゃ」

 

周囲に土埃が巻き上がり、爆豪が突然姿を現した。

 

爆豪は周囲の惨状を素早く確認し、不貞腐れたようにその場に座り込むソロを見つけて大声を上げた。

 

「テメーも無事かよクソロン毛」

 

だがソロは、爆豪の視線から逃げるようにそっぽを向き、冷や汗を流している。爆豪の眉が怪訝に寄る。

 

さらに、ヴィラン連合の面々が次々と集まってくる。

 

ソロと爆豪。救助対象の二人は目の前にいる。

恐怖は押し殺さねばならない。緑谷達はまだ見つかっていない。今動かなければならない。

 

(とにかく、今!動かなきゃ……!)

 

しかし、緑谷が動き出そうとした瞬間、飯田が素早く腕を掴んだ。勇気と蛮勇は違う。今飛び出しても焼け石に水どころか、ただの自殺行為だ。

 

緑谷が息を呑んだその時。

 

「やはり、来てるな……」

 

その一言に全身の血が逆流する。

見つかった。そう錯覚するほどの恐怖が喉を締め付けた。

 

だが違う。

オールフォーワンの視線の先は、彼らではない。

 

その次の瞬間、空気を裂くような声が響く。

 

「全て返してもらうぞ!!オールフォーワン!!」

「また僕を殺すか、オールマイト」

 

オールマイトの拳が衝突し、オールフォーワンが片腕の動きだけで弾き返した。爆音と旋風が同時に走り、地面がえぐれる。周囲の大地が大きく揺れ、緑谷たちは避ける間もなく吹き飛ばされ、地面を転がった。

 

衝撃は鋭く、背中と腕が激しく痛む。

ソロは何かを考え込んでいたせいか受け身が遅れ、地面を無防備に転がされ、その手から握っていた髪の毛を思わず放してしまった。

 

「……っ!」

 

慌てて探すが、土煙に紛れ視界は真っ白。

見つからない。

 

焦燥で呼吸が荒くなるソロの襟首を、爆豪が乱暴に掴み上げた。

 

「テメーは何やっとんじゃ!」

「ユウちゃんが」

「ンなもんいねーだろボケが!!」

「そうなんだけどさぁ……この、ノンデリッ!少しは察しろよ!」

「ンだとテメェッ!!」

 

爆豪に悪気は無かった。だが、その言葉はソロの胸の奥に鋭い棘となって突き刺さる。苦痛にも似た不快感が喉元を這い上がり、ソロは反射的に牙を剥き、獣のようにグルルと低く唸った。怒りと焦燥が、獣の本能と人の心の境界を乱暴に掻き混ぜていた。

 

オールフォーワンは、弔へソロと爆豪を連れて逃げるように指示を出し、黒霧の個性を強制発動させた。空気が波打ち、黒い靄が裂け、ワープゲートが無造作にこじ開けられる。

 

「行こう死柄木!あの人がオールマイトを食い止めてくれてる間にコマ持ってよ」

 

コンプレスは気絶した仲間達を次々と圧縮し、球体へと変えながら死柄木へ声をかける。残ったヴィラン達がソロと爆豪を囲んだ。

 

「めんッどくせー……」

 

爆豪の声は低く埋めいた。状況が呑み込めないが、今のソロが役立たずであろうことは分かる。疲労とも違う。焦燥、苛立ち、虚無、そしてどこか痛みに似た何か。すべてが混ざり合い、表情は手負いの獣のように荒れている。

 

(今のコイツは、多分使い物になんねーな。下手すりゃ足引っ張られんぞ)

 

爆豪はそう判断しながらも、口の端を強気に吊り上げた。なら自分が全部やるだけだ。そんな顔だった。

 

オールフォーワンがオールマイトを足止めしているせいで、救助は望めない。爆豪はやる気が剥げ落ちてしまったソロを庇うように前へ出て、ヴィラン達の動きを力ずくで食い止めていった。

 

「狐太郎、君も弔を手伝ってあげてくれるかい」

「ッ……」

 

オールフォーワンの穏やかな声に、ソロはわずかに肩を震わせる。その声音が、頭蓋の内側を直接叩くように響いてくる。バッと顔を上げたソロは、眉を引きつらせ、冷や汗を伝わせながらオールフォーワンを凝視した。その襟元を、躊躇なく爆豪が掴み上げた。

 

「テメーコラ煽りカスゥゥゥ!!」

「ぎゃッ!?」

 

ソロはそのまま投げ飛ばされる。衝撃で地面を転がり、肺から息が漏れた。そこへ追撃のように爆豪の爆裂音が轟き、ヴィラン達の包囲を強引に押し返す。

 

「テメーぶっ殺すのは俺なんだよッ!!いつまでもよそ見してんじゃねーぞクソがッ!!!」

 

爆豪は胸ぐらを掴んで怒鳴りつける。その腕に込められた力は、迷いごと叩き潰すためのものだ。

 

「立ちやがれッ!!いつまでもウジウジ悩んでんじゃねー!!」

「爆豪勝己……」

 

その名をぼんやりと呟いた瞬間、戦場の上を影が横切った。2人は自然と顔を上げる。

 

「来いッ!!!」

 

切島がこちらに腕を伸ばしていた。

彼だけではない。緑谷と飯田、轟に八百万もいる。

 

「福州くん!!」

 

緑谷が必死に名を呼んだ。

 

爆豪は即座に跳躍し、ソロへと手を伸ばす。彼を掴み、そのまま味方の元へ飛び込むつもりだった。

 

あと少しで届く。あと少しで、救われる可能性に触れられる。ソロはその手を、伸ばされた腕を見た。

 

(きっと俺も……掴まれば……)

 

「俺は……ッ」

 

そう呟いた、ほんの一拍。

 

「全く、まだ言葉が足りなかったみたいだね」

 

その声が背から落ちてきた瞬間、

ソロの体に鈍い衝撃が走った。

 

「は……?」

 

爆豪の手が遠ざかっていく。

いや、違う。自分が動けなかったのだ。背後から黒い複数の帯が伸び、ソロの体を貫いていた。

 

オールフォーワンの“個性を強制的に発動させ、操る個性”。まるで心臓を鷲掴みにされるような、凶悪な痛み。

 

ソロは目を見開き、言葉を失った。

 

「まだ及び腰なんだね。それとも、情に絆された?情けないよプロトタイプ。君は唯一無二の成功個体なんだ。僕達の期待を裏切らないでくれ」

「ぅぐ……ッ」

 

ソロの喉奥から、くぐもった声が洩れる。体が勝手にうねり、皮膚の下で何かが暴れだす。個性が強制的に操られ、変身が解けていく。

 

「マジ、か……嘘だろッ……!?」

「僕が君の背中を押すよ。言葉で無理なら体で思い出すといい。自分が、どういう存在なのか」

「福州少年!!」

 

オールマイトが駆け出そうとするが、オールフォーワンの攻撃がそれを遮る。視界が揺れ、耳鳴りが爆音となり、ソロの身体はぐにゃりと歪んだ。

 

骨が太く膨れ、筋肉が膨張し、指先から黒い爪が伸びる。牙が露わになり、呼吸が獣の吐息へと変わる。体重が一気に跳ね上がり、地面へ叩きつけられた爪が土をえぐり取った。

 

(あー、もう最悪……ッ)

 

遠ざかる緑谷の瞳とふと視線が合った。

 

ああやめてくれ。見ないでくれ。できれば今すぐ逃げてくれ。

 

昔はどんな生き物も、暇つぶしの玩具か餌にしか見えなかった。今だって、心の底では喰い散らかしたい衝動が蠢いている。

 

(でも……今はさ……お前らが傷つくの、見たくねぇんだよ。なんか……ムカつくっつーか……不愉快なんだよ、そういうの……)

 

その感情すら、もう届かない距離へ流されていく。

 

壊してしまう。

また、大切なものを壊してしまう。

 

だってそのために作られたのだから。

破壊し、蹂躙し、喰らい尽くすために。

 

そしてそれはきっと、とんでもなく楽しい。

 

だからこそ、もう戻れない。

 

「思い出せ。理解しろ。君はヒーローにはなれない」

 

静かな呪いのような囁きが、意識の奥底へ沈んでいく。

 

もう、全部。

何もかもが嫌だ。面倒臭い。

 

 

──もう何も考えたくない。

 

 

(……全部全部ぶっ壊れちまえ)

 

 

月が雲間からのぞく夜空の下、獣の咆哮が大地を震わせた。

 

 

 

 

 




作者都合で突然ですが、口田を登場させることにしました。物語上の大きな変更はありませんので、読み返していただく必要はありません。ご了承ください。
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