悪夢のような夜だった。
人々はただ息をひそめ、祈るように願った。どうか、あのバケモノが気まぐれにでもどこかへ去ってくれますように、と。
その願いが通じたかのように、獣はバスの屋根から重い体を下ろし、地響きを残してゆったりと歩き出す。しかし、
「待って……!」
少年のか細い声が、その背に縋るように届いた。
獣はぴくりと耳を動かし、鈍い痛みを訴える頭を軽く振ってから、ゆっくりと振り返った。血の臭いと土埃が入り混じる中、その動きは異様に静かで、逆に緊張を煽る。
「まだ、終わってないぞ……」
倒れていたはずの緑谷が、崩れた車体の中から這い出るように姿を現した。頭から血を流しながらも、意志だけは折れていない。その姿に、獣の瞳はわずかに細まった。
「君を、必ずッ、止める……!」
緑谷は瓦礫を押しのけながら立ち上がり、痛む足をふらつかせながらも、一歩一歩、確かな決意を刻むように前へ進む。
そしてその隣には、投げられた車の中にいた2人を助け出してから、すぐにやってきた爆豪。背後には、氷で瓦礫を無理矢理押し退けて起き上がった轟もいた。3人とも傷だらけで、息も荒い。しかし、戦意だけは折れていない。
「そんでッ……必ず、救けるッ!!」
緑谷はまっすぐに狐太郎を見て笑った。
その笑顔は、血と涙で濡れながらも、眩しいほど真っ直ぐで、愚かしいほど真剣で、だからこそ獣の苛立ちを煽った。
獣は、牙をむきだしにし、低い唸り声を響かせる。怒りと混乱と痛みが混ざり合い、獣の心は荒れ狂っていた。
次の瞬間、怒りに任せて緑谷に向かって爆ぜるように突進した。
「ッ!!?」
だが、その巨体が地を蹴った瞬間、地面そのものが壁のように隆起した。
突き上げるように立ち上がったコンクリートの壁に、狐太郎はそのまま激突する。硬質な衝撃音が夜気を裂き、獣の頭に鋭い激痛が走り、視界が揺らぎ、蹲るしかなかった。
「この個性は……」
呻く狐太郎を包むように、コンクリートが伸び上がり、あっという間に分厚い檻を形成する。外からはその姿が完全に見えなくなるほどの厚みだ。
「遅れてすまなかったね。色々言いたい事はあるが、とりあえず無事でよかった」
ぬぼっとした塗り壁を思わせる独特の姿をしたヒーロー、雄英高校教師、セメントスだった。
「セメントス先生!」
檻の中では、獣が怒り狂って暴れまわり、コンクリートを砕かんばかりに咆哮している。振動が足元に伝わり、壁がたわむほどの力だ。
「あ!ダメだセメントス先生、彼のパワーならコンクリートも砕かれる!」
緑谷が叫ぶが、セメントスは余裕の笑みを浮かべたままだ。
「問題ないよ。1人で来た訳じゃないからね」
その言葉とともに、カツ、カツ、とヒールの乾いた音が夜に響いた。現れたのは、妖艶な雰囲気をまとう黒髪の女性ヒーロー。こちらも雄英高校の教師、ミッドナイトだ。露出を抑えたとはいえ過激な印象を残すコスチューム姿が、闇の中でひどく存在感を放つ。
セメントスが檻に小さな穴を開けると、ミッドナイトは迷いなく極薄のタイツを破った腕を差し込み、甘い香りが滲むように広がった。
「……さあ、もう眠りなさい」
ミッドナイトの個性“眠り香”。その香りは、獣の鼻腔から肺へと流れ込む。荒れ狂っていた暴走が次第に弱まり、暴れる音は徐々に小さく、そして完全に消えた。
「福州くん……」
ミッドナイトが状態を確かめ、セメントスはコンクリートの檻を解除した。狐太郎は四肢を投げ出し、巨体をゆるく横たえて完全に眠っている。そのとき、奥からばらばらと重い足音と無線の声が近づいてきた。警察とサポートスタッフたちだ。
「これがそうですか?」
近づいた男が無遠慮な声音で言った瞬間、ミッドナイトの視線が鋭く射抜いた。
「ええ、この子はウチの生徒よ。“これ”とか言わないでくれるかしら」
その視線の圧だけで、男は肩を震わせて慌てて言い直した。
「申し訳ありませんが、彼の身柄は拘束させていただきます」
その瞬間、緑谷が思わず声を荒げた。
「ッ!?待って、福州くんは!!」
「ソイツは敵に操られたんだ!捕まえるってのは」
しかし、2人の抗議をセメントスが静かに制した。
「落ち着きなさい2人とも」
彼らは知らなかったが、警察もヒーローも、狐太郎を“捕える”ためではなく“守る”ために動いている。オールフォーワンに何をされ、どんな変質が起きたのか、それを調べる必要がある。特殊な力を持つ者ほど、慎重な扱いが求められるのだ。特に、彼のことをヴィラン連合が狙っているのは明白だから。
特別な機関での検査と保護。そのための移送だった。
会話の奥で、大型ヘリから巨大なコンテナが吊り下ろされる。金属の軋む音が鈍く響き、視界に現れたそれは、対超大型ヴィラン輸送用の特別拘束牢、通称メイデン。
無機質で巨大なその姿は、どんな怪物をも呑み込む冷たい棺のようだった。
念動力の個性を持つヒーローが狐太郎の体を丁寧に浮かせ、メイデンの内部へ静かに送り込む。扉が重々しく閉まる音は、空気を震わせるほど重かった。
そして、ヘリはゆっくりと上昇し、夜空へと消えていった。
「あ、そうだ!皆は無事!?」
緑谷はしばらくヘリを見送っていたが、唐突に現実へ戻ってきたように周囲を見渡した。
「無事だ」
轟が答えた。飯田の肩を貸しながら、八百万はハンカチで自分の開いた傷口を押さえている。切島は硬化のおかげで擦り傷程度で済み、爆豪はというと、相変わらず平然と立っていた。
6人はその場を離れることにした。
なぜならこの瞬間にも、オールマイトがオールフォーワンと死闘を繰り広げているからだ。ここで警察に聴取されれば、その戦いを見届けることすらできない。
夜の空気を切り裂く風の中、街の中心にそびえる巨大モニターが明滅している。
6人は足を止め、その光を見上げた。
そして、驚きに言葉を失う。
オールマイトは、萎んでいた。
「ぇ……」
その声が誰のものだったのか、誰も思い出せなかった。爆豪か、轟か、あるいは誰もが同じように絶望して声を漏らしたのかもしれない。たった一つの真実が暴かれた瞬間、場の空気が凍りついたかのように動きを失った。
頬はげっそりと痩せ、目の奥は深く窪んでいる。
かつてテレビで見ていた、あの堂々たる肉体はどこにもなかった。世界が知る“平和の象徴”とは似ても似つかぬ、弱々しく、細い姿。
オールフォーワンは、たった一夜で緑谷の大切な友人と、憧れ続けたヒーローの秘密を、無造作に、無慈悲に暴き立てていった。
『細くて、弱々しくて、情けない姿だ。でも恥じるなよ、それが本当の姿なんだろう!?』
嘲笑のような声が響く。
それでもオールマイトの目は死んでいなかった。肉体は萎れても、矜持は折れていない。むしろ、その眼差しは静かに強さを宿し直し、一層鋭く燃えていた。
本来の姿を晒した程度で、彼の“象徴としての心”が奪われるはずがない。
「じゃあこれも君の心に支障はないかな……あのね、死柄木弔は志村菜奈の孫だよ」
志村菜奈。オールマイトの脳裏に古い記憶が蘇る。その名を聞いた瞬間、頭の中の音という音がすべて消えた。
「君の嫌がる事をずぅっと考えてたんだ。
まずは生徒を奪う事、これは君が教師になると聞いた時点で決めてたんだ。プライマルがいて、都合が良かったしね。
そして死柄木弔だ。これは僕のとっておきでね。いつ見せようかとずっと機を伺ってたんだ。君と弔が会う機会を作った。君は弔を下したね。何も知らず、勝ち誇った笑顔で」
オールマイトの呼吸が乱れる。胸が焼けるように痛む。
「ウソだ……」
「事実さ、分かってるだろう?僕のやりそうな事だ」
オールフォーワンの表情が歪む。
それを嗤うという言葉では足りない。人間の悪意を煮詰めて煮詰めて凝縮したような、狂気じみた悦びの笑みだった。
オールマイトの笑顔が消えた瞬間、それを見て「笑顔はどうしたのだ」と笑い、嘲弄するように口角を吊り上げる。
心が揺らぐ。
自分は師匠の家族を守るどころか、傷つけてしまったのだと。
折れそうになる。心が今にも砕け落ちそうだった。
だが──
「負けないで……」
それは、本当に小さな声だった。
けれどもオールマイトの耳には、どんな怒号や嘲弄よりも強く、深く、真っすぐに届いた。
「オールマイト、お願い。救けて……!」
瓦礫に挟まれ、血で汚れた手を伸ばし、助けを求める民間人。その助けを求める声が、オールマイトの萎れた身体を再び燃え上がらせた。
皆が、彼を見ている。
彼を信じている。
彼の勝利を祈っている。
悪に負けてはならない。
ヒーローは、守るものが多い。
だからこそ、折れてはいけない。
画面の向こうで、緑谷と爆豪もまた、声を張り叫んだ。
「「勝てや!!オールマイトォォォッ!!!」」
その瞬間だった。
オールマイトの右腕。ただ一つ、まだ動くその腕だけがマッスルフォームへと変化した。体はとうの昔に限界を迎えている。骨はきしみ、筋肉は裂けるように痛む。動かすたびに激痛が走り、指先すら震える。
それでも、その腕一本で平和を背負う覚悟は揺らがなかった。
渾身の、最後の一振り。
それに呼応するように、オールフォーワンも全てを賭けて殺しに来た。
筋力、加速、防御、破壊などたくさんの個性を重ね、あらゆる攻撃特化の能力を瞬時に組み替え、最も効率良く相手を殺せる形へと収束させていく。
今度こそ確実に捻り潰す。その殺意が空気を震わせた。
ぶつかった瞬間、大気そのものが爆ぜた。
衝撃は地面を抉り、周囲の建物をまとめて吹き飛ばす。2つの力が激突し、轟音があたり一体を揺さぶった。
そして───────
オールマイトが、オールフォーワンを殴り飛ばした。
巨悪は沈黙し、瓦礫の中へと崩れ落ちる。
オールマイトは、砕けそうな腕を掲げた。
歓声が爆発した。
叫びが涙で震え、誰もが胸を掻きむしるような感情に呑まれた。本来の姿で立ち続けるオールマイトの姿に、皆が心を震わせる。
「次は、君だ」
(私はもう、出し切ってしまった)
その声は緑谷の耳に沈むように届き、意味を理解した瞬間、涙が溢れた。本当に、これがNo. 1ヒーロー、オールマイトの最後だったのだ。
* * *
合宿が終わり、雄英では急遽家庭訪問が行われた。教師も生徒も疲れ切っていたが、それでも一人一人と向き合い、未来を繋ぐための時間は静かに過ぎていった。
激動の日々。
平和の象徴が消え、世界は音を立てて変わっていく。その変化の波は雄英にも届いていた。
A組の教室。その真ん中あたりに、ぽっかりと空いた席が一つある。合宿以降、ずっと戻らないままの席。そこはソロ……狐太郎の席だった。
空席は沈黙しているのに、なぜか誰よりも騒がしく、存在を主張していた。
そんな中、新生活が始まろうとしていた。
相澤からは厳しい叱責があった。
狐太郎と爆豪を救助に行った件について、もしオールマイトの引退がなければ、あの日、攫われた2人と意識を失った2人以外は、全員除籍処分にしていた、と。
それほどまでに、あの日の行動は重く、取り返しのつかない一線を越えていたのだ。
「理由はどうあれ、俺たちの信頼を裏切った事は変わりない。正規の手続きを踏み正規の活躍をして、信用を取り戻してくれるとありがたい。以上、さ! 中に入るぞ。元気に行こう」
──いや、無理なんだけど。
相澤は淡々とそういうが、元気になどいけるはずがなかった。その本音は、誰の胸にも同じように去来しているようだった。だが口にできる者はいない。
相澤がさっさと寮へ歩き出したものの、後ろへ続こうとする生徒はひとりもいなかった。全員が足を止め、うつむき、顔をこわばらせている。
その澱んだ空気を最初に破ったのは、珍しいことに爆豪だった。
彼は黙りこんで震えていた上鳴の襟首を無造作に掴み、力任せに引きずって行くと、いきなり個性を限界まで使わせてアホにして、そのまま皆の前へ晒しあげた。意味のないうぇいうぇいという声。上鳴の顔は虚ろなのに、動きは妙に明るい。
最初は誰も反応できなかったが、次第にその間の抜けた様子が可笑しくなり、こわばっていた空気がじわじわと緩んでいく。そして爆豪は、さっきまで隣で項垂れていた切島へ唐突に50000円を突き出した。
「カツアゲか!?」
「ンな訳ねーだろ俺が下ろした金だ!」
切島が目を丸くしたまま叫ぶ。爆豪は顔をそむけ、苛立ちに唇を歪ませて言い捨てる。いつまでもしみったれてられると気分が悪い。そんな思いが、背中からでも伝わってくる。そして、ほんの少しだけ声を落としながら彼は続けた。
「次あのクソッタレの煽りカスに会ったら今度こそ俺がぶっ飛ばしてやんだよ。その為にゃ少しでも早く強くなんなきゃならねぇ。
テメーらはそうやってウジウジしたままで居たいんなら、一生そこでそうしとけ」
それだけ言い放ち、爆豪は相澤の後を追って寮の中へ消えていった。
残された生徒たちは、じわじわと顔を上げはじめた。
それからようやく荷物を抱え、ぞろぞろと建物に入り、それぞれの部屋へ散っていった。
部屋が整えば、自然と生まれる部屋の見せ合いっこ。誰かが笑えば、一人ずつその空気へ引き戻されるように笑い、少しずつ、ほんの少しずつではあるが、日常が戻ってくる気がした。
そして夜になったころ、蛙吹が救出に赴いた5人を呼び出した。
静かな夜空の下、蛙吹は正面に立ち、手をぎゅっと胸の前で握りしめながら言った。
「私、思った事は何でも言っちゃうの。でも、なんて言ったら良いのか分からない時もあるの」
病院での言葉。それを覚えているかと蛙吹は問いかける。“ルールを破る行為はヴィランと同じ”。彼女はあの時、心を鬼にしてそう告げた。
正しいと思った。言わねばならないと思った。
だが彼らが結局行ってしまったと聞いて、胸の奥に残っていた様々な思いが膨れあがった。止めたつもりになっていた不甲斐なさ、悲しさ、混乱。それが全部ごちゃまぜになって、もう何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
だから部屋の見せ合いの時も姿を見せられなかった。誰とも話せなかった。
「でも、それは悲しいの」
ぽろぽろと涙が零れた。
蛙吹の涙は彼女の声と同じく真っ直ぐで、落ちる音すら聞こえそうだった。
不安だったのは蛙吹だけではなかった。
蛙吹の肩に手を置きながら、麗日が少し震える声で言う。
「皆すごい怪我したし…福州くん……よく分からんのだけど化野くんなんだっけ?彼も帰って来んし……やからすごい不安で、拭い去りたくて……部屋王とかやったのもきっと、デクくんたちの気持ちも分かってたからこそのアレで……だから、責めるんじゃなくて…また、アレ……難しいんだけど、とにかく……また皆で笑って、頑張ってこうってヤツさ!」
必死に笑おうとした麗日の頬には、まだ涙が残っていた。
「こんなお通夜みたいな雰囲気になっとったら化野くんも帰って来にくいし、ね!……いや、“ひゃはは!シケた顔してますねー、葬式帰りですか!?”とか言われちゃうかも!? その……アレさ!まぁ、鬼の居ぬ間にじゃないけど、もっともっと強くなって、びっくりさせてやろうじゃん!」
明るく振る舞おうとするほど声が裏返ってしまい、それでも必死に笑おうとする姿に、胸が締めつけられた。
切島は拳を強く握り、唇を結ぶと、勢いよく頭を下げた。それに続いて、他の皆も次々に頭を下げ、声を重ねた。謝罪の言葉は震えていたが、それでも確かに前へ踏み出す力を持っていた。
(皆すごい不安で、拭い去りたくて……それでも皆、元に戻そうと頑張っていたんだ)
緑谷は胸の奥にあたたかいものが溢れるのを感じた。みんな、戻って行く。いつもの、ヒーローを目指し、互いを励まし合い、競い合うあの日常へ。
(そういえば……)
ふと緑谷は思い出した。
(オールマイト、化野くんに会いに行くって言ってたな)
大丈夫かな?
そう、緑谷は静かに思いを馳せた。
* * *
「よりにもよって、なんでここなんだ」
相澤が苛立ちを隠さず吐き捨てた声は、乾いたコンクリートの壁に鈍く反響した。隣に座るオールマイトもまた、眉間に深い皺を刻み、沈鬱な眼差しで前方を見つめている。
場所はタルタロス。
対“個性”最高警備特殊拘置所。ヴィラン犯罪者のための、最も重く冷たい監獄。
本土から5km以上も離れた海上に建設され、厚い壁と海に囲まれた孤立した巨大施設。ここへ至る唯一の道は、波風で軋む一本の鋼鉄の橋のみ。
門を越えた瞬間、空気の質が変わる。
消毒液と鉄錆の匂い、湿ったコンクリートの冷気、そしてどこかに潜む狂気の気配。危険度によって分類された六層の居房は海の底へ深く沈み込むように作られ、下へ行くほど陰鬱な圧迫感が増していく。
収監者が個性を発動しようとした瞬間に脳波やバイタルが感知され、壁に設置された機関銃が自動で殺処分に移る。そのルールだけで、ここが拘置所ではなく、実質的には処刑場だということが分かる。
こんな場所に子供を連れてくるなど、相澤の胸は苛立ちよりも、痛みに近い重苦しい感情で満ちていた。心を弄ばれ、傷付けられた子供のいるべき場所ではない。
「仕方ないでしょう」
役員の男が、書類を机に置き、冷淡な声音で言った。
「オールフォーワンに何をされたか分からない以上、ここが一番適切です」
「彼は犯罪者ではないのだぞ」
「未確定なだけです。化野狐太郎には福州ソロに対する殺害の容疑がかかっていますしね。幼少期の窃盗や傷害に関してもです。
それに、ここ以外にあの巨体を収めておける安全な施設はありません。分かっているでしょう?もしまた暴れたら、今度こそ彼は確実にヴィランと認定されますよ」
「……それはッ」
「ならば彼の心が落ち着くまで、ここで休んでもらうのが合理的と言うものでしょう。彼から詳しく話を聞くのはその後です」
“合理的”という、自分の口癖を使われたことに相澤は小さく舌打ちした。胸の奥に刺さった棘が、さらに深く沈み込むような不快さだった。
* * *
「やあ、この間振りだね化野少年」
オールマイトと相澤が小さな部屋の椅子に腰を下ろし、鉄格子越しの広い部屋に向かって声をかける。床は冷たく、薄い照明が巨大な影を長く引き伸ばしていた。
部屋の隅、そこに狐太郎がいた。
大きな四足の獣のような異形。その赤黒い毛並みは照明を鈍く照り返しながらも、しかし本人の気力の無さを示すように沈んで見える。
丸く縮こまり、尻尾を巻き、まるで世界を拒絶するかのように動かない。しかし呼びかけには反応しないくせに、ピクリと耳だけが微かに動く。聞いている。だが応じない。そんな頑なな意思だけが伝わって来る仕草だった。
「君、化野狐太郎って言うんだってね。いい名前じゃないか」
オールマイトが穏やかな声をかけるが、狐太郎はなおも沈黙する。部屋の中央にはソファやテレビ、食事が置かれたテーブルまで揃えられているが、そのどれにも手をつけた形跡はない。
「化野、これからの話をしよう」
相澤が静かに告げる。その声に、狐太郎はほんのわずか、けれど確かに顔を上げた。黄色の瞳が2人をゆっくりとなぞるように見た。光を失い、退屈と諦念と、不信の色だけを滲ませて。
相澤はその視線を受け止め、いつもの調子で淡々と続ける。
「雄英では全寮制が導入された。これは生徒達の安全を確保する目的で行われる。今一度警備体制を見直して、お前達をなるべく手元で見て、ヒーローに育て上げるつもりだ。それで、お前はどうする?いつ戻ってくるつもりなんだ?」
静かな室内に、淡々と未来の予定の話が続けられる。
「これからは予定を前倒しにしてヒーローの仮免を取らせて、インターンを行う予定だ。うかうかしてるといくらお前でもあっという間にクラスの連中に置いていかれるぞ」
「ははは、合理的じゃないね。相澤先生ともあろうものが珍しい」
狐太郎がのっそりと身体を起こした。
巨大な影が揺れ、照明の下でその毛並みが波のように揺らめく。
前足を組み、顔を上げると、口角をついと持ち上げ、挑発とも諦めともつかない笑みを浮かべた。
その声は、“福州ソロ”だった頃のものとはまるで違っていた。低く、ざらつき、どこか獣のような響き。
初めて触れる“本物の化野狐太郎”の声だった。
「ようやくこっちを見たな。人の話はちゃんと聞け」
相澤が冷静に返すが、狐太郎はさらに口元を吊り上げた。
「いやぁ、アンタがおかしな事を言うもんだから、てっきり気が狂ったのかと思ってね。心配になってついつい見ちまったよ」
「おかしな事?」
「まだ俺様がヒーローになれるとでも思ってんのかよ。アンタ多分、ラグドールから俺様のこと聞いたんじゃねぇの?」
「聞いた。お前と緑谷達の話もこっそり聞かせて貰ってた。だからな、実はまだどうしたもんかと悩んでいるんだ。こんな生徒は前代未聞だからな」
「あはは、だろうな。前代未聞だ俺は。そんな俺がヒーローって?はは、無理なもんは無理だろ」
言い放つと狐太郎はわざとらしく立ち上がり、欠伸をすると、巨大な爪で床をガリッと削るように踏みしめた。その一歩ごとに、部屋全体が微かに震える。人を殺して、街で暴れ、福州ソロという名前さえ偽りだった。そんな自嘲を混ぜた様子で狐太郎は苛立ちを交えた様子で深く唸った。
その瞬間だった。
壁の内部でカチッと乾いた音が連続し、複数の銃口が機械仕掛けの精密な動きで一斉に狐太郎へと向けられた。
オールマイトと相澤は思わず目を見開く。
殺意に近い冷たい金属の気配が、部屋を満たす。
狐太郎はその殺気を真正面から受けながら鼻で笑った。まるで好きにしろとでも言いたげな、投げやりな笑み。そしてゆっくりと伸びをし、興味を失ったようにまた元の位置へ戻って丸くなる。銃口だけがなおも彼を狙い続ける。
「どういう事ですッ」
鋭い怒声が監視室に叩きつけられた。
相澤は後方に控える役員へ、怒りを限界まで押し隠した声で詰め寄る。肩はわずかに震え、黒い髪が揺れている。それほどまでに、目の前の処置は看過できるものではなかった。
だが役員は、まるで何でもないことを説明するかのように一言だけ返した。
「必要な措置です」
相澤は掴みかからん勢いで身を乗り出すが、オールマイトが慌てて腕を伸ばし、彼の肩を押さえて制した。
「説明してもらいたいな。流石にこの対応は納得しかねる。彼が安全に保護されるという前提でここに預けたんだ。これはおかしいだろう!」
「おかしくありませんよ。必要な措置です」
「説明してください」
相澤の声音は低い。役員は大げさにため息をつき、椅子に深くもたれた。
「貴方達は生徒という前提で色眼鏡をかけて彼を見ている。だが、そうでない人達からすると、彼は非常に危険な存在なんですよ。
いつまた以前のように暴れ出すか分からない状態で外に出すわけにはいきません。実際、こちらで目覚めた当初は暴れましたし、役員やセラピストが接触しようとする度に牙を向く」
その言葉に、相澤は拳を固く握る。しかし、今抗弁すれば状況は悪化する。それが分かるから黙るしかなかった。
「これはいけない。故にこの装置を設置しました。脳波やバイタルを察知し、彼が人間に牙を剥こうとすると麻酔が発射される仕組みです。何も射殺しようって訳ではない」
狐太郎の部屋では、天井から細長い筒状の装置がいくつも伸びていた。そのすべてが狐太郎を狙っている。
「まるで危険な犯罪者だぜ、俺様め〜っちゃ傷つくわ」
部屋から聞こえる声は楽しげで、しかし明らかに乾いている。その奥にはひび割れた疲労が滲んでいた。
「事実だろう。それに君が落ち着いてくれれば済む話だ」
役員は狐太郎を見下ろすように言う。その言葉に、狐太郎は露骨に牙を剥き、喉を低く鳴らし、まるで狼のように威嚇した。
途端、壁面の装置が一斉に狐太郎へ向き、麻酔銃が起動する音が響く。
「よせ化野。不必要に挑発するな」
相澤の制止にも、狐太郎はケタケタと笑い声を上げる。
「アッハッハッハ!俺が怖いか!そんなに怖いか!そうかそうか、怖いだろうさ!あはは!あッはははは!そりゃそうだろうさ!俺様はバケモノなんだもんな!」
「化野!」
叱責が飛ぶと同時に、狐太郎はあっさり笑いを引っ込め、ひらりと身を伏せ、拗ねるように顔を逸らす。
「ご覧の通りですからね。彼は冷静になっていない。いつまた暴れ出し、人を傷付けるか分からない以上、これは必要な措置です」
「おかげで嫌でも冷静になるってもんよ。いちいち眠らされるわけだからね、怒る事も面倒になってくる。ま、寝不足にならないのはいい事だけどね」
狐太郎はあくびをし、大きな身体をゴロリと転がして壁へ向ける。その仕草は怠惰で、どこか虚無感に沈んだものだった。
これは……良くない。
相澤の胸に冷たいものが落ちた。
怒りを覚えていた方がまだ健全だった。身内を殺害させられて数日、狐太郎は、ゆっくりと無気力へ沈んでいた。
何もできない。
何も変えられない。
ただ眠らされ、ただ待たされる日々。
その倦怠が巨大な獣を侵食していた。
壁をガリガリと掘るように爪を立ててみるが、それにも意味はなく、すぐにやめてしまう。最後には再び大きなあくびをして、首だけひねって二人の様子を見る。
「そろそろ時間です」
「え!?もう!?早いな……」
オールマイトが時計を見て慌てたように姿勢を正す。
どうにか言葉をまとめ、狐太郎へ向き直った。
「化野少年、私の話も聞いてくれるかい?」
「おしゃべりか?いいぞ。俺様お喋りは大好き」
「USJが襲撃された時、私は脳無に捕まれ、ピンチだったんだ。それを君と轟少年と、爆豪少年が助けてくれた。危ないから下がっていろと言ったら君は、“お前も重傷なんだから他のヴィラン達は自分達に任せろ”って言ったんだ。あの時君は私を心配してくれたんだね」
「ヤァ馬鹿にしてただけだよ」
「まぁ、理由付けは何でもいいさ。それに、緑谷少年から聞いたんだ。ヒーロー殺しの事件の時、君が助けてくれたって。それだけじゃない。I・アイランドの時も君に命を助けられたって言ってたよ」
「そうだったっけなぁ?」
「そうだったんだよ。そして合宿の時……ごめんね、嫌な事を思い出させるよ。脳無に襲われた時の話だ」
その瞬間、狐太郎の身体がばねのように跳ね起きた。ガバッ、と重い音を立てて立ち上がり、鋭い牙を剥き出しに、オールマイトへと向ける。喉の奥で低く唸り、金色の瞳が怒りで揺らいだ。
室内に警告アナウンスが鳴り響き、天井の麻酔銃が一斉に彼へ向けて起動する。
「もう帰りなよ、その話は好きじゃない」
「君は八百万少女と泡瀬少年に“逃げろ”と言ったそうじゃないか。心がズタズタになっている状況で、脳無に襲われ、自分が殺されるかもしれない場面で他人の身を案じたんだ!私は、それが君の本質だと思う!」
「帰れってば、思い出したくねぇのよ。無様な失敗談なんでね」
「故に私はこう思うんだ。君は、心優しいただの少年だ。そして、ヒーローに向いている人間だと」
「しつけぇな帰れよッ!」
狐太郎が吠えた瞬間、檻が震え、空気がびりつく。その咆哮には怒りだけでなく、恐怖や拒絶、過去の痛みが渦巻いていた。
「だから、折れないでくれ化野少年。君が戻ってきてくれる日を待っているよ」
「時間です」
「じゃあな、また来る。次は檻は無しで会おう」
最後に相澤がそう告げ、教員2人が部屋を後にした。狐太郎はその背中をちらりと見送り、またゆっくりと隅へ戻る。巨大な身体を丸め、尻尾を抱き寄せ、静かに目をつむった。
(呆れた連中だ)
本気でこちらを心配している。その事実こそが理解できなかった。
(俺様は嘘つきの怪物だぜ?放っておけばいいものを……ほんと、物好きな奴ら)
最後にひとつ、大きなあくびをすると、狐太郎は顔を前足に埋め、深く沈むように眠りへ落ちていった。