「個性とは、すなわち進化である」
荘厳な建造物の中心で、ひとりの男が低く響く声を放った。黒い竜のような異形の姿をした、赤い目の男だ。その声は大聖堂の内側へ重く染み渡った。
大聖堂の天井は、思わず息を呑むほどの豪奢さだった。天井一面に施された黄金の細工が夕陽を受けて眩い光を乱反射させている。
そこは満席だった。数百人以上もの異形型の者たちが肩を寄せ合い、ぎっしりと埋め尽くしている。彼らの姿は実に様々で、爬虫類のような鱗に覆われた肌を持つ者、眼窩の位置すら不明なほど無数に並んだ眼をもつ者、蠢く触手の腕を持つ者、多種多様な異形型の者たちが並び、けれどその視線だけは全員が同じ一点に向けられていた。
壇上に立つ男、ファヴニル・ドラコーへ。
壁に寄りかかる狐面の少年もまた、群衆の誰とも交わらぬ静けさで黙って高壇を見上げていた。指が面の縁をなぞり、その流れで左の鎖骨あたりに触れ、ほんの一瞬だけ押さえる。だがすぐに手は離れ、何事もなかったかのように下ろされた。
壇上に立つリーダー、ドラコー。彼自身も異形型として強烈な存在感を放っていた。頭頂から突き出した巨大な黒い角は大聖堂の光を吸い込み、背中に広がる翼は焔のように揺らめき、まるでその影が聴衆全体を覆っているかのようである。
彼は重く、深い声で語りはじめる。
「異形、それが我々に与えられたのは神の意志だ」
大聖堂の空気はぴたりと止まり、聴衆達は息を詰めたまま動かなくなる。
「個性とは、ただの能力ではない。それは人間がかつて成し得なかった進化の形である。だが、見よ!この世界はどうだ?愚かなる者どもが我々異形型を恐れ、排斥し、抑圧している!」
ひとつの息すら漏れない。
怒号が上がるわけでもなく、ただ静寂だけが支配する。彼の言葉に含まれる熱が、誰の胸にも重く圧し掛かっていた。
「我々こそが真の支配者である!
我々異形型こそが、進化の頂点に立つ存在だ!同じレベルの知能を持ちながら、普通の人間より遥かに優れた力を持っている、上位種なのだ!
その力を否定する者たちは、自らの無能を隠すために我らを排斥している!我々の力を恐れ、隠そうとしている!だが、そんなことはもう許されない。世界は、力を持つ者によって導かれるべきだ。強者が支配し、弱者は従う。それこそが、この世界の本来の姿だ!」
ドラコーは一度ゆっくりと腕を広げ、群衆を見渡すように視線を巡らせた。わざとらしいほどの間を置き、口元に薄い笑みを浮かべる。そして、ドラコーの声が再び低く響いた。
「異形型こそが最も優れた新人類であるのだ。この映像を見よ」
彼の手がわずかに動くと、大型の液晶画面が点灯した。次の瞬間、黒い獣が暴れ狂う映像が映し出される。
大地が裂け、爆風で瓦礫が舞い、炎の光が映像越しにこちらの頬を熱くするほどだった。ヒーローたちが次々と吹き飛ばされ、衝突の衝撃で地面に深い溝が刻まれる。獣が通り過ぎた後には焼け焦げた黒い大地だけが残り、そこに立ってる者はひとりもいない。
「我々は差別されるべき存在ではない!この様に、圧倒的な力で君臨すべき存在なのだ!我々異形型を差別する無能供を打ちのめし、我らがこの星に君臨する!!
我々はこの世界を支配し、導くために存在しているのだ!個性は、進化はッ、全ての者を導く光である。そして我々こそが、その光を掲げる者である!
人類は、個性を持つ者と持たぬ者で分断されている。だが異形型はその二つよりさらに上、最上位に君臨するべき存在だ!だからこそ、我々が世界を支配し、導くのだ!」
その瞬間、大聖堂中が爆発したかのような歓声で揺れた。
吠え声、叫び声、翼を打ち鳴らす音、床を震わせる足音。数百の異形型たちの咆哮が、一斉に空気を震わせる。その目には狂気と熱狂が渦巻き、ドラコーの姿を崇拝する信徒の光が宿っていた。
ドラコーは高壇の上で、ゆっくりと会衆を見渡す。
その口元に浮かぶ笑みは、支配者の余裕と確信に満ちていた。
そして最後に、低い声で囁くように語りかけた。
「時が来た。我らの兵器は直に完成する。世界は、我々の手に落ちる。個性は、無能な人々は、我々が支配する。誰も、我々の進化を止めることはできない。力を持つのは我々だけで良い」
言葉を聞き終えると、壁際にいた狐面の少年は静かに体を翻した。
黒いフード付きのマントに身を包み、その下の装いは他の信者たちの服とは異なり、必要最低限の軽装だ。どこか場にそぐわない。大聖堂の喧騒を背に、彼は淡々と出口へ向かって歩み去っていく。歓声が響いても、彼はひとつも振り返らなかった。
ただ、面の奥の黄色い瞳だけが、どこか深い思惑の色を宿していた。
* * *
「先日の襲撃の際、脳無プライマルが発した言葉ですが」
雄英高校の重厚な会議室には、緊張を孕んだ空気が満ちていた。
長いテーブルの周囲には、雄英の関係者であるオールマイトや根津、さらにホークス、エンデヴァーをはじめとした現役トップヒーローたちが並んでいる。
そして彼らに混じって、緑谷、轟、爆豪を含む雄英生たちも席についていた。学生とは思えぬほど引き締まった表情は、ここにいる誰もが状況の重さを理解している証だった。
説明を行っていた公安職員が口を開いた瞬間、根津がそっと片手を上げて遮る。
「失礼、脳無プライマルではなく化野狐太郎と呼称してもらえるかな?彼は元とはいえ我々雄英高校の生徒だ。脳無とひとまとめにされるのはあまり気分が良くないね」
職員は一瞬だけ目を見開き、すぐに姿勢を正して深く頭を下げる。
「……申し訳ありません。以後、化野狐太郎と呼称します」
訂正を終えると、職員は手元のリモコンを操作した。
「化野狐太郎が言っていた言葉、ブリリアントパレード、もしくはプライドですが、これは恐らく“バリアントプライド”の事だと思われます」
室内の照明がわずかに落ち、大型液晶に映像が投影される。画面には黒い竜のような姿をした男、ファヴニル・ドラコーの姿が映し出された。その周囲には黒いコートのような衣服に身を包んだ、異形型と思われる無数の構成員たちが整列している。彼らの表情は見えないが、ただ並んでいるだけで圧倒的な威圧感が漂った。
「バリアントプライドとは、異形至上主義の思想団体です。ヒューマライズとは真逆の思想と言える。リーダーのファヴニル・ドラコーを始めとして、ご覧の通り構成員の全てが異形型。異形の姿は神からのプレゼントであり、最も優れた進化の姿。そして最も優れているからこそ、異形型こそが世界を支配するべきだと考えている。そういう集団です」
映し出される異形型たちの姿は、ただの思想団体ではなく、圧倒的暴力を背景にした宗教めいた危険性を感じさせる。
職員はさらに言葉を続ける。
そして、異形型の頂点に君臨しているとも言える狐太郎がその名前を出したことの意味を考える。狐太郎は現在、オールフォーワンの手下だ。そしてそのオールフォーワンは世界の支配を目論んでいる。
最も優れた異形型である狐太郎が、バリアントプライドと手を組み、彼らを支配。もしくはドラコーを殺して成り変わり、支配。そしてオールフォーワンの傘下に加えるという事が目的だろうと、その結論に至るのにそう時間は掛からなかった。
映像の前で腕を組んでいたエンデヴァーが低く唸る。ホークスは椅子に腰を預けながらも、目だけは鋭く光らせていた。学生たちも緊張で固唾を飲む。
「恐らく化野狐太郎は次にバリアントプライドの基地に現れるだろうな。場所は中国のリゾート地、香明島。今は絶賛シーズンだし、かなりの人がいるだろう。紛れ込むのは容易いはずだ」
「彼をこれ以上自由にさせておくのはまずい。変身の個性は強すぎる。早く捕まえるべきだろう」
「バリアントプライドに潜入させている捜査員によると、彼らもまた化野狐太郎との接触を企んでいる」
「出来れば合流させる前に、化野狐太郎でもファヴニル・ドラコーでもいいから、どちらかを捕まえておきたいものだが」
「狙うとしたらファヴニル・ドラコーか。違法な研究を行っているから、その施設であれば強制捜査は可能だ。日本にもいくつかあったはず」
矢継ぎ早に飛び交うヒーローたちの判断。だが緑谷の耳には、その全てが遠くに感じられていた。彼は胸元をぎゅっと握りしめる。
(もっとちゃんと……化野くんと話さないと)
以前の襲撃。
あのときはあまりにも状況が切迫していて、まともに言葉を交わせる余裕などなかった。ただ衝撃と混乱が交錯する中で、交わされたわずかな会話。その断片がずっと心に引っかかったままだった。
(今度こそ……)
そう願っているうちに、ヒーローたちの結論が固まった。まずバリアントプライドの国内研究施設を強制捜査し、証拠を押さえてファヴニル・ドラコーを検挙する。その方針のもと、電光石火の作戦展開が決定した。
研究施設は国内に6ヵ所。
ヒーローと雄英生たちは分散して一斉に強襲を仕掛けることになった。緑谷、爆豪、轟の3名は京都の施設へと振り分けられる。
バリアントプライドの構成員たちを捕縛しようとすれば、狐太郎の襲撃を受ける可能性がある。もちろん逆も然りだ。緑谷は静かに息を吸い、胸の奥を固めるように力を入れた。
襲撃は夜。
新幹線で京都へ向かい、3人は駅を出て強い雨に包まれた街を歩く。全員、無言だった。
「……この任務のうちに、化野くんを説得しないと」
静けさを破ったのは緑谷の声だった。それは決意というより願いに近い、どうしようもなく人間的な声音だった。
「あいつを説得?無理だろ」
爆豪の返しはいつも通り尖っている。しかしその横顔には、ただの苛立ちだけではない複雑な影が宿っていた。
「無理かもしれない、けど……やっぱり僕はちゃんと話がしたいよ」
「ああ、最後にアイツとちゃんと話したのは、林間合宿か」
轟が静かに言葉を重ねる。
その目はどこか遠くを見ていた。
「うん。僕は彼の事を何も知らない。好物も、趣味も、何も知らないんだ」
緑谷は歩きながら、拳をわずかに握る。
「趣味なら知ってンだろ。人を馬鹿にして痛めつけて笑う事だよ、アイツ……思い出しても腹が立つ」
爆豪は容赦なく吐き捨てるが、その声音はどこか沈んでいた。
「いや、そうだけど、そういうんじゃなくて……本を読むとか美味しいものを食べるとか、そういうのだよ。彼とはたくさん話をしたけど、よく考えたら彼は彼自身の事を、あの夜以外はほとんど話していないんだ」
緑谷は歩きながら、同級生として共に過ごした短い時間を思い出す。言葉を交わしていたはずなのに、実は何も知らなかったのではないかという、拭いきれない違和感。
「だから僕は、彼とちゃんと話がしたい。あの夜の答え合わせをしたいし……それに、彼自身の口から、彼の名前を聞きたい」
静かだが揺るぎない意志が宿った声だった。その言葉を吐き切り、緑谷が顔を上げた瞬間だった。乾いた破裂音が通りの空気を裂いた。
思考より先に体が動く。緑谷も轟も爆豪も、一瞬で戦闘態勢へ移行した。破れたシャッターの奥から店主の「強盗だ!」という叫びが響き、それが合図となった。
3人は視線を交わした。言葉など不要だ。
それだけで互いの動きが確定し、呼吸を合わせたように散開する。
爆豪が一気に間合いを詰め、轟が逃走経路を氷で塞ぎ、緑谷が残った敵を即座に無力化する。コンビネーションは完璧で、抵抗らしい抵抗も許さず、強盗たちは数秒で地面に押し付けられた。
「はぁ……またか……」
治安の悪化を嘆くように、緑谷は静かに深くため息をこぼす。周囲にはいつの間にか人だかりができていた。ざわめきの中、顔を上げた緑谷の視界に、それはほんの一瞬だけ姿を覗かせた。
「ッ……!」
民家の壁に寄りかかる影。
黒いマントのフードを深くかぶり、人混みの隙間からこちらを見ている少年。そのフードの影から滑り落ちるように流れる藤色の長い髪。わずかな隙間から見えた黄色い瞳と、印象的な泣き黒子。
「化野くん!」
胸の奥が跳ねる。確信と驚きがないまぜになり、緑谷は咄嗟に駆け寄ろうとした。だが、ほんの一呼吸の間に、少年の姿は霧のように消え失せていた。人混みに紛れて、いや、きっと別の人間の姿へ変わってしまったのだろう。こうなれば追跡は困難だ。
ヴィラン出没の報告により、周囲はすぐさま封鎖され、捜査員が詰めかけて混乱は加速した。
動物になられたら、もう追跡はほぼ不可能だ。緑谷は息を整えながら周囲を探すが、同じ髪色も同じ背格好も見当たらなかった。
「緑谷」
駆け寄ってきた轟が、緑谷の表情を見てすぐに察したように問いかけてくる。
「化野を見つけたのか」
緑谷は頷きつつ周囲を見渡すが、もうどこにもその痕跡すらなかった。
「アイツがここにいるって事は、もしかしたらここが当たりかも知れないな」
轟の言葉に、緑谷は深く呼吸を整え、覚悟を固めるように拳を握った。
* * *
そして数時間後、夜。
京都の夜の闇は、昼間とはまるで別の表情を見せていた。雨脚は夕方から強まり、濡れた石畳がぼんやりと灯る提灯の光をゆらりと反射している。古い町家が並ぶ静かな通りには淡い夜霧が流れ込んでいる。山から吹き下ろす冷たい風が緑谷たちの頬を撫でた。
街中の喧騒がまるで嘘のようだ。
山奥へ進むほどに静寂は深まっていく。
「あ、狐だ」
「知るかボケ!どうでもいいわッ」
林の奥へ駆ける野生の狐を見つけた轟が、思わず声に出すと、即座に爆豪が噛みつく。緑谷は苦笑しながら「まぁまぁ」と二人の間に手を伸ばした。
やがて林道の終わりに、巨大な影が現れた。
京都の古都の風景から完全に浮いた、無機質な建造物。直線だけで構成されたような無駄のないコンクリートの壁面は、夜の闇に溶けず、不自然なほどの存在感を放っている。窓は一つもない。外灯すらない。この建物こそ、バリアントプライドの研究施設だった。
「行こう!」
緑谷の声が空気を切り裂く。3人は一気に駆け出し、重厚な扉へ突進した。
「手早く施設を制圧して、奴らの研究成果とやらを確保するぞ」
「誰にもの言ってんだクソが!!速攻で終わらせてやるわッ!」
爆豪が先に飛び込んでいき、勢いそのままに突入する、はずだった。
が、
「あ゛ぁ?」
「……これは」
爆豪と轟が、同時に足を止めた。
施設内部は不自然なほど整っていた。無機質な白い照明だけが寒々しいほど淡い光を放ち、静寂を強調している。その静けさは人々の不在ではなく、既に何かが終わった後のような不穏さを孕んでいた。
そして廊下の奥へ足を踏み入れた瞬間、緑谷は息を呑む。
「全員……倒れている……」
床一面に散らばるように倒れている白衣の研究員たち。20人以上はいる。皆、深い眠りに落ちたかのように微動だにせず、ただ静かに横たわっていた。
だが、その肌は異様なほど青白い。冷たく光を失ったその顔色は、生気が抜け落ちたように見えた。ここで何が起きたのか、言葉にできない不気味さだけが、胸に重くのしかかる。
「全員……やられてるのか?」
轟が施設内を見渡し低く呟く。緑谷たちは慎重に近づき、一人一人の鼓動と呼吸を確かめようと膝をつく。肌は青白く、体温も異様に低い。だが確かに呼吸はある。浅いが、生きてはいる。
「眠ってる、のか?」
轟の声は警戒と困惑が混じり、わずかに眉間が寄っていた。
「どうなってるんだ……」
状況を把握しきれず、緑谷が研究員の肩にそっと触れた時。
「簡単な話だろぉが!」
爆豪の荒い声が鋭く割り込む。彼の掌では小さな爆破がバチバチと連続し、薄暗い廊下を不規則な火花が照らした。その顔には、獣のように獰猛な笑みが浮かんでいる。
「誰かに先越されたんだよッ!!」
爆発の反動を利用し、爆豪の体が弾丸のように前方へ跳ぶ。緑谷と轟も遅れまいと駆け出した。倒れ伏す研究員たちが視界に飛び込むたび胸が痛むが、今は足を止められない。ごめんなさいと心の中で謝罪しながら、3人は冷たい白い廊下をひた走る。
緑谷は前方を鋭く睨み、胸に渦巻く焦燥をなんとか押し込める。爆豪の背中からは苛立ちと怒気が滲み出し、轟の横顔には静かな決意が宿っていた。
いくつもの曲がり角を曲がり、複雑な廊下を抜けた先、ようやく重厚なメインルームの扉が視界に入る。
爆豪が迷いなく肩で扉を乱暴に押し開く。
3人は同時に室内へ飛び込んだ。
だが、そこで彼らを待っていたのは予想外の光景だった。
「あ゛ぁ!?誰だテメェ!!」
爆豪の怒声が室内に響き渡る。
薄暗い研究室の中央。一人の男が静かに立っていた。黒いマントを纏い、顔は無表情の狐面で覆われている。彼の長い藤色の髪は、一つに結ばれ、ゆるやかに背中へ流れ落ちている。
腰には日本刀を差しており、その佇まいには不気味なほどの落ち着きがある。さらに左手には金属製のアタッシュケース。施設の研究成果が詰まっているであろうそれを、しっかりと掴んでいた。
「君は……まさか……!」
緑谷の瞳が驚愕に見開かれる。狐面越しに目は見えない。だが、男が確かに3人の力量を図るように観察しているのが感じ取れる。
「君は、化野くん……じゃ、ないよね……?」
緑谷が警戒と混乱を隠さず声をかける。狐太郎なら、まず間違いなく鬱陶しいほど陽気に絡んでくるはずだ。沈黙で応じるはずがない。
なのに目の前の男はただ静かに、冷ややかな動作でポケットへ手を伸ばした。
「動くなァッ!怪しいと判断した瞬間爆破するッ!!」
爆豪の怒号とともに、手のひらの爆発音が低く唸る。その威圧感に、男の手がぴたりと止まる。
「それを、渡してもらえますか?乱暴な事はしたくない」
甘い、と爆豪が毒づくが、緑谷はそれを無視して手を差し出す。狐面の男は首をわずかに傾けた。次の瞬間、アタッシュケースを小脇に抱え直し、空いた手を伸ばす。
握手。
そう見えた。
だが、
「緑谷ッ!」
轟の叫びが空気を裂く。同時に男の手が鋭く跳ね上げられ、二本の指が立てられる。その間には薄い札のような紙片。それが床へ叩きつけられた瞬間、濃い煙が弾けるように広がり、瞬く間に視界を奪った。
「っ……!」
緑谷は反射的に口元を腕で覆ったが、それでも遅かった。体の力が一気に抜ける。膝が床に落ちた瞬間、濁流のような睡魔が押し寄せてくる。
「なっ!?」
轟も同じく崩れ落ちる。頭が回らない。意識が沈む。煙の中に、男がすり抜けるように走り去る気配だけが残った。
「寝てんじゃねぇッ!追うぞッ!!」
爆豪は二人の頭を軽く爆破し、衝撃で無理やり意識を引き戻す。彼自身が倒れなかったのは、眠気が襲うより先に舌を強く噛み、さらにすぐ爆発で煙を吹き飛ばしたからだ。痛みを感じる暇もなく、爆豪は凄まじい速度で男を追いかけていく。
緑谷は掠れた呼吸を整えながら立ち上がった。
(力が一気に抜けていった。この個性の影響で研究施設の人達はみんな倒れていたんだ!何の能力か分からないけど、やっぱり彼は化野君じゃない!だとしたら一体誰が、何の為に……)
考えている暇はない。
緑谷はフルカウルを発動し、全身に稲光のような力を巡らせる。視界が鮮明に戻り、鼓動が速まる。
すぐに爆豪と轟の後を追って、駆け出した。