京都の街に激しい雨が降りしきる。濡れた石畳を叩く雨音と雷鳴の中、4つの影が路地を駆け抜けていく。
「待って!」
緑谷が叫ぶ。フルカウルの光が雨を切り裂き、爆豪は空中で爆破を繰り返しながら並走。轟は氷を足元に作り、滑るように追いかける。彼らの先を逃げるのは、狐面をつけた男だった。藤色の髪を雨に濡らしながら、細い路地を迷いなく進む。足音すら感じさせない速さで、雨の中を滑るように走っていく。
「かっちゃん、轟くん!回り込んで!」
緑谷の声が雨に消える。狐面の男が手を上げると突風が巻き起こり、瓦片やゴミが舞い上がって視界を奪った。
「チッ……!」
爆豪が爆破で風を切り裂き、一気に距離を詰めるが男はひらりと身体をひねって攻撃を回避する。再び距離が開くと、轟と爆豪は左右へ散り進路を塞ごうと動いた。
「逃げないで!話をッ!」
緑谷が叫んだ瞬間、背後から、
「出久!後ろだッ!」
と、爆豪の怒声がして、反射的に振り向く。しかし、そこに爆豪はいるはずもない。緑谷が先ほど別れたばかりだと気がつくと同時にその姿が雨の中でにじみ、霧のように消えた。
(幻……!)
緑谷はその場で踏みとどまり、幻影の罠から意識を引き戻すと、再び狐面の男を追う。距離が開いてしまった。
「このままじゃキリがない……!」
雨脚はさらに強まり、京都の路地はもう川のようだった。狐面の男は悪天候そのものを武器のように利用し、なおも逃走を続けていく。
(視界が最悪だ……ッ!雨で相手がよく見えない……!)
それでも、彼らは足を止めなかった。狐面の男の逃げる先には、古びた木造の橋が見えてくる。川は豪雨で膨れあがり、濁流が激しく橋脚を叩いていた。
追跡劇は別の形で突如途切れた。
横合いの路地から、複数の影が飛び出した。
「ッ……!」
狐面の男は反射的にブレーキを踏み、橋の前で体を止める。
襲撃者たちはずぶ濡れになりながらも怒りに満ちた眼を光らせ、男を囲んだ。
「裏切り者が!!」
「我々をずっと騙していたのか!?」
緑谷たちがようやく追いついた頃には、橋の手前に複数の黒い影が広がっていた。その服装は雄英で一度確認したバリアントプライドの信者のものだ。
彼らの瞳には純然たる憎悪が燃えていた。まるで命を奪うことに一切の躊躇がないかのような、濁った敵意。
狐面の男は小さく舌打ちし、腰へ手を伸ばす。雨の中で刃が抜かれた瞬間、月光と雷光を受けて銀色に鋭く光った。雨粒が刀身で弾け、周囲に散っていく。
「それを返してもらうぞ!」
襲撃者の一人が熊のように巨大な腕を振り上げ、もう一人は獣のような尾を鞭のようにしならせた。しかしそれらの攻撃は、背後から滑り込んだ爆豪と轟によって弾き返された。
「なんかモブが増えてんなぁ!!あ゛ぁ!?どういう状況だ!!」
爆豪が憤怒の形相のまま叫び、掌を爆ぜさせる。
「緑谷、こいつらバリアントプライドか?」
轟が冷静に周囲を見回しながら問いかける。
「うん、多分そう。あの人は裏切り者だって言われてた」
緑谷の視線は、狐面の男へ向けられる。
襲撃者たちの連撃を、男は軽やかに受け流している。アタッシュケースを抱えたまま戦うのは不利のはずだが、そこまで問題にしていない様子だ。
(まずはこいつらを、全部倒す……!)
フルカウル。
緑谷の身体に雷光のようなオーラが走り、一気に前へ飛び込む。拳を振るうたび、雨水が爆ぜ、襲撃者が次々と吹き飛ぶ。
爆豪の爆破が夜空を照らし、轟の氷と炎が橋の上を支配する。狐面の男もまた、その隙に的確な斬撃で数人を退けていた。
橋の下では、荒れ狂う川が咆哮を上げている。豪雨はなおも激しさを増し、まるで戦いそのものを飲み込むかのように容赦なく叩きつけてくる。
「オラァァァッ!!」
爆豪が怒号を上げ、腕を振りかざした瞬間強烈な爆破が炸裂した。光と衝撃が混じり合い、まるで稲妻が地上で弾けたかのような轟音が橋を揺らす。吹き荒れた爆風が雨粒を巻き上げ、襲撃者たちの一団がまとめて弾き飛ばされた。
しかし、異形型の敵たちは怯むどころか、爆風の向こうから一気に迫ってくる。轟は爆音の中でも一切動じず、冷静に敵の動きを読み取ると、右手をわずかに上げた。
こいつらを一掃すると静かに告げたその直後、指先から凍てつく白い冷気が噴き出す。橋の板が瞬時に白く凍りつき、飛びかかっていた異形型十数人が悲鳴も上げられず氷像のように固定される。足元を奪われた者は滑り、派手に転倒した。
だが背後の闇から、また新たな影が姿を現す。人混みに紛れて潜んでいた者たちが、雨に濡れながら次々とその異形を露わにしていく。角を生やした者、複眼を持つ者、獣の腕をした者。数は増えていた。
「数が多いな」
「知るか!全部潰す!!」
爆豪はそう宣言して跳躍した。
狐面の男は彼らの会話を横目に、背後から迫る爪や尾の一閃を紙一重で躱し、抱えたアタッシュケースを身体で庇い続ける。濡れた橋の上でも足を滑らせず、敵の体当たりを受け流し、カウンターとして日本刀を振るう。
しかし、限界がある。
男の肩や腕に異形の爪がかすり、コートの布が裂け、赤い線が滲む。それでも男は歯を食いしばり、誰にもケースを渡すまいと立ち続けていた。
「くそ鬱陶しいッ!雑魚どもがッ!!」
爆豪が憤怒の咆哮を上げ、掌から次々と爆破を解き放つ。しかし、それでも異形型は途切れない。橋の上は爆炎、氷、風、血の匂い、そして川の激しい水音が混ざり合う、混沌そのものと化していた。
緑谷もまた、フルカウルで敵の攻撃を受け止めながら、必死に状況を把握していた。異形型たちは数の暴力だけでなく、各々の個性を使い分け、3人と一人を分断しようと戦術的に動いている。
(これだけの数で来るって事は、あのケースの中身は相当に大切なものなのか……)
その確信と共に、緑谷の身体に力がさらに満ちる。
敵の中には空中を滑空する者、獣のような爪で容赦なく切りかかる者、電撃や突風を撃ち出す者まで混じっている。緑谷の腕や肩にも浅い傷が増え、雨水に混じって赤い流れが滴り落ちていく。それでも止まれない。止まるわけにはいかない。
その時だった。
一人の異形型が突然姿を消した。
まるで空気と同化するように、気配すら残さない。
次の瞬間、狐面の男の背後に影が滲み出した。
カメレオンのように擬態していた敵が、湿った音を立てて長い舌を伸ばす。舌はムチのような勢いでうなりを上げ、アタッシュケースに巻きついた。
「──ッ!」
狐面の男が驚愕に目を見開き、ケースを強く抱き締める。しかしその舌は異常な力を持っていた。骨が軋むほどの力でケースが引き剝がされかける。
「離せッ!」
男は必死に抗い、身体ごと後ろへ引かれながら叫ぶ。そして一瞬の隙をつき、狐面の男は刀を閃かせた。雨を裂く鋭い一閃が舌を切り裂き、湿った悲鳴が上がった。
舌の力が瞬間的に消失し、ケースは勢いよく宙へと舞い上がった。雨の闇に光が反射し、ケースが白い軌跡を描く。だがその瞬間、正面から新手が現れる。異形型が咆哮と共に腕を突き出し、ビーム状のエネルギーを放った。青白い閃光が空気を焼き裂き、直線的にケースへ突き刺さる。
「なッ!?」
「取り返せないなら壊してやる!!裏切り者のテメーにゃ渡さねぇ!!」
アタッシュケースは爆ぜ、金属片とガラスの破片が雨とともに宙へ散った。内部にあった研究成果と思われる物体が四方へ弾かれる。
狐面の男の顔が、仮面越しでもわかるほど歪む。飛び散ったそれらは橋の欄干の方へ行き、荒れ狂う川へ吸い込まれようとしていた。
「……ッ!!」
男は反射で欄干に飛び乗り、雨で滑る木材を踏み込んで跳躍した。指が痛むほど強く伸ばし、飛散した物体を数個掴む。だが着地の瞬間、足の裏から手応えが消え去った。滑ったのだ。体が横転し、そのまま橋の外へ落下していく。
豪雨の中荒れ狂う川へ、黒い影が吸い込まれた。
「ッ!!」
すべてが一瞬だった。
緑谷は反射的に走り出し、全身のバネを使って川へ飛び込んだ。豪雨で叩かれ続ける水面が、大きく裂ける。
「緑谷!!」
「ッ……!」
轟と爆豪が叫ぶが、緑谷の姿はすでに濁流の底へ沈んでいた。
* * *
豪雨は容赦なく川面を叩き、水飛沫が絶えず空へ噴き上がっていた。川は大きな音を上げ、緑谷と狐面の男を無慈悲に飲み込んでいく。
緑谷が水中へ突入した瞬間、冷水が全身に刺すような衝撃で襲いかかり、肺の奥まで冷たさが突き刺さった。視界は濁流に奪われ、上下の感覚が一瞬で消える。それでも必死に水面へ顔を出すと、暴力的な雨が顔に叩きつけられ、息を吸うことすら難しかった。
前方を見る。
荒れ狂う水の壁の向こう、流される男の姿がかすかに揺らめいて見える。
「掴まって!」
声を張り上げるが、雨と激流の音にかき消され、自分の声でさえ耳に届かない。
それでも緑谷は腕を伸ばす。狐面の男は驚いたように振り返り、濁流の中でその視線が緑谷と交わる。その一瞬、彼の瞳には迷いと困惑が入り混じっていた。男は何かを言おうと口を開き、しかし雨水がそれを呑み込み、言葉は届かない。それでも彼は、緑谷の差し伸べられた手に応えるように、震える指を必死に伸ばす。
あと少し、触れられる。
そう思った瞬間だった。
川の上流から、巨大な大木が流されてきた。
激流に回転させられた幹が、信じられない速度で迫り、次の瞬間、轟音と共に男の体を横から強打した。
「……っ、……!」
硬い衝撃音が鈍く響き、細い身体が折れ曲がるように弾き飛ばされる。血が水面に滲んだ。男の身体はそのまま濁流の中へと沈んでしまった。
「待って!」
緑谷は胸を掴まれるような焦燥のまま叫び、荒れ狂う川へと身を沈める。緑谷の眼には沈んでいく男の姿が映っていた。彼は黒鞭を必死に伸ばし、水中で使うには不自由なそれを無理やり操作し、抵抗する濁流を掻き分けていく。腕が千切れそうなほどの負荷がかかり、肺は悲鳴を上げていた。それでも腕を伸ばし続け、ついに沈みゆく彼の手首を掴んだ。
「ぐっ……!」
緑谷は渾身の力で水面へ引き上げ、男の身体を抱え上げるようにして浮上した。肺へ冷え切った空気が流れ込むと同時に、さらに強い濁流が二人の身体を叩きつけ、転がすように押し流していく。
流れは容赦がなく、冷たさと痛みが体力を削り取っていく。身体は何度も水面と水底の間を転がされ、緑谷の肩や背中には岩や流木がぶつかり、鈍痛が走った。腕に抱えた男の身体が重く、水の力に引っ張られ続ける。邪魔なマントは捨てさせたが、それでも大変だ。
(離さない……絶対に……ッ!)
濁流は彼らを森の奥へ運び込む。たどり着いた先は、木々が密集し、川幅が狭くなっている場所だった。水流はその分さらに激しくなり、轟音を立てて二人を呑み込もうとする。
緑谷は必死に黒鞭を伸ばし、岸近くの太い木の幹に巻き付けた。鞭が強く張り詰め、水の勢いを受けた身体が軋むように止まる。骨に響く衝撃をこらえながら、緑谷は男の体を抱え、なんとか岸へと這い上がった。
「はぁ……っ、はぁ……っ」
荒い呼吸が森に響く。
踏みしめる土の感触がようやく戻り、緑谷は全身の震えを押さえながら、濡れた身体を引きずるように岸へ横たえた。ずぶ濡れの服は皮膚に張り付き、体温が奪われていくのを感じる。それでも構っていられない。
目の前で倒れている少年が、まずは生きているかどうか。それだけが重要だった。
緑谷は彼を抱き起こし、呼吸を確かめる。仮面が割れてなくなって、彼の顔がよく見える。その顔色は悪いが、脈はしっかりしていた。しかし大木の衝撃は相当に強く、おそらく打撲も浅くない。目元には薄く血が滲み、額には濁流の中でついた裂傷が見えた。
「はぁ、良かった。死ぬかと思った……」
緑谷は座り込みながら呟き、肩で息をしながらも少年を揺さぶる。
「起きて……ねぇ、起きて……」
土と雨に塗れた指先で、そっとその肩を揺らす。
しばらくして、閉じられていたまぶたがわずかに震え、やがて重そうに開かれた。
「……ッ、がはっ……!げほっ、げほ……っ!」
激しい咳が静かな森に響いた。
少年は肺に溜まっていた水を吐き出すように咳き込み、やがて荒く息をしながら体を起こした。濡れた髪が頬に貼りつき、乱れた呼吸と共にその肩が細かく震える。
黄色い瞳が緑谷を捉えた。
「はじめまして、だね」
緑谷は安堵の笑みを浮かべながら、相手の怪我を気遣う声音で名乗る。
「僕は緑谷出久。ヒーロー名は、デクだ。君は……福州ソロくん、であってるかな?」
濁流で乱れた呼吸を整えながらも、緑谷は覚悟を決めた眼で問いかけた。少年、福州は、濡れた長い髪を絞りながら、諦めたようにため息をつき、かすかに頭を縦に振る。
「……そうだ。俺が、本物の福州ソロ。……ただ、本物だとは言っても、別に…彼を偽物だと、糾弾したい訳ではない……」
その口調にはどこか疲労と諦念が滲んでいた。
こうして見比べて初めて、緑谷は気づく。狐太郎が演じていた“福州ソロ”とは、まるで違っていた。
狐太郎の化けていた姿はどこか舞台役者のように華やかで、声もよく通る。明るさや鋭い目つきが印象的だった。対して目の前の少年は、落ち着いた品のある低めの声で、無表情。前髪は段のある特徴的な切り揃え方で、後ろ髪はふんわりと馬の尻尾のように結われている。
容姿の基礎は似ているのに、まとう空気はまるで別人だった。
「……えっ、と」
喉の奥からようやく絞り出した声は、ひどく頼りないものだった。何と声をかけるのが正しいのか、どこから踏み込んでいいのか。緑谷は頭の中で無数の言葉が渦巻くのを感じながら、必死にその中からひとつを選び取る。
「君は、死んだって聞いてたんだけど……?」
出てきたのは至極当たり前の疑問だった。
だが同時にあまりにデリカシーがないのではと気づいた瞬間、緑谷の顔が青ざめる。12歳の頃に死んだとされた福州ソロと、化野狐太郎が入れ替わった。それがこれまで最も有力な説だった。それでも、当人を前にして言うべきではなかったかもしれない。
「っや、あの!そのっ……失礼かもしれないけど、君が死んだか殺されたかして化野くんと入れ替わったんじゃないかって!それでッ」
慌てて付け足す緑谷に、福州はまるで騒ぎ立てる必要はないと言わんばかりの落ち着いた声で応じた。
「……慌てる必要はない。お前は事実を言っただけだ」
「事実ッ、なのッ!?」
「うん」
淡々としたその返答とは裏腹に、福州の瞳には深い後悔の色が影を落としていた。濡れた前髪の隙間から覗くその目は、光を拒むように沈んでいる。
「……ひとつだけ言っておく。狐太郎は俺に何もしていない。全ては……俺が勝手にやった事。役目を押しつけ、死のうとしただけだ。……結局、それすら満足に果たせず、こうして……生き恥を晒しているのだけれど」
ざあ、と流れる川の音に混じって、福州がジャケットを絞る水音が重なる。雨に打たれて冷え切ったジャケットを強く握りしめるその手は、どこか震えていた。緑谷はそっとその隣に立ち、福州の横顔を見上げる。
光を宿さない瞳。深い孤独を抱え込んだような、重たく沈んだ眼差しだった。福州は、その視線に気づいたようにわずかに視線を落とし返す。
「何だ」
「ごめん、色々と聞きたい事があって……」
「……そうか。まあ、そうだろう。質問があるなら聞けばいい。真実で答える。お前には命を拾われた恩がある。それくらいの誠意は、俺にもまだ残っている。信じられないのなら誓ってもいい。神でも、仏でも、何にでも……そうだな……友にでも、誓える……」
そのフレーズを耳にした瞬間、緑谷の心臓が跳ねた。林間学校の夜、狐太郎もよく似た言葉を口にしていた。
あまりにも重なりすぎる言い回しに、一瞬、目の前にいる人物が狐太郎なのではないかという錯覚すら抱いた。しかし、ふと冷静に考えればあり得ない。狐太郎は空を飛べる。川に落ちるわけがない。ならば、この人物こそ紛れもなく“福州ソロ”に違いなかった。月日を隔てても、親友同士には似るところがあるのか、緑谷は不思議な感覚に包まれる。
「その言葉、化野くんも言ってたよ」
「……狐太郎が、そう言ったのか。覚えていたんだな、あんな取るに足らないことを。……少し、驚いた」
福州は目を細め、口角を少し上げる。その仕草は狐太郎とは全く違う、落ち着いた人物のそれだった。
「僕は君と化野くんが出会った森で何があったのかを知りたいんだ。ユウさんや、化野くん本人から聞いた話を総合すると、こうなるよね。
君は12歳まで無個性だと思われていた。病院に行って無個性だと確定するのが嫌で、家出をした。そうして家出した先で化野くんと出会い、どう言うわけか化野くんが“福州ソロ”として家に帰ってきた。間違いない?」
「……ああ。間違いない。どういうわけかと言うと、その理由は……振り返れば、驚くほど浅はかで、くだらない事だ」
福州は荒れ狂う川を一瞥すると、一瞬だけ表情を曇らせた。その濁った色は、痛みの記憶がよみがえった証のようだった。
「昔の俺は、どうしようもなく愚かだった。少し頭が回るというだけで、何かを悟った気になって、世界を斜めにしか見られなかった。滑稽な事だ。あの頃の俺の浅はかさが、今回の事態を呼び込んだと言っても……誰も否定できないだろう」
「そ、そこまで卑下しなくても……」
「……事実だ。もし過去に戻れるのなら……あの森で狐太郎に会う前の俺を、俺は迷わず斬り捨てる。俺は、あいつの前に立つべきじゃ無かった」
そう言って、腰に差していた刀の柄をゆっくりと撫でる。その手つきは静かだが、恐ろしいほどの決意を孕んでいた。
「個性がないと悟った時……俺は、自分がこのまま家で、何の価値もないまま歳を重ねるのだと思った。それが嫌で……いや、ただ逃げ出したかっただけだ。家族に迷惑がかかるとか、立派な理由をつけて、実際は全部、自分の惨めさから目を逸らしたかっただけなのに。
警察にも、ヒーローにも見つからないようにただ彷徨って……行き場も、目的も失いかけた頃に……森で狐太郎と出会った。それから3ヶ月ほど一緒に旅をした。森を抜け、山を越え、川を渡って、草原を走って……あの時間だけは……そうだな、楽しかったんだと思う」
それを語る福州の顔はどこか柔らかく、色あせない思い出を慈しむように目を細める。
「だが、終わりなんて、いつでも訪れる。俺は元々、どこかで命を捨てるつもりで旅をしていた。潮時だと、勝手に思ったんだ。あの日……狐太郎に、全部話した。価値もない、下らない俺の人生を。そして……身勝手にも、それを彼に押しつけた。俺のフリをして生きてみないか、と……思い返すと、胸が焼けるように恥ずかしい」
「どうして、自分のフリをするように言ったの?」
「……俺は、あいつに同情したんだ。偉そうにも。四足の異形として生まれ……父にも人として扱われず、獣のように育てられた彼に。俺の顔と人生を渡せば……少しは救われると。こんなつまらない人間にも、何かを救う事はできるのだと。そう思い込んで……押しつけた……」
「獣のようにって……どういう……?」
福州は淡々とした声で続けたが、語る内容は想像を絶するものだった。
「……そのままの意味だ。あいつは12年間……一度も、人として扱われていないらしい。最初の2年はペット用の皿のドッグフードか……床に投げ捨てられたジャーキーだけ。腐った臭いの家で……ただ、生きていたと言っていた。
その後の10年は、森で獣を狩り、殺し……腹が減って街に降りれば、ヴィランだと恐れられ、攻撃された。……そんな過去のある奴に、俺は……自分の人生を押しつけた。救ったつもりで……余計な事をした」
福州の言葉は静かだった。だがその静けさは、過去を繰り返し反芻し、罪悪感と後悔で何度も胸を抉られた末にようやく形になったものだった。
緑谷は、濡れた拳をそっと握りしめる。
狐太郎が背負ってきたもの、福州が抱えてきた悔恨。その二つが、冷えきった風の中で重くのしかかってきた。
緑谷は言葉を失った。胸の奥がぎゅっと縮むような、重たい衝撃が体の芯を貫く。心の成長が遅れている。それは確かに感じていた。だが、今聞いた話はそんな次元ではない。狐太郎は遅れていたのではなく、そもそも、人間らしい生のスタートラインに立つことすら許されていなかったのだ。
「……どうせ、俺は死んで消えるはずだった。狐太郎も……獣の姿で街を歩いたせいで、ヴィランとして登録された。だったら……何にでも変身できる彼が、俺として生きればいい。家族も傷つかず……あいつも獣扱いされずに済む。捕まることも……罵られることもない。……きっと、その方がいいと…本気で思っていた。愚かだった」
福州は拳を握りこんだ。
握り込んだというより、何か痛みに抗うように、血が滲み出るほどの力で指先を食い込ませていた。筋が白く浮き出て、関節が軋む音が聞こえそうだった。
「だからだ。……この結末を招いたのは、間違いなく俺だ」
悔恨を押し殺す声だった。
雨粒で濡れた福州の手から、握りしめた血がじわりと流れ落ちる。豪雨で洗い流されても、その赤は決して消えた気がしない。
「無様な話だ。あいつは自分を
「そうだ、そこ……自殺したって言うのなら君はどうしてここに……?」
緑谷の問いは掠れるような声になった。
川の轟音の中でも、福州の静かな声ははっきり響く。
「そうだ。不自然だと思うだろう。生きていたなら、なぜ今まで姿を見せなかったのか、と。答えるよ。俺は……一度、確かに死んだ。今、生きているのは……俺の個性のせいだ」
「個性……?」
「俺は……無個性じゃなかった。ただ……発現に特殊な条件が必要なだけだった」
福州はゆっくりと頭部を指でなぞった。濡れた髪の下、傷跡はないが崖に叩きつけられた衝撃の名残をなぞっているようだった。
「俺の個性は……“天狐”。発現条件は、一度死んで、魂が肉体から離れることだった」
その言葉に、緑谷は思わず息を呑んだ。
個性は千差万別とはいえ、発動条件に死を含むなどあまりにも異常だ。前例は、彼の知る限りたった一つしかない。
個性“アンデッド”。有名な映画だ。少し前にはドラマにもなった。
24歳になるまで無個性だと思われ、周囲から疎まれ、いじめられ、鬱を患っていた青年が、交通事故で頭を強く打って死亡する。だが、それで終わりではなかった。
死をきっかけに、眠り続けていた個性因子が一気に活性化したのだ。霊安室で彼は起き上がった。心臓は停止したまま。血液は循環せず、体温もない。何度検査しても、医学的には完全な死体。それでも、彼は喋り、考え、意思を持ち、自分の名前を名乗った。
それが、映画『アンデッド』の始まりだった。
恨みを糧に、かつて自分を追い詰めた人間たちを次々と殺していくパニックホラー。それが本当に彼本人なのか、個性が死体を操り意思を持っているように見えているだけなのか、それとも死を境に生まれたまったく別の存在なのか。最後まで答えは示されない。個性研究者にも答えは出せなかった。ただ、不気味さだけが観る者に残る作品だった。
最終的に彼はヒーローによって倒され、捕縛された。そして今もなお、イタリアの刑務所に個性“アンデッド”の男は収監されていると語られている。
まさか、あれと同じような現象が再び現実に起きるとは。緑谷は驚きに言葉を失い、ただ喉を鳴らすことしかできなかった。
「崖に頭を打ちつけて、確かに死んだはずだった。だが……次に目を開けた時、俺は白い……大きな狐のような姿になっていた。人であった、という事実だけを残して……あとは、何も覚えていなかった」
「それって、記憶喪失ってこと?」
「……そんなものだ。その後は……唯一思い出せる自分の姿に化けて、当てもなく彷徨っていた。その途中で……小柄な老人のヒーローに保護された」
「それって……グラントリノ?」
「……名は、知らない。聞いたような気もするが……思い出せない」
ヒーロー殺し事件の際、グラントリノは狐太郎が化けていた“福州ソロ”の顔を見て確実に何かを思い出すような反応をしていた。だが狐太郎はグラントリノの事は知らない様子だった。それはつまり、彼が遭遇したのは狐太郎ではなく、本物の福州だったということだ。
靄のかかっていた謎が、今ひとつ繋がる。
「だが、結局……あの場所にも落ち着けなかった。記憶の欠落に耐えられず、混乱して……警察署を逃げ出した。そのまま森に戻り……狐の姿で、ただぼんやりと過ごしていた。
……やがて、バリアントプライドに保護されて、俺は中国の基地で、何も思い出さないまま暮らしていた。
そして、偶然にもタルタロス脱獄のニュースを見た時だ。画面に映った彼を見て……思い出した。記憶にある姿よりひと回り以上大きかったが、それでも確かに、同じ存在だった。
それで……行動を始めた。それだけの話だ」
福州は深く、長く息を吸い込むと、まっすぐに緑谷を射抜く視線を向けた。その光のない瞳には迷いがなかった。
「……緑谷出久。俺は……狐太郎を殺す」
緑谷の心臓が跳ね、全身が固まった。
豪雨が土を叩く音が、急激に遠ざかったように感じる。
「この件の全ては……俺の罪だ」
低く、吐き出すように言って、福州は視線を落とした。雨に濡れた地面を見つめるその目は、光を映すことを拒んでいるように暗い。
「俺の判断が、俺の愚かさが、この未来を生んだ。家族が皆死んだのも……あれほどの死者が出たのも、狐太郎に不幸を招いたのも……原因は、どこまでも俺だ」
言葉とともに、胸の奥に溜め込んできたものが滲み出る。握りしめられた拳の指先が、抑えきれない感情を示すようにわずかに震えた。
最初は会いに行くつもりだった。直接顔を見て、話をして、せめて考えを聞こうと思っていた。まだ引き返せる余地があると、どこかで信じていた。だが脱獄して間もなく、狐太郎は殺しを始めた。あっという間に殺戮は重ねられ、その名は凶悪なヴィランとして一気に広まっていった。もはや話をするなどという段階ではなくなっていた。
捕まえる。止める。説得する。そんな選択肢は、頭の中で何度も検討され、何度も否定されてきた。手加減してどうにかできる相手ではない。拘束できる戦力も、維持できる施設も、余裕も、今の世界にはもうない。
「そんなこと……」
緑谷が思わず言葉を挟みかける。しかしその声は最後まで形にならず、福州はゆっくりと首を横に振った。そして言葉を続ける。
「どんな理由があろうと、どれだけ同情の余地があろうと……犯した罪の責任からは逃げられない。責任は、取らなければならない」
静かに、しかし断定的に言い切ってから福州は顔を上げる。その表情に迷いはなく、揺らぎもなかった。ただ覚悟だけが硬く刻まれている。その覚悟が向かう先が、法でも正義でもなく、友達を殺すという残酷な行為であることを、彼自身が一番理解していた。
かつてなら、ここから先には手順があったはずだった。拘束、逮捕、裁判、刑の決定。だが今の社会に、そのどれもは存在しない。制度は崩れ、秩序は砕け、正義を預かる場所はすでに瓦解している。
「奪った命が多すぎるんだ。生きて償うなんて……そんな都合のいい話は、もう成り立たない。命を奪ったなら、命を差し出して辻褄を合わせるしかない」
「福州くん……!」
緑谷の声が思わず強まる。引き留めたい思いが滲んだその呼びかけに、福州は視線を逸らさない。私刑だ。傲慢だ。法以外、誰にも裁く資格などない。分かっている。それでもなお、放置すれば犠牲は増え続ける。その現実だけが重く、残酷に残っていた。
「彼はもう、許されるかどうかなんて次元にはいない。あまりに多くを殺しすぎた……生きて償う道は、閉ざされてしまった。戻れないところまで行ってしまったんだ……」
言い終えた瞬間、福州は一度だけ目を閉じた。そして目を開けると、重く息を吐き出した。
(……本当は、助ける道があるなら……手を差し伸べられる人間でありたかった)
自嘲気味に、かすかな笑みが浮かぶ。友達を救うという理想を、最後まで捨てきれない自分が、同時にそれを実行できない無力さに沈んでいく。
(そういう選択肢を選べない自分の浅ましさも、弱さも……反吐が出るほど嫌になる。それでも……もう、それ以外の道が見えない)
緑谷は一歩踏み出しかけ、言葉を探すように口を開く。雨に打たれながら、それでも何かを伝えようとする。その姿が、福州の視界の端で揺れた。
「それでも……それでも僕は……ッ」
「だから、俺が終わらせる」
福州は、その言葉を遮るようにはっきりと言い切った。
「どんな手段を使ってでも。これ以上、彼が罪を重ねる前に……俺が、手を下す」
その声には一切の揺れがなく、迷いを断ち切った刃のような鋭さがあった。正しいとは思えない。それでも、やるしかない。
そもそも狐太郎はもはや大量殺人者だ。どれほど苦しみがあろうと、どれほど歪んだ過去を背負っていようと、積み重ねた死は消えない。友人だったという理由で特別扱いすることは許されない。
狐太郎の犯した殺人は、死柄木弔やトガヒミコ、荼毘のものと何が違うというのか。彼らもまた、それぞれの理屈と痛みを抱えながら、決して越えてはならない線を踏み越えた存在だ。社会が許されざるヴィランと断じたのは、彼らがもたらした結果によるものだった。
狐太郎ももう同じ場所に立っている。
もう救われなかった被害者ではいられない。幾つもの命を奪い、恐怖と死をばら撒いた以上、彼は紛れもなく加害者だ。もしここで情に流れ、友だからと手を緩めれば、それは次の犠牲を見過ごすことと同義になる。だからこそ、終わらせなければならない。それがこれ以上犠牲者を増やさないための、唯一残された選択だった。
「……今の俺には、それ以外に生きる理由はない。やり遂げたら潔く腹を切る。それでようやく……筋が通る」
そう言うと福州はポケットから何かを取り出し、ひょいと緑谷へ放ってよこす。緑谷は慌てて両手を伸ばし、かろうじてそれをキャッチする。カプセルに収められたそれは、非常に小さな金属片のような機械だった。
「……それはお前に渡す。バリアントプライドの研究の成果だ。奴らの思想は……異形型以外に個性を持つ資格はない、というもの。それを体内に取り込めば……排出されるまで、個性は使えなくなる。
……できれば関わらない方がいい。お前には他にもやるべきことがあるはずだ。これはお前達を誘う罠かもしれない。だが……もし、それでもお前達があの連中と接触するのなら……気をつけることだ。強力な爆弾や、個性に関するような危険な兵器を…大量に開発しているから……」
顔を上げたときには、福州は森の奥へ進み出していた。
「あ!待って!」
伸ばした手に応える影はもうなかった。
福州の姿は、雨と霧と森の闇に溶けるように消えてしまった。幻だったのかと錯覚するほどに跡形もない。
緑谷は雨に打たれたまま、しばしその場で呆然と立ち尽くした。やがて、震える手を胸元に引き寄せ、強く握り締める。
「絶対、止めないと」
そう呟き、緑谷は急いで仲間達の元へと向かった。