明香島は、ただの観光地ではない。空から見ればひと目でわかるほど、島全体が濃い緑に覆われている。海岸線だけが名物ではないのだ。広大な平野、その境目に広がる深い森、いくつもの川が縦横に走り、切り立つ崖が風に削られながら荒々しい表情をつくっている。さらに奥には人の手が入っていない草原が広がり、大自然の息吹がどこにいても肌に触れてくる。
雨が降るその広大な森の中を、緑谷と福州は濡れ鼠のようになりながら進んでいた。助けを呼ぼうにも、森の奥地では携帯も無力だ。画面には圏外の文字が虚しく灯り続ける。
空から容赦なく降りつける雨は葉を叩き、土を打ち、川のように流れていく。森の匂いも雨に濡れ、土の湿気が重くのしかかるようだ。
緑谷がいつまでもひとりで彷徨うわけにはいかない。だからこそ、福州の案内で森を突っ切り、爆豪やオールマイトたちがいるホテルまで直線距離で戻る決断をしたのだ。
「……あ、あのさ……腕、大丈夫?」
歩きながら、緑谷は福州の左腕に視線を落とす。噛みちぎられたその傷跡は、見るだけで胃が縮むような凄惨さだ。雨粒が血と混ざって流れ、地面に赤い筋を描く。想像もつかない激痛のはずなのに、福州は弱音ひとつ吐かず歩き続けている。それでも、彼の顔色は驚くほど悪い。血の気がなく、雨でわかりにくいが脂汗が滲み出ている。
「……大丈夫だ。応急処置くらいは……できる」
そう言うが、平気なはずがない。緑谷は思わず福州の腕を見る。札が幾重にも貼り付けられ、厚く覆っている。止血と固定のためだと分かっていても、痛々しさが隠れない。
「複雑な個性なんだね。幻覚見せたり、変身したり、炎とか風とか、色々使えるし」
「大まかにいえば……神通力や霊能のようなものだ。生命力を、様々な現象に変換する……」
「せ、生命力!?腕噛みちぎられた後にそんな事したらまずいんじゃないの!?」
「勘違いするな。俺の生命力じゃない……。……他人から吸い取った力を、俺が札に溜め込んで……それを使っているだけだ」
「なるほど、あの札って言ってしまえばサポートアイテムなのか……すごい個性だな……」
「今は、止血と治癒に使っている……残りは少ないが、まだ…なんとかできている……」
重傷だと焼け石に水程度にしかならないが、なんて言葉は言わずに飲み込む。
緑谷は、いつもの癖でぶつぶつと福州の個性の仕組みを分析し始める。だが、福州の表情はどこか曇っていた。どれだけ“すごい”と言われても、胸は重く沈むばかりだ。家族を喪い、友は悪の手に落ち、自分の無力さだけが積み重なっていく人生だ。胸の奥が熱を持ち、重く沈む。泣きたくなるほどの後悔が、喉までこみ上げる。
そもそも、自分という存在すら信用できない。頭骨が砕け、一度自分が確実に死んだのは間違いない。では、今こうして考えている“自分”は何なのか。生前の“福州ソロ”と同じ存在なのか。それとも記憶だけを引き継いだ、まったく別の“福州ソロ”なのか。あるいは死んだ肉体を、個性が動かしているだけなのか。どれが真実なのか、まるで分からなかった。スワンプマンという思考実験があるが、今の福州はまさしくその“スワンプマン”になった気分だった。
(俺は……俺のことすら分からない……なんて情けない……)
だが、立ち止まる余裕などない。何が正しくて、どうするべきなのか、その答えはまるで見つからない。それでも、殺戮を続ける友を止めることだけは正しいはずだと、自分に言い聞かせて進むしかなかった。福州は大きく息を吐き、雨に濡れる空を見上げた。
「……そういえば、さっきは何故個性を使わなかった」
「何と言うか、使おうとは思ったんだけど」
「まさか……」
「その、まさかなんだ、多分。個性が使えなくなっちゃってて」
緑谷がそう口にした瞬間、福州の足がぴたりと止まった。大きく見開かれた両目に、雷撃のような衝撃が走ったのが分かる。次の瞬間には、嘘みたいに肩が落ち、気配が沈んでいった。
「……取り込んだ、のか。あのチップを……。俺が……もっとはっきり伝えていれば……こんなことには」
「い、いやいやいや!君は何も悪くないよ!」
緑谷が慌てて遮るが、福州はその声を真正面から受け取らない。ただ奥へ奥へ、暗がりへ沈むように小さく首を振った。
「……俺のミスだ。お前に警戒を促すつもりが……結局、曖昧な渡し方しかできなかった……」
「違う違う!僕のミス!多分ウェルカムクッキーかな!?あれを無警戒に食べちゃったせいだと思う!危機感知の個性が発動しなくて……!」
「危機感知……そうか、渡したスタッフは…部外者だから…悪意など抱くはずがなかった、というわけか……」
「そう!つまり僕のミスだから、そう凹まないで!」
必死の弁解も、福州の落ち込みの速度には追いつかない。
「……お前が友を追うなんて、少し考えれば分かったはずなのに……この島に入るなら何も食べるな、怪我にも気をつけろ、と…そう伝えるべきだった。それすら思い至らず……薄っぺらい説明しかできなかった。……俺の至らなさだ……」
「ほ、本当に君のせいじゃないんだってば!美味しいですよってニコニコ差し出されたから、つい食べちゃって……実際すごい美味しかったし……!」
「……クッキーの味はどうでもいい」
ぽつりと落ちた福州の声は、雨音よりも冷たく沈んでいた。
「状況を判断できる材料を……俺はきちんと渡さなかった。……そのせいで状況は、非常に不味い」
そこで言葉を切り、乾いた笑いも浮かばない表情で続けた。
「いや……本当に不味いのは……俺の方だな。本当に、無能で……」
雨粒が地面を叩く音の中に、福州の声だけが虚しく響いた。
食べたクッキーに個性因子を抑えるチップが入っていたのだと分かった以上、それさえ排泄できれば個性は戻るのではないか?緑谷が励ましつつそう尋ねると、福州は深くため息をついた。
「……素人が思いつく程度のことを、開発者が考えないはずがない。このチップは……自然には出ていかない。取り除くなら……手術か、特別な破壊装置を使うしかない。どちらにせよ、お前に負担が掛かることになる」
福州は困ったように首を振り、これからどうするべきかをポツポツと語り出す。口調や声音、勢いこそ違う。それでも当たり前だが、彼の横顔はどこか雄英の頃狐太郎を思い出させる。話し方や性格、表情も全然似ていないはずなのに、不思議な物だった。緑谷はつい感慨深くなってしまう。すると、福州はじとっとした目で緑谷を見る。
「……その目は、やめてくれ」
「ご、ごめん。なんというか、懐かしい気持ちになっちゃって」
「すまない……話が長かったな……」
「ち、違うよ!そう言う意味じゃなくてッ」
福州がまた凹んでしまい、緑谷は慌てて手を振った。化野が口にしていた昔の友達という言葉。唯一無二、親友とまで語っていたその存在が福州であることは、言われずとも分かっていた。初めて出会い、たくさん話した相手。影響を受けたのであろう相手。それがこの福州なんだと思うとなんだか感慨深くなってしまったのだと緑谷はそれを素直に伝えただけだったが、福州は複雑な表情でため息を洩らす。
「昔の俺は……本当はそこまでお喋りと言う訳ではなかった。ただ……知っていることを並べて、自分に価値があるふりをしていただけだ。無意味な努力の果てに手に入れた、取るに足らないくだらない知識を、ペラペラと話した……。褒めてくれたのは……狐太郎くらいだったから。嬉しくて……必死で喋っていた。空っぽなままなのに。……惨めな話だよ」
福州は自嘲気味に微笑むが、その声音には確かな疲労と後悔が滲んでいた。自分で言いながら胸が痛んでいるのが伝わる。
「でも、分かるな。その気持ち……」
緑谷がぽつりと呟くと、福州の表情がすぐさま鋭くなる。
︎「……お前が、俺の気持ちを?雄英の……ヒーロー科で、人の希望みたいなお前が。……そこまで、気を遣わなくてもいい。俺にそんな価値はない」
後ろ向きなその口調に、化野とは全然似ていなくて、緑谷は冷や汗をかく。顔がそっくりなのにこうも真反対だとなんだかから回ってしまいそうだ。
「ううん、本当に分かるんだ。僕も、無個性だったから」
その言葉は、雨の匂いを含んだ空気の中で重く落ちた。福州は歩みを止め、振り返る。驚きで目を見開き、すぐに視線をそらす。その横顔は気まずげだった。
「僕もさ、無個性だって診断された時、暫くは諦めきれなくて何か個性が出ないかって足掻いてた。でもやっぱり何もなくて、それでも何かしていたくて、ノートにヒーローの分析を書き続けてた。どうしてもヒーローになりたくて。
だから、誰に何を言われようと、何をされようと、頑張り続ければ何とかなるって……なるはずないのに、目を逸らして無意味な努力を続けてたんだ」
静かな雨が地面を覆い始め、その音が緑谷の声の迷いをさらに際立たせる。
「……努力に、無意味なんて事は、本来はないのだろう。昔のお前の努力は、今のお前の糧になっている」
「ありがとう。ただ、僕は運が良かっただけだ。恵まれてただけなんだよ。それに、僕のこれが無意味じゃないのなら、君の努力だって無意味じゃないよ」
緑谷の言葉に、福州は目をゆるりと上げ、「……励ましているのか?俺みたいな人間を」と困ったように目を逸らす。
「気にしなくて、いい。俺は……そういう言葉を受け取る立場じゃない」
「でも、君はずっと何かを後悔してるみたいだから……」
「気遣いには、感謝する。でも…大丈夫だ。後悔しても……取り返せるものは、何ひとつない。だから俺は、振り返らない。これからの……終わらせ方だけを考えている」
雨脚が少し強まり、湿った土の匂いが濃くなる。福州は前を向いたまま、芯のある声で続けた。
「やっぱり、化野くんを殺すの?」
「うん」
「僕は……助けたいよ。君に友達を殺させたくないし、友達に死んでほしくないし……」
「もう遅いよ」
福州の声は、今まででいちばん冷たかった。だがその背中は、ひどく悲しげでもあった。
「何もかも……遅かった。俺がもっと早く個性に目覚めていれば。もっと早く、記憶を取り戻していれば。もっと早く狐太郎と再会できていれば……。きっと違った。何もかも……」
福州はポケットに手を差し込み、拳を固く握った。
その横顔には深い陰りが落ちている。
もっと早く、狐太郎と出会う前に死んでいれば。そんな最悪の後悔まで脳裏をかすめたのだろう。思考の奥に渦巻く自己嫌悪と喪失感が、痛いほど伝わってくる。
しかし、彼は首を振り、その弱さを無理矢理押し込める。
「でも、もう遅いんだ。狐太郎はオールフォーワンの元につき……何人も、殺した。戻る道は……もうない。過去は消えないのだから……。それなら、これ以上彼が罪を重ねる前に……俺が終わらせるしかない。それだけが……俺に残った最後の役目だ。その為なら、何だって…やる……」
福州は静かに振り返る。
雨で濡れた髪が頬に張りつき、伏せた眉が影をつくる。
泣いているようにさえ見えた。
「福州くん……」
「……ごめん、緑谷。俺は、お前の友達を殺す」
その宣言と同時に、森の陰から黒い影が一斉に襲いかかってきた。
黒いマントを羽織った異形の男たち。雨を切り裂く殺気と、土を蹴り上げて迫る重い足音。濁った気配が一気に周囲を満たし、空気が歪んだように冷たくなる。
戦いが、避けようもなく幕を開けた。
「……しつこい」
その言葉と同時に福州が札を叩きつける。濡れた空気が爆ぜ、暴風のような竜巻が地を抉る勢いで巻き起こった。バリアントプライドの男たち3人は抵抗する間もなく風に呑まれ、雨粒と共に荒々しく宙を舞い、木々へ叩きつけられて転がった。
福州は泥に片足を沈めつつ、迫りくる5人の異形へと静かに視線を向ける。濃い雨脚が戦場のように音を立て、空気が一気に張り詰めた。
最初の1人が獣のような勢いで飛びかかった。
福州は一歩、たった一歩だけ前へ踏み込む。それだけで間合いが決まり、右腕が喉元へ深々と打ち込まれた。肉が震え、鈍い衝撃音が雨に掻き消え、その影は濡れた地面に崩れ落ちる。
続いて2人目が背後から襲う。振り返ることなく福州は身体を滑らせ、肘を容赦なく顎へ叩き込んだ。骨が軋む嫌な音。男の体勢が崩れたところで腹を容赦なく蹴り抜く。その苦鳴が出る前に、3人目のヴィランが距離を一瞬で詰めた。その男が腕を刃のように変形させ振り下ろす。だが、そこへ緑谷が割って入った。
「ッ!」
緑谷の体に力がこもる。男の重い腕を受け止め、勢いを利用して投げ飛ばした。地面に叩きつけられた衝撃で泥水が大きく跳ねる。そして、残る2人が同時に迫った。福州は懐から札を抜き、雨に濡れた空気に散らす。次の瞬間、火花が弾け、異形たちは動きを鈍らせた。
その隙を福州は逃さない。
泥水を蹴り、真っ直ぐ踏み込むと、回し蹴りが渾身の力で側頭部に叩き込まれた。骨が大きく揺れる嫌な手応えとともに横倒しに沈む。最後の1人は、恐怖に顔を歪めながらじりじりと後退した。背を向け、走り出そうとする。援軍を呼ぶつもりだ。
「逃がさない」
福州はその足元へ刀を投げつけた。足に絡まって転んだ男の元へ駆け寄ると頭部へ迷いなく踵を落とす。地面に深く、重い音が響いた。
あっという間に、バリアントプライドの連中は沈黙した。
すぐに息を整えた福州の視線は別の方向へ向く。濡れた睫毛の奥で瞳が鋭く光り、こちらへ駆け寄る新たな兵士を捉えた。そして、千里眼が捉えたその奥、バリアンとプライドの信者の女とぱちりと視線が合った瞬間。福州の身体がびくりと硬直した。石のように動けなくなる。
(しまった、遠隔で攻撃を受けた)
危険を即座に理解し、千里眼を解除する。だがその刹那、地面が低く唸るように震えだした。
「ッ、緑谷!」
「福州くんッ!」
轟音と共に地面が破裂した。
大地が裂け、崖がむき出しに姿を現す。まるで足元の世界そのものが引き千切られたようだった。崖からここまで、一気に砕かれたのだ。
土煙の向こうから巨大な異形たちが姿を現した。
トゲに覆われた怪物、トカゲのような硬い外皮を持つ異形。「邪魔者は消え去れ!!」と咆哮し、襲ってくる。
しかし、そちらに気を割く余裕はなかった。
緑谷の足場は完全に崩れ落ち、彼は今にも崖下へ落ちる。個性を使えない今の緑谷では、落下の衝撃に耐えられず、確実に死ぬ。
「ッ……!」
福州は迷わず自らの変身を解いた。人間の姿では間に合わない。霧のような靄が彼を包み、たちまち姿が変わる。
白い四肢……いや、三本の脚。しなやかながら強靭な体躯。筋肉の隆起に沿って走る藤色の紋様。細長く鋭い頭部に、金色の細い双眸。背から尾へ流れる長い毛は炎のように逆立ち、複数の巨大な尾が扇のように広がった。尾の内側もほのかに光り、霧の中に神秘的な熱を灯している。
この変身は、個性が使える限りは決して勝手には解けない。どれほど傷つこうと、疲れようと問題ない。千切れた部位でさえ、人に化けていた形のまま留まり続ける。望まぬ限り、戻ることも、解けることもない。それほどの完成度の変身。元の姿を人にはあまり見られたくなくて、人間の姿をここまで自然に保てるようになるまで、たくさん試行錯誤を重ねた。
そして今、その変身を咄嗟に解いた。誰かを助けるためにこの姿に戻ったのはこれが初めてだったが、迷いはなかった。そんな事を考えるよりも先に、咄嗟に体が動いたのだ。
福州は崩れ落ちる岩の上を駆け、跳び、滑り、緑谷を追う。そして、落下する緑谷をなんとか咥えて捕らえた。牙で傷つけぬよう慎重に咥え、爪を崖へ突き立てる。斜面を滑り落ちながらも、必死に踏ん張り、その体重を支えた。
「福州くんッ」
崖下へ落ちていく途中で救い出され、緑谷は安堵で喉を震わせ、思わず声を上げた。助けてくれてありがとう。そう言おうとして顔を上げたが、その言葉は息と共に消えた。
福州の白い背に、大きな槍のようなものが何本も突き刺さっていた。雨で濡れた白毛の隙間からは、刺さった箇所がじわりと赤黒く滲み、雨水と混ざって細い筋となって背中を伝い落ちていた。緑谷を助けるために、攻撃を避ける時間すら惜しんだのだ。
福州は近くの岩壁の陰にできた大きな洞窟のような窪みを見つけると、痛みを堪える気配も見せず、緑谷の襟首を咥えたまま跳び移り、そこへそっと、だが急ぐように放り込んだ。
「……お前は人類の希望なんだろう、緑谷。なら……ここで死ぬわけにはいかない。アイツらは……俺が片付ける。お前は、そこに隠れていろ」
「ま、待ってッ!」
伸ばしかけた手は空を掴む。呼び止めた声がかき消されるほどの勢いで、福州は崖を蹴り、あっという間に上へ駆け上がっていった。雨を切り裂くその動きは軽く、鋭く、それでいて背に突き刺さった槍の異物感が痛々しいほど鮮烈に見えた。
追いかけたい。だが今の緑谷には、その力がない。個性が使えない身体は重く、思うように動かない。ここで足を引っ張るわけにはいかない、と自分に言い聞かせ、緑谷は洞穴の奥に身を縮めた。
(……無個性)
かつての当たり前が、いまは何よりも牙を剥く。
力がひとつもないという現実が、これほど心許ないものだとは。
上から断続的に響く戦闘音。石が砕け、金属のような音が弾け、誰かが何かを叩きつける鈍い衝撃が大地を震わせる。雨音に混じるそれを緑谷は耳鳴りがするほど集中して聞いていた。
心臓はゆっくり落ち着くどころかひどく強く打ち、落ち着きは遠のくばかり。福州はもともと重傷だった。そこへあの背中の傷。まともに戦えるはずがない。
(かっちゃん……轟くん……)
名前を心の中で呼ぶだけで、胸がひどく痛むほど心細かった。
息を深く吐き、震える手を膝の上で握りしめた。
* * *
10分、20分と、永遠のように長い時間が過ぎたころ。戦闘の音が、ふっと途切れた。
「福州くん!」
反射的に声が出て、緑谷は立ち上がった。視線を崖上へ向ける。しばらくして、荒れ狂う雨の中から人影がひとつ、勢いよく降りてきた。
「ぇ……」
泥水が跳ね、視界が揺れる。
降りてきた返り血まみれのその影は、肩に人の姿に戻ったらしい福州を担いでいた。
「か、かっちゃん……」
「デクテメェッ!何処ほっつき歩いてんのかと思ったらこんな森に潜んでやがって……面倒かけんじゃねー!」
吐き捨てるような言い方と荒い足取り。だがその声を聞いた瞬間、緑谷は気づいた。胸の奥が違和感で満ちていく。
「化野……くん……?」
「はぁ!?俺の何処が煽りカスだっつーんだよ!目ン玉腐ってんのかァッ!?」
緑谷は首を横に振る。確信は揺らがない。
「化野くんだよね」
断言した途端、爆豪の姿をしたその男は動きを止め、無表情に近い顔のまま片眉を下げ、次いで口角を吊り上げた。爆豪が絶対にしない表情。そして、そもそも爆豪の戦い方でこのように返り血まみれになるはずもない。だからこそ、わかった。
「また俺様の事を見抜くとはな。声も、目玉の色も、関節の数も、全部合ってるハズなのに、何でわかったんだよ緑谷出久」
「かっちゃんは、もう僕のことをそう言うふうにデクって呼ばないんだ」
「マジかよ!そりゃ知らなかったわ!仲直りでもしたのか!?あっはは、丸くなったもんだ!」
爆豪はもう、蔑称としてデクとは呼ばない。そう伝えると、狐太郎は爆豪の姿のまま、嘲るように笑った。そして気を失った福州をそっと下ろすと、崖の外を眺める。その背には戦いの痕跡が残り、ゆっくりと呼吸するたびに肩がわずかに揺れた。
そして、このまま何も言わず去ってしまいそうな気配を感じた緑谷は、彼が動くより先に呼びかけた。
「ねぇ、少し僕と話さない?」
「……なんだ、俺とおしゃべりがしたいのか?」
「うん、君と話しがしたいんだ」
そう言うと狐太郎は爆豪の顔でニヤリと笑い、今度は麗日お茶子に姿を変えて見せた。濡れた地面に寝転がり、手の甲に顎を乗せてニヤニヤ笑う。
こっちの方がアガるだろ?と言わんばかりの挑発。
緑谷が気まずそうに視線を逸らしながら「麗日さんとじゃなくて君と話がしたいんだ」と伝えると、狐太郎は舌打ち混じりに笑い、「わかったわかった、その退屈そうな顔をやめろ」と言って姿を変える。今度は学園時代のソロの姿。しかし緑谷の表情がまた曇る。
「ったく、お前ってやつは……」
狐太郎は肩を竦め、雨の中で形を再びゆがませ、以前見せた赤黒い髪の少年の姿へと落ち着いた。
「その顔は?」
雨の滴を受けながら、緑谷は狐太郎の変化した容姿をまじまじと見つめた。
「これか?これは俺の両親の顔をAIに読み込ませて作った推定化野狐太郎くん人間の姿(15歳)だよ。両親は美形だし、俺様も面整いだぜ」
自慢げに頬へ指を当てながらクルッと回ってみせる狐太郎。その仕草が妙に人間くさくて、緑谷は戸惑いながらも小さくうなずいた。
「そ、そうなんだね」
「それともこっちの方がわかりやすいか?」
ふいに狐太郎の肌が暗闇を吸い込むように黒く染まり、髪は白へと変わった。それは脳無と同じ色合いで、洞窟の中に立つその姿は異様な不気味さを孕んでいた。緑谷の背筋にざわつくものが走り、胸がひやりと冷める。
「……さっきの方が、いいと思うよ」
遠慮がちにそう言うと、狐太郎は肩を竦めて「はいはい」とでも言うような仕草で元の姿へ戻った。
「というか、俺様と話がしたいってんならコレか」
次の瞬間、彼の体がぐにゃりと歪む。骨が軋み、肉が膨張するように形を成す。雨の降り注ぐ洞穴前に立ったのは、赤黒い怪物の姿だった。
巨大な獣の異形。全身の筋繊維が脈打つようにわずかに震え、尾が地面へ叩きつけられるたびに湿った土が飛び散る。金色の眼光は鋭く、だがどこか楽しげですらあった。
怪物の喉奥から響く声は低く、石を擦るように重い。
「それで、何が話したいんだよ。少しなら付き合ってやる。俺様おしゃべりって大好き」
緑谷は喉を鳴らし、落ち着いているふりをして口を開いた。
「そうだね……まずは自己紹介からしようか、僕は緑谷出久」
狐太郎はきょとんと首を傾げ、巨大な影が揺れる。
「知ってるけど?」
「君は?」
「俺?今更?俺は化野狐太郎様だ」
「そう、そうだね。君は福州くんでも、脳無でもない。僕たちのクラスメイト、化野狐太郎くんだ」
緑谷がそう言ってうなずくと、狐太郎の目が怪訝そうに細くなった。やっと名前を直接聞けた。ただそれだけのことなのに、緑谷の胸の奥がじんわり熱くなる。しかし狐太郎自身はまるで気づいていない様子だった。
「……それで、何が聞きたい?スリーサイズとか?好物とか?それとも服の趣味とかか?」
「じゃあ、それから話そうか」
即答され、狐太郎は怪物の顔のまま目を丸くした。
そして巨体の頭部を少し傾け、口元を愉快そうに釣り上げる。
「へぇ、初めて聞かれたぜ。俺はねぇ、体高は420センチあるんだぜ。体長は12メートルくらいかな?」
「お、大きいね!わかってたけど。僕なんか166しかないのに」
「ちなみに体重は11トン」
「じゅ、11トン!?11トン!?」
「デカいだろ?まあでも、ティラノサウルスよりは重いけどクジラよりは全然軽い程度なんだよな。生物No. 1ではないんだ、残念残念。でも超デカいだろ!あはは!ウケる!」
「確かに、雄英のあのドアでも通れないわけだ」
横から振る雨に濡れた地面に反射する巨大な影を見上げながら緑谷が呟くと、狐太郎は尾をぶん、と揺らした。湿った空気を切る風圧が、緑谷の髪をふわりと揺らす。
「……僕はさ、ヒーローの事を分析するのが趣味なんだ」
「根っからのオタクだな」
「まあ、そうだね。動画を漁って、いろんなヒーローの情報を集めて分析するのが僕の趣味。君は?」
巨大な怪物は、空を見上げるように顔を持ち上げた。降り落ちる雨粒がその硬質な皮膚に弾ける音が、やけに静かに響く。
「俺の趣味……」
一拍置き、低い声で続ける。
「馬鹿みたいな返事になるけど……楽しい事をやる事、だな」
「と、言うと?」
「知っての通り俺様って野生児だから、お前らが当たり前に体験してきた事を何も知らないんだよ。だから、その辺のことを体験して遊ぶのが趣味。美味いもの食って、ゲームして、色んな人とお喋りして……俺が楽しいと思うことをやる。まあそんなんかな?」
怪物の姿のまま、どこか遠くを見るように話す。
「びっくりしたぜ。インターネットの人達って結構ちゃんと俺の言葉に返事してくれんだもん。俺様文字打つの苦手だけど色んなスレッド読んで話して、人との話し方勉強したんだ。ソロとしかちゃんと話した事なかったから」
その言葉に宿る孤独を、緑谷は敏感に感じ取った。
趣味と言うにはあまりに胸が痛む背景が透けて見えて、自然と眉が下がる。狐太郎はそんな緑谷の顔などお構いなしに、獰猛な笑みを浮かべた。
「まあでも、今一番楽しいのは蹂躙だな」
「それはやめた方がいいと思う」
緑谷は即座に言い返した。だが狐太郎は顔色すら変えない。
「やめて欲しいのなら俺様を殺さないとな。俺様は死ぬまでやめないぞ。楽しいからな。楽しい事をやるのが好きだ。俺はいつでも、その時その場でやりたいと思った事をやるだけだ」
冗談とも本気ともつかない口調で言い、長い牙を見せて笑った。
「それで、次の質問は好物か?俺は熊肉が好きだ」
「熊肉は食べたことないな。僕はカツ丼が好きだよ」
「俺もカツ丼好きだぞ。カツ丼というか、肉全般は好きだ」
湿った岩肌に雨音が反響する静かな空間で、緑谷は狐太郎と向き合って初めて“彼自身”の話をした。服の好み、好きな番組、学校で過ごした日々の話。話していくうちに、緑谷は悟る。
狐太郎は、バケモノなんかじゃない。
ちゃんと喜び、笑い、興味を持つ、“人間”なんだと。話せば話すほど、彼は確かに1人の少年としてそこにいた。