お狐フレンズ   作:佐倉シキ

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閑話


アンハッピークリスマス

 

 

 

もう昔の、冬の頃だった。

透き通るように冷たい空気が公園の木立の間をすり抜けるたび、枝に纏わりついた細かな霜がかすかに震え、音を立てていた。白い息がゆっくりと溶けていく静かな景色は、どこか凛としていて、胸の奥まできゅっと冷えるような寂しさを帯びていた。

 

だが、その静寂とは裏腹に公園には暖かな灯りが点々と散らばっていた。小さな光がひとつひとつ脈打つように瞬いている。

 

日が暮れてきた頃、世界はすっかりクリスマスの色合いに染まっていく。紺色の夜空に並木道に吊るされたイルミネーションがぱちぱちと明滅し、雪のように白い光が園内を淡く照らした。

 

広場の中央には大きなクリスマスツリーが堂々と立ち、赤と金色のオーナメントが風に揺れては光を返す。手を繋いで駆けていく子どもたちは頬を真っ赤にしながら「サンタ来た?」と弾む声を上げ、積もり始めたばかりの雪の上に、小さな足跡をぽんぽんと刻んでいく。その横では、大人たちがマフラーを整えながら微笑み合い、紙袋から漂う甘い香りが、冷えた空気の中でゆっくりと混ざり合っていた。

 

福州は、その光景をぼんやりと眺めていた。

 

「はぁ……」

 

リュックには抱えきれないほどの荷物を詰め込み、肩が落ちるほど重い。白く染まった息がふわりと舞い、寒空の中へ散っていく。12歳になったばかりの夜、福州は視線を空へと投げ、胸の奥で絡まった思い出へそっと手を伸ばすように、過去へ想いを馳せていた。

 

 

 

   *   *   *

 

 

 

この世界が不平等なんだと気づいたのは、齢4歳の時だった。

 

この世界には“個性”と呼ばれる力が存在している。

それは超常の力……火を噴く者、身体が怪物のように変異する者、魔法めいた現象を起こす者。ただ物を少し浮かせる程度のものもあれば、扱いきれないほど強大なものもある。

 

能力の種類は千差万別。そして、この世界の人々の8割がその“個性”を持っている。

 

幼い頃、福州も自分にどんな個性が発現するか、胸を躍らせていた。姉のユウに向かって、ほぼ毎日のように「どんな個性が出ると思う!?」だとか、「僕もユウちゃんみたいに変身する個性がいいなぁ」と夢や希望を抱えながら話していた。共にヒーローになり、コンビになろうと夢想した事もある。オールマイトの真似をしてポーズを決めたり、ヨロイムシャの真似をしてプラスチックの刀を振ったりと、楽しく過ごしていた。

 

だが3歳を越え、4歳が近づいても、福州に個性が現れることはなかった。

姉のユウが初めて個性を使ったのは、4歳になる少し前のこと。それでも彼女は3歳の秋には検査を受け、レントゲンで足の指の関節を調べてもらっていた。

 

昔、こんな研究結果が発表されたらしい。

足の小指に関節があるかどうか。

不要な部分は退化していく。小指の関節は本来必要ない。つまり関節がない人のほうが新しい型であり、個性を持つ確率が高い。反対に、関節がある人は個性を持たない古い型だという診断だ。

 

4歳。誕生日であるクリスマスの朝。

ようやく時間が取れたらしい母に連れられ、福州は病院へ検査に向かった。

 

胸が弾けそうなほど緊張し、汗ばんだ手を落ち着けることもできない。もし無個性だと判断されてしまえば、その瞬間に自分の夢が全部終わってしまう。幼いながらに、そんな現実が喉につかえて離れなかった。

 

個性がないというだけで、この超常社会では致命的なハンデとなる。隣に座る母の目はどこか冷たく、福州は待合室で顔を上げることすらできなかった。

 

検査の結果、福州の足の小指には関節がなかった。個性はある可能性が高いと判断され、その瞬間は胸を撫で下ろした。だが、

 

「まあでも、たまに関節がなくて個性が出ないって人もいるから、そのまましばらく経っても個性が出なかったら個性因子があるかどうかの検査をしたほうがいいかもね。検査は別にしなくてもいいけど、10歳までに出なかったら無個性だと思っていいと思うよ」

 

医者のその言葉だけが、なぜか耳の奥でいつまでもこびりついて離れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、その通りになった。

 

周囲の子どもたちは、まるで当たり前の事ように小さな光を灯し、ふわりと軽く浮遊してみせ、指先から氷や火花を散らして遊んでいた。だが、その輪の中で福州だけはどれだけ手をかざしても、何をしても、何も起こらなかった。

 

当時の大人たちは、それでもまだ楽観的だったらしい。「個性の発現が5歳頃まで遅れることもあったらしい」「遅咲きの子だっていない事はない」そんな言葉を、祈るように繰り返しながら少年を見守り続けてくれた。福州自身も、いつか自分の中にも何かが芽生えるのだと、本気で信じていた。

 

最初の2年間は、確かに望みが残っていた。

周りの子どもたちの真似をして手を前に突き出してみたり、全身に力を込めてみたり、寝る前には布団の中でそっと願ってみたりした。ある日突然、目覚めると世界が変わっているかもしれない。そう信じて、何度も夜を越えていった。

 

しかし、6歳になる頃には家族も教師も、近所の人々も、誰も口には出さないだけで皆が同じ答えにたどり着き始めていた。

 

──ああ、この子は無個性なのだ。

 

その現実は、まるで冷えた刃のようにじわじわと彼の胸に突き刺さっていった。周囲の理解が固まっていくほど、福州は必死に何かを起こそうとした。息が切れるまで呼吸を止めて集中したり、危険を伴う事をして自分を追い込んだり、映画の主人公を真似して無茶を続けたり。胸は痛み、呼吸は焼けつくようになっていくのに、それでも世界だけが何一つ応えてくれない。

 

「何も出ないのに何やってんのー?」

「無個性マンだ!無個性マン!」

「ほんとにないのー?ショボいから隠してんじゃないの?」

「ショボいどころか無いんだよコイツ!」

 

くすくすと笑い声が重なる。氷の欠片を浮かせた子が、わざと福州の目の前でそれを弾き、火花を散らした子が得意げに指を振る。その光が、まるで見せつけるように福州の視界を埋め尽くした。

 

「こうやるんだよ!」

「ギュッて力入れたら個性でるよ!やってみて!」

 

無邪気な声色が、逃げ場のない刃になる。福州は何か言い返そうと口を開いたが、言葉が喉に詰まり、音にならなかった。胸の奥がざわつき、焦りと悔しさで呼吸が浅くなる。

そこへ教師が歩み寄り、集まった子どもたちと福州を見比べて言った。

 

「ほら、無個性の子もいるんだから、あまり比べないようにしましょう!ダメだよ!そういうのは!」

 

その一言で、視線が突き刺さる。

 

「やっぱり無個性なんだ!」

「じゃあヒーローにはなれないねー」

 

そんな彼に教師が歩み寄り、福州の手元を一瞥して、何気ない調子で言った。

 

「無理に出そうとしなくていいんだよ!個性がない子も探せばいるからね。そういう子は、できることを別で見つければいいんだよ。別にヒーローだけが世界の全てじゃないし!ほら、お巡りさんとかもかっこいいでしょ!」

 

慰めのつもりなのだろう、その声はあまりにも軽かった。周囲の視線が一斉に集まり、福州の頬が熱を持つ。耳の奥で血が鳴り、世界の音が遠のいていく。

恥ずかしさと悔しさが一気に押し寄せ、胸がぎゅっと潰れた。これ以上そこに立っていることが耐えられず、福州は俯いたまま、弾かれるようにその場を離れた。背中に残る笑い声とざわめきから逃げるように、ただ走るしかなかった。

 

学校では、いつの間にか“無個性”が彼の名前のように扱われ始めた。

友達だったはずの子どもたちが、笑いながら距離を取る。「近寄んなよ」「無個性が感染るぞ!」「こいつ無能の無個性らしいぜ」という心ない言葉が胸に冷たく鋭く刺さった。最初は冗談だと思ったが、すぐにそれが本気の嘲笑であると理解した。

 

机にしまっていた筆箱は気づけば消えていた。上履きは泥で汚され、背中に冷たい水をかけられて笑われた。体育の時間には個性持ちの子供達から身体能力の差を揶揄われた。

いじめの中心にいたのはクラスで一番強くて派手な個性を待つ子供だった。貧しい家で育った彼は、裕福な福州が大嫌いで、彼はここぞとばかりに毎日のように嬉々として福州をからかった。手を出して殴ったりはしなかったが、その声は刃物より鋭く、言葉は容赦なく心に突き刺さる。

 

「お前みたいなの、生きてて何になるんだよ!家族もきっとがっかりだろうよ!さっさと消えちまえ!その方がみんな大助かりさ!」

 

その一言は、幼い心を容赦なく踏みつけた。胸がざらつくように痛み、その夜は涙が止まらず、眠ることもできなかった。

 

 

 

 

 

そして7歳になる頃には家の中ですら変わっていた。

 

名のある家柄ゆえ、父は“無個性の息子”が家の名誉を汚すと考えた。

息子のためと口では言いながら、屋敷の奥にある離れを与えたというその処置は、実質的には隔離だった。家族が集まる食卓に彼の席はなく、学校から帰っても扉の向こうには誰の気配もない。父は息子に世話係として一人の使用人をあてがったが、それは温かみのある配慮ではなく、家族の代わりに子どもの存在を管理するためのものだった。

 

母とも、ほとんど話すことはなくなった。父に倣うように彼女も自然と距離を置くようになってしまった。屋敷のどこにいても家族の気配は感じられず、勇気を振り絞って話しかけても、拒まれるか、曖昧に流されるだけ。

 

福州は次第に、屋敷の中にいながら孤島に閉じ込められたような心地になっていった。

 

そんな中でも、ただひとり、唯一変わらなかった存在がいた。

 

姉だ。

勉強や部活で忙しいはずなのに、姉だけはこまめに連絡をくれた。電話もしてくれたし、クリスマスの誕生日には必ずプレゼントを送ってくれた。その包みを開けるたび、福州の胸の奥には小さな火種が灯った。

 

自分はまだ、誰かにとって大切な存在でいられるのだ。その温かさがあったから、福州は折れずに立ち続けることができた。

 

だから、頑張った。

 

個性がないなら、勉強で結果を出せばいい。運動で勝てばいい。

努力を積み上げれば、父や母も再び振り向いてくれる。そう信じて、誰よりも必死に頑張り続けた。

 

けれど、テストで全教科満点を取った後日のことだった。

 

帰宅すると、誇らしげに持ち帰った答案用紙はゴミ箱に押し込まれていた。体育祭で好成績を残しても、父は一言の賞賛もなく、母は何かを言いかけて、結局気まずそうに黙り込んだ。

 

その夜、福州は声を殺して泣いた。

努力は報われない。その事実を初めてはっきりと突きつけられた日だった。

 

ついに彼は学校へ行くのをやめた。不登校という形でしか、自分を守る術がもう残っていなかったからだ。教室に足を向けようとするだけで、目の奥がじわりと熱くなり、喉が締め付けられる。人前に立つと涙がこぼれそうになり、胸がつかえ、足は硬い石のようになり、震える。笑おうとしても頬がひきつり、言葉を出そうとしても声が空気に吸われてしまう。そんな壊れかけた状態では、とても教室に戻ることなどできなかった。

 

それでも、彼はどうにか息をしていた。姉という支えがあったからだ。暗い日々の中で、唯一、自分を肯定してくれる存在。彼女のおかげでぎりぎりで踏み止まれていた。

 

しかし12歳になるそのクリスマスの朝。その支えは決定的に崩れ落ちた。

 

毎年、誕生日でありクリスマスでもあるその特別な日に、ユウは必ず福州が喜ぶものを選んで持ってきてくれた。ユウは勉強に部活、たくさんの習い事にと大忙しの生活を送っているのに、その約束だけは一度も破られたことがない。贈り物を渡してくれる時の、あの穏やかな笑みと祝福の言葉。その瞬間だけは、自分が存在してもいいのだと胸が温かくなる気がした。

 

それが、福州にとって唯一の支えだった。

 

けれど、その朝。その日の朝。

離れの前には、何も置かれていなかった。

 

何分待っても、何時間待っても、誰も来ない。何度も深呼吸をして、悩んだ末に電話を入れた。しかし、通じなかった。未練がましく何度もかけたが、通じない。白い息が凍るほどの寒さの中、気づけば彼の指先は震え、胸の奥に冷たい穴が開いたようで、血が遠ざかっていく感覚がじわじわと広がっていった。

 

 

─────もう、頑張れないな

 

 

そう思った瞬間だった。

胸の奥で固まっていた何かが音もなく砕け、ふっと心が軽くなった。悲しみよりも先に、空っぽの笑いが零れた。乾いた、涙のない笑いだった。

 

父の威圧的な言葉も、母の痛い沈黙も、教室で投げられ続けた嘲笑も、家の名誉という鎖も、無個性という烙印も。もう、全部どうでもよかった。

 

福州はゆっくりと荷物をまとめた。離れにある所持品、日持ちする食料、着替え、思い出と呼べるほど大層ではない小さなものたち。それらを丁寧にバッグへ詰め、小さな財布の中に入っている金額を確かめる。そして、誰にも気づかれぬよう、屋敷の裏門に向かって雪の上を踏みしめた。

 

その背中を呼び止める声は、ひとつもなかった。

ただ雪だけが、しんしんと静かに降り続けていた。

 

その日、福州はひとつの決意に至った。

 

─────死んでしまおう、と。

 

その決意を胸に抱えて福洲が家を出た、数十分後のことだった。

 

「ごめんソロ!お姉ちゃん遅くなった!交通事故に巻き込まれて買ったやつ壊れちゃってさ!やっと入荷したから取りに行ったのに、最悪!スマホも死んだし!」

 

ユウは弟が暮らす離れの部屋のドアを軽くノックした。返事はない。彼女は眉を寄せつつ、手にした紙袋を持ち替えた。限定品の靴は交通事故に巻き込まれて壊れてしまった。それから必死で店を探し回り、何軒も回ってやっと同じものを手に入れた時には、もう日が沈んでいた。拗ねてしまったのかもしれないと苦笑する。

 

「もー、ごめんって!誓って忘れてたとかじゃないのよ〜!誓うわ!神様にでも仏様にでも、天使にでも悪魔にでも、この世の全てに誓ってもいいわ!私が貴方の誕生日を祝わない日は来ないって!雨でも雪でも槍が振っても交通事故があろうとも、私はド根性でプレゼントを持ち帰るわ!ユウからの、プレゼント!フォーユー!

 

 

……超無視じゃない。ドすべりだわ。恥ずかし。ソロ〜、今年の誕生日プレゼント兼クリスマスプレゼント、ここに置いておくからね!

 

ハッピーバースデー!アンド、メリークリスマス!

来年こそは一緒に遊びに行こうね!今度は断れないような楽しそうな場所とか美味しそうなものとかピックアップしておくから!覚悟しておくことね!」

 

ユウは明るく声を響かせ、その場を離れた。

だが彼女が弟の家出を知ったのは、それから3日後のことだった。

 

 

 

  *  *  *

 

 

 

福州は長い息を吐きながらベンチから立ち上がった。夜気は冷たいはずなのに、彼の胸の内には奇妙な温度があった。ポケットに手を入れて歩き出すと、街はクリスマスの彩りに満ちていた。イルミネーションがビルの窓を照らし、笑い声や鈴の音が空気を震わせ、屋台から甘いチョコレートの香りが流れてくる。

 

誰も自分をが無個性だなんて知らない。

 

その事実が、福州にかすかな自信を与えてくれた。

だから、ほんの少しだけ胸を張って歩くことができた。そのささやかな誇らしさが、嬉しかった。

 

屋台のクレープを注文すると、店員が柔らかい笑顔で言った。

 

「メリークリスマス!」

 

福州は一瞬きょとんと固まり、すぐに小さく「……めりーくりすます」と囁き返した。その言葉を口にした瞬間、胸の奥にほんのり温かいものが落ちてきた。久しぶりに姉以外の優しさに触れた気がして、心がじんわりと揺れた。

 

広場へ向かうと、大きな噴水の前に仮設ステージが組まれていた。サンタ帽をかぶった女性たちが歌声を響かせている。福州は人混みの端に立ち、その歌に耳を傾けた。冬空へ吸い込まれていくような透明な歌声。知らない誰かの歌なのに、なんだかとても綺麗だった。

 

ショッピングモールに入ると、暖房のあたたかな空気が体を包み込んだ。外気で強張っていた指がようやくほぐれる。福州はフードコートへ向かい、人気だというラーメン店の列に並んだ。周囲は家族や友人同士の笑い声で溢れかえり、シャンシャンとクリスマスソングが流れている。けれど、その賑やかさが不思議と苦ではなかった。ここでは、誰も自分を知らない。ただの少年でいられた。

 

熱いスープを口に含むと、体の芯がじわりと温まっていった。ああ、これが美味しいって気持ちか。そんな感覚を久しぶりに思い出した。離れで食べていた高級なはずの料理は、どれも味気なく、食べる行為そのものが苦痛だった。だが今、目の前の安価なラーメンは、涙が出るほど美味しかった。

 

食事を終え、雑貨屋を見て回り、ゲームセンターの入口の明かりをぼんやり眺めた。クレーンゲームのぬいぐるみがやたら可愛く見え、不意に心が動いて挑戦した。もちろん、取れなかった。それでも店員が「惜しいね〜!」と笑いながら声をかけてくれただけで、胸の奥がじん、と熱くなった。

 

この街には、自分を無個性だと笑う人はひとりもいない。名前も、家柄も、何も知らない。

 

だから、こんなにも自由なんだ。

 

福州は知らない街の澄んだ空気を大きく吸い込んだ。胸の奥に冷たい空気が入り込むたび、じんわりと生きている実感が蘇ってくる。世界の端っこに押し出された存在だとずっと思っていた。けれど、こうして人混みの中を歩くだけで、自分の足でどこへだって向かえる。その当たり前の事実がほんの少しだけ嬉しかった。

 

クリスマスの夜は深まり、街はキラキラと輝いていた。赤と緑のイルミネーションが通りを彩り、人々の笑い声が雪空に溶けていく。その中で福州は小さく息を吐き、心の中でそっと決めた。

 

しばらく、どこか遠くへ行こう。

 

こうして彼は知らない町から町へと移り歩く放浪を始めた。バスに乗り、電車に乗り、たった一枚の毛布とリュックを抱えて二ヶ月ほど、気の向くまま旅を続けた。駅前のパン屋で安いパンを齧り、たまに空室の多い安宿の薄い布団にくるまり、公園のベンチや廃墟で小さく身体を丸めて眠った。夜風は肌に刺さるほど冷たいのに、不思議と家にいた頃よりもずっと呼吸がしやすかった。

 

知らない天井を見上げるたび、心の底にわずかな安堵が広がった。自分の存在を否定する声が、ここにはない。それだけで、生きることが随分と楽に思えた。

 

しかし、二ヶ月が過ぎる頃には、自由の味にも少し飽きが出てきた。お金は底をつきかけ、行き先も特に決まらず、どの街も同じように見え始める。人々の賑わいも、駅前の看板も、夜のネオンも、次第に心を揺らさなくなっていた。

 

ふと、心の中に、ぽつんと言葉が浮かんだ。

 

────そろそろ、いいかな。

 

ただ、それだけだった。

 

死にたいと強烈に願うほどの熱はなく、かといって生きたい理由ももう見つからない。家にも戻れない。誰にも必要とされない。宙ぶらりんのまま歩き続ける気力も枯れてしまった。

 

もう、ここらで終わってもいいかもしれない。

そんな力の抜けた、淡々とした諦めだった。

 

だから福州は、適当に選んだ森へ入った。

小さな町の外れにある、名も知らぬ深い森。観光地でもなく、人気すらない場所。地図さえ見ず、ただ足の向く方へと進んだ。枯れ葉を踏むたびにざくっと湿った音が響き、冬の冷気が肌を刺した。

 

どこへ行くとも決めず、無心で歩き続けた。転びそうな急斜面を降り、倒木を乗り越え、湿った黒土に靴を沈ませながら、深く深く、森の奥へと進んでいく。

 

そのとき、落ち葉がひときわ重い音を立てて揺れた。

 

風ではない。生き物の気配。

福州はゆっくり顔を上げた。

 

深い森の奥。

夜の闇がすべてを覆い、しんとした静寂が世界を支配している。月光が枝葉の隙間を縫うようにこぼれ、地面には不規則な光と影の模様が広がっていた。

 

その中に、それはいた。

 

黒い肌に、赤黒い毛並みをまとった、巨躯の獣。禍々しいまでの存在感を放つその姿は、夜の森に溶け込みながらも、確かにそこに立っていた。

 

そして、獣の身体がふいに淡い光に包まれた。

骨が軋み、肉が捻れ、輪郭がぐにゃりと捩じれるように変化していく。光が散った瞬間、そこには一頭の牡鹿が静かに立っていた。

 

獣が姿を変えたのだと理解するのに、それほど時間はかからなかった。

 

こんな、森に住む獣にも、個性は宿るのか。

嫉妬にも似た感情が、胸の奥にじわりと広がった。

けれど、今さらそんなことはどうでもいいと、福州は小さく首を振る。

 

個性を使える獣は珍しいが、いるにはいる。確か、人間の言葉を話せるようになった事例もあったはずだ。冥土の土産に声をかけてみよう。そんな軽い気持ちだった。

 

「わぁ、すごいですね。それって君の個性ですか?」

 

声をかけられた獣はびくっと驚いたように身を震わせ、すぐに元の姿へ戻って岩陰へ逃げ込もうとした。しかし、その巨体では到底隠れきれない。半分以上は岩の外にはみ出していて、その滑稽な姿に福州は思わずくすりと笑ってしまった。そしてもう一歩近づき、獣に話しかける。

 

その日から、2人の奇妙な旅が始まった。

 

福州は、自分が本来お喋りな性格ではないと理解していた。けれど、何も持たない自分が唯一、“己を価値があるように見せられるもの”、それが、それまで必死に集め続けた知識だった。

 

無個性の烙印を押され、努力は無意味だと嘲られ、それでも何かを残したくて、縋るように覚えた様々な知識。誰に評価されるわけでもない寄せ集めの欠片。それでも、自分にはそれしかなかった。

 

だから口が動いた。

静かにしていれば、空っぽで退屈で無価値な人間なのだとすぐに露呈してしまう気がした。喋ることで、自分という存在に薄い膜を張り、何かあるように見せるしかなかった。滑稽だと分かっていても、黙った瞬間にこの暮らしが消えてしまいそうで恐ろしかった。

 

森で出会った獣の姿をした人間……狐太郎にも、“無個性だから”、“無能だから”と嫌われ、見下されるのではないかと怯えていた。

 

そんな福州の言葉を、狐太郎はちゃんと聞いてくれた。黙らず、拒まず、耳を傾けてくれた。

 

そして時折、嬉しそうに褒めてくれるのだ。

 

たった一人。

初めて。

姉以外で自分の言葉に肯定を返してくれた存在。

 

その事実が、胸の奥を無駄に温かくしてしまった。

だから嬉しくて、もっと認めてもらいたくて、福州は必死に喋り続けた。

 

けれど、話せば話すほど、自分の内側にぽっかり穴が空いていることが嫌でも露わになっていくのを福州は痛いほど理解していた。価値のない思い出や、胸を張れない過去ばかりを寄せ集め、嘘でも輝いて見えるように必死に飾り立てる。そんな自分の姿を思い返すたび、惨めさと情けなさが胸に満ち、いっそ笑ってしまえるほどだった。

 

そうして三ヶ月ほど、そんな虚しい日々を続けた末、福州はようやく死のうと決意したのだ。

 

そして取るに足らない己の人生を、一方的な独白として狐太郎に押しつけ、善意とも呼べない善意で、そのくだらない人生を丸ごと渡してしまったのだ。

 

崖の淵に立ったとき、眼下の急流は白く泡立ち、轟々と音を立てていた。見下ろすだけで足がすくみ、身体が細かく震える。内臓が縮むような恐怖。吐き気のような緊張。しかし、それでも福州は飛び降りることを選んだ。ここで成し遂げられなければ、初めて出来た友達に呆れられてしまう気がした。自分で宣言したことすらできないのか、と。

 

だから、福州は飛び降りた。

 

風が凶器のように顔を叩き、落下の衝撃で頭が崖にぶつかり、頭蓋が潰れる鈍く重い感覚が走った。世界の景色が赤く歪み、視界は一瞬で途切れ、身体は糸の切れた人形のように川底へ沈んでいった。

 

 

 

——そうして、確かに死んだはずだった。

 

 

 

 

    *  *  *

 

 

 

……目が覚めた。

 

ぼんやりと瞼を開けると、身体がやけに重い。手足には泥と血の匂いが混ざり、肌に触れる空気は冷たく湿っている。重だるい体を無理やり起こし、近くの川面に視線を落とした。

 

そこに映っていたのは、白い獣の姿だった。

 

あり得ない。自分は人間のはずだ。記憶を探れば、鏡の前でだれかと珍妙なポーズを取って笑っていた自分が確かにいた。それなのに、

 

「ぁ、あれ……?」

 

声に出した瞬間、背筋が凍った。

 

その誰かの顔が、まったく思い出せない。微笑みも、声も、背丈も、何一つ。そもそも、本当にその人物がいたのかすら怪しい。記憶の糸は全て断ち切られ、霧の中へ消えていた。

 

それだけではなかった。自分の名前も、生きてきた場所も、誰と居て、何をして、どう笑って、どう泣いてきたのかも、ほとんど思い出せない。

 

「だれ……誰だ……」

 

どうしたらいいのか分からないまま、頭痛に襲われる身体を引きずりながら森の中を彷徨った。やがて体は自然と人の姿へ戻っていたが、意識はまだ混濁し、ただぼんやりと立ち尽くすことしかできなかった。

 

そんなとき、小柄な老人のヒーローに保護され、警察署へと連れて行かれた。

 

しかし、待機を言い渡された部屋で、周囲の警察官の鋭い視線に耐えられなくなった。胸が締め付けられ、恐怖が爆発する。気づけば、体は勝手に逃げ出していた。

 

記憶は空白でも、力の使い方だけはなぜか理解していた。

 

彼らの生命力を奪い取ると福州は走って逃げ続けた。

 

それからしばらく、森でぼんやりと生き延びた福州を保護したのはバリアントプライドと名乗る妙な集団だった。名前も過去も分からぬまま、故郷から遠く離れた中国の島で、よくわからない研究に言われるがまま手を貸し、3年近くを忙しく過ごした。

 

そして、その運命の日がやってきた。

 

「ぁ……」

 

タルタロスの大脱獄。偶然にも外出の許可がおりて外に出ていた福州は、ホテルのテレビでそのニュース映像を見た瞬間、心臓が凍りついたかのような心地だった。画面に映る懐かしい姿を見た途端に、失われていた記憶が洪水のように戻ってきた。

 

しかし、思い出してしまった時にはもう全てが手遅れだった。

 

思い出すだけで震える体を押さえ込みながら、福州は飛行機を乗り継ぎ、大急ぎで横浜の家へ向かった。道中、足がもつれるほど息は荒いのに、胸の奥は氷のように冷えていく。

 

玄関に足を踏み入れた瞬間、理解してしまった。

 

家が静かすぎる。生命の気配が、完全に途切れている。空気は血の匂いで重く、まとわりつくように湿っていた。

 

いや、まだ確定じゃない。まだだ。

 

そう願えば願うほど、視界には赤いものが増えていく。

 

壁、床、階段、飾り棚。

そのどれもが、事故では説明のつかない量の血で濡れていた。事件の調査のために状況が保存されたまま社会が崩壊し、誰も手を回さなかったのだろう。しかし、その静止した惨劇の上に、悪意の落書きだけが増えていた。

 

バケモノを育てた家なのだと。

お前らのせいで多くが死んだのだ、と。

死んで当然だ、ざまあみろ、と。

 

それらを視界に入れた瞬間、福州は思わず目を逸らした。

 

「……お、お父さん……」

 

父の書斎に入った瞬間、吐き気がこみ上げた。

机が割れ、棚の本は床一面に散らばり、壁には血がこびりつき、天井にすら赤黒い斑点が散っている。ここで何が起きたのか。想像したくないのに、勝手に想像してしまう。

 

「お母さん……」

 

リビングには、母が飲んでいた紅茶のカップがそのまま置かれていた。冷え切り、埃をかぶり、色を失ったカップの表面には、薄く血の膜が張っている。白かったソファは乾いた血で固まり、布地が歪むほどに縮んでいた。

 

「ゆ、ユウちゃん……ッ」

 

姉の部屋の前で足が止まった。

手を伸ばせば触れられる距離なのに、ドアノブが異様に遠い。

 

開けたら、何を見るのか。

どんな現実が待っているのか。

考えたくないのに、思考が逃げられない。

 

震える指で、ドアを押し開ける。

 

「……っ……は……は……っ」

 

顔が上げられない。心臓が鼓動するたび、頭が真っ白になり、呼吸が乱れていく。それでも、見なければいけない。

 

覚悟でも、勇気でもなかった。

ただ、逃げても無駄だと本能が諦めてしまっただけだ。

 

ゆっくりと視線を上げる。

 

「あ、あぁ……っ……!そんな……ッ」

 

そこは、かつての姉の部屋ではなかった。

血の匂いが満ち、ぬいぐるみは深い赤に染まり、机の上の本は紙同士が血に濡れて貼り付き、壁の一部は赤黒く固まっていた。

 

そこで誰がどう死んだか。考えなくても分かってしまう。分かりたくないのに、理解してしまう。

 

涙が止まらない。

呼吸がうまくできず、肺が縮むように痛む。

 

福州はその場に崩れ落ち、喉の奥で空気をかみ砕くように呼吸を乱しながら泣き続けた。

 

だが、家の中はこれで終わりではなかった。廊下にも、使用人室にも、キッチンにも。人の気配だけが綺麗に消え、血の跡だけが残されていた。

 

理解が追いつかない。

認めたくないのに、認めさせられる。

喪失が、次々と胸を抉っていく。

 

最後に辿り着いたのは、自分が追いやられていた離れだった。かかっていた鍵を破壊して中に入る。

 

そこだけは、記憶のままの空間だった。

日用品、本、文房具、姉からもらった漫画のセット。そして、誕生日のプレゼント。

 

「あ、れ……」

 

それが一つ、増えていた。未開封のものが一つ。

 

瞬間、胸の奥で何かがひび割れるように折れた。涙が止まらず、呼吸がうまくできない。頭は痛むのに、思考だけが暴走していく。

 

姉は、

あの日も、

自分にプレゼントを渡しに来てくれていたんだ。

 

なのに自分は……勝手に傷つき、勝手に逃げ出した。

 

「全部……全部俺のせいじゃないか……ごめん……ごめん……!ユウちゃん……狐太郎……ごめん……!」

 

声が震え、言葉が滲み、地面に額をこすりつけるように泣いた。自分が逃げたせいだという思考が頭を割るように響き続けた。

 

 

やがて、ふらつきながら家の外へ出た瞬間、コツンと後頭部に硬い衝撃が走った。反射的に振り返ると、足元には小石が転がっていた。

 

「このッ、バケモノッ!!」

 

声の主は子供だった。怒りと恐怖が混ざった濁った瞳で福州を睨みつけている。

 

「お前のせいで!!お前のせいで俺の家族は死んだんだ!死ねバケモノ!!死んじまえッ!!」

 

その悲痛な叫びは、周囲に潜んでいた人々の感情に火をつけた。瓦礫の影、壊れた建物の間から、自警団と思しき人々が次々と姿を現す。

 

「お、俺は……」

「クソ野郎ッ!!テメェ、よくもここに来れたもんだな!」

「化け物!お前のせいで全部終わったんだよ!地獄に落ちろ!」

「返せよ!!お前が踏み潰したんだ!家族も、友達も、街も!全部お前が殺したんだ!!」

「ち、違う……俺は……ッ」

「何が違うって言うんだ!」

 

その怒号と同時に、鋭い痛みが左肩を貫いた。

肉が裂ける音とともに熱い血が弾け、服の下を温かい液体が流れ落ちていく。振り返ると、自警団のひとりが個性を発動させた構えのまま、こちらを睨みつけていた。

 

痛みに眉を歪めながら傷口を押さえる。指先に触れる肉の感触が、生々しい。周囲の民衆はすでに理性を失いかけていた。彼らにとって“福州ソロ”は怪物であり、恐怖の象徴だ。ヒーローは来ないと知っている。逃げ場のない極限で、攻撃だけが唯一の選択肢なのだ。

 

「俺らの人生をぶっ壊しておいて……よく平気な顔をしてられるな!死んで詫びろよ、人殺しが!!」

「話をッ……」

「この街を返せ!お前だけは許さねぇ!!」

「皆でやるぞ!こいつをぶっ殺せ!!」

「やめろ……ッ」

「地獄に落ちろ怪物!今ここで終わらせてやる!!」

「俺たちの日常は俺たちで取り戻すんだ!」

 

怒号が一斉に重なり、数人の自警団が殺意むき出しで襲いかかってきた。福州は必死に身体をひねって避ける。風圧が頬を切り、拳が地面を割り、個性の光が視界を焼く。まともに食らえば死ぬような攻撃が、次々と通り過ぎていく。

 

そのうちの一撃が、後方の実家へと逸れた。

 

一瞬の沈黙。

次の瞬間、轟音とともに炎が巻き上がった。

 

「なッ……」

 

胸が凍りつく音がした。

自分の家が、家族との時間が、ユウからのプレゼントが、濃いオレンジの焔に呑まれ、あっという間に崩れ落ちていく。

 

「やめろ、やめろ!やめてくれ!」

 

慌てて火を消そうと、家へ駆け寄ろうとした、その時だった。背後から乱暴にポニーテールを鷲掴みにされ、頭が無理やり引き戻される。視界が反転し、次の瞬間地面に叩きつけられた。後頭部に鈍い衝撃が走り、息が詰まる。

 

「どこ行くってんだよ!!」

 

髪を掴んだまま、容赦なく引きずられる。靴底が地面を擦り、背中に痛みが走る。起き上がろうとしたところへ、誰かの足が腹部を蹴り上げた。

 

「なんだその顔!お前が奪ったもんに比べりゃ安いだろ!俺の友達をッ、よくもッ!」

 

嘲る声とともに、さらに衝撃が落ちてくる。肩を、脇腹を、踏みつけられるたびに息が漏れ、苦痛が声となって溢れる。

 

「家が燃えたくらいで騒いでんじゃねぇよ、クソッタレの脳無が!」

 

悪意は連鎖した。ひとりが暴言を吐けば、もうひとりも吐く。恐ろしかった怪物が、もしかしたら自分たちにも倒せるかもしれない。与えられた痛みを返せるかもしれない。その錯覚が、彼らの口をどす黒く歪めていく。

 

「どうして……お前らは……」

 

福州の喉の奥で黒い感情が渦巻き、胸を焼くように怒りが溢れた。分かっている。彼らは怖かったのだ。世界が壊れ、極限状態で、心の余裕など残っていない。自分が“福州ソロ”である以上、彼らの怒りは正当だ。自分のせいで多くの悲劇が起きたのだから。

 

それでも、今だけは、どうしても飲み込めなかった。

 

福州は膝に手をつき、体を起こす。その瞬間、横合いから衝撃波が叩きつけられ、体が再び地面に打ち伏せられる。息が詰まり、喉から濁った声が漏れた。それでも、歯を食いしばり、ふらつく脚で立ち上がる。

 

「なんなんだ……ッ、なんなんだよ……クソッ、クソッ!!クソクソ、クソッ!」

 

もう、気持ちを抑えられなかった。

 

「……この世界(お前ら)はッ、いつもいつも!何も与えてくれないくせに、俺達から全てを奪い取るッ!!」

 

感情が爆発した瞬間、福州の輪郭が霧のように揺らぎ、次の瞬間、白く巨大な四つ尾の狐がそこにいた。地を震わせる唸り声を放ち、怒りのままに咆哮すると、暴風が破裂するように吹き荒れ、自警団の男たちを一瞬で吹き飛ばした。地面が削れ、瓦礫が転がり、風圧で空気が悲鳴を上げる。

 

福州が元の姿に戻ると、カタリと乾いた音が響いた。視線を向けると、最初に石を投げた子供が尻餅をつき、震えながらこちらを指差していた。

 

「ば、バケモノ……」

 

涙に濡れたその声は、恐怖しか含んでいなかった。

 

「……大嫌いだ」

 

福州はそれだけを吐き捨て、倒れ伏した自警団には一度も視線を向けず、ゆっくりとその場を離れた。

 

「大嫌いだ。大嫌いだ。全部……大ッ嫌いだ……!」

 

声は掠れ、歩みはふらつく。

遠くからサイレンの音が聞こえてくる。もうここにいるのはまずいと微かに残った理性が告げた。心は砕けかけていたが、それでも福州はその場を離れるしかなかった。

 

家族は死に、友人はヴィランとなり、数えきれない人々を殺した。そして彼らの犯行と危険行為の連鎖は、日本という国をあっという間に崩壊させた。

 

後悔が胸に押し寄せ、バリアントプライドの一員として住んでいた家に戻った福州は膝から崩れ落ちた。家族を殺し、狐太郎を歪ませたオールフォーワンへの憎悪。石を投げ、怪物だと指差し、彼をタルタロスに閉じ込めたこの世界への怒り。胸の奥では、抑えきれないほど激しい憎しみが渦巻いていた。それに加えて喪失と愚かさに押し潰され、数日間はまともに食事も取れず、部屋から動くことすらできなかった。

 

だが、ぼんやりとした意識の中で、脱獄以前の狐太郎の様子が気になり、その名を検索してしまった夜があった。そこに並んでいたのは神野区以降の罵詈雑言ばかり。雄英での彼の活躍は、たった一夜の悪夢に塗りつぶされてしまっていた。画面の向こうから投げつけられる無数の悪意に、胸が潰れるほどの嫌悪と怒りが込み上げた。

 

それでも同時に、福州は理解していた。自分のこの世界への憎悪は、あまりにも身勝手だということを。狐太郎を理由に、世界そのものへ敵意を向けていいはずがない。この世界は悪意だけでできているわけではない。石を投げる手もあるが、手を差し伸べる人間も確かに存在する。

 

だからこそ、壊してはならない。

怒りに身を任せて、すべてを焼き払っていい理由など、どこにもない。

 

そうして、ようやく心がわずかに落ち着いたころ、一つだけはっきりと理解した。いつまでも倒れている暇などない。

 

自分がこうしている間にも、狐太郎は人を殺し続けている。犠牲者は増え、日本は沈んでいく。ヒーローたちは必死に抗っている。

 

無価値で愚かな自分にも、やらなければならないことがある。

 

「狐太郎は、俺が…止めなくては……」

 

これから自分がやるべきことは一つ。友人の人生を変えてしまった責任を取って、彼を止めること。これは傲慢かもしれない。だが、事実自分がこれを招いた。そう断じざるを得なかった。

 

過去に戻りたいと、今日ほど強く願ったことはない。だが、過ぎた過去は戻らない。変えられない。過去は消えない。覆水は盆には返らない。

 

ならば、せめて、

 

「それなら、せめて……今、できる事を……」

 

声を出すたび、胸の奥からため息がこぼれ落ちそうになるのを堪え、福州はゆっくりと顔を上げた。

 

この世界は大嫌いだ。

理不尽で、冷酷で、弱い者から何もかもを奪っていく。そういう現実を、福州は身をもって知っている。

 

ふと、胸の奥に醜い願望が浮かぶ。

自分も一緒に悪に染まれたなら、どれほど楽だっただろうか。この大嫌いな社会に、同じだけの痛みを返してやれたなら、どれほど胸がすいたか。だがどうしても、この世界を憎みきることはできなかった。

毎年、姉が選んでくれた誕生日のプレゼント。包み紙を開けるたびに浮かんだ、少し照れた笑顔。家出した夜、街角から流れてきた、やけに綺麗な歌声。なんとなく食べたクレープの舌に残る甘さ。深夜のラーメン屋で差し出された、湯気の立つ一杯の温かさ。行く先々で見た、名も知らない誰かの優しさ。誰かが誰かを思う、暖かな感情。

 

そして今もなお、この壊れかけた世界で、命を削りながら立ち続けるヒーローたち。瓦礫の中で誰かを守る背中。血に塗れながら、それでも前を向く姿。幼い頃、何度も胸を高鳴らせて見上げた、あの格好良い存在。

 

それらが、どうしても心に残って離れなかった。だから、この世界を壊させるわけにはいかないのだ。

 

当然、この世界は嫌いだ。それでも、やはりそのすべてが悪だとは、どうしても言い切れない。大嫌いなのに、どうしても憎みきれない。堂々巡りの思考の中で、憎悪に踏み出す一歩だけは、出てこない。

だが同時に、友を止め、説得し、社会が納得する形で罪を背負わせる。そんな正しさを貫く力も、自分にはない。どちらにもなれず、どちらも選べず、中途半端で、情けなくて、吐き気がするほど嫌になる。

 

完全な悪にもなれず、かといって善でもない。

そんな自分に、唯一できる事。それが、どんな手段を使ってでもこれ以上狐太郎が罪を重ねる前に手を下すという事なのだ。オールフォーワンと戦う雄英生やヒーロー達が彼と戦って必要以上に消耗する前に、自分が終わらせる。自分がオールフォーワンに勝つ未来は見えないが、きっと彼らなら。雄英の生徒達の活躍を調べた福州は、そう信じることにした。だから、狐太郎は己が倒すのだ。

それが正しいのかどうかは分からない。ヒーローなら、きっと違う選択をする。説得し、寄り添い、手を差し伸べるだろう。

だが、自分にはそれができない。その事実が、はっきりと胸に突き刺さっていた。弱さと情けなさが胃の奥を締めつける。

 

それでも、選ぶ道は一つしかない。

やるしかない。

 

むしろ、ヒーローたちに最悪のヴィランだと断じられ、あるいは凶悪な脳無として処理され、何も知らない誰かに嬲り殺されるくらいなら……

 

その未来を思うだけで、胸の奥がねじれた。

 

それなら、自分の手で終わらせてやりたい。

友として、自分が最後まで責任を負うべきだ。他人の正義や無知に任せて殺されるくらいなら、自分が殺す。そうして、その後は自分も、今度こそ死ぬべきだ。そう考えた。

 

 

福州が所属するバリアントプライドは、狐太郎との接触を企んでいた。なら、その機会を利用してまとめて倒す。そう考え、福州は組織の研究成果を探り始めた。しかし少しして、心を読む個性を持つ者に裏切りが露見してしまう。そいつを倒す事は出来たが、代わりに重傷を負ってしまった。

 

骨の軋みと肉の裂ける痛みに耐えながらも、福州は情報だけは握りしめ、重傷の身体で逃げ出した。サポートアイテムの札で傷を無理やり塞ぎ、京都の街へ向かった。そして、速攻で組織に襲撃を仕掛け、研究成果を盗んだ。

 

ヒーローと出会ったのは、その日のことだった。

 

 

 

 

   *  *  *

 

 

 

ザー……と、途切れなく続く雨音が耳に沁み、福州は重く閉じていた瞼をこじ開けた。今見ていたのは、走馬灯と呼んでもいいほど長い長い夢。息をするだけで傷がズキリと疼き、全身に鉛のような倦怠がまとわりつく。

 

それでも福州は、地面に手をつきながらなんとか身体を起こした。雨粒が傷口に当たるたび、鋭い痛みが走る。荒い呼吸を整え、よろめく足で立ち上がり、雨に煙る視界の先……彼らの兵器がある場所へ向かって歩き出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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