狐太郎が迷いを覚えたのは、本当に刹那のことだった。火を吐けないのなら噛み殺せばいい。獣として備わった、誇るべき牙が己にはある。そう腹の底で決意した瞬間、戦場の空気がさらに荒ぶった。
建物の奥では、なお戦闘が続いている。耳に届く爆裂音は、ドラコーの個性が限界に近づいている証だった。連続していた爆発の衝撃も、徐々にその勢いを失ってゆく。勝負の終着はもはや時間の問題。ならば、こちらも早々に幕を引くまで。
緑谷が反撃に転じようとしたその時、視界の端を白いものが駆け抜けた。
「ッ……!?」
息が凍りつく。緑谷の目が見開かれた。そこにいたのは、三本足の白い獣。影のように軽やかな気配と研ぎ澄まされた殺気。獣は崖を羽根のような速さで降り、緑谷を狙っていた狐太郎の背中へと音もなく飛び乗った。
続く瞬間、鋭い痛みが戦場の空気を裂く。
「ぎゃっ!?」
狐太郎の喉から、抑えきれない悲鳴がほとばしった。首に食い込んでくる牙は気管に触れそうな深さまで沈んでいる。血が熱い筋となって流れ、呼吸が詰まる。
獣を引き剥がそうと、狐太郎は崖に自身の身体を叩きつける。しかしそれを読んだかのように、三本足の獣は軽く背から跳ね降り、その勢いを反転させて逆に狐太郎を崖側へと叩きつけた。石壁にぶつかった狐太郎の身体が揺れ、砂と岩片がぱらぱらと落ちる。
その一瞬で、流れが変わった。轟の炎が氷を溶かし、爆豪が緑谷を抱えて素早く距離を取る。
「ふ、福州くんッ!」
「アイツが……」
福州は狐太郎の間合いを完全に切ると、緑谷の傍で人の姿へと戻る。息を軽く整えながら、視線を狐太郎へと向けた。
「判断が、早すぎる……」
福州は困ったように、焦ったように3人を見た。
「俺は危ないから帰れと言ったはずだ……なのに……翌日どころか、その日のうちに敵の本拠地へ向かうなんて……」
「あ゛!?なんだテメェこら何いきなり出てきて文句つけてやがる!!」
「文句じゃない。ただ……止められたと思い込んでいたその自惚れが……どうしようもなく薄ら寒くて……俺が口にする言葉は、誰の足も引き止めない。そんな事実がまた……胸に刺さっただけだ」
「なんだテメェ!出てきて速攻ジメジメしやがって根暗かッ!!」
「根暗……まぁ、そうだな……否定する資格も、理由も……もうない。人に理解されるような明るさも、前に進む情熱も持ち合わせていない。お前が俺と会話したところで……気が滅入るだけだろう。俺のことは無視してくれていい……」
「ジメジメじめじめ抜かしてんじゃねぇ!!話しかけた瞬間に湿度上げんのやめろ!!」
「……すまない。存在そのものが湿気みたいで……本当に、申し訳ない……」
「テメェッ!!前の化野と同じような顔でどんッだけ後ろ向きなんだ!こっちの脳みそにまでキノコが生えそうだわ!鬱陶しいからそれやめろやッ!!イライラすんだよッ!!」
「……また迷惑を……俺がいると、必ず誰かが不幸になる……本当にすまない……」
「うっぜぇわッッッ!!!!マジでうっぜぇッ!!!!!」
「おい流れるように揉めるなやめろ。今そう言う場合じゃねぇだろ」
轟が前に出て、爆豪を福州から引き離す。そうすることでようやく罵声が止み、4人は一斉に狐太郎を見据えた。そこには迷いも怯えもない。ただ、戦う覚悟だけがあった。
「ソロが増えたところで何も変わらないぞ」
狐太郎が唸るように低く言い放つ。すると、福州は平坦な声音で返した。
「……変わったさ。お前の個性、もう使えないだろう」
狐太郎の目が細くなる。それを見て、福州は続ける。
「︎……食べてしまったからな。個性因子抑制のチップを」
その一言に、緑谷の胸が強く跳ねた。あの瞬間、自分をかばって福州が左腕を喰われたとき、彼は個性因子抑制のチップを握りしめていたのだと悟る。福州はリモコンのような装置を狐太郎に掲げて見せた。狐太郎はそれを見て呆れきったように半目になる。
「確かに何でもやるとは言ってたけどさ、ソロ……腕食わせるのは流石に気が狂ってるだろ」
「……その目、やめてくれないか。食わせるつもりなんかなかった……勝手に食ったのはお前だ……」
福州は不満げに眉を寄せたが、すぐに「まあ良い」と表情を切り替える。余計な会話に時間を使う気はないと、空気が語っていた。
4人の呼吸が整う。揺らぎのない眼差しが狐太郎に向けられ、そのどれもが覚悟を宿している。これが本当に最後の戦いだ。言葉にせずとも、誰もが理解していた。
その視線を受けたとき、狐太郎の胸の奥で何かが揺れた。痛みでも怒りでもなく、思い出だ。
フラッシュバックする。
幼い頃、浴び続けた“化け物”という罵声。
能力に気づいた日。
自分が“脳無”なのだと悟った瞬間の凍るような孤独。
人々の目に宿っていた恐怖と拒絶。
そして、先ほどの声が蘇る。
────バケモノでも脳無でも何でもいい!!何だって構わないッ!!君は僕の友達だからッ!
その言葉が胸の奥で熱を持つ。
(何だって構わない、ね……)
その言葉が、胸の奥のどこか柔らかい部分に触れたように、狐太郎はわずかに瞬きをした。体育祭の時の轟の気持ちが今更理解できた。誰かの言葉で、人の考えや心は変わるのだと。
怪物は受け入れられない。それが狐太郎の現実だった。だが、目の前の緑谷達の瞳には、恐怖も拒絶も一切なかった。ただ純粋に、真っ直ぐに。まるで同じ人間を見るように、いや、それ以上の熱を帯びて、狐太郎を見つめていた。
林間合宿の夜、本当は欲しかった言葉。
(バケモノでも、脳無でも、本当に何でも構わないのか)
自分のことを“嘘吐きの人殺し”だと理解したうえで、それでもまだ“友達”だと呼んでいる。なんて馬鹿で、なんて愚かで、なんて優しいのだろうと、胸の奥でじわりと焦げるような痛みが走った。
──────ああ、そうか。
今やっと気づいた。
自分がなぜ彼らを殺したくないと思ったのか。
なぜ、彼らの顔を見ると胸があたたかくなるのか。
いつの間にか、好きになっていたのだ。
きっと、絆されてしまっていた。
狐太郎のこの姿を見た者は皆、決まって叫んだ。
“ヴィランよ!”
“バケモノが出た!誰かヒーローを!”
悪意がないことは知っている。
突然こんな異形が目の前に現れれば、誰だって恐怖する。それが普通だ。
だが、そうではなかった者が一人だけいた。
ソロ。
この姿を見ても眉一つ動かさず、「すごい」と笑った。友達だと、当たり前のように言ってくれた。
だから、合宿の後に思ったのだ。
このクラスの連中なら、ひょっとして、ソロのようにバケモノの自分を受け入れてくれるかもしれないと。異形型だと申請はしていたが、教師陣にすら見せていない真の姿。ソロ以外の誰かに初めて見せようと思えた。
(俺はずっと……ありのままを受け入れてくれる友達が欲しかっただけだったんだな。俺が“バケモノ”でも“脳無”でも、人を殺したくて堪らない、
最低のやつでも……俺であればいいのだと)
なんてくだらない。
本当に女々しい。
これでは失敗作と言われても文句は言えない。
人を見下して馬鹿にして、嘲笑って、殺して、それでいて自分は“そのままを受け入れてほしい”だなんて、恥ずかしすぎて、死んでも言えそうにない。
だが、もう遅い。
罪は犯したのだ。そして何より、もう自分を変えられない。人を殺さずに生きると言う選択肢を取ることなど出来そうにない。
己はもはやバケモノとして生きて死ぬ他ない。
(それならば、
そうして大団円にしよう。
ヒーローよ、俺様に勝ってみせろ。
勿論、ただで負けてやるつもりは、毛ほどもないが。
狐太郎の瞳に、これまでとは違う光が宿る。
濁りでも狂気でもない、鋭く澄んだ光。
緑谷はその変化に気づいた。
─────この戦いは、まもなく終わる。
「お前達に勝つぞ、緑谷、轟、爆豪……それにソロ」
「僕は、デクだ」
「ん?」
「デクだよ。そう呼んで」
「俺はショートだ」
「大・爆・殺・神ダイナマイトッ!!」
「それは前に聞いたぜ」
「黙って2回聞いとけや!」
「……俺には、そういうのはない。名乗れるのは……ただ、お前の友達だと勝手に思っている“福州ソロ”くらいだ」
「十分だぜ親友!」
狐太郎は大きな前足をわずかに曲げ、獣特有の前掻きの動作で身体の可動を確かめた。筋肉がわずかに軋み、焦げた皮膚が裂ける痛みが走る。だが、もう怯むことはない。
「デク、ショート、大爆殺神ダイナマイト、ソロ。勝つのは、俺様だ!
さぁさぁさぁッ!!今日という日が来ちまったな、諸君!!俺様チャンネルは残念ながら今回で最終回でぇ、ございますッ!!」
地を踏み締め、巨大な尾を楽しそうに振り、声を張り上げる。その仕草はまるで、最終回を告げる司会者のようであり、同時に処刑台に立つ覚悟を決めた獣の凄烈さも纏っていた。
「いや~長かった!地獄のように!そして同時に天国のように!!思い返せば色々あったよなぁ?正義だの、平和だの、誰かを救うだの……言葉の重みを理解せずにポンポン使う間抜けな連中ばっかりだった!と、思ってたがどうやらそうでもなかったらしい!」
瓦礫と炎と凍結した空間の中、狐太郎の笑い声は奇妙に澄んで響く。
「正義なんておとぎ話だと思ってたけど、ヒーローって自分の身削って、誰も聞いてなくても、誰もみていなくても、それでもやるんだな。視聴者ゼロでもこの根性!……はは。バカみたいだ。でも、そういうバカが世界を楽しくしてんだよな。ムカつく事に。天才の俺様は理解した。天才なので。
だから今日だけは言ってやるよ。ヒーローってのはすげぇ奴らだ。
……以上!二度と言わないからなッ!!」
炎と氷と破壊の残滓が渦巻く戦場で、狐太郎の声は凛と響く。その姿は、確かに怪物でありながらどこか誇らしげでもあった。
「さぁ最終回も派手に行こう!ヒーローがどれだけすごかろうが、電波の主は俺様、化野狐太郎だッ!!困難は超えていくものさ!!それじゃ諸君、最後の最後の合言葉ッ」
そして狐太郎は輝く金の瞳で4人を真っ直ぐに見つめた。緑谷も、轟も、爆豪も、そしてソロも、逃げずに見返す。4つの視線が、巨大な獣の視線と正面からぶつかり合い、火花のような緊張が張り詰めた。
「僕達が、君を倒す!」
「負けねぇ」
「勝つのは俺らだッ!!」
「お前を負かすよ」
4人は覚悟を込めて宣言した。対する狐太郎は、胸の奥底に溜め込んでいた破壊衝動をそのまま言葉に変え、叫ぶ。
「そこはPLUS ULTRAだろバカタレ共がァァッ!!」
瞬間、4人と一体は再び激突した。
拳と爪、炎と風圧、衝撃と爆音。それらが交錯するたびに地面が割れ、舞い上がる砂塵が視界を曇らせる。互いに傷を刻み合い、骨の軋みさえ聞こえそうな距離で肉体がぶつかり合う。
数度の撃ち合いの末、再び狐太郎が押し込んだ。力の流れが明確に傾き、4人が辛うじて踏み止まりながらも後退していく。
狐太郎が爪を深く地面に突き刺し、爆ぜるように踏み込み、4人を一気に吹き飛ばそうとしたその瞬間だった。
「ちょぉぉぉっと待ったッ!!」
新たな声が戦場の空気を切り裂き、狐太郎の耳に突き刺さる。振り返るより早く、強烈な振動が地面を伝って走った。
「ハートビート•サラウンド!!」
肌を刺すような音波が狐太郎の全身を貫く。胃の底をえぐられたような不快感が一気にこみ上げ、思わず身が竦む。音が弱点である事実は、いまも変わっていなかった。
「友達がソイツらだけなんてツレないよ!!ウチらもそうじゃん!!」
飛び込んできた耳郎の姿が、揺れる視界の中で鮮明になる。だが彼女だけではない。バリアントプライドを打ち破ったA組の仲間たちが、次々と瓦礫の陰や崖上から姿を現し、狐太郎の前に立ち塞がった。
「一緒にテスト乗り越えた仲だろ!?忘れられたら寂しいんだけど!」
「
耳郎の音によって身体が強張った狐太郎。その頬に、太い尻尾が横から叩きつけられた。骨まで響く衝撃が走る。同時に別方向から鋭い蹴りが脇腹に突き刺さる。
「尾空旋舞!!」
「レシプロエクステンド!!」
「
押し寄せる痛みに身体を揺らしながらも、狐太郎は反撃の態勢に入ろうとする。しかし、彼らの声がその動きを寸断した。
「USJの時!俺はお前に庇われた!だから今、こうしてここにいられるんだ!今度は俺の番ッ!!」
「委員長として、クラスメイトとして……友として!君を倒すぞ!!」
拳の重みよりも、その言葉の真っ直ぐさの方が、狐太郎の胸を強く揺さぶった。よろけながらも再び踏ん張ろうとしたその時、左の前足に奇妙な重みと粘りが絡みつく感触を覚えた。
(……これは)
視線を落とすと、そこには見覚えのあるネバネバとした生成物。薄く光を反射するそれは、逃れようと力を込めるほどに深く絡みついた。
「
「私も、貴方に救けられました。それなのにあの夜は貴方を救けられなかった。だからっ、今度こそ!貴方が望むのなら、ヴィランとしての化野さんをここで終わらせて見せます!」
力ずくで引き剥がそうとした瞬間、背骨を逆撫でするような激しい電撃が体内を駆け抜けた。皮膚が焼けるような痛みに思わず歯を食いしばる。しかし、その電流を浴びながらも動こうとした次の瞬間、黒い影が狐太郎の全身を押し潰すように覆い被さってきた。
「ヒーローのバーゲンセールかよッ!イッテェな!!」
「
「どうよ!このターゲットエレクト•200万ボルトは!!お前に体育祭の時130万ボルト耐えられて負けたの、結構ショックだったんだぜ!今度は負けねぇ!」
「宵闇よりし穿つ爪。パワーであれば、黒影も負けてはいまい」
「コノ雷イヤ……」
雷光の熱と影の圧が同時に襲いかかる。狐太郎は地面に爪を立てながら必死に踏ん張るが、電撃によって筋肉が痙攣し、その動きが封じられる。口を開けて咆哮しようとした。だが、その瞬間、小柄な影が素早く動いた。
蛙のような跳躍。
細い縄のようなものが狐太郎の口元に巻きつく。セロハンテープだ。鳥達の協力により、複雑な軌道を描いたそれを狐太郎は避けきれなかった。そして怯んだ隙を逃さず、一気に何重にも巻かれていく。
口が開かない。
爪で切り裂こうとしたが、爪がテープに封じられ、剥がすことすらできない。
(こいつは……)
思い当たる顔が4つあった。
「私達も貴方に会いに来たの」
「
「貴方が理不尽な扱いを受けている時、何も出来なかった。でもせめて、手が届く範囲にいるのなら、絶対力になるわ。化野ちゃんは大事なお友達だもの」
「そうだぜ!」
「おうよ!」
「うん!」
「
峰田は泣きながら、全身のモギモギを狐太郎の口元や前足に次々と投げつけた。ネバつく塊が皮膚と毛に貼りつき、動かそうとするたびに皮膚が引き攣れる。バランスを保つのも難しい。
「オイラなんて入試の時に助けられてんだからな!お前がいなかったらオイラのヒーロー人生始まってすらなかったんだ!今度はオイラの番だ!!そんでクラスに戻ってきたら、今度こそ森野ミドリに化けてくれ!!!」
「お前こんな時にもまだそれ言ってんの!!?」
「そっちのモノホン福州の方でも可!詫びとしてダブル森野ミドリでオイラに奉仕してくれ!」
「何の話だ」
「無視して良い!」
瀬呂の冷静なツッコミが飛ぶ中でも、峰田は涙と鼻水をぐしゃぐしゃにしながら粘着球を投げ続けた。前足が地面に貼りつき、肩にまで重さがのしかかり、狐太郎の動きは確実に奪われていく。
それでも狐太郎の瞳は死んでいなかった。
痛み、怒り、混乱。そして、ほんのわずかな迷いと揺らぎ。
A組全員の叫びと痛みを伴う攻撃が、着実にその心の奥へと食い込んでいくのだった。
変身ができない。ならば、皮膚が裂けようとも力ずくでこの束縛を引き剥がすしかない。狐太郎はそう判断し、粘つく拘束物を引きちぎろうと筋肉に力を込めた。その瞬間、鋭い閃光が視界を真白に染め上げ、眼球を刺す痛みが奔った。思わず瞼を閉ざし、巨大な体を強張らせる。
「集光、屈折!!私だってここにいるんだからね!お友達だよ!見えてる!?ちゃんと見てッ!!」
「
眩光に追い討ちをかけるように足元がぐにゃりと沈み、狐太郎は反射的に踏ん張ろうとする。しかし、地面が溶け、どろりとした粘つく感触を帯びていた。沼のような足場が足裏にまとわりつき、支点を奪う。重心が流れ、巨体が揺らぎ、その後ろ足に、影が2つ、迫った。蹴りが迷いなく後肢に叩き込まれる。
骨格に直接響くような衝撃が走り、踏ん張りが利かず、更に体勢が崩れる。
「
「私たちだって友達だって事、忘れてるから転んじゃうんだよ!!」
「言いたい事山程あるけど!今は緑谷に託す!!」
「頼むぞッ!!」
立ち上がれない。口も塞がれたまま。
この状況をまとめて突破するには、強引に全部、力でこじ開けるしかない。狐太郎は喉の奥で唸りを殺し、全身の筋肉を収縮させる。だが、
「俺ら相手にまたただの力技か。それがまだ通用すると思ってんなら、傲慢だぞ化野」
凍気が空気を裂き、轟の氷が一瞬で狐太郎の足周りに広がった。鋼のような冷たさが皮膚に張りつき、動きを封じる。地面と体が結びつけられたように重い。
それでも、狐太郎は咆哮とともに力任せに氷を砕き、身体を起こした。口元を覆うテープ類も、筋力で裂いた。肺が自由になる。まだ戦える。まだ勝機はある。咆哮して周囲の生徒たちを吹き飛ばす。その刹那、
「調子に乗るんじゃねぇッ!!!」
建物の影を裂いて飛び出した爆豪が、眩烈な閃光を放つスタングレネードを叩き込む。耳が焼ける。視界が崩壊する。脳が揺れる。何度も同じ手を食らうわけにはいかない。だが、否応なく視界は奪われ、頼りになるのは匂いと物音だけ。
周りの気配を嗅ぎ取り、苛立ちのままに尾を振り回して生徒たちを薙ぎ払おうとした。その瞬間、尾の付け根から力が消えた。膝が落ちる。視界の隅で、札が淡く光り、狐太郎の生命力を吸い上げるように漂っていた。
「すまない、狐太郎。……袋叩きは趣味ではないけど、友達をたくさん作ったお前が悪いんだ」
体から力が抜けていく。四肢が支えられない。焦燥だけが胸に浮かび、思うように肉体が動かない。
「お願いインゲニウム!」
「任せろウラビティ!」
飯田がレシプロターボを発動した。
空気の裂ける悲鳴が響き、狐太郎の失われた視覚では到底追えない速度で突っ込んでくる。
そして麗日が狐太郎の体へふわりと触れた。重力が剥ぎ取られ、巨大な身体が持ち上がる。地面から浮かぶ恐怖と焦りが一気に胸を締めつける。掴めるものがない。変身もできない。抗う手段がない。
その一瞬の隙は、緑谷にとって致命的なまでに大きかった。
──発勁。
空気が破裂する。
三代目ワンフォーオール継承者の個性が輝き、緑谷の身体が爆発的に加速した。無重量の狐太郎へ、一直線に飛び込む。
「擬似100%デトロイトスマッシュ!!!!!」
拳が轟音を立て、狐太郎の巨体へめり込んだ。衝撃が全身を襲い、内側から骨が軋み、臓腑が揺さぶられ、軽くなった体が大砲の弾のように吹き飛ぶ。空中で何度も回転し、地面に叩きつけられるたび肉が削れるような痛みが奔る。転がり続け、摩擦と砂塵の中で、バリアントプライドの基地の出口前にようやく停止した。
(痛ぇ……めちゃくちゃに痛ぇ……)
全身が軋み、視界が揺れ、呼吸をするだけで肋骨が軋んだ。こんな痛みは生まれて初めてだった。起き上がろうと四肢に力を入れても、震えるだけで前に進まない。重力に引きずられ、そのまま倒れ込む。
(動けねぇ……)
筋肉が言うことを聞かない。
戦わなきゃいけないのに、倒さなきゃいけないのに、もう気力すら湧かない。
(そうか……)
足音がひとつ、真っ直ぐに近づいてきた。
緑谷だ。傷だらけで、血と泥にまみれ、皮膚のあちこちが裂けている。それでも彼は晴れやかな顔で、倒れ伏す狐太郎の前に立った。
「俺様、負けちまったか……」
呟きは、悔しさと、どこか清々しさが混じったものだった。完膚なきまでの敗北。クラスメイトたちの連携に、想いに、完全に負けた。
「僕たちの勝ちだね」
差し伸べられた手。
破れた手袋の隙間から血が滲んでいる。それでも彼は笑う。緑谷の笑顔はひどく優しく、そして痛々しく傷ついていた。血塗れで、それでも真っ直ぐに言った。
「そうか……そうだな……」
その返答は、戦いのすべてを受け入れたように静かで、どこか温かかった。
狐太郎は、緑谷の差し伸べた言葉を胸の奥で静かに噛み締めた。その余韻の中で、クラスメイトたちが次々に駆け寄ってくる。まだ荒い息をつきながら、傷だらけの姿で、しかし迷いのない目を向けてくる者たち。姿の見えない仲間もいるが、きっと何か事情があるのだろう。
福州は少し離れた一番後方で、皆を見守るようにその光景を眺めていた。
「化野くん」
「なんだ」
「ずっと、助けられなくてごめん」
「お前のせいじゃないだろう。そもそも、助けなんていらないぜ」
「それでも、ごめん。僕は、何もできなかった」
「別にそれは悪い事じゃぁないけど……まあその謝罪は受け取っておいてやる」
緑谷は、火傷や裂傷で無惨な状態の狐太郎の前足へそっと手を伸ばす。触れた瞬間、その痛々しい皮膚の熱さと、震える筋肉の感触が掌に伝わる。だが緑谷は怯まず優しい動作で、その大きな足を撫でた。
「僕は…君ともっと話したいし、一緒に訓練とかしたいし、放課後マックとか行ってみたい」
「私も一緒にカラオケとか行きたい!」
「また将棋やろうぜ」
「勉強教えてよ!」
「もういっぺん俺とタイマンしやがれッ!」
「皆で一緒にお出掛けしようよ!」
「そうだな……じゃあ、コンビニでアイスを買ったり、男気じゃんけんをしたり、台風の日に映画を見に行ったりするか?」
「うん。それも面白そうだね」
緑谷が笑う。その笑顔は、痛みに顔を歪めながらも温かく、仲間の声に支えられ、静かに光を帯びている。周囲の仲間たちの表情も同じだった。獣の姿の狐太郎を前にしても、その瞳に恐怖は一切なかった。ただ真っ直ぐな“友達を見る目”だけがあった。
「だから改めて、化野くん。雄英に戻ろう。罪は、償わなくちゃならないから、ずっと一緒にはいられないけど。帰ろうよ。みんなと」
その言葉の余韻を残したまま、緑谷は後方で黙って立つ福州にも声を投げかけた。
「君も、よければ一緒に」
その瞬間、福州が驚愕と戸惑いをないまぜにしたような表情を見せ、ほんの少し、固まった。仲間に入れてもらえると思っていなかった者の、それは一瞬の素顔だった。
だが、運命は残酷だった。
狐太郎の鋭い視力が、クラスメイト達の背後、神殿の奥から何かがこちらへ走り寄ってくるのを捉えた。
「あれは、」
「ッ、ドラコーの部下だ!!」
叫ぶまでもなく、全員が一瞬で理解した。
あの男は、ドラコーに強く心酔していたバリアントプライドの幹部の一人。その手には大きな爆弾が抱えられている。ミルコが血相を変えて叫びながら「逃げろ!!」と追ってくるが、とても間に合う距離ではなかった。
幹部の男は狂気じみた笑みを浮かべていた。
その爆弾は、ハイエンドすら一撃で昏倒させる威力を持つ、バリアントプライドの切り札の一つ。爆風の範囲は広い。この距離では、たとえヒーロー科でも誰かが死ぬ。せめて一矢報いてやると、隙を見て兵器を持ち出してきたのだ。最低でも、2、3人は殺してやる、と。
理解は、一瞬だった。
同時に、狐太郎の中で迷いは完全に消えていた。
考えるより先に、体が動いた。
足に残った力をすべて振り絞り、崩れかけの巨体で地面を蹴る。筋肉が裂ける。傷口から再び血が噴き出す。だが、それでも構わないとばかりに速度を上げ、幹部へ向かって飛び込んだ。
噛み殺しても意味がない。
爆弾を奪っても逃げ場はない。
投げ飛ばせるほどの距離も空間もない。
だから、爆弾を咥えて奪い取り、
そのまま全身で覆い被さった。
「狐太郎ッ!!!」
誰かの絶叫が響いた。
直後、世界が砕けた。
凄まじい爆音が空気を引き裂き、衝撃が背骨を折り曲げる勢いで叩きつけ、灼熱が皮膚を焼き破る。痛みと熱と衝撃の奔流が、狐太郎の全身を一度に貫き、意識をふっと飛ばした。
次に目覚めた瞬間、全身を襲う痛みが、現実へ引き戻す杭となった。焼け付いた肉の匂い、裂けた皮膚の隙間から流れる血の温度、骨が軋む音すら自分で分かるほどだった。
それでも、残りわずかな力を振り絞り、ぼろぼろの身体を起こす。視界が揺れながら、爆弾を運んできた幹部の男を探す。
そいつは生きていた。
だが意識を失い、倒れている。
狐太郎の裂けた体から血が滴り落ちていく。床に赤黒い斑が次々と落ち、混ざり合い、広がっていく。
クラスメイト達が驚愕と恐怖を滲ませながら駆け寄ってきた。その声が何か叫んでいる。だがもう、ほとんど聞こえない。いつもなら敏感すぎるほど響いていた音が、遠く、薄く、ぼやけていく。
(音が弱点になるくらい耳が良かったはずなのに……最期はこうなのかよ)
妙に冷静で、どこか他人事のような思考が頭の隅で揺れていた。