幻影   作:塩漬鰯

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#1

 

◇主人不在のあおぞら

 

 

 

 CLOSEの札が掛ったドアガラスの向こうに、暗い店内が見える。

 主人がいない店を見ていると、もの悲しさと同時に不安がこみ上げてくる。病院からここへ帰るまでに、いつの間にか、取り返しのつかない事態になっているのではないのかと。この三日間緊張が解けたことはない。

 この札がいつまでも表に返されないまま廃墟になった光景が頭に浮かんだ。悪い想像を頭から振り払い、洗濯物の入った鞄を抱え直す。

 

 戸締りを確認した後、俺は念のため『旋視』した。

 

 世界の色が変わっていく。物の輪郭がゆがんだかと思うと光の帯が道を占める。人のシルエットを引き延ばした帯がいくつも重なっている。ラジオの周波数を合わせるような感覚で視点を調節していく。

 光の帯が消える。建物の形も比較的元のままだが、すべてが灰色で淡い白の線に縁どられている。正面の道には無数の色の足跡が浮かんでいる。これも過去にここを通った人々を表しているのだろう。俺の視点では色にそれぞれの意味がある。他の想師はまた違うのだろうか。視点を調節し、生活の残像の中から最近通ったものだけを選出する。五人の足跡が店に向かっていた。

 淡いピンクのハイヒールと青い靴跡が並んでいて、離れていったように続いている。幸福と誠実の色。

 虚飾を表す黄色の革靴が、落ち着きなく歩き回った跡もある。セールスだろう。赤いスニーカーが大股で残っている。怒りを表すが、あまり悪い印象はない。大きさは子供の足だ。

 そして、濃い紫。一瞬、幽螺のものかと思ったが、辿っていくと自分の足元に続いていた。

 

 思わず苦笑し、自分が『現実』と呼ぶ世界へ視点を戻す。世界の色は戻り、足跡は消えていく。

 少し視界がぼやけ目頭を揉んでいると、聞きなれたエンジン音が近付いて来ているのに気付いた。

 

「草薙さーん」

 

 一組の男女が乗ったバイクがこちらへ向かって来ていた。

 声の主は、後部座席のこちらに手を振っている少女、といっても、もう二十五になるはずだが。カワサキのシルバーを乗りこなすライダージャケットの男は良く知っている。

 

 谷川真由と倉沢永次。

 バイクは店の前で停車する。

 

 後部座席に跨った彼女がヘルメットを脱ぐと、纏められた髪が翼のように拡がった。

 黒髪は細かなウェーブを描き、その一房一房の隙間から、淡い色の花が覗き、咲き乱れている。俺の使う視点では彼女の性質は植物の形で表れることが多い。

 

「こんにちは」

「どうも、兄貴」

 

 真由は軽く首を傾けて会釈し、永次はフルフェイスのバイザーだけを上げて、彼女のあいさつにぶっきらぼうに続ける。大人びはじめた真由と比べて言葉遣いが粗暴な頃に逆戻りしているような気がするが、言い咎めるつもりはない。

 

「卒業おめでとう」

「えへへ、ありがとうございます」

 

 真由は照れくさそうに笑い、一礼する。彼女の髪から花弁が飛び、視界の端に消えていった。

 

「まだまだ見習いですけど」

 

 彼女には「専業主婦と想師、どっちの道を進むべきか」という妙な相談を持ちかけられたこともあったが、今は看護師になったという。研修先は彩香のいる病院だ。その仕事を選び人一倍努力してきたのも、これまで彼氏が度々死にかけていたのを見ていたからか……どうかは、わからないが。

 俺は運転席に座る永次を見た。ヘルメットの下には、眉間から右頬へ走る古傷が覗いている。

 

「日取りはまだ決まってないか」

「まあ、はい。話し合ってはいるんですが……」

 

 頭を掻く仕草をして永次はむにゃむにゃと語尾を濁す。真由はそんな彼氏の肩を両手で掴んだ。

 

「だってね、聞いてくださいよ草薙さん。エイ君、地味婚にしようっていうんですよっ」

 

 彼女に肩を揺さぶられながら、永次は必死に車体を支えている。地味婚とは、予算を抑えた式という意味だったか。若者言葉はどうも使い慣れない。五歳くらいしか離れていないが。

 

「いやいや地味じゃなくて、つつましく上品にというかだな」

「ほら。エイ君、草薙さん達の式に影響されてるんですよ」

「そ、そんなことねえよ」

 

 どうも二人の間で意見に相違があるらしい。弱弱しく否定したが、後に続く言葉はない。その様子と沈黙に耐えきれず、俺は噴き出してしまった。

 それが真由に移り、連鎖した笑い声が次第に大きくなっていった。永次も困ったように笑う。なにげないことだが、心を埋めていた不安が少し和らいだ気がした。

 

 真由はヘルメットに髪を納め直した。

 

「式場候補を回ってるんです。さっきも教会を見て来たところで」

「そうか、だったら急がないとな」

「俺は兄貴と同じ所が良いんですけどね」

 

 永次が声をひそめて俺に言う。それは後ろの彼女にも当然聞こえている。彼氏を半眼で睨み、俺にまで同じ視線を送ってくる。師匠離れも急いだ方がいいだろう。

 

「じゃ、兄貴。また今度」

「またねー」

 

 エンジンを鳴らしてバイクが走り去っていく。

 永次の背面はロボットのように、配線と基盤の入り組んだ銀色の内部構造が、剥き出しになっていた。

 しがみついた真由から蔦が伸び、その内部に花を咲かせている。淡いピンク色。

 

 旋視していない時も、視点が入り混じるようになってから、どのくらいが経つだろう。

 

 彩香のことについて、永次も、真由も、俺も、語ろうとはしなかった。

 臨月を越えてから三日経つ。たったその三日が、あまりにも長く感じられた。

 

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