◇自室
振動音に気付き、たった今脱いだスーツの中を探った。たしか右ポケットに入れていたはずだが。あった。携帯電話の画面を点ける。
仕事以外にあまり使う機会はなかったが、ここ数日は寝る時以外肌身離さず持っている。病院からの連絡に備えて。
メールボックスに着信があった。差出人は『近江』とだけ。
『別件が入ったので、午後四時からお願いします。申し訳ありません』
内容は簡潔だった。俺から今日話したいことがあるとだけ伝えていたので、その返信だ。時計は午後二時を回ったところだった。洗濯物を干し終えて、時間を持て余した俺は何をする気にもなれず、そのまま横になっていた。
転視室に移る必要も、ないのでは。
さまざまな事が面倒になってきている、不味い兆候だ。
なんとか身体を起こしてゆるゆると支度を整える。
顔を洗う。洗面所の鏡に映るのは目つきが鋭く、精悍な顔をした男だった。見慣れた自分自身の姿。浅黒い肌で、唇を上げると牙のように鋭い犬歯が覗く。以前より伸びてはいない。
額の両側に、丸い硬い部分がある。『サトリ鬼の視点』の影響で生えた角の跡。ほとんど目立たなくなっていたが、触れるたびに血塗られた記憶が蘇る。
俺の本質は、残酷な殺人鬼だ。
◇アジト
転視はトランス状態によって既成概念の枠を飛び出し、本質から異なる世界像を創り出すことができる。その代わり肉体は無防備になる。予測外の刺客に襲撃されるかも知れないし、突然地震でつぶされるとも、何が起こるかわからない。
そのため想師は肉体を保護する場所が必要だ。俺の場合はこのアジトだった。地下の転視室へ続く扉は内側から開けることしかできないため、『位置逆転の視点』を使ってレバーをこちら側へ持ってくる。
二十畳ほどの部屋を四隅のライトが照らす。部屋の隅の食料と水、酸素ボンベを念のため確認する。賞味期限も問題なく変わった所はない。鋼鉄の扉をロックする。警報装置を作動させ、準備を整えた。
三つある寝椅子の内、俺用のものに体を横たえる。
精神を集中させる。息を吐くごとに意識が闇に沈んでいく。
背中を押される感覚があった。ガーゴイルの羽が窮屈そうに広がろうとしている。あわてて視点を調節する。
昔、ある同業者に「柔軟性がある」と言われた気がするが、制御できなければ無意味だ。深く息を吸って、もう一度心を落ち着かせる。
『現実』と呼ぶ世界から離れた、想念世界を捉える為に。
こうしている間に、取り返しのつかない状況になってしまっているのでは。
そんな不安を頭を振って追い出す。
暗い空に覆われた、どこまでも続く白い平野が広がっている。地上を蠢くのは死者と、それらと交信を試みる生きている者の魂だ。
『デッドマンズ・ネット』と呼んでいるこの世界の景色は、魂と交信するために俺の意識が作ったとも考えられる。やろうと思えば"生まれる前の存在"とも話せるのだろうか。想像はできないし、必要となる案件を受けたこともない。
転生。
前世の記憶を持ちこしているという人もたまに居るらしいが、一方で幼少期に見た本や逸話を自分の体験として誤認しているだけ、とも言われている。
どちらも可能性としてあると考えるのが想師だ。魂がリサイクルされる真実を選ぶとしても、それらは何もかも忘れてまっさらな状態で生まれるほうが俺はいい。
わざわざ前世の業を掘り起こす必要があるだろうか。
俺が生まれ変わった立場だとしたら。そう思うかもしれない。
骨を踏み割る俺の足は、黒い石で造られたガーゴイルのものだった。
◇想念世界・近江の応接室へ
ドアを開けると、白い煙が充満していた。
部屋の一点から細く煙が立ち上っており、天井に溜まる大群へと参加していく。冥界にも煙草はあるのか。師匠は酒を持ち込んだことがあったが。
熱気を持った粒子は目と鼻をチリチリと刺激し、現実世界のそれよりも不快に感じた。
煙の発生源を認識すると、そうも言っていられなくなったが。
「こんにちは、草薙さん」
ソファに座っているのは二人の男だった。
部屋の奥側、声をかけたのは見慣れたこの部屋の主である近江だ。
いつも通り背筋を正した姿勢で座っていて、両手を膝に置いている。もちろん喫煙者は彼でない。
手前のソファの男。後頭部をこちらに向けて、煙草をふかしているのは九鬼凍刃だった。
彼がコーヒー以外の嗜好品を手にしているのは初めて見る。
「どうした。豆鉄砲でも食らったような顔をして」
こちらを振り向きもせず九鬼が言った。嘲笑うような調子だが、低く良く通る声だ。最初に出会った頃の丁寧な敬語でもなく、ざらついた奇妙な声質でもなかった。
奴は俺と同じ師匠を持つ兄弟子であり、かつて死闘を繰り広げた間柄でもある。
「珍しいと思っただけだ」
机の上には数枚の資料のコピーと封筒、ガラスの灰皿が置かれている。既に数本、鎮火された吸殻が押し潰されている。俺は空いているソファに腰を下した。
九鬼は普通の人間として見えていた。
黒い礼服と革手袋はそのままだが、最初に会った頃よりも使い込まれている。トレードマークの山高帽は今は膝に置かれていた。
肌は生身で、のっぺりとした人工皮膚ではないし、黒々とした頭髪はパーマがかけられ短く整えられている。勇猛さと理知性を兼ね備えた風貌だ。絵物語に描かれた鬼を思わせる。おおよそ四百年前には想師の力を振るって戦国の世で活躍していたと聞いているが、この姿は当時の人間にはどう見えていただろうか。
俺自身の姿も、グレーのスーツを着た現実世界に近い姿になっていた。
「ご依頼の件で打ち合わせをしておりました。ちょうど今終わった所です。九鬼さんは使い所さえ間違えなければ有能な方ですので」
「実績は十分あるからな」
近江はいつもの涼しげな顔で目の前の男を評した。含みのある言い回しに、九鬼が笑いながら答える。
ここ数カ月、近江は九鬼にも依頼の紹介をしている。そのことは知っていた。
まだ幽霊ではなかった頃の近江を残忍に殺した張本人が、まさに九鬼その人なのだが。かつて自分を殺した相手であっても冷徹に、というより、そんなことは気にしていないかのように談笑している。
俺は呆れながらも、妙な居心地の悪さを感じた。
「どうだ、『鬼の視点』は使いこなせておるか」
九鬼がこちらを向いた。息に乗り、煙がこちらまで吹き流される。反射的に振り払い、結局話題にせざるを得なくなった。
「何を吸ってる」
「おお、すまん」
軽く謝罪を口にし、九鬼は灰皿に火種を押し付けた。
煙草を吸ったことはないが、あおぞらに来る客には飲食後の喫煙を楽しみにしている常連が何人かいる。今まで副流煙の匂いなど似たり寄ったりだと思っていたが、ずっと店を手伝っているうちに、今日はこの客が座っている等と気が付く程度には覚えた。
この部屋に充満する煙は今まで嗅いだことがない。革手袋の指に挟まれた白い紙包み。マッチと重ねて置かれているのは古い木製のケースだった。
さっきまでの不快感は薄れ、今度は妙に気分が落ち着いてくる。
「昔はこんなもの、楽しむ余裕がなかった」
「おや、色々と嗜んでいたと聞いていますが」
資料を封筒にしまっていた近江が質問する。相手の下調べは十分ということらしい。
「あの頃は神経まで変質しておったのでな。存在する物は片端から試したが、どれも無駄だった」
二人が話しているのはただの嗜好品のことではないだろう。俺は不安になり煙を払う。空気の流れを操作できればいいのだが。そういえば天承師匠は天候を操るのが得意だったな。
師匠に視点を固定された影響で、当時の九鬼の姿は化け物そのものだった。人間の悪意に染まり、全てを憎んでいた。
苦痛から逃避するためなら、どんな物質にも縋りつこうと思うのかもしれない。
「お前にはまだ必要ない」
俺の視線に気付き九鬼が言った。
ふと、違和感の正体に気付いた。
あのドロドロとした世界への憎悪が、奴を覆っていた強烈なシンボルが今はないのだ。
九鬼は俺にとって、未だに脅威の象徴であり、あの頃の緊張と悪意のやり取りがまだ記憶に残っている。奴が死んだ後、一度『九鬼らしき存在』に助けられたことはあるのだが、その姿と、それより前の姿と、今目の前に居る姿。まだそれらが、俺の中では、同一人物の奴として一致していない。
今の奴は、どうしてそうなったのかは忘れたが、生身の肉体で普通に仕事をしている。
本当に今、目の前にいる奴が。戦い、助けられた相手が、すべて同じ「九鬼凍刃」なのだろうか。
よく知っているようで知らない、遠い存在だ。だが、これも奴の姿の一つなのだろう。
「草薙さん。今日は何かご相談があるのではないですか」
近江が訊ねた。
そうだった。今日はそのために来た。まだ少し迷っていたことだが、九鬼を見てかえって考えが固まったようだ。
俺は近江に向き直り、その言葉を口に出した。
「実は、引退を考えていて」
一瞬、静寂が訪れる。
静寂を破ったのは九鬼の声だった。
「ギャハーッ、ハッハッハッ!」
爆発音のような笑い声。大きく開いた口は、裂け、鼻先がせり出し、爬虫類の鱗が顔を覆う。ティラノサウルスの顔が笑っている。甲高い奇妙な叫びに空気が揺れる。事務所の壁がぼやけ始めた。煙と混ざりあって蒸散する。その向こうに緑色の葉と空、原色のジャングルが見えた気がした。俺は慌てて視点を調節する。
やはり混濁している。転視中は特に起こりやすい。
ゲートという切り替え装置が消えたわけではないが、自分の意志に反して視点がずれていく。この『ピントずれ』に合わせて、世界の法則が絶えず変化しているのだとしたら危険だ。たとえば、物質界最強の想師が目の前に居る、今の状況はまずい。
近江が面食らった顔をしている。この男がそんな反応をするのも珍しい。視点干渉のせいか。
いや、九鬼の所為ではない。
彼の見開かれた目は、俺を見たままだった。
「まず、草薙さんからのご要望で、しばらく休暇期間を設けるお約束をしていましたね」
近江の声は、いまだ続いていた奇妙な笑い声に被さる。元の微笑した表情に戻り声も落ち着いているが、いつも通りではない気がする。
ようやくこらえた九鬼が彼の言葉を引き継いだ。
「お前ともあろうものが、一体全体どうした」
その顔は元の人間のものに戻りはじめていた。
俺は自分の身に今起こっている現象について、簡潔に話した。
「……不安になる気持ちもわかりますが、早急に考えることもないのでは」
近江はそう言った。
「倉沢さんは治療関係でも十分働けるようになりました。手を汚すような依頼は九鬼さんもおられることですし。しかし、草薙さんが適任であろう依頼というのも確かにあって」
「依頼が来ても、俺は受けない」
言葉を遮られ、近江はそれ以上続けるのをやめた。
「そう、考えているだけさ。回復したらその時は、また、よろしく頼む」
「なるほど」
俺は普通の人間で、一生暮らせるだけの貯金も蓄えてある。
その状態で想師をやめることになっても、俺自身は何も問題ないと思っている。
彼が心配しているのは、世界が滅亡するような事件が起こった時に、俺が使えないことだろう。世界的危機と言える状況をこれまで3度も経験してきた、どころか、一度滅ぼしてしまったことさえある。
しかし、もう俺が生きている内にそんな事態にならないことは『わかってしまって』いるし、俺以外にも有能な能力者はいる。
「目の病などぬるま湯に浸かっていた所為だろう。たかが三十路でもう衰えか。どうだ。今回の仕事、私の代わりにやってみるか?」
黙って聞いていた九鬼が口をはさんだ。書類で厚みが増した封筒で肩を小突いてくる。
今日はやけに絡んでくるな。あおぞらで見かけても話しかけては来ないのに。
「お前はまだまだ殺せるだろう」
ニヤニヤと口をゆがめた顔に、恐竜の冷酷で獰猛な笑顔が重なって見える。視点の影響か俺の心理がそう見せているのかはわからないが。やはりこいつは九鬼凍刃だ。
「俺はもうあの時以来……、休みを貰う前から、殺しの依頼自体を受けていない。近江にも頼んで、避けることにしている」
バチカンの刺客、と言いかけて、その案件自体がなかったことなっていたと気が付き、飲み込んだ。世界を改変した誤差は俺ともう一人だけが知っている。
確かに俺は、九鬼と同じ殺人者だ。だが同じ轍は踏まない。お前のように殺すことしかできない訳じゃない。
奴がまだ『サトリ鬼の視点』に固定されているなら、この本音も聞こえていたかもしれないが。
「くく、く、丸くなりおって」
九鬼はどこか寂しげに呟くだけだった。
「草薙さんの状況はわかりました。なにか困ることがあったらご連絡ください。くれぐれもご自愛なさってくださいね」
空気が悪くなった場を近江が強引に締める。
九鬼は真っ先に煙草の箱を掴んで席を立った。書類の封筒を片手に下げたまま、俺が入ってきたものとは別の、灰色の扉を開けて奴は事務所を去っていった。
俺は自分が入ってきた扉へ向かう。内側から見た扉はこげ茶色の木製だった。これをくぐれば転視から目覚めるはずだ。
「草薙さん」
部屋を出る間際、近江に呼び止められた。
「仕事のパートナーとして、草薙さん以上の方はいないと私は思っています。今は彩香さんのためにも、なるべくそばにいてあげてください」
振り返ると近江はソファに座ったままこちらを見送っていた。その笑顔は優しげに笑っていたが、無理をしているようにも見えた。
残念そうにしてくれるな。俺だってつらいんだ。
……つらい。なにが、つらいのだろうか。
仕事が出来なくなることか。あるいは、自分の精神が完全に狂気へ陥りかけているからか。
「たまに顔くらいは出すよ」
俺は冥界の事務所の扉を閉めた。