◇
「ありがとう、と言うべきか。お前の口から聴けるとは思っていなかった」
「これくらいは言えるよ」
百合咲解璃。日本を震撼させた連続猟奇殺人鬼。間接的にだが、奴には世界の再生を手助けされた。奴は『死』の存在そのものだと幽螺は言っていた。独自の意志や欲望を感じられない、ある種のロボットのようだとも。
この場に居ることが証拠とでもいえるだろうか。全知全能の神の座が点在するこの部屋を俺は改めて見渡した。
ここへどのようなルートで辿り付いたかはもう忘れてしまった。
「答えを求めに来たんだね」
百合咲が数歩横にずれると後ろに隠れていた者が見えた。椅子に座ったスーツ姿の西洋人。常人より大きな目は焦点が合わず虚空を見つめている。
かつて知識欲の権化とまで言われたゲール・ブライトが、その根源を失って廃人と化している。
奴がここに到達するために散々利用されたため、顔を見てもあまりいい気はしない。なにもしない全能神。
俺は気を取り直し、百合咲に質問する。
「お前は何か知ってるのか」
「話した方がいいのかな」
百合咲の冷えた視線はこちらを向いていた。俺の後ろに焦点が合っているようだ。
「君たちの信頼関係にひびが入らないか、心配なんだけど」
特に心配している様子もなく言う。
「まあ、正確な写本がほんの一辺でもあれば、魔術師として一流だろうね」
魔術師と奴は言った。ゲールとの信頼関係はとうに崩れているし、今の状態では望むべくもない。
ならば相手は決まっている。
「ここで得た知識が残っている。彼自身では引き出せないけど」
「その通りです。外部から魔術でアクセスすれば見られる状態にしました。約束ゆえ表層に流れ込まないようパーテーションを厳重にしたつもりでしたが」
「気休めだね」
「やはり、私のせいでしたか」
死の権化と会話しながら俺の背後から歩み出たのは、頭から黒い布を被った幽螺屍奇だった。
「というわけで草薙さん、私が真犯人です」
幽螺は悪びれた様子もなく、犯行を認めた。
「怒る気も起きない」
俺は深いため息を吐いた。
◇
「記憶はネットワークだから、関連するパーテーションの向こう側に記憶がどんどん取り込まれている」
「たしか視点の調整が上手くいかないと言っておられましたね。ふむ、技術に関する知識すらロックされてしまったということですか」
「だろうね。自分自身というより君の弟子のためかな」
「お陰様で霊格が上がった彼女はどんどん力をつけて、今まさに魔術師として成長期にあります。彼女にうってつけの教本があるのですから、それを与えないでおくなど可哀想で可哀想で……」
「俺は可哀想じゃないのか」
思わず口を挟むが、幽螺と百合咲はこちらを振り向きもせず談義を続行する。もちろん椅子は使わない。座れば目の前のカバリストのように、世界の全てを掌握するのと引き換えにあらゆる欲求をも奪われてしまう。
「僕も弟子は取ったけど、そういうのよくわからなかったなあ」
幽螺はおもむろに右手を自身の胸に当てて深く息を吸った。
「愛が足りないのですよ」
「まあ、いいや」
謳い上げた言葉はあっさりと受け流されてしまったが幽螺は気にする様子はない。布にあいた穴から覗く光る眼は、陶酔するように細められていた。
百合咲の弟子。見捨てられた記憶が、今の彼女に残っているかは定かではないが。
観念して俺は挙手した。
「俺もいいか」
「どうぞ」
応じたのは百合咲だった。
「ここで得た全能神の知識が完全に消えてないと言ったな。だが、俺は思い出せない。忘れているということは、消えたわけじゃないのか」
「忘れたと思っても覚えているものだよ。覚えていたという感覚自体は忘れていないだろう。ふとした時に思い起こされることはないかな」
確かに、奴の言う通り『記憶していたという記憶』はある。アルツハイマーの患者は自分が何かを忘れたことすらわからなくなるらしい。だが説明が付かないことも存在する。
「その知識が影響しているとして、なぜ目が悪くなるんだ」
「僕はわからない」
「古くより神の所有物を人間界に持ち出せば大きな代償が与えられるとされています」
幽螺が陶酔から戻ってきた。
「全能の知識も持っていくなら相応の代償が必要になりえる。ということは『己の持つ最も価値ある物を差し出せ』ということでしょうか」
「彼女でも命でもなく目なわけだ」
「草薙さんは想師として視覚に多くを頼ってきましたから。知識の代償には値するでしょう」
「なるほど。でも、失ってからが全盛期じゃないかな?」
「どういうことだ?」
百合咲の言葉に疑問を持った。
かつて幻術使いに視界を奪われた際、俺はなすすべがなかった。対抗するために眼を潰そうとしたがそれも阻止された。あの時は幻術による目隠しだったが、眼を失った想師に何ができるのだろうか。
「ううん、そうだな」
奴は斜めに俯き、椅子に座っている全能神の頭に手をかざす。ゲールは何の反応も見せない。
百合咲は少し考えるそぶりをしてから答えた。
「目の知覚から解き放たれたら、君はその分を想像力で補うことになるよね」
幽螺が無言で腕を組む。
百合咲は再び顔を正面に上げた。その両眼は深い闇の色をしていた。
「君たちは夢を水晶体で見ているのかな」
「選ぶ真実による」
俺はそう答えた。
「夢、というか、転視と言ったっけ。それは一時的に肉体を捨て、精神だけで世界の姿を見ている状態ではないかな」
「つまり現実の目を失えば、常に転視した状態になる、と」
幽螺が呟いた。
「そういうことかな。君の場合、世界の端から端を摘まんで畳んでしまうことも起きたままできるだろうね」
幻術に掛けられた時、俺は一度世界を滅ぼしていた。あれと同じことが起こるのか。
そうだとすると、あの時に目を潰してしまっていたら滅亡も早まっていたのだろうか。
いや。
「あの時点で潰していたら廃業していたかな。君はまだ人間だったし、それですべてが終わると信じていたから」
百合咲が先を読んで答えた。
「どうなるだろうね。君はどちらかというと悲観的みたいだし」
天を仰ぎ、百合咲は現実味のない話を淡々と続ける。幽螺は何も言わないままだ。
「さて、説明はこれくらいにしようか。不可避の脅威に対抗する力はなんだろう」
突然、奴は俺たちに詰問した。回答者は幽螺も加わっている。
脅威とはつまり、視覚を失った俺がまた世界を滅ぼしてしまう可能性か。それを避けるためにはどうしたらいい。
今日まで俺たちは何をしてきただろうか。世界を滅亡させてしまった時、俺は幽螺にナビゲートの代わりをしてもらいながら右往左往して想念世界を渡り歩いた。世界が完全に消える脅威に対抗して、俺は創造する視点を探していた。
「新たな視点を探すことか」
「それはちょっと遠回りかな」
どうやら最短ルートではないらしい。
「忘れることですね」
幽螺が答えた。脅威は忘れても残ったままじゃないのか。それは現実逃避、いや、それも真実のひとつになりえる理があるのか。
「忘却はバグでもエラーでもなく、生物の機能として存在しています。サヴァン氏症候群というものがありますが、あれは極端な分野だけに興味を持ち忘れる機能を失った状態とも言えます。老化による記憶の衰えも、思考に必要な情報以外は貯め込んでおく必要がないから忘れていくのです。死が不可避で対抗不可能なら考えても仕方がないですからね」
聞いてみればすんなり理解できた。なにもかも忘れず意識に滞留したままでは気が散って仕方がないだろう。
「君の師匠は長く逃げていたね」
天承師匠が生きてきた年数は知る由もない。忘れることによって死の存在から逃げていたのか。
九鬼も何百年と生きていた。奴は死者を見ることができなかった。それは恐怖からなのか、あるいは、死後の世界を切り離して現世にしがみつこうとしていたのか。
「魔術師は魂の永続を信仰することによって実践しております。想師もまた己と死の存在を切り離してしまえば、簡単に不老不死となりえますか」
「僕は絶対じゃないからね」
その死の概念そのものは軽く首をかしげた。人間をまねた仕草。
「なってしまったら、つまらないだろう」
百合咲が踵を返す。
奴は一つの椅子の近くで止まる。その空席は俺に向いていた。
空を旋回していたナビゲーターがスッと地上まで降りて来た。鷹は背もたれに鉤爪を噛ませる。
「視覚を失えば、君は完全へ近付く。しかしここへ知識を返せば、視覚は失わず現状維持ができる」
「知識を返せば、お前は俺を殺しやすくなるのか」
「うん」
百合咲はあっさりと頷いた。
「でも、本当に君が望んでいることは違うはずだ。さっきの答えにしても」
ふと百合咲は困ったように顔をゆがめ、薬指で眉間を掻いた。
「その知識は取引の材料になるとわかってるだろう。もちろん身近な魔術師にそれを与えようとも思っていない」
百合咲の言葉を聞いて、幽螺はやれやれと残念そうに肩を落とす。さっきからなんなんだこいつは。
「君は視力を失うこと自体、本当は恐れていない。ただ、ある未来の可能性を怖がっているだけだ。その答えをここへ求めに来たんだろう」
可能性。
それが何を指しているのかは、明白だった。
ナビゲーターは椅子から動かない。
「今この時にも探しているんだろうね。払う代償は最小限に、逃げ延び、あわよくば欲を満たしてもらう。そんな良い道があるんじゃないかって。それを本当にやってのけてしまうのだから油断がならない」
百合咲は淡々と続けた。蟻の観察でもしているような冷酷さで、俺と幽螺を見つめている。
「しかし、そんな大層な所からアプローチしなくてもいいと思うんだよ」
俺の質問を待たず、百合咲はそう言った。
「何?」
「つまり、君が最初に選んだ引退も、良い手の一つじゃないか」
「それでは彼女は救えない」
「救う必要があるのかな。だいたい、頑張るのは彼女だと思うんだけど」
百合咲はため息をついた。
心の底から呆れているようだった。
答えに迷っていると、百合咲は大きく欠伸をした。
「あとは君たちで相談しておいてよ」
椅子から離れた。幽螺と俺の間を抜けて何処かへと歩いていく。
「そうそう、差し入れありがとう」
振り返ると黒い男の姿は消えていた。
百合咲は去っていった。
「どうされますか。草薙さん」
「世界を知覚するものは、目だけじゃないんだろ」
俺は正直に答えた。
「できれば、ことが無事に終わるまであれとは関わりたくないんだ」
「彼は確かに現界した『死』でしたし、ここに現れたのもその存在として来ていました」
視線を向けると幽螺は黒猫の姿に替わっていた。
大きな瞳が俺を見据えている。
「しかし彼の手にかかる以外の不幸を、あなたは知っているはずです。子供の顔を見れないまま視覚を失ったとして、それも結構な不幸だとは思いますけどね」
尻尾を苛立たしく揺らして黒猫が言う。
それもそうだ。
「失いたくないというあなたのエゴを、彼女にも押し付けるつもりですか?」
「そんな気はないさ」
本音のはずだった。だが、俺の声は掠れていた。
黒猫の顔がフシュッと息を吐いた。どうやらため息だった。
「あるいは御粗末な脳味噌に残った全能神の知識で新宇宙でも作り上げましょうか」
「そんなことができるのか」
眼の前に星を湛えた宇宙の塊が見えた気がした。思わず反応すると幽螺が一層呆れた声で続ける。
「理想郷どころか地獄にしかならないでしょう。こんな言葉に期待するくらいお疲れらしいですね」
長い尻尾が動いて宇宙を霧散させた。
「このことは保留にして、もう目覚めなさい。目については私がなんとかします」
「いいのか、それで」
「返済期限は決められておりません」
黒猫の顔で意地悪く笑った。
その言葉を最後に、視界が白くなり、次に瞼を開いた時は慣れたベッドの上に居た。
彼女は、彩香は、喫茶店の店主で、母親で、普通の人間として生きている。
俺自身もそうやって、彼女と一緒に老いていきたい。しかし、永遠にこの幸福が続いてほしいと望んでいる面も確かにある。
失い方によっては、俺は死ぬことも忘れて、思い出に浸りながら彷徨う化け物となるだろうか。あるいは師匠のように、時代をまたいで生き続ける老人になるのか。
だが師匠は死んだ。長く生き過ぎたと言って、あの日この世から去った。
いずれその時は来る。
それまでに後悔しない選択さえしたらいい。