幻影   作:塩漬鰯

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#5

 

◇主人不在のあおぞら

 

 喫茶あおぞらは、いまだ休業中だ。

 調理場と客席を区切るカウンターから店内を見渡す。仕事中の彼女の視点。今は調理場の蛍光灯だけ点けて客席は無灯だ。配膳とレジ程度の手伝いはして来たが、彩香の手でしかできないことのほうが多い。

 カウンターにはうっすらと埃が積もっていた。彼女が帰ってくるまでに掃除くらいはしておこう。

 

 鳴らないはずのベルが鳴った。ドアを開けて何者かが入ってきた。影が歩み寄るにつれ細部の形が見えて来る。見覚えのある山高帽を認め、災厄が入り込んできたな、と思った。

 

「コーヒーをお願いします」

 

「今日はやってない」

 

 九鬼の注文に、俺は手で払うジェスチャーをしながら応えた。

 勝手に鍵を壊して入って来る奴は客ではない。

 

「それくらいできるだろう。味は嫁に敵わんだろうが」

 

 慇懃な態度を解き、九鬼はカウンターに手を突いて迫る。カウンターが割れないかと心配になった。昔ほどのおぞましさはないが歯を剥いた笑顔は凄味がある。

 

 コーヒーを飲むまで帰る気はないのだろう。

 

 準備を始めたのを見て、九鬼はようやく席に座り、山高帽を脱いだ。

 どうにも、こいつは苦手だ。

 

 彼女に教えられた通り、ソーサーを回しカップの正面を客側に向けて出す。

 

「砂糖」

 

 九鬼が指摘する。うんざりしながら、戸棚で眠っていた砂糖壺を探し出して補充する。

 

 白い結晶の粒をスプーン山盛りに掬い、いつものように一杯、二杯、三杯……今日は四杯目まで黒い液体に投入した。ティースプーンに持ち替えて、愛おしむ様にゆっくりかきまぜる。見てるだけで甘ったるくなったコーヒーを口に運ぶ仕草もどこか芝居がかっている。

 

 嫌いな相手とは、裏を返せば自分自身の嫌いな部分に似ていて、顔を合わせるたびにそれが鼻につくからだと。あおぞらに来ていた客が話していたのを思い出す。信じたくないが、思い当たる節はある。親近感が裏返って妙に鼻につく。

 苦手だ。

 一度助けられたことに感謝していないわけではない。悲壮な境遇に同情もした。

 

「入れた奴の甘えが移ってるな」

 

 九鬼はわざとらしく顔をしかめて酷評した。どうにかしてやれないかと思ったが、コーヒーを出した時点で客と認めてしまったようなものだ。

 俺は不満を飲み込み、台拭きを絞って掃除を始めた。

 

 

 

 

「なぜ私を生かした」

 

 ぽつりと、九鬼がつぶやいた。

 疑問はもっともだ。こいつなら、世界の滅亡と再生を把握していてもおかしくはない。なぜかそう思えた。

 

「わざわざ繋ぎ止めたのには理由があるだろう。『サトリ鬼』を返そうとでも思ったのか」

「さあな、俺は知らない」

 

 正確には覚えていないのだが。掃除の手を止めてカウンターを見る。顔を上げないままコーヒーの黒い水面を見つめていた。

 

「お前自身にやり残したことでもあるんじゃないのか」

「ふん」

 

 九鬼は鼻を鳴らすだけだった。一口すする。

 カップを置いて、視線を逸らしたまま、九鬼は言葉を続けた。

 

「私も必要十分は殺さないようにしておる。依頼人と直接会わんようにしたりな」

 

 ニヤけていた口角は下がっている。傾いた横顔はどこか疲れているように見えた。

 

「視点の固定から解放されたとはいえ、目の前に打算と憎悪で薄汚れた顔を出されればその腹の内も気になろう。それでは固定していた時と何も変わらん。で、なくとも。殺戮に身を投じているだけで、また肉体は変化していく」

 

 瞳がこちらを向いた。その眼だけはかつての頃と同じで黒々として、暗く冷たい気配を宿していた。

 

「しかし、私には殺す壊すしか能がない」

 

 俺の顔を見据えて、九鬼は宣言した。

 

「何もせんと生きていくことはできるが、それでは死んでいるのも同じだ」

 

 九鬼はそういうと砂糖壺の蓋をあけ、半分飲んだコーヒーに追加の砂糖を投入した。そこまで不味いか。

 

 死んでいるも同じ。

 『サトリ鬼の視点』で見ていた地獄の景色。それは俺自身も見ている。天承師匠は奴に「ひっそりと独りで死ぬが良い」と言った。あの悲しげな顔は、今でもはっきりと思い出せる。

 そうすることでしか社会と関われない。それがどれほど惨いか。

 

「殺さねば生きていけない。結局、それが私でしかないということだ。だが私に限ったことではない。命を削り身を焦がしてまで人は進まなくてはならんことがある。蔑まれようが、賞賛されようが。殺しではないにしても」

 

 九鬼は淡々と続ける。

 諭しているわけでは、ないのだろう。

 

「お前も変わらないはずだ」

 

 答え合わせを待つかのように、黒い瞳がこちらを見つめていた。

 

 

 

 

 

 天承師匠に言われたことがある。

 

「人を殺す仕事じゃ。なぜやりたい」

 

 俺は何も答えられなかった。

 

 師匠が渋っていた仕事が復讐殺人だと分かって、最初は戸惑ったが、自分から申し出たのだ。

 そして師匠に聞かれた。なぜやりたいのか。

 

 当時の俺は、何も答えられなかった。

 修行の成果を見せるチャンスを待っていた。自分をこき使っているこの老人をギャフンと言わせたいと思った。殺戮よりも一人だけを殺す方がまだ楽なような気がした。

 それらしい理由をいくつか考えることはできるが、口に出すことができない。

 

「……たとえば、こやつ一人を殺したら他の人間の命が助かるから、とか。たとえば、法律から漏れ出た凶悪犯を裁かなければならん、とか。仕事をこなせればこんな老人にこき使われることはない、とか」

 

 最後に上げた例でぎくりとしたが、師匠は終始優しい声だった。

 

「そうやって正当性とでもいうのか。今のお前には、それを口に出すのも憚られるわけじゃなあ。最初の一度、自分がやっても良いと思ってやったことが、ああいう結果になったわけじゃから」

 

 そうだ。

 自分が想師として目覚めた切っ掛けだ。それが引っかかっていた。

 両親を自分の手で殺したのだ、俺は。

 

 ふっ、と師匠が笑った。

 

「任せんとは言っておらぬ。意味など考えるのは余裕が出来た時で良いわ」

 

 そして、持っていた資料を俺に渡し、歯を剥いた笑顔で、だがどことなく寂しそうな声で続けた。

 

「自分が神になったかのような気持ちで行け。ただの虫けらでも潰すように」

 

 師匠は、自身の『目標』を諦めていなかったのだろう。俺に教えている時も。

 

「結局、最後に残るのはそういう奴よ」

 

 殺しの仕事をこなせるようになったことは、決して師匠の影響だけでない。俺が冷徹な人間嫌いである証明かもしれない。空想へ逃げていた高校生時代。この世界に自分が溶け込めていないような違和感は、勉強机で問題を解いていた頃から今も消えていない。

 『神の座』からこちらへ戻って来ないまま、師匠の期待に応えるべきだったのかもしれない。

 

 しかし、俺はそれでも。

 

 

 

 

 

 それでも。

 

「真実は無数に存在するからな」

 

 彩香のようになれるわけではないが、彼女のために尽くし、彼女を守るために俺は生きている。共に生きていくことを、彼女は望んでいるのだから。

 偽善であっても、彩香に少しでも近付きたいと思っていた。

 

「分岐は一つしか選べないが、一生一つの目標しか追えないわけじゃない」

 

 九鬼の生き方は否定しない。

 だが、九鬼と俺との差は大きい。

 

「師匠のように、まだ何百何千年と生きるつもりなら、この先も殺す壊すしか能が無いなんて決められないんじゃないか。自分に限界を設定するな。と、師匠も言っていたぞ」

 

 だから、簡単に命を削るわけにはいかない。それが俺の出した、今の答えだった。

 

 九鬼はしばらく黙ったままだった。

 静寂が戻ってくる。奴はコーヒーカップを手に取り、口に付ける。

 中身を一気に飲み干し、カップを手にしたまま、にわかに肩を揺らして笑い始めた。

 

「く、くく、くくくく……」

 

 あの恐竜の顔になるのではと不安になる。顔だけではなく全身も変化して、五十メートルくらいのスケールになってしまわないだろうか。いや、考えるな。俺の想像力のせいであおぞらが破壊されることになる。いざとなったら目を閉じるべきか。

 脅威の象徴を前に隙を見せるのを目蓋がなかなか許してくれない。

 

 しかし、奴は笑い声を抑えて、静かにカップを降ろした。

 

「私を一度殺しただけのことはあるわ。まったく甘ったれた思考だ。それに高慢だな」

 

 高慢の塊のようなこいつには言われたくない。俺を見る人間の顔は、また嘲るような表情に戻っていた。

 

 九鬼が席を立つ。スーツの懐からまだ真新しい札を取り出してこちらに向かって弾いた。

 それがヒラリとカウンターから滑り落ちそうになり、俺は慌てて代金を受け止める。

 

「まだまだ引退など出来んな。お前は」

 

 顔を上げた時には、奴はもう店の外に出ていた。窓越しに見えた歩き去っていく横顔はまだ笑っていた。

 

 緊張が解け、壊された鍵を直そうと俺は入口に近づく。

 しかしどれだけ調べても、ドアは壊されていなかった。

 

 

おわり

 

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