VOICEROIDのウェポンサイド//双天の鶴翼円舞   作:EMM@苗床星人

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熒惑編 第一幕 弓鶴、眠りの瓶にて目覚める

 

 

 三人は、今は穏やかな川の流れに沿って、高校へと続く土手の上を歩いていた。

 先程までの喧騒が嘘のように、世界はありふれた朝の光景を取り戻している。

 川面は朝日にきらめき、土手の草が運ぶ青い匂いが心地よい。

 弓鶴の三年間という途方もない時間を思えば瞬きのような戦闘だったが、それでも非日常に昂った神経を、この何でもない風景が優しく解きほぐしていく。

 

 そんな静寂を破ったのは、他ならぬ弓鶴だった。彼はどこか遠い目をして、ぽつりと呟く。

 

「夢とは、異界への扉であるーーとか、言われた気がする」

 

 その言葉は、川のせせらぎに混じって、どこか現実感なく姉妹の耳に届いた。TOWEATのデータベースにも、ボイロウェポンとしての教育課程にも、そんな詩的な一節は存在しない。

 茜と葵は、互いの顔を無言で見合わせた。

 その視線は「お姉ちゃん、知ってる?」「いや、うちも初耳や」と雄弁に語り合っている。

 二人の戸惑いを察してか、弓鶴は「いや」と曖昧に首を振った。

 

「ここは流石に本当に行ったか確証はないんだ、ただ……」

 

 彼の声は、まるで霧の中を手探りで進むかのように、不確かさに揺らいでいた。意識を自らの内側、記憶の深淵へと沈ませていく。

 

「薔薇の馥郁たる香りが満ちた、水盆のような階段の踊り場があって……緑色の髪をした女性に、そう囁かれた気がするんだ」

 

 その光景は、姉妹の脳裏にも幻のように浮かび上がった。磨き抜かれた大理石か、あるいは水鏡そのものか。どこまでも円く広がる床。壁も天井も見えず、ただ甘く噎せ返るような薔薇の香りと、天窓から射す月光のような光だけが満ちる空間。その中央に佇む、新緑の葉のような髪を持つ神秘的な女性……。

 弓鶴の言葉が紡ぐイメージは、それほどまでに幻想的で、そして儚かった。

 

「記憶は霞のように朧気で、確証はない」

 

 ふ、と弓鶴は息を吐き、夢想から現実へと意識を引き戻した。彼の瞳から、先程までの不確かさが消える。代わりに宿ったのは、この三年間で彼の身に刻み込まれたであろう、揺るぎない覚悟の光だった。

 妹たちの足を止めさせ、真摯な、それでいてどこか疲れたような眼差しで二人を真っ直ぐに見つめる。

 その記憶の後が、肝要と言わんばかりに。弓鶴は、口を開いた。

 

「確として言えるのは、俺は……寝てる間に、別の世界に転移しちゃってたんだーー」

 

 その一言が放たれた瞬間、土手の上の空気がぴんと張り詰めた。川の音も、鳥のさえずりも、遠くの車の走行音さえも、全てが遠のいていく。

 茜はゴクリと喉を鳴らし、葵は兄の言葉を一言も聞き漏らすまいと、その唇を固く結んだ。

 弓鶴は語る。

 自らが転移した世界、『天雷熒惑府(てんらいけいこくふ)』の、はっきりと思い出せる最初の記憶を。

 それは、薔薇の夢とは似ても似つかぬ、あたたかい木と梅の香りから始まる物語だった。

 

 

 

 

 

 

 気がついた時、伊織弓鶴は硬い何かに全身を包まれ、蹲っていた。

 手足の自由は利かず、まるで母の胎内にいる赤子のように身体を丸めている。

 やがて、外から機械的な解錠音が響き、彼の視界を覆っていた殻がゆっくりと開いていった。

 そこは、全てが木で造られた荘厳な広間だった。弓鶴が収められていたのは、さながら巨大な木製の蛹。

 後に聞かされた話によれば、それは熒惑(けいこく)の最高機密である『眠りの瓶』と呼ばれる装置であり、眠れる神々の夢を定期的に集約して莫大なエネルギーを生成する、一種の発電炉なのだという。

 あと少し発見が遅ければ、彼はその高密度の夢エネルギーに焼き尽くされ、黒焦げになっていただろう、と。

 ともあれ、宮殿の奥の奥、そんな国家中枢の最深部に突如として現れた不審者だ。

 弓鶴が丁重な扱いを受けるはずもなかった。

 

「おい、そこで何をしている!出ろ、子供がなぜこんなところに……とにかく、将軍に連絡しろ!」

 

「……っ!」

 

 今よりも豪奢な木製と布の合わさった鎧甲冑を纏った金髪の美女が周囲の衛兵に連絡を指示し、有無を言わさず弓鶴の腕を掴んで、蛹から引きずり出す。

 彼の首筋のすぐ真横には、眩い光を放つ刃が突きつけられていた。

 空気がチリチリと焼ける匂いと、肌を炙るような熱量。それだけで、この光剣がただの脅しではないことが痛いほど伝わってくる。

 剣を突きつけるのは美しい金髪の女性武士、その目は弓鶴の顔を見ると一瞬だけ翡翠色の瞳を輝かせて見開かれるが……すぐ思い直すように目を逸らした。

 

「迷い人か、お前も運がない……来い、神々と謁見させる」

 

 抵抗などできるはずもなく、弓鶴は兵士たちに促されるまま、木製の宮殿を歩かされた。

 床も、柱も、天井の緻密な彫刻に至るまで、全てが温かみのある木材で組み上げられている。

 渡り廊下から外を望めば、そこには信じがたい光景が広がっていた。空は一面、熟した梅のように深い紅色に染まり、眼下には果てしない桜色の雲海がたなびいている。

 その雲の間を縫うように、魚を思わせる流線的な木製の飛行艇が、高速で風を切りながら飛翔していく。

 道ですれ違う人々は、誰もが見たこともないオリエンタルで豪奢な衣装を優雅に纏っていた。

 その中で一人、よれよれのパジャマ姿で歩かされる弓鶴は、場違いさから強烈な羞恥心に襲われる。

 だが、その羞恥心は、首筋に突きつけられた光剣の熱量が生む、純粋な恐怖の前では些細な感情でしかなかった。

 じり、と刃が皮膚に近づくたび、心臓が氷の手に掴まれたように縮み上がる。恥ずかしいとか、気まずいとか、そんな思考はたちまち麻痺していく。

 どうでもいい。今はただ、この命を刈り取りかねない熱源から、一秒でも早く解放されたい。その一心だけが、彼の意識の全てを支配していた。

 

 

 

 

 通された謁見の間は、豪奢でありながら、いくつもの異文明が混淆した神宮のような荘厳さを湛えていた。

 壁に掛けられた色鮮やかなタペストリーには、日本語に似た文字が美しく織り込まれている。

 しかし、それは我々の知るそれとは遥か昔に分化したものなのか、あるいは単に達筆すぎるのか、古い書物を好み古語にも明るい弓鶴の知識をもってしても、一文字たりとも読み解くことはできなかった。

 豪奢な宮殿の壁一面を塞ぐあまりにも太い、御神木と一体化した玉座の立ち並ぶ大広間。

 部屋の中央を貫く真紅のカーペットを挟み、両脇に整然と並んだ衛兵たちが、カン、と木製のエナジーガンを兼ねた錫杖の石突を床に打ち鳴らし、一斉に張りのある声を上げた。

 

「天雷熒惑府、征惑大将軍(セイワクタイショウグン)様――弦巻天迴姫(ツルマキアマツマキヒメ)様、御成ぃー!」

 

 その声が響き渡ると同時に、弓鶴の隣を歩いていたマキが、眼前の玉座に向かって恭しく跪く。そして、一人立ったままの弓鶴の肩をぐいと引き、彼をも無理やり跪かせた。

 

「死にたくなければ頭を下げろ、神の御前だ」

 

「は、はぁ?」

 

 囁かれた声は、弓鶴が後に知ることになる彼女の快活なイメージとは全く違う、真面目で張り詰めた響きをしていた。

 だが、その声色には、今ならわかる、彼の身を案じる確かな優しさが滲んでいた。

 次の瞬間、眼前に並ぶ二つの巨大な木製の玉座が、バシャリ、と音を立てて無数の細かいパーツへと分解された。

 それぞれの玉座から伸びるアンテナ状のパーツの先端が、梅色の閃光をバチバチと激しく放電させ、その中心に眩い光球を生み出す。

 そして、まるでCGのように、光の周囲にポリゴンが組み込まれていく。光球を核として、それぞれ赤と青の髪色をした幼子の肉体が瞬く間に形成されていく。

 同じく放電の中から生まれた巫女服のような神々しい天衣をその身に纏うと、二柱の神だけ、そこにあるはずの重力が薄いかのように、ゆっくりと宙を舞い降りた。

 そして、元の形にガシャリと戻った玉座に、寸分の狂いもなく腰掛けた。

 二人の幼子は、どちらも中性的な顔立ちをしており、ぱっと見では性別の区別がつかない。

 やがて、赤い髪をした少女らしき神が、玉座の肘置きに片肘をつき、退屈そうに口を開いた。

 

「葦原(あしはら)よりの、客人か」

 

 その一言が発せられた瞬間、弓鶴は腹の底から冷たい氷の塊を叩き込まれたような、凄まじい悪寒に襲われた。

 憎しみ。そうとしか表現できない、絶対零度の感情が、空気全体を震わす声と共に、彼の魂へ直接叩きつけられたのだ。

 しかし、その身を竦ませるほどの緊張は、もう一方の、青い髪をした少年然とした神の声によって唐突にかき消されることになる。

 

「違うよヒメ、彼は魂魄座標も規律文書も違う……僕らの知る葦原(地球)の住人じゃないよ……君、マキも、面をあげていいよ?」

 

 言われるがままに、弓鶴とマキは恐る恐る顔を上げた。

 音もなく、いつの間にか、赤い髪の少女――ヒメの浄瑠璃細工のような蒼い瞳が、鼻先が触れそうなほどの至近距離で、弓鶴の顔を覗き込んでいた。

 

「ひっ……!」

 

「……なんだ、つまんなぁい」

 

 間近で悲鳴を上げた弓鶴に、ヒメは心底興味を失ったというように呟くと、ふいと身を翻し、とてとてと玉座へと歩いて戻ってしまった。

 

「じゃあ、話を聞こうか……異界の葦原よりの夢見人。僕はミコトと呼べばいい。僕らはこれでもこの世界の神だ、頼るといい」

 

 ミコトと名乗った青い髪の神は、穏やかにそう告げた。だが、おいそれと頼っていいものだろうか。

このわずか数秒の間でさえ、生きた心地がしなかった弓鶴は、ただただ正直にそう思うしかなかった。

 

「えぇと、話すと言っても……僕自身、何が何だか。寝てたら、いきなりここの木の蛹に入れられていた、というか……」

 

 弓鶴がおずおずと語ると、玉座にふんぞり返っていたヒメが、顎に小さな手を当てて彼を値踏みするように観察し始めた。

 

「ウムル・アト・タウィル辺りが悪戯でもしたか……いや、引き合った形跡もあるな」

 

 呟かれた異質な単語の意味は分からない。

 だが、その探るような視線は、まるで自分が解析されるべき無機物になったかのような居心地の悪さを弓鶴に与えた。その緊張を解きほぐすように、隣からミコトが穏やかに口を開く。

 

「弓鶴、君は君のいた世界を夢だと思ったことはあるかい? そうだな、それか、誰かが作った物語だとか」

 

 名乗った覚えもないのに、当たり前のように名前を言い当てられ、弓鶴の背筋に再び冷たいものが走る。彼は内心の怯えを押し殺し、辿々しく答えた。

 

「夢ぇ……は、ないです。物語、だったら……そういう設定の映画を見たことはあります」

 

「うん」とミコトは頷き、世界の真実を語るかのように続けた。

 

「この次元世界にはね、基底現実に住まう数多くの源夢神(アザトース)が見る夢が漂っている。それは君たち人間が見る夢と、規模は違えど本質的には同じものだ。

だから、その夢同士がどこかで繋がって、君は何らかの空間異常に偶々巻き込まれてしまったんだろうね……要は、神隠しというやつさ。僕らのせいじゃないけど。」

 

「だとしたら寧ろ、『眠りの瓶』が君をキャッチしたのが幸運だったかもね」

 

 と、ヒメが会話に割り込む。

 

「そうじゃなかったら、狭間で意味消失してたかも……」

 

 意味消失。その言葉が具体的に何を指すのかは分からなかったが、自分の存在そのものが、データのように消去されてしまうような、根源的な恐怖を弓鶴は直感的に察した。

 要は、寝ている間に遭難し、危うく消滅しかけていたということか。

 

(なんだそれ、迂闊に寝れないじゃないか……)

 

 あまりに規格外な現実に思考が追いつかないまま、弓鶴は最も切実な疑問を口にした。

 

「あの、お言葉ですが、僕はこれからどうしたら……」

 

 その問いに、二柱の神は顔を見合わせ、少し考え込む。

 

「ううん……せっかく拾ったものだしなぁ」

 

「何か変な神の因子も入ってるし」

 

 今ならわかる。ヒメが言った「変な神の因子」とは、ボイロウェポンとしての資質のことだったのだろう。だが、当時の弓鶴には知る由もなかった。

 その時だった。それまで黙って控えていたマキが、すっと前に進み出た。

 

「――熒惑天満鳴花双神(けいこくてんまんめいかふたつかみ)、鳴花飛雷姫(めいかとびいかつちのひめ)様、鳴花梅天命(めいかうめあまつのみこと)様!

折言もて、お頼み申し上げます!」

 

 厳かで、凛とした声が謁見の間に響き渡る。マキは、額が床につくほど深く、深く、二柱の神に頭を下げていた。

 

「この者の身柄、私がお預かりしてもよろしいでしょうか……!」

 

 その、あまりにも真摯な嘆願に、それまで全てを見通すかのような態度だった二柱の神は、揃ってぱちくりと目を丸くした。

 

 

 

 マキの、魂を絞り出すかのような嘆願。

 それまで全能神といった風体でふんぞり返っていた双神は、しばし沈黙し、互いの顔を見合わせた。

やがて、先に口を開いたのはヒメだった。その声色は、熱に浮かされた娘を嗜めるかのように、どこか冷ややかだ。

 

「マキや、マキ。彼は言うなれば葦原どころか別次元の人間だよ。この宇宙に所属する人間ですらないよ?」

 

「はいっ、承知しております」

 

 マキは顔を上げぬまま、しかし迷いのない声で即答する。

 そのあまりに真摯な言葉に、ヒメは小さくため息をつきながら、こめかみを押さえて玉座に深く寄りかかった。

 続いてミコトが、穏やかながらも芯を射抜くような声で語りかける。

 

「私たちも鬼じゃない。この客にはもとより相応の居場所を与え、匿うつもりだ。君が責任を負う必要もなければ、彼をどうこうする権利もない。それでも、それを進言するのかい?」

 

 その口調は、弓鶴の耳には逆に、マキの覚悟を試しているかのように聞こえた。彼女の忠誠心と、そして本心を。

 だが、マキの決意は揺るがなかった。

 彼女は一度だけ、強く頷くと、床に伏したまま、さらに言葉を募らせる。

 

「この出逢いはひとえに、御身の奇跡の一部と存じ開けます故にっ! 何卒、なにとぞっ……っ!」

 

 懇願とも祈りともつかぬ声に、ミコトは『違うって』と言わんばかりに困った表情を浮かべた。

 しかしその時、隣からヒメがくつくつと笑いながら身を乗り出し、ミコトの肩をとんと突く。

 双神は一瞬だけ、言葉なく視線を交わした。

 何か、弓鶴には到底理解できない次元での合意が形成されたのだろう。

 玉座にふわりと戻ったヒメは、心底愉快そうに、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。

 マキの、命を懸けたかのような願いは、その笑顔によって、あまりにもあっさりと受け入れられた。

 

「いいよ。ちゃんと餌あげて、お世話するんだよ?」

 

 まるで道端で拾った仔猫の処遇を決めるかのような、皮肉の効いた、それでいて食えない返答。

 だが、マキにとっては望外の天啓だった。

 彼女は震える声で、絞り出すように感謝を述べる。

 

「有り難き……幸せに存じます!」

 

「……!」

 

 反論する術など、弓鶴にあるはずもなかった。

 ただ、自らの事実上の所有権が、不可解な神々から目の前の女性武士へと移譲されたという事実を、呆然と受け入れるしかない。

 

「異次元の葦原人よ、汝の処遇はそのマキに任せよう」

 

「気を張っていなければ良い子だから、その子をよろしくねぇ」

 

 言うが早いか、双神の幼い身体が淡い光のポリゴンへと分解されていく。

 核となった光球は、すうっと背後の御神木に吸い込まれるように溶けて消えた。

 ドクン、と心臓のように光が脈打つと、御神木の幹に幾何学的な電子回路模様が走り、荘厳な神の帰還を知らせる。

 静寂が戻った謁見の間で、弓鶴は愕然としていた。

 

(よろしくって……さっきからの話で俺は、この人に何をしろって言うんだ?)

 

 よく分からないまま、マキに促されるままに立ち上がり、三人は謁見の間を後にした。

 背後で木の襖が閉まり、神々の気配が完全に断たれる。

 周囲に誰もいなくなった、その瞬間だった。

 将軍――マキは、ふぅ、と大きなため息をつくと、それまでの重苦しい雰囲気を霧散させ、少女然とした声で呟いた。

 

「やっちゃったなぁ……」

 

 そのあまりの変わりように、弓鶴は目を瞬かせる。マキは気まずそうに頭を掻くと、くるりと彼の方を向いた。

 

「とりあえず、名前聞いて良いかな?」

 

「あ、はい……伊織、弓鶴です」

 

 その名を聞いて、マキは……小さく唇を結ぶと、何かをこらえるように、しかし嬉しそうに歯を見せて微笑んだ。

 

「征惑大将軍――まぁ硬い肩書きはいいか。弦巻天迴姫……マキとでも呼んで? よろしくにぇ?」

 

 先程までの張り詰めた武人然とした口調とは似ても似つかぬ、甘く、少し気の抜けたような口調。

 緊張の糸を無理やり断ち切られた弓鶴は、ただただ戸惑いながら、頷くことしかできなかった。

 

「よ、よろしくお願いします」

 

 

 

 

 今度は刃こそ突きつけられていないものの、状況は変わらず連行される身だ。弓鶴はマキとその親衛隊たちに前後を固められ、長く、どこまでも続く木造りの廊下を歩かされていく。

 奇妙な構造だった、御神木に寄り添うように形成された一つの宮殿に、その一部としていくつもの施設が併設し一つの都市が形成されている。

 その構造はまるで巨大な蟻塚のようでもあり、おそらく外を行き交う飛行機械は別の蟻塚との連絡路の役割だろう。この世界に、この御神木以外の場所は存在しないのかもしれない。

 やがて一行は、広い宮殿の一角に存在する、明らかに個人の居住区画と思われる豪奢な屋敷の前にたどり着いた。

 

「マキ将軍、これ以上奥にお連れになるおつもりですか?」

 

「うるさいなぁ、こっから先は私の勝手でしょうが」

 

 部下の一人が咎めるように言うと、マキは先程までの神前での態度が嘘のように、気を抜いたフランクな口調で応える。その変化に、後ろの護衛たちがヒソヒソと囁き合った。

 

「……大奥?」

 

「マキ様がついに大奥をお築きになるおつもりか……」

 

「違うってば! いいから、お前たちは各々持ち場に帰れ! あとは私が何とかするから!」

 

 部下たちに揶揄われ、先の威厳も張り詰めた空気も霧散してしまったマキは、顔を赤くしてぷりぷりと怒っている。その姿は、一国の将軍ではなく、年相応のただの少女のようだった。彼女は半ば強引に護衛たちを追い払うと、はぁ、と一つ大きなため息をつく。

 

「……じゃあ、こっち来て」

 

 まだ少し息を切らしながら、顔を赤らめたままのマキが、弓鶴を屋敷の中へと案内する。

 それは、奇妙で、あまりにも美しい光景だった。

 この宮殿自体が、一つの巨大な御神木に寄り添うように築かれた都市サイズの建築物なのだと、弓鶴は道中で理解し始めていた。そして、その中に入れ子構造のように存在するマキの屋敷は、壁や天井の所々から生命力に満ちた神木の枝葉が伸びていながらも、完璧に優雅な生活空間を形成していた。

 それだけではない。エネルギー源の分からない柔らかな光源が室内を照らし、壁にはパソコンのモニターに似た薄い情報機器が埋め込まれている。伝統的な和風意匠で整えられたオリエンタルな建築の内に、近代的なシステムが少しの違和感もなく、ごく自然に搭載されているのだ。あまりにも異なる文明が高度に融合した光景に、弓鶴は思わず感嘆の声を上げた。

 

「わぁ……」

 

「君の世界とは、随分と違う?」

 

 通された客間で、マキはそう言いながら温かい飲み物を差し出した。抹茶のような深い緑色をしている。

 一口啜ってみると、ふわりとした優しい甘さが口の中に広がった。

 

「は、はい……。でも、何で俺なんかを……? 俺は、ここで、何をすればいいんですか?」

 

「んー、とりあえず小姓として雇おうかなって。勝手に決めちゃって申し訳ないけど、いいかな?」

 

 マキは少し気まずそうに視線を彷徨わせる。

 

「理由は聞かないで。ちょっと、個人的な理由なんだ……。ただ、悪いようにはしないし、さっきあいつらが言ってたみたいに、変に手籠にするとか、そういうワケじゃないから。それは、信じて?」

 

 年相応の、どこか必死な口調でそう言うと、マキはじっと弓鶴の顔を見つめた。その瞳には、初めて会ったはずの人間に対するものとは思えない、不思議な感情が滲んでいる。

 彼女自身もそれに気づいたのか、はっとしたように自分から目を逸らし、少し早口で屋敷の設備や暮らし方について説明を始めた。

 それからしばらく、弓鶴は彼女の屋敷の小姓として、住み込みで働くことになった。

 

 

 弓鶴の小姓としての日々は、驚きと発見の連続だった。マキとの他愛ない会話の中で、彼はこの世界の成り立ちについて、少しずつ知識を深めていく。

 マキが言うには、この熒惑(けいこく)という国は葦原――地球でいうところの火星に当たる惑星で、もともと人の住める場所ではなかったのだという。

 弓鶴はその言葉に、知っていたというよりは、腑に落ちる感覚を覚えていた。古書を好む彼にとって、「熒惑」という言葉が火星の古い呼び名であることは、馴染みのある知識だったからだ。

 

「大昔に一人の偉い人と、あの双子神が、その権能でここに御神木を立てたの。私たち人間の居住空間を作り出して、『天雷熒惑府』って名付けたのがこの国の興りだにぇ」

 

 そう語るマキは、弓鶴を屋敷の中腹にある、雲海を臨む広い道場へと案内していた。板張りの床は塵一つなく磨き上げられ、正面の壁が大きく開け放たれている。そこからは、眼下に広がる果てしない桜色の雲と、熟した梅色の空が一望できた。

 

「そして、長い時をかけて地球と同じ環境になると、今度は地表が暗い雲海に包まれちゃったから……双子神の真体でもある御神木『大飛震塔梅(おおとびぶるとうむ)』に都市を移して、今の生活が出来上がったってわけ。あの双子神は私たちにとっては、天地開闢と、住む場所そのものの神様なんだよ」

 

 なんとも壮大な、テラフォーミングの神話である。弓鶴がそのスケールに圧倒されていると、マキはふと足を止めた。

 

「……ほいっ」

 

 彼女は、徐(おもむろ)に壁にかけられていた木刀の一本をとると、軽い動作で弓鶴に投げ渡した。

 

「わっ……とと、え?」

 

 突然のことに、弓鶴は慌ててそれを受け止める。ずしりとした樫の木の重みが、彼の手に伝わった。

「流石に将軍の小姓たるもの、剣の一つも振れないと示しがつかないからにぇ? まぁ、運動がてら、剣の稽古を受けてもらうよ。私が直々に教えるから」

 

「よ、よろしくお願いします?」

 

 初めはぎこちない素振りから。

 次に、基本の型。そして、やがては本格的な撃ち合いへ。

 マキとの剣の稽古は、弓鶴の驚異的な覚えの早さもあって、すぐに二人の新しい日課となった。

 日の出と共に道場に立ち、木刀を交える。

 汗を流し、息を切らし、時には一本取られて悔しさに顔を歪め、時には鮮やかな一撃を決めてマキを驚かせる。

 そのやり取りは、弓鶴にとって、この異世界で初めて得た確かな「日常」だった。

 だが、その穏やかで、しかし謎に満ちた日常が続いたのは、わずか一ヶ月。

 

 宇宙からの侵略者がこの熒惑――火星の都を襲うまでの、束の間のことであった。

 

 

 

 

 その日も、屋敷区画の一部を占める道場に、カン、カン、と木刀のぶつかり合う小気味よい音が響き渡っていた。

 眼下には果てしない雲海が広がり、熟した梅色の空がどこまでも続いている。そんな壮大な景色を背景に、二人の影が激しく交錯していた。

 

「弓鶴、もっと肩を落として。君の成長は早いけど、その分、力が有り余って振り回されてるよ」

 

「はぁ、はぁ……はいっ!」

 

 マキの指導はとても丁寧かつ実践的だった。

 その兵器としての出自を本人が知らないとはいえ、弓鶴の中に眠る天賦の才は、この一ヶ月で日に日に開花していく。

 マキは彼の驚異的な吸収力に目を見張りつつも、教えがいのある弟子を得たことを心から喜んでいるようにも見えた。

 一際鋭い打ち込みを最後に、二人は薄い道着を汗で濡らしながら木刀を納め、互いに深々と礼をする。

 

「凄いじゃないか弓鶴、どんどん私の技術を飲み込んで行ってる……一本取られちゃうのも時間の問題かも」

 

 濡れた道着に透ける豊満な肉体。

 その首筋に滴る汗を手の甲で拭いながら、からかうように笑いかけるマキに、弓鶴は顔を赤くして思わず目を逸らした。

 

「ふぅ、自分でもびっくりです……マキさん。でも、まだまだですよ……帰る手段も、まだ全然探せてませんし」

 

 その言葉に、マキの表情が少しだけ曇る。

 神々、ヒメとミコトへの謁見は、あの日以来一度も叶っていなかった。

 マキが言うには、あの全能の神々でさえも、星の数ほど存在する並行宇宙の中から弓鶴の故郷だけを特定するのは至難の業なのだという。

 広大な砂浜から、特定の砂一粒を探し出すに等しい作業なのだ、と。

 超次元の距離的にもそれほど遠くはない筈だと辺りをつけてこそいるが、その予想範囲内でさえも世界の数は膨大なのだ。

 申し訳なさそうに眉を寄せるマキに、弓鶴は努めて明るい笑顔を向けた。

 

「でも、見つかったら俺が出発した時間に戻してくれるって言ってましたし、それだけでも感謝しかありませんよ! 神様たちにも、マキさんにも……本当に、ありがとうございます」

 

 その真っ直ぐな言葉に、マキは潤んだ翡翠色の瞳で照れくさそうに頭をかきながら言った。

 

「別に、お礼を言ってもらうような事じゃないよ……。さ、ご飯にしようか。お昼は何?」

 

「あぁ、それなら天神鶏の煮っ転がしと……」

 

 そうして、今日も穏やかな昼食に移ろうとした、その時だった。

 

――カン、カン、カン、カン!

 

 木を打つ音を巨大な拡声器で増幅したような、けたたましい警報が宮殿中に鳴り響いた。

 それは、二人が築き上げた束の間の日常に、終わりを告げる音だった。

 

 

 けたたましい警報音は、思考する余裕さえ奪い去っていく。

 

「な、何ですかこれ!?」

 

「敵襲、2.5.2……外文明系からの侵略を著す符丁だ。ちょっと行ってくる!」

 

 マキの表情が、一瞬で「将軍」のそれへと切り替わった。

 もはやそこに、先程までの穏やかな少女の面影はない。彼女は道場横の個室へ駆け込むと、戸を閉めるのももどかしく、汗に濡れた道着を脱ぎ捨てた。

 弓鶴は慌てて視線を逸らす。

 シュゴォ、と音を立て、洗浄装置から噴射される浄化の蒸気が彼女の豊満な全身を包み込む。

 水滴を弾く清浄な肌に、マキは手際よく駆動式の鎧具足を装着していく。

 カシュン、カシュン、と機械的な駆動音が響き、彼女の四肢に木製の装甲が吸い付くように嵌合していく。

 神の一部がプログラムとして組み込まれたその具足は、装着者の意思をノータイムで読み込み、彼女の動きに合わせて力強いアクチュエーターを駆動させた。

 弓鶴が慌てて後を追うと、マキは既に屋敷の前で待機していた木製の飛行機械に乗り込むところだった。

 意を決して、自分もついて行こうと一歩踏み出す。だが、マキはそれを制するように、ぴたりと手を出して止めた。

 

「大丈夫、この手合いには慣れてるから……君は、こっちには来るな」

 

「マキさん……」

 

 問いかける弓鶴に、マキはふいと目を伏せて表情を見せない。ただ操縦者を促すと、飛行機械は静かに浮上していく。

 残された弓鶴は、本殿の方角へ一直線に飛び去っていく機影を、それが巻き起こす気圧差の業風に髪を揺らしながら、ただ見送ることしかできなかった。

 屋敷の戸を静かに閉めると、弓鶴はぽつりと呟いた。

 

「マキさん……どうして」

 

 自分を鍛えながら、自分を戦いから遠ざけようとする。彼女の真意が分からない。

 もどかしい思いを振り払うように、弓鶴はとぼとぼと掃除でも始めようかと廊下を歩み始めた。

 だが、その一歩は、すぐ目の前に立つ小さな人影によって止められる。

 影は、いつからそこに立っていたのか。

 気配すら感じなかった。そこで一瞬遅れて、弓鶴はその影が誰であるかに気づいた。

 

「ひ、ヒメ様!?」

 

 慌ててその場に跪こうとするが、ヒメはそれを面倒くさそうに片手で制した。

 

「君は気になってるんじゃないかな? マキが何で君を鍛え、それでも君をどこかで線引きしている理由」

 

 囁くように紡がれた言葉。その表情は、神という尊い肩書きとは裏腹に――いや、あるいはそれこそが神性の本質なのか――万物を見透かし、弄ぶかのような、悪魔の笑みに見えた。

 それでも、弓鶴はこの問いに真摯に返さなければならないと、直感的に悟っていた。

 

「……はい」

 

 正直な答えに満足したのか、ヒメは懐から小さな鈴がついた剣の柄(つか)を差し出す。

 

「これは私たちの力の一部を、どこでも使えるようにするための『霊子端末』っていう機器だ。この国の武士一人一人に支給しているものでね。所有者が死んだら、私がこうして回収している」

 

「……ということは、これはその、亡くなった人の?」

 

 ヒメは答えず、ただ柄を操作する。

 すると、その先端から淡い光が放たれ、中空に一人の青年の顔を立体的に映し出した。

 

 弓鶴は、息を呑んだ。

 そこに映っていたのは、自分と寸分違わぬ顔。

 だが、その身に纏っているのは、先程マキが装着したのと同じ、熒惑の木製機械的な鎧具足だった。

 

 

 ヒメの瞳は、弓鶴が見つめ返すのを躊躇うほどに深淵だった。

 それは熒惑の梅色の空とは似ても似つかぬ、故郷の蒼穹。

 だが、その果てにある宇宙の闇をそのまま封じ込めたかのように、どこまでも青く、そして暗い。

 その双眸は今、目の前の弓鶴を映しながら、まるで遥か過去に失われた誰かの嘆きを追憶しているかのようだった。

 

「前も言ったけど、宇宙とは物語だ。そこには『特異点』という、物語の主役や端役の『役柄』が存在する。

役柄が違うだけの同一人物が、別の世界の主役として存在することも物語宇宙全体じゃ珍しくないんだよ」

 

 神の口から紡がれる、あまりにも詩的な世界の真実。

 それは今まで聞いたどの超次元的な科学解釈よりも、不思議とスッと弓鶴の心に染み込んでいく。

 そうだ、自分はそういうものなのだ、と。

 この広大な物語宇宙において、異なる役を与えられた、無数の「伊織弓鶴」という存在の一つに過ぎないのだと、彼は納得していた。

 

「じゃあ、この人は……この世界の、俺?」

 

 息を呑んで問う弓鶴に、ヒメは表情一つ変えずに告げる。

 

 「伊織弓鶴翅尊(イオリユヅルハノミコト)。マキの弟がわりの弟子であり、家同士の定めた婚約者だった」

 

 ――婚約者。

 その一言が、雷のように弓鶴の脳天を貫いた。

 言葉を失う。脳裏に、この一ヶ月間のマキの姿が走馬灯のように駆け巡った。

 初対面の時に見せた瞳の揺らぎ。自分を鍛える時の真剣な眼差し。時に見せる、寂しげな微笑み。

 その全てが、今、一つの悲しい像を結ぶ。彼女は自分を通して、亡き婚約者を見ていたのだ。

 ヒメは、呆然とする弓鶴の胸に、その霊子端末をぐいと押し付けた。

 冷たい金属の感触が、彼の混乱を現実に引き戻す。

 

「あの子は見ての通り、若いまま親を亡くし、婚約者を亡くし、孤独なまま地位だけを持たされてしまった哀れな娘だ。

だから、虚空から降ってきた君という縁を、私たち神様の思し召しだと思い込んでいる、いやさ思いたがっている。

私たちからしてみれば勘違いも甚だしいけどね。これはただの偶然の産物か、あるいは特異点同士の繋がりが生んだバグに過ぎない。

でもね、祈られたら、それに答えざるを得ないのも、神様の辛いところさ」

 

 語りながら、ヒメは悪戯っぽく小さな顔を傾け、弓鶴の顔を覗き込むように睨め上げた。

 その瞳には、憐れみと、面白がるような光が同居している。

 

「さぁ、異世界の伊織弓鶴よ。彼女の祈りに応える気概は、君にあるか? 君が応えるなら、私もそれに応えるよ?」

 

 それは、やはり悪魔の契約のようにも聞こえた。

 この世界の「伊織弓鶴」の代わりになれ、と。

 彼の影を追え、と。

 そう囁かれているようだった。

 

  だが、弓鶴は迷わなかった。

 胸に押し付けられた剣の柄を、震える両手で強く、強く握りしめる。

 これは、この世界の彼の遺品。

 だが、今この手に宿るのは、他ならぬ自分自身の意志だ。

 

「……俺は、俺としてマキさんを助けたい!」

 

 弓鶴が、力強くそう言い放った――その、瞬間。

 

ズズゥン

 

 と。遠く本殿の方角で、音もなく空が白く染まった。

 網膜を焼くほどの閃光が走った刹那、地を揺るがすほどの重い衝撃音が、屋敷の床と壁を激しく震わせた。

 棚から調度品が落ち、窓が悲鳴を上げる。

 弓鶴の決意に、世界そのものが呼応し、裂けるかのような轟音だった。

 

 

 

 熒惑の梅色の空が、冒涜的な影によって穢されていた。

 それは、異次元の鉱物で組み上げられた禍々しい飛翔体。

 金剛力士の持つヴァジュラを歪ませ、死の香りを放つ彼岸花のように不吉な花弁を開かせたかのような形状。

 その中央では、巨大なアメジストの宝玉が、星の光を喰らって不気味に明滅している。

 

『みゅ、みゅ、みゅおーんっ!』

 

 そのおよそ醜悪な外見には見合わぬ、どこか愛らしい鳴き声が拡声器で増幅されたように戦場へ響き渡る。

 次の瞬間、飛翔体は重力や慣性といった物理法則を完全に無視して空間を跳ね、マニピュレーターのような両腕から無数の光弾を雨のように地上へ撒き散らした。

 眼下では、木の温もりと機械の精密さを両立させた航空部隊が、霊子シールドを盾のように展開。

 神の国そのものである御神木への直撃を、必死に防いでいた。

 

 その混沌の戦場を、まるで水の中を泳ぐ魚のように、紫色の影が自在に舞う。

 美しい貌に妖艶な笑みを浮かべた女が、鈴を転がすような声で高らかに宣言した。

 

「ほらほらぁ、大事な御神木を倒されたくなかったら、はやく旧支配者ヴルトゥームの種子を差し出しなさい!」

 

 紫の女――ボイロウェポン世界においても『理解不能』と記される未知の脅威。

 ダイヤスートJクラス、次元海賊『女帝』結月ゆかり。

 彼女は縦横無尽に空を駆けながら、翻した両の手のひらに大気中の魔力を収束させる。

 そして、圧縮された光の奔流を、まるで子供が玩具をばらまくかのように、出鱈目に掻き回し放った。

 

「相手はどちらも高次元生命体だ! 各員、荷電粒子兵装から霊子装備に切り替えろ!」

 

 木製飛行機械の後部甲板。

 具足の足を固定器具に嵌め、荒れ狂う風の中に仁王立ちしたマキが、的確な指示を飛ばす。

 次の瞬間、彼女の足元のユニットがボードのように分離し、霊子エンジンを蒼く輝かせた。

 マキは空を蹴り、一条の光となってゆかりへと高速で肉薄する。

 

「地べたを這い回ってなさい、サムライ!」

 

 嘲笑と共に、ゆかりが散弾銃のように赤い光弾を乱射する。だが、マキはその死の驟雨を、右手に形成した霊子の光刃で的確に切り払い、弾き、突き進む。

 そして雷光の如き一閃を、ゆかりの喉元へと繰り出した。

 

「嘘でしょっ!?」

 

 咄嗟にのけぞり、空中で華麗に一回転してそれを回避するゆかり。

 その隙を突き、後続の兵士たちが同じく個別飛行ユニットで四方から切り掛かる。

 しかし女帝は笑みを崩さない。

 

 赤い魔力光を手元に収束させ、優美な曲刀を練り上げる。

 そして、ただの一振り。円を描くように閃いた赤い斬線が、兵士たちの飛行ユニットを寸断し、彼らは為す術もなく街へと墜ちていった。

 

「やれると、思うなぁ!」

 

「な……ぶえっ!?」

 

 だが、その一瞬の隙が命取りだった。

 マキはゆかりの剣技が放たれる寸前に空中で身を翻し、斬撃の軌道を完璧に見切って回避。

 そのまま、弾丸と化した自らの身体を、がら空きになった女帝の胴体へと叩きつけた。

 衝撃。二つの影はもつれ合い、錐揉みしながら遥か下方へ――誰もいない御神木の巨大な幹へと、流星となって墜落していった。

 

 

 落下。眼下に広がるのは、もはや地面というより一つの大陸と見紛うほどの、巨大な神木の幹。

 叩きつけられれば、いかに強化された鎧であろうと無事では済まない。激突の刹那、マキは絶叫した。

 

「ハナ、飛翔ユニット全逆噴射!」

 

『了。』

 

 彼女の鎧に宿る小神の、凛として透き通る声が応える。

その指示は、マキの足元の飛行ユニットボードだけに留まらなかった。

 彼女の全身を覆う木製装甲に仕込まれた無数のバーニアが一斉に火を噴き、落下方向とは真逆のベクトル――幹へ向けて、凄まじい逆噴射を開始する。

 

「ぐぅっ……ぅう!」

 

 猛烈なGが、マキの身体を圧潰せんと襲いかかる。

 視界が赤く染まり、呼吸が止まる。だが、その重圧に喘ぎながらも、彼女は空中で奇跡的な静止を成功させた。

 直後、制御を失ったゆかりの身体が、凄まじい速度のまま幹へと激突し、爆発的な土埃を天高く巻き上げる。

 遅れてマキがその大地たる幹に着地し、数メートルをスライディングしてから片手を地についた。

 肩で荒い息を繰り返しながら、即座に索敵へと意識を切り替える。

 

「……っ! っ、はぁっ! はぁっ……敵は、何処だ?」

 

 鎧から、小神ハナの女性的な声が機械的に警告を発した。

 

『索敵不能、熱源……地中移動中!』

 

「なっ……!?」

 

 その言葉の意味を理解するより早く、マキの足元の地面が、まるで泥沼のように隆起した。

 そこからぬるりと現れたのは、マキ自身の身の丈ほどもある巨大な両の手。

 彼女の身体を慈しむように、あるいは圧し潰すように、左右から包み込もうと迫る。

 寸でのところで後方へ跳躍し、回避。

 バチィン! と、超質量の掌が空を打つ拍手の音が響き渡った。

 そして、巨大なゆかりの上半身が、まるで地中から身を起こすように現れる。

 

「地上戦に持ち込めば勝てると思いましたか? 甘い甘い! マカロンのように!」

 

「安易に巨大化する奴に言われたくないね……!」

 

 皮肉を返し、鎧のバーニアを吹かせて突貫するマキが、光剣を縦一閃に振るう。

 ゆかりの巨大な両腕が、その付け根から容易く断ち斬られた。

 だが、斬り飛ばされたはずの巨大な両手が、それぞれに膨大な魔力を集束させ、マキへと向けて極太の光線を放射する。

 

「ハナ!」 『了、ガードユニット射出』

 

 咄嗟の指示に、マキの両肩の甲冑が分離。

 自律浮遊する二枚の盾となり、彼女の前面で霊子の結界を形成した。魔力の豪雨が結界を叩き、凄まじい衝撃となってマキを襲う。

 

「……っ!」

 

 全方位から揺さぶられる衝撃は、マキの三半規管を狂わせ、平衡感覚を奪っていく。

 そして、魔力の奔流が尽きた、その一瞬。

 眩んだ視界が焦点を結んだ時、マキは己の四方を、完璧に包囲されていた。

 東西南北。全く同時に、それぞれが異なる構えで優美な曲刀を振りかぶる、四人の結月ゆかり。

 幻影ではない。そのいずれもが、質量を持った本物だと、マキの戦士としての感覚が絶叫していた。

 

「……っ!」

 

 思考の暇は、なかった。

 

ザシュッ……

 

 と、肉を断ち、骨を削るかのような、あまりにも鋭利な刃物の音が、静まり返った神木の大地に響き渡った。

 

 

 神木の幹に穿たれたクレーターの中心で、二つの影が対峙していた。

 

「はぁ……っ、はぁっ」

 

「がはっ……ぜぇ、ぜぇ」

 

 両者、手傷を負っていた。

 マキは肩を大きく切り裂かれ、砕けた鎧の断面から覗く深い裂傷に、蒼い霊子光で構成された治癒の呪符が高速で展開されている。

 鎧に宿る小神ハナが、必死にその傷を塞ごうと奮闘していた。

 対するゆかりは外見こそ無傷に見えるが、奥の手である分身を三体同時に両断された精神的フィードバックは、その存在の本質に確かな傷を残している。

 

「あんたねぇ……分身だって切られりゃ痛いんですよ?」

 

 ゆかりが恨みがましく言う。

 マキはうなだれ、汗で張り付いた前髪の隙間から、まるで幽鬼のように昏い瞳で敵を睨み返した。

 彼女の脳裏に、消し去ることのできない過去の光景が焼き付いて蘇る。

 攻め寄せる、七色に輝く武装の異次元軍。天を焦がす戦火の中、腕の中で徐々に冷たくなっていく、愛しい婚約者の身体の感触。

 マキの手に握られた霊子端末に、ぐっと力が籠る。その憎悪に呼応するように、光剣の輝きが激しく増していった。

 

「この国に、弓鶴にはもう、手は出させない……!」

 

 鬼気迫る形相で叫び、マキは最後の一歩をゆかりへと踏み出す。

 しかし、女帝は不快そうに口元を歪め、氷のように冷たい視線を向けた。

 

ぎゅる。

 

 曲刀を構成していた魔力が、彼女の手元で渦を巻きながら一点へと圧縮されていく。

 

「そういうのを並べれば、勝てると言う根性が気に入らない」

 

どぎゅ!

 

 と、先程までとは比較にならない密度と殺意を込めた光線が、マキの腹部を正確に撃ち抜いた。

 

「……っ、な!?」

 

「世界を持つものの、守るべきものを持つものの理屈、反吐が出る!」

 

 炸裂した魔力球がマキの身体を軽々と吹き飛ばし、巨大な神木の壁面へと叩きつける。

 

「がっは……っ!」

 

「いけませんよぉ、そもそも将が前に出ちゃ。将棋の基本でしょ?」

 

 背中に凄まじい衝撃を受け、血反吐を吹きながらも、甲冑のパワーアシストが軋みを上げてマキの身体を無理やり立たせる。

 その朦朧とする視界の先で、ゆかりが手元に赤い光を収束させ、無慈悲な追撃を放とうとしていた。

 その時、戦場を切り裂いて、鮮やかな梅色の閃光が走った。

 

「やあああああ!」

 

 絶叫と共に空間から躍り出たのは、弓鶴だった。

 ヒメによって戦場へと転送された彼は、その手に握った霊子端末から黄金色に輝く光剣を引き出し、ゆかりが放った赤い魔力の光弾を、真正面から受け止める。

 

ガリガリガリガリ!

 

 霊子と魔力。

 異なる世界の法則そのものが激しくぶつかり合い、互いを削り合う耳障りな不協和音を奏でた。

 耐えかねた弓鶴が振り上げた光剣は、魔力の弾丸を遥か上空へと弾き飛ばし、その余波が御神木の巨大な枝の一部を爆散させた。

 燃え盛る御神木の破片が、灼熱の雨となって降り注ぐ。その中で、マキが悲痛な叫びを上げた。

 

「なんで……何で来た! 君は、この世界には関係ないのに! ……ヒメ様か。あのお方は、なんて事を」

 

「少年。彼女は関係ないと、そう言ってますが?」

 

 ゆかりは再び魔力をかき集めて曲刀を練り上げると、弓鶴にその切っ先を向ける。

 だが、弓鶴は怯まなかった。

 

「確かに世界も過去も関係ない。

それでもーー俺は、此処に立っちゃいけない理由を知らない!」

 

 その瞳に、確かな決意の炎が宿る。そして、彼の内から生命エネルギーそのものの輝き――BLESSの光が、溢れ出そうとしていた。

 

 しかし、力量差は絶望的だった。

 

「でやあ!」

 

 弓鶴の振るう霊子の刃が、虚しく空を切る。

 ゆかりの刃をかろうじて受け流し、紙一重で身を捩り、致命傷を避けるのが精一杯だった。

 当然だ。いまだ修行中の未熟な剣に、歴戦の猛者である次元海賊の動きが見切れるはずもない。

 ましてや、兵器として覚醒しきっていない今の彼に、高度な駆け引きは不可能だった。

 

「ふんふんふん、基礎はなってますが、道場剣術ですねっ!」

 

 ゆかりは軽やかなステップで猛攻をいなし、がら空きになった弓鶴の腹へ、容赦のない蹴りを叩き込んだ。

 

「がっは……はぁっ、ごほっ」

 

「弓鶴!」

 

 くの字に折れ曲がり、地面を無様に転がって激しく咳き込む弓鶴に、マキが悲痛な声を上げる。

 ゆかりはそんな二人を冷ややかに見下ろし、つまらなそうに肩をすくめた。

 

「残念ながら、チャンバラだけに興じている趣味はないもので。フーちゃん!」

 

『みゅあーっ!』

 

 呼び声に応え、異次元鉱物のヴァジュラが大地を揺るがしてその場に降り立つ。

 ガコン、と音を立てて花弁のような装甲を展開すると、核となる巨大な宝玉が禍々しい光を放ち始めた。

 ゆかりの身体から立ち上る膨大な魔力が奔流となって宝玉へと注ぎ込まれ、凝縮されていく光の弾丸が、星を砕くほどの破壊エネルギーを宿して膨張していく。

 

「このまま御神木に風穴開けて、お宝だけ頂戴いたします!」

 

 その光景は、戦場そのものを死の沈黙で支配した。上空で待機していた熒惑の木造戦艦群が、絶望に色めき立つ。

 

『艦砲射撃用意!』

 

 艦橋に鎮座する、お玉杓子のような木製の帽子を被った司令官の号令が響く。

 

『将軍に当たってしまいます!』

 

『だが、このままでは我らの世界の宝が奪われる! 『眠りの瓶』まで奪われれば、我々の文明は破滅だ! 撃ち方、用意!』

 

 板挟みになった兵士たちの苦悩が木霊する中、巨大な木造戦艦はその砲身を形成し、先端へと白く輝く霊子を収束させていく。

 下からは、世界を穿つ魔力の光。

 上からは、全てを浄化する霊子の光。

 

 敵も味方もない、ただ純粋な破壊だけが二人へと照準を合わせていた。

 マキは、よろりと立ち上がると、弓鶴の手に、自らの手を弱々しく添えた。

 その瞳からは、堰を切ったように涙が溢れていた。

 

「ごめん、弓鶴……聞いたんだろう? 私が、お前と……この世界の弓鶴を重ねてるって。だから、私を助けになんてっ」

 

 震える声が、絶望を紡ぐ。だが、弓鶴は顔を上げた。その瞳に、もはや迷いはなかった。

 

「……俺は、俺は! マキさんの婚約者じゃなくても!」

 

 息を、大きく、深く吸い込む。

 戦場に収束するのは、魔力と霊子だけではなかった。

 それは、この星の生命そのものである御神木が放つ、荘厳な呼気。

 それは、周囲を飛び交う異次元生命が、大気中にばら撒いた未知の呼気。

 そして、この世界にとっての稀有な来訪者である、伊織弓鶴自身の魂の呼気。

 その全てが、弓鶴の身体の中で奔流となって混ざり合い、彼の存在を根源から変質させていく。

 

「マキさんに世話になった、『俺』として、此処に立ちたいと……そう、思ったんだ!」

 

 彼の生命力の最奥、その核で眠っていた光が、ついに産声を上げる。

 BLESS――祝福の能力が、眩い輝きとなって解き放たれた。

 黄金の光の奔流が彼の身体から溢れ出し、霊子の剣に幾重にも重なって、まるで美しい音階を刻むかのような神聖な紋様を顕現させた。

 それは、迫る絶望の闇の中で灯った、あまりにも鮮烈な覚醒の光だった。

 

 

 

 

 その、瞬間。 弓鶴の魂が覚醒の産声を上げた、まさにその刹那だった。

 彼が握る霊子端末とリンクしていた熒惑の世界そのもの――巨大な御神木の全体が、まるで一つの心臓であるかのように、どくり、と大きく脈打った。

 

「……っんい゛っ!?」

 

 玉座の謁見室。静寂を保っていたヒメの身体が、糸の切れた人形のようにビクン!と大きく跳ね上がる。

 

「ヒメ、どうし……んぅっ、あっ!?」

 

 驚いたミコトが声を掛けようとした、その刹那。

 ミコト自身をも、見えざる未知の刺激が背骨を駆け上るように貫き、びくりと肩を震わせた。

 どくん、どくん、と早鐘のように注ぎ込まれてくる力。

 それは、極上の美酒を、抗いがたい快楽と共に喉奥へと直接流し込まれるかのようだった。

 拒絶を許さぬ奔流が、神としての全能感さえも麻痺させていく。

 奇妙で、倒錯的でさえある苦痛と高揚が、二柱の神の意識を同時に苛んだ。

 全能であるはずの彼らでさえも耐えかねるほどの、純粋で膨大な力が、今この瞬間、戦場で生まれ、そして神域へと逆流してくる。

 

「あぁっ、は……何を! 何に力を与えた、ヒメ! あれは一体、何だ!?」

 

 震える肩を必死に抑え、狼狽しながらミコトが叫ぶ。

 だが、その声はもはやヒメには届いていなかった。玉座から崩れるように転げ落ちた彼女は、恍惚とした表情を天井に向け、陶然と身体を痙攣させている。

 

「わ、かんにゃいっ……ただの、男の子かと、ぉおもったらっ……んひっ、ぁ、ああ゛っ! は、ははっ……あいつ、最高の異物かもしれないっ! んんっ、あっ!」

 

 神々の、苦悶と歓喜が入り混じった喘ぎが、静寂だったはずの謁見の間に淫靡に響き渡る。

 そして、その神々の身体そのものである御神木が――熒惑の世界そのものが、まるでその誕生を祝福するかのように。

 淡く、温かい黄金色の光を、その身に帯び始めていた。

 

 

 

 それは、触れるものを強制的に『覚醒』させる力。

 生物としての限界を、物質としての飽和点を、その存在が秘める本来の輝きを無理矢リこじ開ける祝福の奔流。

 伊織弓鶴自身が心の底から「守りたい」と求めたが故に発現したその能力の名は、後にこう名付けられる。

 

 BLESS能力『覚醒(アウェイクン)』と。

 

 その力は、弓鶴が幸運にも神の一部たる『霊子端末』に触れていたがために、媒介を通じて御神木そのものを覚醒させるに至った。

 ざわ、と。力強い生命に満ちた御神木の枝葉の一本一本が、弓鶴の挙動に呼応するように一斉にざわめく。無数の葉の気孔から、濃密な霊子が朝霧のように放出され、戦場を白く染め上げた。

 霧はマキと弓鶴の眼前に渦を巻いて収束し、やがて円形の、白い盾を生成する。 それはまるで、空間そのものを円形に切り取って此岸に顕現させたかのような、絶対的な不可侵の領域だった。

 

「これは、あの狐戦艦と同じ……っ!

土壇場での、パワーアップなんて!」

 

 ゆかりが、かつて戦った好敵手の力を感じ取り、驚愕に目を見開く。

 

『み゛ゃおー!』

 

 主人の焦りに呼応し、鉱物のヴァジュラが攻撃的に咆哮。

 その叫びは、蓄積された全ての魔力を乗せた極大の破壊光線となって放たれた。

 

 ――それと、全く同時。

 

『撃ぇーーー!』

 

 上空では、苦渋の決断を下した味方からの艦砲射撃もまた、一条の白い光となって二人へと殺到した。

 赤と白、二つの終末。敵味方双方から放たれた必殺の砲撃が、一直線にその交点を目指す。

 

 だが、その軌道は、白い丸盾を前にして大きく歪んだ。

 まるでブラックホールに捕らわれた光のように、二条の破壊奔流は悲鳴を上げて盾の中へと吸い込まれていく。

 凄まじいエネルギーは、盾に触れた瞬間、ただの無害な情報へと変換され、霧散した。

 

「な、何を……何が起こってるの、こんなの……神の奇跡でも、起こり得ない!」

 

 マキの絶叫も虚しく、丸盾はその吸収した全ての熱量を、まるで覆い被さるように弓鶴の持つ剣へと注ぎ込んでいく。

 黄金色だった霊子の刀身はみるみるうちに励起し、その身の丈ほどもある、純白に輝く巨大な大剣へと姿を変えた。

 

「ちょ、回避回避フーちゃん!」

 

『みゅあー……』

 

 全力を出し切り、力なく傾ぐように漂うヴァジュラ。

 その哀れな姿を眼前に、弓鶴は大剣を力強く振りかぶる。

 

「このっ、おおおおお!」

 

 ゆかりが咄嗟に赤い魔力光を幾重にも重ねて盾を形成し、振り下ろされる刃を迎え撃つ。

 ヴァジュラの本体たる宝玉だけは守り切らんと、その一点に全霊を込めた。

 

 一瞬の閃光が、全てを白く染め上げたーー

 

 

 白一色に染まった世界が、ゆっくりと色を取り戻していく。

 次の瞬間、そこにいた誰もが息を呑んだ。

 眼下を一面に覆っていた桜色の雲海が、まるで神の御業のように、一直線に大きく切り裂かれていたのだ。

 その断絶は地平線の遥か向こうまで続き、雲の下に隠されていた熒惑の赤い大地が、痛々しい傷跡のように露出している。

 天を切り裂いた斬撃の余波は、鉱物のヴァジュラをも捉えていた。ゆかりの咄嗟の防御で正中こそ外されたものの、その巨体は無惨に、深く切り裂かれている。

 ゆっくりと、亀裂のように開いていく断面から、数秒遅れてばちばちと紫電が走ったかと思うと、やがて凄まじい大爆発が戦場に轟いた。

 

『みゅあーっ!』

 

 短い悲鳴と共に、核であったアメジストの宝玉が弾け飛ぶ。

 ゴン、コン、コロロ……と乾いた音を立てながら、それは見る見るうちにサイズを小さくしていき、最期はパリン、と虚しく砕け散った。

 中から現れたのは、紫色の毛むくじゃらな一頭身の珍獣――ヴァジュラの本体『愚者』みゅかりさんが、力なく地面にごろりと転がった。

 

「みゃ……みゃうぅぐふっ」

 

 そして、その惨状の中心に、二人は立っていた。

 ゆかりは右肩から先を見事に切り飛ばされながらも、血の一滴も流さず、ただ静かに目の前の少年を睨みつけている。

 その瞳には、もはや嘲りの色はない。

 

「はぁ、はぁっ……!」

 

 激しく息を切らせた弓鶴は、元のサイズに戻った霊子の剣を構え直そうとして――糸が切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。

 それを見届けると、ゆかりはやれやれと毒が抜けたかのように一つため息をつく。

 そして、まるで空気中から失った身体の欠片を磁石のように引き寄せ、切断された右腕を瞬時に修復して見せた。

 

「仕方ないなぁ、諦めるか」

 

「逃がすものか」

 

 いつの間にか、その背後にマキが立っていた。

 桜色の光を放つ剣の切っ先が、ゆかりの頸筋にぴたりと添えられる。

 

「はいはい……そこの少年のかっこよさに免じて、今は捕まってあげますよぉ」

 

 ゆかりは降参、と言わんばかりに、悪びれる様子もなくひらひらと両手を上げた。

 

「みゅあー……」

 

 地面に転がっていたみゅかりさんもまた、どこか気の抜けた声をあげて、もみあげのような両前足をちょこんと上げて降参の意を示すのだった。

 こうして、伊織弓鶴の初めての戦闘は、世界そのものに傷跡を刻む、あまりにも英雄的な結果と共に幕を閉じた。

 

 

 

 

 

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