VOICEROIDのウェポンサイド//双天の鶴翼円舞   作:EMM@苗床星人

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熒惑編 第五幕 弓鶴、敵と対峙する

 

 TOWEAT、正式名称『超次元渡航生物交渉対策局』。

 その勢天町支部の仮想訓練施設は、戦闘を目前にしているとは思えぬほどの、奇妙な静謐さに包まれていた。

 片や、熒惑の将軍、弦巻マキ。

 その手に握られた光剣の切っ先は、仮想空間の床と水平に、寸分のブレなく敵を見据えている。

 隣に立つは、元・次元海賊、結月ゆかり。

 気怠げな表情とは裏腹に、その手に構えられた魔力の曲刀からは、世界を歪めるほどの圧が滲む。

 彼女たちにとって、この世界の物理法則は「異物」に過ぎない。自らの魂に刻まれた理こそが、彼女たちの力の源泉だ。

 対するは四人。茜と葵の琴葉姉妹。そして、東北ずん子と、その妹きりたん。

 

 2対4。あまりにも一方的な人数差。

 だが、観覧席で見守る伊織弓鶴の表情に、焦りはない。彼はこれから起こる事象を、起こるべきものとして見守っている。

 ゆかりとマキが、その「異質さ」の片鱗に触れたのは、直後だった。

 

「うぅ、お兄ちゃんの前でする事になるなんて……」

 

 涙目で頬を染める葵に、茜がその両手を恋人の様に繋ぐ。

 

「そんなん今更やろ、しっかりしい?」

 

 と、笑いかけ、葵を安心させる。

 そしてもうひと組のずん子も照れる様に笑う。

 

「あははぁ流石に男の人に見られながらだと、ちょっとね?」

 

「私は別に何も感じませんがね、姉様?」

 

 きりたんは冷静に返し、同じようにずん子と手を握り合った。

 戦場において、あまりにも不釣り合いな、甘やかな姉妹の情景。

 マキが眉をひそめた。

 熒惑の戦場で、このような弛緩は「死」を意味する。

 ゆかりもまた、理解が及ばない、というように小さく首を傾げた。

 みゅかりという存在を知ってはいても、目の前の光景は彼女の知識の範疇を超えていた。

 そして、二組の姉妹は、まるで誓いを立てるかのように――意を決したように、その唇を重ね合わせた。

 

 瞬間。

 

 マキとゆかりの肌が粟立った。

 魔力でも、霊子でもない。この宇宙の根源、生命そのものが持つ原初の輝き――BLESSの光が、キスを交わした四人から迸ったのだ。

 

「「ウェポンライズ!」」

 

 茜ときりたんが、己の役割を宣言するように叫ぶ。

 葵とずん子は深く息を吸い込み、構える。眩い光が彼女たちの身体を包み込み、元の衣装が、各々の相方を連想させる色合いの戦闘服へと瞬時に変異していく。

 

「あれが、弓鶴達ボイロウェポン本来の戦う姿かにぇ」

 

 マキが、感嘆とも畏怖ともつかぬ声で呟いた。

 彼女の視線の先で、信じがたい現象が起きていた。

 

『行くで葵!』

 

 茜の身体が、数十の赤い光の粒子へと爆ぜるように分裂した。そのうちの一本が、葵の手の中で実体化し、長い柄を形成する。

 葵が振り回すそれに、残りのパーツがガチャガチャと硬質な金属音を立てながら、まるで不可視の磁力に引かれるように集束し、組み上がっていく。

 ずん子に対するきりたんの体も同様だった。

 緑色の光へと変じたきりたんが、舞う様に光を追うずん子の両手に収束し、彼女の戦闘服の各部に追加装甲として装着されていく。

 片や武器として変じ、相手に身を委ねる。

 それは、マキの知る「信頼」とは全く異なる理屈だった。

 自らの命ーー存在そのものを預けきる、よほどの信頼関係がなければできない芸当だ。

 

「まぁ、少し不思議なスタイルですよね」

 

 普段からトリッキーなゆかりの言葉に、マキは「お前がいうな」と言わんばかりの流し目を送る。

 ゆかり自身、みゅかりという異質な存在を使役している自覚はある。

 だが、それでも目の前の「人間が武器に変わる」という現象は、彼女の常識をも超えていた。

 あれこそが、自分を「霧散の呪い」から解き放った伊織弓鶴の力の源流。

 生命と生命が「結合」し、その絆の力をもって世界を書き換える、根源的な力。

 マキは油断なく光剣を構え直す。

 武装の装着を終えた、黒地に赤いラインの走る袴姿の葵が、深紅の薙刀と化した茜を八双に構える。

 

「それでは一本!」

 

 秋色に紫のミニスカート衣装となったずん子が、銃剣付きの二丁拳銃となったきりたんを十字に構える。

 

「お願いしますっ!」

 

 赤いランプが、タイミングを置いて緑のランプへと切り替わった。

 その時、2対2となった両者は同時に地を蹴り、異質な力と異世界の理が、仮想空間で激突した。

 

「ハナ!」『了。』

 

 マキの鋭い呼びかけに、木製のヘッドホンが応える。

 ガチャリと機械音を立てて変形したそれは、マキの周囲を浮遊旋回する二対の盾へと展開した。

 一拍遅れ、ずん子の構える二丁拳銃――きりたん――からBLESSの弾丸が掃射される。

 だが、その猛威をゆかりは掻き消えるような瞬間移動で、マキは物理的な盾でいなしながら、二人は同時に疾駆した。

 

「せやぁっ!」

 

 葵が、長刀となった茜を上段に振りかぶる。

 対するマキは、その踏み込みの甘さを見逃さない。

 

「踏み込みが、甘いにぇ!」

 

 足元の隙を指摘するように盾を鋭く操作し、葵の体勢を足元から掬い上げる。

 

『流石、でもなぁ!』

 

 体勢を崩し、転びかけたその瞬間。

 葵の手の中にある薙刀の刃が点滅し、茜の声が響いた。

 直後、BLESSの光が奔流となって葵を支え、彼女は独楽のように一回転して、完璧に元の体制へと復帰する。

 それは、マキの知る武術の理――体捌きや重心移動――を根本から無視した、異質な力の介入だった。

 

 「私たちだって、世界を守ってきたんだ!」

 

 葵の気迫のこもった振り下ろしと、マキの光剣が交錯し、仮想空間に甲高い火花を散らした。

 その背後では、もう一つの異質な戦闘が繰り広げられていた。

 

『姉様!』

 

 きりたんの鋭い警告が、ずん子の耳ではなく、意識に直接届く。視覚外からのゆかりの奇襲を、ずん子は「武器の目」によって察知していた。

 

「……っ!」

 

 即座に銃剣を閃かせ、ゆかりの魔力の曲刀を寸前で受け止める。

 

「どこに目をつけてるんですか、厄介な武器ですね」

 

 ゆかりが忌々しげに呟く。

 使い手の死角を補う、自律した意識を持つ武器。

 それは彼女の常識においても「厄介」の一言に尽きた。

 

『そいつはどうも』

 

銃剣から、平然としたきりたんの声が返る。

 

「「ならこんなのはどうです?」」

 

 ゆかりのほかに、ずん子の死角から、それぞれ2方向ずん子に曲刀を振るう。

 それは、分身による避けようのない多角的な奇襲だった。

 

「……っ!きりたん!」

 

 ずん子が叫ぶ。

 だが、それは合図だった。曲刀が彼女の体に触れる刹那、ずん子の体が眩い光となってかき消える。

 そして、光が収まった場所には、人間の姿となって伏せた体勢のきりたんが実体化していた。

 その手には、先程まで使い手だったはずのずん子が変じた、緑色の戦棍棒(メイス)が握られていた。

 

「っくあ!」

 

 きりたんが振り上げたメイスを、ゆかりの分身の一体が受け止めるも、そのあまりの質量と力に弾き飛ばされ、天井に激突する。

 分身は力尽きるように消え、もう一体の分身も霧散する。

 本体のゆかりに、鋭いフィードバックが襲いかかった。

 

「……っ、入れ替え(スイッチ)、そう言うのもありですか」

 

 使い手と武器が瞬時にその「存在」を入れ替える。

 ゆかりにとって、それは戦術以前に、理解の範疇を超える現象だった。

 

「まぁ、スタイルの一つですね」

 

 ブンブンと棍棒を振り回しながら、きりたんは冷静に告げる。

 しかし、その二人の間に、空間を切り裂くような鋭い斬撃が横切った。

 

「うお。」

 

 きりたんが思わず声を上げる。

 

「あぁ、あのバトルマニアは……」

 

 呆れた様にゆかりが見つめる斬撃の源――そこでは、ボイロウェポンの理と熒惑の理が、激しく火花を散らし続けていた。

 

 剣戟の嵐。

 マキの振るう光剣は、まさしくそうとしか言いようのない苛烈さで葵に襲いかかった。

 一撃一撃が必殺の軌道を描きながら、間断なく、あらゆる角度から放たれる。葵は茜が変じた薙刀でそれを受け流し、捌き、防ぐので精一杯だった。

 

(この剣に……お兄ちゃんは、三年間、ついて行ったんだっ!)

 

 歯を食いしばり、耐える。だが、熒惑の最強格である将軍の技量は、異次元からの未知の脅威たちとの実戦で鍛えた葵のそれを遥かに凌駕していた。

 限界は、すぐにやってきた。

 

「あっ……!?」

 

 薙刀の穂先を上方に弾き飛ばされ、がら空きになった胴体。マキが必殺の間合いへと踏み込む。

 

(やられっ……)

 

「させ、るかぁっ!!」

 

 入れ替え(スイッチ)。

 葵の姿が光となって消え、コンマ以下の刹那、茜がその場に実体化していた。

 情報からの奇襲。その手には、先程まで使い手だった葵が変じた、赤い長刀が握られている。

 茜は、妹の屈辱を晴らすかのように、体重の全てを乗せて長刀(葵)をマキへと振り抜いた。

 だが、マキは迫る刃を、片手で――掴み取った。

 

『あ、あああっ!』

 

 茜の腕の中で、葵が、その刀身そのものが意思を持つかのように叫ぶ。

 刀身からBLESSの圧力が奔流となって溢れ出し、マキの手をこじ開けようと猛る。

 止めきれないーーそう察したマキは、しかし、不敵な笑みを浮かべた。

 彼女は掴んだ刃を支点に肩を回し、その剣筋を受け流すと同時に、もう片方の手に握った光剣を仕舞い霊子端末の柄を、ふわりと宙に投げた。

 

「なっ!?」

 

 茜が目を見開く。マキはがら空きになった右手を、徒手空拳の型で茜の胸元へと突き飛ばした。

 

「ぐっ……!」

 

 間合いを取らされた茜。

 その瞬間に、重力に従って落ちてきた霊子端末をマキは寸分違わずキャッチし、光剣を再び引き出して茜に斬りかかる。

 

「こんのぉっ!」

 

 茜も即座に長刀(葵)を構え直し、応戦する。

 

「葵ちゃんは筋はいいけど決め手に欠けて、茜ちゃんは荒っぽいけど一撃が必殺、なるほど……いいコンビだ」

 

 凄まじい応酬の最中だというのに、マキは冷静に姉妹の力量を図る。その余裕が、茜の闘争心に火をつけた。

 

「舐めるなぁっ……!!」

 

 茜が、これまでで最速の一撃を繰り出す。

 ――だが、マキにとっては、それが致命的な隙だった。

 茜の踏み込み、その瞬間に。

 マキの翡翠の瞳が、天雷にも似た雷光を宿した。

 

 一閃。

 

 時が止まる。

 茜の喉元、その皮膚一枚を隔てた場所に、光剣の切っ先が突きつけられていた。

 

「……っ」

 

 茜は、悔しそうに歯を食いしばったが……やがてふっと息を吐き、両手をあげて降参の意を示した。

 

「……参ったわ、葵ごめんな。お姉ちゃんも精進するわ」

 

『私もだよ、お姉ちゃん』

 

 刀身から、力ない葵の声が返る。

 恋敵との初戦は、これまた無惨にも敗退してしまった……姉妹がそう肩を落とした、その時だった。

 

「凄い……!凄いよ、二人とも!」

 

 観覧席から、弓鶴が試合場に駆け込んできた。彼は茜の手をとると、心底から目を輝かせて二人を称賛した。

 

「二人とも、本当に日常の裏で頑張ってたんだな……マキさんに初手でそこまで迫れるなんて!」

 

「ぅやっ、その……えへへ」

 

 まさかそこで褒め称えられるとは思っておらず、茜は目を丸くして、赤くなった顔を逸らす。

 

「ま、負けてもうたんやから褒めるんはちゃうやろ?」

 

 茜が照れ隠しにそう言ったところで、ポン、と変身が解けた。

 実体化した葵は、そのまま弓鶴の胸に飛び込んだ。

 

「う、う、うぅぅ……悔しいよぉぉ」

 

 正直な気持ちを吐露しながら泣きじゃくる葵に、弓鶴と茜は困ったような、しかし優しい笑顔を浮かべ、一緒にその背中を撫でて励ますのだった。

 そんな三人の様子を、戦闘服を解いたマキと、衝撃弾の雨を喰らったと思しきボロボロになったきりたんを抱えたゆかりが、静かに微笑ましく眺めていた。

 

 

 

 訓練場の傍らに設置された自動販売機の前。激しい模擬戦を終えたマキと茜は、ベンチに腰掛け、スポーツドリンクで乾いた喉を潤していた。

 少し離れた場所では、弓鶴と葵が「やっぱり限定味だよね」「こっちの新作も捨てがたい」と和やかにアイス販売機を物色している。

 ゆかりはと言えば、物理法則を無視してベンチの背もたれの上空にふわりと浮かび、自販機の放つ微弱な熱を浴びながら猫のようにくつろいでいた。

 

「成る程にぇ」

 

 マキが、プラスチックのボトルを握りしめながら呟いた。

 

「個の武練は二の次で、基礎身体能力の強化と、互いの穴を互いの能力で埋め合う……ボイロウェポンってのは本来、そうやって戦うものなんだにぇ?」

 

 熒惑の武家じみた発想――即ち、個人の苛烈な鍛錬と機械武装によって強者を育てる思想とは根本から違う。まるでインスタントな英雄を育て上げるような構想。

 武道を嗜むものとしては、憤慨する考え方でもあるだろう。

 だが、普通の少女としての人生も送りたかったマキにしてみれば、それはなかなかに魅力的な選択肢にも見えた。

 しかし……。

 

「どちらにしても、生まれながらの戦士、なんだにぇ」

 

 そう結論付けたマキに、茜はこくこくとドリンクを煽ってから、ぷはぁ、と息を吐いた。

 

「まぁ、その辺はお互い同情ポイントやな。うちらが人間として覚醒のその時まで暮らしてられんのやって、『そこまでの人間の生活で育てた魂が、強いBLESS能力に直結する』っちゅう、身も蓋もない理屈からなんやもん」

 

 茜は自嘲するように笑う。

 

「まるで工場で育てられた有機栽培の野菜や」

 

 茜の、ある意味で的を射た見事な比喩も、大飛震塔梅という火星に打ち立てられた大規模完結型の神工的な循環環境(アーコロジー)で育ったマキにはピンとこなかったが、言わんとすることはなんとなく理解した。

 要は、他人の都合なのだ。

 

「茜ちゃんも、葵ちゃんも、そんな訳のわからない環境に引き摺り込まれながらも、弓鶴を守って戦ってきたんでしょ? 強いね、二人とも……」

 

 マキの素直な賞賛に、茜は少し照れくさそうに頭を掻いた。

 

「別に、それが私らのアイデンティティーみたいなもんだったってだけよ。……私ら姉妹は、割と早くにその事実を知ってもうたけど、弓鶴兄ちゃんは知る機会がなかったさかい……」

 

 茜は遠い目をして、アイスを選んでいる弓鶴を見つめる。

 

「……って思うとったらコレやもんなぁ! ほんま理不尽やで、全く」

 

 茜の愚痴るような言葉に、マキは「うーん」と唸りながら、自身の疑問を口にした。

 

「弓鶴は、単体で強くなった。……強く、なりすぎたと思う。……どうなんだろう、二人から見て彼は」

 

「……ええんちゃう、別に」

 

 茜は、意外なほどあっさりと答えた。

 

「場合によっては特例でもありやで? TOWEATの管轄でも、Aクラス(有効的、あるいは協力的)判定の未知の脅威と契約してコンビ組んどるやつもおるしな

みゅかりさんだっておるやん?ゆかりさんと契約しとる特殊ボイロウェポン。あの子みたいにさ」

 

「……にぇっ!?」

 

 ぼっ、と、マキの顔が耳まで赤くなる。Aクラス判定の未知の脅威。

 茜が、ジト目でマキを見る。

 

「なんや、ひょっとしてマキさん……まだお兄ちゃんと契約……っていうか、キスしてへんの? それとも、そこのゆかりさんに取られたんか?」

 

「い、いいい、いや、そう言う訳じゃ……し、したよ!? したけど! でも、正直言ってどっちか、わかんないんだよにぇ?」

 

「はぁ? なに? どっちって……あんたら一体どんな状況でキスしたん……え、まさか二人とも、お兄ちゃんと乱交……っ!」

 

「ち、違うにぇええ!!」

 

 マキは真っ赤になって立ち上がり、茜が言いかけた、とんでもなく淫らな妄想を大声で振り払った。

 その時、ドン、とベンチが大きく揺れた。

 

「詳しく! お話ししてもらえますか!?」

 

 見れば、自動販売機から出したとは思えない、ファミリーサイズのチョコミントアイスのバーレル(樽)をベンチに叩き置いた葵が、怒りにも似た真剣な形相でマキに詰め寄っていた。

 その瞳は、獲物を見つけた狩人のようにギラついている。

 

「そぉっ……それは……その、かなり真面目なシーンだったっていうか」

 

 マキが必死に弁明しようとするが、その迫力に押されてしどろもどろになる。

 

「俺もその時は気絶してたしなぁ」

 

 アイスの棒を咥えながら、のんきに弓鶴が追い打ちをかけた。

 マキの恥じらいと、弓鶴の朴念仁さに耐えかねたかのように、それまで静観していたゆかりが、ふぅ、とため息をついて口を開いた。

 

「あれはそう、予兆を以てやってきた……私たちの熒惑で最大の戦いでした」

 

 ゆかりの静かな語りが、再び熒惑での過酷な過去へと、皆の意識を誘うのだった。

 

 

 

 

 

 熒惑での生活が、2年目に突入した頃だった。

 月の光も届かぬ、ゆかりに与えられた個室。

 その静寂を、押さえ殺したような喘ぎが切り裂いた。

 

「ぁぁっ……ぅあ、あっ」

 

 苦しげな悲鳴が、ベッドの上でシーツを握りしめるゆかりの唇から漏れる。

 悪夢。それは、朧げな過去の記憶。

 得体の知れない『黒い何か』に全身を覆い被され、抵抗する術もなく押さえつけられる。

 それは感覚ですらない。細胞の一片、その芯の髄に至るまで、ねっとりと侵食され、黒く、別の何かに汚染され、変えられてしまった、魂の凌辱の記憶。

 ゆかりはベッドの上で身を捩り、もがき苦しむ。

 玉のような汗が首筋を伝い、薄い寝間着を肌に張り付かせ、その下の華奢な輪郭を露わにしていた。

 彼女は熱に浮かされたように、自らの汗ばんだ身を、爪が食い込むほど強く掻き抱く。

 

 その時。

 彼女の指先から、肩から、身体の輪郭から、パチパチと静電気のような音を立ててノイズが走り始めた。

 存在そのものが、霧散しようと揺らいでいる。

 

「みゅっ?みゅーっ」

 

 枕元で丸くなっていたみゅかりさんが、主の異変に鋭く反応する。

 すぐ近くの鞄に飛び込むと、くわえて戻ってきたのは、彼女たちが嘗て収集した宝物――強い次元の歪みを放つ古の宝玉だった。

 

「っは……フー、ちゃん……ありがとう、っん!」

 

 ゆかりは震える手でそれを受け取ると、まるで溺れる者が掴む唯一の浮木のように、それを自らの胸元で強く握りしめた。

 宝玉から放たれる次元干渉エネルギーを、揺らぐ自身の存在に無理やり混ぜ込み、捏ね上げる。

 

「ふぅ……ふ、っ……っく」

 

 荒い息を整え、どうにか存在を安定させるゆかり。

 ノイズが収まっていく。

 だが、悪夢の影響だけではない。根本的な問題が、彼女の存在基盤を蝕んでいた。

 伊織弓鶴の『覚醒』によって未来から前借りした「自己の安定化」。その奇跡の効力が、今、解けかけているのだ。

 

「……まだ」

 

 苦しい。

 辛い。

 一刻も早く、あの『何か』から、この霧散の呪いから逃げたい。

 魂が、本能が、恐れて叫び狂ってさえいるのに。

 

「まだ……まだ少し、もう少しこの生活を続けていたいっ」

 

 嘗て流す機能を捨てたはずの、熱い涙が頬を伝う。

 ゆかりの焦りは、もはや他の世界へ渡るという、かつての最適解を見失っていた。

 この世界がーー違う、彼が居るこの場所が好きだから。

 

「弓鶴……嫌だ、離れたくない……のにっ」

 

 その想いこそが、霧散すべき彼女をこの世界に縛り付ける、甘美な呪いとなっていた。

 

 彼のそばを離れたくない――恋心を、自覚してしまっていた。

 

 冷静で飄々としている『女帝』たる彼女は、その切なげな、汗と涙に濡れた弱みを決して他者に見せない。

 

「みゅぅ……」

 

 夜ごと繰り返されるこの苦悶を知るのは、主の震える背中をただ黙って見つめる、みゅかりただ一匹だった。

 

 

 そんな裏を微塵も見せないまま、熒惑での日常は、無慈悲に、しかし確実に過ぎていく。

 輝降庁舎の一室。そこはもはや執務室というよりは、紙の山に埋もれた砦のようになっていた。

 その中心で、輝降大将軍・伊織弓鶴は、終わりなき書類の束と格闘し、頭を悩ませていた。

 そこへ、軽やかな足音と共に、ウナとモカの訓練を終えたマキが顔を出す。彼女の傍らには、補佐役としてすっかり定着したゆかりの姿もあった。

 

「あの二人への訓練は、変わらず続けてるんですね」

 

 ゆかりが、マキの纏う汗の匂いに気づいて声をかける。

 

「あぁいや、そうなんだけどにぇ? 私の後継が、どっちにしろ要るって言うか……へへ」

 

 マキは悪戯を隠す子供のような仕草で、意味深に笑う。その真意を掴みかねて、ゆかりが小さく首を傾げていると――

 

ばたり。

 

 乾いた音が響いた。

 弓鶴が、ついに限界を迎えたかのように書類束の中へと顔を埋めたのだ。

 

「弓鶴、ちょっと!大丈夫!?」

 

 マキが慌てて駆け寄る。

 

「ははは、はははは……ちょっと疲れただけだから、ダイジョウブ……」

 

 顔を上げた弓鶴の目に、すでに生気はなかった。明らかに無理をしている。

 下手をすれば、将軍として軍を率い、異次元より襲来する怪異源と戦っているときの方が、よほど生き生きとしているくらいだった。

 ……いや、その点はこのマキも同様だったが。

 

「弓鶴はこっち来るまで学徒だったんだから、あんまり無茶しちゃ駄目だってぇ。こればっかりはやりすぎると、いくら強くても私でもぶっ倒れちゃうよ」

 

 マキが本気で心配そうに彼の頬を軽く叩く。

 天は二物を与えないとはよく言うが、弓鶴は誰もが知る努力の人である。

 たまにこうして、自らのスペックを大きく超える無茶をする。

 その心配もあって、輝降庁舎には常に誰かしらが手伝いに入っているのだった。

 

 そんな、疲労と気遣いの入り混じった空気を破ったのは、唐突な破壊音だった。

 

バーン!

 

 庁舎の戸が、蹴破るような勢いで開け放たれる。

 そこに立っていたのは、ヒメとミコト。

 もはやその登場に、神としての威厳を感じる者は誰もいなかった。

 

「弓鶴!風呂入るぞ!」

 

 ヒメが、開口一番、直球でそう言い放った。

 書類仕事をしていた弓鶴、マキ、ゆかりは、皆一様にぽかんとして顔を見合わせた。

 その神々を押しのけるように、二人の少女が自信ありげに庁舎の門を潜ってきた。

 熒惑の琴葉姉妹だ。

 

「へっへっへ、ここは私ら琴葉屋が説明いたしやしょう!」

 

 熒惑の茜が、商人のようにぱちんと指を鳴らす。

 

「庁舎の手伝いの功績もあって私たち、ヒメ様ミコト様の恩恵にあずかり、ここ神殿都市の癒しを提供する大役を任されたのです!」

 

 熒惑の葵が、恭しくも誇らしげに胸を張る。

 

「つまりは!」

 

 と、再び茜が引き継いだ。

 

「ヒメ様の霊験灼(あらた)かな温泉や! 神力濃度は、家庭用に配布されとるお風呂の、更に倍やで!」

 

 その言葉に、執務室にいる全員の瞳が期待する様に輝いた。

 

 

 

 かぽーん、と、風流な桶の音が響く。

 荘厳な木造建築と、夜の闇に美しくライトアップされた庭園を望む広い温泉。

 その湯に、マキとゆかり、熒惑の琴葉姉妹、そしてヒメとミコトという、神殿都市における最高位の女性陣が揃って浸かっていた。

 

「弓鶴ー、そっちはどうですかぁ?」

 

 ゆかりの呑気な声が、男湯と女湯を隔てる高い壁の向こうへ飛ぶ。

 ややあって、「最高ぉ〜……」と、骨の髄までとろけきった弓鶴の声が、女湯の湯気にまで反響してきた。

 茜の宣伝は確かだった。ただ熱いだけではない。

 まるで質の良い電気風呂のように、ピリピリと心地よい強さの神力が湯を伝い、全身の凝り固まった疲労を芯からほぐしていくのだ。

 そして……。

 

「んっ……」

 

 湯に身を沈めていたゆかりが、微かに、快感とも苦痛ともつかぬ息を漏らし、震えた。

 その身体の輪郭に走っていた、ごくわずかな存在のブレ(ノイズ)が、神力の湯によって少しずつおさまっていく。

 

「例の小動物にな、頼まれたのだ」

 

 湯船の縁に腰掛けたヒメが、にひひと悪戯っぽく笑う。

 

「お前はこのところ、無償で弓鶴の秘書をやっている様だからな? 少しはマシになるだろう」

 

「みゅ!」

 

 ヒメの言葉に応えるように、特注の浮き輪付きで湯船にぷかぷかと浮かぶみゅかりさんが、自信ありげに前足を小さく挙げた。

 

「まったく……無償って訳じゃありません。彼にはもう、とっくに助けられていますから」

 

 ゆかりは、感謝と恥じらいが入り混じったように小さく呟き、皆から顔を隠すように湯の中でくるりと背を向けた。

 

「あん……?」

 

 その時、ヒメの目が鋭くなった。

 ゆかりの普段は服に隠れている、白い背中。その肩甲骨の隙間に、小さいながらも明確に刻まれた『蛇の尾を持つ鳥』の紋様。

 

「……!」

 

 マキもまた、その紋様を見て息を呑み、思わず叫び声をあげそうになった。

 だが、それより早く、隣にいたミコトがマキの手をそっと握り、無言で制止する。

 

「僕らも予想はしていた。でも、彼女は彼女だろう?」

 

 ミコトの冷静な言葉に、マキはすぐに冷静さを取り戻し、こくりと頷いた。

 ヒメも……少しの間何かを考えるように紋様を見つめていたが、やがて興味を失ったかのように、気を取り直してこう言った。

 

「それより、弓鶴とは、誰がキスをするのかな?」

 

 小神を通じて、ゆかりが明かした弓鶴の秘密を知るヒメは、全ての事情を知った上で、悪戯に微笑みながら皆に問いかけた。

 

 効果は、絶大に過ぎた。

 

ごぼっ! ぶはっ!?

 

 壁の向こうの男湯から、弓鶴が盛大に足を滑らせて湯に没する音が聞こえてくる。

 

「ちっす?」「接吻!?」

 

 琴葉姉妹が、目をきらきらと輝かせて身を乗り出す。

 

「え、何々、どう言うことなの!? にぇえ、ゆかり!?」

 

 マキもまた、この話題には抗えず、真っ赤になりながらもゆかりに詰め寄った。

 

「あぁー……それ、言っちゃうんですね?」

 

 ゆかりは頬を引き攣らせながらも、その内容を否定はしない。

 

 「とどのつまり」とヒメが、湯の中で指を一本立てる。

 

「弓鶴の真の力を引き出す鍵が、異世界人とのキスかもしれないという事。これはゆかりの相棒、みゅかりさんの存在で証明済みってことらしいんだよね」

 

 ヒメが突きつけたその事実に、女湯は一瞬の静寂の後、爆発した。

 

「マキさんっ!」「今ですよ今っ! 弓鶴さんのファースト、奪っちゃってください!」

 

 琴葉姉妹が、なぜか自分たちではなくマキを全力で推し始める。

 

「いいいいや、いきなりそんなこと言われてもっ! む、無理だにぇ!」

 

 マキは、顔だけでなく全身を真っ赤にして、戸惑いのあまり湯気が出そうなほどだ。

 

「じゃあ私が奪っちゃおうかなぁ?」

 

 ヒメが、自身の幼い唇にそっと人差し指を当て、見た目の幼さには到底合わない、妖艶な笑みを浮かべる。

 

「能力の覚醒も、実質ヒメやミコトの呼気に反応したっぽいし。資格はあるよね?」

 

「こ、こらヒメ! その理屈だと、僕にもその権利が発生するじゃないか! いや、嫌では……ないけど……」

 

 ミコトが慌ててヒメを止めようとしつつも、自分の言葉に自分で赤面している。

 

「皆いきなり話が早いにぇぇぇ……」

 

 このカオスな論争に耐えきれず、マキは照れの限界を超えて、ぶくぶくと湯に沈んでいった。

 そんな中、ただ一人冷静だったゆかりが、すっ、と静かに手を挙げた。

 

「それなら、私が」

 

 阿鼻叫喚となった女湯。

 一方、弓鶴は、薄壁一枚を隔てたその生々しい会話に、ただただ湯船に深く頭を埋め、荒ぶる何かを鎮めるように聞き流すしかないのであった。

 そんな弓鶴のすぐ横。

 湯船の縁に、いつからそこにいたのか、異様に細い枯れ木のような体をもった老人が一人、静かに座って笑っていた。

 彼は、苦悶する弓鶴に、落ち着き払った紳士的な声で話しかけた。

 

「く、ふ、ふ、いやはや、お若いですな」

 

 老紳士の落ち着き払った、しかしどこか響かない声色に、弓鶴はぞくりと背筋に薄寒さを感じた。

 だが、湯の熱気でそれを誤魔化しながら、どうにか笑って応える。

 

「お恥ずかしい……」

 

「いや、結構なことでございます。乙女たちの恋愛譚程愛おしく、心動かす爽やかな光を放つ宝も御座いますまい?」

 

 老人は、枯れ木のような細い身体をゆっくりと湯船に浸すと、うっとりと目を閉じ、滔々と語り始める。

 

「ワタクシにはとても眩しく、それ故に惜しくもある……。

啞ぁ、ワタクシにもこのように、誰かと語らい合える可能性があったならばと、思えど、決してつかみえぬ、唯其処に在るのみで壊してしまう、砂の城の如き儚き哉。」

 

 手を伸ばし、悔やむ様に握る。

 震えるか細い腕は、見えぬ憧憬を羨むかのようだ。

 

「かの『戦車(チャリオット)』――死を喰らう女狐のように、死蔵された道化師に縋ってでも、真っ当な物語への憧憬を持ちましょうや」

 

 その体は異様に細いが、年老いたただの老紳士にしか見えない。

 だが、その謎めいた口調には、弓鶴を引き込むような不思議な魅力があった。

 

「は、はぁ……」

 

 久々によくわからない話し方をする人に会ってしまった。

 弓鶴が対応に困っていると、老紳士ははたと気づいたように目を丸くして恥入るように頭を下げた。

 

「はっ……はは、申し訳ない、ワタクシついつい独り語りに没頭してしまう悪癖がございまして、こちらこそお恥ずかしいですな、失敬、失敬」

 

「ああいえ、その様なことは」

 

 弓鶴もまた、元は文学少年だ。

 この老紳士の気持ちはどことなくわかる気がした、かつての趣味にしていた物語の海に沈む感覚、その先への憧憬。

 一部のよくわからない単語が気になったが、弓鶴にはこの老紳士の言動に、どこか旧い物語の登場人物の様な親しみやすさを感じ始めていた。

 

 まさにその時だった。

 

 

「その物語に、土足で踏み込んでるんじゃねえよ害獣が」

 

 

 ヒメの、氷のように冷たく、殺意に満ちた声が響いた、直後。

 

ジギンッ!!

 

 巨大な鋏で空間ごと切り裂くような、凄まじい切断音。男湯と女湯を隔てていた荘厳な壁が、まるで紙のように切り裂かれ、重い音を立てて崩落した。

 老紳士は、その神速の一撃を、湯から上がるだけの軽い所作でひらりと躱す。

 湯煙の向こう、崩れた壁の残骸を踏みしめ、ヒメが立っていた。

 その手には、木製の鑓の如き大型霊子端末へと変じたミコトが握られている。神が放った、必殺の一撃。

 それを、軽々と避けた。

 その事実に、弓鶴の本能が最大級の警鐘を鳴らした。

 

「久しいな、鵺(シアエガ)」

 

 ヒメの言葉に、老紳士――鵺と呼ばれた存在は、剽軽に両頬へと手を当ててみせた。

 

「きゃあ痴漢、とでも申せばよろしいでしょうかな、飛梅(ヴルトゥーム)」

 

 おどけてみせた老紳士は、腰にタオルを巻き、崩れた浴場で悠然と立ってみせた。

 その場の全員が、あまりに唐突な破壊と、飛び交う謎の呼称に戸惑う中、真っ先に反応したのは二人だった。

 マキは、即座にタオル一枚を体に巻き付け、脱衣所に置かれた自らの霊子端末の元へと疾走する。

 そして、結月ゆかりは。

 

「ぁっ……っあ……」

 

 彼女は、その老紳士を見た瞬間、全てを理解してしまった。

 目を見開き、カタカタと歯が鳴るのを抑えられない。

 熱い湯にいたはずなのに、全身が凍りついたように震え、その意思とは無関係に、膨大な涙が勝手に溢れ出てきて顔を濡らす。

 

逃げなければ。

 

 本能がそう叫ぶのに、足がすくんで、老紳士から後ずさることしかできない。

 記憶が、灼熱の鉄となって断片的に脳を焼く。

 何もかもを飲み込む、あの『黒い霧』。

 平和だった『何処かの並行地球』の街並み。

 影の様な『それ』に飲み込まれていく、何もかも、元いた世界の友人たちも、自分も。

 泣き叫びながら、生きたまま『黒』に繋がれ、意識も、肉体も、魂も、全てが溶けて、汚されて、染め上げられていく、あの絶対的な凌辱の感覚――。

 

「ぁ、うああああっ!!」

 

 理性の箍が外れた悲鳴をあげ、ゆかりは本能的に叫んでいた。

 そして、異次元潜行の瞬間移動をしようと、その身をかき消した。

 

「おや、せっかくの再会では御座りませんか。もっとその貌を、見せておくれ」

 

 老紳士が優雅にそう言って、虚空――ゆかりが消えた場所――を、そっと手で握った。

 その瞬間だった。

 

「ぎゃあああっ!!」

 

 獣じみた、この世のものとは思えぬ絶叫が響き渡る。

 何かに阻まれたかのように、消えかけたゆかりの全身が、闇色の雷と共に、強制的に中空へと引きずり出された。

 

「がっ、あ……っ!」

 

 雷に焼かれたゆかりの裸体は、為す術もなく、力なく床へと叩きつけられた。

 老紳士は、その場になって初めて、その理知的な仮面の下の『悪意』を露わにした。

 その口が耳まで裂け、人間のものではない、獣のような歯を見せて嗤う。

 

「久しいですな、我が『照準器』よ。この世界への案内(あない)、誠に素晴らしき旅路でありやした」

 

「弓鶴!!」

 

 マキの鋭い叫びと共に、彼の霊子端末が取り付けられた鈴の音とともに虚音の真横を通過し、加速しながらその主の手に納まった。

 瞬間、楽譜のような流麗な紋様を携えた黄金色の霊子光剣が迸り、老紳士の首元に迫った。

 それは、伊織弓鶴という少年が生まれて初めて、本気の怒りと共に殺意を抱き、実行せんとした瞬間だった。

 

 

 

 ストン、と。

 あまりにも嫌に軽い感触を残して、老紳士の首が跳ねた。

 弓鶴は、自らの剣が成した結果に、目を見開く。その殺意を抱いた時点で覚悟していたはずの、『斬った感覚が、ない。』

 

「弓鶴、その黒に触れるな!」

 

 ヒメが、悲鳴じみた鋭い声を飛ばす。

 『黒』。

 そうだ。老紳士の首の断面は、人間のそれのような生々しいグロテスクさはなく、まるで子供向けの絵物語が過激な表現を隠すかのように、べったりと塗り固められたような『黒』に守られていた。

 弓鶴は恐る恐る、老紳士の首を切り飛ばしたはずの、振り抜いた己の刃に目をやった。

 黄金色に輝くはずの光の剣。

 老人の首を撫で斬ったはずのそのエネルギーの刃は、あの『黒』に触れた部分のみ、綺麗さっぱりと消失していた。

 

「やれ、この貌(かんばせ)も気に入っていたのですが、仕方がない」

 

 跳ねられた首が、宙を舞いながら喋った。首だけで、心底勿体なさそうに瞳を閉じると、グチュリ、と音がしそうなほどに歪み、急速に『黒』に染まっていく。

 そして、ぶば、と黒く細かい飛沫になって弾け飛んだ。

 

「っ!」

 

 弓鶴は真っ先に刃をしまい、コンマ以下の思考で女湯へと跳んだ。

 自らの背にその黒い飛沫を浴びないように。そして何より、その『黒』の侵食を、倒れているゆかりや女湯の皆に至らせないように。

 その対策は、弓鶴がその横を通り過ぎた瞬間、崩れた壁と瓦礫の上に立つ裸体のヒメが引き受けるとばかりに、堂々と片足を上げて、床を踏み鳴らすことで答えた。

 

ズン!

 

 木製の瓦礫が意思を持ったかのように隆起し、弓鶴たちの背後で巨大な壁を形成する。

 直後、黒い飛沫がその瓦礫の壁に着弾した。

 ジュ、という音と共に、黒い飛沫が触れた瓦礫が、次々と全く同じ『黒い飛沫』となって周囲の瓦礫を侵食し、吸収していく。

 それは、防ぎきれるような物理現象ではなかった。

 

「ゆかりさん!」

 

 弓鶴は床に倒れたまま震えるゆかりの体を背負い、駆け出す。

 

「二人とも、こっちだにぇ!」

 

 マキは、未だ事態を飲み込めずにいる熒惑の琴葉姉妹の手を強く引いて、脱衣所へと退散する。

 ヒメは、仲間たちが離脱するのを見届けながら、その霊力を実体化させ、高密度の神力による白銀の戦闘衣を瞬時に形成した。

 やがて、侵食され尽くしグズグズになった瓦礫の向こう側。

 湯煙の中に佇む、かの怪異と相対する。

 彼もまた、その姿を変えていた。

 大正風の時代から抜け出たような、濃いセピア色の袴衣装。その上に外套を纏い、顔にはあの痛々しい病衣師の仮面を身につけ、失われた片腕には、羽箒の義手が取り付けられ、それで虚空を撫でている。

 それが真っ当な物語でさえあったならば、特異点の一つ、化け物なれど知的に人間に寄り添う老紳士として物語を彩ったであろう怪異。

 

 『虚音イフ』の姿で。

 

 

「悪趣味になったな、鵺。お前は少なくとも、あんな若者を苦しめて悦にいる外道ではなかったはずだぞ?」

 

 ヒメの冷徹な問いかけに、虚音イフは羽箒の義手で仮面の口元を覆い、クツクツと嗤う。

 

「畏れを糧とするのも我等怪異の本懐なれば。それにアレは既にワタクシの一部、ワタクシの物。慰みに使おうとワタクシの勝手なれば」

 

「……っ」

 

  ヒメの全身から、怒りが膨大な神力となって溢れ出す。

 重力が狂い、破壊された浴室の塵が逆巻くように巻き上がった。

 

「あぁ、良かった……。あんたが私たちの知ってるままの鵺なら、少しは剣筋も鈍っていただろうさ」

 

 ヒメが、ミコトが変じた白木の鑓を掲げる。

 その切っ先から、あらゆる色を混ぜ合わせた果てに到達した、もはや純白と呼ぶしかない霊子の刃が噴き上がった。

 対して虚音は、その両腕の羽箒の義手から少し離れた空間に、二振りの黒の刃を顕現させる。

 まるで見えない手首があるかのように、それを二刀振り回しながら構えた。

 

「いやはや、それは僥倖で御座います。ワタクシも死別した同胞と、世界線を隔てた再会に、心打ち震えておりますれば」

 

 限界まで張り詰めた空気が、二柱の超越者の激突によって弾けた。

 虚音の、舞うように軽やかな剣舞。しかしその軌跡は、防ぐヒメの霊子刀を、確実に『喰い削っていく』。

 神聖な力が、不浄な『黒』に触れるたびに侵食されていくのだ。

 ヒメは煩わしそうに剣を振るい、神威の暴風を逆巻かせて虚音を吹き飛ばし、一旦の距離を取る。

 間髪入れず、虚音の周囲に、かつてゆかりが使った光弾に酷似した『黒い光のビット』が舞う。

 それが黒い死の線を放ち、ヒメを狙う。

 が、ヒメもまた、弓鶴が使ったものと同じ『白い丸盾』を複数展開し、その黒を防ぐ。

 弓鶴でも一度に一つ展開するのが限界である丸盾だが、これは本来大飛震塔梅の覚醒した権能、その力の行使は当然ヒメの方が上手である。

 盾は即座に宙を舞う白刃へと変じ、虚音に襲いかかるが、その悉くが虚音の首に届く前に、まるで内側から燃え上がるように侵食され、黒い塵となって消え尽きた。

 

「……チッ」

 

「ワタクシを喰らうには、少々舌が上品すぎますな。さて」

 

 虚音は嗤う。

 

「実力の拮抗した勝負は冗長を招きますゆえ、此処は貴方様の言う、悲劇のヒロインに御登場願いましょう」

 

虚音が、その羽箒の義手を、弓鶴たちが逃げ込んだ脱衣所に向けた。

 

 

 

 脱衣所にゆかりを寝かせ、急ぎ服を着終えた弓鶴が、再び彼女を抱えようとした、その時だった。

 

「あっ!? あ、ああっ! 嫌、ああああっ!!」

 

 びくん、びくん! ゆかりの華奢な身体が、まるで不可視の電流に焼かれたかのように、弓なりに激しく跳ねた。

 それは苦悶であり、同時に抗いがたい凌辱の反応だった。

 

「ゆかりさん!」

 

 弓鶴が叫ぶ。 ゆかりは悶絶し、喘ぎ、その白い素肌から、まるで汗が噴き出すかのように『黒い何か』が染み出し始めた。

 それは彼女のボディラインを寸分違わずなぞりながら、肌そのものを変質させていく。

 内側から湧き出た『黒』が、彼女の意思とは無関係に、四肢を、胴を、胸の膨らみを覆い尽くし、光沢を放つボディスーツとして強制的に形成されていく。

  彼女の自由意志が、悍ましい力によって内側から侵食され、拘束衣として塗り替えられていく。

 

「ぁ……ぁ……」

 

 ゆかりの見開かれた瞳。

 涙に濡れたそのアメジスト色の輝きから、急速に正気が失われていき、それどころか光を一切反射しない、濁りきった闇へと沈んでいく。

 変貌が終わる。 ゆかりは、まるで操り人形のようにぎこちなく立ち上がると、目の前の弓鶴に、掴みかかる形で飛びかかった。

 

ドゴォン!!

 

 同時に、彼女の身体から放たれた魔力の衝撃波が、脱衣所の壁をいとも容易く崩壊させた。

 

「ゆかり!?」

 

 浴場で虚音と対峙していたヒメが、その音に振り返る。

 彼女が見たものは、崩れた壁の向こう、毒々しい黒のボディスーツにその身を包まれ、虚ろな瞳をしたゆかりが、自らを庇護しようとした伊織弓鶴の首を、力任せに締め上げている姿だった。

 

 弓鶴の首を締め上げる、虚ろな瞳のゆかり。

 その惨状を見ても、ヒメは驚くでもなく、憤慨するでもなかった。

 

「……はは」

 

 彼女は虚音に向き直り、ただ、嗤った。

 

「はて。貴方様の趣向には合わない味かと思っていたのですが」

 

 虚音が、その反応を訝しむ。

 

「だって、お前は悲劇のつもりだろうが、それは喜劇だぜ? 鵺よ」

 

 ヒメは、絶対の確信を持って言い放つ。

 

「お前が刺激している相手は、私じゃない。――彼もまた、物語を塗り替える『異物』だよ」

 

ガッ!

 

 ヒメの言葉を証明するように、弓鶴の手が、自らの首を締め上げるゆかりの腕を、万力のような力で掴み取った。

 

「『目を、醒ませぇぇえええ!!』」

 

 首を締め上げられ、呼吸もままならない。その喉から絞り出すように挙げた咆哮。

 それと同時に、伊織弓鶴の魂そのものである黄金の光――『覚醒』の力が、奔流となって吹き出し、ゆかりの全身を内側から包んでいく。

 

「あぁっ、あ!……ゆ、づるっ……っあ」

 

 光が、ゆかりの魂を直接震え上がらせる。

 それは、虚音が植え付けた支配の『黒』とは真逆の、純粋な「救済」の力。

 魂を縛り付けていた黒の侵食を、他ならぬゆかり自身の意思が、その光に呼応して拒絶していく。

 数秒のせめぎ合い。

 支配しようとする『黒』の凌辱と、それを解き放とうとする『金』の救済。

 相反する二つの強大な力が、ゆかりの体内でぶつかり合い、彼女の魂に途方もない「快楽」としての負荷をかける。

 

「ぁあああっ!」

 

 弓鶴の首から手を離し、ゆかりは自らの身体を掻き抱く。

 快感に耐えるかのように、あるいは汚濁を振り払うかのように。

 

 彼女は絶叫を上げながら、その全身に激しいノイズを走らせ――非実体化の一瞬の内に、身体を蝕んでいた全ての『黒い汚濁』を、外側へと弾き出した。

 

「なんと……」

 

 自らが仕込んだ呪いが、こうも容易く浄化された。

 虚音は、思わず羽箒の手で仮面の顔を抑え、よろりと狼狽える。

 

「ゆかりの中にあるワタクシの因子だけを、異物として吐き出させるとは……。呪いと、恐怖に萎縮し、萎んでいたあの魂が、あのように瑞々しく、豊かに育って……あぁ、実に、実に……」

 

 虚音は、弓鶴が成した奇跡を正確に理解した。

 だが、その病医師の仮面の嘴からは、称賛だけではない、とめどない唾液のような『黒』が、ぼたぼたと滴り落ちていた。

 

「――美味そうになった」

 

「畏み、畏み、申白す!」

 神に請願する荘厳な宣言が、高らかに鳴り響いた。

 

しゃん、しゃん、しゃん。

 

 熒惑という国にあって異質な、硬質な錫杖の音が連続して響き渡る。

 虚空から、ぬるりと木簡のような結界維持装置が円筒を描くように幾重にも虚音の周囲に展開された。

 一拍を置いて紫電がバヂヂ舞い、ズンと不可視の重圧がその細身を強く縛り上げる。

 

「あらら」

 

 と、虚音は涼しい声を上げるが、その細身はバキベキと枯れ枝の折れるような悍ましい音を立てていく。

 紫電の源たるお玉杓子(おたまじゃくし)のような、なんとも言えないデザインの木製機械の帽子――おたまん帽を被ったマキの腹心、音街ウナがヒメの側に現れていた。

 続いてもう片翼の宮舞モカとその部下が、展開した三重結界網の周囲に立ち並ぶ。

 彼らはエナジーガンを兼ねた錫杖の石突を地に叩きつけ、結界を維持し、時間と共に強化する荘厳な音を鳴らし続ける。

 

「鵺よ、お前のことだ。どうせその化身体(アバター)の損壊は本体に影響しないんだろう? 何しに来た」

 

 ヒメが尋問するように、結界内で徐々に圧壊されていく虚音に問う。

 

「なに、その我が本体『虚音大権現』がようやくこの近くにまで到達したため、挨拶程度の見回りに馳せ参じたまでの事……で、御坐いましたが」

 

 虚音がそう言った、まさにその時だった。

 先程ゆかりが吐き出した、床の『黒』が、ごぼり、と形を変え、複数の人影を生成する。

 それは黒く染まってこそいるが、弦巻マキ、琴葉姉妹――『特異点』とされる複数人と思われる、無貌の形をしていた。

 彼女らもまた、どこかの世界で虚音に喰われ、その魂までもが消化され尽くした成れの果てであった。

 

「げほっ……! ゆかりさん!」

 

 その場に蹲り、首を締め付けられていたことで激しく咽せていた弓鶴が、即座に立ち上がって彼女を救おうとする。

 だが、影たちが無言で向けた黒い刃に、その歩みを止められた。

 

「っく、このっ……弓鶴!」

 

 拘束されながら、ゆかりの足元に、粘度の高い黒い沼が急速に広がっていく。ズブズブと、彼女の足が抵抗空しく飲み込まれていく。

 ゆかりが、弓鶴に必死に手を伸ばす。

 弓鶴もまた、光の刃を伸ばし、マキの形をした影を斬り祓いながら、ゆかりに手を伸ばす。

 

「ゆかりさんーーーっ!!」

 

「弓鶴ーーっ!!」

 

 二人の手は、寸前のところで虚しく空を擦り抜けた。

 ゆかりもまた、最後の叫びを上げながら黒い沼の中へと連れ攫われ、その沼はまるで最初から無かったかのように、蒸発するように姿を消した。

 

「鵺、貴様っ!」

 

 ヒメが、神としての威厳を超えた、純粋な怒りを露わにする。

 

「悲劇の姫を攫い、勇者の到着を待つと言うのも、悪党としての華なれば――まずは此れにて、開戦の挨拶と参りましょう」

 

「――っ! ヒメ様、観測班より入電! 熒惑上空の宇宙空間に突如、規格外――準惑星規模の次元空間ジャンプ反応! 目視空間に現出しようとしています!」

 

 虚音は、結界の向こうから、弓鶴へと語りかける。

 

「異空よりの勇者、弓鶴とやらよ。

ゆかりは暫し我が元に置いておきやしょう。助けに来るのはご自由に、さりとて時間は無きものと存じなさい。

間に合わなければその刻は、今度はゆかりの魂、そこらの影と同様にその脳髄までもワタクシと挿げ替えられて仕舞いましょう。

そうなって仕舞えば最後、今度はその権能でも取り戻すことは能わずと思いなさい。

ふ、ふ、は、は、は」

 

 そう言って、枯葉の擦れるような笑い声を残しながら、虚音のその化身は、べきき、と結界内で自ら圧壊し、その存在を消滅させた。

 

ドカッ!

 

 ゆかりが消えた沼のあった地面に、弓鶴は拳を打ち付けていた。怒りに震える。だが、それは敵に対してではない。

 彼女の手を掴めなかった、己の不甲なさに。

 

「……っ、ゆかりさんっ!」

 

涙を流す弓鶴の悲痛な叫びが、崩壊した浴場に、虚しく響き渡るのだった。

 

 

 

「なんや……これ」

 

 茜が、震える声で言った。

 銭湯の外、崩壊した浴場の外壁から見えたのは、空一面に広がった純粋な絶望だった。

 黒い球体。桜色に輝く火星の月(フォボス)よりも遥かに巨大な『それ』が、宇宙空間に鎮座していた。

 マントルのように赤く赤熱するおぞましい内部構造を見せつけるように、この惑星――熒惑めがけて大口を開けるかのように、その表面構造を分解し、拡げている。

 その根元が本来の大地より浮いている大飛震塔梅(アーコロジー)には軽微な影響しかない。

 だが、大気に地響きの音が容赦なく鳴り響き、重力の異常が微かな地震をこの惑星の全土に巻き起こしていることを報せていた。

 

「あれが、虚音大権現……さっきのお爺さんの、本体!? あんな相手、どうやって……」

 

 絶望に打ちひしがれる弓鶴。

 その頭を、ぼかっ!と、柔らかい毛に包まれた、しかし容赦のない前足が叩いた。

 

「みゅあ!みゅあみゃみゅみゃ!みゅーみゅーみゃ!」

 

 みゅかりさんである。

 彼女は怒り心頭といった様子で、虚音大権現を前足で指差し、弓鶴に何かを激しく叫んでいた。

 ヒメは「ふむ、それもそうだな……」と頷き、弓鶴にいつかの木製ワイヤレスイヤホンを渡す。

 受け取った弓鶴が耳につけると、イヤホンに仕込まれた小神によって、みゅかりさんの言葉が自動翻訳された。

 

『お前馬鹿か! 早くお姉様を助けにいくんだよ! 私ならBLESSを通じてお姉様の生存と、位置がわかる!』

 

「助けに行くって言ったって、みゅかりさんはゆかりさんが居ない今、変身できないじゃないか。艦隊だってすぐには……」

 

 弓鶴がそう言うと、みゅかりさんは「みゅ……み゛ー」と小さく鳴き、弓鶴を見て心底嫌そうに顔を顰めた。

 

『そんなのこの場で誰かと補給すれば……う゛ー』

 

 そして、マキに向き直って、意を決したように鳴く。

 

「みゃー!みみゅむみゃー!」

『マキさんちょっと来て!』

 

「……? マキさんちょっと、みゅかりさんが呼んでるんだけど」

 

 弓鶴が呼ぶと、マキが「にぇ?」と不思議そうに振り返った。

 その瞬間だった。

 

「みゅぅーっ!」

 

 みゅかりさんが、某エイリアン映画のクリーチャーの幼生のごとく、マキの顔面に飛びつき、張り付いた。

 そして、その唇を的確に重ね合わせた。

 

「んむーーっ!?」

 

 完全な不意打ちのキスに、マキが声にならない悲鳴をあげる。

 弓鶴は、はっ、とみゅかりさんの変身シークエンスの核心を今更ながらに思い出した。

 必要なのは呼気(キス)によるBLESSの補給であって、相手は問わないのだ。

 ヘナヘナと膝から崩れ落ち、口元を抑えて啜り泣くマキ。

 

「は、初めての接吻がぁっ……」

 

「みゅっ!」

『BLESSも体も潤ったっ!』

 

 どことなく毛並みがツヤツヤしたみゅかりさんが一声鳴くと、天高く飛び上がった。

 

『みゅかーーー!!』

 

 空でみゅかりさんの身体が眩い光を放ち、アメジスト色の核と複数の光のパーツへと分裂する。

 そのパーツが、ガギガギン!と音を立てながら、一つの巨大な船体として組み上がっていく。

 果たしてそれは、黄色い雷光を両腕のようなマニピュレーターに纏った、ヴァジュラ型雷撃次元戦艦と化したのだった。

 

『みゅか!みゅみゅみゅみゃー!』

『二人とも乗れ! 御姉様を取り戻しに行くぞ!』

 

 ヒメが渡したイヤホンをマキも装着し、弓鶴と共にその声を聞く。だが、マキは惑う。

 

「でも、私は将軍として艦隊の指揮をしないと……」

 

「マキ将軍!」

 

「それなら、今こそ私たちの訓練の見せ所です!」

 

 ウナとモカ。彼女の厳しい特訓を、その後継者として受けた二人の将が、力強く立ち上がった。

 

「この惑星の防衛指揮は、お任せください!」

 

 ヒメは腕を組んで、集った全員に宣言する。

 

「皆の者! これは弓鶴がこの世界に来てから変わったもの、変えられたものの総力を上げるべき集大成と心得よ!」

 

 幼女体に戻ったミコトも、二人を見上げて言う。

 

「弓鶴、マキ! これは君たちの未来と、この熒惑での二年間の結論を決定づける決戦だ。心して征きなさい、殿(しんがり)は僕らが請け負った!」

 

 ミコトがそう言い終えた瞬間、みゅかりさん(戦艦)の核から、弓鶴とマキを引き寄せるトラクタービームが降り注ぎ、二人の身体がふわりと宙に浮いた。

 

「皆、よろしくお願いします!」

 

 弓鶴が叫ぶ。マキもまた、覚悟を決めた顔で続けた。

 

「其方(そちら)も、健闘を!」

 

 二人はみゅかりさんの核に、まるで壁抜けするように吸い込まれ、乗り込む。

 直後、みゅかりさんは『みゅかぁーー!!』と宇宙に響き渡る力強い鳴き声と共に、物理法則を無視した急加速で、空に浮かぶ絶望――虚音大権現に向かって、流星の如く飛んでいった。

 

 

 

 ―――かっこう。かっこう。

 鳴り響く、かっこうの鳴き声を模した電子音。

 赤信号が青信号へと変わり、私は、行き交う人々の流れに乗る。

 同じ制服を着た友人たち。マキさん、茜、葵、きりたん……みんながいた。

 他愛もない会話。昨日見たテレビ番組のこと、新しくできたカフェのこと、日常の些細な変わったことを報告し合う、あの時間。

 

 懐かしくも、どこか今の自分にとってはあまりにも現実味の薄い、幻のような日々。

 いつまでも続くと思っていた。退屈で、安らかで、代わり映えのしない日常。

 

(自分もいつか、誰かへ恋をしたりするのかな)

 

 そんな、少女らしい漠然とした疑問を抱いた、まさにその時だった。

 

 奴は、きた。

 空を、覆っていた。

 

 白昼だというのに、月が空を埋め尽くしたかのような、巨大な黒い球……それが開いた。

 降り注ぐ、黒の洪水。

 悲鳴。

 飲み込まれていく人々。街。建物。そして、友人たち。

 街は、瞬く間に黒い化け物で溢れた。

 駆けつけた自衛隊の車両も、銃火も、意味をなさなかった。皆一様に、喰われるか、飲まれるか。

 

 友達が一人、化け物に頭から喰われた。足だけが、しばらくの間ばたついているのが見えた。

 一人は、隠れたビルの天井から染み出した黒い粘液に捕まった。声もなく痙攣しながら、ずるずると天井裏へ引き摺り込まれていった。

 一人は、私を囮にするように強く突き飛ばして、逃げていった。

 ……けれど、その駆け出した先で、地面からせり上がってきた黒の洪水に足を取られ、あっけなく飲まれた。

 

 そして、最後に生き残った私は。

 もう、何もできなかった。

 ただ、祈った。

 

(死にたくない)

 

(生きていたい)

 

 ただ、当たり前だったはずのその願いを、その『黒』は聞き入れるとでも言うように、目の前に現れた。

 ペストマスクのような顔を、醜く歪めた。

 頭に、黒が、覆い被さる。

 暖かい。気持ち悪い。

 それまでの思い出が、記憶が、大切だったはずの何もかもが、その中にじわりと溶け出していく。

 言いようのない不快感と喪失感に、悲鳴が上がる。

 

(ああ、でも)

 

 それさえも、もう「前の自分」の断末魔だ。

 断絶して、いまの自分には、何の感慨も湧かなかった。

 すぐに、激痛が全身に走った。

 溶けて失われていく身体を這うように、真っ黒な何かが、まるで糸のように編み込まれていく。

 それまでの自分ではない、全く新しい体に書き換えられていく。そして。

 真っ暗な次元の狭間に、私は放り込まれた。

 

『あなたの体は、一つ所に留まれば立ち所に霧散し、苦痛のうちに塩の柱となって崩れるでしょう』

 

 その『黒』は、言った。

 

『それが嫌なら、次元を渡り、『お宝』を求めなさい。あなたの存在を維持するには、そのエネルギーで常に自分の体を更新するしかないのです』

 

 嗤いながら、その『黒』は言った

 

『さぁ、お行きなさい。我が愛しき照準器(マーカー)よ』

 

 理由のない、恐怖だった。

 それに突き動かされるまま、私は……永劫とも言える時を、孤独と自由を強要されたまま、生きることになった。

 ただ、生きるだけの『現象』になった。

 

 

 闇の中。

 ドゴン、ドゴン、と、何か巨大なものの鼓動だけが、重く強く響いている。

 その振動に揺り起こされるように、ゆかりは目を覚ました。

 

「……今のは、誰ですか……」

 

 霞む意識で頭を抑えながら起き上がったゆかりは、自らが置かれた状況を即座に 理解し、戦慄を覚えた。

 そこは、巨大な砂時計の中だった。

 しかし、上から流れているのは砂ではない。あの、悍(おぞ)ましい『黒い粘液』だ。

 それはまるで冷え固まったタールのように、ゆかりが眠る床として最低限の機能を保つと同時に、ゆっくりと、しかし確実に彼女を埋めようと積もっていく。

 

「これは……っ、このっ」

 

 瞬間移動も、壁抜けも機能しない。

 いや、正確には機能しようとはしている。

 だが、この砂時計のガラスそのものが強固な結界として機能しており、あらゆる次元移動を阻害しているのだ。

 

「おんや、埋まる前に目覚めましたか。おはよう御座います」

 

 落ち着き払った老紳士の声に、ビクリ、と肩がゆかりの意思を超えて震えた。

 

「っ! ……虚音……思い出した……お前が、私を……あの、忌まわしい『自由』に縛りつけた、元凶っ」

 

「はて、それは異なことを」

 

 虚音は、砂時計の外側、闇の中に佇みながら羽箒で口元を隠し、く、く、くと含むように笑う。

 

「あなた様は生きたいと願った。ワタクシからの解放を望んだ。ワタクシとしても貴方に利を得る理由があった。

それゆえに契約は交わされ、貴方を高次元生命体――生きた魔術式、『人格魔術式鬼(じんかくまじゅつしきき)』として再誕させたので御座いますれば、そこを恨まれる謂れはないのではありませんかな?

尤も、ワタクシ貴方の故郷の仇なれば、そこを恨む謂れは腐るほど御座りますが」

 

「理由……?」

 

「あぁ、お気づきではありませなんだか。貴方が……私を導く『照準器』だったのですよ」

 

 虚音は、残酷な真実を、まるで世間話のように告げる。

 

「貴方がお宝を求めれば、お宝を保有するに足る文明とエネルギーを持った、美味しい餌(世界)に辿り着ける。貴方様はお宝で生きながらえ、ワタクシは残った世界を食べる。ほら、ウィンウィンの関係にござりますれば」

 

「そん、な……」

 

 あまりに身勝手な理屈。ゆかりは、自分が今まで訪れた、あの数多の世界の「その後」を夢想し、血の気が引いて青褪めた。

 

「生きたかったのでございましょう? ここで生き延びれば、また生きていられる……良いことではござりませぬか」

 

「ふざけっ……ふざけるな! 生き延びればって、こんな結界を張っておいて!」

 

 ゆかりが、怒りを露わに砂時計のガラスをドンと叩く。

 すると、虚音は片手の羽箒を静かに振り上げた。

 

ずちゅるっ

 

 と、粘液質な糸を弾きながら、この空間を構成する塵塚の中から、重力を無視して巨大なブラウン管テレビが引き抜かれ、ゆかりと虚音の眼前に浮かんだ。

 電源がつき、ノイズが走る。

 そして、この空間の外――宇宙で起こっている壮大な戦争の様子を映し出した。

 熒惑の木製の艦隊が、虚音大権現から分離した無数の怪異源の艦隊と撃ち合い、互いに轟沈し合う地獄の光景。

 その中を、流星のようにただ一点、まっすぐにこちらに向かう戦艦の姿がクローズアップされた。

 あの姿は――。

 

「フーちゃん!? そんな、誰が乗って……」

 

 ゆかりの目が見開かれる。

 一瞬で場面が切り替わり、そのアメジスト色の核(コア)の内部。ダイヤ型にも似た異形の操舵に、二人が必死に取り付いていた。

 苦悶の表情で操縦桿を握るマキと、その隣で霊力を注ぎ込む弓鶴の姿が。

 

「そん、なっ……弓鶴、マキさんっ、フーちゃん……」

 

 ゆかりの瞳に、急速に涙が浮かぶ。

 震えながら俯くと、固まった黒いタールの上に、温かい涙がぽつり、ぽつりと注いだ。

 

「ふ、ふ、ふ。勇ましいですな。これでこそ、我が物語に相応しい……尤も、これは悲劇ですがな」

 

「やめて……やめてください!」

 

 ゆかりが叫ぶ。

 

「何でもします! お願いします! あの人たちにだけは、手は出さないで!……あっ!?」

 

 どぶっ。

 ゆかりの懇願を嘲笑うかのように、足元の黒い塊が突如脈動し、彼女の足に絡みつき、腰までを包み込み、そして再び固まった。

 

「あ……」

 

 動けない。

 ゆかりは、悔しさに涙を流しながら、画面に映る二人と一匹に、祈るように手を伸ばすことしかできなかった。

 

「来ないでください……! お願いだから、来ないで……私のために、こいつの悪意に晒されないでっ……くそぉっ!!」

 

 ゆかりの悲痛な叫び。

 その絶望と恐怖に染まった魂の響きに、虚音は、心の底から満たされていくような、甲高い笑い声を上げるのだった。

 

 

 

 一方、みゅかりさん(戦艦)の内部――アメジスト色の核(コア)の中では、必死の応酬が繰り広げられていた。

 

『みゅかーぁ!(警告!)』

 

「うわー響くぅ!」「みゅかりさんちょっと静かにしてぇ!」

 

 基本的にみゅかりさんのオート操縦が主体ではある。

 だが、周囲は敵味方の戦艦が撃ち合う、致死的な艦砲射撃の豪雨の真っ只中だ。身軽なその機体を細かく制御し、弾幕を回避するための制御系統があまりにも複雑怪奇だった。

 今までゆかりがどうやって操縦していたのか見たこともない弓鶴とマキは、手探りでその法則を見出すしかない。

 二人は、コア内部の周囲に浮かぶ宝石のような制御スイッチを、勘を頼りにタイミングよく引っ張り、叩き、みゅかりを必死に導いていた。

 

「はぁ、はぁ、こんなことなら、ゆかりさんともうちょっと乗り回してみりゃよかった!」

 

 弓鶴が、迫り来る敵弾を回避するために変なスイッチを押し込みながら叫ぶ。

 

「だにぇ。キスのことも、それで気づけたかも知んない……」

 

 マキが、いまだに涙目で自身の唇を名残惜しそうに指で撫でる。

 その場違いな仕草に、極度の緊迫した空気をほぐされ、弓鶴は思わず乾いた笑いを漏らした。

 その時、ズズン!と船内が大きく揺れた。敵の砲撃が掠めたのだ。

 

「うおっ!」

 

 弓鶴がバランスを崩し、あらぬ制御スイッチに手をついてしまう。

 

『みゅ!? みゅかぁー!』

 

 みゅかりさんが驚愕の鳴き声を上げた瞬間、船体が凄まじいGと共に変形した。

 本当に、前後にドリル状のパーツを配置した「ヴァジュラ(金剛杵)」そのものの姿へと変貌し、物理法則を無視して急加速したのだ。

 流れるように過ぎていく艦隊戦の背景が、一瞬ではるか後方へと消し飛ぶ。

 一気に虚音大権現の表面にまで肉薄したみゅかりさんは、その機首に赤い魔力の シールドを張り、準惑星規模の『それ』の表面装甲へと、一気に突き刺さり、貫いた。

 

「ハナ!」

 

『了。両名の装備に対極限環境コーティングを塗布』

 

 衝撃に揺れるみゅかりさんの核の中で、マキのヘッドホンが応える。霊子の幕が弓鶴とマキを包み込み、二人を宇宙空間、あるいは敵の体内という異空間に適応させる。

 塵の塊である虚音大権現の表面は、まるで湿った土のように、意外な程あっさりと掘り進むことができた。

 やがて、内部の連絡通路らしき空洞に出たところで、アメジスト色の核に人が通れるほどの丸い穴が開く。

 弓鶴とマキがそこから躍り出た。

 

「みゅかりさん、どっちだ!?」

 

 弓鶴が尋ねると同時、戦艦形態を解いた光の核が収束し、元のサイズのみゅかりさんに戻る。

 彼女はぽすりと弓鶴の頭の上に乗ると、その小さな前足で弓鶴の頭を包み込むようにして念じ始めた。

 

「みゅみゅみゅみゅみゅ……みゅか!」

『反応は、こっちみゅ!』

 

 みゅかりさんが、通路の一方をビシッと指差す。

 弓鶴たちは迷いなく光剣を引き出して、駆け出した。

 

じゅるり。

 

 壁や床から、あの『黒』の塊や異形の化け物が染み出し、二人に襲い来る。

だが。

 

「畏み、畏み申白す!」

 

 マキの凛とした祝詞と共に、彼女の光剣が雷光を纏った刃と化す。

 弓鶴の剣もまた、彼の『覚醒』によって変じていた。もはやカウンター(受け)ではない。あの白い丸盾の「浄化」と「防御」の性質そのものを攻撃に転用した、純白の剣。

 二条の閃光が、染み出す闇を容赦なく引き裂いていった。

 

 

『弓鶴、マキ、聞こえるか!? 』

 

 ノイズ混じりの切迫した声が、イヤホンから響いてくる。ヒメの声だ。

 

『いいか、虚音本人と接触しても、決してお前らは戦うな! 今は勝てる相手じゃない! 相手は概念ごと相手を喰らい尽くす性質を持った平安の怪物、その成れの果てだ! それより、ゆかりの発見と解放を最優先するんだ!』

 

「了解……!」

 

「……っ、わかりました!」

 

 せめて一発くらいぶん殴ってやりたい。そんな願望を、弓鶴は奥歯を噛み締めて抑え込み、答える。

 ここに、苦しむゆかりと、その苦痛の元凶がいる。

 その事実が、弓鶴の怒りをどうしても内側から刺激していた。

 駆け出した二人の行き先を遮るように、隔壁のようなゴミの山が通路に迫り出してくる。

 

「邪魔だにぇ!」

 

 マキの雷光がそれを一気に引き裂いた。

 だが、その眼前に広がった空間に、二人は息を呑んだ。

 

「……なっ」

 

「これは……!?」

 

 二人の眼前に広がっていたのは、夜の闇。

 それを温かく照らす、無数の電気的な提灯の灯り。

 どこからか鳴り響く軽快な囃子の音と、人々の喧騒。

 それは、熒惑の何もかもが木造の世界とはまるで違う。弓鶴の心の奥底にあった、懐かしい――縁日の記憶、そのものだった。

 振り返ると、それまで走ってきた無機質な通路も消失し、まるで初めから自分たちが地球の祭りに参加していたかのような錯覚を覚える。

 しかし、弓鶴は知っている。この程度は幻影でも、仮想空間でも、いくらでも再現可能なものであると。

 

「地球の、景色だ……。マキさん、気をつけてくれ。今更だけど、精神攻撃が来てるかもしれない」

 

「これが弓鶴の故郷の……わ、わかったにぇ」

 

 二人は背中を預けあい、何が起こってもいいように周囲を索敵する。

 宇宙空間に適応した戦闘服という、この縁日の中で絶望的に浮いている格好の二人に、周囲の祭りの参加者たちは一様に奇異なものを見る目を見せる。

 だが、すぐに「何かの撮影か」と興味を失ったように目を逸らし、それぞれの喧騒の中へと帰っていく。

 その反応が、嫌にリアルで、余計に恐ろしかった。

 

「うっ……ひっく、ぅぇぇ……ええっ」

 

 不意に、幼い子供の泣き声が、弓鶴とマキの耳に届いた。

 見ると、雑踏から少し離れた神社の境内で、見覚えのある白い髪の少年が、浴衣を着て泣きじゃくっていた。

 

「……ぁ」

 

 弓鶴は直感した。あれは……自分だ。幼い頃の、自分だった。

 物心ついた頃にはもう、両親はいなかった。琴葉家に預けられていた弓鶴は、生まれた時から琴葉家の両親と、姉妹に守られていた。

 それが、弓鶴にとっての当たり前だった。

 だが、それがなんとなく嫌で、一人でできることはなんでもやっていた覚えがある。

 買い物でも、料理でも。それは子供ながらの、ささやかな抵抗だったのだ。

 だからこそ、それが失敗した時の絶望も、大きかった。

 足元に、屋台の景品でもらった鈴カステラが散乱し、土を被っている。

 蟻がその表面の砂糖を懸命に持ち運んでいくのを、幼い弓鶴は絶望した顔で見つめながら、ただ泣きじゃくっていた。

 

「兄ちゃんっ!」

 

「ひっく、ひぐ……ぅえ?」

 

 明るい声が、幼い弓鶴を呼び止める。

 

「鈴カステラ、買いに行こ!」

 

「私らも買いに行くとこやってん」

 

 幼い茜と葵が、弓鶴の袖を左右から引っ張った。

 

「ぅぅ、いいの?」

 

「良いんよ、うちら姉妹なんでもできるさかい」

 

「兄ちゃんも入ったら、私たち無敵だよ!」

 

 二人の屈託のない言葉に、勇気づけられた幼い弓鶴は、こくりと頷いて二人についていった。

 それを見送った現在の弓鶴は、どうしようもないほど強い郷愁に、心を焦がされていた。

 あの時からだ。自分は一人ではなく、最強の姉妹がいてくれるのだと、心から思えたのは。

 

「成程、成程。これが貴方様の原点で御座いますか」

 

 いつの間にか。

 二人の背後に、あの老紳士が立っていた。

 その静かな声に、弓鶴とマキの背筋は、温かい郷愁の湯に浸かっていたところを、いきなり氷水を流し込まれたかのような、強烈な悪寒に冷えた。

 

 

 弓鶴とマキは、弾けるようにしてその声から距離をとった。

 人々の喧騒、その隙間にある黒い影から、ぬらり、と。その老紳士――虚音の人間体は姿を現した。

 

「貴方様は、その起源から孤独にあらざるがゆえに、その魂を磨けて来た。転ずれば、一人では何もできない、はじめから欠けた英雄。

あらゆる心の隙間に入り込むマスタアピイス……ということですか。ともすれば『修理屋』。それゆえに、あのゆかりをも癒すことができた、と」

 

 虚音の言葉に、光剣の輝きをなお激しくさせながら、弓鶴は答える。

 

「俺は、ゆかりさんを『直そう』と思って直したことなんて、一度もない!」

 

「ほう。然るに、その心はなんと言いますかな?」

 

 虚音の瞳が、ガラス玉のように祭の提灯に照らされた弓鶴の姿を反射し、見上げる。

 まぶしそうに、目を細めながら。

 

「彼女は、初めから全うな人間だった! ……傷つける奴が、初めからいなければ!」

 

「我ら『闇の徒(ダァクサイド)』の存在を、その前提として否定なさるか。……興味深い。欠落の業を許せぬその輝ける魂、実に……欲しい」

 

 マキが、弓鶴の袖を強く引っ張った。

 

「弓鶴、相手をしちゃだめだ!」

 

「分かってる、でも……!」

 

「勘がよろしいようで。然り……いずれにせよ、道はこの先にございますれば」

 

 ばさり、と。老紳士が外套を広げると、その姿は一瞬闇にぶれて、あの病医師の仮面をつけた異形となる。

 

 同時。

 

 周囲の喧騒が、囃子の音が、まるで再生を一時停止されたかのように、ぴたり、と動きを止めた。

 次の瞬間、縁日にいた全ての人々が、首の可動範囲を完全に無視して、その顔を弓鶴とマキへと向けた。

 無数の、見開かれた視線が注がれる。そのあまりの異様さに、さしものマキも息を呑み、雷光の剣を構え直した。

 

「腹の内に入ったことは理解しておられますでしょう。消化されなさい、まぶしき者よ。君は実に、眼に悪い」

 

 人々は、皆一様に、その口から黒の粘液を吐き出しながら、一斉に二人へと襲い掛かった。

 弓鶴の白い刀身が伸び、横一線に薙ぎ払う。

 だが、斬り祓われ、肉体が分断されながらも、彼らは傷口から節足動物のようなおぞましい足を生やし、なおも弓鶴たちに殺到せんと歩みを止めない。

 

「鎮まれ、亡者共!」

 

 マキの怒りを体現するかのように、彼女の剣から放たれた雷光が、殺到する群れ全てを包み込んだ。

 バチバチ、と肉の焼ける音と共に、人々の動きが止み、その肉体は燃え上がり、蒸発していく。

 そう、それらはすべて、幻影ではない。本物の人間の肉体だった。

 

「……っ!!」

 

「け、は、は!」

 

 救えないものを見せつけ、弓鶴の「救う」という信念を真っ向から否定し、嗤う虚音。

 弓鶴は、奥歯が砕けそうなほどに歯を食いしばり、咆哮を上げた。

 

「……っ! 虚音ぇぇええっ!!」

 

 『覚醒』の光を全身の保護フィールドに纏い強化する、跳躍した弓鶴は、虚音が伸ばした黒の剣と真正面から切り結ぶ。

 キィン、と甲高い音が響き、弓鶴の純白の刀身が、触れた部分から削られていく。

 だが、弓鶴はそれを、自らのBLESSを無理やり吹き出し補正することで、力ずくで耐える。

 

「確かにその能力ならば、その殺意、敵意! 私にも届きやしょう! さあさ遠慮召されるな、ワタクシはここに、此処にございますれば!」

 

「挑発に乗っちゃだめだ!」

 

 マキの制止に、弓鶴は歯を食いしばったまま彼女に叫ぶ。

 

「俺の剣なら、奴を止めることはできる! 今のうちに、ゆかりさんを!」

 

 弓鶴は、頭の上に乗っていたみゅかりさんを掴み、マキへと投げ渡す。

 そして、全身に『覚醒』のBLESSを炎のように纏い直し、再び虚音へと切りかかっていった。

 

「弓鶴……っ、無茶したら、承知しないからにぇ!」

 

 マキは一瞬、どうしようもなくもどかしい顔を浮かべたが、相棒の冷静な判断を信じた。

 虚音の背後、闇が裂けて開いた空間の穴へと、みゅかりさんを抱きしめたまま飛び込み、その先へと進んだ。

 

 どごん、どごん、と。 不気味に、しかし力強く響く心臓の音。その中枢で、みゅかりさんの甲高い鳴き声が響き始めた。

 

 もう胸元まで、あの黒い粘液に埋められたゆかりは、暗くよどんだ瞳のまま俯いていた。

 だが、その聞き慣れた鳴き声を聞いた瞬間、彼女はハッと目を見開いて前を見た。

 

「みゅっみゅー! みゅかみゅかあ!」

 

「フーちゃん! マキさん! ……弓鶴は、弓鶴は何処ですかっ!」

 

 悲鳴じみた叫びに、闇の通路から飛び出してきたマキが気づく。彼女は、友人が閉じ込められた悪趣味な砂時計に顔をしかめ、即座に肩の盾装甲をパージさせた。 盾のアイカメラが、砂時計の表面の解析を始める。

 

『理論不明。物質化レベルの高密度魔力を検知。未知の魔術言語体系式による結界式と判断できます。強度推定、霊廟クラス』

 

 ハナが絶望的な解析結果を報告し、神威での解除が可能かどうかの計算を始めるなか、ゆかりは淀んだ瞳で懇願した。

 

「駄目ですマキさん、戻って!

私なんか放っておいて、弓鶴に加勢するか、奴の弱点を探ってください!

私はっ……奴の、奴の侵略する世界を探すためだけの『照準器』だった……!

私の旅路は、やつの侵略の道導でしかなかったっ!」

 

 震えるゆかりの、涙ながらの告白と諦観に、マキの肩がピクリと反応する。

 

「私は、奴をこの世界に引き入れた、ただの奴の道具だったんです……!

でも、奴の事が許せない……お願いします、私を助けるより先に、奴を倒す手がかりを、弓鶴を手伝ってーー」

 

ガぁン!!

 

 甲高い音が、闇の空間に響き渡った。

 マキの拳が、砂時計のガラスを殴りつけた、その音だった。

 無意味だとあざ笑うかのように、砂時計は微動だにしない。

 しかし、その拳の向こうで、ゆかりは目を丸くして固まっていた。

 

「黙れよ、次元海賊!」

 

 マキが、怒りに震える声で叫んだ。

 

「お前が迷惑かけてるのは、はじめから承知の上だっただろうが!

弓鶴はそれでもアンタを助けるって言って、今もアンタを助ける為に此処にいるんだ!

それを否定するなよ! 自分を軽く見るなよ! みっともないぞ、アンタらしくもない!」

 

「……っ」

 

「分かったら手伝え! あんたは何処へ行っても自由で飄々としてる、次元海賊の結月ゆかりでしょうが!」

 

 マキの叫び。その真っ直ぐな想いに呼応して、ゆかりの瞳に、失われていた光が強く戻ってくる。

 

「……この魔術式は、外からの『魔力』なら通すはず……」

 

 ゆかりは、急速に思考を切り替える。

 

「魔力のないマキさんは、解除式構築の補助をハナに頼んでください。

フーちゃんのBLESSを代用した魔術式なら、解除の目もあるかもしれない。

私も、内側から少しでもひびを入れられるように頑張ってみます」

 

 そう言ったゆかりの目に、恐れはもうなかった。

 そうと決めたら絶対に曲げない、あの男の頑固さを、彼女は誰よりも知っているから。

 

 

 

 祭り囃子が、今や不気味な背景として響く中、虚音は鳥のように軽やかに空中を飛び回る。

 彼が飛び散らせる『黒』の飛沫を、弓鶴は研ぎ澄まされた直感だけを頼りにかいくぐり、回避し、回り込みながら、純白の刃を飛ぶ斬撃に変えて虚音の撃墜を図る。

 

 キィン、と甲高い音を立てて白刃が虚空を裂く。

 虚音がそれを軽やかな飛行で避けるたび、幻想であるはずの縁日の「天井」――すなわち虚音の体内――に次々と深い傷が入り、ぼごり、と崩れ落ちる。

 そこから現れたのは、土や岩ではない。

 ねじくれた道路標識、割れた窓ガラス、どこかの世界のビルの一部。

 何処から拾ってきたか、何処を喰ってきたかがよくわかる、無数の世界の残骸が、そこには敷き詰められていた。

 

「……っ!」

 

「嫌ですな。どうも齢を重ねると、消化が随分と遅くなってしまう。数年かかることもしばしばありますが、最近はめっきり図体も増すばかりで」

 

 恥じるようにため息をつく虚音に、弓鶴はさらなる怒りを露にし、その純白の剣の光を増していく。

 

「よろしいのですかな。ワタクシ、怒りでは倒せない類の悪役にございますれば……」

 

「そうやって、お前は誰かに倒してもらおうと足掻いてるのか、虚音」

 

 弓鶴の唐突な問い。

 その言葉に、虚音の愉快そうにねじ曲がっていた病医師の嘴が、ピタリと動きを止め、表情の読めない真顔に戻った。

 

「どこかの世界で倒されるべき悪党だった。お前の望みは、真っ当な物語……。なら、お前はどこかで倒されたがっている。違うか……虚音!」

 

「……確かに、そう願った事もありましたな」

 

 虚音は静かに認めた。

 

「ですがワタクシ、この取り戻した知性で、どうしても試してみたくなったのでございます。何処までも悪辣に悪辣を重ね、何処までも己の生を強固にしてゆかば……いずれワタクシは、何処に至るのだろうと」

 

 どん、と。

 弓鶴の背中に、二つの柔らかい衝撃が走った。

 

「物語の海を無作為に濫造せしむる享楽の神々の住まう、基底の現実か……」

 

 虚音は、攻撃を仕掛けながら、独白を止めない。

 弓鶴が、ゆっくりと振り返る。

 おかしい。攻撃は、読めたはずだ。直感が、警鐘を鳴らしたはずだ。

 だが、避けられなかった。

 いや、避けなかった。

 なぜなら、背中に張り付いていたこれは。

 これは……。

 

 先の茶番を演じていた、どこかの世界の、浴衣姿の幼い琴葉の姉妹の肉体だった。

 弓鶴の危機回避の対象として、彼の魂が「敵」と認識することを、拒絶した存在。

 

「あるいはその先、第五次幻想の果てか……」

 

 虚音が言い終わると同時、無貌のそれが、二人同時に、にたりと笑った。

 瞬間、それは内側から自らの肉を引き裂いて、無数の『黒い棘の塊』と化し、弓鶴の背中を、無防備な魂ごと刺し貫いた。

 

「ーーーーーっ!!」

 

 弓鶴自身の、声なき悲鳴が上がった。

 間髪入れず、棘と化した姉妹だったものは、激しい閃光と共に、至近距離で自爆した。

 

 

 闇の広間。

 

ドゴン、ドゴン

 

 と、この世の終わりを告げるかのように不気味に力強い心臓の音が鳴り響く中、ゆかりとマキは薄く光るみゅかりさんのBLESSだけを頼りに、砂時計のガラスへと手をかざしていた。結界の解除、ただその一点に全神経を集中させる。

 

 『黒』は、なおも無慈悲に滴り落ち、ついにゆかりの肩を完全に埋め、その口元にまで届かんとしていた。

 

「もう少し……っ!」

 

「もうちょっと……出力さえあれば!」

 

 その時。

 激しい衝撃が、ゆかりが拘束された奥の間で響き渡り、空間の壁の一部が凄まじい勢いで爆散した。

 そして、吹き飛ぶ瓦礫の中に、見慣れた白髪の姿が――弓鶴が見えた。

 

「ーーっ! 弓鶴!」

 

 マキが希望を繋ぐように駆けだそうとした、その瞬間。

 

どか!

 

 と、全てを嘲笑うかのような、重い足音が厳かに響いた。

 

 彼は、嘗ての老紳士ーー虚音イフとは、明らかに隔絶した姿をとっていた。

 病医師の仮面は、もはやそれが鳥類の貌(かんばせ)であるかのように、脈打つ血管をその下に忍ばせながら、牙を揃えた嘴を開き、「ごはぁー」と重く熱い息を吐き出す。

 

 筋骨隆々となった肉体には、あらゆる文化圏から集めたような鎧とも民族衣装ともつかない、禍々しいぼろきれの塊を服として纏っている。

 あらゆる悪意を煮詰めたかのようなその異貌は、悠然と、堕ちてくる弓鶴を見据えていた。

 

どしゃあっ!

 

 弓鶴が、背中から地面に叩きつけられた。

 受け身も取れず、無慈悲ともいえるおびただしい量の血が、闇色の床に鮮血の華を咲かせ、周囲に舞った。

 

「ーーーーーっ!!」

 

 マキが、怒りのままに雷光の霊子端末を構え、異貌化した虚音に切りかかる。

 だが、虚音は、もはや異形と化した腕でその光剣を掴み取った。エネルギーの流動である筈の刃を、物理的に、強く握りしめ――

 

バギリ。

 

 無慈悲な音と共に、熒惑の希望の剣をへし折った。

 

「ーーーっ、げぁっ」

 

 返す刀で、マキの腹に鋭い蹴りが叩き込まれる。

 胃の中の空気を全て吐き出すような鈍い声を上げ、マキは弓鶴の傍ら、あの悪趣味な砂時計に激しく叩きつけられ、そのまま動かなくなった。

 

 倒れ伏すマキ。

 血の海に沈んだまま、物言わぬ弓鶴。

 

「……呆気ない」

 

 失望した。そういわんばかりに虚音が指を鳴らす。

 それに反応して、床が、ばくり、と裂けた。まるで巨大な咢のように。

 弓鶴を、マキを、その闇の内に落とし――ぐちゅり、と音を立てて閉じた。

 

 喰われた。

 

 自分のせいで。

 

 助けに来てくれた、大切な、二人が。

 

「……ぁ、ぁぁ、ゆづ、る……マキ、さん……ぅぁ、ぁぁぁああああああーーーーーっ!!」

 

 ゆかりが、絶望と共に、何か大切な、人としての最後の一線を越えた。

 瞬間、砂時計のガラスが、白く染まった。

 細かいひびが全体に走り、バギン! と、全体が同時に砕け散った。

 

『みゅーー!!』

「虚音えええええええええ!」

 

 ゆかりの姿は、先の黒いボディスーツからさらに変貌していた。戦艦形態のみゅかりの意匠を取り込み、肋骨のようなアメジスト色のアーマーを身に纏う。

 虚音の『黒』さえもはや自らの内に取り込んだ上で、それを憎悪の魔力として燃やし尽くす。

 それが、結月ゆかりが現在取りうる、全霊、全力の攻撃形態だった。

 

「私がここで滅んででも、お前だけは……ここで、殺す!!」

 

「出来るものなら、やってごらんなさいな」

 

 魔力を纏った徒手空拳のラッシュは、悉く虚音の片腕に防がれた。

 そして、背中から生えた巨大な節足動物の足のような第三の腕が、ゆかりの胴を無造作に弾き飛ばした。

 

「ぁぁぐっ!」

 

『み゛ゅっ!みゅ、みゅーみゅ!』

 

 差し違える覚悟の主を責めるように、みゅかりが悲痛に鳴く。

 しかし、ゆかりは血を吐きながら、無理やりにでも起き上がる。

 

「許してください、フーちゃん……! こうでもしないと私は……私という海賊は!

マキさんにも、弓鶴にも、顔向けできない!!」

 

 周囲を構成する『黒』すらも魔力として取り込み、赤い閃光を無数に発生させたゆかりは、その全てを虚音に向けて放つ。

 ーーだが。

 

「虚しいものですな」

 

びたり。

 

 全霊を込めたはずの閃光が、虚音の眼前で、まるで時間が止まったかのように静止した。

 

「お前もワタクシの一部なれば、確かにワタクシの黒を纏えるのも必然……しかしてそれは同時に、ワタクシとの『綱引き』を意味するのですよ。

勝てる道理が、ありますかな?」

 

「……っぐ、っ、くそぉっ」

 

 虚音が、鬱陶しそうに手を振り払う。

 その所作と共に、ゆかりが放ったはずの全攻撃が、そのまま彼女自身に殺到し、大爆発を引き起こした。

 

「   っ」

 

 声も出ず、黒焦げになったゆかりが、地に伏した。

 間髪入れず、床が三度咢を開き、ゆかりをも、その地の底へと、ぐちゅりと取り込んだ。

 

 

 

「……は?」

 

 艦隊旗艦の玉座に立ち、戦況を見つめていたヒメが、間抜けな声を上げた。

 直後、隣に立っていたミコトが、口元を抑え、膝から崩れ落ちた。

 

「う……嘘……うそだっ」

 

 ミコトの瞳から、神のそれとは思えぬ、ぼろぼろとした大粒の涙がこぼれ堕ちる。

 二柱の神の、ありえないほどの異常事態。傍らで全艦隊の指揮を執る音街ウナは、その光景に顔をゆがめた。

 彼女は、戦術モニターに映る「信号消失」の文字を睨みつけ、吐き捨てるように、上司への文句を叩きつけた。

 

「マキ将軍っ、私たちの訓練は……もはや死んだあなたの後を継ぐための物じゃなかったでしょうがっ……!」

 

 だが、彼女が悲嘆に暮れたのはそこまでだった。ウナはキッと前を見据え、指揮官として宣言する。

 

「『眠りの瓶』の起動を要請! 疑似逆創世シークエンス展開装置『闇妃屡(アンヘル)』を起動せよ! 発射準備完了次第、発射する! 総員、大規模空間消去の余波に備えよ!!」

 

 ウナの宣言と同刻。

 熒惑(かせい)に浮かぶ大地そのものである大飛震塔梅が、星全体を揺るがすほど大きく鳴動しながら、縦一閃に裂けた。

 

『全国民対ショック体制指示、全国民対ショック体制指示。只今より天来熒惑府『眠りの瓶』を起動します』

 

 凄まじい地響きの中、大飛震塔梅がまるで巨大な生物のように真っ二つに裂けていく。

 その内部に封印されていた、巨大かつ複雑な組木細工(くみきざいく)じみた、木造機械機構。

 それが、幾重にも重なった封印を解くかのように展開していき、その『砲門』を、空に浮かぶ絶望――虚音大権現へと向けた。

 

 その中心。

 かつて伊織弓鶴がこの世界へと現出した、あの木で出来た蛹(さなぎ)のような木造機械、『眠りの瓶』。

 そこへ、光が、この宇宙には存在しないはずの異次元のベクトルから集積し、膨大なエネルギーを獲得していく。

 

 それは、この宇宙を製造した『基底現実』の源夢神。

 すなわち、本物の創世神(アザトース)たちが世界を「創造」する力。

 それが今、大規模な力の塊となり、すべてを消し去る「創造」と真逆の奇跡として――「消滅」として反転せんと、ため込まれていった。

 

 ヒメが、艦隊の玉座の上で、珍しく目を細めていた。

 神である彼女が、神ならぬ誰かに、ただ祈るようにつぶやいた。

 

「弓鶴……どうか、嘘だと言ってくれ……どうか、生きてると言ってくれっ!」

 

 神の祈りは、果たして誰が聞き取るのか。

 より上位の神か、目の前の絶望か……それとも、闇の中に漂い、今まさに命脈を喪わんとしている少年か……

 彼のかすかに浮上した意識は、目の前の大きな影に覆いかぶされるようにして再び闇の底に沈むのだったーー

 

 

 

 第六幕へと、続く。

 

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