VOICEROIDのウェポンサイド//双天の鶴翼円舞 作:EMM@苗床星人
夜の帳が上がり、どこまでも透き通るような青空が広がっていく。
アスファルトとコンクリートの街並みでありながら、それなりの自然が息づく比較的緑豊かな町。
空がよく見えることから『勢天(せいてん)町』と名付けられたこの街の、穏やかで牧歌的な日曜の朝は――腹の底に響くような地響きと共に、無惨にも打ち砕かれた。
どズズゥン!
という轟音に、弾かれたように布団から飛び出たのは姉の茜。
「な、なああっ! な、なんやなんや!?」
そこへ、お玉を握りしめたエプロン姿の妹・葵が、台所から血相を変えて駆け込んでくる。
「お姉ちゃん! 表、うちのド真ん前ぇ!!」
――サァサァ、皆様ご注目。ここでお出ましなるは、この家の主たる双子の姉妹。
名を琴葉茜、そして妹の葵と申します。 彼女らの正体は、多次元世界渡航可能生物対策局――即ち『TOWEAT(トウェアト)』勢天町支部に所属する、生きた兵器『ボイロウェポン』!
クローン兵器ゆえに無数に存在する同一人物と区別するため、便宜上『勢天町の琴葉姉妹』と呼ばれておりまする。
幼い頃より己の力に目覚め、この街を未知の脅威から密かに守り抜いてきた歴戦のエージェント!
白翼の英雄・伊織弓鶴を巡る恋の戦線では少々?出遅れてしまったものの、その実力と絆は折り紙付きで御座います!
「あかん、あかんて! なにが来よった!」
ドタバタドタバタと大急ぎで服を引っかけ、ボサボサ髪のままで玄関を飛び出した姉妹。
しかし、臨戦態勢で表に飛び出した二人は、そこで信じられない光景に絶句することとなる。
「あっ、おはようにぇー、二人ともぉ」
そこには、やけにさっぱりとした様子の金髪美女が、朝焼けの爽やかな光の中、手拭いで首筋の汗を拭っていた。
問題なのは彼女ではない。その背後。
見慣れたはずの電柱が、見慣れぬ角度に折れ曲がり、無惨にも塀に立てかけられていたのだ。
――ハッ! ここで登場仕るは、本作のヒロインが一人。
異世界『天雷螢惑府(てんらいけいこくふ)』が元女大将軍、弦巻マキ!
彼女の身に宿るは、スペードスーツQクラス――即ち、超科学系世界群における『国家転覆規模』の潜在的危険度。
組織より『皇帝』のコードネームを奉られるほどの超大物ネームド脅威!
……とは言え、今はこうして一介の居候として大人しく(?)暮らしているため、Aクラス『友好種』として琴葉家にちゃっかり居座っている次第。
「な、なぁっ……なぁっ!」
「もしもし、ずん子さん? 隠蔽チーム至急お願いします。最悪、深化空間展開の必要ありです」
わなわなと震えて言葉を失う茜の横で、冷や汗を流しながらも極めて冷静にスマホでTOWEATへ連絡を入れる葵。
「なぁにやっとるんやお前ぇ!! ついに本性表しよったな、『未知の脅威(アンノウン)』めっ!!」
「な、何のこと!? え、もしかしてこの辺の建立神もTOWEATが管理してるってこと!? なかなか生え変わらないから、変だなーって思ってたんだけど……」
怒り狂う茜の剣幕に、ワタワタと見当違いの弁解を申し立てるマキ。
そこへ、「ふぁあ……」と間の抜けた欠伸を漏らしながら、紫髪のスレンダーな美女が玄関の『壁をすり抜けて』現れた。
「だぁから言ったじゃないですかマキさん。此処は石の文明なんだから、『霊信柱(れいしんばしら)』は勝手に生え変わりませんよ、って」
――ヨッ! お待たせいたしました!
ダイヤQクラス、高次元存在系異界人にしてコードネームは『女帝』、結月ゆかり!
かつて次元の海を荒らしまわり、TOWEATの次元交渉部隊を何度も襲撃しては指名手配のトップに君臨し続けた、泣く子も黙る立派な次元海賊!
しかし彼女もまた、今は犯罪を犯す気など毛頭なく。
故あって、というか純粋に琴葉家に居座って意中の男の傍にいたいが為に、大人しくAクラスの身分を取得したワケありの同居人で御座います!
「えっ、ホントに? え、じゃあこれ……」
「ハイ、普通に大惨事(オオゴト)です」
ゆかりの呆れたような言葉に、マキがようやく事の重大さに気づき狼狽えた、その時だった。
葵が冷たく言い放った瞬間、塀に立てかけられていた電柱が限界を迎え、ズズン! と完全に倒れ込んだ。
バツンッ!!
空気を劈くような破裂音と共に、いまだ夜の灯りが点いたままだった周囲の家屋から、一斉に光が消え去った。
休日の朝。
勢天町の一部エリアを巻き込んだ大規模停電は、かくして引き起こされたのである。
* * *
「おはよぉー……停電でもあったのかな? 灯りが点かないんだけど……」
「みゅあ〜ぅ……」
薄暗い朝のリビング。階段を降りてきたのは、頭の上に紫芋のような謎の小動物を乗せた青年、弓鶴だった。
――おっと、まずは頭の上の可愛らしい御仁からご紹介!
名を『みゅかりさん』! ハートスーツJクラス『愚者』の銘を持つ謎の小動物!
『愚者』とは即ち、造反ボイロウェポン特有のコードネーム。
その愛らしい見た目に騙されるなかれ、彼女は凶悪な高速雷撃次元戦艦に変形する機能を持つ元脱走兵であり、今もなお次元海賊ゆかりの頼れる愛機(?)なのであります!
「ごめんなさいホントにごめんなさい、平に、平にぃ……っ!」
「ほんっまにもう! 家出するんやったら、家出先の文化も少しは学びぃや!」
そんな弓鶴の視線の先では、マキが床に額を擦りつける見事な土下座を披露し、茜が腰に手を当ててお説教の真っ最中。
一方の葵はというと、玄関先で異空間を展開し『いつもの景色』に塗り替えて惨状を隠蔽してくれている隠密部隊のずん子ときりたんに、ぺこぺこと平身低頭で頭を下げていた。
「マキさんがついに電信柱引っこ抜いちゃったんですよ、実家の感覚で……」
「あぁ……やっぱりマキさん、違いを理解しきれてなかったかぁ……」
呆れたように苦笑する弓鶴。
――サァサァ、真打ち遅れての御紹介!
この困り果てている彼こそ、伊織弓鶴。本作の主人公たる白翼の英雄で御座います!
先週、春休み最終日の晩に異世界『天雷螢惑府』へと転移してしまい、そこで三年の月日をひたすらに鍛え抜いた努力の結晶!
己を縛る呪いに苛まれたマキとゆかりの二柱の乙女を救い出し、果ては世界存亡規模(Kクラス)の脅威をも浄滅せしめた、正真正銘の救世主!
その功績を讃えられ、現地の神々の手によって『新学期が始まる前日の朝』へと時空を越えて帰還を果たした、努力と気遣いと優しさの塊――もとい、無自覚なる天然ジゴロ!
ちなみに、幼い頃から琴葉家に居候しているものの、自身が『ボイロウェポン』であると知ったのは異世界に転移してからのこと。
そして、目の前の義妹たちが同じボイロウェポンだと気づいたのも、つい先週の帰還後のことなのであります!
「うぅ、ごめんにぇ弓鶴ぅ……」
涙目で弓鶴にすがるマキの横で、葵がタブレットを弾きながら恐ろしい計算を始めた。
「あー、やっぱり請求される修理費とんでもないことに……。こりゃ暫く、未知の脅威を狩って狩って狩りまくらないと……」
「ひぃっ!?」
未知の脅威(アンノウン)であるマキが、己の命の危機を感じてビクッと身をすくませる。
「この近くに、そんな厄介なのがいるもんなの?」 「まぁ、それなりには居るよ? でもこの額を払うとなると、結構強いのを何回しばけば元が取れるか……」
うーんと葵が物騒な予算計画に頭を悩ませていると、ゆかりがスッと優雅に手を挙げた。
「それなら、同じ居候の不始末は、私がつけましょう。――皆さんでお出かけ、行きませんか?」
こてっ、とあざとく首を傾げながら提案するゆかり。
「お、良いねぇ」
目を輝かせる弓鶴に対し、茜と葵はあからさまに「げっ」と嫌そうな顔をした。
――無理もありません。このゆかり、かつて生きるための糧として集めまくった厚めのお宝を、未だにみゅかりさん(戦艦形態)の中に空間圧縮して溜め込んでいるのです!
Aクラスとして登録される際、TOWEATにそのお宝の一部を売り払った結果、彼女は現在、ちょっとした小金持ち――いや、立派な資産家!
「……はぁぁ」
「諦めよう葵、コイツら小細工じゃあだしぬけへん」
今日は雲一つない晴天の日曜日。
本当は琴葉姉妹が弓鶴をデートに誘おうと目論んでいたのだが、圧倒的な『財力』で有無を言わさず手綱を握ったゆかりの前に、姉妹は揃ってガックシと項垂れるのであった。
「じゃあ、また夜這いでもする?」
「おう!」
「みゅあーぉ(懲りねえなお前ら)」
弓鶴の頭の上のみゅかりさんは、呆れたように鳴くのであった。
そう、異界の武士も、次元の海賊も、歴戦のエージェント姉妹も、謎生物も、みぃんなこの伊織弓鶴という青年が大好きなのである。
* * *
日曜日の勢天町駅前は、非常に牧歌的な空気に包まれていた。
地方都市ということもあり、休日にわざわざ遠出をする若者は少ない。
週末のショッピングや娯楽の類は、大抵少し離れた場所にある大型商業施設『ARIAモール』で事足りてしまうのだ。
そのため、駅前にある小さな銀行の支店に足を運ぶのは、散歩ついでに立ち寄るお年寄りくらいのものである。
「どうぞ?」
「あぁ、ありがとうねぇ……」
自動ドアの前で、ゆかりが上品な笑みを浮かべて先にお年寄りに道を譲る。
その洗練された所作は、彼女がかつて次元の海を荒らしまわった指名手配犯だとは微塵も感じさせない。
「へぇ……これが葦原(地球)の金蔵なの? 私なら一分もかからず制圧出来ちゃいそうだけど……」
『訂正求む。当機のハッキングを併用すれば、二十七秒前後、誤差三秒以内に制圧可能』
銀行の小さな入り口をくぐった途端、マキが腕を組みながら物騒な品定めを始めた。
すかさず彼女の首元――木製ヘッドホンに擬態した駆動鎧の小神(神格を持ったAI)であるハナが、無機質な音声で恐ろしい修正案を提示する。
「お? やっぱりQクラスの『敵』に登録し直すか?」
胃の痛むような思いで、茜がジト目を向けながら背後からツッコミを入れた。
「まぁまぁ、地球は平和なんだから大丈夫だよ、マキさん」
「ん〜、でも不用心な気がするぅ。うち(螢惑)じゃ金蔵強盗なんて一発で打ち首獄門、市中引き回しの上で晒し者だけど、これじゃ誘ってるようなもんじゃない?」
苦笑しながら宥める弓鶴に対し、マキは本気で地球のセキュリティシステムを案じていた。
「そこの野蛮な武者(バーサーカー)は放っておいて。私はお金を引き出してきますね〜」
ゆかりは呆れたように肩をすくめると、流石に家の外ではお馴染みの『宙に浮いてのスライド移動』を自重し、カツカツと優雅にハイヒールを鳴らしてATMへと向かっていった。 手にした専用のカードを読み込ませ、複雑な隠しコマンドを機械に打ち込むことで、TOWEATの税関管理局の裏口座へと直接アクセスする仕組みである。
「それにしても、TOWEATの方針って凄いなぁ。津瀬街ほど堂々とはしていないけど、異界の存在をこうも当たり前に受け入れるなんて」
弓鶴はそう呟きながら、周囲をそっと見渡した。
覚醒を果たした今の彼には、世界の裏側が容易に視覚化されてしまう。
一見平和なこの場にいる数少ない客の中にも、その身のこなしだけで修羅場を潜り抜けてきたと分かる者や、そもそも人間ではない『何か』が上手に人間に擬態して紛れ込んでいるのが、はっきりと感知できた。
「基本的に、TOWEATの方針として世界と敵対しないAクラスの『未知の脅威』は、積極的なサポートを以て受け入れられるんよ」
茜の説明に、葵がコクリと頷いて補足を入れる。
「それだけ、異世界の協力者から齎される技術から得られる恩恵が大きいんだよ。例えば、私たちが生まれるよりずっと前、世界の防衛に使われてた『魔術』のアップデートとかね。大元先生が宿直室を防音にするのに使ってたでしょ?」
「あぁ、あれ不思議だったにぇ。原因と結果が噛み合ってないように見えるっていうか……ゆかりんの手品(てづま)と同じ感じ」
本人が聞いたら神速の魔力刃が飛んできそうなマキの無邪気な暴言に、弓鶴は引きつった笑いを浮かべる。
それに気づかず、葵は魔術の歴史について語り続けた。
「魔術っていうのはね、手品とか、科学みたいな生活を支える便利なインフラなんかじゃないの。古代から科学の発展と並行して、一般の人間が特異点や魔法使いみたいな『何でもできる力』を欲して研究してきた、いわば人間の欲望が生み出した異界法則の学問なんだよ」
葵の声のトーンが、少しだけ真面目なものに変わる。
「昔はね、世界に満ちる『魔力』――分かりやすく言うと、世界が持っている『幸運』や『可能性』みたいなものを無理やり燃やして術を発動させていたの。そのせいで、使えば使うほど『呪相』と呼ばれる呪いの公害汚染を周囲に撒き散らすっていう、すごく危険な技術だったんだって。今私たちがそれを比較的安全な技術の一部として使えているのは、六団町での決戦の後にTOWEATに加盟した『機械生命帝国』の技術提供のおかげなの。彼らの技術で、魔術の動力源をその『魔力』から『BLESS』に置き換えるっていう劇的なブレイクスルーがあったからなんだよ」
「成程ねぇ……」
弓鶴が感心したように気の抜けた声を漏らした、その時だった。
「私の使う魔術は、自身の所属していた――既に滅ぼされた世界由来の魔力を用いるので、そういったリスクや原理を考える必要はほぼありませんけどね。でも、こちらの世界の魔術というのも、教わってみるのもアリかもしれません」
「にぇぇ〜〜っ!?」
引き出しと納金を終えていつの間にか背後に戻ってきていたゆかりが、ニコニコと極上の笑みを浮かべたまま、容赦なくマキの鼻を摘み上げた。
先ほどの『手品扱い』をしっかり聞かれていたらしい。
「ゆ、ゆかひん! はなひて! おはながもげるぅ!」
涙目でジタバタと暴れる元・女大将軍と、涼しい顔で鼻を引っ張り続ける次元海賊。
かつて世界を揺るがした超大物たちの微笑ましくも騒がしい光景に、弓鶴と琴葉姉妹は顔を見合わせ、やれやれと揃って肩をすくめるのであった。
「……それでも、やっぱり魔術っていうのは使える人が限られちゃってね」
じゃれ合う二人を横目に、葵は少しだけ表情を曇らせて話を続けた。
「それまでは魔力――つまり世界の『幸運』を使えば、代償はあれど誰もが使えるものだったからこそ秘匿されてきた技術だったんだけど。今は尚更、BLESSを扱える限られた特異点か、私たちボイロウェポンの専用技術になっちゃったんだよね。元から自分のために魔術を研究してた魔術師たちにも、これから魔術を知るかもしれない一般人たちにも、凄く不公平な形になっちゃった。それが、TOWEATが世間の陰に隠れて、表立って動かない理由の半分かな」
「もう一つは、クローン兵器であるボイロウェポンを量産している事そのもの……ってところですか?」
ゆかりが、マキの鼻を解放しながら鋭い推測を口にする。
図星を突かれた葵は、小さく頷いた。
「まぁ、大量生産された子供たちを異世界の怪物と戦わせてます〜、なんて言って、世間に良い顔はされないからねぇ」
葵の言葉に、弓鶴は目を細めて天井を仰いだ。
(この街以外にも、俺たちと同じ貌、同じ名前のボイロウェポンが何人も居て……魔術で隠蔽されてるっていうやつか……なんだかなぁ)
ため息が漏れそうになるのを、弓鶴は必死に飲み込んだ。
かつて、『螢惑の弓鶴』――即ち『伊織弓鶴翅尊(いおりゆづるはのみこと)』の面影があったからこそ、マキに身を拾われ、命を繋ぐことができたのだ。
その事実は、ボイロウェポンであると知った今の彼に、ほんの少しだけアイデンティティの揺らぎを感じさせていた。
どうしても、考えてしまうからだ。
――もし俺以外の『伊織弓鶴』の誰かが、あの頃のマキさんの元に転移していたら? 彼女を救い、共に笑い合っていたのは、俺ではなかったのかもしれない。
そこまで考えたところで、弓鶴はブンッと強く首を振った。
(いや……俺は、俺だ)
誰がどんな「たられば」を語ろうと関係ない。
あの過酷な三年を生き抜き、マキとゆかりを過去の呪縛から救い出したのは、紛れもない自分自身だ。
その絆と記憶だけは、絶対に揺るがない弓鶴の誇りなのだ。
胸に手を当てて深呼吸し、己にそう言い聞かせる弓鶴。
すると、ふと視線を感じた。
見れば、そんな弓鶴の思考のドツボと着地点を容易に想像できるマキとゆかりが、へにゃりと愛おしそうな笑顔を浮かべて、彼をじっと見つめていた。
「なんだよ、二人とも……」
「んふふ、なんでもないよぉ。ただ、弓鶴はやっぱり弓鶴だなって思っただけ」
「ええ。本当に、愛すべき馬鹿で助かります」
そんな甘ったるい空気を察知したのか、後ろで茜と葵がむすっと唇を結び、ずかずかと弓鶴の両脇に近寄ってきた。
そして、二人でがっしりと弓鶴の左右の腕をホールドする。
「私たちの!」
「お兄ちゃんやからな!」
「うわわっ、何だよ二人してぇ!?」
突然の妹たちの実力行使に慌てる弓鶴を見て、マキとゆかりは「はいはい……」と苦笑した。
「二人の仲もちゃんとわかってるから、応援するにぇ〜」
「ええ、私たちも大人ですから。余裕を持って見守らせていただきますよ」
「むっきぃぃ! 強者の余裕やんそれ!」
自分たちを子供扱いするような二人の『正妻の余裕』に反発し、さらに強く腕にしがみついてくる妹たち。
彼女たちの体温と柔らかさを感じながら、弓鶴は確かに心の底からの幸福を感じていた。
そう、それは確かに、平和で幸福な日曜日の朝の風景だった。
「ほら、『お姉ちゃん』大丈夫?」
「あぁ……すまないな、『りりん』」
不意に、銀行の自動ドアが開いた。
茶髪のツインテールをした小柄な少女に手を引かれ、疲れたような顔をした白髪のポニーテールの女性が入り口をくぐってくる。
すれ違いざまに聞こえた、何気ない姉妹の会話。
その、瞬間だった。
バンッ!!
乱暴な音を立てて、銀行の入り口が蹴り開けられた。
黒ずくめの服を着た数人の男たちが雪崩れ込んできたかと思うと、受付のカウンターに空のトートバッグを叩きつける。
そして彼らは一斉に懐から、金属探知機をすり抜けるためのプラスチック製自動小銃――『ゴーストガン』を取り出し、何の躊躇いもなく天井へ向けて乱射した。
ダダダダダダッ!!
鼓膜を劈くような銃声と、パラパラと落ちてくる天井の破片。
悲鳴を上げてしゃがみ込む客たち。
「「「――金を出せぇ!!」」」
男たちの下卑た怒号が、牧歌的だった勢天町の日曜日を無惨に引き裂いた。
「……ほ?」と、葵。
「にぇ?」と、マキ。
「あらら」と、ゆかり。
「うそやん?」と、茜。
「わぁ?」と、弓鶴。
それぞれが、およそ命の危機に直面しているとは思えない、極めて間の抜けた声を上げる。
そんな規格外の超常存在たちの気の抜けた反応など知る由もなく、その『あからさまな強盗団』は、プラスチック製の銃口の半分を受付で震えるスタッフへ、もう半分を悲鳴を上げるお年寄りだらけの利用客たちへと向けたのであった。
「お前ら全員、窓際に並べ! 変なことしようと考えるなよ!?」
銃口を向けられ、客たちが怯えながらぞろぞろと窓際へと追いやられる。
その隙を突き、「――っ!!」と決死の覚悟でスタッフの一人が、デスクの下に隠された非常ベルのスイッチを押し込んだ。
ビーーーッ!!
とけたたましい警報が鳴り響き、壁の全面が窓になっている銀行の外側一帯のシャッターが、ガシャンガシャンと音を立てて閉まり始める。
同時に警察へと緊急信号が送られる仕組みだ。
平和ボケした長閑な銀行とはいえ、現代の防犯思想を結集したその素早い対応は、瞬く間に強盗に対して不利な状況を形成していく。
「このっ……!」
ゴッ!
忌々しげに舌打ちをした強盗の一人が、自動小銃のストックで、スイッチを押したスタッフの頬を容赦なく殴り飛ばした。
「――。」
その瞬間、マキの瞳から一切の感情が消え失せた。
真顔のまま、反射的に腰に下げた木製のキーホルダー――に偽装された、彼女の光の刃の柄たる『霊子端末』へと無造作に手が伸びる。
だが、その指先が柄に触れるより早く、葵が背後からガシッとその手を掴んで制した。
「――シッ! 動いちゃダメ、本当に『敵』扱いにされる!」
小声で、いつもの落ち着いた様子の全くない、真剣な葵の警告。
それがマキの行動を完全に止めた。マキは小さく、不満げな舌打ちをして、ゆっくりと霊子端末から手を下ろす。
「……理由は?」
「相手は『ただの強盗』なんだよ、それに目撃者も多い」
「こんなとこで異界の力使ってドンパチやってもうたら、逆に私たちの方が犯罪者になってまうねん」
葵と茜の切実な説明に、言われるがまま両腕を組んで大人しく壁に寄っていたゆかりが、上品にため息をついた。
「世知辛い。」
皆も続いて、一般客に紛れながら強盗の指示に従う。
外からは、既に無数のパトカーのサイレンがけたたましく鳴り響いていた。
焦った強盗が慌てて部屋の四隅に備え付けられた監視カメラを銃床で叩き割るが、もう遅いだろう。
建物の外からは、『君たちは完全に包囲されている! 人質を解放しろ!』と投降を促す交渉役の声が、メガホン越しに響いてくる。
その間にも、強盗たちはスタッフや利用客を後ろ手にさせ、両親指にプラスチック製の結束バンドをキツく嵌めていった。
力を込めれば紙切れのように引きちぎれるであろうそれに縛られながら、マキが強盗に聞こえないように、モジモジともどかしそうに喘ぐ。
「……ぁーんもう、煩わしすぎるぅ。体術の範疇じゃダメぇ?」
「あはは、まぁまぁ、それは最後の手段にしましょう、マキさん」
セクシーな誘惑にしか見えないその様子も、実際には怪獣クラスの猛獣に対する『待て』に等しい。
この場において一番困ったように、しかし極めて冷静な声音で弓鶴が宥めた、その時だった。
「リーダー、だめだ! 裏口も包囲されちまってる! 脱出用の車も抑えられちまった!」
「クソッ……例の『奥の手』使おうぜ、それしかねえよぉ!」
「馬鹿、あれは本当に最後の手段なんだよ……おい! 人質を一人連れて来い。できるだけ小さいやつだ!」
リーダー格らしき男が顎で指示すると、下っ端と思しき強盗たちが、壁に寄せられた利用客の中から、小柄な身体を乱暴に引っ張り上げた。
「――きゃっ!?」
「りりん!!」
強盗の太い腕に首根っこを掴まれ、宙吊りのように引きずり出されたのは、紫のジャケットとワンピースに身を包んだ少女――りりんであった。
「連れてきやした!」
「よし、こいつを人質に警察に交渉するぞ……本格的にダメそうだったら、あの『奥の手』で雲隠れだ……」
小柄なりりんの首根っこを掴み、リーダー格の男が下劣な笑みを浮かべる。
圧倒的な暴力と恐怖の前に、誰もが絶望に俯く――はずだった。
だが、宙吊りにされたりりんの瞳には、恐怖など微塵もなかった。
「おじさんたち、必死すぎ!」
よく通る少女の冷たい声が、静まり返った銀行内に響き渡る。
「こんなちっちゃい女の子の手を借りて、みんなに迷惑かけないと銀行からお金も下ろせないの? だっっっさぁっ!!」
それは、命の危機に瀕しているとは思えないほどの、蛮勇的で鋭すぎる罵倒。
「なっ……」
と、強盗たちは図星を突かれたように、一斉に苦虫を噛み潰したような顔になった。
「りりん、やめろ! 賊漢ども、人質にするなら私にしろ! うぐっ……!」
見かねた白髪の女性――クロワが、身を乗り出して強盗たちの注意を引こうと叫ぶ。
だが、次元の海での意味消失から救出されてまだ一ヶ月。
先ほどまでりりんを支えにしてようやく立って歩けていたほど弱り切っている彼女は、支えをなくし、両手を後ろに縛られた現状ではバランスを保てず、体の痛みに耐えきれずにそのまま床へと崩れ落ちてしまった。
「お姉ちゃん!」
「こいつ等……っ!」
りりんの罵倒とクロワの抵抗に激昂した短気な強盗の一人が、倒れ伏したクロワに向けて乱暴に銃口を突きつけた。
「おい、人質の価値を下げんなよ?」
「見せしめは必要でしょうが……へへっ、そっちの生意気なガキだって、目の前で身内に傷の一つでも付きゃあ、おとなしくなるだろうよ」
強盗たち自身も、包囲された極度の緊張から完全に興奮状態に陥っていた。
男の濁った目が殺意に染まり、床に倒れるクロワから、宙吊りのりりんへとゴーストガンの狙いが移る。
引き金に、男の脂ぎった指が添えられた。
その、時だった。
「――おいっ!」
パァン!!
破裂音にも似た鋭い音が鳴り響いた。
それは銃声ではない。
神速で間合いを詰めた弓鶴の靴の先が、男の持つゴーストガンを正確に蹴り上げた音だった。
ブチッ!!
弓鶴の両親指を拘束していた結束バンドが、まるで濡れた紙切れのようにあっさりと引きちぎられる。
そのまま弓鶴は、銃を蹴り飛ばされて呆然とする強盗の腕を組み締めるや否や、一切の容赦なくその頭を床へと激しく叩きつけた。
ゴガァッ!!
という鈍い音と共に、短気な強盗が白目を剥いて沈黙する。
「子供やけが人はもっと大事にしろ! 人質にするなら、俺を選べ!」
怒気に満ちた、しかし何処までも真っ直ぐな弓鶴の怒声が響き渡る。
……シン、と。
周囲の時間が止まったかのように、銀行内が静まり返った。
誰もが息を呑む中、弓鶴の背後では規格外のヒロインたちがそれぞれの反応を示していた。
『いいなぁ……私も暴れたいぃ……』と、羨ましげなマキの瞳。
『あーあ、やっちゃいましたねこの人』と、呆れ果てたゆかりのジト目。
『お兄ちゃんん……!』と、青ざめた顔の茜と葵の盛大なため息。
そんな彼女たちの視線に気づいた弓鶴は、怒りで沸騰していた頭が急速に冷えていくのを感じた。
「……あ。」
間抜けな声が漏れる。
そうだ、自分たちは一般人に擬態していなければならないんだった。
大勢の目撃者と監視カメラの前で、結束バンドを引きちぎってプロの強盗を神業でワンパンする高校生など、目立って仕方がない。
やらかした、と弓鶴の顔からサァーッと血の気が引いていく。
だが、この場において、本当に致命的だったのはそんな些末なルール違反などではなかった。
ただ一人。
床に倒れ伏していたクロワだけが、カッと目を見開き、その震える瞳で弓鶴の顔を――己の全てを奪い去った『黒翼の暴虐』と全く同じ顔を――見据えていた。
(――お前は……ッ!!)
血の涙を流すような凄絶な憎悪が、クロワの魂の奥底で燃え上がる。
己に突き向けられたその致命的な殺意と因縁に、間抜けな声を上げたばかりの弓鶴は、まだ全く気付いていなかった。
弓鶴の突然の反撃と、沈黙する仲間。
その異常事態に、強盗たちの思考が一時的に停止した、まさにその隙だった。
銀行のガラス張りの外壁越しに、赤色灯が激しく瞬き始めた。
『中で物音がしたぞ!』
『銃声か!? 最悪の事態だ!』
『突撃を開始する! 突入班、前へ!』
外部からもガチャガチャと、重装備の特殊部隊がフォーメーションを組む物々しい音が聞こえてくる。
「り、リーダーぁ!」
「あ、あああくそっ!!」
パニックに陥る下っ端たち。
あとは突入を許し、制圧されるのを待つだけだ――利用客の誰もがそう安堵しかけた、その時だった。
強盗のリーダー格の男が、血走った目で叫んだ。
「――『奥の手』、展開しろ!」
「へ、へいっ!」
その呼びかけに応じ、強盗の一人が足元のトートバッグ――奪った金を入れるためのものではなく、唯一最初から中身が入っていたバッグ――から、奇妙な機械を取り出し、フロアの中央に置いた。
それは、真鍮製でドーム型をした、時代錯誤なほどに古めかしい巨大なオルゴールのような代物だった。
ギリリりりっ、カチャン。
キリキリキリキリキリ――……。
機械がまるでパラボラアンテナのように複雑に展開し、聞く者の精神の奥底を不安にさせるような、不協和音の音色を奏で始めた。
ヴュウウゥゥゥゥン!!
直後、格子状の魔力光の波が、等間隔の波紋のように機械から周囲の床、壁、そして窓ガラスへと一気に広がっていく。
空間そのものを塗り替えるような波紋が天井で収束し、まるで世界の巨大な錠前を掛けたかのように「ガキィン!」と重い音が響き渡った。
その瞬間。
けたたましく鳴り響いていた外のパトカーのサイレンが、人々の悲鳴が、特殊部隊の靴音が――ぷつりと、完全に消え失せた。
「…………えっ?」
静まり返る銀行内。
窓の外には警察車両の赤色灯がピカピカと光っているのが見えるのに、音は一切聞こえず、彼らが銀行の中へ突入してくる気配もない。
いや、外から銀行の内部を覗き込む彼らの視線が、どこかピント外れの場所を彷徨っている。
「――うそやろ、魔力を使用した『深化空間(ポケットディメンション)』!?」
「外界から、うちらのいる空間ごと消失(ハイド)したってこと!? 強盗に、旧式魔術師が紛れ込んでる!?」
信じられないものを見たように、茜と葵が目を見開いて小声で呟く。
本来、それは防衛組織であるTOWEATや、それに類する魔術結社が大規模な戦闘の被害を現実世界から逸らすために使う、高次元の結界術式だ。
それが意味することは、ただ一つ。
――「この空間は、現実の警察や一般社会のルールから、完全に切り離された」ということ。
「へっへっへ……驚いたか? これで俺たちはお前らもろとも、外のポリ公どもには見えねえ空間に隔離されたってわけだ……」
強盗のリーダーが、狂気じみた笑みを浮かべて言い放つ。
しかし彼らは知らなかった――正確にはリーダーだけ又聞きで知っていたが、それも理解しきれているとは到底言えなかった。
自分たちが外界から遮断したことで、警察という「人間の法」が機能しなくなり、絶対的強者たちを縛り付けていた【リミッター】を、自らの手で解除してしまったことを。
ゆらぁり、と。
壁際に追いやられていた二人の規格外の化け物の瞳に、爛々とした捕食者の眼光が灯る。
「つまりぃ?」
マキが、獲物を見つけた肉食獣のような、獰猛で極上の笑みを浮かべた。
すると、その隣で。
「――そういう事ですねぇ」
ぬるり、と。 ゆかりの両親指をキツく縛り上げていたプラスチック製の結束バンドから、彼女の親指が高次元生命体たる彼女の『壁抜け』で透過し、何事もなかったかのように抜け落ちた。
ゆかりは自由になった両腕を前に組み、ん~~っ! と気持ちよさそうに背伸びをする。
「外界から断絶した、十分なこの世ならざる事態(イレギュラー)。当然、巻き込まれた一般の方々にも事後記憶処理が確定……と言うことで」
ゆかりは上品な微笑みを浮かべたまま、目の前で銃を構えて呆然とする強盗たちを、ビシッと指差した。
「マキさん、ゴー。」
「待ぁってましたぁ!!」
ブチィィッ!!
と、マキが腕に力を込めただけで、拘束具が濡れたティッシュのように引きちぎられる。
完全にリミッターの外れた元女大将軍の手が、腰のキーホルダー――『霊子端末』へと嬉々として伸びた。
ヴゥン!と桜色の光刃が空気を焼くイオン臭が漂い始める。
「あーあ、マキさんたち楽しそう」
「しゃあないなぁ。ほな、うちらも『仕事』しよか、葵」
半ばあきらめたように息を吐きながら、琴葉姉妹が互いに向き合う。
そして強盗たちが止める間もなく、双子の姉妹はごく自然に、その唇と唇を重ね合わせた。
――変身(ウェポンライズ)、開始。
「まずいまずいまずい! 松嘩の言ってた異界の化け物と生体兵器どもだ! 特殊弾頭に切り替えろ!」
想定外の怪物たちの顕現に、強盗のリーダーが血相を変えて叫ぶ。
その指示に従い、強盗たちは慌ててジャケットの内に隠し持っていた、紫色の蛍光塗料でびっしりと呪文が書き込まれた禍々しいマガジンを取り出し、ゴーストガンへと装填し直した。
「遅いっ!!」
シュンッ!! と、空気を切り裂く鋭い音が鳴る。
マキが神速で光の刃を振るうと、強盗の一人が構え直そうとしたゴーストガンが、まるで豆腐のように真っ二つに切り裂かれた。
「ば、化け物がああ!!」
恐怖に駆られた背後の強盗が、マキめがけて乱れ撃ちに引き金を引く。
マキの背後には、壁際に追いやられた老人たちが震えていた。避ければ、彼らに魔力弾が直撃してしまう。
「ハナ!」
『――既に。』
主の呼びかけに応じるより早く、マキの首に掛けられていた梵字のような螢惑文字の刻まれた木製ヘッドホンが、自ら複雑な駆動音を立てて変形した。
質量保存の法則を無視してマキの左腕を覆う頑強な小手へと組み上がると、ヴンッ! と、霊子エネルギーによる丸盾(エナジーシールド)を展開する。
ダダダダッ!
と、放たれた魔力弾は全てその光の盾に弾かれ、天井を無惨に穿った。
「――っ」
そのままマキは流れるような動作で、先に銃を破壊されて呆然としていた強盗の顔面に、強烈な後ろ回し蹴りを見舞う。
一撃で脳震盪を起こし、糸の切れた人形のように崩れ落ちる強盗。
マキは視線を逸らさず、丸盾を構えたまま発砲した強盗へと一気に距離を詰める。
「くっそおおお!」
銃弾が効かないと悟った強盗は、ゴーストガンを投げ捨て、同じく紫の蛍光塗料で呪文の刻まれたエッジナイフを抜き放ち、応戦を試みた。
だが、歴戦の女大将軍にとって、そんな付け焼き刃の抵抗など児戯に等しかった。
マキの手が、ナイフを振り下ろそうとした強盗の腕を容易く掴み取る。
そのままテコの原理と自身の体術を応用し、くるり、と空中で強盗の身体を一回転させた。
「ひっ!?」
世界が逆さまに回転する視界の中。
「判断は上等だったよ。――精進しなよ」
満足げに笑うマキの声と共に、顔面に叩き込まれた無慈悲な掌底の衝撃。
それが、その強盗が最後に覚えている記憶となった。
一方、その隣では。
赤い袴を纏った戦闘装束の茜に対し、別の強盗がゴーストガンの銃口を向けた。
「死ねやぁっ!」
ダダダダダダッ!!
「葵!」
『はい、ストーップ』
茜が呼ぶと同時に、手にした薙刀から葵の呑気な声が響く。
直後、葵の能力である『斥力(アトラクト)』の力場が茜の前に展開された。
放たれた凶悪な魔力弾たちは、茜の眼前数センチのところで、まるで見えない分厚いゴムの壁にめり込んだかのように急減速し、空中でピタリと静止する。
そこへ、茜がニヤリと笑いながら手を伸ばした。
「はい、お返し!」
ぎゅっ! と、今度は茜の能力『重力(グラヴィトン)』が発動する。
空中で静止していた複数の弾丸が、まるで塵芥が集まって一つの小惑星を形成するかのように、一箇所にギュルギュルと圧縮されていく。
鉄と魔力の塊となったそれを眼前に据え、茜は手にした薙刀をバットのように大きく振りかぶった。
「かっきーん!!」
『葬(ほうむ)らん!』
野球のホームランバッターさながらのフルスイング。
強烈な衝撃音と共に打ち返された圧縮弾丸は、小銃を放った強盗の眉間へ、回避不能の超高速でクリーンヒットした。
「ごふっ!?」
『みんな気を付けてー。なんか魔力で強化された弾だよって、もう関係ないかぁ』
白目を剥いて吹き飛ぶ強盗を尻目に、薙刀の葵がのほほんと忠告する。
そして、最も質が悪いのが、この次元海賊であった。
「うわあああ!! くるな、くんなぁっ!!」
ニタニタと極上の笑みを浮かべながら近づいてくるゆかりに対し、半狂乱になった強盗が小銃を乱射する。
だが、ゆかりは立ち止まりすらしない。
ぬるり。
彼女はまるで、そこにある地面がプールの水であるかのように沈み込み、銃弾の雨を完全に『透過』して回避してのけた。
「……えっ? 消え……」
『くすくす……』
困惑する強盗の耳に、四方八方から、何もない空間から不気味な笑い声が響き渡る。
『こっちですよぉ?』
『ほぉら、よく見てぇ?』
まるで悪夢の中にいるような幻聴。
強盗の恐怖が限界に達し、ガチガチと歯の根を鳴らしながら背後にある太い柱へと後ずさった、その瞬間だった。
ドッ!!
背を預けていたはずのコンクリートの柱を、ぬるりと透過してゆかりの上半身が現れた。
そして彼女は、振り返ろうとした強盗の背中から胸の中心へ向けて、自身の左腕を深く、深く、ぬじゅりと透過させて沈み込ませた。
「ひっ!? ひぃぃ……っ!?」
己の心臓を、実体のない異物に直接撫で回されるような、根源的な恐怖と悪寒。
「んー、少し不整脈が多いですねぇ。もっと健康に生きなさい?」
柱に半身を埋めたまま、ゆかりは強盗の耳元で甘く囁く。
「物を盗むなら、もっとスマートに、ね?」
ピンッ。
ゆかりの自由な右手が、強盗のこめかみに軽いデコピンを弾いた。
ただそれだけで、精神の限界を超えていた強盗は、泡を吹いてその場に崩れ落ちたのだった。
「くそっ! 見つかる危険性についちゃあ聞いてたが、こんな特異点どもが集まってるだなんて……流石に話が違うぞ!?」
仲間たちが次々と人間離れした化物たちに蹂躙されていく様を見て、ついにリーダー格の男の心が折れた。
大慌てで金目の物が入ったトートバッグを引っ掴み、裏口へ向かって一人逃げようと駆け出した、その時だ。
「おとなしくしろ。罪を償って真っ当に生きろ!」
脱出口への動線を塞ぐように、弓鶴が立ちはだかった。
チャキッ、と鋭い音が鳴る。
弓鶴の腰に提げられた木製のキーホルダー――『霊子端末』から黄金の光刃が展開され、逃げ場を失ったリーダーを強く牽制した。
「うるせえっ!! こんな便利なもんを独占してるTOWEATや異世界の化け物が、偉そうにぬかすな!!」
半狂乱になったリーダーが絶叫と共に、紫の蛍光塗料で彩られたゴーストガンを弓鶴へ向ける。
だが、その銃口が火を噴くより早く、弓鶴の振るった黄金の刃が銃身を豆腐のように両断していた。
勝負は決した。誰もがそう思った、その直後。
(――しまっ……!)
凄まじい実戦経験に裏打ちされた弓鶴の直感が、背後から突き刺さる強烈な殺気に遅れて気がついた。
見れば、フロアの隅で気絶したふりをしていたもう一人の伏兵が、弓鶴の背中へ向けて無傷のゴーストガンを構えていた。
弓鶴はマキのように霊子エネルギーの盾を展開できるわけではない。
躱すことはできる。だが、今躱せば、その射線上には先ほどリーダーに首根っこを掴まれていた小柄な少女――りりんが居る。
庇うしかない。しかし、この距離と体勢で魔力強化弾を無傷で凌ぐ術はない。
万事休す――そう思われた、その瞬間だった。
シュンッ!!
弓鶴の視界の端を、白い影が疾風のように駆け抜けた。
直後、彼の背後でもう一つの『ウェポンライズの光』が弾ける。
バチバチッ!
とライトグリーンの電撃を放ちながら顕現したのは、刀身と柄の間に丸く大きな穴の空いた、巨大な紫色の大剣だった。
「はああああああっ!!」
その大剣の穴に腕を通し、先の白髪の女性――クロワが裂帛の気合と共に腕を振るった。
ギュンッ! ギュンギュンギュンッ! ギャギャギャギャギャ!!
クロワの腕の動きに呼応し、紫色の大剣が凄まじい回転を始める。
気合一閃。クロワが腕を薙ぐと同時に、高速回転する大剣がまるで意思を持つ円盤のように宙を舞い、一瞬にして伏兵の放とうとした小銃をズタズタに切り裂き、そのまま柄の部分を強盗の顔面に激突させた。
「ぐふぇっ!?」
一撃で意識を刈り取られた伏兵が崩れ落ちる。
そして大剣は、不自然な軌道を描くブーメランのように「ギュウン!」と空中でUターンし、再びクロワの元へと戻ってきた。
クロワは再び剣の穴に腕を通す形でそれを受け止める。
弱り切った体にはその反動が重すぎたのか、彼女はグラリと大きくよろめいた。
だが、かつて女騎士団長として培った底知れぬ膂力でギリギリのところで踏みとどまり、荒い息を吐きながら手にした大剣に申し訳なさそうに言った。
「すまない、りりん……。また、お前の生気(BLESS)を借りてしまった」
『謝ることなんてないでしょ』
そんな姉妹の温かいやり取りの横で。
ダシャンッ!!
という派手な音と共に、リーダー格の男もまた、弓鶴の容赦ない一本背負いによってひび割れた床へと叩きつけられ、完全に沈黙したのだった。
「――ふぅっ。助かったよ」
制圧を完了した弓鶴は、黄金の光刃を収めながら振り返り、柔らかな笑顔で大剣と女性に労いの言葉をかけた。
「まさか君たちも、俺たちと同じボイロウェポンだったなんてね。ナイスコンビネーションだった」
『そっちこそ助けてくれてありがと! ボイロウェポンはりりんで、こっちのお姉ちゃんはクロワっていう……』
紫色の大剣――りりんが屈託なく言いかけた、まさにその最中だった。
ギリッ。
クロワが、再び大剣を構え直したのだ。
ただの構えではない。
それは明確な『殺意』を持った、命を刈り取るための戦闘態勢。
「――これで、りりんを庇った貸し借りは無しだな」
クロワの声は、氷のように冷たく、そしてドロドロに煮えたぎっていた。
『お姉ちゃ――!?』
りりんの制止の声すら振り切り、クロワは紫色の大剣を高く振りかぶり、信じられないほどの憎悪と怒りに顔を歪めながら、弓鶴を見下ろして絶叫した。
「イオリユヅル……私から全てを奪った男ォッ! 覚悟おおおおっ!!」
「――なぁっ!?」
咄嗟に霊子端末を抜き直し、黄金の光刃でそれを受けた弓鶴の顔が驚愕に歪む。
間違いない、この殺気は本物だ。
『お姉ちゃん!? ちょっと、何してんの!!』
「黙ってくれりりん! 私はこいつを……こいつだけは、絶対に殺さなければならないんだっ!!」
その言葉とは裏腹に、大剣を振るうクロワの瞳には、僅かな混乱と戸惑いの色が浮かんでいた。
次元の海を漂い、『意味消失』に晒された彼女の記憶は、その大半が欠落し、ひどく混濁している。
己の全てを奪ったはずの『黒翼の暴虐』と、目の前で自身や妹(りりん)を助け、柔らかな笑顔を向けた青年。
全く同じ顔でありながら、纏う空気があまりにも乖離しすぎているのだ。
「何故だ……何故、そんな顔をする! 私の知るお前は、もっと……っ!」
りりんが文句を言う間にも、クロワの猛攻は止まらない。
まるで見えないベアリングが関節に組み込まれているかのように、クロワの身体が独楽のように回転する。
その遠心力を利用し、変幻自在な軌道で放たれる斬撃が、弓鶴の防御を幾度も弾き飛ばそうと食らいつく。
上、下、左、右、フェイント、左、もっと強烈な左。
まるで腕が六本以上あるかのような、人間離れした流麗かつ苛烈な身体捌き。
(この人っ……あんなに怪我をして、フラフラなはずなのに……!)
弓鶴は防戦一方になりながら、冷や汗を流して戦慄した。
(太刀筋のバリエーションと予測のつかなさだけなら……あのマキさん以上だ……! 出来るっ!!)
「記憶は……何も思い出せないっ! だが、それでも!! この心がっ……魂が覚えているんだぁっ!!」
かつて、闇の鶴翼に全てを奪われた誇り高き女騎士は。
血を吐くような絶叫と共に、目の前の光の鶴翼へと、死の刃を振り下ろし続けていた。
だが、そこで――ブチィッ! と。
誰かの堪忍袋の緒が、盛大に千切れる音がした(ような気がした)。
『だぁ~かぁ~らぁ!!』
クロワが紫色の大剣を大上段に構え、弓鶴がそれを決死の覚悟で受け止めようと身構えた、その瞬間。
空中で振り下ろされる軌道上にあった巨大な刃が、ギュルンッ! と一瞬にして身を縮め、高速回転する少女――りりんの姿へと変貌を遂げた。
「えっ!?」
予想外の事態に目を見張る弓鶴だったが、咄嗟の機転で構えていた黄金の光刃の腹で、落下してきたりりんの小さな足をトンッと受け止める。
すると、りりんはその光刃を足場にして、まるで曲芸師のような見事な身のこなしで跳躍した。
その瞬間、ふわりと舞い上がったワンピースの裾の下から、下半身に密着した紫色の封具スーツに包まれた可愛らしいお尻が、弓鶴の顔の真正面にドアップで提示される形になるが、今の彼女にはそんな恥じらいなど微塵もなかった。
りりんは弓鶴に背を向けたまま、眼前にいるクロワへ向けて腕を顔の前でクロスさせ、猛烈な勢いで宙を舞う。
「記憶ないなら……『仇かもしれない』ってだけで襲い掛かっちゃダメって言ったでしょーっ!!」
「なっ――!?」
りりんの渾身の怒りを込めた必殺技――フライング・クロスチョップが、無防備なクロワの首元へ見事に、そして強烈に炸裂した。
「あひぃうんっ!?」
直後。
先程まで周囲を凍り付かせていた冷徹な殺気や、血を吐くような凄絶な復讐鬼の面影は、一瞬にして宇宙の彼方へ吹き飛んだ。
代わりに銀行内に響き渡ったのは、最愛の妹からの物理的なダメージ(ご褒美)を深部で堪能しているような、ひどく台無しで、限界突破したマゾヒズムを感じさせる女騎士の艶めかしい悲鳴だった。
ドシャアアァァンッ!!
完全に意識(と別の何か)を刈り取られたクロワは、妹のりりんを巻き込みながら、ぐちゃぐちゃになった銀行のオフィスブースへと派手に突っ込み、瓦礫の山に沈んでいったのである。
* * *
ガキィンッ……という重い音が再び響き、銀行内を満たしていた不協和音と光の格子がふっと消え失せた。
直後、強盗たちが自ら展開した『深化空間』の解除を合図に、けたたましいサイレンの音とパトカーの赤色灯が現実世界からどっと流れ込んでくる。
「突入! 突入ゥッ!」
入り口から雪崩れ込んできたのは、重装備の特殊部隊――に偽装した、TOWEAT本庁から派遣された事後処理専門のスタッフたちだった。
彼らは既に表の一般警察を「本庁の特殊犯罪対策チームの管轄だ」と押し留めており、手際よく銀行内の制圧(という名のお掃除)を開始する。
「ひ、ひぃぃぃっ! 来るな、化け物ォォッ!!」
「ここは地獄だ……俺はもう悪さしねぇ、真っ当に生きるから神様許してくれぇぇっ!!」
「嫌だぁぁぁ胸ん中に手ぇ突っ込まないでぇぇっ!!」
屈強なTOWEATのスタッフたちに手錠をかけられ、担架に乗せられていく強盗団の男たち。
彼らの目は完全に虚ろに濁り、ガチガチと歯の根を鳴らしながら、トラウマを植え付けられた哀れな廃人と化していた。
規格外の超常存在たちに手酷く蹂躙され、物理的にも精神的にも限界を超えた彼らにとって、もはや警察や法による裁きなどご褒美でしかないのだろう。
そんな、少しばかりシュールで可哀想な逮捕劇が繰り広げられるフロアの片隅で。
「ほんっ……とうにごめんなさい!!」
小柄な少女――りりんが、自身より背の高いクロワの白髪頭をぐわしと鷲掴みにし、無理やり一緒に深々と頭を下げていた。
先ほどの強盗に対する小生意気で毒舌な口調からは想像もつかないほど、誠実で礼儀正しい謝罪だった。
「い、いやいや、謝らないでください。そっちのクロワさんも……たぶん、俺がよっぽど本当にその憎い相手に似てたんでしょうし」
弓鶴は苦笑いを浮かべながら、慌てて二人――特に、理不尽な殺意を向けてきたクロワへ向けてフォローを入れた。
だが、当のクロワは頭を掴まれたまま、ギリッと鋭い犬歯を剥き出しにして弓鶴を睨みつける。
「ふん……殊勝なふりをして隙を見せたら、証拠隠滅のために後ろから刺す気だろう? お前の外道さは、この魂がよぉく覚え――お゛っほおっ♡」
「猛獣以下の駄女騎士は黙っててね?」
クロワが毒を吐き切るより早く、りりんの容赦ない肘鉄が、未だ傷の癒えきっていないクロワの腹に深々とめり込んだ。
強制的に罵倒を中断させられ、脇腹を押さえて悶絶するクロワ。
その表情は苦痛に歪みながらも、どこか最愛の妹からの「ご褒美」を堪能しているような、極めて駄目な大人の色気を漂わせていた。
「おん?」と、再び理不尽な殺気を向けられたことに怒りの表情を浮かべ、霊子端末や薙刀を構え直そうとしていたゆかり、マキ、琴葉姉妹も、そのあまりに残念な光景を前に、盛大なため息と共に脱力せざるを得なかった。
「しかし、裏方も裏方のりりんちゃんが、いつの間にかAクラスの未知の脅威と契約(ウェポンライズ)しちゃってたなんて……」
「ふん、ただの気まぐれだ、か、ら!」
葵が感心したように言うと、りりんは照れ隠しのようにそっぽを向きながら、おもむろに手袋を外し始めた。
そして、その華奢な掌を、真っ先に横でうずくまるクロワの顔面へと押し付けた。
「んむぐっ!? り、りりん何故私から……あへぇ」
クロワは真面目に抗議しようとしたものの、一瞬にして全身から力が抜け、情けない声を上げてパタリと床に倒れ伏した。
念のために言っておくが、これは彼女の特異な性癖によるものではない。
りりんが素手を翻すと、その掌から指向性を持った『少し甘い香り』がフロア全体へと放たれたのだ。
香りは壁際で事態に呆然としていた利用客たちへ届き、彼らを一瞬にして深い眠りへと落としていく。
驚くべきことに、弓鶴が『視覚』で感知していた一般人に紛れ込む「この世ならざる者たち」――ただの化学物質なら通じなさそうなAクラスの異界存在たちまでもが、その甘い香りに抗えずに白目を剥いて次々と卒倒していった。
「はい、催眠と記憶処理、完了っと」
「え、今ので!?」
あまりに手軽な事後処理に弓鶴が目を丸くしていると、背後から葵が補足の説明を加えた。
「りりんちゃんはね、これでもTOWEAT屈指の催眠と薬学のエキスパートなの。彼女のBLESS能力『芳香(サキュバス)』は、未知の脅威の規律不整(ルール)すらぶち抜いて、色んな効果を持つBLESS化合物を肌から自在に放って操れるんだよ」
「暴走するとめちゃくちゃ厄介な能力やからな。意識せえへん限りは素肌に偽装される、あのピッチリした封具スーツで完全に制御しとるんよ。……まぁ、性格はあの通りちょっと小生意気やけど、根はええ子やよ」
茜の言葉に、弓鶴は納得したように頷く。
そんな彼らの視線の先で、りりんは厄介そうに――しかしどこか安堵したような、嬉しそうな表情で、床で幸せそうに眠る名目上の姉を見下ろして唸った。
「せっかくのホストファミリーだってのに、記憶は穴だらけだわ、変態だわで、挙句の果てに恩人に殺気放って襲い掛かるから、ホンっト、この一週間大変だったんだからね……」
げんなりとしたりりんの愚痴を聞きながら、弓鶴は顎に手を当てて静かに考え込んでいた。
(『魂が覚えている』……かぁ)
弓鶴の脳裏に、かつて螢惑で対話した超越存在――大飛震塔梅の化身たる、鳴花の双子神の言葉がフラッシュバックする。
『――私たちは全知全能だけど、それは万物の魂に記された魂魄情報(サイコ・アーカイブ)を読んで表せるだけのことなんだ』
記憶が欠落していても、魂が情報を保持しているのなら。
その言葉の真意に思い至った瞬間、弓鶴はポンッと手を打って、極めて自然な笑顔で提案した。
「二人とも、一旦うち(琴葉家)にちょっと来てくれないか? その人の記憶、何とかできるかもしれない人がいるんだ。人っていうか……神様だけどね?」
「「――はぁ!?」」
弓鶴の天然な爆弾発言に、この場にいる誰よりも、もっとも驚愕に顔を歪ませたのは、紛れもない琴葉家の主たる琴葉姉妹であった。
「ちょ、ちょっと待って弓鶴兄ちゃん!? うちに神様なんておらんよな!?」
「弓鶴の知る神様って、あの双子ぉ!?
それ絶対『Kクラス』のヤバいやつだよね!? 私、これまでの思い出話の中でも、今の今まで一切そんなこと聞いてないんだけど!?」
自分たちの知らない間に、実家にとんでもない存在が居座っているかもしれない。
そんな戦慄の事実に、茜と葵の悲鳴にも似たツッコミが、平和を取り戻しつつある銀行内にこだまするのであった。
* * *
サイレンの音が遠く響き、平和を取り戻しつつある勢天町駅前のロータリー。
その喧騒を、遥か上空――駅ビルの屋上の縁から見下ろす一つの影があった。
「――――ぁー。」
一般人が見れば、今にも飛び降り自殺を図ろうとしているのではないかと錯覚するほど、危険な屋上の端。そこに片脚を立ててしゃがみ込むその姿は、極めて異様だった。
蒼い金属のような鈍い光沢を放つバトルスーツは、高校生ほどの健康的で蠱惑的な恵体をこれ見よがしに強調し、黒い鈴の刻印が刻まれた胸元や、太ももの柔肌を無防備に晒している。
だが、そんな扇情的な格好の上に、雲一つない晴天であるにもかかわらず、透明なビニールのコートを深く羽織っていた。
そして何より異様なのは、その顔の上半分を覆い隠す、無骨な機械式のバイザーである。
「ぁ……ぅ……ぁー……」
唇から漏れるのは、言葉ではない。
それは、どこかで聞いたことのあるような、鈴を転がすような美しく可愛らしい少女の声帯を使って奏でられる、まるで精神を崩壊させた屍人か、理性なき獣のような意味のない呻き声だった。
手入れもされず無造作に伸びた長い青色の髪が、風に揺れる。
見た目は整った美しい少女のそれであるはずなのに、彼女から発せられる空気には「知性」というものが微塵も感じられなかった。
虚ろに開かれた口元からは時折だらしなく涎が垂れ、ピクピクと痙攣するように首を傾げながら、ただ機械的に、カチ、カチッとバイザーの調節レンズを捻って眼下の光景を観察している。
それはまさに、使い潰され、魂の形を歪められた『特異点のなれの果て』と呼ぶにふさわしい、残酷な姿だった。
「ぅぅ……ぁー? ぁぁ……!」
不意に、獣のような少女の呻き声が少しだけ大きくなる。
機械越しの視界が、銀行の入り口から出てきた一行――弓鶴の背に負われ、眠るように気を失っている白髪の女騎士・クロワの姿を正確に捉えたのだ。
ピピッ。
その瞬間、少女のバイザーの奥でアラートが鳴り、真っ赤な文字が視界にオーバーレイ表示される。
『――登録指定外クラブスーツ世界:ラステア由来魔力を特定』
『――追跡対象:確認』
『――雨去(あまさり)町ベースへと帰還し、『伊織弓鶴』の指示を待て』
システムから一方的に流し込まれたその文字列。
中でも、最後に表示された『伊織弓鶴』という名前に反応した瞬間。
壊れた獣の瞳に、歪にプログラムされた狂気のような依存の色が浮かび上がった。
「ぁー……ぃきき……ゆづ……ぅー……くぁっ!」
ガバッ!! と。
少女は、屋上の縁から落ちかねないほどの無茶苦茶な勢いで深く屈み込んだかと思うと、豊かな胸を大きく揺らし、人間の骨格や筋肉の限界を無視したような凄まじい『獣の脚力』で空中へと跳躍した。
そのまま空中でビニールコートのフードを深く被り、青い髪を隠す。
直後、コートに備わった光学迷彩機能が起動し、空の青と同化するように、その姿はノイズと共に完全に虚空へと溶け込んで消え去った。
彼女が立っていた屋上の縁には、コンクリートが砕けた踏み込みの跡だけが残されている。
その美しくも無惨に壊れ果てた獣の呻き声は、勢天町を護るボイロウェポン――『琴葉葵』のそれと、酷似していた。