VOICEROIDのウェポンサイド//偽りの星の聖譚詩   作:EMM@苗床星人

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第一期 偽りの星の聖譚詩
第一話 少年・少女、結月環


 

 午後の陽光がレースのカーテンを黄金色に染め上げる。聖・海尼(あまなし)女学院の廊下からは、薔薇色の頬をした少女たちの、鈴を転がすような笑い声が微かに漏れ聞こえていた。

 小中高を一貫した、純粋培養の女の園。ここは現代に再現されたエデン。汚れも争いも、世界の不条理さえも、分厚い塀と伝統が隔てているはずだった。

 その楽園にあって、保健室だけが異質な静寂に支配されていた。

 消毒液の匂いが満ちる空間は、厚い遮光カーテンによって外界から完全に切り離されている。ベッドの代わりに並べられた三脚のパイプ椅子。

 その中心で明滅する青白い光が、唯一の光源だった。光は虚空に複雑な分子構造式と、星々の系譜を思わせる系統樹を三次元的に映し出し、無機質な空間にサイバネティックな祭壇の如き神聖さすら与えている。

 その立体映像のスクリーンを背に、白衣を纏った女性が合成音声のように平坦な声で語りかける。

 

「さて、覚醒したばかりで混乱も多いだろうから簡単な説明をさせてもらおう」

 

 パイプ椅子に座らされた三人は、それぞれがこの優雅な女学院とは不釣り合いな存在だった。

 一人は、茶髪をポニーテールに結いながらも、明らかに男子用の学ランを着崩した小学生ほどの少年。

 一人は、古風な和服と滅菌処理された手術着が奇妙に融合した格好の少女。ぼさぼさの緑の長髪が、生気のない顔にかかっている。

 そして最後の一人。破れかけた学ランから覗くのは、その衣服のサイズとは到底釣り合わない、柔らかな膨らみを持つ肢体。紫色の髪が乱れ、その瞳は焦点が合わずに揺れていた。

 

「結月環、東北桐介ーーきりたん、君達は通称『ボイロウェポン』と呼ばれている、作られた生命だ」

 

 冷徹な事実が、ナイフのように静寂を切り裂いた。

 きりたんと呼ばれた茶髪の少年が、子供らしいストレートな反抗心で眉を顰める。

 

「はぁ、作られた?」

 

 環と呼ばれた少女は、その言葉を理解することを脳が拒否しているかのようだった。ただ呆然と、意味を失った音節を繰り返す。

 

「俺の、俺の……が」

 

 立体映像が切り替わる。デフォルメされた数名の顔――『特異点』とラベル付けされたそれらが浮かび上がり、次の瞬間、無数の金属細胞が嵐のように吹き付けた。

 細胞は遺伝子情報を鋳型に、クローンを、またそのクローンを、指数関数的に増殖させていく。

 それは生命誕生の神秘などではなく、兵器を量産する工場のライン作業をCGで再現した、冷たい映像記録に過ぎなかった。

 やがて光景はマクロへと転じる。我々の住む青い惑星――地球が、しゃぼん玉のようにいくつも分裂し、増殖していく。

 多元宇宙論を視覚化したその光景の中で、無数の並行宇宙から伸びた矢印が、ただ一点、この世界の地球へと収束していく様が映し出された。

 

「この世界には、別の世界からの来訪者やら侵略者やらが割りとしょっちゅう来ている。彼等は物理法則そのものが異なるため、我々の通常兵器が一切通用しない。『未知の驚異(アンノウン)』と呼ばれている。そこにいる、そのずん子?くんも、その類いの存在だね?」

 

 白衣の女性が顎でしゃくると、緑髪の少女――ずん子が、こてん、と首を傾げた。その口から漏れたのは、言葉というよりは、小鳥のさえずりに似た音。

 

「ずんだー?」

 

「要するに、私たちは彼らに対抗するために造られた生体兵器、というわけだ。とある金属生命体の自己増殖細胞に、最も高いシンクロ率を示した数名の人物の遺伝子情報を転写し、この世界の、ごくありふれた住人として社会に溶け込ませた。味方を作るために、まず敵を作ってしまっては本末転倒だろう?」

 

 淡々とした説明は続く。

 だが、環の耳にはもう届いていなかった。世界の真実などよりも、もっと個人的で、根源的な喪失感が彼女の全身を苛んでいた。

 堰を切ったように、大粒の涙が頬を伝い、パイプ椅子の足元に染みを作っていく。

 

「あっ…あっ…あうあう……」

 

 きりたんは、頭を抱えて難解な理論を必死に咀嚼していたが、隣でしゃくりあげる環のただならぬ様子に、思考を中断させられた。

 

「あの、環さん?」

 

 白衣の女性は、環の嗚咽を意にも介さず、一度咳払いをして本題に入った。

 

「……こほん。君達はその中でも特にレアケースだ。本来、『東北きりたん』および『結月ゆかり』タイプとして製造されるボイロウェポンは、遺伝子提供者(オリジナル)と同様、女性として生まれてくる筈だったんだ」

 

 その言葉に、環の肩が恐怖に震えるように、ぴくりと跳ねた。

 きりたんの脳裏に、最悪の可能性が閃く。

 

「女性……あっ」

 

「特にそこの環くんは、非常に、非情に?――希なケースと言わざるを得ないねぇ。まさか外科手術も介さずに、自己の肉体を性転換させるとは。覚醒の兆候もないまま、外部からの衝撃で無理矢理覚醒させられた影響かな?」

 

 はっはっは。まるでプログラムされた音声のように、感情のこもらない笑い声が保健室に響く。

 その無慈悲な響きが、環の心の最後の防壁を粉々に打ち砕いた。

 

「あぁ……う゛あぁぁあ……」

 

 それはもはや、悲しみの涙ではなかった。自己という存在の根幹が、足元から崩れ落ちていく音。

 昨日までの『俺』が、今日の『私』によって殺されていく断末魔の叫びだった。

 

「うわぁ……」

 

 きりたんは、そのあまりの絶望に満ちた慟哭に、哀れみを抱くと同時に、思春期の少年特有の生理的な嫌悪感で背筋を凍らせた。ドン引き、という言葉がこれほどしっくりくる光景を、彼は知らない。

 どうしてこんなことに。

 どうして、『俺』は。

 環の意識は、残酷な現実から逃れるように、過去へ、過去へと沈んでいった。

まだ自分が、ただの男子高校生・結月環であった、あの日に向かって。

 

 

 

 意識が浮上する。

 そこは、消毒液の匂いも、青白い光も、絶望の叫びもない、懐かしい朝の匂いがする場所だった。

 結月環、高校一年生。ごく最近、念願の高校デビューを果たし、それなりに友人にも恵まれた、どこにでもいる普通の男子高校生。彼の朝は、味噌汁の香りと共に始まる。

 慣れた手つきで出汁を取り、豆腐とワカメを放り込む。隣のコンロではフライパンが小気味よい音を立て、完璧な半熟の目玉焼きが完成に近づいていた。

 

「ほら、姉ちゃん! 校長なんでしょ、遅れちゃうよ!?」

 

 リビングのソファで毛布にくるまる塊に向かって、彼は声を張り上げた。

 鏡で確認しなくてもわかる。自分の声が、同年代の男子に比べて少しばかり高いことを。だが、この声で姉を叱責するのは、もうすっかり日常の一部だった。

 環はひと足先に食卓につき、炊き立てのご飯が盛られた茶碗を前に、きちんと両手を合わせる。

 

「いただきます」

 

 その一礼が終わる頃、リビングの塊がもぞもぞと動き出した。

 遅れて現れたのは、タンクトップにパンツ一丁という破廉恥な格好の姉、結月ゆかりだった。

 ありえないほどの猫背で、床に何か大切なものでも落ちているかのように俯きながら、のそのそと歩いてくる。艶やかな紫色の長髪は寝癖で爆発し、まるでボサボサの鳥の巣だ。

 貧相な、と言って差し支えない体型を隠そうともせず、彼女は環の向かいの席に音もなく着くと、小さな口をもぞもぞと動かしてご飯を頬張った。そして、深い隈が刻まれた目元をふにゃりと歪ませ、満面の笑みで舌鼓を打つ。

 

「おいひいです。おとくん、また腕を上げましたねぇ」

 

 姉は、こんな調子だが、紛れもない天才だ。

 中学卒業と同時に海外の大学へ進学し、ありとあらゆる記録を塗り替える勢いで飛び級を重ね、気づけば博士号を取得して社会人になっていた。そして今では、こともあろうに近所の聖・海尼女学院で史上最年少の校長に就任している。

 高校進学を機に、環は実家を離れてこの姉のマンションに転がり込んだ。家事全般を引き受けるという条件で。

 しかし、この姉が今までどうやって生命活動を維持してきたのか、本気で謎だった。

 引っ越してきた当初、部屋は想像していたよりは片付いていたが、それでも至る所にゴミ屋敷化の予兆は見て取れた。最近まで、よほどしっかりした誰かが一緒に暮らしてでもいなければ、説明がつかない。

 

「いやぁ、最近進めている個人的な研究のレポート作成に時間がかかっちゃいまして」

 

「それはいいけど、ちゃんと寝て食べて、健康にも気をつけないとダメだよ?」

 

 こうなると、どちらが年上だかわからない。環はもはや、姉の保護者だった。

 環は急いでご飯をかきこむと、自室で手早く学ランに着替え、玄関へと向かう。

 

「鍵はちゃんと持ってるね? 絶対に、閉めてから出ないとダメだよ?」

 

「もう、おとくんは何だと思ってるんですか……行ってらっしゃい」

 

 リビングの入り口からひょこりと顔を出し、ゆかりがへらりと力なく笑いながら手を振る。その姿に見送られて、環は少しだけ胸が温かくなるのを感じながら、そっと手を振り返した。玄関の戸を閉め、通学路を急ぐ。

 姉と離れて暮らしていた実家での日々は、どこかよそよそしかった。

 両親は、環の学生生活にほとんど興味を示さなかった。

 声も、骨格も、どこか男のそれとは違う、時折女子生徒と間違われるほどの身体的特徴。

 そのせいで、かつてどれだけ苦労してきたかを訴えても、彼らはまるで無関心だった。

 まるで、どこかから借りてきた猫を、ただ餌だけ与えて育てているかのように。

 

 それに比べて、今の生活は大変だが、温かい。環にとっては、確かにやりがいのある毎日だった。

 そんなことを考えていると、背後から弾むような声が思考を破った。

 

「よー! 環! 今日もお姉ちゃんの世話できて元気そうやなぁ?」

 

 振り返れば、そこにいたのはセーラー服の少女。陽光を弾く珍しいピンクの髪をツインテールにし、快活な八重歯を覗かせて笑っている。細くしなやかな体躯が、溌溂とした彼女の印象をさらに強めていた。

 

「ついな。だから俺はシスコンじゃないってば」

 

 如月ついな。環の、物心つく前からの幼馴染。

 引っ越しで生活環境は大きく変わったが、同じ高校に通う彼女の存在は、昔から何も変わらない、確かな安心材料の一つだった。

 

 

 

 ついなとの、他愛もない会話。昨日の授業で当てられた教師のモノマネや、駅前に新しくできたクレープ屋の話。

 そんな、どこにでもある放課後の風景が、朝の陽光に包まれて、永遠に続くかのように思われた、その時だった。

 

キキーッ! ガシャァァアン!!

 

 鼓膜を突き破るような金属音と、何かが砕け散る衝撃音が、街の喧騒を暴力的に塗り潰した。

 日常を引き裂くその轟音に、環とついなは思わず強く耳を塞いだ。空気がビリビリと震え、一瞬、世界から音が消える。次いで、あちこちから短い悲鳴が上がり、人々が足を止めた。

 

「な、なんや、なんやの!?」

 

 ついなが怯えたように声を上げる。視線の先、交差点の方角から、何人かが慌てふためいた様子でこちらへ走ってくるのが見えた。

 

「交通事故だ! でかいトラックが!」

 

「救急車と警察は呼んだぞ! 道を開けろ!」

 

 怒声にも似た声が飛び交い、野次馬がじりじりと輪を広げていく。入り組んだ商店街の道で、人々が右往左往していた。

 

「いややわぁ、こんな人通りの多いとこで事故やってぇ?」

 

 ついなが、好奇心と不安が入り混じった顔で、人の壁の向こうをひょこひょこと覗き込んでいる。

 確かに、人垣の中心からは、不吉な黒い煙が細く立ち上っていた。

 

「トラックの前が凹んで、ぐっちゃぐちゃだってよ」

 

「え、何にぶつかったのさ。標識か? それとも別の車?」

 

「いや、女の子だって聞いたけど……でも、どんな女の子だよ、あんな鉄の塊相手にさ。あれ、どこいったんだ?」

 

 聞こえてくる会話は、どこか他人事じみていた。

 まるでテレビの中の出来事でも見ているかのような、奇妙なほどの『無関心』。

 その異常な空気に、環の頭の芯がズキリと痛んだ。

 

(関わるな。見て見ぬふりをしろ。これは俺たちの日常じゃない。ただの面倒事だ)

 

 そう思う。この手に入れたばかりの、姉と、ついなと過ごす穏やかな日々を、手放したくはない。

  だが、心の奥底で別の声がする。

 

(もし、誰かが本当に助けを必要としていたら? お前はそれを見捨てるのか?)

 

 放っておくか、確かめに行くか。その場に縫い付けられたように、環の足は動かなくなる。

 その時だった。

 

「――!」

 

 雑踏のノイズの隙間を縫うように、微かな声が耳に届いた気がした。事故現場の喧騒とは明らかに方角が違う。すぐ近くの、薄暗い裏路地から。

 

「え?」 「んぁ? どないしたん、環?」

 

 不意に足を止めた環の背中に、ついながこつんと顔をぶつけた。鼻を擦りながら、彼女が文句を言う。

 

「――すけて、誰か――!」

 

 おい、嘘だろ。

 

  幻聴じゃない。確かに聞こえる。助けを求める、か細い声。

 こんな時に? こんな場所で? 事故の衝撃で、誰かが路地に吹き飛ばされて怪我でもしているのか?

 そう考えた瞬間、全身の血の気が引いていくのがわかった。

 

「た、環? 大丈夫かいな、顔真っ青やで? なぁ?」

 

 ついなが、心底心配そうに環の顔を覗き込む。 その、日常の象徴である彼女の顔を見て、環は覚悟を決めた。

 この子を危険なことに巻き込むわけにはいかない。でも、この声を聞かなかったことにもできない。

 生来のお人よしな性分が、恐怖と打算に打ち勝った。

 

「誰か、呼んでる! 怪我人がいるのかもしれない、ちょっと見てくるよ!」

 

 環は、無意識に掴んでいたついなの手を振り払うと、声が聞こえた裏路地へと駆け出した。

 

「あっ、ちょっ、呼んでるって、事故はあっちやん!? 環ぃ!」

 

 ついなが慌てて制止の声を上げるが、環の耳には届かない。彼女は一歩遅れて、急いでその背中を追いかけた。

 だが――。

 

「あ、あれぇ?」

 

 ついなが息を切らして角を曲がった時、目の前には、ただゴミ箱が並ぶ、がらんとした路地が薄暗く続いているだけだった。

 直前を走っていたはずの環の姿は、忽然と。まるで神隠しにでもあったかのように、そこから消え失せていた。

 

 

 

「は……?」

 

 角を曲がった瞬間、環は自分が白昼夢でも見ているかのような、悪質な錯覚に陥った。

 目の前に、意味もなく浮かぶ巨大な『!』の標識。その向こうには、先ほどまでの入り組んだ路地の法則を完全に無視した、だだっ広い大通りのような空間が広がっていた。

 そこは、現実がバグを起こしたかのような光景だった。出鱈目に突き立った道路標識、解読不能なほど文字が歪んだ看板、壁からありえない角度で真横に生えた電柱。

 そして空間のあちこちから、ガサガサ、ガサガサと、無数の何かが蠢く気配がしていた。

 

「な、えっ? 何だこれ、今までの道は……?」

 

 恐怖に駆られて振り返る。

 だが、そこに戻るべき道はなかった。一歩でも後ずされば足を踏み外しそうなほどすぐ背後には、漆黒の断崖絶壁が口を開けている。

 蹴り飛ばした小石が、吸い込まれるようにパラパラと闇に落ちていく。

 だが、底にぶつかる音は、いつまで経っても聞こえなかった。

 

「ひ、ひえっ!?」

 

 底なしの闇を直感し、環は崖から飛びのくようにして尻餅をついた。

 喉から引き攣ったような悲鳴が漏れる。

 その声が、引き金だった。 蠢いていた気配が、一斉に彼に意識を向けた。

 

ザガザガザガザガ!

 

 まるで砂やガラス片の塊が擦れ合いながら移動するかのような、耳障りで冒涜的な音が響き渡る。

 音の主たちが、異様な速度で環のいる場所へと集結してくる。

 

「やばい、何か知らないけど、やばい!」

 

 腰が抜けそうな体に、生存本能だけで鞭を打つ。環はもつれる足で立ち上がり、がむしゃらに走り出した。

 だが、その背中にドン!という鈍い衝撃が走り、無様に地面に叩きつけられる。

 

「うあっ!?」

 

 うつ伏せに倒れ、必死に振り返った環は、自らの目を疑った。

 そこにいたのは、平面だった。無数の菱形がキュビズム絵画のように組み合わさり、辛うじて狼のような輪郭を成した、二次元的な捕食者。

 そのデフォルメされた頭部には、ひときわ大きな菱形の単眼が埋め込まれ、瞳にあたる小さな菱形が、無機質に環を捉えていた。 やがて、口と思しき菱形が微かに震え、奇妙な『発音』を漏らした。

 

「sss……し、ン入……シャ」

 

 それは獣の唸りのはずなのに、ノイズ混じりの合成音声のように、なぜかはっきりと「侵入者」と告げられた気がした。

 直後、脇腹を灼熱の鉄杭で貫かれたかのような激痛が走った。

 

「ぇ……がぁっ!?」

 

 間抜けな声の後、一気に広がる熱さと、遅れてやってきた鋭い痛みに絶叫が上がる。

 見れば、菱形狼の爪が、学ランを突き破って深々と脇腹に突き刺さっていた。

 それは既に、明確な殺意をもって環の命を狙っていた。 唸りながら、菱形狼はもう片方の爪を振り上げる。嘲笑うかのように、その単眼が歪んだように見えた。

 

「ぅあ、うわあああ!」

 

 死を覚悟し、環が再び悲鳴を上げた、その時。

 ゴリッ!という、何か硬いものが砕ける衝撃音が響き渡った。 菱形狼が巨大な力で横殴りに吹き飛ばされ、その勢いで、脇腹に刺さっていた爪が乱暴に引き抜かれる。

 

「あぐっ、うう……!」

 

「大丈夫か、キミ!?」

 

 声と共に駆けつけてきたのは、鮮やかな赤い髪を持つ少女だった。

 赤と、青みがかった白のワンポイントが入ったドレスを翻し、彼女は環の前に立つ。

 その華奢な腕には、胴体ほどもある巨大な金属の塊――サイズさえ違えば、ヨーヨーと呼べるであろう異形の得物が握られていた。

 先ほど菱形狼を撃ち砕いたもう片割れが、ジェット噴射と共に異形のエンジン音を響かせながら飛来し、少女はそれをこともなげに片手で受け止める。

 しかし、安堵する暇はなかった。『姉さん!』と、ヨーヨーから少女によく似た声が叫ぶと同時、新たな菱形狼の群れが四方八方から彼女へと襲いかかった。

 

「しまっ!」

 

 ドレスの少女は悪態をつくと、その美しいスカートを旋風のように翻し、ヨーヨーを再び解き放つ。

 暴力的なブーストをかけた金属塊が、渦を巻くダンスのように群れを薙ぎ払い、弾き飛ばしていく。

 圧倒的な光景の中、環は脇腹の激痛に喘ぎながらも、何とか壁を伝って立ち上がった。

 

「動けるか!? すまんきみ、すぐ向こうにもう一人ボイロウェポン……私らの味方がおるさかい、そっちに走ってくれ! そこが出口や!」

 

 絶え間なく襲い来る敵の群れから一瞬たりとも目を離さず、しかしその暴力は少しも揺るがない。

 紅いドレスの少女は、まさしく戦場の支配者だった。

 環は、感謝を口にする余裕も、状況を理解する時間もないまま、ただ頷いた。

 疑問の束を無理矢理飲み込み、少女が指し示した方向へと、自らの命を守るためだけに駆け出した。

 学ランの脇腹から滲む血が、バグった世界の地面に、痛々しい軌跡を残しながら。

 

 

 

「はぁ……はぁ……っ!」

 

 息を切らして駆け込んだ先は、鉄と血の匂いが立ち込める地獄だった。

 金属が打ち付けられ、砕け散る甲高い音が絶え間なく響いている。夥しい血の海に倒れているのは、聖海尼女学院のセーラー服を纏った金髪の少女。

 そして、その少女を庇うように、あの緑色のボサボサ髪の少女――ずん子が、菱形狼の群れと死闘を繰り広げていた。

 

「ずんだあああああ!」

 

 奇妙な、しかし気迫に満ちた掛け声と共に、緑髪の少女が手に持つ機械的な金棒を振り回す。

 圧倒的な運動エネルギーと質量の塊、その直撃を受けた菱形狼が、まるでガラス細工のように甲高い音を立てて砕け散った。

 その金棒から、少年のような必死の声が響く。

 それは、環が路地裏で聞いた、あの助けを求める声そのものだった。

 

『そこの人! そっちの女の子を助けてあげて! 僕らを庇って、あの狼に……くそっ、何なんだよこの姿、意味がわかんない!』

 

 金棒自身も、この状況に混乱しきっている様子だった。

 環は、金髪の少女の元へ駆け寄る。自分とは比べ物にならないほど深く、おびただしい傷口に、思わず息を呑んだ。

 少女は霞んだ深緑の瞳を虚ろに環に向けると、か細い呼吸を繰り返しながら、必死に手を伸ばしてきた。

 その手が、環の服を弱々しく掴む。

 

「未覚醒の……ボイロ、ウェポン……? ごめんね、意味が、わからないと思うけど……『契約』を、始めたら……私も、あなたも、回復、できる、はず……」

 

 彼女は途切れ途切れに言葉を紡ぐ。

 

「『BLESS』で、生命力を励起させれば……っぐ!」

 

 朦朧としながらも、痛みに顔を歪める少女を、環は衝動的に抱き返していた。

 

「どうすれば良い!? 僕にできることなら何でも言ってくれ! 何でもするから!」

 

 あはは、と少女は力なく笑う。血の気の失せた唇が、痛々しい。彼女は震える手で、そっと環の頬に触れた。

 

「口を、近づけて……」

 

 言われるがままに、環は顔を寄せる。

 弱っていても、乱れた金髪の隙間から覗く彼女の顔立ちは驚くほど美しく整っていた。

 ましてや相手は、姉が校長を務める女学院の生徒――いわば高嶺の花だ。

 恥ずかしくないと言えば嘘になる。だが、この極限状況で、感傷に浸る余裕などあるはずもなかった。

 少女の、熱を帯びた呼気が環の唇にかかる。その瞬間、確かに感じた。何か熱い力が体の芯に流れ込み、冷え切った体内で自分の知らない内燃機関が無理やり点火されるような、強烈な違和感。

 だが、少女はそれだけでは足りないとでも言うように、彼の頬に添えた手に力を込めた。そして、自らの唇を、重ねてきた。

 

「んぐっ!?」

 

 驚きに目を見開く環の体内で、何かが弾けた。

 それは比喩ではない。全身の毛穴から、本物の炎が燃え上がるかのような灼熱が吹き荒れた。

 

【BLESSを検出、武装契約を確認。ようこそ、新たなる世界の守護者】

 

 視界に、未知の言語で、それでもなぜか読める、意味のわかる表示が機械的に表示される。

 着ていた学ランが一瞬にして燃え上がり、灰となって消え失せる。

 代わりに、硬質な感触を持つ何かが、この迸る熱を外へと逃がすかのように、肌を大胆に晒す軽やかな衣装へと凝縮されていく。

 

【身体情報にエラーを検出、基底現実特異点『結月ゆかり』のパーソナリティに基づき、特異点に適した姿へ生命情報を再定義】

 

 表示とともに、体の節々が軋み、溶けていく。痛みではない。むしろ、官能的とさえ言えるような微熱を伴う弛緩。骨格がしなやかに組み変わり、筋肉が柔らかな曲線を描いていく。

 爪に負わされた傷と痛みが瞬く間に溶けるように消えていき、肉体の変化と共に髪が軟らかく腰ほどにまで伸びていく。

 男性的だった力がゆっくりと抜け落ちていき、それに代わって、もっと奔放で、力強い別の力が全身に満ち溢れてくる。

 

【ウェポンライズ、開始】

 

 その変化と時を同じくして、腕の中の金髪の少女が淡い光の粒子に包まれ、その輪郭を失っていく。

 肉体は消え去り、代わりに現れた金属の塊が、目にも留まらぬ速さでいくつものパーツを形成する。

 

【対象ボイロウェポンと接触し、契約を完了してください】

 

 それは環の手の中へと収束し、剣の柄を形作った。直後、残りのパーツが重い金属音を立てて次々と連結・組み立てられていき、音楽用の電子鍵盤を模した、鋭利な大剣の刀身と化す。

 黄色い金属のボディに、鮮やかな緑のラインが走る美しい大剣。

 不思議なことに、それは先ほどまで腕の中にいた彼女自身なのだと、環は直感で理解できた。

 

『くっはぁ〜〜〜っ! 生き返ったあ!』

 

 大剣から、少女の快活な声が響き渡る。その言葉通り、先程までの瀕死の状態が嘘のように、生命力に満ちていた。

 だが、環はそれどころではなかった。

 

「な、な、何だこれ、え、服!? これ女向けじゃあ!?」

 

 まるで先鋭的なアイドルのライブ衣装のような、露出度の高い格好。混乱して自身の体を見回す環に、大剣の少女が屈託なく告げた。

 

『……? 何言ってるの、すごく似合ってるよ! 思ってたよりずっと美少女だね、きみ』

 

 その言葉が、全てだった。

 鏡を見なくてもわかる。声も、視界の高さも、体の重心も、何もかもが違う。

 

 結月環は、女の子に変身してしまっていた。

 

 

 

 変身の余韻に思考が追いつくより早く、殺意が動いた。

 炎を警戒して一歩退いていた菱形狼たちが、好機とばかりに一斉に襲いかかる。

だが、それらは環に届く前に、一瞬にして一刀両断された。

 断面から灼熱が迸り、ガラスのような体が飴細工のように溶解していく。

 環の体が、勝手に動いたのだ。

 迫る拳から身を守るように。呼吸をするのと同じくらい当たり前の反応として、その魂が戦闘の所作を知っているかのように。

 彼の腕は、自然と大剣の最も効率的な振り方を肉体に教えていた。

 尤も、その光景に一番驚愕し、怯えきった顔をしていたのは、他の誰でもない環自身であった。

 

「な、何で、俺がこんなこと……」

 

 ――出来るのか。そう言い切る前に、新たな狼の牙が喉元に迫る。恐怖に引き攣った指が、反射的に大剣の鍵盤に触れた。

 瞬間、思考と寸分違わぬ苛烈な音が、爆炎となって鍵盤から吹き荒れる。

 その熱が、環の体へと還流してくる。それは単なる熱量ではない。体の芯から沸き立つ、言いようのない恍惚。

 力が満ち、全身の細胞が歓喜に打ち震えるような、危険な快感。

 

「ぁ、あっ……くそ、わけが……わからないっ!」

 

 悪態をつきながらも、彼の体は意思とは裏腹に、流麗な剣舞と苛烈な炎を操り、次々と菱形狼たちを溶断していく。

 そしてその力は、振るうたびに体内で熱量を増し、増幅され、思考そのものを甘い熱で浮かせていく。

 

『歌いたい』

 

 唐突に、そんな衝動が心の底から突き上げてきた。

 それは、この鍵盤状の大剣がもたらす共鳴なのか。あるいは――。

 脳裏を過ぎるのは、声変わりを終えてもなお、高かった自分の声。合唱部に所属していた中学時代、ただ歌が好きだった、あの頃。顧問に呼び出され、告げられた言葉。

 

『お前の声は、男子パートには合わない。まるで女の声だ』

 

 悪意のない、事実の指摘。

 だが、その一言が、環の世界から歌を奪った。

 あの時の言いようのない孤独。胸にぽっかりと穴が空いたような空白感。どうしようもない悔しさ。

 忘れようと蓋をしていた感情の奔流が、今、この灼熱の力によって一気に堰を切った。

 

 溜め込まれた熱が、過去の痛みが、昇華を求めて絶叫となる。

 汗ばんだ肌も、乱れる呼吸も、もはや羞恥の対象ではなかった。喘ぐように、彼は声を張り上げた。

 

「ぅああ、ああああああっ!」

 

 それは、歌だった。魂の慟哭(シャウト)だった。

 声と共に、体内で極限まで増幅された力の塊が、炎の輪となって炸裂した。

 波紋状に広がる灼熱のシンフォニーが、戦場の全てを巻き込んでいく。

 それは菱形狼には圧倒的な破壊をもたらし、不思議なことに、ずん子には害をなさず、むしろ彼女の力の一部となって吸収され、その膂力をさらに増幅させた。

 

「……? ずんだぁ!」

 

 ずん子の気合一閃、強化された金棒の一撃が、残っていた菱形狼の一群をまとめて叩き伏せ、その破片を地面に舞い散らせた。

 

『何が何だか、僕にもわかりませんが、とにかく今はこの場所を何とかしないと、出られないみたいです!』

 

 金棒から少年の焦った声が叫ぶ。

 大剣の少女も同意する。

 

『この深化空間を展開してる狼の群れは、空間そのものの距離をいじる能力を持ってるみたい……さっきまであった出口を遠くに再編集されちゃったから、どうにかしてそれに辿り着くか、それか新しい出口をこじ開けないと……』

 

 その話を聞くなり、緑髪の少女が「ずんだぁ!」と元気に手を挙げた。そして、金棒を持っていない方の手を徐に後ろへ引くと、前方に力強く突き出した。

 

バギン!

 

 まるで不可視の壁を物理的にぶち破るかのように、空間そのものに亀裂が走る。彼女は、めりめりめりと音を立てて広がる光の穴に手足をかけ、力任せにそれを引き裂き、広げていく。

 そして、どうだとでも言わんばかりの自信に満ちた顔を、環たちに向けた。

 

『な、お、お前! 出来るなら最初にやれよ、ずん子!』

 

 金棒からのツッコミに、ずん子は少しだけしゅんとする。そこへ、先の赤いドレスの少女も合流した。

 

「なんや、まだ出てへんかったんかお前ら。というか……女の子やったんやな、きみ?」

 

 赤い少女の無邪気な言葉が、限界に近づきつつあった環の理性を抉る。

 

「いや、俺は……俺は……!」

 

 環が言いかけた、その時だった。

 砕け散った菱形狼の破片が、まるで意志を持った紙吹雪のように吹き荒れ、上空へと渦を巻き始めた。

 それらは、冒涜的でおぞましい合唱のように、同時に声を張り上げる。

 

「「「いあ! いあ! いあ! いあ! いあ! いあ!」」」

 

 その力の奔流から何かを察した赤いドレスの少女が、顔を青くした。

 

「まずい、何らかの召喚魔術を展開しようとしとる! ボス戦なんかやっとる体力ないで!?」

 

 万事休すかと思われた、その刹那。

ずん子がこじ開けた出口の向こうから、バン!と腹の底に響く重い発射音が轟いた。

 光の一閃が渦の中央を正確に貫くと、空間そのものが断末魔を上げるかのような、凄まじい悲鳴が響き渡った。

 

『校長!』

 

 大剣から、嬉しそうな声が上がる。

 

「今や! 私らは出るで!」

 

 紅いドレスの少女に促されるまま、一行は光り輝く出口へと、雪崩れ込むように躍り出た。

 

 

 

「わあああっ!」

 

 光の穴から雪崩れ込むように躍り出た少女たちは、勢いのまま、見慣れたアスファルトの地面へと転がり込んだ。

 その瞬間、背後で役目を終えたかのように出口が収縮し、パチンと音を立てて消滅する。

 それと同時だった。まるで魔法が解けるように、全員の変身が解けていく。

 

「っと!」

 

「おおきに、助かったわぁ葵ちゃん」

 

 紅いドレスは聖海尼女学院のセーラー服へと変わり、巨大なヨーヨーは、同じ制服を纏いどこか紅い少女に面影の似た、青い髪の少女の姿となっていた。

 彼女――葵は、パートナーである紅い髪の少女を、崩れ落ちる寸前で優雅に受け止め、まるでお姫様を抱くように支える。

 一方、機械的な金棒は、近隣の小学校のものらしい学ランを着た少年――東北桐介の姿に戻っていた。

 が、彼は緑髪の少女、ずん子に足首をがっしりと掴まれ、地面すれすれで逆さ吊りにされている。

 

「おい」

 

 桐介が、不満げに眉を吊り上げた。

 そして、環は。

 大剣が元の金髪の少女の姿に戻るのと、彼が体勢を崩すのが、全く同時だった。避けようもなく、彼は押し倒すような形で、その顔を少女の豊満な胸に埋めてしまっていた。

 柔らかく、甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 

「わ、わ、わ、わぁっ! ご、ごめんっ!」

 

 顔を真っ赤にして飛び退き、ドッドッドッと暴れ馬のように鳴り響く心臓を必死に宥めようとする環。

 そんな彼に、金髪の少女は悪戯っぽく笑いかけた。

 

「良いよ良いよ、命の恩人だもん。それに、女の子同士だし、ね?」

 

 ――女の子、同士。

 その言葉に、環はハッとした。

 そうだ、変身は解けた。体から、あの灼熱の力は綺麗さっぱり消え去っている。着ている服も、ボロボロになった自分の学ランに戻っていた。

 しかし。

 恐る恐る、自らの胸に手をやる。

 そこには、あるはずのない、柔らかな膨らみがあった。むにゅり、と指が沈む、豊満で生々しい感触が返ってくる。

 くらり、と視界が揺れた。立っているのか座っているのかもわからない。世界が、足元から崩れていく。

 その、意識が遠のきかけた時だった。

 

「おとくん?」

 

 すぐ近くから、聞き慣れすぎた、姉の声がした。

 振り返る。

 そこにいたのは、無骨な機械的ライフルを構え、深い隈の刻まれた目を、これ以上ないほどに見開いた、結月ゆかりの姿だった。

 

「おとくん……! まさか、君が……『覚醒』するなんて」

 

「姉、ちゃ……ぁっ」

 

 限界だった。

 安堵、混乱、恐怖、そして絶望。あらゆる感情の濁流が、彼の脆弱な意識の堤防を打ち破った。

 糸が切れたように、環は前のめりに倒れ込む。

 頭から地面に突っ込む鈍い痛みが、彼の意識の最後を締め括った。

 

 そして、物語の意識は現在へと浮上する。

 灼熱の変身も、血と硝煙の匂いも、姉との再会も、全ては残酷な現実へと至るための、ほんの束の間の現実逃避に過ぎなかった。

 先の号泣を終えた環の体は、ぐったりとパイプ椅子に預けられていた。それでも、絶望に縁取られた瞳から、ほろりと一粒だけ涙がこぼれ落ちる。

 

「いや、納得行ったような……行かないような……僕も、ゆか姉も、同じ女性のクローンだったっていうのは、まあ……。でも、この体……女の子になるって、流石に戻るんです……よね?」

 

 声は、自分でも情けないほどに震えていた。

 もはや答えはわかりきっている。自分自身にさえ、嫌な予感しかしない。それでも、万に一つの可能性に縋り付かずにはいられなかった。

 問いかけられた白衣の女性は、感情のない瞳で環を一瞥すると、ただ静かに肩をすくめて首を横に振った。

 ――ガクリ。

 最後の希望が砕け散る音がして、環は力なく項垂れた。

 その時だった。ガラリ、と保健室のドアが勢いよく開き、満面の笑みを浮かべたゆかりが姿を現した。

 

「おっとく〜ん!」

 

 相変わらず目の下には深い隈が刻まれているが、その声には生命力が宿っている。

 片手には、衣服を入れるためのものらしい大きな紙袋。その様子は、この異常事態を心の底から楽しんでいるかのようで、環は「うぐっ」と喉を詰まらせた。

 

「ゆか姉! 酷いじゃないか、こんな大事なこと、今まで隠してたなんて!」

 

「言ったところで信じられないような事態なのは、ついさっき、ご自身で体験してきたばっかりでしょう?」

 

 しれっと、悪びれもせずに返され、環はより深く、そして残酷に理解した。

 そうか。隠している、隠していない、という次元の話ではないのだ。この荒唐無稽な出来事は、この姉にとっては「日常」の延長線上に過ぎないのだ。

 だが、自分は違う。心も、そしてこの体ごと、根こそぎ変わってしまった。このどうしようもない事実に、どう対処していいのか、皆目見当もつかない。

 隣に座る桐介も、あまりに楽観的な姉の様子に、心底呆れ返ったような顔をしている。

 日常と非日常が入り混じるカオスの中心で、組織の人間らしい白衣の女性が、コホン、とわざとらしく咳払いをした。環にもわかってきた。ここからは、非日常の手番だ。

 

「さて、君たちには二つの選択肢があります。このまま、青春と戦いの混じり合う新たな日常に身を投じるか……」

 

 白衣の女性は、どこからともなく取り出した赤いカプセルを指先で弄びながら、もう片方の手に、対となる青いカプセルを現して続けた。

 

「――非日常の全てを忘れて、完全な日常へと帰るか」

 

 その選択肢の提示に、桐介の体が強張るのがわかった。

 

「……今回君たちが巻き込まれたのは、君たちの持つ『BLESS』に、あの深化空間が反応したからです。それらは起源を同じくする異次元の生命力の顕現……つまり、記憶と魂に由来する力。日常に帰るというのなら、この戦いに関する記憶を消させてもらう必要があります」

 

 記憶。その言葉に、それまで沈黙していた桐介が、鋭く口を開いた。

 

「それって、もしかして他人の記憶の是非も、あんたたちは自由にできるってことか?」

 

 桐介の声には、微かな、しかし確かな怒りが混じっていた。

 白衣の女性と、ゆかりは、肯定するように静かに頷いた。

 

「ええ、あなたたちの記憶を消したら、そのボイロウェポン自身の希望を確認した上でですが、周囲の人間の記憶も消去させてもらうことになります」

 

 その答えに、わなわなと桐介の手が震え、やがてぎゅっと固く拳を握りしめる。だが、その声は驚くほど理性的だった。

 

「僕はもう、記憶を勝手に消されるのはたくさんだ。……うちの家政婦も、日常に帰ったら、あんたたちに記憶を奪われるんだろう?」

 

 何かを確信したように、桐介は隣に座るずん子の手を、守るように強く握った。そして、宣言する。

 

「なら、僕は消さない」

 

 その決然とした言葉に、満足そうに、そして静かに頷いたのはゆかりだった。

 全ては想定通りだと言わんばかりに。

 そして、ゆかりは環へと視線を移す。その瞳には、楽しむような色が浮かんでいた。

 

「おとくん。君は、どうする?」

 

 

 ゆかりの問いかけが、シンと静まり返った保健室に響く。

 環は、無意識に自らの胸にそっと手を当てて、考える。その手の下には、否定しようのない柔らかな感触があった。

 

(忘れる……か)

 

 未知の脅威、異次元からの侵略者。そんなものから目を逸らすのは、きっと簡単なことなのだろう。

 今朝の、あの交通事故がそうだった。誰もが遠巻きに眺め、無責任な言葉を交わすだけ。

 この世界の人間は、自分に関係のない悲劇から目を背けることに、もう慣れきってしまっているんだ。

 環の脳裏に、遠い記憶が蘇る。

 声や見た目のせいで、男子の輪に入れずいじめられていた、小さい頃。そんな自分に、ただ一人、何も言わずに手を差し伸べてくれた少女がいた。幼馴染の、ついなの笑顔。

 そうだ。ここで全てを忘れてしまったら、あの路地裏に置き去りにしてきてしまった彼女に、謝ることさえできなくなってしまう。

 環は、覚悟を決めた。伏せていた顔を上げ、姉の瞳を真っ直ぐに見据える。

 

「俺も、忘れない。忘れちゃいけないんだ。目を逸らしていたら、助けられたはずの手にさえ気づけない。……なにより、自分を騙して生きるのは、もうたくさんだ」

 

 その言葉に、ゆかりは満足そうに深く頷いた。そして、待ってましたとばかりに、持っていた紙袋から真新しい衣服を取り出す。

 

「じゃあ、早速お色直しと行きましょっかぁ!」

 

「えっ、ちょ、何を……うわぁっ!」

 

 有無を言わさず、ゆかりが環の手を引く。

 保健室のベッドを仕切るカーテンを勢いよく広げ、その向こう側へと環を無理やり引きずり込んだ。

 

「ゆか姉、何を……はっ!? ま、待って、それは嫌ぁ!」

 

 カーテンの向こうで環は暴れるが、ゆかりの力は思ったより強く、されるがままに脱がされていく。

 

「ウヘヘヘ、良いではないか良いではないか。今は女同士なんですから、遠慮なく脱がせますねぇ」

 

「い゛ーーーーーや゛ぁーーーーーー!!」

 

 カーテンの向こうから、衣類が擦れる音、何かが倒れる音、そして環の悲鳴が響き渡る。

 途中から、変なところを触られたのか、くぐもった喘ぎ声と、ついには啜り泣く声まで聞こえてきた。

 その阿鼻叫喚に、ずん子は何かを察したように両手で口元を隠し、顔を真っ赤にして「ずんだぁ……」と甘く囀る。

 桐介も、カーテン越しとはいえ、気まずそうに顔を赤らめて必死に目を逸らしていた。

 ジャッ、と無慈悲にカーテンが開かれる。

 そこに立っていたのは、華やかな女の園にふさわしい、清廉としたセーラー服――聖海尼女学院の制服を纏った、一人の少女だった。

 どこでどうやって測ったのか、サイズは誂えたようにぴったりだ。

 うっ、うっ、としゃくりあげて泣いているその姿が、言いようのない哀愁を誘う。

 対照的に、姉のゆかりは、なぜか肌がツヤツヤしていた。

 

 そう、環はシスコンではない。姉が、重度のブラコンなのだ。

 

「この街の女性ボイロウェポンの決まりでね。おとくんには、この聖・海尼女学院に転入してもらうよ?」

 

 姉の爆弾発言に、環は恨めしげな涙目でゆかりを見上げ、恐る恐る最後の望みを口にした。

 

「あ、あのぉ……今からでも、全て忘れさせてもらうことって、できますか……?」

 

「できますけど?」

 

 ゆかりは、にっこりと微笑んで、残酷な事実を告げた。

 

「体が元に戻らなかった場合、どっちみちあなたは『はじめから女の子だった』ということに世界が修正されますよ?」

 

 ――ガンッ!

 言葉の鈍器で脳天を殴られたような、凄まじい衝撃。

 

「つ、つまり……俺には……」

 

「はじめから、選択肢なんてなかったようなものですねぇ。おとくん……ううん、これからは『たまちゃん』かな?」

 

 イタズラっぽく笑う姉の顔を見て、環はもう、嘆くことしかできなかった。

 

「こんなの、あんまりだぁ〜〜〜〜!!」

 

 その絶叫を聞きながら、白衣の女性は愉快そうに笑った。

 そして、手に持っていた赤と青の薬を、それがあくまで象徴的な小道具に過ぎないと言わんばかりに、近くのゴミ箱へと無造作に投げ捨てた。

 

「はっはっは。全く、イレギュラーだらけのこの街らしい、実に滑稽な顛末だ。さぁ、君たちはこれから、一体どんな物語を紡ぐことになるのか。遠くからじっくりと、観察させてもらうとしよう」

 

 そう言い残し、白衣の女性――最強のボイロウェポン、『六団町の京町セイカ』は、陽炎のようにその輪郭を揺らがせる。

 そして、阿鼻叫喚が続く保健室から一歩外に出た瞬間には、跡形もなく完全にその姿を消していた。

 

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