VOICEROIDのウェポンサイド//偽りの星の聖譚詩 作:EMM@苗床星人
海尼市は、光と影の街だ。
午後の太陽を浴びて、どこまでも続く海面がダイヤモンドダストのように煌めいている。その沖合に、巨大な鋼鉄の墓標が黒いシルエットを投げかけていた。
かつて未来都市の夢を乗せて着工され、不慮の事故をきっかけに計画ごと放棄された海上プラットフォームの残骸。それはまるで、打ち捨てられた神々の巨大な肋骨のように、静かに横たわっている。
皮肉なことに、徹底的に計算された環境配慮設計のおかげで、その骸は新たな生態系を育む魚礁となり、海の雄大さを決定的に損なうには至っていない。過去の失敗は、いつしか風景の一部として溶け込んでいた。
そんな光と影が交差する街の一角に、時間と法則の流れから切り離されたかのような聖域が存在する。白亜の壁に囲まれ、外界の喧騒を完全に遮断した女の園――聖・海尼女学院。
海上都市計画に沸いた時代の急激な人口増加は、この地に熾烈な教育競争をもたらした。数多の学校が玉石混交にひしめき合う中で、この学院が頂点に君臨するお嬢様学校であることは、誰もが知る事実だった。
だが、その礎が『TOWEAT』――我々ボイロウェポンを統括する組織のフロント財団によって築かれた、美しき培養槽(インキュベーター)であることまでは、誰も知らない。
「ごきげんよう、琴葉様」
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
まるで精密なプログラムによって再生される合成音声のように、澄んだ挨拶が幾重にも重なる。塵一つないレンガ敷きのプロムナードで、寸分の違いなく揃えられたセーラー服の少女たちが、モーゼの奇跡のように道を開けた。
その中央を、女王然として歩む二つの影。
一人は、燃えるような赤い長髪を潮風に揺らす、華やかな少女。
もう一人は、知的な光を宿す瞳を持ち、サイドポニーに結った青い長髪を揺らす、腕に「風紀」の腕章を巻いた少女。
彼女たちが通り過ぎるたび、生徒たちは夢見るようなため息と共に、元の静寂へと帰っていく。完璧に演出された、日常という名の舞台演劇。
その光景を、校長室の大きな窓から見下ろしながら、結月環は深く、深く、息を吐いた。
指先が、慣れない感触の布地を弄んでいる。光沢のある青いネクタイ。自分の身体に合わせてあつらえられた、聖海尼女学院のセーラー服のものだ。その無機質な滑らかさが、まるで自分のものではない皮膚のように感じられて、環は物言いたげにそれを見つめた。
「不安ですか、たまちゃん?」
背後からかけられた声は、砂糖菓子のように甘く、そして悪魔のように楽しげだった。姉の結月ゆかりが、優雅にコーヒーカップを片手に、ニコニコとこちらを見ている。
「そのたまちゃんっていうの、辞めてゆか姉ぇ〜……」
環は、思わず頭を抱えた。この姉は、弟(だった存在)の絶望すらも、極上のエンターテインメントとして消費するのだろう。
「なに、多少テンプレートな女学院ですが、それでもここはただの全寮制の教育機関。そこまで緊張する必要はありませんよ」
「その多少が、多少じゃない気がするんだけど……。も、元の学校じゃ、ダメだったの?」
最後の望みを込めた問いに、ゆかりは完璧な笑みを崩さない。だが、その瞳の奥には、温度というものが一切感じられなかった。
「たまちゃんの周囲全員の記憶を、掃除して回ることになりますよ?」
う゛っ、と喉が詰まる。
脳裏に、陽光を弾いて笑うピンク色のツインテールが浮かんだ。
『よー! 環! 今日もお姉ちゃんの世話できて元気そうやなぁ?』
あの快活な声で、もし、ついなが。
『環ちゃん、おはようさん! その制服、すっごく似合っとるな!』
何の疑問も抱かずに、そう言ってきたら? 自分との間にあった、男子と女子としての、幼馴染としての確かな境界線が、はじめから存在しなかったかのように世界が塗り替えられてしまったら?
それは、ただ自分が女の子になるよりも、ずっと恐ろしい地獄だった。
「……それにこれは、たまちゃん自身のボイロウェポンとしての修行という側面もあります」
ゆかりは、環の内心を見透かしたように、淡々と続けた。
「先も言いましたが、我々の力の源である『特異点』という存在は、統計上、とりわけ美少女が多数を占めていましてね。きりたんくんや君のような男性への変異個体もいますが、水奈瀬コウやタカハシアマトのような純粋な男性タイプがむしろ稀なんです。であるならば、女性として生まれついた者は、女性として最も効率的で、優雅に戦う術を身につけるべし。そういう思想で、この学院は運営されています」
「それは、納得いくような……いかないような……」
環は、再び窓の外に目をやった。絵画のように美しい少女たちの楽園。その全てが、自分と同じような「兵器」を育成するためのシステムだという。女の子に戦わせる組織、という時点で十分に常軌を逸している自覚はあったが、それ故に、姉の語る歪んだ合理性が、奇妙な説得力を持って響いてしまう。
ここはエデンなどではない。戦場に咲く花を育てるための、硝子でできた温室なのだ。
そして自分もまた、その一輪として、この箱庭に植え替えられてしまった。
環はもう一度、深くため息をついた。その息に混じる諦めの色は、窓の外に広がる空の青よりも、ずっと濃く、深く、沈んでいた。
白亜のチョークが立てる、乾いた音だけが響いていた教室の静寂は、たった一言で打ち破られた。
「ゆ、結月環と、いいます。よ、よろしく、お願いいたしますっ」
緊張に上ずり、それでも鈴を転がすように可憐な響きを持つ声。
引き攣った笑みを浮かべ、深々と頭を下げたその瞬間――教室を満たしていた穏やかな空気は、熱を帯びたさざ波のようなざわめきへと変わった。それも当然のことだった。
教壇の脇に、気だるげに佇む影。聖海尼女学院の生徒たちの絶対的な憧れの対象、結月ゆかり校長その人だ。
夜の湖面を思わせる深い色のコートは、その下の華奢な身体のラインをあえて隠し、シャープで中性的なシルエットを描き出している。目の下に刻まれた深い隈と不健康そうな顔色は、彼女のミステリアスな雰囲気を助長し、アンニュイな色気へと昇華されていた。俳優か、あるいは寡黙な天才歌手か。その耳朶を撫でるような落ち着いたアルトの声と、全てを見透かすような静かな瞳は、数多の少女たちの心を鷲掴みにして離さない。完璧な「男装の麗人」。彼女は、この女の園における孤高の王子だった。
そして今、その王子の隣に現れた、降って湧いたような『妹』。
ざわめきの中心にいる少女――結月環は、姉とは対極の光を放っていた。
覚醒の奔流の中で腰まで伸びていた髪は、艶やかなセミロングに整えられている。姉から譲られたという桜色の花飾りが、彼女のトレードマークであるサイドの髪を愛らしく束ね、緊張で上気した白い頬に可憐な影を落としていた。
だが、生徒たちの視線を釘付けにしたのは、その完璧すぎる身体の曲線美だった。
あつらえられたセーラー服は、その存在を隠しきれない。薄いブラウスの生地を内側から押し上げる、柔らかな胸の膨らみ。きゅっと絞られたウエストから、スカートのプリーツに沿って優雅な円弧を描く腰のライン。それは、姉であるゆかりがどこかに捨て去ってしまった「女」という性を、全て引き受けて凝縮したかのような、生命力に満ちた豊満さだった。
そう、昨日まで男子高校生だった結月環は、皮肉にも、誰の目にも明らかな完璧な「美少女」へと生まれ変わってしまっていたのだ。
不安げに潤む大きな瞳、長い睫毛が落とす儚げな影。その存在自体が、見る者の庇護欲を掻き立てる。事実、挨拶が終わったその時点で、教室の数名は心の内で「結月環さま推し」のファンクラブ結成を決意していた。
「たまちゃんは本人の希望で、今まで遠くの街の共学の学び舎にて学んで来た身です。色々とわからないことがあると思うので、皆さん、進んで彼女に色々教えてやってくださいねー」
ゆかりが、環の華奢な肩を、まるで兄が妹を守るように、あるいは恋人をエスコートするように、慣れた仕草でぐっと引き寄せる。
その瞬間、コントラストは極まった。
影を纏う王子と、光を放つ姫君。
直線的で硬質なシルエットの姉と、曲線的で柔らかなシルエットの妹。
静と動。月と桜。
完璧すぎる姉妹の構図に、教室内の誰かが「ひゃっ……!」と息を呑んだのを皮切りに、あちこちから熱っぽい黄色い悲鳴が上がり始めた。
「「「キャーーーーーー!!」」」
狂騒の中心で、環はすでに目眩がしていた。ぐるぐると世界が回る。ここはどこだ、自分は誰だ。そんな根源的な問いが、女子生徒たちの熱狂によってかき消されていく。
その、渦巻く意識の混濁の中。
ふと、環の視線が一人の生徒に吸い寄せられた。
窓際の席で、周囲の喧騒から一人だけ切り離されたように、彼女は静かに座っていた。そして、こちらに向かって小さく、悪戯っぽく手を振っている。
陽光を浴びて輝く、見間違えようのない鮮やかな金髪。
あの悪夢のような夜、自らの身を鋼へと変え、共に戦ってくれた少女。灼熱の記憶の中で、快活な声で自分を励ましてくれた、あの――。
大剣の少女が、そこにいた。
彼女は、楽しそうに片目をつむって、にっと笑ってみせた。まるでーー
「これからよろしくね、パートナー」とでも言うように。
その確かな存在感が、環を眩暈の淵から、ほんの少しだけ引き戻してくれたのだった。
教室中がまだ、嵐のような熱狂の余韻に包まれる中、環は指定された席へとたどり着いた。隣の席に座るや否や、視線を合わせた金髪の少女が、にこりと屈託なく微笑む。
先の戦いを共にした、弦巻マキだった。
「環ちゃん……っていうんだね? この前は挨拶し損ねちゃったけど、私は弦巻マキっていうんだ。よろしくね!」
「ね?」が「にぇ?」とも聞こえるような、独特の甘さを帯びた声が響く。彼女がそう告げた途端、興奮でざわめいていた教室内は、今度は別の意味合いを持った、複雑なざわめきへと変わった。
「環様とマキ様が、既に知り合い……だと!?」
「あのマキ様が……」
「環さまが、もうお手つきになられていたなんて……あぁっ」
どこからか聞こえてくる断片的な言葉に、「なんだ、なんだ?」と環は不安げに周囲を見回した。教室中の視線が、まるで奇妙な熱病にかかったかのように、自分とマキの間を行き来している。
そんな環の様子に、マキは「アハハ……」と、やや乾いた笑みを浮かべながら言った。
「気にしないでいいよ。ファンが多いだけだから……。それにしても、似合ってるね? 君のいた学校、女子にも学ランって、なかなかファンキーなとこだったみたいだねぇ」
「似合っている」――その言葉が、環の胸にぐさりと突き刺さる。
彼女は相変わらず、環が最初から女子であると認識している。
「うぁ、あ、ありがとう? でもマキさん、俺……い、いや私は、そのぅ」
「俺」と言いかけて、「私」と言い直す。喉の奥まで出かかった「男だ」という言葉を、環は必死で飲み込んだ。
どう言えばいい?
相手は、つい先日、命の危機に瀕した互いを救い合い、そしてお互い生き残るための儀式とはいえ唇を重ね合った相手だ。その相手に向かって、「実は、僕はつい昨日まで男で、変な儀式のせいで女体化してしまい、今は女装して女子校に転入しています」などと、言えるはずもない。
言葉に詰まり、視線を彷徨わせる環の様子に、教卓に立つゆかりが満足げな笑みを浮かべた。
「あぁ、環の荷物はマキさんの部屋に全部送ってあるから、これからルームメイトとしての共同生活、頑張ってねぇ〜」
その言葉に、環は首が折れんばかりの勢いで教卓へと向き直った。
「ちょ!? 聞いてないよゆか姉! 待ってぇ!」
必死に呼び止めるが、ゆかりはまるで聞こえていないかのように、ヒラヒラと手を振りながら教室の扉へと向かう。そのまま、彼女は廊下の向こうへと、無慈悲にも去っていってしまった。
取り残された環は、茫然とマキと自分の荷物について話していたゆかりが去っていった扉と、隣で屈託なく微笑むマキを交互に見やる。
「ルームメイト」――その言葉が、環の頭の中で何度も反響した。
今日から、この美少女と、一つ屋根の下で暮らすことになるのか。
男であるという事実を隠し通しながら。
環は、目の前が真っ暗になるような暗雲の未来に、再び頭を抱えたのだった。
聖海尼女学院での授業は、環にとって一つひとつが試練の連続だった。
息が詰まるほど静まり返った教室。生徒たちの背筋は、まるで測ったかのようにまっすぐに伸びている。
繰り出される学問のレベルの高さは言うまでもなく、教科書をめくる指先の角度、ペンを走らせる音の立て方に至るまで、全ての所作に暗黙の「気品」が求められるのだ。
(あの、気品とは正反対の座標にいるゆか姉が、どうしてここの校長を……?)
そんな根源的な疑問は思考の彼方に追いやり、環は必死で淑やかな転校生を演じていた。
だが、求められる知性と女性らしさの高度な両立は、彼の精神を容赦なく削っていく。
その時だった。
「では、転校生の結月さん。こちらの問題の証明を行なってください」
カツン、と教壇でヒールを鳴らし、厳格なことで知られる数学教師が環を指名した。シャープなスーツに身を包み、その表情は常に理知的なサングラスの奥に隠されている。
心臓が、喉から飛び出しそうなほど跳ね上がった。
「は、ひゃいっ!」
自分でも情けないほど上擦った声で立ち上がる。黒板に書かれた数式は、まるで古代の呪文のようにしか見えない。
頭が真っ白になり、必死で思考を巡らせようとするが、焦りだけが空転していく。
指先がカタカタと震え、どうしようもない無力感に襲われた。
もう、演じることなど不可能だった。恥ずかしさと混乱で、耳まで真っ赤に染め上げて、環は絞り出すような声で告げた。
「す、すいません……わかりませぇん……っ」
その声は、消え入りそうなほどか細く、そして、ほんの少しだけ涙に濡れていた。
その瞬間。
クラスの数名の生徒の脳内に、ドキュン! と、弾丸が心臓を撃ち抜くような幻聴が響き渡った。
衝撃は、環の恥じらう視線を真正面から受け止めた女教師をも直撃した。
彼女はサングラスの奥で大きく目を見開き、その足元がぐらりと揺らぐのを感じた。
『ま、さか……っ!? この私の鉄壁の理性を揺るがすほどの可憐さだと……!? それでいて、この反応は一目でわかる……素! 計算されたあざとさが一片たりとも存在しない、純度100%の天然自然物! 化け物……可愛さの化け物かっ!?』
女教師の脳内に、歴戦の好敵手と出会ったかのようなバトル漫画的モノローグが嵐のように吹き荒れた、その刹那。
バッ! と音を立てて、生徒たちが一斉に立ち上がった!
「先生! 私が代わりにお答えしますわっ!」
「いえ私が! この問題は私の得意分野です!」
「わたくしでしたら、途中式の解説も丁寧に入れられますわ! 環様、手取り足取りお教えいたします!」
まさに、回答の入れ食い状態。今まで水を打ったように静かだった教室が、環を助けたいという使命感に燃える少女たちの熱気で満たされていく。
突然の事態に目を丸くした環は、しかし、その善意を疑うことを知らない。
「あ、ありがとうございます、みんなぁ……!」
心から救われたと思い、ふわりと花が綻ぶように笑って感謝を告げる。
その純粋な笑顔が、先ほどの涙目とは質の違う、しかしより強力な第二射となって少女たちの心を撃ち抜いた。教室のボルテージは、さらに燃え上がる。
一連の騒動を隣の席で見ていたマキは、額に冷や汗を浮かべながらも、誰にも聞こえない声で呟いた。
「なんか、とんでもない子をパートナーにしちゃったなぁ……」
その横顔が、ほんのりと赤く染まっていることに、マキ自身も、そして環も、まだ気づいていなかった。
終業を告げるチャイムの音は、環にとって死刑執行を知らせる鐘の音に他ならなかった。
次の授業は、体育。
その無慈悲な宣告は、教室の空気を一変させた。
先ほどまでの知的な緊張感は霧散し、少女たちの賑やかな笑い声と共に、衣擦れの音がそこかしこで立ち上り始める。
ここはもう教室ではない。女子だけの聖域、「更衣室」へと変貌しつつあった。
「環ちゃん? 次は体育の授業だよ?」
マキの明るい声が、思考停止しかけていた環の鼓膜を打つ。ダメだ、逃げなければ。
「え、えぇと……わ、私は寮で着替えてきます……!」
椅子から立ち上がり、一目散に逃げ出そうとした環の腕を、しかしマキの手が力強く掴んで制止した。
「待った待った、私たちの寮の場所知らないでしょ? 体育館とは反対側だよ。今からじゃ絶対に間に合わないって。……どうしたの?」
マキの声のトーンが、ふと心配そうなものに変わる。彼女は環の耳元に顔を寄せ、小声で尋ねた。
「……ぁー……何か、見せられない傷とか、あったりする?」
それは、同じ戦場に身を置く者としての、彼女なりの気遣いだった。この華やかな学園には、裏の顔を知らない一般生徒も多い。人知れず負った戦いの痕を、ここで晒すわけにはいかない事情があるのかもしれない。
だが、昨日まで普通の少年だった環に、その繊細な配慮が届くはずもなかった。彼はただ、自分の切実な問題に頭を支配され、正直に答えてしまう。
「い、いや、そういう訳じゃあないんですけどっ……! っその、人前で着替えるのも、見るのもっ、恥ずかしくってっ……!」
顔を真っ赤にして訴える環。それは紛れもない本心であり、死活問題だった。
万が一、奇跡が起きて男の身体に戻れたとして、その時、この光景を――今まさに、すぐそこで無防備な素肌を晒し始めている級友たちの姿を――見てしまった記憶はどうなる? それはもはや、ただの思春期の過ちでは済まされない、致命的な「罪」になる。
環のあまりの羞恥ぶりに、マキは「共学って、もしかして着替えは個別なの?」などと少し的外れな思考を巡らせたが、埒が明かないと判断したのだろう。「よし」と一呼吸おくと、彼女は驚くべき行動に出た。
一息に、自身のセーラー服のブラウスをたくし上げ、頭から引き抜いたのだ。
どぶん、と。
重力と慣性の法則に従い、白いレースのブラジャーに支えられた、豊満で形の良い双丘が、環の眼前で生々しく跳ねた。
「わ、わ、わぁあっ!?」
「ほらほら、周り見てみなよ」
悲鳴を上げて目を逸らそうとする環の顎を、マキの指がくいと掴み、周囲を見るように促す。
視界に飛び込んできたのは、淡いパステルカラーに彩られた、下着の花園だった。カーテンで外界から完全に区切られた巨大な更衣室。少女たちの白い肌、華奢な肩、レースやフリルの装飾。無邪気な笑い声と、甘い制汗剤の香り。
それが、今の教室の全てだった。
「あ、わ、あっ……」
脳が処理できる情報量を遥かに超え、環は真っ赤になって熱暴走を起こす。そして、強制的に自覚させられた。
『あ……もう、戻れない……。もし戻ったとしたら、全力で、この街から、この国から、この星から逃げるしかない』
そう、覚悟を決めざるを得ない景色が、そこには広がっていた。
呆然とする環の胸に、もにゅん、と柔らかい感触が這う。
「ひ、ひぇっ!?」
「環ちゃんもでっかいじゃん。ほら、君も脱いだ脱いだ!」
マキの手が、環の制服にかけられる。抵抗する間もなく、されるがままにブラウスを脱がされると、環自身の胸もまた、その重みを主張するように現れた。
それは、マキに勝るとも劣らない、見事としか言いようのない圧巻のサイズだった。
物語を紡ぐ享楽の神々が住まう基底現実の視点で言えば、『結月ゆかり』という概念は、本来、貧乳かつ健康的なシルエットを持っていて然るべきだろう。
だが、環はあくまでその亜種。まるで、男として持っていたはずの筋肉が、女体化という生命の錬金術によって失われ、その質量保存の法則が、胸や尻といった女性的な魅力の全てに注ぎ込まれたかのようだった。
「お、おぉ……すっごい! 環ちゃん、私よりもあるんじゃない? これは誇るべきだよ、むしろ。にぇ?」
快活に笑いながら肩を叩くマキに、環は虚な目で力なく笑い返す。その脳裏では、悲痛な独白が木霊していた。
『無関心だったお父さん、お母さん。ついな、ごめん……。俺はもう、たとえ男に戻れたとしても、女としての罪を抱えて生きていかなきゃいけないかもしれない』
いつになるかもわからない淡い希望へでさえ、こんなにも重い絶望を抱いてしまう。
それでも、無情にも体育の授業開始を告げる予鈴が、その楽園であり地獄である空間に、高らかに鳴り響いたのだった。
白昼の陽光が降り注ぐ広大なグラウンド。少女たちの明るい歓声が、澄んだ青空に吸い込まれていく。
更衣室での地獄をどうにか乗り越えた環にとって、体育の授業そのものは、思ったよりも苦ではなかった。
むしろ、元・運動好きの男子高校生だった魂が、久しぶりに体を動かせることに微かな喜びすら感じていたほどだ。
隣のクラスとの合同授業らしく、様々な運動をローテーションで行う形式らしい。準備体操を終えた環の隣に、マキがそっと近づいてきた。
「環ちゃん」
周囲に聞こえないよう、秘密を分かち合うように彼女は囁く。
「『BLESS』の効力で、前よりずっと体力ついちゃってるから、びっくりすると思うけど……セーブしたほうがいいよ。私たちは私たちで、専用の身体測定が別にあるから。そっちで全力出せばいいからね」
『BLESS』――あの変身の時に感じた、身体の芯から燃え上がるような熱。あの力が、まだこの身体に残っているというのか。環は半信半疑のまま頷いた。
その言葉の意味は、最初の50メートル走で即座に理解することになった。
号砲と共に、軽く地面を蹴っただけのはずだった。だが、視界の景色が凄まじい速度で後方へと吹っ飛んでいく。風が頬を切り、地面を蹴る足が、まるでバネでも仕込まれているかのように身体を前へ前へと押し出す。
(うそ、だろ……!?)
男だった頃の全力疾走よりも、遥かに速い。
このままでは、平凡な転校生どころか、学園の新記録を叩き出してしまう。マキの忠告が脳裏をよぎり、環はゴール手前で必死に速度を殺そうとした。
しかし、急激に進化した身体は、まだ彼女の制御下にはない。足がもつれ、環は盛大に前のめりに転倒した。
「きゃっ!?」
「環様、大丈夫です!?」
クラスメイトたちが駆け寄ってくる中、環は擦りむいた膝の痛みよりも、注目を集めてしまった羞恥で顔を真っ赤にするしかなかった。
次の種目は、体育館でのバスケットボールだった。
ボールを手にした瞬間、環の身体に、遠い記憶が蘇る。手に吸い付くような革の感触。床を叩く、心地よいリズム。
.
ドリブルを始めた途端、身体が勝手に動いた。緩急をつけた巧みなボール捌きで、次々と相手チームの生徒を抜き去っていく。まずい、またやりすぎている。そう頭では理解しているのに、身体が止まらない。ゴールまでの道が、クリアに開けて見えた。
その、独走状態に入ったかと思われた、刹那。
すっ、と横から伸びてきた影が、環の進路に割り込んできた。
「はっ……!」
鋭い呼気と共に、青い髪をサイドポニーに揺らした少女が、低い姿勢で環と対峙する。風紀の腕章こそないが、その理知的な顔立ちは見間違えようもない。先の戦いで、赤いドレスの少女のヨーヨーに変身していた――琴葉葵。
彼女の動きは、他の生徒たちとは明らかに次元が違った。環の高速ドリブルに完璧に追いつき、鋭いスティールを狙ってくる。
「はっ、はっ……やりますね……?」
「バスケだけは、やったことっ、あるから……。背が、低くて……途中で、やめちゃったけど」
息を切らしながら、環は無意識に過去を口にしていた。男子としては小柄なせいで、かつて諦めた夢。だが、今のこの身体は、驚くほどしなやかに、そして力強くボールを支配している。
二人の攻防は、もはや授業のレベルを遥かに超えていた。周囲の生徒たちも、そのあまりに高度なボールの奪い合いに、息を呑んで動きを止めている。
ボールは再び環の手に戻った。葵のディフェンスをどう抜くか――思考が加速したその時。
「はい、そこまでー!」
快活な声と共に、見ていられなくなったマキが二人の間に割って入った。呆気にとられた環の手からボールを鮮やかに奪い取ると、そのまま軽やかにレイアップシュートを決める。
試合終了のホイッスルが鳴り響き、環のクラスの勝利が告げられた。
「全くもう、葵ちゃん。なりたての子相手に、大人気ないよ?」
マキが、同じボイロウェポンである葵を嗜めるように言う。
葵は、運動用のコンタクトレンズを外し、慣れた手つきでフレームの細いメガネに掛け替えながら、冷静に返した。
「失礼。少し、確かめたかったことがあったので」
そう言いながら、葵は自身の有り余る体力に驚いて呆然としている環を一瞥した。そのメガネの奥の瞳には、単なる好奇心ではない、何かを探るような鋭い光が宿っていた。
自分の身体に何が起きているのか。
彼女が何を確かめたかったのか。
環は、新たな謎と、制御不能な己の力の奔流の中で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
体育の授業が終わり、教室は再び、湯気と甘い香り、そして少女たちの賑やかな話し声に満たされたピンク色の戦場と化していた。
環は、熱暴走寸前の頭でどうにか体操服を脱ぎ、制服のブラウスに腕を通しながら、少なくともマキからは視線を逸らそうと必死で廊下を見つめていた。その、カーテンの僅かな隙間から、ふと見慣れた姿が目に入る。
「あ、れ……?」
いつの間にか制服に着替えた琴葉葵が、足早に廊下を歩いていくのが見えた。彼女のいるべき隣の教室へと向かうその歩みは、まるで何かから逃げるように速く、その視線はまっすぐ前だけを向いている。教室内で繰り広げられる光景など、断じて見ないという強い意志を感じさせた。
「あぁ、葵ちゃんはいつも体育館の更衣室を使ってるんだよ。環ちゃんも、あんまり恥ずかしいんだったら、それ使うのも手だね?」
背後から、マキがタオルで髪を拭きながら説明してくれた。
「葵ちゃんはああ見えて、環ちゃん以上に激しい恥ずかしがり屋でね。断固として、教室では着替えないって感じだから。まあ、あの子と二人きりにならないように、視線も気にしなきゃだけど」
マキが付け加えた言葉は、しかし、この桃色の空気に耐えきれない環にとって、まさに福音に聞こえていた。
その日の授業が全て終わった頃。寮へ戻ろうと荷物をまとめていた環に、凛とした、それでいてどこか鋭利な響きを持つ声がかけられた。
「結月環さん……先の体育の授業では失礼しました」
振り返れば、そこに立っていたのは葵だった。マキと寮に戻ろうとしていた環は、機会さえあれば更衣室の話をしようと思っていた相手から近づいてきたことに、驚きを隠せない。
「は、はい。琴葉さん?」
「どーしたの葵ちゃん。いつもはお姉さんにベッタリの君が珍しいね」
茶化すマキを意にも介さず、葵は環に向かって丁寧 に一礼した。
「更衣室の件で、お話ししたいことがあると伺いましたので。少し環さんにご相談を、と思いまして……話が終わりましたら、私が寮へご案内します。よろしいでしょうか?」
葵の提案に、環は内心で首を傾げた。
『あれ、その話をしたいなんて、誰にも言った覚えはないんだけどな?』
だが、これは渡りに船だ。
「ま、マキさん、御免なさい! こっちの話は今のうちにしておきたいので……部活の紹介は、また後日でいいかな?」
「まぁ、環ちゃんのお願いなら仕方ないか。いいよ? 帰ったら寮の案内、ちゃんとしてあげるからね!」
マキは大きなエナメルバッグを肩にかけると、肩をすくめながら一足先に部活棟へと向かっていった。
葵に手を引かれるまま、環は歩き出す。だが、すぐに違和感を覚えた。体育館に向かうのかと思えば、葵の足取りは人気のない方へ、道を逸れていく。夕暮れの光が届かない校舎の裏へ、裏へと。
やがて、完全に人影が途絶えた校舎裏に連れてこられた環は、冷たい壁を背にして足を止めた葵に尋ねた。
「あ、あのぉ……琴葉さん? 葵さんで、いいかな……。ここに来たのは、どういう」
女の子と二人きり。今は自分も女の子であることを差し引いても、どこか意識してしまうシチュエーションに、少し頬を赤らめ、目を逸らしながら尋ねた環が、再び葵の顔を見た――その、瞬間だった。
目の前の少女の気配が、音もなく変質した。
知的で物静かだった風紀委員の面影は消え去り、代わりにそこにいたのは、縄張りに入った侵入者を襲う猛獣。
葵の身体がブレたかと思うと、一瞬で距離がゼロになる。
硬く、固く握りしめられた拳が、環の視界の端を駆け抜けた。
ガゴッ!!
岩盤が砕けるような轟音。環の耳の真横、背後の校舎の壁に、コンクリートのクレーターが生まれていた。衝撃で、すぐ近くの窓ガラスに蜘蛛の巣状のヒビが入る。
「気色悪い演技は、辞める気になったか?……ぁあ!?」
「……ひゅ?」
まるで別人のように、ドスのきいた荒々しい声が、至近距離から鼓膜を殴る。
見上げた先にあったのは、鬼気迫る――血のように赤い瞳。
壁ドン、と呼ぶにはあまりにも凶悪で、暴力的なそれに射抜かれた環の魂は、ただ純粋な恐怖に凍りついていた。
「なっ……ななななな何のことでございますわのことで?」
恐怖のあまり、脳が生成した支離滅裂なお嬢様言葉で環が応じた瞬間、葵は彼の胸ぐらを荒々しく掴み上げた。
華奢なセーラー服の襟が、ミシリと悲鳴を上げる。
声の本質は、先ほどまでと同じ少女の高音。だというのに、その瞳に宿る猛威は、そこいらの不良少年の比ではなく、今の環に抗う術などあろうはずもなかった。
(何で!? バレた? それとも、これが今流行りの超高度な壁ドンなの!? いや、壁はなんで崩れて……そういう異能力!?)
加速する思考が、恐怖と混乱の渦の中で空転していく。そんな環に、葵は唸るように言い放った。
「てめぇ、初めて会った時からわかってんだよ! 第四小にいた合唱部の、結月環だろうが!」
その名を聞いた瞬間、環の思考は、時間が止められたかのように凍りついた。
『あ、終わった……』
「まさかお前が、こんな変態に成り下がっちまうとはな。女装してまでこの女学院についてきて正解だった……校長の考えまでは読めねえが、お前をお姉ちゃんと同じ寮に足を踏み入らせるわけにはいかねえんだよ!」
葵の言葉に、しかし、環は致命的な違和感を覚えた。
「変態って……っ、俺にだって、俺の事情があるんだ! 何でそんなことっ……!」
「じゃあその胸の変なこだわりようは何なんだよ!」
怒りを爆発させた葵の手が、環の胸に無遠慮に掴みかかった。
「ひぎぅっ……!?」
悲鳴とも喘ぎともつかない声が、環の喉から漏れた。敏感なそこを乱暴に鷲掴みにされる激痛と、同時に這い回るような言いようのない不快感。
だが、そのあまりにも生々しく、柔らかい感触に、葵自身が驚いて目を丸くし、まるで熱い鉄にでも触れたかのように手を引いた。
「お、お前っ……何詰めてんだ、それ! 変な声出しやがって!?」
混乱、羞恥、痛み、恐怖。あらゆる感情の濁流が、環の脆弱な堤防を決壊させた。
彼はその場にへたり込み、体の変化で緩みきってしまった涙腺から、男だった頃ではありえない感情の奔流が溢れ出す。
「な、なんだよぉっ……! 俺だって、好きでこんな身体になったわけじゃないのにぃっ……!」
その、あまりにもか弱い嗚咽を聞いて、葵の中で何かがブチッと切れる音がした。
彼女はずかずかと環に歩み寄り、乱暴に押し倒すと、その胸ぐらにもう一度手をかける。
ブチブチッ! と、小さな白いボタンが弾け飛んだ。
「あああああ鬱陶しい! お前は男だろうが! その胸だって、俺と同じ、作り物だろうがぁっ!」
「やっ、やめぇっ……いやあああっ!!」
絶叫と共に、環は覚悟して固く目を瞑った。
やがて、恐れていた衝撃が来ないことに気づき、うっすらと目を開けると……そこには、信じられない光景が広がっていた。
自分にのしかかり、制服の胸元を引き裂いた張本人である葵が、羞恥と混乱に顔を真っ赤に染め上げ、ありえないものを見る目で、ただ呆然とこちらを見つめている。
「……は? え? なっ……本物っ……? は? え?」
夕暮れの金色の光が、校舎裏の影に差し込んでいる。
その光に照らし出されていたのは、暴力によって無残に引き裂かれた白いブラウス。
その裂け目から覗く、繊細なレースの縁取りが施されたブラジャー。そして、その薄い布地からも押し出され、はだけた隙間から、柔らかな谷間と共に惜しげもなく露わになった、豊満な胸だった。
白い肌は恐怖と羞恥に赤く上気し、うっすらと汗が滲んで光っている。
零れ落ちる熱い涙が、その頬を濡らし、顎を伝って、晒された胸の谷間へと吸い込まれていく。
それは、暴力の果てに生まれた、あまりにも倒錯的で、官能的な光景。
押し倒されたままの環は、真っ赤な顔でぐすんと一つ嗚咽すると、涙に潤む瞳で葵を見上げた。
「……な、何さぁっ?……ぐすんっ」
「いや、俺は、お前も、女装だとっ……あ、あれぇ?」
葵は、壊れた機械のように同じ言葉を繰り返し、よろよろと立ち上がると、後ずさっていく。
その狼狽えきった姿を見て、環の脳裏に、遠い記憶のピースがはまった。
小学校時代。自分と同じように「女の子みたいだ」といじめられ、しかし、ある日いじめっ子に大怪我をさせて停学になり、そのまま転校していった、一人の友達。
「え、あっ……まさか、式 葵(しき あおい)君?」
環がその名を口にした瞬間、ガクン、と葵の膝が地面についた。
そして、脳天を芝生の地面に打ち付け、埋めてしまわんばかりの勢いで頭を下げる。
「……っ、申し訳、御座いませんでしたああぁぁぁぁっ!!」
全力の土下座と、魂からの謝罪の咆哮が、夕暮れの校舎裏に、ただ虚しく響き渡った。
夕暮れの光が、埃を金色に照らしながら空き教室に差し込んでいる。世界から切り取られたかのような静寂の中、聞こえるのは、布を縫い進める針の、プチ、プチ、という控えめな音だけ。
環は、パーティションの向こう側で膝を抱え、裂かれた胸元を必死に押さえていた。
その向こうでは、正座した葵が、驚くほど手慣れた様子で、弾け飛んだボタンを環のブラウスに縫い付けている。気まずい空気が、鉛のように重く垂れ込めていた。
「まさか……葵くんも、ボイロウェポンだったなんて……」
「……お前は、女だったなんてな。……いや、決めつけてた俺が悪かったよ」
違う、そうじゃない。
そう叫びたかった。だが、元は男だったとバレてしまえば、今度こそ、あの暴力の続きが始まるかもしれない。その恐怖が、環の喉を締め付けて声を出させなかった。
沈黙を破ったのは、葵の方だった。彼は、裁縫の手を止めないまま、ゆっくりと語り始める。
「俺は……あの気に入らねえいじめっ子を伸した後、転入後の学校ですっかりグレちまったんだ」
その声は、夕陽に溶けるように、過去へと沈んでいった。
【回想開始・琴葉葵】
あの頃の俺は、歪んでいた。
双子の姉がいる、その事実は知っていたが、一度も会ったことはなかった。
ボイロウェポンとして、本来は女のはずが、男として生まれてきちまった歪なイレギュラー。それが俺だった。
だから、姉は母方の「琴葉」の息女として聖海尼女学院の寮に。
俺は父方の「式」の子として実家に。二つの世界は、生まれた時から分かたれていた。
環をいじめていた奴らを殴り飛ばしたのも、心のどこかで、そんな自分の境遇にイラついていたからだ。
やり場のない不満を晴らすように、転入先の街で一番悪そうな連中とつるみ、くだらない悪さを繰り返す。それが俺の日常だった。
あの日、姉に、琴葉茜に出逢っちまうまでは。
公園で仲間とだべっていると、凛とした声が俺たちの怠惰な空気を切り裂いた。
「おうお前らぁ! ここはポイ捨て禁止や! 地方の風紀に貢献せんかい!」
当時、赤く染めたモヒカン頭だった俺に、彼女が気づくはずもない。
俺にとって彼女はただの、気に食わない正義感を振りかざすお嬢様。それが、血を分けた姉への第一印象だった。
苛立った先輩の一人が、姉に手を出そうとする。なぜか、胸の奥がざわりと嫌な感じがした。
だが、止める気にはならなかったし、その必要もなかった。
姉は、俺たちが束になっても敵わないほど、圧倒的に強かった。心も、身体も。
しなやかな動きで投げ飛ばされ、地面に叩きつけられたその瞬間、俺の身体の奥で、何かがカチリと音を立てて動いた気がした。
だが、正義が強すぎる人間は、同じくらい強い悪意を呼び寄せる。
アジトにしていた廃工場で、下っ端だった俺は、先輩たちの会話を聞いちまったんだ。
「なぁ、今度聖海尼の生徒会どもがボランティアで学外活動するんだとよ。そこでだ、他の生徒を人質にして、あの琴葉茜を……好き放題にしちまうのはどうだ?」
琴葉。その名を聞いた瞬間、全身の血が凍りついた。
あの女は、俺の姉だ。あの、太陽みたいに綺麗で、強い姉が、俺たちみたいな汚れた奴らに汚される。
そう思った途端、頭の中で何かが焼き切れた。
「――おい。聖海尼に手を出すつもりの奴ってのは、手前か?」
「ぁあ? 何だその覆面……ぶっへぁ!?」
覆面で顔を隠し、俺はたった一人で、近隣一帯の番長グループを殴って、潰して、壊滅させて回った。
不思議だった。姉のことを思うと、拳が鉛のように重く、鋼のように硬くなる。
それが俺のBLESS能力だった。
そうして、俺はいつしか『青薔薇』と呼ばれる、正体不明の裏番になっていた。
だが、所詮はチンケな不良狩りだ。BLESSが引き寄せる、「異世界のやべえ奴ら」には、全く歯が立たなかった。
菱形の、二次元みてえな狼の群れに囲まれ、満身創痍で地面を這っていた俺を救ったのは、お前の姉――結月ゆかりだった。
「勿体無い。せっかくアルカナ級にだって届きうる単体戦闘のスペックと能力を持ってるのに、やってることは不良狩りですか」
彼女は、抜き放った日本刀一本で、俺を囲んでいた全ての敵を斬り伏せた。
そして、俺は知った。この世界を脅かす侵略者のこと。俺たちボイロウェポンのこと。
そして……俺の姉、琴葉茜を苛む、残酷な真実を。
結月ゆかりから全てを聞かされた俺は、その足で実家へと駆け戻っていた。
静まり返った荘厳な和風建築。その一番奥の間、俺は埃と血の匂いを纏ったまま、勢いよく襖を開け放った。
「親父! お袋!」
部屋の中央、上質な座布団に座す二つの影が、ゆっくりとこちらを向いた。
一人は、夕陽の色を溶かし込んだような、鮮やかな赤い髪を持つ母、琴葉夕陽。彼女は、俺の無作法な登場にも動じず、口の端を吊り上げて言った。
「なんや葵君。不良の道で、少しは話し方いうのを覚えたやんか」
もう一人は、冬の空のような青白い髪と立派な髭を蓄えた巨漢、父の琴葉大元。彼は、どっしりとした体躯で髭を撫でながら、低い声で問うた。
「何じゃ、葵。藪から棒に」
俺の両親は、この世界の裏でかつて暗躍した『魔術師』と呼ばれる研究者の家系だった。
太古に存在した『旧支配者』や『魔法使い』が遺した異界法則を、自らの技術として研究し、行使する者たち。
だが、その技術は今や禁忌。世界に、取り返しのつかない汚染を残すことが判明したからだ。
「あんたらの先祖が研究してた魔術の『呪相』が、お姉ちゃんに集ってるって話……本当か!?」
呪相。それは、可能性という名の空白。平たく言えば、幸運を根こそぎ失ったが故に、あらゆる不幸を磁石のように引き寄せる呪われた運命そのもの。
魔術は、術者の可能性を燃焼させて奇跡を起こす。その代償は、個人的な不幸で済むと思われていた。だが、過度な行使は世界そのものの可能性を汚染し、悲劇しか生まない。国連が研究と行使を禁じた、最悪の遺物。
姉を襲う脅威は、異次元からの侵略者だけでも、チンケな不良だけでもない。彼女の運命そのものが、あらゆる災厄を、彼女へとけしかけているのだ。
「先祖たちの業や。養子としてこの家に入ったうちも、その子である茜も、琴葉の女としてそれを請け負う義務がある。茜は、それにも負けない強さを得るために聖海尼に通わせてるんや。お前の出る幕やない」
母さんは、無慈悲に、そして静かに言い切った。
ーーだが。
「それでも、俺は諦めきれない! 頼む、俺を……聖海尼に入れてくれ!」
俺の魂からの叫びに、母さんは目を細め、親父は目を丸くした。
「い、いやいや葵よ! お前は『琴葉葵』だけじゃなく、『式狼縁(しきろうえん)』としての適性もあるんじゃから、うちの術式で修行して声を変えれば、茜の卒業後には……」
待てるわけがない! 姉が卒業するまでに、彼女一人では対処しきれない脅威が訪れたらどうするんだ!
俺は、懐からバリカンを取り出すと、その場でスイッチを入れた。甲高い駆動音が、静寂な和室に響き渡る。
「これが、俺の覚悟だ……!」
俺は、残っていた赤いモヒカンを、ためらいなく全て剃り落とした。パラパラと、過去の自分を象徴していた髪が、塵のように畳へと落ちていく。
完全に丸坊主になった俺を前に、それまで冷徹な仮面を貼り付けていた母さんが、堪えきれないといったように、腹を抱えて笑い出した。
「あっはっは! ええやないの、大ちゃん! うちらの結婚かて、お互いの家が猛反対しとったやん? ここは、うちらの息子が、その無茶苦茶をどこまで貫けるか、見てみるのも一興や!」
その鶴の一声で、俺の運命は決まった。
そうして俺は、何も知らない姉にすら自分の性別を偽り、生き別れの『妹』として、この聖海尼女学院に転入することになったんだ。
【回想終了】
プチリ、最後のボタンを裁縫し終えた葵は、修繕されたブラウスを環に手渡した。
彼の長い回想は、終わりを告げた。
ただ、その瞳の奥には姉を守るという、ただ一つの目的のために全てを捨てた少年の、静かで、しかし決して消えることのない覚悟の炎が、今もなお燃え続けていた。
一瞬そんな彼の瞳の炎を見た環は、急いでブラウスを引っ張り込んで身に纏いながら思った。
『……なおのこと気まずいっ!』
修繕されたブラウスを再び身に纏い、環はパーティションの向こう側から、恐る恐る姿を現した。
夕陽が差し込む教室の中、葵はまだ、硬いリノリウムの床に正座したままだった。
その姿に、環の表情が痛ましげに曇る。
「……まぁ、俺の事情はそんなところだ。女子校に入ってここ五年、術で女の声を維持し続けて、誓って他の女の裸は見てないし、見るつもりもない。これは、間違っちまった俺の精神修行だと思ってる。だから……ごめんなさいっ!!」
ゴッ! と、鈍い音を立てて葵が再び床に頭を打ちつける。その自傷的な謝罪に、環は慌てて駆け寄った。
「あ、謝んないで良いから! 頭を上げて!」
「示しがつかねえ! お前も、お前で! ここに来るまで相応の苦悩と、これまで性別を隠してきた覚悟があったはずだ! それを、俺が! 軽はずみに破っちまった! 俺が俺を許せないんだ!」
震える声で叫ぶ葵の姿に、環はきゅっと拳を握りしめ、そして、口を開いた。その声には、もう先程までのか弱さはない。
「俺だって、今、葵くんに教えられたよ。この戦いに、恥ずかしがってたり、迷ってたりする暇なんてないんだって」
環は、葵の前に跪くと、その固く握られた手を取った。そして、驚く彼の顔を、力強く上げさせる。
「凄いよ、葵くん。そんな長い間、誰にも言えずに、たった一人でお姉さんを守ってきたんだから……。俺はこれまで、ただ迷ってばかりだった。何度も自分に嘘をついて、色んなことを諦めてきた。でも、もうそうしないために、戦う覚悟を決めたんだ。だから……一緒に頑張ろ? ね?」
夕陽を背にした環の顔は、逆光でよく見えない。だが、その声は、どこまでも優しく、そして、強く響いた。 葵は、その真っ直ぐな言葉に射抜かれたように、視線を彷徨わせる。しかし、やがて、その慈愛に満ちた柔らかな微笑みから、目を逸らすことができなくなっていく。
「あ……うん……はい……」
先程までの猛々しさが嘘のように、葵の声からどんどん勢いが消えていく。彼は、その視線に耐えきれなくなったかのように、慌てて立ち上がった。
「と、とにかく! じゃあ、今日あったことはお互い秘密な! これから、宜しく……環」
照れ隠しに、葵は環へとごつりと拳を突き出す。 その不器用な友好の証に、環は微笑んで、自らの拳をそっと合わせた。
「あぁ。宜しく……葵くんっ」
コツン、と合わさった拳の感触は、温かかった。 夕暮れの教室で、二人は、性別も、過去の過ちも超えた、確かな友情を確認し合う。それは、歪んでしまった世界で、ようやく果たされた、魂の再会だった。
夜。ようやくたどり着いた聖海尼女学院の学生寮。
その、古代ローマの浴場を思わせるほど広大な浴室で、結月環は、乳白色の湯に肩まで浸かりながら、絶望的な表情を浮かべていた。
「あわ、あわわわ……」
目の前に、湯気と柔らかな光の中で輪郭をぼやかした、女体の群れが襲いかかってくる。
ここは女の園、自分も今はその一員。
そう頭では理解しようとしても、昨日まで男子高校生だった彼の魂が、この刺激の強すぎる光景を拒絶していた。
ここは、肌色の煉獄だ。
その背後から、ぬるり、と柔らかな感触が抱きついてくる。マキだった。
「ねぇねぇ、環ちゃん。葵ちゃんと、どんな話をしてきたのさぁ?」
耳元で囁く、甘い声。その横からは、同じく一糸まとわぬ姿で湯に身体を預けた琴葉茜が、少し拗ねたように言った。
「うちの葵ちゃんが、あんなに人に心開くなんてなぁ。寝る部屋かて『断固として別々で』言うて聞かへんし、お風呂も一緒に入ってくれへんねんでぇ? 筋金入りのシャイガールや……まぁ、それ以外の時間は、ずーっと一緒にいてくれるんやけどもなぁ」
そうぼやく茜も、普段の快活な印象とは裏腹に、着痩せするタイプらしい。マキや環ほどではないにせよ、引き締まったしなやかな曲線美を惜しげもなく晒している。
前後左右を完璧な「女」に囲まれ、茹でダコのように真っ赤になった環は、もはや言葉にならない悲鳴を上げた。
「あわ、あわわわわ、あわぁ……!」
マキの腕から逃れようともがくが、濡れた肌は滑り、すぐにがっちりと取り押さえられてしまう。
「だから環ちゃんは、私たちがちゃんと慣れさせてあげないと、にぇ〜?」
「ほうれほうれ、良いではないか良いではないかぁ」
マキが環を羽交締めにし、茜が悪代官のように悪ノリして、その脇腹をくすぐり始める。
「ひあっ!? やめ、あ、あははははっ!? うわあああ、やめてええぇぇぇっ!」
本能的な抵抗と、生理的な笑いが入り混じった、悲痛な絶叫がバスルームに響き渡る。その、意識が朦朧としていく中で、環の心は、ただ一人の戦友へと届かぬ謝罪を叫んでいた。
『葵くん、御免なさい……! 僕は、君のような固い覚悟もできず、結局、僕の罪深さが増しただけでした……!』
環の声なき独白は、虚しく湯けむりの中に消えていく。
その頃。
寮の自室に備え付けられた個室シャワーを浴び終えた葵は、熱い湯気の中で、なぜか背筋にぞくりとしたものを感じていた。
「……えっきしっ!」
一人の少年が、己の「精神修行」とは全く別の場所で、別の試練に晒されていることなど、知る由もなかった。
夜は、全ての輪郭を闇に溶かす。
その漆黒の中、ただ一点、冷たい光を放つ携帯端末のスクリーンが、一つの影を浮かび上がらせていた。
画面には、日中の映像が繰り返し再生されている。葵に荒々しく押し倒される環の姿。そして、放課後の教室で、傷心の葵を優しく元気づける環の姿。
「ふふ、うふふぅ……たまちゃん、良い調子で女子校生活を堪能しちゃってるじゃあありませんかぁ」
たらり、と一筋の鼻血が垂れる。
無骨な機械的ライフルを杖のように地に突き、結月ゆかりは恍惚の表情で画面を見つめていた。
どこからどうやって盗撮したのか、今この瞬間の、浴室で無邪気にくすぐられている弟――否、妹のあられもない姿までリアルタイムで堪能するその様は、まさしく完全無欠の変態のそれであった。
しかし、彼女がいる場所こそが、何よりも異常だった。
闇に横たわるのは、二次元的な幾何学で構成された、小山ほどの巨大な菱形の死体。先の戦いで環たちが遭遇した菱形狼の、超巨大上位個体だ。
そして、その傍らには。
菱形の髪飾りをつけた白い髪の少女が、両手足を宝石のように砕かれ、その身体を光の粒子へと還しながら、かろうじてその形を保っていた。
「あーあ。ここの傷跡なら、良いポータルになると思ったのにぃ」
自らの無惨な姿とは裏腹に、その言葉は、お気に入りの近道を塞がれて残念がる少女のように呑気だ。
「おや。侵略ではなく、通過ついでの栄養補給が目的でしたか。どちらから、どちらへ?」
まるでやる気のない検問官のように、ゆかりは動画から一切目を離さずに問いかける。その態度に、白い髪の少女は不服そうに片眉を吊り上げた。
「信者が多かった、お気に入りの世界があったんだけどね。『星』の奴らが増えてきたから、食い潰される前に逃げてきたのよ。逃げるのも恥だけど、あんな細切れの魔法に食われちゃ、それこそ旧支配者の名折れだからね」
『星』――その単語に、ゆかりは初めて、ほんの僅かに反応して少女に目を向けた。
白い少女は、はじめて敵の見せる人間らしさに愉快そうに目を細めた。
「あぁ……あなたがその身に纏う概念の残骸も、奴らと同じ『東北ずん子』だもんね。全く、新しき邪神の雛形同士で、何を相争っているんだか……とても調和できたものじゃない。理解できないよ」
そう言い残すと同時、少女の身体がパキパキと音を立てて急速に崩壊を始める。彼女は、最後の言葉すら残さず、その化身体を一片の光も残さずに消滅させた。
「……あんたたちのように、吹っ切れられれば、どれだけ幸せなんでしょうね」
誰にともなくそう呟くと、ゆかりはライフルをくるりと回し、虚空へと溶かすようにかき消した。
りん、と虚空から、澄んだ鈴の音が聞こえる。
「わかってますよ。きりたん君のところにいる、あの個体には手を出しません」
ゆかりは、闇の向こうにいる誰かに語りかける。
「あなたのおかげで、私は今、こうして戦えてるんですから……。あなたの助言には、まだ従ってますよ……じゅん子」
携帯端末の光が消え、ゆかりの顔から変態的な笑みも、表情すらも消え失せる。
彼女は、ただ静かに顔を上げた。
そこに在ったのは、弟を愛する姉でも、世界を憂う観測者でもない。
ただ一人、冷徹な覚悟をその瞳に宿した、一人の戦士の顔だった。