VOICEROIDのウェポンサイド//偽りの星の聖譚詩   作:EMM@苗床星人

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第五話 次元と事情と事件と事案

 世界と世界の航海路、次元の狭間――。

 言葉でそう表現しても、三次元に生きる者にはいまいちピンとこないかもしれない。

 艦の窓を通して乗員たちの目に投影されるその光景は、光のみで構成された珊瑚礁の木々が静かに茂る、蒼い深海の底のようであった。

 そう、ここは次元航行船。そのもの自体が一つの生命体である、ボイロウェポンが変身した姿だ。

 艦を外から見れば、巨大な白い狐面を滑らかな流線型に引き延ばしたかのような、奇妙ながらもどこか神々しい姿をしている。

 艦橋では、数名の乗員が計器の光を顔に浴びながら挨拶を交わし、交代制で船の航行を管理していた。

 

 この船の航行モードは二つ。

 今は、複数人数で管理する『長期潜航モード』が選択されている。

 

 一人の奏者のBLESSに全ての負荷を依存させるよりも、複数人のBLESSで維持した方が、奏者の限界によって自動的に変身が解けてしまうリスクを分散できるからだ。

 もし、そうなってしまえば最期。

 乗員たちは、このボイロウェポンの持つ『神格適性』という鎧に守られた内部から、『世界の外』へと無慈悲に放り出される。夢見る源夢神(アザトース)に守られているという前提で設計された我々生命は、その外では死ぬことすらできず、存在の意味そのものが無限に撹拌され続けるという、筆舌に尽くしがたい地獄が待っている。

 そういう意味では、この旅は深海を往く潜水艦よりも、遥かに張り詰めた緊張を強いられるものであるべきなのだが……。

 その日、本部からの定時通信が入った瞬間、その緊張の糸は、あらぬ形で弾け飛んだ。

 

「ちゅぅわわああああ!!」

 

 船全体が、断末魔のような悲鳴をあげて激しく振動する。艦内の壁面をノイズが走り、窓の外の光の珊瑚礁がぐにゃりと歪んだ。

 乗員たちは大慌てで操舵席やコンソールに駆け寄り、自らのBLESSを送り込んで変身の安定化を図る。

 

「ど、どうした!? 敵襲か!?」

 

「違う! BLESSの供給源がブレてるんだ! イタコさんの精神安定って、一番太いラインが!」

 

「か、かか艦長!お願いします!」

 

 慌てふためく乗員たちをかき分けて、一人の男が艦橋を迷いない足取りで横切っていく。

 ひときわ背が低く、ブカブカの海兵服に着られているような姿の男が、カツカツと無言で踵を鳴らし、問題の部屋の自動ドアをこじ開けた。

 彼こそが、この船の艦長にして、主たる奏者、『吉田くん』である。

 

「どうした、イタコさん?」

 

 その部屋で、一人の女性がコンソールの前でカタカタと震えていた。

 グラマラスな長身をタイトなスーツに包み、顔には一体型のサイバーグラス。

 その頭からは、ぴんと張った白銀の狐耳型感応デバイスが生えている。

 彼女は、わなわなと震える指で、コンソールのスクリーンを指差していた。

 

「き、きりたんが……きりたんがぁぁ……ボイロウェポンに、覚醒してしまいましたわぁぁぁうわあぁぁぁん!!」

 

 わっと泣き崩れたこの女性こそ、東北イタコ。

 日本中にボイロウェポンとして居を構える東北家、彼女は海尼市の東北家の長女であり、この次元航行船を構成するボイロウェポンの一人である。

 今泣いているこの身体も、艦内に複製された代理構成化身体(アバター)に過ぎない。

 だが、その慟哭は本物だった。

 今は亡き妹じゅん子によって、戦いの記憶を封印されたはずの大切な弟が、戦いに巻き込まれてしまった。

 それだけではない。ボイロウェポンに覚醒したということは、自分の知らない誰かとBLESSを交感したということ。

 すなわち――キスである。

 

 知らない間に、誰と、どんな危険な大人の階段を登ってしまったのか……。

 姉としての心配と嫉妬。あまりに複雑な感情の嵐に、彼女はただ苛まれていた。

 

 

 

 大の大人が、わんわんと声を上げて泣き喚く。

 そんな凄絶な現場を前にして、艦長たる吉田くんはれいの肩を落として、一つため息をついた。

 

「むしろ彼の精神衛生を考えれば、妥当なタイミングじゃないか、イタコ」

 

 吉田は、イタコの化身体の頭を、あやすように優しく撫でる。

 その小さな手から直接供給される、彼の落ち着いた、温かいBLESSの感触。

 それに包まれ、イタコは徐々に呼吸を取り戻しながら、途切れ途切れに言葉を紡いだ。

 

「ちゅわぅぅ……わ、私たち世界間航行チームは、長期任務……そのリスクは、分かっていたはずでしたわ……? でも、でもぉ……っ」

 

 その任務の性質上、一度出航すれば数ヶ月、下手をすれば年単位で家を空けることになる。

 クルーには能力を優先した精鋭が集められていることもあり、同一人物をオリジナルとするボイロウェポンが複数人乗り合わせることも珍しくはない。

 だが、兄妹持ちのボイロウェポンのほとんどは、揃ってこの任務に参加していた。

 全ては、地上に残した家族に、こういうことが起こりかねないからである。

 

「不安なのはわかる。任務が終わったら、ゆっくり見定めに行くといい」

 

「吉田、艦長ぉ……」

 

「僕も同行するから」

 

 その一言に、イタコはしゃくりあげながらも、こくりと静かに頷いた。

その時だった。

 艦内に、先ほどの揺れとはまた質の違う、甲高いアラートが鳴り響いたのは。

 

『艦長、また例のやつです!』

 

「……懲りないなぁ。イタコ!」

 

「すわっ、了解ですわ!」

 

 吉田くんの呼びかけに、イタコは瞬時にプロの顔つきに戻る。彼女は涙を拭うのも忘れ、目の前の吉田くんをぐっと抱きしめた。

 刹那、二人の周囲の空間がぐにゃりと歪む。

 この艦内は、イタコの体内そのもの。

 摂理を無視して、一瞬で艦橋へと転移した二人は、迷いなくそれぞれの持ち場へとついた。

 長期航行の管理を行っていたクルーたちが、一斉に敬礼する。

 

「艦長! 例の、自称『次元海賊』です!」

 

「高速飛翔体として急速接近中! 現在、対応チームが弾幕を張り、応戦しています!」

 

 艦砲管理席のコンソールに接続したクルーたちが、それぞれのBLESS属性を付与した対空機関砲を斉射する。

 だが、モニターに映る敵艦は、その雨のような砲弾の隙間を、軽々とすり抜けていた。

 紫に輝く異次元鉱物で構成された、腕を持つ彼岸花。

 あるいは、神話に登場する法具『ヴァジュラ』のようにも見えるその敵性ボイロウェポンは、慣性を完全に無視したUFOさながらの挙動で、猛攻を回避し続けている。

 

『みゅ、みゅ、みゅあおーん!』

 

 その姿に似合わぬ、どこか可愛らしい鳴き声(?)まで発しながら。

 吉田くんは、やれやれと頭を抱え、もう一度深いため息をついた。

 

「……いまだに、同じことを要求し続けているんだろうな。回線、繋げ」

 

 

 

 開かれた通信回線の先に映し出された姿に、艦橋のクルーたちは一様に表情を固くした。

 メインスクリーンに浮かび上がるのは、幾度となく艦を襲撃し、金品や食料を執拗に要求してくる、自称『次元海賊』。

 その彼女は、どこか東洋の異文明を思わせる、艶やかなドレスを身に纏った結月ゆかりの同位体だった。

 先ほどまで砲撃を回避していた彼岸花型の敵性ボイロウェポン――その中心にある宝玉の中で、彼女は操舵桿を握りながら、こちらを射抜くように見据え、不敵に笑っていた。

 

『吉田艦長、今日も遊びに来たよ!さぁ、手早く金目のものを要求するよ!』

 

「何度も答えたはずだが、断固拒否だ、スペードJ『女帝(エンプレス)』。我々にテロリストへ供給する余裕はない。――もっとも、我々に協力してくれるというのであれば、その限りではないがな」

 

 吉田くんの、小さい体に似合わぬはっきりとした返答、艦長帽と目元を隠すマスクの間から盛れる鋭い眼光に、『女帝』と呼ばれた敵は「ふん」と鼻を鳴らす。

 

『じゃあ、あとはお互い実力行使で』

 

 その言葉を最後に、通信は一方的に断ち切られた。

 

「やれやれ」

 

 呆れたように肩を落とした吉田くんは、艦長席から立ち上がると、まっすぐイタコの座るオペレーター席へと向かう。

 そして、彼女の前に立つと、背の低い彼にちょうどいい高さにある、タイトなスーツに包まれたイタコの膝小僧に、ぽす、と両手を触れた。

 

「ちゃ、ちゅあ!?」

 

 いきなりの接触に、イタコの肩がびくりと跳ねる。

 肌に直接触れられているわけではないのに、そこから流れ込んでくるBLESSの感触が、なんとも言えずくすぐったい。

 その光景に、艦内クルーの一部から「今日はそのスタイルかぁ……」「膝からか……」などと、呆れたような小声が漏れた。

 だが、吉田くんの瞳に、ふざけている色は一切ない。彼は、艦橋全体に響き渡る声で、号令をかけた。

 

「総員、第一種戦闘配置! 艦を『奏者航行モード』に切り替え、全力で敵性ボイロウェポン『愚者』の鎮圧にあたれ!」

 

 そう、吉田くんのこの行為は、セクハラでも何でもなく、本人すら無意識に行う、極めて合理的な操艦手順の一つである。

 奏者が、船体の一部である化身体に直接触れ、そのBLESSをダイレクトに送り込むことで、艦そのものを自らの手足のように操作する『奏者航行モード』。

 長期的な航行には全く向かない代わりに、敵同様の、慣性を無視した高機動戦闘を可能とする、直接戦闘に特化した操舵形態だ。

 もっとも、このモードが長く続かない理由は、奏者である吉田くんの体力消耗が激しいというだけではない。

 恋人である彼の手に、膝とはいえ敏感な部位を触られ続けることで、イタコの方が先にオーバーヒートしてしまうことにも、大きく起因しているのである。

 

 

 ガコン……と、真空であるはずの次元空間に、重い金属音が概念的に響き渡る。

 イタコの船体の後尾から、九本の狐の尾を模した自律型ドローン兵器が分離、射出されたのだ。

 それらはクルーたちが展開する雨のような弾幕の隙間を縫うように、猛禽類さながらの軌道を描いて敵へと迫っていく。

 

『フーちゃん!』

 

『みゅおーん!』

 

 次元海賊『女帝』の呼びかけに、艦である『愚者』が愛らしい声で応える。そう、彼女もまた、この船と同じボイロウェポンなのだ。

 『みゅかりさん』と呼ばれる、結月ゆかりタイプの奇妙な動物型変異体――M.O.F.ボイロウェポン。

 TOWEAT研究所から脱走したその個体は、道中で出会った未知の脅威『女帝』と共謀し、次元を渡る海賊の足となった。故に、造反者の烙印たる『愚者』のコードネームが与えられている。

 しかし、言うほどTOWEATも造反者に厳しいわけではない。

 ボイロウェポンが自ら選んだ道に、いちいち細かい口を挟まないのが、あの組織の基本理念だ。もっとも、敵対するというのなら話は別だが。

 『愚者』は、舞うように弾幕とドローンを回避しながら、その腕(マニピュレーター)に赤い衝撃魔術の砲弾を生成、それを投擲するように撃ち込んできた。

 艦に張られた複合BLESSのシールドが火花を散らしてそれを受け止めるが、凄まじい衝撃は艦内にも響き渡り、よろめいた艦長を、イタコがとっさに膝で挟んで支える。

 

「すまない、イタコ」

 

 より強く握られた吉田くんの手と、そこから体を巡る彼のBLESSに、身悶えしながらイタコは応えた。

 

「んんっ、ひぅ……こ、こんなの、当然のことですわ……っ」

 

「艦長! 敵『愚者』、ヴァジュラ形態へ移行! このまま突撃してきます!」

 

「迎撃を考えた方がよろしいのでは……!」

 

 クルーの切羽詰まった声に、しかし吉田くんは落ち着き払って告げる。

 

「諸君、我々の理念は変わらん! 対話と交渉、それこそが世の平和の礎である! さぁ、対話の続きといこうか!」

 

 詰まるところ、この戦闘は、互いに撃沈や墜落の意図など微塵もない、二つの組織による対話の一環なのであった。

 勝った方が、負けた方の言うことを聞く――。

 最新鋭の次元航行船同士が繰り広げる、あまりにも原始的で迷惑な交渉(ゲーム)なのである。

 

 

 

 そんな異次元の戦闘の喧騒など、今はまだ遠い世界の出来事。

 結月環の朝は、この一か月で驚くほどに、そしてどこか物悲しいほどに、優雅なものへと変貌を遂げていた。

 

 そう、もう一か月も経ってしまったのだ。

 目覚めた環は、シルクのシーツが肌を撫でる感覚に身を委ねながら、しなやかな四肢をベッドの上でゆっくりと伸ばす。

 猫のようなその動きは、無意識のうちに板についてしまっていた。

 最近の悩みの種である、慣れない胸の重さに起因する肩こりを少しでもほぐそうと、首をこきりと鳴らす。

 

「んんっ……ふぁぁ、朝ごはん、作んなきゃ」

 

 吐息と共に漏れ出た声は、かつての自分のものとは似ても似つかぬ、鈴を転がすようなソプラノ。

 時の流れと「慣れ」という名の侵食作用は、残酷なまでに環の内面を書き換えていく。

 性転換した当初、トイレに行くことから着替えに至るまで、行動の全てが違和感と羞恥にまみれていた日々が嘘のようだ。

 慣れは、環の中にあった「男としての自分」という抵抗勢力を少しずつ無力化し、いつしか『女の自分』という現実を、当たり前の日常として受容させてしまっていた。

 

 当たり前にパジャマのボタンを外し、滑り落ちる絹の感触に何も感じない。

 に映るのは、自分であって自分でない、緩やかな曲線を描く肢体。海外から取り寄せた、この大きすぎる胸にぴったりと合うサイズのブラジャーを手に取り、慣れた手つきでアンダーバストに合わせる。

 背中に回した指先が、迷いなくホックを留める。

 

 カチリ、という小さな音。そして、肌とレースが擦れる微かな衣擦れの音。

 その一連の動作に、もはや罪悪感は微塵も湧いてこない。

 何故なら、これは紛れもなく「自分の身体」の管理なのだから。

 

 寧ろ、環が罪悪感を覚え始めていたのは、この現状にすっかり「慣れて」しまい、心のさざ波一つ立てずに受け入れている、自分自身に対してだった。

 魂が、この肉体という器に馴染みすぎている。

 それは、ある種の諦めであり、そして、抗いがたい快感への降伏の証でもあった。

 

 キッチンに立てば、手際は良い。

 環が作る朝食の香ばしい匂いが、二人で暮らす部屋を優しく満たしていく。

 完璧な半熟の目玉焼きと、カリカリに焼かれたベーコン、そしてこんがりと色のついたトースト。

 コーヒーのドリップされる音が、静かな朝のリズムを刻む。

 

「マキさん、ご飯だよぉ?」

 

 ルームメイトの眠る寝室のドアをそっと開け、環は優しく呼びかける。

 もぞもぞと布団が蠢き、やがて、寝ぼけ眼のマキが顔を出す。

 

「んん……にぇへへぇ、美人の奥さんだぁ」

 

 その言葉は、もはや冗談として環の耳には届かない。

 ぶわり、と頬に熱が集まるのを自覚する。

 心臓が、まるで自分の意志とは無関係に跳ねた。本当は、「お婿さん」と呼ばれたい。

 そんな、今となっては叶わぬ本音が胸の奥で疼くが、環はそれを押し殺して微笑むしかなかった。

 

 二人でテーブルを囲み、朝食を嗜む。

 カトラリーの触れ合う音だけが響く穏やかな時間の中、環はマキに尋ねた。

 

「次の公演はいつだっけ?」

 

「来週に公民館でのライブだね。環ちゃんの歌声、大人気だからにぇ」

 

 マキは楽しそうに言って、ベーコンを頬張る。

 環の慣れ――否、環が今の自分を肯定的に受け入れられるようになった最大の理由は、間違いなくマキと共に始めたこの音楽活動にあった。

 

 女の声として歌うこと。

 最初は不満でしかなかった。

 

 だが、いざマイクの前に立ち、喉を震わせれば、そこから溢れ出すのはかつての自分の面影を残した、突き抜けるようなハイトーンボイス。

 好きなだけ歌い、叫び、魂を旋律に乗せて解き放つ快感は、BLESSを発動させる戦闘中の高揚とは全く質の異なるものだった。

 しかし、己の全てを開放し、表現するという意味において、それは環の渇いた自己肯定感を十分に満たしてくれる、かけがえのない自己表現の場となっていた。

 

 そして、自分をこの道に誘ってくれた、この大切なルームメイトには。

 感謝と共に、運命的とすら言えるほどの、確かな「相性」を感じている。

 それは、音楽のパートナーとしてか、あるいはそれ以上の何かであるのか、今の環にはまだ判然としなかったが。

 

 ただ、マキの隣でこうして朝食を食べていると、自分が失ったものよりも、新しく得たものの方が、ほんの少しだけ大きく感じられるのだった。

 

 

 

 昼休みの喧騒は、まるで色とりどりの鳥たちのさえずりのようだった。中庭の芝生では生徒たちが輪になって弁当を広げ、渡り廊下を駆け抜けていく足音が、窓から差し込む初秋の陽光の中で楽しげに跳ねている。

 そんな穏やかな時間の中、環とマキは教室の窓際で、他愛もないおしゃべりに興じていた。

 そんな日のことだった。不意に二人の会話に割り込むように、緑色の髪を揺らした少女が駆け寄ってきたのは。

 

「ずずんだずんだぁ、ずんだーっ!」

 

 ずん子は、何かを必死に訴えかけるように、環とマキの顔を交互に見つめてくる。

 その大きな瞳は潤み、切実な響きを帯びているのだが――いかんせん、その言葉の内容が、二人には全く伝わらない。

 

「ええっと……ずんだが、どうしたの?」

 

「なんか、すごく困ってるみたいだけど……」

 

 環とマキは、顔を見合わせて苦笑いを浮かべるしかなかった。コミュニケーション上の、極めて特殊な問題である。

 ずん子が首に着けているチョーカー。あれが発する微弱な認識阻害の魔術により、一般の生徒には彼女の言葉が、流暢で可愛らしい日本語として認識される。それどころか、無意識に好意を抱いてしまうような、強力な暗示効果まで付与されているのだ。

 だが、ボイロウェポンである環たちには、その種の下位魔術に対する耐性が備わっている。結果として、彼女が必死に紡ぐ言葉のフィルタリングを突き抜け、その根源にある「ずんだ」という音声情報のみを正確に受信してしまうのだった。

 二人がどうしたものかと困っていると、幸運なことに、近くの席でその様子を見ていた救世主が声をかけてくれた。

 

「あはは、二人とも、またずんちゃんの言葉でフリーズしてる」

 

 うんうんと一人で頷きながら話の輪に入ってきたのは、宮舞モカ。マキの友人で、共に軽音部に所属する、快活な少女だ。彼女は一般人だが、マキを通じてボイロウェポンの事情も知る、数少ない協力者の一人である。

 

「モカちゃん、お願い! 翻訳して!」

 

「ずん子の雇い主のきりたんくんがご飯を作ってくれてるんだけど、最近その内容が偏ってるように感じるんだってさ。ほら、カレーとかハンバーグとか、子供が好きなメニューばっかりになっちゃうらしくて」

 

 モカは、まるで隣で普通の会話を聞いていたかのように、ずん子の言い分を淀みなく代弁する。ずん子も「そうなの!」とばかりに、こくこくと激しく頷いた。

 

「でも、彼女なまじそれまで食べれるものがずんだだけだったから、今更『栄養バランスがー』なんて、自分からは切り出しづらいんだってさ」

 

 それは、ずん子の野生的な言動からは想像もつかない、実に繊細で健気な悩みだった。

 

「ありがとねみゃーまい。私たちからだと、ずんだずんだ言ってるようにしか聞こえなくってさ」

 

「それ逆に聞いてみたいんだけどなぁ? 」

 

 マキが感謝を述べると、モカが興味深そうに身を乗り出す。その横で、話を聞き終えた環が、ぽん、と手を打った。

 

「なるほどね。……それじゃあ、私がずん子の家に行って、きりたんくんに栄養指導してあげるよ。ずん子にも、簡単な料理から教えてあげられるし」

 

「ずんっ! ずんだぁ!」

 

 環の提案に、ずん子の表情がぱあっと輝く。その申し出は、環の中に今も残る「男の子」としての面倒見の良さからくる、ごく自然なものだった。

 すると、マキが待ってましたとばかりに、ずん子とモカの肩をがっしりと掴んだ。

 

「環ちゃんの料理、すっごい美味しいんだよ! 一緒に暮らし始めてから、私のQOL爆上がりしたもん! 絶対お願いした方がいいって!」

 

 マキは目を輝かせながら、まるで自分のことのように環の料理の腕を二人に勧める。

 その熱量に、ずん子は嬉しそうに「ずんだぁ!」と喜びの声を上げたが、一方でモカだけがどこか遠い目をして、微妙な表情を浮かべていた。

 

「うぅ……マキが環に、胃も心も掴まれていく……」

 

 ぽつりと呟かれたその言葉は、誰に聞かせるでもない、一人の熱心なファンとしての小さな嘆き。

 その声は昼休みの喧騒に掻き消され、少女たちの新たな約束だけが、陽光の中でキラキラと輝いていた。

 

 

 

 キーンコーンカーンコーン、と。気の抜けたチャイムの音が、四時間目の終わりと昼休みの始まりを告げる。

 途端に、教室は堰を切ったように騒がしくなった。椅子を引く音、弁当の包みを開ける音、廊下へ駆け出していく足音。

 子供らしい無邪気な喧騒が、東北桐介の周囲を別世界の出来事のように通り過ぎていく。

 

 桐介は、その喧騒に一切関心を払うことなく、ランドセルの影に隠したスマートフォンを冷静な眼差しで見つめていた。

 受信したのは、ずん子の端末を経由したメッセージ。

 発信者の名は、弦巻マキ。その文面を一瞥した瞬間、桐介の整った眉がぴくりと吊り上がった。

 

『と、いうわけで……今日はきりたんの家でミーティングすることになりました! 環ちゃんがお料理教えてくれるって! よろしくね!』

 

 あまりにも一方的、かつ決定事項として告げられたその内容に、桐介は無言で返信画面を開く。

 指先が、怒りのままに素早く画面をタップした。

 

『お前らなぁ……!』

 

 怒りのスタンプを添えて送信し、ふぅ、と深くため息をつく。

 

(家は相変わらず、完璧に清掃してあるから問題はない。

だが、我が家に女子たちが来る、か)

 

 緊張はない、と言えば嘘になる。だがそれ以上に、桐介の心を占めるのは、過去の経験則からくる強烈な「嫌な予感」だった。

 彼にとって、これまで自宅に襲来する「女子」の代表格といえば、ただ一人。世界を股にかける姉であり、酔いどれ、二日酔いでリビングを占拠するあの長女――東北イタコ――のみなのだ。

 あの姉を基準に考えれば、女子の来訪とはすなわち、平穏な日常の破壊と同義だった。

 

(もっとも、ずん子は女に数えていないが)

 

 桐介の中で、彼女は理想的な家政婦であり、いて当たり前の家族であり、そして時々、予測不能な行動で頭痛の種を増やす庇護対象だ。

 そういえば、最近の彼女は料理に目覚めたらしく、自らキッチンに立つようになった。

 その結果、貴重な食材を謎の緑色の物体に変えたり、ボヤ騒ぎを起こしかけたりと、被害は甚大だった。

 

(……なるほど。あの結月環に料理を教えてもらうのは、ずん子にとって良い経験になる、か)

 

 そう考えると、困ったことに、拒否する明確な理由が見当たらない。

 桐介はそこまで思考を進めたところで、自然と意識を「結月環」という特異な存在へと向けていた。

 男子から女子へと変異した、極めて稀有なボイロウェポン。当初は精神的に不安定な面が目立ったが、先の砕玉王との一件以来、吹っ切れたように戦闘への積極性を見せている。

 今や彼は、味方の能力を底上げするバッファーでありながら、自らも決定打を放つアタッカーとして、チームに不可欠な戦力だ。

 ずん子から聞く話では、その精神状態の変化は私生活にも影響を及ぼしているらしい。

 「どんどん女子化している」という報告には、分析対象として純粋な興味をそそられる。

 

(少し、話してみるのもいいかもしれない)

 

 桐介は、思考をそこで打ち切り、自分を納得させるように一つ頷いた。

 なんだかんだ言っても、あの広すぎる屋敷に自分以外の誰かの声が響くのだ。主のいない、静まり返った伽藍のような家に、賑やかな声が集まる。

 その光景を想像した瞬間、自分の口元がほんの少しだけ、緩んでいることに気づいた。

 桐介は小さく舌打ちをすると、スマートフォンの画面を消し、何事もなかったかのように窓の外へ視線を投げた。

 空は、彼の少しだけ浮かれた心を映すかのように、どこまでも青く澄み渡っていた。

 

 

 

 放課後の生徒会室は、上質な紅茶の香りと、窓から差し込む西日に満たされていた。

 薔薇の意匠が施されたアンティーク調の机。

 壁には歴代生徒会長の肖像画が並び、この部屋だけが学院の長い歴史を凝縮したかのような、荘厳な空気に包まれている。

 

 その中心で、現生徒会長である琴葉茜は、ぱちり、と小気味よい音を立てて扇子を広げた。

 白地の扇面には、彼女自身のものと思しき達筆で『生徒会長』とだけ書かれている。

 

「ええやん、お食事会。うちはオープンなお嬢様校やし、歓迎したるわ。相手がきりたん君のお屋敷なら尚のこと。今後の拠点にはぴったりかもなぁ?」

 

 茜は楽しそうに目を細める。その向かいで、風紀委員の腕章をつけた琴葉葵は、こめかみに手を当てて深くため息をついた。

 

「風紀委員的には、生徒の無断外泊に繋がりかねない案件として承認しかねますが……まぁ、今回はミーティングという名目ですし、いいんじゃないですかね」

 

 そう言いながらも、葵の視線はどこか遠くを彷徨う。脳裏に浮かぶのは、ただ一つの光景。

 

(環の、手料理か……)

 

 小学生の頃、よく手作りの弁当のおかずを分け合った。

 当時は気にも留めていなかったが、今思えば、あれは……。

 

(い、異性との、間接キスだったのでは……!?)

 

 ――葵は勘違いしている。間違いなく、当時の二人は同性同士であった。

 だが、環が「女」であったと知ってしまった日から、そしてあの衝撃的なシチュエーションも相まって、葵はどうしても環を「女」として、それも強烈に意識してしまっていた。

 ボフッ、と葵の顔に一気に血が上る。

 

(だ、駄目だ! 落ち着け、俺は琴葉葵! 姉ちゃんの前では、真面目な風紀委員の妹を演じなければ……!)

 

 戦闘中の荒々しい言動も「共学時代に少しやんちゃなスケバンだった」という苦しい言い訳で通しているのだ。これ以上、ボロは出せない。

 環にうつつを抜かすわけにはいかないのだ!

 そう心を固めようとするが、ふと、脳裏にあのかぐわしい記憶が蘇る。

 環に詰め寄り、思わず掴んでしまった胸の、柔らかく、温かい感触が……。

 

「があああああっ!!」

 

ガゴォッ!!

 

「あ、葵ぃーっ!?」

 

 葵は、内なる獣を鎮めるかのように咆哮を上げ、生徒会室の分厚い漆喰の壁に、自らの額を隕石のごとく叩きつけていた。

 衝撃で壁に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。冷静さを取り戻した葵は、額から一筋の血を流しながら、慌てて姉に向き直った。

 

「ご、ごめんなさいお姉ちゃん! また、つい壁に過去の番長との戦いを幻視してしまって!」

 

「あんたも大変やったんやなぁ、共学生活……。最近、多いんちゃう?」

 

 呆れつつも、どこか納得したように頷く茜は、鞄から一本の機械仕掛けの杖を取り出す。緻密な歯車とパイプが組み合わされた、スチームパンクを思わせるその『儀式杖』。

 この世界の魔術師が用いる、魔力(可能性)の燃焼装置だ。

 茜は杖の側面にあるスイッチを押し込み、内部機構の弾み車を回転させる。

 彼女が燃やすのは魔力ではない。自らの魂の力――BLESS。砕玉王による改良で、今や呪いそのものである「呪相」すら、この杖は燃料とすることができる。

 超常のエネルギーが、茜の周囲に揺らめく。ひび割れた壁が、まるで映像を逆再生するかのように、音もなく元の美しい姿へと修復されていった。

 だが、代償は小さな物となっても必ず訪れる。

 きっかけが小さくとも、茜の周囲に澱む莫大な呪相の不幸が、悍ましい気の塊となって連鎖する。

 茜のすぐそばにある飾り棚。その上に置かれていた木彫りの熊が、ありえない角度にカタンと傾ぎ、重力に従って茜の頭上へと落下した。

 

「……っ! お姉ちゃん!」

 

「葵。常に、優雅にやり」

 

 葵が叫ぶより早く、茜は動いていた。

 とっ、と閉じた扇子で落下する木彫りの熊を寸前で受け止めると、手首の返しだけで巧みに回転を加える。『螺旋』のBLESSを纏った熊は、錐揉み回転しながら中空に留まり、やがて勢いを失ったところを、茜が器用にその手で受け止めた。

 一連の、計算され尽くした柔の所作。ケンカによる剛の暴力の応酬に慣れた葵は、思わず息を呑む。

 

「嵐はやがて力価を失い、散るものや。どれだけ激しい嵐でも、いずれは止まる。琴葉家と式家の呪相も、そう。そのために、琴葉の女はおるんやで。葵も、努々忘れるなかれや」

 

 その姿は、どこまでも優雅な魔術師であり、誇り高き生徒会長だった。

 そんな姉の背中を見て、葵は改めて己の未熟さを恥じ、そして決意を固める。

 

(俺は、この人に見合う守護者(ナイト)になる)

 

 額から流れる血を乱暴に拭い、葵は固く、固く拳を握りしめるのであった。

 

 

 

 放課後の学生街は、一日の終わりを惜しむかのような賑わいに満ちていた。

 クレープ屋から漂う甘い香り、カラオケ店から漏れ聞こえてくる音程の外れた熱唱、制服姿の生徒たちの弾むような会話。あらゆる生命の活気が混ざり合い、街全体が心地よい喧騒に包まれている。

 環は、部活や生徒会の用事がある他のメンバーより一足早く校舎を出て、待ち合わせ場所であるスーパーマーケットの前へと急いだ。買い物客で賑わう入り口の脇に、ランドセルを背負った小さな人影を見つける。

 

「やぁ、きり。待たせちゃったかな?」

 

 遅れてきた環に、腕を組んで待っていた桐介は片手をあげて応える。

 その表情は、どこか不機嫌そうでありながら、隠しきれない期待の色も滲んでいた。

 

「全く。余計なことを企画してくれましたね、あなたは」

 

「あはは、ごめんごめん。でも、たまにはこういうのもいいと思うよ?」

 

 環の屈託のない笑顔に、桐介はふいと視線を逸らす。その白い頬が、夕日に照らされている以上に、ほんのりと赤く染まっているのを環は見逃さなかった。

 

「……で、何を作るつもりなんですか? 手早く済むものにしてくださいよ」

 

「うーん、筑前煮とかの和食を中心にしてみようと思ってるんだけど、どうかな? 出汁の取り方さえ覚えれば、ずん子ちゃんの料理もだいぶ幅が広がると思うんだ」

 

「和食、ですか……」

 

 桐介は顎に手を当て、分析するように考察を始める。確かに、一手間かかる煮物や和え物といった料理は、効率を重視するあまり敬遠してきた。どうしても炒め物や焼き物といった、手早く出来上がる、いわば「男の料理」に偏りがちだった自覚はある。その発想は、最近の自分からは抜け落ちていたと言わざるを得ない。

 対して環は、元は男であっても、料理を振る舞う相手は常に女性だった。破天荒な姉のゆかりや、ルームメイトであるマキ。彼女たちの味覚に合わせるうち、自然と繊細な味の機微に敏感になっていた。

 

「そうだ、白和えとかもつければ、ずんだの食感に慣れてるずん子ちゃん好みのセットにできそうだよね」

 

「ああ、あれですか。理屈はわかるんですけど……いざ作ろうと思うと、豆腐をぐちゅぐちゅ潰して混ぜる、という工程に、どうも謎の抵抗感を覚えてしまうんですよね」

 

 妙に理屈っぽい、しかし子供らしいその感性がおかしくて、環は思わず笑みをこぼす。なんとなく、その気持ちがわかってしまう自分もいた。

 

「あとは……そうだ、きのこ! 秋だし、きのこご飯なんてどうかな?」

 

「駄目です」

 

 間髪入れず、あまりにもきっぱりとした拒絶。これはわかりやすい。桐介の苦手食材だと一発でわかる、一切の交渉を拒む強い意志がそこにはあった。

 

「まぁまぁ、そう言わずに。きりたんの分は少なめにするからさ。知見を広げる、っていうことで、ここは一つどうでしょうか、先生?」

 

「んん……」

 

 環に少しおだてられる形になり、桐介は唸る。論理で反駁できない提案は、彼の弱点だった。

 

「……まぁ、試してみるくらいなら。いいでしょう。でも、なめこは駄目です。絶対に」

 

「あはは、わかったよ」

 

「……あのぬるぬる、エレエレした食感は、生命の神秘を飛び越えて、ただただ意味がわからない……」

 

 そう真顔で呟く桐介の横顔に、環は声を殺して笑いながら、二人でスーパーの自動ドアをくぐるのだった。

 

 

 

 部活動を終えた生徒たちで賑わう、放課後の校門前。弦巻マキと琴葉姉妹(姉弟)、そしてずん子が顔を合わせたのは、ほぼ同時だった。

 

「おやぁ、奇遇やん。バッタリやなぁ」

 

「ずんだぁ!」

 

「あ、ずん子ちゃんも。今日は運動部の助っ人終わり?」

 

 マキが尋ねると、ずん子はこくりと頷く。

 彼女は今や、謎多きスーパー運動神経の持ち主として、今や校内の数多の運動部から引っ張りだこの、頼れる助っ人となっていた。

 住まいが寮ではなく、例外的に校外の大きなお屋敷という点もミステリアスさに拍車をかけているが、そこは夢見がちなお嬢様学院の生徒たち。「謎は謎のままの方が素敵」という暗黙の了解のもと、深くは追求されていない。

何より、ずん子本人がその状況を心から楽しんでいるのだから、問題はなかった。

 

「ほな、そろそろずん子ちゃん家……きりたん君のお屋敷に……お?」

 

 茜が歩き出そうとした、その時だった。

 世界が、軋みを上げた。

 見慣れたはずの校門前の風景が、ぐにゃりと歪む。アスファルトを突き破って巨大な木の根が脈動するように張り巡らされ、校舎の壁は蔦に覆われて風化し、ボロボロと崩れていく。

 

「深化空間!? なんで、こんな時に……タイミング良いんだか悪いんだか」

 

「あちゃあ……うちの呪相が、余計なもんを呼び寄せてもうたかな?」

 

 マキが顔をしかめ、茜がやれやれと肩をすくめる。その姉の前に、葵が一歩進み出た。

 

「お姉ちゃん、今日は私がやるよ」

 

 その言葉を待っていたかのように、茜は「仕方ないなぁ」と悪戯っぽく笑うと、葵の顎にそっと手を添え、引き寄せる。そして、ごく自然な流れで、その唇を重ねた。

 不意を突かれたリードに、葵の頬がカッと赤く染まる。

 だが、姉から流し込まれる清浄なBLESSを拒む理由はない。その身を包むセーラー服が光の粒子となって分解され、硬質な改造学ランを思わせる黒の戦闘服へと再構築されていく。

 葵は硬化した両の拳を打ち合わせ、ガキン、と小気味よい金属音を鳴らして眼前を睨んだ。

 そこに佇んでいたのは、異形だった。

 どこかの野山で見たような、可憐な草花。だが、その先端には、白髪の、生気のない人間の頭部が鎮座している。

 

「わぁ」

 

 気の抜けた少女の声で、それは鳴いた。

 敵意があるのかないのか、どこか呑気な表情を浮かべている。

 

 その時だった。バギバギ……と、空間そのものを引き裂いて、二つの影が唐突に姿を現したのは。

 

「おぉ、あかり草じゃないか。この世界には、あんなものまで自生しているのか」

 

 フォーマルなスーツに身を包んだ青年――かつての砕玉王タカハシが、珍しいものを見るように感心した声を上げる。

 

「生態系、思ったより滅茶苦茶っすね」

 

 彼の肩から蔓を伸ばし、コムギが同じように植物の頭だけの形態をとって同意する。

 

「タカハシ先生が連れ込んだんじゃないんですか? 迷惑なんですけど」

 

「それができれば、とっくに侵略しているさ。あれはどの世界にでも自生するマンドラゴラのようなものだ。植物系多世界生物の一種でね。……原種なら、おとなしいはずなんだが」

 

 タカハシが肩を揺らして促すと、コムギがあかり草を説得するように、独特の鳴き声を上げた。

 

「つっく、つっく」

 

「わぁ」

 

「つっく」

 

「わぁ。……War」

 

「つっく? つっくつっく」

 

「War! War!」

 

 なんだか雲行きが怪しい。相手のあかり草の瞳が、憎悪を煮詰めたようにどろりと澱み、その茎から断頭台(ギロチン)を模した禍々しい刃が、にょきにょきと生えてきた。

 

「駄目っすね。話、通じません。あれ、あかり草と似てるだけの別種っす」

 

「そっかぁ」

 

(じゃあ、何で出てきたんだよ!)

 

 その場にいた全員の心の声が、一つになった。

 葵は内心で悪態をつきながら、改めて構えを取り、眼前の敵――『悪かり草』、とでも言うべき存在を見据える。

 これは、今の海尼市チームに走る由もないが、敵の根源はかつて朱星堕としが倒したという、キングクラスの脅威『悪魔』ーーその欠片であるそれが、今は明確な悪意をもって、こちらに刃を向けている。

 

(姉ちゃんにたかる不幸は、俺が根こそぎ叩き斬る……!)

 

 そして、もう一つ。

 

(――それに、早くしねえと、環の手料理が……冷めるだろうがッ!!)

 

 聖なる決意と、極めて俗な焦燥。二つを胸に、葵は勝負を速攻で決めるべく、地を蹴った。

 

 

 

 しん、と静まり返った東北家の広大な和室。主のいない空間は、ただのがらんどうの伽藍に過ぎない、とは主自身の言だが、今は二人分の息遣いが、その静寂をかろうじて人の住まうものへと繋ぎとめていた。

 環ときりたんは、畳の上にぽつりと正座したまま、他のメンバーの到着を待っていた。ずん子がいなければ、料理の教えようもないからだ。時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。

 

「……みんな、遅いなぁ」

 

 ぽつりと環が呟いた、その時だった。ふと、きりたんが口を開いたのは。

 

「――気にせず、楽に話して大丈夫ですよ?」

 

 それは、あまりに唐突な、しかし深く染み渡るような許容の言葉だった。

 

「な、何さ、いきなり……」

 

 突然の指摘に、環は狼狽える。きりたんは、そんな環の動揺を見透かすように、静かな瞳で続けた。

 

「ずっと女の子のフリをし続けるのも、大変でしょう。あなたの言動の端々には、隠しきれない疲れが見えますよ?」

 

 ぐうの音も出なかった。この聡明な少年の前では、どんな取り繕いも無意味なのだと、環は悟る。

 

「はぁ……敵わないなぁ、きりたんには」

 

「むしろ、知っているのが僕でよかったじゃありませんか。ずん子からは余程のことがなければバレたりはしないでしょうし」

 

 確かに、と環は頷く。きりたんは、どこか遠い目をして言った。

 

「下手をすれば、僕もあなたと同じ立場になりかねなかったんですから。この一ヶ月で見たかぎり、あなたも逆の立場なら、きっと同じように振る舞ったはずです」

 

 お人よし、と遠回しに言われている気もしたが、きっとその通りだろう。もし目の前の少年が女の子になってしまっていたとしても……。

 

(あれ、でも、きりたんが女の子に……あんまり違和感、ないな?)

 

 そんな失礼なことを考えつつも、その甘い言葉は環の心にジンと染み渡り……

 結果、心の中で、何かが決壊した。

 きりたんの優しさと共感が、この一ヶ月間、必死に張り詰めていた理性の糸を、ぷつりと断ち切ってしまったのだ。

 

「きりたん、それなら……それならさっ!」

 

 環は、震える声で、きりたんに詰め寄った。

 正座を崩し、畳に両手をついて、ぐっと身を乗り出す。

 その動きに合わせ、薄いブラウスの下で柔らかく育った豊満な胸が、たわわに揺れた。きりたんの目の前で。

 流石のきりたんも、咄嗟に視線を逸らす。その頬が、みるみるうちに朱に染まっていく。

 

「な、何ですか、突然乗り気ですね!?」

 

「お……俺さ、この一ヶ月……ずっと、我慢してたんだッ!」

 

 堰を切ったように、環の口から魂の叫びが迸る。

 

「誰に頼んでも、絶対に変な顔されるから……! 誰にも、言えなかったんだッ! おねがいっ……きりたんッ!」

 

 顔を真っ赤に染め、涙すら滲ませて迫る環の気迫に、きりたんは完全に呑まれていた。

 

「だ、だから、一体何を……」

 

 環は、ぜぇ、はぁ、と息を荒くする。言うか、言うまいか。この願いは、あまりにも倒錯的で、変態的で、誰にも理解されないであろう、元・男の子としての悲痛な渇望。

 しかし、もう限界だった。

 意を決したように、一度固く口を結び、そして、開いた。

 恥じらう乙女のような、潤んだ瞳で、とんでもない爆弾を。

 

「ち●こ、見せて?」

 

 ――間。

 

 時が、止まった。

 きりたんの背景に、無限の宇宙(コスモ)が広がるのが見えた。

 超新星が生まれ、銀河が渦を巻き、やがて全てが無に帰す、気の遠くなるような時間の流れ。

 彼の超脳力(スーパーコンピュータ)が、理解不能なタイミングで投下された、理解不能な情報量の爆弾によって、カン、カン、とけたたましい警報音を鳴らし、致命的なエラーを吐き出す。

 システムが、ゆっくり、ゆっくりと再起動していく。

 そして、単語の意味だけでも、何とか、何とか理解した。

 理解した、上で。

 きりたんの顔から、すぅっ、と全ての表情が抜け落ちる。

 そこにあったのは、ヒマラヤの山頂で獲物を待つ、チベットスナギツネのごとき、凍てつくように冷たい無の表情。

 やがて、彼は心底から呆れ、軽蔑し、憐れむような声で、静かに呟いた。

 

「何言ってんだ、コイツ」

 

 

「頼むよぉっ!! もう、おかしくなりそうなんだ!!」

 

 環は、崩れ落ちるように畳に両膝をつき、必死の形相できりたんに詰め寄った。

 言ってしまった。一度、口にしてしまったからには、もう止められない。

 ぐるぐると渦を巻く暴走した感情を瞳に宿し、環は溜め込み続けた心の澱(おり)を一気に暴発させていく。

 

「周りは全員女子、女子、女子!! 風呂も! トイレも! 寝室も! バレないように、ずっと気を張って女の子のフリをしてたら、いつの間にかそれが自然に身に付いちまうんだよ! 何より、俺自身の! 俺の、男の象徴(シンボル)が、この世界のどこにも、身近に、無いんだ! 助けて! 助けてくれよぉっ!!」

 

 それは、もはや懇願ではなかった。

 自らの存在証明を求め、国境を彷徨う難民の叫び。失われた故郷の景色を、せめて一枚の写真ででも見せてくれと泣き叫ぶかのような、あまりにも悲痛な魂の慟哭。

 

 だが、そんな環の悲劇を前に、きりたんは己の浅はかな許容を心の底から後悔しながら、無慈悲なまでに的確なツッコミを返す。

 

「えぇい、小学生のちん⚫︎にアイデンティティをすがるな!」

 

「うわあああああん!!」

 

 もはや冷静さを完全に失った環は、それでも救いを求めるように、きりたんのズボンにしがみついた。

 その重みと必死さで、彼のズボンが、みるみるうちに下へとずり下がっていく。体格差という、覆しがたい物理法則の前では、きりたんの超脳力も無力だった。

 

「あっ、やめっ……や、やめろぉーーーっ!!」

 

 少年の悲鳴が、かつて主のいなかった伽藍の堂に、虚しく響き渡った。

 

 

 

 一方その頃。

 深化空間がガラスのように砕け散り、世界が元の穏やかな夕暮れの景色を取り戻すと、少女たちはほう、と安堵の息をついた。

 

「はぁ、はぁ……まさか、分身するたぁ、聞いてないっての……」

 

「葵ちゃん、お疲れ様や。戦ってる間の葵ちゃん、男の子みたいに勇ましくって、うちは好きやでぇ?」

 

 茜の悪気のない一言に、葵はゴフッ、と喀血しそうな衝撃を受ける。

 

「い、い、いいいいや、何のことなんですの!? わたくしにはさっぱりわかりませんわっ!ほ、ほら! 早く行かないと、環さんのお料理がお冷めあそばされてしまいますわよ!」

 

 必死で話を逸らそうとする葵の言葉に、しかしマキが不思議そうに首を傾げた。

 

「え? ずん子ちゃんにも料理を教えるって言ってたから、まだ作ってないと思うよ? むしろ、二人ともお腹を空かせて待ってるんじゃないかなぁ……」

 

「よし! じゃあ、みんなで早いとこ行きましょう!」

 

 会話の流れに乗じて、当然のようについていくつもりのタカハシに、茜が扇子でぴしりとツッコミを入れる。

 

「なんで先生まで一緒に行く気満々やねん……まぁ、ええか。それより、今お屋敷にはきりたん君と環ちゃんだけなんやろ? 一つ屋根の下に男女二人だけってのは、なかなかあかんでぇ?」

 

 茜のその言葉に、マキは呆れたように肩をすくめて返した。

 

「環ちゃんときりたんくんで? ないない、相手は小学生だよ?」

 

「いーや、油断はできへん」

 

 と、茜は真面目な顔で腕を組む。

 

「環ちゃん、意外に獣やで? お風呂の時とか、たまに目がすごいことあるもん」

 

「それは茜ちゃんが、自分のファンからの視線で感覚が麻痺してるだけじゃないの?」

 

「ずんだぁ?」

 

 そんな他愛のない会話を交わしながら、少女たちは夕暮れの道を歩いていく。

 自分たちが向かう屋敷の中で、今まさに一人の少年(だった者)が、自らのアイデンティティを賭けた壮絶な聖戦(?)を繰り広げていることなど、知る由もなかった。

 

 

 

 

 東北家の長い廊下を進む一行の耳に、目的の部屋から、ただならぬ騒ぎ声が聞こえてきたのはその時だった。それは、まるで痴話喧嘩の果てに、理性のタガが外れた痴女が少年を襲っているかのような――。

 

『――やだ、待って、待って! それは痴女の所業ですからね!? 少しは自分の今の容姿の客観的価値を考えなさい!』

 

『なんならオカズにでもなんでもしやがれ! イヤ、待って、やっぱり構わねーや! 知らないところでシてくれ!!』

 

『いーやーだーっ!!』

 

 ドスン、バタン! と、明らかに人間が組み伏せられ、抵抗する音が、重厚な襖の向こうからくぐもって響き渡る。

 

「……なんか、騒がしいなぁ」

 

 マキが少し怪訝な顔をして、首を傾げる。そして、特に深く考えることもなく、襖に手をかけた。

 

「おーい、たまちゃーん? きりたんくーん?」

 

 躊躇なく、マキの手が襖を引く。

 ガラリ、と無遠慮に開かれた扉の先には――この世の地獄か、あるいは倒錯の極致とでも言うべき光景が、夕暮れの光の中に広がっていた。

 完璧なまでの美少女(環)が、必死に抵抗する美少年(桐介)に馬乗りになっている。

 乱れた衣服、紅潮した頬、潤んだ瞳で必死に何かを訴える少年。

 そして、その上に覆いかぶさり、少年のズボンに手をかけようとしている、理性を失った少女の姿。

 誰がどう見ても、事後であった。

 

「あっ」

 

 襖が開いたことに気づいた環の力が、ほんの一瞬、緩む。

 その千載一遇の好機を、きりたんが見逃すはずもなかった。彼は渾身の力で身を捩り、拘束から逃れようと暴れる。

 その拍子に、彼のズボンのチャックに必死に引っかかっていた環の手が――滑った。

 ずるん、と。

 時が、再び、止まった。

 

「「「あ。」」」

 

 環は、自らが引き起こした決定的な事態に、血の気が引いて凍りつき。

 葵は、反射的に姉である茜の両目を背後から覆い隠し、ただただ目の前の惨事に目を白黒させている。

 タカハシは、その露わになった小学生らしからぬブツのサイズに目を見開き、

「か、金棒っ!?」と畏敬の念すら込めて仰天し。

 

 そして、マキは。

 

 固まった表情のまま、一切の感情を読み取らせず、静かに、それはもう、氷河が動くかの如く静かに、襖を、閉めた。

 だが、悲劇は、まだ終わらない。

 

「ずんだぁーーーーーーーーーっ!!!!」

 

 刹那、鬼の形相と化したずん子が、閉ざされた襖を己が身ごと木っ端微塵に破壊した。

 

「あーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!」

 

 それと同時に、きりたんの、もはや声にすらなっていない絶叫が、美しくも残酷な秋の夕暮れに、どこまでも響き渡るのであった。

 

 

 

 破壊された襖の残骸が散らばる部屋の中、異様な静寂が場を支配していた。

 その中心で、見るも無残な簀巻き(すまき)にされた環が、さめざめと泣いている。

 カーペットか何かでぐるぐる巻きにされ、芋虫のように横たわるその姿は、先程までの痴態と相まって哀れみを誘う。

 

「ずんだっ! ずんだぁっ!」

 

 そんな環の体を、ずん子が緑色の髪を逆立てながら、指でぐりぐりとつつき続けていた。

 その「お前というやつは!」とでも言いたげな、烈火の如き叱責の響きは、この場の誰の耳にも明らかだった。

 きりたんにあのような無礼を働いたのだ。

 原型を留めているだけでも、仲間としてかなりの温情がかけられているのは明白だった。

 

 一同がこの惨状をどう処理すべきか決めかねる中、一人の少年が静かに立ち上がる。

 東北桐介は、乱れた衣服の襟を直し、一つ深呼吸をすると、冷静沈着な――内心では滝のような冷や汗をかきながらも――声で、こう宣言した。

 

「これは事故だ。いや……僕の落ち度でもある」

 

 えっ、と一同の視線が彼に集まる。その「?」に満ちた空気の中、桐介は淀みなく、もっともらしい嘘を並べ立てていく。

 

「結月環は、過度の精神的ストレスにより、BLESSが暴走しかけていた。僕がそれに気づき、彼女の精神を安定させるためにBLESSのカウンセリングを試みたんだが……僕のやり方が未熟だったせいで、彼女をさらに混乱させてしまった。先ほどの奇行は、その結果だ」

 

 あまりに専門的で、しかし筋が通っているように聞こえる説明。

 その説得力を決定的にしたのは、魔術に詳しいタカハシの相槌だった。

 

「なるほど。BLESSが性欲や本能に直結する傾向は、過去の事例にもいくつか報告されてきたところだしな。

君の言うカウンセリングとやらで、そのリビドーが増幅されてしまった、と。……ふむ、奥が深いねぇ」

 

 専門家(?)までもが納得したように腕を組んで頷くのだから、混乱していた他のボイロウェポンたちは「そういうものなのか」と得心するほかない。葵も茜の目からそっと手を離し、茜も「なるほどなぁ」と扇子を広げた。その幸運に、桐介は内心で安堵の息を吐く。

 

 そして、ダメ押しとばかりに、彼は簀巻きの環へと鋭く振り返った。

 

「――な!」

 

 短い、同意を求める一言。

 だが、その声とは裏腹に、桐介の瞳は深淵の如き恨みに満ちていた。

 

(……いいか、僕がこうして誤魔化してやっているんだ。

二度と、二度とこんな真似を す る な よ ?)

 

 その無言の気迫、氷点下の圧力を全身で浴びて、環は声もなく、しかし人生で最も激しく、ぶんぶんと首を縦に振り続けるのだった。

 

 

 混沌が過ぎ去った東北家のキッチンは、嘘のように穏やかな活気に満ちていた。先程までの阿鼻叫喚は、まるで無かったことのように。

 

「……でね、お出汁は絶対に沸騰させちゃだめ。昆布の旨味が逃げちゃうから、じっくり、ことこと……そうそう、上手上手」

「ずんだぁ……!」

 

 環の丁寧な指導のもと、ずん子が真剣な眼差しで鍋の中を見つめている。その周りでは、成り行きで参加することになった琴葉姉妹も、環の指示通りに野菜を切ったり、調味料を計ったりと、慣れない手つきで食事の支度を進めていた。

 

「はぁー……さしすせそって、ホンマに順番通りにやるとこんなに味が変わるんやねぇ?」

「母さんも納得する味になりそうですね、これ」

 

 茜が感心したように味見をし、葵もまた、その繊細な味の変化に驚いている。

 環が少し首をかしげたのは、いつの間にか調理の輪に加わっていたタカハシの存在だったが、意外にも、彼が一番筋がいいのは研究者としての性(さが)か。

 

「薬学の実験と同じだからねぇ~。分量と手順、そして温度管理。基本は変わらないのさ」

 

 そんな賑やかな調理風景の中で、ただ一人。弦巻マキは、まな板の上のシイタケを切りながら、深く、深く物思いに耽っていた。

 

(リビドーに直結……ストレス……環ちゃん、色々溜まってたって言ってたけど……それって、つまり)

 

 きりたんの説明は、もっともらしかった。そして、マキの心を強く揺さぶった。慣れない女の園での生活。たった一人で戦ってきた彼女が、どれほどの孤独とストレスを抱えていたのか。そして、その行き場のない衝動が、ああいう形で暴走してしまったのだとしたら……。

 

 マキは、環が「女の子として」本当に求めているものを、真剣に考え始めていた。

 茸の、ぷっくりと膨らんだ先端を、とん、と真っ二つに切り落とす。

 

(彼氏が、欲しいって……コト!?)

 

 ぶわり、とマキの顔に熱が集まる。

(わ、私ができることは……何か、あるんだろうか……っ)

 

「……痛っ」

 

 思考に没頭するあまり、包丁を持つ手に力みが入ってしまったらしい。左手の人差し指に、ちくりと鋭い痛みが走った。

 

「マキさんっ、大丈夫!?」

 

 赤い血が滲むのを見て、誰より早く環が駆け寄ってくる。その手には、どこから持ってきたのか、救急箱が握られていた。手早く傷薬を塗り、慣れた手つきで絆創膏を巻いてくれる。

 今もこうして、甲斐甲斐しく世話を焼いてくれる彼女。その優しさに、自分がどれだけ頼り、甘えてしまっているか。

 

「……マキさん?」

 

 しまった、顔に出ていただろうか。心配そうにこちらを見つめる環の、澄んだ瞳が胸に痛い。マキは、恥ずかしさから思わず顔をそむけた。

 

「ま、マキさん! あの、この一ヶ月、俺がなんとかやってこれたのは、マキさんのおかげだからっ……! 次は、もう……さっきみたいな醜態は、絶対に晒さないから……!」

 

 環の必死な言葉に、マキはハッとして顔を上げる。

 そこには、顔を真っ赤にして、心底申し訳なさそうに自分を見つめる環がいた。

 マキは、ふぅ、と一つため息をつくと、そっと環の頭に手を伸ばし、優しく撫でた。

 

「……慣れない環境で、ずっと頑張ってきたんだもんね、環ちゃん。私も、もっと頑張らなきゃね」

 

 そう言うと、マキは絆創膏を巻かれた自分の手を、環の手にそっと重ねた。温かい、確かな体温が伝わってくる。穏やかで、少しだけ甘い空気が、二人の間に流れた。

 

 

 

 やがて東北家の食卓に並んだのは、素朴ながらも、人の手の温もりが感じられる和のフルコースだった。

 主役は、鶏肉と色とりどりの根菜が踊る筑前煮。丁寧に引かれたお出汁の優しい香りが、食欲をそそる。一口食べれば、素材の甘みと、それを引き立てる確かな旨味が口いっぱいに広がった。

 ほうれん草の白和えは、豆腐のまろやかなコクと胡麻の香ばしさが絶妙な一品で、特にずん子はその優しい味わいに目を輝かせている。

 そして、きりたんが眉をひそめたシイタケの味噌汁も、きのこ特有の風味と食感を活かした、小粋な一皿に仕上がっていた。

 

 環の主導のもと、皆で作り上げた温かい食事。

 多少の混乱はあったものの――そして、今後は決して環ときりたんを二人きりにしてはならないと、全員が固く心に誓ったものの――食卓を囲むその時間は、確かに満ち足りたものだった。

 

(また、やろう)

 

 誰もが、そう心の中で呟いていた。

 

 ふと、きりたんは、今この瞬間も世界のどこかで戦っているであろう、姉の顔を思い出す。そして、今日の出来事を報告しようと、スマートフォンを取り出し、短いメールを打ち始めた。

 

 

 

 次元の狭間。光の珊瑚礁が静かに揺らめく中、次元航行船『イタコ』の内部は、対照的に張り詰めた空気に満ちていた。

 船内の簡易的な牢屋には、先の戦闘で捕縛された次元海賊『女帝』と、その愛機『愚者』が、気絶したまま拘束されている。

 その前で、イタコの化身体は、受信した一通のメールを前に、わなわなと手を震わせていた。やがて、その我慢が限界に達したかのように、絶叫が迸る。

 

「帰る! 帰りますわ! もう異世界との交渉なんざ、知ったこっちゃないのですわよ!」

 

 ちゅわあああああっ、と。船全体が、主の精神の不安定さに共鳴し、再び激しく鳴動した。

 

「待った待った、そうはいかないって! イタコさん、一体何があったんだ!?」

 

 慌てて彼女を留めようとする艦長の吉田くんに、イタコは涙ながらにスマートフォンの画面を見せつける。

 そこに綴られていたのは、真面目で、実直で、それ故に残酷な、弟からの近況報告だった。

 

『拝啓、イタコ姉様。

 先般、僕もボイロウェポンとして覚醒いたしました。

 相方を含め、何かと女性の多いチーム編成ですが、先日、僕の監督不行き届きにより、少々あられもない姿を衆目に晒すという失態もありました。しかし、今後は僕が手綱をしっかりと握り、チームを率いていく所存です。

 ともあれ、僕は元気にやれていますので、姉様はご心配なく、任務に専念してください。

 

 追伸、じゅん子姉様の件、黙っていたことは許しません』

 

 ちゅわああああああっ!!

 

 姉の悲痛な叫びが、再び次元の狭間に木霊するのであった。

 

 

 

 

 深夜の学生寮。静寂が、月光だけを吸い込んで満ちている。

 その一室で、環は金縛りにあったかのように、ベッドの上で身動きが取れずにいた。いや、金縛りではない。手首と足首に、シルクのスカーフのようなものが食い込み、ベッドの四隅に固く固定されているのだ。

 そして、その上に、のそり、と影がのしかかる。

 

「ま、マキさん? 何を……ひっ!?」

 

 月明かりに照らされたルームメイト、弦巻マキ。彼女のふわりとしたスカートが、ありえない形で持ち上がっていた。まるで、その下に硬質なテントの支柱でも隠しているかのように。

 

「私ねぇ、さっきの調理中に、思い出したんだぁ……」

 

 マキは、うっとりとした表情で環を見下ろしながら、囁く。

 

「四方町(きゅうぶちょう)っていうね、女の子でも男の子みたいに愛せる身体を持ってるボイロウェポンの支部があるんだって。そこで頼めば、『生やせる』って話……」

 

 布越しに伝わってくる、その存在感。熱と、硬さと、そして、人間には到底あり得ない大きさが、嫌でも環の肌に伝わってくる。

 

「ほら、環ちゃん……私、ちゃんと『彼氏』の代わり、なれてるでしょ?」

 

「い、いいやいやいやいや! 何でマキさんにそんなものが!? なにこれ、というか、なんで皆そんなにでっかいの!? 俺がちいさかったの!?」

 

 あまりのショックと恐怖に、この一ヶ月で最も心の奥底に封印していたコンプレックスを、環は思わず吐露してしまった。その悲痛な叫びに、しかしマキはくすりと妖艶に微笑むと、さらにその身体を密着させてくる。

 

「環ちゃぁん……私だけを、見てよ……。パートナー、でしょ?」

 

「ま、マキさ……うひっ!?」

 

 下腹部に押し付けられる、あまりに硬質な感触。びくん、と環の身体が弓なりに跳ねる。

 

「環ちゃん……大丈夫。私に、全部委ねて、にぇ?」

 

 マキの甘い声と、蕩けるような笑み。その抗いがたい魅力に、身体の芯がぞくぞくと震える。だが、本能が、理性が、全力で警鐘を鳴らしていた。

 

「い、い、いやぁーーーーーーーーーっ!?」

 

 

 それは、悪夢だった。

 深夜の学生寮。環は寝ながら、びっしょりと汗をかき、顔を真っ赤に染め、じたばたと苦しそうに藻掻きながら、うわ言のように寝言を呟いていた。

 

「うぅ……いやぁ……まきさぁんっ、やだぁぁ……っ」

 

 対して、隣のベッドで眠るマキは。

 たまたま同じ夢を見ているのか、それともBLESSで繋がっているが故の小さな奇跡か、ぺろり、と嬉しそうに舌なめずりをすると、抱き枕をぎゅうっと強く抱きしめ、実に満足そうな寝息を立てているのであった。

 

 

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