翌朝。
ブライドベールの空は嘘みたいに穏やかだった。嵐が去ったあとの静けさが、島全体を包んでいる。潮の匂いも風のうねりも、すべてがどこか眠っているようだった。
サンジは甲板でフライパンを振っていた。バターとハーブの香りが広がり、チョッパーとウソップが鼻をひくつかせる。
「今日の朝飯は特別だぜ。新入りのレディのためにな」
「もう“新入り”扱いかよ……」ゾロが呟きながら剣を磨く。
「お前の飯よりはマシだろ、緑藻」
「飯じゃねえ、俺の剣は」
「どっちも硬ぇだけだな」
「なんだと……?」
二人の睨み合いをナミが軽くいなす。「朝から喧嘩しないで。空気がまた焦げるわ」
レゼはその様子を少し離れたところで見ていた。
白いワンピースに薄いショールを羽織り、風に揺れる髪を押さえる仕草は、まるでどこかの貴婦人のようだった。
だが、ふとした瞬間に見せる表情――誰かを思い出すような遠い目が、サンジの胸を締めつける。
「ほら、熱いから気をつけて」
スープ皿を手渡すと、レゼは小さく笑った。「ありがとう、サンジくん。あなたの作るものって、優しい味がするのね」
「料理は心で作るもんさ。女を笑顔にするために存在してる」
「……そういうの、嘘みたい」
「なら証明してやるよ。毎日、笑わせてみせる」
レゼは少し俯き、スプーンを回した。
その笑顔の裏に、何かを隠していることをサンジは感じた。だが、追及はしなかった。笑ってくれるなら、それでいい。
◇
一方その頃、ゾロは灯台の裏手にいた。
昨夜見つけた地下通路の奥、崩れた壁の向こうに何か光るものを見た気がした。
岩をどけると、鉄の箱がひとつ埋もれている。箱の角には、昨日と同じマーク――世界政府の紋章。
「やっぱりか……」
ゾロは眉をしかめ、手を伸ばしかけたその瞬間、微かな風が頬を撫でた。
風の匂いが、血のように重く、鉄臭い。
振り向くと、レゼが立っていた。
陽の光を背に受け、表情は見えない。だが、その声は昨日よりもずっと冷たい。
「探り好きね。あなた、剣士でしょう?」
「悪ぃな。勘が働く体質なんでな」
「その勘、今は封印してくれる?」
レゼが一歩近づく。空気が“ぱちり”と鳴った。
ゾロは剣に手をかけたが、すぐに離した。
「サンジに手ぇ出す気か?」
「出さないわ」
「ならいい」
「……どうしてそんなに、信じられるの?」
「仲間だからだ」ゾロは背を向けた。「それだけのことだ」
レゼは静かに笑った。だが、その笑みはどこか痛々しい。
「いい仲間ね。……壊したくなるくらいに」
◇
夕刻。
レゼは甲板の端に腰をかけ、沈む夕陽を見つめていた。
サンジが隣に座り、ライターで火をつけた。
「煙草、平気か?」
「ううん。懐かしい匂い」
「懐かしい?」
「……昔、煙と火薬の匂いに包まれてた。戦場みたいな場所」
サンジは目を細めた。「女がそんなとこにいるもんじゃねぇ」
「でも、いたの。命令でね」
彼女の声は風の音に溶けていく。
サンジは何も言わず、ただその横顔を見た。
「ねぇ、サンジくん」
「ん?」
「もし、私が……あなたを傷つけるようなことをしたら、どうする?」
サンジは即答した。
「防ぐ。守る。でも――蹴らねぇ。」
レゼは目を見開いた。「なんで?」
「理由なんかいらねぇ。女を蹴るのは、俺の死より恥だ」
その言葉に、レゼは小さく息を呑み、視線を落とした。
「……優しい人。ほんとに、あなたは馬鹿ね」
「馬鹿で結構」サンジは笑う。「それで女が笑うならな」
風が止み、再び“ぱちり”と音が鳴った。
火花が二人の間を走り、サンジの頬を掠める。だが、彼は動かない。
焦げ跡がついても、微笑んだままだ。
「な、言ったろ。俺は守るだけだ」
レゼは涙を一筋流した。
サンジはそれを指で拭い取ることもせず、そっと視線を逸らした。
◇
その夜。
ゾロは甲板で一人、酒瓶を傾けていた。
ロビンが近づき、静かに座る。
「何か見つけたの?」
「あぁ。あの女、政府絡みだ」
「サンジには?」
「言わねぇ。今のあいつに言っても無駄だ。目が完全に“恋”してる」
「……ルフィには?」
「もう話した」
ロビンが小さく笑う。「彼、なんて?」
ゾロは空の酒瓶を掲げて、星を見上げた。
「“サンジが笑ってんなら、大丈夫だろ”だとさ」
ロビンは目を細めた。「ルフィらしいわね」
「お前はどう思う?」
「そうね……大丈夫じゃない。でも、それがルフィのやり方」
ゾロは剣を膝に置き、柄を握りしめる。
「大丈夫じゃねぇ時は、俺が斬る」
その声に、ロビンは微笑んだ。
「ええ。きっとそれが、あなたたちの“信頼”ね」
◇
夜空の上で、黒い風が蠢いた。
島の外、雲の間を縫うように進む二つの影。
一人は白い仮面の男――ゲルニカ。
もう一人は、風の渦そのもののような存在――テンペスト。
「目標B-07、ブライドベールにて確認」
ゲルニカの低い声が、貝殻を通して響く。
「任務を開始する。彼女を回収……もしくは、消去だ」
テンペストは無言で頷いた。
彼の足元から吹き上がる風が、海面を切り裂く。
嵐が、再び目を覚ます。
そして、静かな灯台の上で、レゼは月を見上げていた。
胸元の奥が熱い。サンジの言葉が、まだ消えない。
――“死んでも女は蹴らん”
その熱は、いつか爆発へと変わる。
彼女自身も、まだ知らないまま。