夜が明けきらぬブライドベールの空は、どこかざらついていた。
波は凪ぎ、風は止み、空気がぬめるように重い。
サウザンドサニー号の甲板では、誰もが異変を感じていた。
「……妙だな」ゾロが呟く。
「空気が息してねぇ」ナミが眉をしかめる。
ロビンが風見を見上げた。「風が……逆流している」
サンジは煙草の火を弾き、灰を落とした。
「嫌な予感がするな。こいつは――“嵐の前”だ」
その言葉と同時に、空が裂けた。
轟音。風が怒り狂うように吹き荒れ、空間が歪む。
雷ではない――空そのものが爆ぜた。
「くるぞ!」ルフィが叫ぶ。
その瞬間、空から降りてきたのは一陣の暴風だった。
人の形をしている。白い仮面、黒いスーツ、空気の衣。
――サイファーポール“イージスゼロ”所属、テンペスト。
「対象B-07、反逆者レゼ。確保または消去を命ずる」
機械のように冷たい声が海面を震わせた。
サンジの背中で、レゼが小さく息を呑む。
「やっぱり来たのね……」
「知ってたのか?」
「ええ。あれは、私を作った人たちの手だもの」
彼女の指先が震える。
“ぱちり”――静電気のような音。
空気がわずかに焦げた。
「ボムボムの実……」ロビンが呟く。
だがサンジは彼女を見ずに前を見た。
「おい、あんたはもう“兵器”じゃねぇ。生きてる女だ。俺がそう呼んでやる」
レゼは唇を噛んだ。
「……そんなふうに言わないで。壊れちゃう」
「壊れるなら、俺が抱きしめて直す」
テンペストの目がわずかに動いた。
「情緒的反応、確認。兵器B-07、制御不能と判断。――排除開始。」
風が吠えた。
大気そのものが刃に変わり、海を切り裂く。
波が巻き上がり、サニー号が軋む。
ゾロが剣を抜き、ルフィが腕を伸ばそうとするが、サンジが制した。
「手ぇ出すな。こいつは……俺がやる」
◇
テンペストの拳が振るわれた瞬間、風圧だけで樹々が消し飛ぶ。
サンジはレゼを抱えて飛び退く。
足元の岩が粉々に砕け、風が血のように唸る。
「無駄だ」テンペストの声が重なる。「風は形を持たぬ。掴めぬものに抗うな」
サンジは口元を歪める。「掴めねぇ風でも、女を泣かす音くらいは聞こえるんだよ」
テンペストが再び腕を振る。
“ゲイル・スラッシュ”――空間が裂ける。
サンジはそれを避けず、身体で受けた。
風が頬を切り、血が滲む。
だが彼の足は、一歩も退かない。
「……なんで、戦わないの?」レゼが叫ぶ。
「俺は、死んでも女は蹴らん」
「でも、このままじゃ――!」
「構わねぇ。女を守れりゃ、それで充分だ」
テンペストが冷笑した。
「愚かだな。風は常に流れ、過去を残さない。お前のような“停滞”は、いずれ腐る。」
「風は流れる。……だが、香りは残るもんだぜ」
サンジは口元に笑みを浮かべた。
「俺の火が消えるまでな」
◇
レゼがサンジの背で震えていた。
テンペストの風が肌を切り裂くたび、サンジの血が温かく流れる。
それでも彼は、ただ防ぐ。
レゼを一歩も傷つけないように。
「やめて……お願い、もう……!」
「やめるのはお前じゃねぇ。風の方だ」
サンジの言葉が、嵐の中でも穏やかに響く。
レゼの目が揺れる。
彼の背に残る無数の傷が、まるで誰かを守るために刻まれた“勲章”のように見えた。
彼女は震える唇を噛みしめ、目を閉じた。
「……ごめん。私、あなたを騙してた」
「知ってたさ」
サンジが穏やかに笑う。「でも、笑ってくれただろ。それで十分だ」
レゼの胸に、何かが灯る。
それは、感情という名の起爆装置。
◇
「――“覚醒”を確認。」テンペストの声が低く響く。
レゼの髪が逆立ち、空気が震えた。
爆弾の悪魔が目を覚ますように、身体の内側から熱が噴き出す。
周囲の酸素が一気に燃え上がり、空間が紅蓮に染まる。
「やめろレゼ!」サンジが叫ぶ。「そんな力、使うな!」
「違うの……これは、私じゃ止められない!」
涙が頬を伝う。その雫すら、熱で蒸発する。
彼女が手を掲げる。
“零距離恋爆(ゼロレンジ・ラブ)”。
テンペストが風を纏う。「爆発は風で消える。」
「なら――吹き飛ばしてみせて!」
轟音。
風と炎が衝突し、空間が白に塗り潰される。
爆風が空を裂き、地平線が見えなくなる。
その中心で、サンジはレゼを抱きしめた。
炎の渦の中で、彼の声がかすかに響く。
「……怖がるな。爆発してもいい。
俺が、お前の全部、受け止めてやる」
レゼは嗚咽を漏らしながら、彼の胸に顔を埋めた。
「そんなの、馬鹿よ……」
「馬鹿でいい。惚れた女の爆発くらい、抱きしめて死ねりゃ本望だ」
光が、爆ぜた。
◇
テンペストの風が止む。
灰色の空が裂け、静寂が戻る。
そこには、焼け焦げた大地と、一人の男の背中だけがあった。
サンジが膝をつき、焦げた手で何かを抱えている。
それはもう、形を保たないほどに光を失っていた。
レゼの髪の先が、風にほどけて消えていく。
サンジはそっとその頬を撫でた。
「……火は、消えねぇよ。お前が笑ってた分だけ、俺の中で燃えてる」
彼女の唇がかすかに動く。
「あなたの……火、あたたかかった……」
風が吹いた。
爆風の残滓が舞い、赤い花びらのように空へ消えた。
――その時、遠くの海の上で、一陣の風が生まれた。
ゲルニカのコートがはためく。
「テンペストがやられたか……」
仮面の下で、彼の瞳が一瞬だけ揺れた。
「レゼ……任務を忘れるなよ。恋は、ただの欠陥だ」
彼の言葉に応えるように、遠くの空で“ぱちり”と火花が散った。