朝の海は、嘘みたいに静かだった。
嵐の唸りも、爆炎の名残も、いまは潮騒に溶けている。
ブライドベールの岸辺に残されたのは、焼け焦げた同心円の痕と、足跡が少し――風がそれらを、ゆっくり、何もなかったみたいに撫でて消していく。
サンジはひとり灯台の前に立ち、指先で銀色のジッポーを転がした。
背後に近づく足音。ゾロだ。声はかけない。ただ並び、同じ海を見た。
「……風が戻ったな」
「おう」ゾロは酒瓶を差し出す。「飲むか」
「ひと口だけ」
喉を熱が滑り落ちる。サンジは目を閉じ、浅く息を吐いた。
「苦ぇな」
「涙の味だ」
「らしくねぇ比喩だな」
「お前のせいで、俺まで気取っちまう」
二人のあいだに漂った沈黙は、軽かった。
ゾロが戻ると入れ替わるように、チョッパーが駆けてきて小さな包帯を差し出した。
「腕、これ以上は縫わない方がいい。……ごめん、ぼく――」
「謝るな、ドクター。お前は充分やってくれた」
サンジの笑顔に、チョッパーは鼻を啜って頷く。
ナミとロビンは崖の縁で風を読む。
「気圧が安定してきた。島の地盤は崩れる前に離れたほうがいいわ」
「ええ。ここは“止まった風”を無理やり動かしていた場所。ほどければ、ただの荒地になる」
ウソップとフランキーはサニーの甲板を点検し、ブルックが短い鎮魂歌を弾いた。
曲は途中で途切れ、余韻だけが空を漂う。
◇
出航の準備が整うころ、サンジは灯台の扉に目をやった。
古びた蝶番が、最後に「もう大丈夫だ」と言うみたいに鳴って閉じる。
そこに彼女はもういない。けれど、匂いは残っていた。
焦げた花の匂い。火薬が笑い声に変わる直前の、甘さ。
甲板に戻ると、ルフィが肉を半分差し出した。
「半分やる」
「半分はやらねぇよ」
「じゃ、ひと口」
サンジは笑って、ひと口だけ噛んだ。
塩気が舌を叩き、胃が生きていることを思い出す。
「なぁサンジ」ルフィが空を見上げる。「お前、笑ってねぇと似合わねぇぞ」
「……もう少し風があったまったらな」
「じゃ、出すか。新しい風」
ルフィはいつもの顔で、いつもの声で言った。
「サニー号、進めー!」
帆が鳴り、海が道になる。
サンジは艫に立って、遠ざかる島影を見送った。
◇
昼過ぎ。
ナミが新聞を広げ、眉を寄せる。
「“極秘報告”だって。……珍しく流出ね」
紙面の隅に短い文。無機質な行が、事実だけを並べている。
【報告】対象B-07 排除完了。
被害:風災(テンペスト)死亡、島域機能停止。
備考:遺体未確認。現場に火薬反応、風痕消失。
ウソップが覗き込み、顔をしかめる。「相変わらず、血の味のしねぇ文字だな」
ロビンは唇だけで笑った。「だから記録は、書かれないことの方が多いのよ」
ルフィは親指で胸を叩く。「遺体未確認。……じゃ、生きてる可能性あるな!」
「根拠は?」
「勘!」
サンジは新聞から視線を外し、ジッポーの蓋を鳴らした。カチン。
ちいさな火が生まれて、風に撫でられ、消える。
また点ける。今度は長く揺れた。
「……さぁな」
サンジは薄く笑う。「けど、風に匂いが混じってる。あいつの火薬と――笑い声の匂いだ」
ナミが少しだけ、目を潤ませる。「ロマンチスト」
「コックはな、舌と鼻で世界を信じる職業なんでね」
◇
午後、空がうすく割れ、陽が差した。
ハートの形をした雲の切れ間が、帆影の上に落ちる。
チョッパーが跳ねる。「見て! ハート!」
ウソップが胸を張る。「俺の必殺・ハート雲呼び寄せ……」
「今考えたろ」サンジが即ツッコミを入れる。
笑い声が甲板を走った。
その真ん中で、サンジは誰にも見えない高さにジッポーを掲げ、短く火を点す。
オレンジの舌が一瞬、風に口づけて――“ぱちり”。
火花が空へ跳ね、消えた跡に、生ぬるい幸福が残る。
(なぁ、見てるか)
(お前が好きだった世界は、ちゃんと飯の匂いがするぜ)
(朝はコーヒー、昼は潮、夜はラム。間に花と火薬と、笑い声)
声には出さない。風は、黙って運ぶのがいい。
◇
夕刻。
ゾロが剣を磨く手を止め、横目でサンジを見る。
「で、あの仮面の男は?」
「ゲルニカ」
「斬らねぇのか」
「斬る理由がねぇ。あいつは“仮面”だった」
「顔を見てねぇのに、そう言い切るのか」
「顔は関係ねぇよ。仮面ってのは“心の置き場所”のことだろ」
ゾロは鼻を鳴らし、酒をあおる。「ややこしいこと言いやがる」
「お前は単純で羨ましい」
「お前は面倒くせぇが――まぁ、嫌いじゃねぇ」
二人は同時にふっと笑い、視線を海に戻した。
甲板の中央では、ルフィが大声で次の飯を要求し、ウソップとチョッパーが“レゼが好きそうなデザート”を勝手に議論している。
フランキーは厨房のオーブンに小さな改造を施し、ブルックは穏やかなワルツを奏で、ロビンは風の頁をめくるみたいに本を閉じた。
日常が戻ってきた。
けれど、何かが増えてもいる。
――風が甘い。少しだけ。
◇
夜。
星は潮で滲み、月は刃を納めたみたいに丸い。
サンジは厨房の小窓に腰を掛け、コーヒーを煮た。
深く、苦く、けれど優しい香り。
カップの縁から立ちのぼる湯気が、火薬の粒と混ざって鼻孔をくすぐる。
「……乾杯だ。爆恋のレディ」
窓の外にカップを掲げ、ジッポーをカチンと鳴らす。
炎が、夜風に一度だけ大きく揺れて“ぱちり”。
その光は、すぐに消えた。
でも、消えないものがある。
舌の上に、胸の奥に、船の匂いの中に。
(女は蹴らん。死んでもな)
(守らせてくれて、ありがとな)
火を閉じる。暗闇は、温かい。
◇
そのころ、遠いどこかの波打ち際。
白い仮面が、海霧の中に佇んでいた。
ゲルニカは海図を閉じ、ただ、風を聞いている。
仮面は外れない。外さない。
諜報員の“存在”は、素顔よりも任務にあるからだ。
貝の通信具が小さく震えた。
「報告、受領。戻れ」
「任務、完了」
短く答えて通信を切る。
仮面の奥で、呼吸が一度だけ乱れ――風がそれを、なかったことにした。
足跡は波にさらわれ、ただ風だけが残る。
◇
明け方、甲板に一番乗りしたのはルフィだった。
空は白んで、雲は新しい形を探している。
ルフィは大きく伸びをして笑う。
「おーい、サンジ! 腹減った!」
「はいはい、ただいま」
サンジは鍋を振り上げ、香りを船いっぱいに広げた。
バターとハーブと、わずかな焦げ――“恋の匂い”は、今日の朝も温かい。
船が進む。
帆が張る。
風が笑う。
空の高いところで、雲がハートの輪郭をつくっては、照れくさそうに崩れた。