【完結済・続編計画中】されど悪役令嬢は斬り結ぶ 作:野太刀あきら
彼女はわずかに微笑んで、鏡――プレインズドーンの淡い光を背に立った。
「私がこちらの世界に戻ったことで、向こうで展開していた転移魔法システムは完了した。
この世界は、あなたたちが切り拓いた“今の状態”で上書きされたわ」
「上書き……?」モブロックが首を傾げる。
「安心していいわ」
クリス――白淵は、やさしく言葉を継いだ。
「私がこの世界に戻ってきた瞬間、確かなビジョンが見えたの」
その瞳は、以前の彼女とは違う、底知れぬ光を湛えていた。
「私の“先見の力”は、かつての私よりも遥かに高まっている……
この世界の“未来”までも、少しだけ垣間見えたのよ」
「どういうこと……?」とモブロックが問う。
クリスはそっと瞳を閉じた。
その表情は穏やかで、けれど、どこか寂しげだった。
「私が見たビジョンでは、私たちは――影の怪物、昏人(クラウド)の大本を破壊していたわ。
だから大丈夫。この世界は救える。いいえ――必ず救ってみせる」
そう言って彼女は微笑んだ。
その言葉に、私は胸の奥にわずかな温かさを感じた。
長い長い闘いの果てに、ようやく見えた「希望」。
「この世界のことは、もう大丈夫よ」
クリスの声は柔らかかった。
「だから――安心して元の世界に帰っていいのよ」
「か、帰れるの!?」
「ええ、この世界を救ってくれて感謝しているわ」
モブロックが安堵の息をつくのがわかった。
「……帰れるんだな」と、小さくつぶやくその声に、私は微笑を浮かべ――そして、静かに首を振った。
「いいえ」
二人の視線が私に向く。
私はまっすぐ、彼らを見据えた。
「私は――この世界に残ります」
「えっ!?」
モブロックが思わず声を上げる。
私はその驚きの表情を見ながら、胸の奥で覚悟を決めた。
◇
「……理由を教えてもらえるかしら?」
クリスが静かに問いかけた。
私は一度、目を閉じ、深く息を整えた。
長く繰り返してきた日々の記憶が、静かな水面のように胸の底から広がっていく。
「私は――この世界で、何度もこの一月を繰り返しました」
その言葉を口にすると、これまで出会った人々の顔が思い浮かんだ。
絶望も、希望も、彼らの姿と共にあった。
「その中で、本当にたくさんの人たちに出会いました」
懐かしむように微笑みながら、私は一人ひとりの名を挙げていく。
「私を信じてくれたエーデルハルト公爵。
剣を教えてくれたセドリック・モルデン。
西辺のウィンザー家の人々。
冒険者として共に戦ったカイル」
「……それに」
一拍置いて、私は息を飲む。
「私が――何度も手にかけてしまった、アレクシス」
モブロックが息を詰まらせる気配がした。
けれど私は、目を逸らさなかった。
「私は、あちらの世界で生きていた時間よりも、こちら側の世界で過ごした時間の方が長いのです」
言葉を静かに重ねながら、心の奥に灯る確信を確かめる。
「そして……もう一人、忘れてはいけない存在がいますわ」
クリスがわずかに眉をひそめる。
「それは、“本来のリリアナ”。この身体の、本当の持ち主です」
私は彼女たちを見渡しながら、まっすぐに言葉を放った。
「私は、この世界でリリアナ・フォン・エーデルハルトとして生きてきました。
彼女の人生を借りて、彼女の名で歩んできた。
だからこそ――この世界に残り、この世界を守りたいのです」
声が自然と強くなる。
「いつか彼女が戻ってきたとき、安心して暮らせるように。
この国に生きる人々が、もう一度未来を信じられるように。
そのために、私も共に戦わせてほしい」
そう告げると、胸の奥で静かな炎が灯るのを感じた。
それは迷いのない意志――
この世界を生きる、“リリアナ・フォン・エーデルハルト”としての決意だった。
◇
クリスは静かに微笑み、私をまっすぐに見つめた。
「ありがとう」
その言葉は穏やかで――けれど、どこか切なさを含んでいた。
「私たちのこの世界を案じてくれて、本当に嬉しいわ」
少しだけ、胸が熱くなる。
私は思わず目をそらし、ほんの少し照れくさく笑った。
だが――そのとき。
クリスはゆっくりと首を横に振った。
「でも、それはできないの」
「……え?」
思わず問い返した。
彼女の声音には、拒絶というよりも、深い哀しみが滲んでいた。
「本当は気づいているのでしょう?」
その言葉に、私は息を呑む。
「あなたの心は、すでに元の世界……“日本”のあなたへと戻り始めているのよ」
「――っ!」
突然、視界が揺らいだ。
地面が波打つように歪み、体の輪郭がぼやけていく。
「モブロック……!?」
隣で、モブロックが膝をついていた。
「……っ、なんだ……これ……」
ふわりと身体が浮かぶような感覚。
意識がどこか遠くへ引き剝がされていく。
「あなたたちは――異邦人」
遠くで、クリスの声が響いた。
その声は、まるで夢の中で聞くように淡く、けれど確かに届いていた。
「この世界のことは、私たちに任せてちょうだい。
きっと、この世界を救ってみせるから」
視界が白く滲む。
――悔しい。
ようやく、この世界に残る理由を見つけたのに。
ここで戦い続けようと決めたばかりだったのに。
だが。
私は唇を噛み、そして顔を上げた。
「……ふふっ」
自分でも驚くほど、自然に笑みがこぼれた。
いつものように、少しだけ挑発的に。
「仕方ありませんわね」
静かに息を吐き、私はクリスを見据えた。
「――せいぜい、うまくやってくださいな」
クリスが微笑み、そっと頷いた。
その表情は、かつて敵として対峙したときよりも、ずっと穏やかだった。
モブロックが霞む視界の中で私を見て、何かを言おうと口を開いた。
けれど、その声はもう届かない。
すべてが光に溶けていく。
形も、音も、時間も。
――そして私は、真っ白な光の中へと包まれていった。
◇
白い光の中に、意識が漂っていた。
どこまでも続く、音のない世界。
温度も感覚もなく、ただ自分の存在だけが、ふわふわと浮かんでいる。
――そのとき、声がした。
「まったく……よくも人の身体を好き勝手に使ってくれましたわね」
その声を聞いた瞬間、僕はハッとして振り返った。
そこに立っていたのは――僕自身。
いや、本来のリリアナだった。
金髪の縦ロールが光を反射して揺れている。
華やかで整った顔立ち、青い瞳には、見事に「不機嫌」という感情が滲んでいた。
「……ああ、ついに出てきたか」
気づけば、僕は自然と、こちらに転移する前の口調に戻っていた。
もう“彼女”のふりをする必要はない。
リリアナ――本物の方が、少しあきれたように微笑んだ。
「こうして話すのは、はじめまして、ですわね」