■1995/2/2
「よぉし、悩める青少年たるもの身投げだろ。湖があるし、大イカのエサになるのも悪くないよね!」
レイはネガティブフルスロットルで湖へと向かった。どうしてこんなことになったかというのは、驚くほど単純な話だ。彼の親友たるユウトと人生初めての大喧嘩をしたのである。
そもそもこの男、恐ろしく内向的で交友関係が猫の額ほど狭い。英語が苦手、という理由があるといえどそれにしたってである。学校内で彼がきちんと友人と呼んでいるのはたったの二人であった。
そのうちで特に懇意にしている男と正面切っての喧嘩をしてしまったのである。彼からしてみればもはや世界の終わりに等しかった。
「身投げ……太宰もそうだから、文学青年としては正しい思考。俺文学青年じゃねぇけど」
けらけらり。すべてがどうでもいい。人生をこじらせているから、友達との仲直りの方法なんて知らない。
だったら、いっそ遠く遠くへ逃げてしまえばいい。もうそんな気分でしかなかった。この男は信じられないほど視野が狭いのである。
靴を脱いで丁寧にそろえる。あれ、これは飛び降りの作法?そんな風に思ったけれど、それもどうでもいい。つま先の冷たさを感じて一歩一歩湖に踏み込んだ。季節は真冬、なのに冷たさは感じなかった。
普段であればなんだかんだ賑わっている湖も今日に限って誰もいなかった。誰かのウキウキピクニック中の背景としてシトシト入水というわけにもいかないので絶好の日和である。
誘われるようにのんびりのんびり足を進める。死んでもいいと思えるほどの絶望は確かに彼の身を蝕んでいた。
生まれ変わったらニフラーになりたい。可愛いし、悪くない来世……。
そんなことを考えていたレイが湖に頭の先まで漬かろうかという時、ものすごい力で釣り上げられた。
「おびやぁ!?」
ぴったびたに濡れた体が風を切ると泣きたいくらい寒い。状況の理解もできずレイが目を白黒させていると、あっという間に制服は乾き、柔らかな草地の上に座っていた。突然のことにレイの頭は追いつかない。
「えっと、間違いだったり、研究のためだっていうのなら本当にごめん。僕の早とちりだ。でも制服着たまま水泳したいってことない、よね?」
レイが声の主を見やればそこに佇むミスターハッフルパフ。品行方正に関しては天下一品と名高いセドリックディゴリーである。無論、自分と彼の間に面識などない。
レイはその言葉が正しいか分からないがありがとう、とだけ伝えるとそれきり口をつぐんでしまった。学校の人気者と何を話したらいいかなんてちっともわからなかったし、ペラペラ言葉を紡げるようなら人見知りなんて難儀な職業についていない。
「他寮の後輩にまでおせっかい、だったよね。その点は本当にごめん。でも、さすがにほら、寝覚めが悪いだろ。もし君が明日、その、湖に浮かんでたなんてニュースを耳にしたら」
彼の顔を見ればこちらの負担を少しでも減らそうというのがわかった。自分のためだと言っている口元は困惑の方が強そうである。この世界からの早期離脱を決め込んだ相手のことが理解できないのだろう。絶対絶望とかしたことないタイプだ。本当におせっかいなことである。どうにもこうにもこの人間は超がつくほどイイヤツらしい。レイの苦手な人種だ。
「なんで、後輩だと?」
「日本人って少ないだろ。だから覚えてた」
「うちの学校何人かいるじゃん」
「一学年に何人かまとまってたし。たまたま覚えてただけだよ」
セドリックはそんなことを言いながら、こちらにキャンディーを差し出した。スリザリンのはみ出し者相手にずいぶんと優しい聖人君子ぶりである。
とはいえ、レイの家の家訓で食べ物をくれる人は押しなべて神様、というものがあるのでレイはにっこり受け取っておいた。単純に甘いものが好き、だというのも勿論あったが。
「ハニデュの新作じゃん、飴なのにサクサクでうまぁ……」
「それ美味しいよね。僕も好きなんだ」
白とオレンジのシマシマキャンディーは薄い飴が何層にも重なっており、さくさくと歯触りが良い。ついかみ砕きたくなる食感である。
また、味わいも柑橘にミルクでさわやかながらも優しく何とも言えぬ甘酸っぱさが口いっぱいに広がるのだ。一つ食べたらあと二つは食べたい、後を引く風味があった。
「飴、ありがとう。ディゴリー先輩」
「先輩、か珍しい敬称を使うんだね」
セドリックが不思議そうな顔をしたためレイは気づく。たしかに、学校において先達に対して使う敬称というのは英語圏ではなかなかない。とても日本的な感性である。癖、というか。学校の先輩はそう呼ぶと無意識レベルで思っている純日本人感性であるが、レイはこれを曲げる気などなかった。
「日本ではそう呼ぶんだよ、スリザリンで誰かを先輩って呼ぶことあんまないけど」
いかんせん、スリザリンに組み分けされたがレイはイギリス魔法界からすれば奇妙なストレンジャー。社交はあっても信頼や親愛はないのだ。彼らの感性でいうところの純血でそれなりに実家の太い人間であるが、日本に帰ればごく一般的な中流階級出身者である。
「親切にされたら正しく敬う。これが鉄則」
レイの日本人にしては明るい瞳に光が戻る。とりあえず、死んでしまおうという衝動はなくなったらしい。セドリックはそれに安堵した。
元はといえば二つ目の課題について一人考えようと思い、湖まで散歩に出てきただけなのである。巻き込まれるつもりはなかったが、ある意味では気晴らしになった。人というのは思いがけないものを見ると思考がそちらに向くものだ。特に、生き死にがかかったようなもの見過ごすわけにはいかなかった。それが彼という男である。
レイがたとえ別の誰かだったとしてもセドリックは止めただろう。その程度の巡り合わせだった。
だから、この段階でレイのことを放っておいて自分の抱える問題に戻ったって良かったのである。
それでも、長らく【いい人】をやってきたセドリックは人より少し首を突っ込みすぎるきらいがあった。
「君の場合直球で聞いたほうがよさそうだ。どうしてこんなことを?」
「えっ!あ!聞く!?聞いちゃう!?ディゴリー先輩」
かなり冷静になったレイは気恥ずかしさからローブの中に引っ込んだ。こういう時に布量たっぷりの制服は有用だ。穴を掘る手間が省ける。
精神異常をきたしていた瞬間の心理説明はダジャレの説明をさせられることと同じくらい恥ずかしいものである。自殺に失敗した太宰もこんなだったのかしらん、とレイはローブの中で顔を覆った。
しかしながら、助けてくれた人間の手前、ネタばらしをしないわけにもいかない。ひねくれた性格をしている者の、ここで嘘をつけるような人間ではなかった。
それに、だ。ミスター聖人君子にであれば話してもいいかなと思えた。それがセドリックがセドリックたる所以でもある。この人好きする美形は自然に人の心に入り込んでくるのだ。それはガードが硬すぎるレイにも有効だった。
「友達と喧嘩した」
「そうなんだ」
「俺別に、英語うまくないし、スリザリンって仲間意識が強いから、よそ者はよそ者なんだよ、どこまで行っても。それはね、正しいと思ってるからいいんだ。実際俺もびっくりするくらい狭く深くしか人間と付き合えない。排斥されてるとかじゃなくてみんな貴族だからよくはしてくれるんだよ。ドラコとかすっごいよ。完全にこっちを客人接待してくれる。お歳暮、っていわないね。クリスマスにたっかそうなクッキー缶とかくれるんだからもう、俺あいつ好き」
「君は食べ物くれれば何でもいいのか」
「食い物くれる奴は神様」
「そう……」
英語が下手って言う割によく話すなぁ、最初の印象と違う。そんな風にセドリックすら思ってしまうが、これが彼の本来の姿だ。多少気を許すと恐ろしく口数が多い。
彼のおしゃべりはまだ止まる気配がないのでセドリックは聞き役に徹することにした。
「人生で初めて、友達と喧嘩したんだ。レイブンクローのやつ。あいつ頑固だし言い出したらてこでも聞かないから。ほんとはね、俺が引けばよかったんだけど、それができない日ってあるじゃん。それ。まさにそれ。謝ろうかな、って思ってもあいつの顔見るとむかっ腹たっちゃう。じゃあもういいじゃん?しんじゃおって思いました。助けてくれてありがとうディゴリー先輩。それじゃあまたね。ぐっばい、」
すっくと立ちあがり何事もなかったかのように立ち去ろうとするのでセドリックは彼の制服を引いた。さすがになかったことにしてやるのは無理すぎる。いくなんでも繊細過ぎやしないかきみ、と言ってやりたくなったのだ。
「一回座ろうか」
「二回目になるんで、」
「さっきのキャンディー、まだあるけど」
「……」
「……」
「いただきます」
「ほんとにそれでいいの?誘拐とかされない?」
おとなしく隣に座りなおした彼にキャンディーを与える。ごく不思議な感覚なのだが、なんだか放っておけなくなり始めた。それは彼の見た目がかなり幼く見えることも影響しているのかもしれない。セドリックの体感では新入生にしか見えないのだ。確か、一個下のはずなのだけれど。
「君の悩みを聞いたから、僕の悩みも聞いてくれない?」
「ディゴリー先輩。それは相談相手間違っていると思うのですが」
「急に敬語にならないでくれ。君の持ってる他人との距離感が分からなくなる」
「人との距離感がちゃんとつかめる人間だったのなら俺は今頃ディゴリー先輩としゃべってないよ」
「ややこしい子だな」
「よく言われます」
レイが飴をかみ砕き始めたのでセドリックは追加でもう一つ彼の掌に載せてやった。ダンブルドアくらいキラキラした目で飴を見つめている後輩にセドリックは一方的に悩みを相談し始める。
彼の気を引こう、みたいな心がけではなかった。ただ、さっきまで自分の世界に無関係だった変わった少年であるからこそ話せる内容だっただけだ。
自分に期待を寄せている寮生や親ではない。かといって敵対しているわけでもない、何でもないすれ違いをしただけの彼であれば弱音の一つも吐き出せるだろう。そんな風に思ったのである。
「これなんだ」
「ドラゴンの卵?」
「そう。第一の課題で手に入れたこれ。開くと悲鳴が聞こえる」
「こっわ、呪いの卵?」
レイは置かれた卵から距離をとる。金色で美しいのがまた恐怖をあおる気がしたのだ。人が手を伸ばしやすいように美しく飾られた闇のアイテムというのはこの世にごまんとある。もっとも、学校行事において学生にそれが流れるなんてことはないと思うが。
「触ると自分が金になるとか、ある?」
「ないない。僕が柔らかいのが何よりの証拠」
「それは先輩が代表選手だからでは」
「あー、あるかも。触ってみる?」
ちょっぴり新鮮な反応を面白がるようなそぶりでセドリックはレイに卵を近づけた。興味はあるがおっかない。そこまでの蛮勇は持ち合わせていないレイは首を素早く横に振る。
「とっても遠慮しておきます」
「脅かした僕が悪かったよ。ごめんね。そんなに怖いものじゃないから安心してほしい」
僕の友達もこぞって触ってたけど何ともなってないし、誰一人として医務室には運ばれてないよ。グリフィンドールからもそんな話は聞いてない、とセドリックがフォローすればようやくレイの身の硬さはなくなった。呼吸手段のないダイビングを楽しもうとしていた割に小心者のようである。
「本題じゃないところで脅かして悪かったよ、ごめんね」
「えぇ、あぁ、はい、本題じゃないんですね」
そう。この卵の問題は外装ではないのだ。むしろ中身にこそある。セドリックは手の中に卵を抱えてため息をついた。
「何かのギミックがあるんだと思うんだけどね。ちっともひらめかないんだ。これをどうすればいいか」
「はっはっは!ディゴリー先輩でひらめかないのに俺がわかるって思ってます?」
友達と喧嘩しただけで死のうとする俺ですよ。レイはなぜか得意げに胸を張った。数分おきに情緒があっちゃこっちゃ走っていくのは彼の性質かもしれない。どちらにせよ少しややこしい子と関わったしまったようである。
セドリックはなんと返すのが正解か測りかねて一旦曖昧に笑っておいた。
「俺に魔法の卵のことなんかわかるわけないでしょ」
「でも、こういうのは数打つのも大切だと思うんだ」
もしよかったら一緒に見てくれないかな。そう誘われてしまった。今のレイはセドリックに命を救われた、という人生最大級の恩がある状態である。まかり間違っても嫌ですとは言えなかった。
「いい、ですけど。鼻はともかく耳には自信ないんでお役に立てるか分かりませんよ?」
「どんなこともチャレンジしてみなくちゃ分からないからね」
「知らなくていいことって人生あんまりないらしいですし、これもまた、チャレンジってことですね。はい、いつでもどうぞ……」
「ありがとう。今からかなりうるさくなるから少しだけ聞こえるように耳をふさいでてね」
セドリックが卵のつまみをひねると大音量で流れ出す、悲鳴とも金切声とも取れない音。耳どころか目さえ瞑りたくなるような圧倒的な音波。己も耳をふさいで何とかやり過ごしたセドリックは再度卵を閉める。
なんだか繊細な彼が気絶してはいやしないかと見やればきょとんとしているではないか。
「悲鳴?」
「聞こえなかった?」
疑問に疑問で返すことは推奨されない行為だが、自分と彼とであまりに反応が違うので仕方がないことだろう。かなりの人数と検討を続けたのだが誰しも聞こえているものは同じだったはずだ。
「普通に、言葉として認識できた、よ、うん」
「えっ、本当に?」
レイはセドリックと自分間にある差異のことを考える。年齢?いいやそれは違うだろう。セドリックのことだ。寮で皆にせがまれてこれを披露したに違いない。それでも問題は解決しなかった。であればその線で考えるのは間違っている。では一体何が。
「あ……!」
レイは片耳を下にして耳奥に詰まった水を抜いた。後で綿棒、なんて思っていたが、もしかするとこれなのではないか。
「ディゴリー先輩。もう一回、卵開いてもらっても?」
「わかった」
開かれた卵。聞こえる言葉の左右差。音とはすなわち波である。水の中で聞くのに最適な音波は陸上のそれとは違うのだ。
「これは面白い感覚だから先輩は先輩で面白がったほうがいい。多分、水中でのみ意味を成す言葉なんだよこれ。セイレーンとかマーピープルの言葉なんじゃないかな、たぶんね。だから、耳に水を入れる、かこいつをお風呂に入れてやるか。そんな二択なんだけど、先輩はそれできる人?」
にんまり笑った、いたずらな顔。それがセドリックとこの変わった後輩との出会いだった。