【一年生】ハニーホットミルク
間違いだったのだ。英語も上手じゃないのに、こんなところに来たのは。入学して一か月。眠れずにベッドから出たレイは談話室まで下りてきていた。時計を確認すれば深夜三時。さすがにどんな上級生もこんな時間に談話室にはいないらしい。
別に、ベッドで泣いていてもよかった。きっと誰もかれも見て見ぬふりをしてくれるだろうから。新入生にはよくあること、らしいし。
水面に映った月光はスリザリンの談話室を湖の緑に染めていた。
この談話室は湖の下にある。ゆえに、すべての光は水によって漉され、なめらかになってここへ降り注ぐのだ。滑らかに揺らめくその淡緑の波は見ているだけでもレイの心を慰める。
蝋燭一本の暖かささえない海の底。ほの暗くも寄り添ってくれる光。一人ぼっちが恐ろしくてもレイはこの場所を嫌いになれない。
ただ一人、限りなく透明になったこの身にも反射するプリズム。談話室の隅っこ。ここははみ出してしまった自分の領地。
大きなガラス窓に目をやればときおり輝く魚の鱗。この湖にはどんな生き物がいるんだろう。やっぱり英語をしゃべるんだろうか。それとも、魚の世界には魚にしか聞こえない声があってそれで仲間と呼びあっているのだろうか。
「いいなぁ、」
日本に帰ったって友達なんかろくすっぽいない自分だ。どこに居たって一緒だというのはわかっている。英語をろくに話せもしないのに、どうしてイギリスに来たんだろう。後悔が押し寄せるけれど、これを選び取ったのは紛れもなく自分だ。
レイの家は祖父の代になりあがった商家だ。マグルの富裕層から魔法貴族まで。ハセオ家は彼らに趣味の品を売っている。仕立てよく見目も美しい喫煙具、というのは各所で需要があるのだ。
祖父はレイを跡取りとしてしっかりと育てあげようとした。魔法はもちろん帝王学に経済学。一流の家庭教師をつけて、できる限りを詰め込もうと。
ただ、それはレイには合わなかったのである。興味の向かないことには恐ろしく無関心。内向的で泣き虫。その上、典型的なオタク気質。生まれ持った素質がそうであった以上、矯正はできない。レイの部屋には物語と図鑑が積み上げられていた。
であれば、とレイの祖父は社交の名のもとに様々な場所へ連れ歩いた。けれどそれも上手くいかない。子供に混ざることもできないような性格だ。大人に混ざることなんてもってのほか。商家の長男坊として期待される働きなんて一つもできやしなかった。
それでも。彼の両親はレイをそれでいいと育てた。できることがあるのは素晴らしいこと。少々成長が遅いけれど、男の子なんてそんなものだ、と。
数年後に生まれた妹が、母の腹に忘れてきたレイの社交性も全部持って生まれてきたので祖父母もレイには干渉しなくなった。それでも、孫としては可愛いのだろう。彼が思うように生きるための援助は惜しまなかった。
だからこそ。留学生としてホグワーツに行くか、はたまた日本の子供らしくマホウドコロに行くかと彼が悩んだ時にさらりと渡航費用を準備してくれたのである。
レイの一番好きな物語はピーターパン。その物語への扉が目の前に出てきたとき。レイは躊躇をしなかった。何とかなるはず、という子供らしい無責任な自信があったから。誰も自分を知らぬ異国という甘い誘惑。一人ぼっちなら同じことだと思ったのだ。
それに、唯一レイが英国魔法界で話すことができるマルフォイ家のドラコも来年入学予定だという。珍しく父の目がそういった意味でレイに向いたのもあった。
商売は、広く浅く。その中でも特別な相手とは深くが鉄則である。レイの父はマルフォイ家との繋がりを重要視していたのだ。
それでも。物語の世界だけが、レイのすべてだった。この世界の中に入りたいと思った扉。それが目の前に現れて、手を伸ばしたことを間違いだとは思いたくない。けれど。
「どこに行けばいいんだろう」
厳しくも優しい両親。社交的で可愛い妹。留学を決めた時も笑って送り出してくれた。悪意なんてない、間違いなく素晴らしい家族。そこから逃げ出したのは自分だし、帰りたいと泣くのは間違っている。
同じ全寮制だったら言葉の通じるマホウドコロへ行っておけばよかったのか。でも、きっとどこでも変わらない。だって、自分が悪いんだから。
「死ぬときには魚になろうかな」
きらきら淡くひかる窓。ぞっとするほど冷たいガラス。指先から体温が流れ出てしまう。そんな感覚に陥る。寒いのにふわふわと心が浮足立つ。なんだか心地よくてぼうっとしてきた。
「ハセオ」
「っ!」
ごく小さな声で呼ばれて振り向けばそこにいたのは寮監。セブルススネイプは昼と変わらない姿で宵闇から現れた。
「一年生が起きていていい時間だとは思わないが」
「目が覚めました」
「どんな理由があれベッドから抜け出すのは感心しませんな」
「ごめんなさい」
すぐに戻ります、と同世代と比べても頭半分は小さな彼は子ウサギのように震えている。彼は気づいていないだろうが、窓ガラスの向こうにはセイレーンがいたのだ。人には聞こえない声でか弱い獲物の気を引こうとしていたのだろう。
夜にはこの窓のカーテンをひかねばならないのだが、監督生が失念していたに違いない。彼らには朝、小言をくれるとして今はこの少年だ。群れから離れた子供はセイレーンのような人を喰う妖魔に呼ばれやすい。
「早く戻りたまえ」
「は、はい、承知しました!」
子供が使うにはおかしな英語は彼がこれを母語としていないから仕方がないことだろう。英会話、というよりも文法に気を使った書き言葉に近い。馴染めないのはこれも原因の一つだろう。周囲も気遣ってやってはいるようだが、本人が内向的でありコミュニケーションにいささか難がある。
「ハセオ」
「はい、先生」
「生徒をこんな時間に起こしておくのは本意ではない。が、今帰ったとて眠れないだろう。来なさい」
おろ、と揺れる瞳。不安感が今にも目の端から零れてしまいそうだ。スネイプはため息をついて手を差し出した。
ところでスリザリンの生徒は手がかからない、で有名である。表面上は教師の言うことをよく聞き、子供にしては大人しい。純血の名のもとに寮の団結力は群を抜いていて、上下の教育が行き届いている。
とはいえ子供でしかないので行き過ぎることも勿論ある。なるべく羽目を外さないように躾けられているが子供ながらの残酷さは有しているのだ。特に気位の高い上級貴族の血筋は仲間以外を同じ生き物だとすら思っていない節がある。
それでも、彼らは世間体やメンツを恐ろしく気に掛ける。ゆえに、スリザリンであれば半純血やごく少数ではあるが領内に存在するマグル生まれにも等しく手を差し伸べるのだ。
最もマグル生まれへの目配りに関しては厳格な純血主義を掲げている家の子供は決してしないが。
スリザリンには世間体のためであったとしても仲間は見捨てないという排他主義が蔓延している。だからこそ階段に慣れていない一年生であれど授業に遅れるようなことがないのだ。異邦人であるレイもそのおかげで幾度となく助けられていた。
教師としては比較的年若いスネイプが寮監としてこの寮を取りまとめることができているのはその点もある。
「えと、えと……」
「手を出しなさい。ハセオ」
「はい、」
おずおずと重なった小さな手は子供のものと思えぬほど冷たい。スネイプの手は暖かいほうではないのだが、それをもってしてもこの冷たさはないだろう。セイレーンに魅入られて気力を吸われたに違いない。
「今から見るものは誰にも言ってはいけない」
「秘密、ってことですか?」
「左様」
スネイプが入り口付近の蛇の飾りに手をかざせば壁だと思っていた部分に扉が現れる。開いたそこからは魔法薬学教室に近い香りがする。薬っぽいけれど甘くて芳醇なそれは初めて授業を受けた日からレイの好きなものの一つだ。
「入りなさい」
手を引かれて、再度扉が閉まれば見知らぬ場所。魔法って凄いな、と思う間もなくスネイプはレイに簡単な英語で着席を促した。
「カフェオレ、ココア、ミルクティー、ホットミルク。好みはどれかね」
「ホットミルクが好きです」
スネイプが杖を一振りすれば小さめのマグカップに湯気が立つミルク。どこからともなくハニーポットがやってきてひとさじ分の蜂蜜を入れた。
ことり、目の前に置かれた甘い誘惑にレイは手を伸ばした。触るには少し熱いが、冷え切った体には調度いい。
「先生。ここはどこ?」
「ここは魔法薬学教室の準備室だ」
飲みなさい、と促されるままにホットミルクに口をつければ驚くほどに体が温まる。甘さも調度よく、レイはため息をついた。
「飲み終わったら帰るように」
「ありがとう、ございます、先生」
これが教師からの好意でないことはわかっていた。たまたま起きていて、迷惑をかけてしまった。次からは談話室ではなく布団の中にいよう。そうすれば迷惑をかけないで済むから。それが一番いい。
それでも、ホットミルクの底なしの暖かさがレイの口をいつもより少し軽くした。
「あの、先生。洗い物しますので、その、ほっといてもらってもいいですよ。自分の洗い物は自分で洗えるんで、はい」
「水道もわからないのに?」
「……」
「洗剤とスポンジは?カップを戻す位置は?」
「…………」
「この部屋からの帰り方はわかるのかね」
スネイプその人にも意地の悪いことを言っている自覚はあった。それでも、ここで生きていく以上ある程度の強かさと闘争心は必要である。日本人は穏健で争いを好まないとよく聞く。けれど、ここが思い思われの日本でない以上、必須の技能だ。
うりゅ、と効果音が付きそうな瞳のまま震える子供。何が求められるかを必死に思案しているのだろう。その姿はたいそういじらしい。彼はぽろん、と涙を溢しながら今まで聞いた中で一番大きな声で単語を紡いだ。
「お願いします!教えて!覚えます!頑張るので!教えてくれれば!お願いします!」
「よろしい」
スネイプは机に置かれたマグの中に一滴何かを入れるともう一度レイにホットミルクを進めた。疑うことなくそれに口をつけたレイの危機管理能力の低さに呆れるが、彼は平和の国の出身者。害されるなんて微塵も考えていないのだろう。
「我輩の言葉がわかるかね、ミスターハセオ」
「あ、あれ……?めちゃくちゃわかる」
「君レベルで英語ができない生徒が来るのは稀だ。ゆえにすっかりこの薬の作り方を忘れていた。その点に関しては申し訳ないと思うが、この薬の効果は限定的だ。早く馴染み英語を話せるようになることですな」
「英語が理解できるってすごいですねぇ、先生。これって先生側にも英語で聞こえてるんですよね?今頭の中が二重言語でくらくらしてます。右から日本語、左から英語みたいな」
「随分とおしゃべりですな。ホットミルクを飲んだら早く部屋に帰るがいい」
薬の効果は一週間。そう説明されたレイは裏にある思惑を読む。
「先生。カップの洗い場とスポンジと、洗剤と、食器布巾とカップを戻す棚の場所を教えてください。次回からは完ぺきにします!」
くぴり、と全部飲み干してレイはマグを掲げる。そのさまがなんだかおかしくて珍しく笑ってしまった。
てっきり儚いタイプかと思っていたのだが、言葉の壁で何を言うべきかわからなかっただけらしい。これであればそのうち自分のところになぞ来なくなって、それらしい学生生活を送るようになるだろう。
「帰りの道は聞かなくていいのかね」
「それも、それも教えてください!」
ぎゅっと握られたマグカップ。居場所を見出したレイは週に一度、スネイプのもとを訪れた。それは薬を必要としなくなっても。なにがしかの理由を作っては準備室に押し掛けた。
ほかの人間であれば罰則扱いになる雑用ですらも進んでこなす。それと同時に類い稀なる魔法薬学の才能を開花させたのだ。
最初のうちは興味だったものが実践になり、応用になり、やがては研究へと変わっていった。
開きゆく才覚の花。その美しさは教師であれば誰しも自分が教鞭をとる分野で見たいと思うものだ。
レイが二年生になるころには上級生すらも圧倒するような魔法薬学の知恵を身につけていた。
「一向に外に友人を作らないな」
「生きてる人間より研究のほうが楽しいんで。あと、いるにはいますし、寮の外に。友達」
「初耳ですな」
日本人コミュニティ狭いんでぇ、と随分達者になった英語は静かな準備室に鈴の音のように広がる。
「それに、レイブンクローとならまだしもグリフィンドールと仲良くしてると外聞が悪いでしょう。だから、言えない」
レイは空になった自分のマグカップを丁寧に洗い、定位置に戻した。一瞬スネイプの顔色が曇った気もしたが、まだ幼い彼には気づくことができなかった。代わりに話題を変える。
「最近は禁書の棚も気になってます」
「実績なき一年生に許可書は出せませんな」
「じゃあすぐに実績を作りましょう」
ホットミルクの恩義。彼の自慢の生徒になりたいと願ったレイの物語はこうして幕を開けたのだった。