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さて、これは双子が自主的な卒業をする、ほんのちょこっと前。レイと蛙人間のお茶会の話である。
出合った時から桃色だと思っていたが、最近はイヤに激しいピンクに身を包んでいる。そろそろピンクという枠組みを飛び出しそうなものだけれど、そこは女性。色彩感覚が豊からしく、あくまでもピンクと呼べるものしか身につけていなかった。彼女の小ささもあって遠くから見たら、毛並みの良いピグミーパフが歩いてくるかのようである。
いいや、ピグミーパフ側に失礼すぎる。この例え話はやめておこう。
レイは二、三度深呼吸をするとあらかじめ用意しておいた通常品のあべこべ薬を少しだけ閉じ込めたキャンディ口に含み、彼女の前に出た。
「あぁ、ごきげんよう。アンブリッジ教授。一つお伝えしたいことがございまして」
複数人のお供を従えた彼女の前に踊りでる。権力をかさに着た蛙の珍妙さといったら他にはない。しかし、今は彼女に取り入ることを考えるべきだ。チャレンジ、チャーミングスマイル。
「私は忙しいのですが。この耳に入れるのにふさわしい情報ですの?」
すっかり調子づいている彼女はホグワーツの女帝のように振舞う。その玉座が、もうすぐ大空位時代を迎えることになるだなんて想像もしていないだろう。
「えぇ勿論……今この学校にいる反乱分子の新たな拠点について。ご存じですか?」
できる限り隷属的な目をしてレイは彼女に近寄る。彼女が好んで侍らせている、家柄は優れていないが容姿に優れた親衛隊に緊張が走った。
しかし、レイにとってそんなのはどうでもいい。むしろ彼らに関してはスリザリンの恥さらしだとすら思っているのだ。
彼女は彼らを指先一つで制すとレイの行動を受け入れた。小さな彼女の前で膝をついてから、その耳元に口を寄せる。おそらくこういう人間はこの感じの特別感が好きだ。
「教授にだけ、お教えできればと思うのです。そうしたら僕にも目をかけてくださいますか?」
悪魔の囁きに彼女の目が鋭く光る。彼女はこういうフックを逃さないタイプだ。しかも、蛇の腹中に敵がいるだなんて思いもしないだろう。緑のローブは彼女にとってことさら安心できる色合いのはずだから。
「素晴らしいわ。さすがはスリザリンきっての天才ね」
アンブリッジの目が細められる。まんまと罠に嵌まる彼女に笑ってしまいそうなレイだったが、必死に堪えた。物事を多角的に見ることができない人間というのはいつかこうやって足元を掬われる運命にある。
スネイプに褒められ、双子に頼られた絶好調の彼にとって、とってつけたようなお愛想は響かない。
「ほかの生徒に聞かれたらと思うと……。教授のお部屋にお伺いしても?」
「まぁまぁまーあ……うふふ。貴方にも欲というものがあるようで、私安心いたしましたわ。良いでしょう。そしたらこの後すぐにでも、いかが?」
アンブリッジはレイのネクタイをクイと引き、ただでさえ寄せられていた顔をより近づけさせた。人の何倍も鼻に自信があるレイは彼女から漂う化粧臭さに倒れそうになるが、何とか耐える。
薄っすら漂う老化した人の脂臭さに目をつむれば、おしろいと菫と砂糖の香りは十六歳くらいの可憐なお嬢様だ。幼女も老婆も皆等しく苦手とする彼にとっては苦行以外の何物でもないが、耐える以外の選択肢はないのである。
「じゃあ、あなたたちは外で待っていなさい。私、この子と大切なお話がありますので」
全員を引き連れて戻り、ドア前に彼らをおいておくのは流石である。こちらを疑っているそぶりをなるべく見せずにかつ、しっかりと守るべきは守らせる。
このタイプは役所の奥で謀とおべっか太鼓持ちを生業として生きている方が絶対に良かっただろうに。どうして教育の現場に出てきてしまったのか。もしや、文字通りの島流しなのでは、と疑うほどである。
「さぁ、どうぞ」
後ろ手に閉じられた扉。さぁ、蛙人間との一騎打ちだ。あの日以来二度目のアンブリッジの私室。彼女には決してわからぬように飴をかみ砕き、薬の成分を身に浸潤させる。
視線を感じてレイが見回せば皿の猫たちの興味を引入れいたらしい。わざとらしく髪のしっぽを揺らせば子猫の視線がシンクロする。とにかく可愛い猫である。
猫派のレイとしてはこの部屋の猫ちゃんたちを一匹残らず掻っ攫いたいと思っているが、あまりにもピンク過ぎる。もう幾分かシックな皿なら今すぐにでも購入先を聞くのだが。少女趣味もここまでくると天晴れである。
「日も落ちた中で女性の部屋を訪ねるのは気が引けたのですが……」
「あらあら、気にしないでいいのよ。楽しいお話、聞かせてくださるんでしょう?」
さぁ、座って、と促される。それに従えばアンブリッジはレイの後方で何かをしていた。かちゃ、となるのは陶器。おそらくティーカップだろう。準備ができていなかったのか、はたまた善意のそれなのか。レイには推し量ることはできないが、どう考えても後者ではないだろう。彼女はそんなタマじゃない。
アンブリッジは何かを終えるとデスクを隔てレイの対面に座った。彼女のペン立てに刺さっているピンク色の羽ペンは妙にふさふさしていて、元来派手好きなレイの感性にも刺さる。あべこべ薬の薬効に細心の注意を払いつつレイは彼女に話しかけた。
「教授、本題に入る前に一つだけお伺いしても?」
「なにかしら?」
「その趣味のよい素敵な羽ペンはどこでお求めになられたんですか?あまりに可愛いので僕も色違いが欲しくなっちゃって」
「どうして色違いがいいの?」
「だって、そんなに鮮やかで可愛らしいピンクは教授にしか似合わない。そうでしょう?」
毒気を抜かれたみたいにアンブリッジがほほ笑む。その表情をほんの少しだけ可愛いなと思ってしまったが絶対勘違いだ。いや、笑っているアマガエルとかも可愛いからな。蛙って全般的に笑った顔が可愛いのかもしれない。
「私お気に入りのお店がありますの。フランスのショップなのよ。英国製も素敵なんだけれど、どうにも質素でしょう」
気をよくしたらしいアンブリッジは積み上げていた箱の一つからショップカードを抜くとレイの手元へと飛ばした。少女趣味満載ではあるものの、こじゃれたカードには店の詳細が書かれている。
「いつか行くといいわ。男の子に似合うものは少ないけれど、銀の持ち手に濃紫の羽ペンもあったはずよ」
これには単純に喜んでしまったレイである。銀細工の施されたふさふさ紫羽ペンだなんてまさしくレイの好みに突き刺さる。
レイがショップカードに夢中になっていると彼女は特徴的な咳払いをした。
「さぁ、話してもらいましょう。あのレジスタンスどものアジトを」
「えぇ。教授。勿論です。でもその前に」
「なんです、もったいぶって」
「教授が必要だと思うのならば、お茶を淹れてくださいませんか?」
レイの笑顔にアンブリッジも微笑みを返す。このアジア人。よく見れば中々に可愛らしい顔をしているではないか。趣味もよさそうだし、少し眠たそうな目もチャーミングに思える。コレクションの一人として持っていても悪くないだろう。純血貴族の家柄の子息はいかに顔が良くても扱いにくくて困る。それに比べ、英国魔法界にいて立場が強くない人間はいい。好きなように遊べる。アンブリッジだって賢くて静かで大人しい子猫は好きなのだ。
最初こそどうやってか知らないけれど、ベリタセラムを言い当てる小憎らしい子供だと思った。しかし、こちらにしっぽを振るのであれば別だ。なにより、薬学の知識は使える。
スネイプは陰険で何を考えているのかちっともわからない。こちらを馬鹿にした視線も癪に障ることであるし、この小僧に薬を作らせるのがいいだろう。
とはいえ、アンブリッジも策略家だ。急な鞍替えに思うところがないわけではない。彼の真意を知るためにもお茶を出すのは悪い選択ではないだろう。
それに、これは向こうが飲みたがったのだ。その大義名分がある。
「長いお話になりそうですものね。勿論、私がこの手で淹れて差し上げましょう」
アンブリッジが杖を一振りすると待ってましたと言わんばかりに茶器が揃う。先ほどカップに塗ったベリタセラムも乾く頃合いだろう。紅茶を注ぐだけで成分が溶け出し、特別なお茶になる。
レイはサーブされたカップを手に取る。立ち上るのは紅茶の香り。盛られているのは明確なはずなのに、それはちっとも損なわれていなかった。と、いうことは。
レイがカップに口をつけて中の紅茶をすすれば勝手にレモンティー。本来何があってもベリタセラムに入らないであろう処方にレイの脳は一瞬混乱する。
しかし、すぐにスネイプとの会話を思い出した。笑顔を崩さずそれを一口飲む。どうやら数いる親衛隊から数人ピックアップして薬を試させるだけの狡猾さを有してはいないらしい。詰めの甘い人だ。
きっと、スネイプはこのお茶会に誘われる可能性が高そうな生徒にヒントは出していたのだろう。だからこそいまだに彼女はこの偽薬を真実薬であると思い込んでいる。
スネイプのある種回りくどい物言いで何人が理解できたかはわからない。だが今回はレイも知っていた。彼伝いで双子に、双子から軍団メンバーに、と伝わっていたのだろう。そこまで話がいけば、あとはいわゆるホグワーツの秘密、になるだろう。
アンブリッジは勿論スリザリン生を除き、皆が知っている話題沸騰の秘密、というわけである。
「あ、そうだ。教授。僕、スイーツを持ってきたんです。きっとお茶をいただけると思ってましたから。教授のお口に合えばいいんですけれど、」
カップの半分がなくなったのを視認してアンブリッジはレイの手土産を受け取った。
「あら、何かしら」
「故郷から取り寄せたゼリーケーキです。ピンク色したロマンティックなゼリーでして。少女みたいに可憐な教授には良くお似合いになるかと思った次第です」
誉め言葉の大盤振る舞いに気をよくしたアンブリッジは早速箱を開けた。濃桃色のゼリーは確かに随分可愛らしい。
「付属のミルクソースをかけて召し上がってくださいね」
レイは今までで一番美しいと思う表情で微笑んだ。きっと、彼女が現世で見る最後の他人の笑顔になるだろうと思ったから。
「いただいてよろしいかしら?」
「どうぞ、お召し上がりくださいませ」
レイが杖を振れば箱は開かれ、ゼリーの姿が明らかになる。双子渾身のパッケージもお気に召したらしくその趣味の良さを褒めていた。
一人で食べるには少し大きく、かといって二人で手を付けるのは憚られる、そんな大きなゼリーケーキ。
レイはアクシオで美しいガラス皿を出し、ケーキを乗せた。ふるり揺れる透明感のあるゼリー。それだけでも十分愛らしかった。
その上で趣味の良いピンクの瓶からミルクソースが注がれた。桃色ゼリーの溝から滴り、ガラスへと広がる。絞られたクリームも、チェリーだってないのに、桃色に白のそれは背徳的な可愛らしさをしていた。
「ちなみになんですが、このミルクソースお紅茶に入っていても美味しいんです。教授もいかがですか?」
「そういうことなら、入れて頂戴」
「えぇ、もちろん」
レイが杖を振るえばボトルからティースプーンへとミルクソースが注がれる。小さなスプーンから溢れさせてしまわぬように繊細に魔法を使った。
「教授は甘い方がお好きですか?」
「えぇ、ミルクはたっぷりの方が美味しいもの」
「だったらとってもお口に合うと思いますよ」
レイはティースプーンに注ぐのをやめて、瓶の口からそのまま紅茶の中へと入れる。そして、ぬるくなってしまったそれをちょうどいい温度に戻して彼女に勧めた。
「お待たせいたしました。もし加減があっていなかったら申し付けてくださいね。僕はあなたのためならなんだってしたいんです」
「あらあら、嬉しいことを言うのね。あなたもお入れになって?好きなんでしょう?」
「なら、お言葉に甘えて」
レイはミルクティという存在があまりにも苦手だ。しかし、ここで違和感を抱かせないためには口をつけるよりほかない。
偽物のベリタセラムの入った紅茶にあべこべミルクが少量注がれる。こちらを疑っての行動だろうが、まさに間抜けである。
あべこべ薬と真実薬の飲み合わせは文字通り悪い。方や真実、方や嘘。これらを同時に飲むとどうなるかお分かりいただけるだろう。
そう。大概の場合相殺されてしまうのだ。ただ、今回はそこに問題がある。今飲んだのはベリタセラムもどき。中和は期待できない。しかも今の自分には通常あべこべ薬の効果も乗っている。このミルクを間違って口にしようものなら効き目は強化されてしまうだろう。
食べ物を無駄にするのは忍びないがここは飲んだふりで誤魔化すしかない。ティースプーンに二杯のミルクソースを紅茶の中へといれた。そして、彼女同様紅茶に口をつける、が呑み込むことはしない。
「お口に合いましたか?」
体内からキャンディに潜ませていたあべこべ薬の効き目が弱まってきたのが分かる。ベリタセラムもどき、に入っている何らかの成分との相性が悪かったらしい。
「ええ。本当に美味しい。ゼリーもソースも味わい深いですわ。日本人は味覚が繊細と聞いたことがありますが、あんな辺鄙な場所にも美味しいフルーツは実るのねぇ」
ここも小さな島国だろうがよ、むかつく!
とは言わない。言ったらここまでの作戦が台無しになってしまう。さっきまでであればあべこべな言葉が口からまろび出ていただろうが、もうまずい。今にも口汚い罵り言葉が出てしまいそうだ。
いまは、アンブリッジに薬効が出るまでの我慢。この薬の効果は目に見えるものであるのでむしろお喋りをさせた方がいいだろう。
「教授は、一部学生のレジスタンス運動についてどう思っていますか?」
『ダンブルドア軍団なんて、いかがわしい集団。学生運動にしたってあまりに暴力的で、非政府的だと思いませんこと?』
そう言い放ったアンブリッジにレイは肯定の意を返す。彼女の言葉ではなく自らの作った薬の薬効に対して満面の笑みを浮かべてるのだが、彼女がそれに気づくことはないだろう。
「えぇ。僕もそう思います。賢明たるスリザリンの生徒が紛れていないことを願うばかり」
『さ。今すぐ答えて。あのバカげた集団はどこにいるんです?首謀者は誰なの?』
こちらにベリタセラムが効いていると思っている彼女は随分な命令口調でレイへと質問をした。この質問に完璧に答えられることこそがベリタセラムを無効化できているなによりの証拠である。
なにせ、もう。アンブリッジは二度と本当のことなど口にできやしないのだから。
「首謀者は英雄ハリーポッターとその仲間たち。主にグリフィンドールですね。会合場所は空き教室を転々としているようですが、どうにも必要の部屋、と呼ばれる場所を拠点としているようです。ね、信用してくださいますか、僕のこと」
真実を知ってしまったが最後。彼女は首謀者と必要の部屋に関して他人に伝えることはできないのだ。
『素晴らしい。今すぐそこへ親衛隊をやりましょう。あなた、マルフォイ家とも懇意にしていたわね。今からでもドラコと同じポストに就く気はないかしら。双璧として活躍を望みます』
「恐れ多いことです。僕は異邦人にすぎませんから。そのような立場をあなた様から頂いたとあったらきっと、不和が起きるでしょう。だからこそ、僕は陰ながら貴方様のお役に立ちたいのです」
『そう……。本当に残念だわ。気が向いたらいつでも言ってちょうだいね。席は空けておきますわ』
「恐悦至極にございます、我らが女王様」
芝居じみた物言いはレイの得意とするところだ。なんてったって、これはロールプレイ。本心から一番遠いところにある。お芝居だったら照れも恥もない。
仮面の奥に秘した心を見せないこと、なんて今となっては一番簡単な処世術である。もっともこちらの精神状態が負にさえ寄っていなければ、ではあるが。
むしろ、あべこべになっているアンブリッジの言葉の解読の方が難しかった。
『ダンブルドア軍団はどこまで行っても素晴らしい生徒たちですわ。なんて、優秀な集団なのでしょう。力強さだけではなく個々を思いやる優れた精神性を有している。魔法省が欲しがる最高の人材を育てた学校に感謝しませんとね』
の正しい読み下しがまさか、ああなるとは思えないだろう。日本は京の都のいけずより数段解読が難しい。
まぁ、これで被験者に近づく口実ができた。後は観察とどこまで彼女に事の次第を気づかせないかである。なにせあまりに早々に失脚されると学校から放逐されてしまい薬についてのデータが取り難くなるのだ。なるべく手元に置いておきたい。
レイは彼女の影を踏んで歩いた。広いようでいて狭い校内だ。アンブリッジの様子がおかしい、という話はすぐに広まる。行動や性格の悪辣さは変わっていないのに言動が一致しないのだ。
事情を知るのはレイと双子だけ。他の生徒はアンブリッジがどうしてこうなったかなんて知る由もない。
レイが薬を盛ってから二日もたてば、生徒の関心事はアンブリッジの乱心に塗り替えられた。
そして、レイはそれをなるべく彼女の耳に入れぬよう立ち回る。蝶よ花よと彼女を褒めて毎日お茶会に勤しむ。その蜜月は半月にわたり続いた。人生において誰かとここまで懇意にしたことのなかった彼女は簡単にレイを信じてしまったのだ。それこそが彼の持っている狡猾さであると気づきもせずに。
その蜜月の間、あべこべなことばかり言うアンブリッジの言葉を彼女の親衛隊に届けるのはレイの役目であった。仮面で顔を隠し、姿もそれとわからぬように変えていたため、彼がレイであると気づけた人間はいないだろう。
突然寵愛を受けるようになった正体不明のアンブリッジの新しい犬。フィルチ以外にも彼女にここまで心酔するものがあろうとは。そう言われることのストレスは双子と花火開発に勤しんで晴らす。おかげさまでいつもの倍は頭が働いた。
じわじわ逃げ道を潰して、彼女から実権のようなものを奪う。欲に目がくらんだ寂しい女一人、正直言ってしまえばレイにだって篭絡することが簡単だった。いっそ憐憫の情さえ抱かせるほどに。
レイは今日もまた彼女とお茶に勤しむ。彼女の好む菓子をマダムパティフットの店から通り寄せた。甘くて可愛くて夢みたいなそれ。レイによって用意された至高の三段トレー、その頂点に乗る桃色のケーキ。
アンブリッジもアンブリッジで懐かしの憎き学び舎に来たばかりの時は気に入らなかった教授、の敬称にもようやく馴染み始めた。
「そういえば、教授。この部屋の猫ちゃんたちはずっとここにいますけど、絵画みたいにお皿を行き来したりとかはしないんですか?」
『どうしてそんなこと聞くの?』
「僕、根っからの猫派でして。籠とかに集まって寝てたら可愛いのになーって思った次第です」
『いつもはお行儀よく一匹ずつお皿にいますけれど。この子たちは本来は絵画と同じようにどこへでも行けるの。お皿に限らず』
「ならどうして?」
『だって、一匹ずつ並んでいる方が美しいわ。それに実物の猫ちゃんだとこうはいかないでしょう』
「そうですか」
レイは、良いことを聞いた、と口角を上げる。正直心配だったのだ。この猫たちのことが。猫に罪はない。育てた人間のあくどさに染まってしまってったとしても。この子たちは子猫ばかり。可愛がられればすぐに忘れてしまうだろう。
これでレイに心配の種はなくなった。もういい加減このお芝居にも飽きたところであるし、ここらが潮時だろう。データももう十二分に取れた。
すっかり慣れた手つきで紅茶にミルクを注いで彼女好みの温度にする。手足をもがれていることについぞ気づかず彼女はレイを信じてしまっていた。
「教授。そろそろ舞台を終幕へと導くのはいかがでしょう」
『そうねぇ。頃合いだと思うわ。そして私が名実ともにホグワーツの校長となるのです。その時が来たのね』
恭しく丁重に。ここまで来たのならば断頭台まで。手を振って見送って差し上げよう。
「善は急げと言いますし、どうでしょう。今晩にでも。教授のご都合がよろしければ。僕が親衛隊を集めておきますが」
『あの嫌な集団の会合があるのね?』
「確かな筋からの情報です」
レイがポケットから出したのはダンブルドア軍団の連絡用コイン。そこにはくっきりと今日の日付が浮かんでいた。
「彼らはこれを用いて連絡を取り合っているようです」
『学校令に背くだけでは飽き足らず。まぁまぁまぁ……』
サディステックに弧を描く唇。細められた目は鞭を眺める。素行不良の学生に対するきつい罰則に心をときめかせているのだろう。やはりどう考えても彼女は教育者に向いていない。
このところあべこべアンブリッジに言葉がすんなりわかるようになりつつあるレイは彼女の言葉に矛盾しないよう適当に言葉を返す。正直、ほんの少し面倒になっているのは秘密だ。あくまでも、薬の効果を確かめるため、いまだに付き従っているに過ぎない。
「となれば。早々に親衛隊を呼びつけましょう。そうだなぁ、せっかくなので特別な演出もつけましょう。今日は最高の放課後なんですから」
レイが杖を振るとアンブリッジのデスクに合った空っぽの花瓶にピンクの薔薇がこれでもかと活けられる。
『まぁ、素敵!本当に女心が分かってるのね』
「そういってもらえて嬉しいです」
人を傷つけてしまわぬように棘を抜かれた薔薇はどことなく彼女に似ていた。もう何も傷つけることができない。枯れるのを待つだけ花。切り花を喜ぶ趣味はレイにはないので理解不能だ。
それに。棘のない薔薇なんてレイ個人としてはもう薔薇だと呼ぶことすら難しい気がするのだ。
「さぁ、整えましょう、教授。貴方が駆け上がるためのステージを」
親衛隊とアンブリッジの集会場所である防衛術の教室。部屋をうす暗く保ち、レイの思う特別感漂う内装に変えた。イメージはドラキュラ城。アンブリッジは不服そうだったが、年若き青年は格好いいに酔いしれたいものなのだ、と無理やり説得してやった。皿の中の猫たちにもマントなどで仮装をさせることで彼女を喜ばせるのを忘れない。これはアンブリッジに違和感を抱かせないための策でもあった。
そしてレイは親衛隊の前に立つために物理的な仮面を用意した。アンブリッジはこの仮面のことを知らない。そのため、小首を稼げる。
『どうしてそんなことをする必要があるの?』
「僕はあなたの陰の騎士。顔はわからない方がいい。それに、その方が何だかロマンティックでしょう?」
可愛らしいものが好きなのは、可愛がってもらえなかった裏返し。愛してもらえなかったことへの細やかな復讐。誰かに特別だと思ってもらいたかった少女の致命的な傷をえぐる。傷ついた人間の心理はレイが一番よくわかっている。何が欲しくて、どうなりたいかなんて。それこそ、手に取るように。
日陰の道は、日陰に通ずる。決して日向には進むことができない。
準備を済ませ、隊員を呼び寄せる。いつもの会合違う雰囲気に飲まれそうになっている生徒たちは、その特別感に酔い始めた。結局人間なんてなんかカッコいい、という曖昧な特別感に弱いのだ。これに引っかかる簡単な人間がスリザリンにもいることにため息をつきたい気分だが、仕方のないことだろう。
レイは仮面で顔を覆うと親衛隊の前に姿を現した。
「皆さま。本日集まっていただいたのはほかでもありません。アンブリッジ教授から親衛隊の皆さんにお言葉があります」
突然現れた見知らぬ人間に教室内のざわめきが止まる。顔も、背格好もよくわからない。まるで教室の奥、その闇から滑り出てきたかのような風貌。親衛隊の面々には彼がアンブリッジの犬であることは理解できるが、確証は得られない。
ある種特別な雰囲気を纏って、レイはこの場を演出する。
ドラコにこの顔を見られたら羞恥やらなんやらでポップコーンになる自信があるが、念には念を入れて声まで変えている。絶対にバレない自信すらあった。
「さぁ、教授。こちらへ」
そう言ってレイは彼女を壇上へと立たせた。いつも通りの咳払い。そして、彼女は、彼女以外の耳にとってこれまでとは百八十度違った事を言い出した。
ダンブルドアを称え、ハリーポッターを褒めちぎる。一方でスリザリンを蔑み、唾棄すべき怨敵とまで言いきった。錯乱の呪文か、はたまたポリジュースか。この場でそこまで考えたのはドラコくらいのものだろう。いかんせん、本当に頭の善いスリザリン生はこの集団に混ざるようなことはしない。
ドラコは周囲の困惑にも気づかす、いまだ熱弁を振るうアンブリッジに声をかけた。
「高等次官殿、何かありましたか。体調がすぐれない、など。もし、そうなのでしたら今日の見回りは僕らだけで行いますが……」
『うふっ!ご心配には及びませんわ。頭を痛ませていた問題も解決しましたの』
「えぇ、本当に。お休みになられたらいかがでしょう、先生」
『マルフォイ家のご子息はお優しいわ。さぞやご両親の教育が良いのでしょうね。この調子で学校改革を進めて、私が校長となった暁にはあなたに生徒会長を任せたいと思っていますわ』
アンブリッジはドラコの表情が強張るのを見た。しかし、彼女にだけは状況が呑み込めない。いつも通り、褒めたつもりだったのだ。にもかかわらず、どうして人気が引いていくのだろう。
『皆さん、どうしたのです。さぁ、早く。私の前にダンブルドア軍団の首謀者を連れていらっしゃい。さぁ!』
ニコニコしているのはレイだけである。けれど、その違和感も彼の薬でマスキングされてしまっているのだ。おかしいことに気づけるはずもない。
人は信じたいものを信じる。ということは、信じたいものしか信じることができないのだ。
レイは彼女の耳元でささやく。彼女の歪さの根源を叩く、そんな言葉を。
「所詮は苦労知らずの貴族のボンボンです。権力がどれほど素晴らしいものかを知らないのでしょう。親の七光りって、美しくて羨ましい限りですね、教授」
怒りに歪んだ顔で、彼女はドラコを褒めちぎる。いつもであればそんな短気は起こさないはずだ。それが、男社会である魔法省でコネなんて一つもない女が一人、生き残るための技であるから。
最後は何もかもをひっくり返してやるのだ。この顔だって、家柄だって。自分が大臣になった暁には関係なくなる。
生まれながらに持てる者にはわかるまい。この呪いが。何一つ持たぬ者の慟哭が。学校内で起こることなんて所詮はままごと。全ては頂点へ上り詰めるための足がかりにすぎない。
そのはずなのに。
『どうして、誰も私の話を聞かないの』
アンブリッジの失脚は速かった。公式の場で他者の悪口しか言わなくなった人間に付き従おうとする者などいるはずもない。それは自然な流れだった。学校内で勝ち馬に乗れるかもしれないと意気込んだ間抜けな美形たちの失望顔は、良い見世物だった。
そのうち、薬の効き目と観察に満足したレイはアンブリッジに飽きてしまった。いつものお茶会の紅茶に忘却薬を混ぜてこの関係を終わらせる。
いつの間にかお茶を入れる役目はレイのものになっていたので薬を混ぜるのなんて造作もないこと。もうこの館にアンブリッジの味方は居ない。彼女自慢の利口な子猫でさえも。
皿の中の子猫たちはレイが丁寧に皿を磨いてやり指先で遊んでやればあっという間に懐いた。無機質な皿の中よりクッションや暖炉のある絵画の中が好みらしく、絵も得意なイッケイにグリフィンドールの談話室を書かせれば簡単にそちらに集まってきた。
グリフィンドールの談話室に入りきらない分はユウトが書いたレイブンクローの談話室に匿う。
絵の上手い友人を二人も持っているのは行幸であった。特に猫派のイッケイは、中でも気に入った子猫に専用の額縁を用意してやる可愛がりっぷりである。
彼らは絵にタイトルをつける。連作猫のいる風景、と。これで、皿が蛙人間のストレスのはけ口として叩き割られたとしても彼らに居場所ができた。ホグワーツの壁中にいる猫好きの絵画の登場人物の膝に乗って彼ら、彼女らは満足げに暮らしている。
安寧なる暮らしを手に入れた子猫たちとは反対に、はしごを外されたアンブリッジは狂っていく。
自分は一切変わりないつもりなのに、周りの態度がおかしい。誰かの指金のはずだ、何者かによる罠だ。そう考えるのに、保護された魂は自分にとっての不都合を考えることからも彼女の魂を保護してしまった。
考えることができない。もう何も。言っていいことなのか、言ってはいけないことなのか。口から漏れ出る呪詛は世界を祝うものばかり。彼女の世界だけ反転し続ける。綺麗は汚い、汚いは綺麗。あぁもうどうして。醜い獣だけが近くに寄ってくる。
どこにも居場所がなくなって、アンブリッジはついに発狂してしまった。禁じられた森に入り、ケンタウロスを褒めちぎる。困惑する彼らを無視して闊歩し、最終的にはつまみ出されたところを森番に保護されたという。それがどれほどの屈辱だったのか、レイにはちっとも関係のない話である。
その事件をきっかけに学校に姿を見せなくなったアンブリッジのおかげで今年の闇の魔術に対する防衛術は完全にペーパーテスト。
今年の頑張りを神様が見ていたのかもしれない。生まれて初めて闇の魔術に対する防衛術の期末試験で満点を叩き出すというおまけまで付いてきた。
それゆえに年始に受けた屈辱のことなんかすっかり忘れてレイは気分上々で学期終えようとしていた。スネイプに呼び出されるその瞬間まで。
「なぜ、を問わなくとも理解はできているだろう」
「それに関しては勿論。これ、ですよね」
ダンブルドアあたりにはレイのしたことが筒抜けになっているはずだ。あの老人は愛情について深い考えがある。ゆえにそこを逸脱した人間性を有するものすべてを気にかける癖があるのだ。
愛を重んじる彼の感性に従えば今回のレイの行動は褒められたものではないのだろう。であれば叱責されるのは寮監であるスネイプに他ならない。であればせめて何が起きたのかの事実確認をしておくのが筋だ。
レイもそこまで理解していたらしく、用意周到にも問題の薬をポケットの中から取り出した。そして、それが魂に作用し、言語感覚をマスキングするものだとさらりと言う。
既に存在する理論を応用して組み上げただけ、などと当人は言っていたが、魔法薬としては確実にオーバースペック。並の学者であれば一生をかけてようやく生み出す薬である。
少なくとも、一介の学生が教師に盛っていいものではないし、あまつさえ、敬愛する教師に褒めて褒めて!と言いたいがために作り出されるようなアイテムではなかった。
才能がある者に魔法薬学は開かれている、と最初の授業で言ったのは確かだ。研究者の面から見ればその才能はいかんなく発揮されるべきであると考える。けれど、ここまで突き抜けられてしまうと教師としてはどんな顔をすべきか分からない。
「褒める、もそうだが。これは学会提出していいものなのか」
「もともとはもっと軽い意味合いで作ってたので。彼女のことだけ忘れていただければ出せると思います。それに、今更彼女が何を言ったところで、って話なのでぇ」
元より垂れ気味の眦はさらに下がって、代わりに口角が上がる。ここで笑みをこぼしてしまうあたり、まだ彼の精神的成長は浅い。取り繕うのが上手くなっただけなのだ。それでも、スネイプは彼の中に珍しい感情を見た。
「それは、薬の作り手としての感想だろう。君自身としてはどうなのかね。本当に正しく次第を理解できていると驕るのであれば吾輩は罰則を言い渡さねばならない」
レイは珍しくスネイプに睨まれ肩を落とした。笑って許してもらえるのであればそれが一番良いのだけれど、やはりそうはいかなかった。心の奥で燻っていた苦々しい思いを的確に突かれる。
かつて薬は悪用する方が悪い、と言った口で、果たして自分のしたことは本当に正しかったのだろうか、と。双子と研究していた時にジネブラを言い訳に使ったことで初めて自分の中にある感情の違和感に気づいてしまったのだ。
いま、ここで追及してくるあたり、スネイプはレイを本当によく見ているのだろう。
薬学の知識を活用して何者かを排除することは魔法薬の正しい使い方足りえただろうか。彼女の人生を滅茶苦茶にしなかった、と言ったら嘘になるのだ。
それでも、自分としてはいまだに悪いことをしたなんてつゆほども思っていない。なにせ、もう彼女に対する興味すらないのだ。ただ、セドリックの仮面だけがこれを悪事であると紛糾する。
「正しさってどこにあるんでしょうね」
レイは珍しく、答えを見つけられず戸惑った顔をしている。それを見てスネイプは今月の学会誌を手に持った。お望みであればこれで後頭部を叩いてやろう、というポーズである。よほどのことを言い出さない限り実行する気は無かったけれど。
「やってみて思ったんですけど、魔法薬を使って他人を害するってのは僕にとって簡単すぎてどうしたらいいのか分かんないほどで。で、その経験を糧になにか心に残りましたか?って自問自答しても、何もない、が答えになる」
「ほう、それで?」
「知り合いが傷ついたら悔しいし、治してあげなきゃって思う。傷つけた人間をああでもしないことには気が済まない。でも別に、終わってみてすっきりしたとか、やりすぎたなって後悔があるわけでもなく。あのね、先生。今から言うのはとんでもない自惚れです。呆れたヤツだと思ったら殴ってくれても構いません」
スネイプは丸めたままの学会誌で空いている逆の掌を二度ほど叩く。ぽす、ぽす、とまぬけな音。彼の物言い次第では物理的な教育的指導も視野に入れなければならないだろう。
「僕、魔法薬学に関しては天才でしょう。ここまで来たら天才って名乗らせてください。先生が首を縦に振ってくれたら天才でいるために頑張るんで」
「……。認めんこともない」
「やったー!じゃなくて。そう。調子に乗ってるのはわかるんですけど、今の僕なら何でも作れそうな気さえする。絶対そんなことはないのに。それくらい調子に乗ってる。アンブリッジに飲ませた薬もそう。やろうと思ったらどこまでも行ける気がする。楽しいからどうしても止まれない。だから絶対に、僕だけは向こう側を見ちゃいけないんだろうなって思うんです」
アンブリッジの盛った薬は、もっと正しい使い方がある。それこそ、双子の店に卸してもいいくらいに。そう呟いてレイは今一度スネイプの顔を見る。
「正しさ、と呼ばれるものの正体が倫理観だというのは百も承知です。その観念が比較的乏しい自覚もある」
昔だったら絶対にそんなことは考えなかった。作れば作るだけ楽しい。複雑であれば複雑であるほど燃える。作り上げて飲んで実験して。自分の手の届く範囲でだけ遊んでいるうちは、自分の身体にしか迷惑をかけなかった。
「僕は、初めて。その倫理観の薄さが怖いなって思ってる。正しさがどこにあるのかちっともわからないのに」
薬の悪用方法に気づいたとき。間違いなく心は踊った。彼女をモルモットにして薬効を見ている時。あぁ、もっとデータが欲しいなと考えた。孤立した彼女を支えるふりをしてさらに追い込んで。挙句の果てには自分のことをすっかり忘れさせて。どんな贔屓目で見たって悪魔の所業である。
それでも。何度考えても、何度彼女のことを想ってみても。許す、なんて言葉は出てこないのだ。
それは、レイが欲してやまない品行方正の仮面や、セドリックディゴリーのあり様からは一番遠いところにある感情だった。
「そこまで分かっているのであれば矯正する必要もないだろう」
「叩かれてみたいなって思ってたんですけど、」
「人間とは時としてひどく残酷だ。それくらいの感情は誰にでもある。それが今回は知人を傷つけられたことで怒りとなって浮上しただけにすぎん。やりすぎだとは思うが、覚悟の上だったのだろう」
「人ひとりの人生を完全に狂わせたってのに、何とも思わなかったんですよ。それで、さすがに怖いなって。いや、怖いというより、怖いって思わなきゃダメなんじゃないかなって」
レイのそのセリフにスネイプは思わず眼頭を押さえた。この何でもありな少年にもやったらダメ、という線引きがようやく生まれたらしい。魔法薬で魔法を超えるなどと言い出してからこっち、ほとんど闇の魔術な薬を量産していたことにようやく気付くとは。情緒の発達を感じる。
もう、彼は一人きりではないのだ。他者や社会と関わってそれらしきものが萌芽したのだ。そして、傷つけられたものを見て憤りや敵意を覚えた。ある意味で、レイにとってアンブリッジはいい教材だったに違いない。
人によってはやりすぎである、とレイを責めるだろう。けれど、それは露呈すればの話。レイは徹底的に己の存在を秘匿した。人の目に触れない悪事はないも同じだ。
なにより相手は稀代の嫌われ者。失脚しても誰も気にも留めなかった。何をとち狂ったのか彼女がいやらしい笑みを貼りつけたままで暴言を吐くようになった、それだけのことである。
無論、スネイプだってレイが何かをするだろう、と予想はしていた。そして、明確にアンブリッジに異変が出た時には少しだけ溜飲が落ちる気分であった。教育者として間違った感情であることはわかっている。ただ、スネイプもあの脳内までピンク色だった彼女のことを好いてはいなかった。だから、そこに関しては今更どうでもいい。
レイは良識、常識、情緒。それらが明らかに成長している。ようやく、様々が本当に意味で成長に追いつき始めているのだろう。入学当初から導いてきた甲斐があるというものである。
だからこそ、スネイプは彼を光の中へ繋ぎ留めておく必要があると思うのだ。これ以上、彼が何かを失ってしまうことがないように。
「……。ハセオ」
「なんでしょう」
「本年度のトロフィーへの記名は吾輩の一存で決められることではない。したがってこの手から渡せる最大の賛辞をやろう」
「え?それってどういう」
「スリザリンに五十点。これを失いたくなければ口を開かないことですな」
見開かれた目。言われたことを律儀に守る口。その行いは決して褒められたことではない。それでも、スネイプははとんど初めてレイに加点した。
よくできた生徒だ、と褒めることをあえてしてこなかった。彼にとってそれは邪魔な重荷であろう、と。
どうしたって、加点という行為には政治的要素が絡んでしまう。特に寮監からの加点は贔屓だと言われることもあるだろう。そんな余分なもの。彼には必要ないと思っていたから。
「今年はよく頑張った。ハセオ。君の努力を認めよう」
ぽた、と落ちた涙。頬が濡れているのが分かる。でも、煩くしたら持っていかれてしまう。
その言葉の全てを、彼からの愛情を一身に受けて、かみ砕いてきっちりばっちり飲み込むべきだ。だって、外になんか出したらもったいないから。
「でも明確に悪いことしましたよ」
「口を開いていいのかね」
「だ、だってこれは流石に正しくないって、理解はしてるんです」
「仲間のために揮う鉾は罪か」
「その言い方は、ずるいと思います、」
「すべてはスリザリンなれば」
友のため、愛したモノのためであればどこまでも行けてしまうのが蛇だ。けれど、これをそうだと言い切られてしまったら復讐ですらなくなる。その大義名分を貰ってしまってよいのだろうか。
スネイプはいまだ迷うレイに手を出すように言う。そして、そこにチョコレートファッジを置く。レイが好んで食べているものだ。誰にも言ったことはないのに、どうして。
「せんせ、一生ついてって良い?」
「許可しなくとも勝手に来るのだろう」
「永久に!」
「……。その言葉はここぞという時に取っておくべきだ、ハセオ」
こうして、また一年が過ぎていく。失ったものを取り戻すべく忙しくしていたレイにとっては、恐ろしく早い春夏秋冬であった。新たに増えた学ぶべきことを引っ提げて、この休み期間もかつてないほど忙しく過ごすのだろう。
夏休み中のお供に、と図書室から借りた本を図書館バックにおしこんでレイは騒がしいホグワーツ特急に乗り込んだ。
「あれ、レイさん。俺らのコンパートメントでいいの?フレッドとジョージは?」
「ユウト、あのさ。双子は早期卒業したし。いたとしても絶対やかましいから嫌。何時も行き帰りは僕ら一緒でしょうに。なんでのけ者にしようとすんの?もう一回戦争状態になるの勘弁してほしい」
いつも通り日本人三人でコンパートメントをとった。行きこそまばらだが、帰りは三人でと決めているのだ。帰る先が同じ、ということでさすがにここを責める寮生はいない。帰郷の列車にだけ生じる治外法権だ。
図書室に寄ったことで遅くなったレイが後から乗り込めば友人たちは唇を尖らせていた。
「去年、ロンドン観光してから帰ろうねって言ったのに、僕らとの約束破ったのレイさんだろ」
「そうだそうだ」
「し、仕方ないだろ!ぶっ倒れたんだからさぁ。それになんか、なんかすごい忙しくなったの、人生が!」
「人生が忙しくなったヤツの読書量じゃないんだよなぁ」
ユウトとイッケイはレイの手荷物を見る。学校中の【人付き合い】に関係する教則本が集まっているのではないかというリストを持っていた。
「そもそも教則本から人間関係を学ぶなよ」
「イッケイ君、知ってる?教科書は何でも教えてくれるんだよ……?」
「こういうとこだと思わないか?」
「俺もそう思うね」
まぁ、座んなさいよ。そうユウトに促されてようやくレイは席に着いた。なんだかんだ言って長い付き合いだ。コンパートメント内で飛び交う日本語にレイは一息付けた心地になる。
常であれば、この列車に乗って今年の夏休みの計画を立てるのであるが、レイはそうもいかない。今年の夏も父に付いてある程度飛び回る予定なのだ。
「今年も、その、夏休みは、忙しくてぇ」
「その枕、随分レイさんを真人間にしてくれたみたいだね」
僕らと付き合うより真剣な目で見つめてるし。とイッケイに指さされたのはリストの中で唯一手に持っていた無駄に分厚い友人関係指南書だった。
レイはすべてを諦めた。イッケイにこういう言い合いで勝てるわけがないと知っている。
「いい枕だよ!ちょっと首の筋痛めたけど……」
「興味ないからホントに枕にしたんだな、」
ユウトにまで言われてしまい、いよいよ立つ瀬がないレイである。読書に関しては諦めて本はカバンの中にしまった。
「興味のないこと頭に詰め込むくらいだったら僕らとお喋りしてる方が少なくとも友人関係の指南になると思うんだけど、どう」
にっこり。威圧的な笑み。なんでか知らないけれど彼はどことなく怒っている。心当たりしかないレイはゆっくりと目を逸らした。反らした先のユウトも同じ表情なのでレイは背もたれに顔を引っ付ける。
「さて。去年の弁明、聞こうか。生憎と僕ら何にも聞かされてないものだからね」
「友達に対して口が軽いで有名な君という男が、俺たちに何もかも黙ってるってのが納得いかないもんで」
声色に混ざる心配。たしかに、説明を後回しにし過ぎた自覚はある。レイは大きく深呼吸をしてから改めて彼らに向き直った。心配をかけたのは間違いないのだ。
はてさて、何から話したものか。
「じゃあ、あれは僕が二年生になろうかという夏休み前のこと……」
「「回想が遠い!」」
それを彼らが笑えば、いつも通り。掴みは上々だ。レイは要点をかいつまんで二人に話した。車内販売すらスルーして、列車がキングスクロス駅についてしまうまで、ずっと。久々の気の置けない会話はレイの心の癒しになる。
こうして始まった短い夏休み。最高学年になったレイに、彼からすれば天変地異レベルのが起こることなどまだスネイプしか知らないことであった。