「あれ、ドラコどうしたの?夜にお出かけなんて珍しい」
どことなく、余裕のなさそうな表情。まさか見られるとは思っていなかった、とでも言わんばかりに瞳が揺れる。あまりのらしくなさにレイの顔にすら疑念が浮かんだ。
「なんか、悪だくみのご予定?」
感心しないなぁ、と言えば観念したのかドラコは紙袋をレイに見せてきた。それは、ワインボトルが入るタイプの縦長の袋である。
「スラグクラブ帰り、ですよね」
「そーだよ。ドラコもテリーヌ食べる?」
「テリーヌ。メゾンドミルポワージュのショコラテリーヌ?」
「みる……みるぽわーじゅ、うん。確かに読める。そうみたい」
「そうですか」
どういうわけか、ドラコは傷ついたようだった。このお菓子が嫌いだったのだろうか。わけが分からずレイは彼に問う。
「ショコラテリーヌが嫌いにしては劇的な反応だと思うんだけど、どうしたの?」
「なんでもないんです。忘れてください」
「忘れろったって……」
それは随分と難しい話だ。別にいつも通りドラコを置いて寮に帰ってもよかった。けれど、あんなことを言った口でどうしてそんなことができよう。それに、セドリックだったらこんなに追い詰められた顔をしている後輩を放っておくだろうか。
それだけは絶対にありえない。
「そんな悲痛な表情忘れようがないんだよねぇ。納得いく理由が語られるまで逃がさない」
「レイさんそういう性格じゃないでしょう。無理がたたって口の端がひくついてますよ」
「ぐ……どかないったらどかないからな!」
珍しく食い下がるものだから根負けしたのはドラコだった。当たり障りのないことに少々の本音を混ぜればすぐに納得するだろう。そう侮って言葉を漏らす。
「父上もスラグクラブ出身です。父の期待に応えるために、僕も選ばれなくてはいけなかった。なのに、僕は蚊帳の外。これじゃあ面目が立たない。僕はなんだって一番でなければならないのに」
「それで、ショコラテリーヌに引っかかった理由は?」
「父上から聞いていたんです。スラグホーン教授は特に目をかけている生徒にはそれを渡すって」
レイさんは薬学の天才だから。目のかけられ方が違うんだなって。思っただけです。
淡々と、彼にとっての事実を告げる。その裏にある謀の陰を察されることがないように、ドラコはいつも通りを装った。喉の奥で感情がわだかまるけれど、それを表に出さないことこそが重要なのだ。レイなら遣り込めることができるだろう。
「本当にそれだけです」
無論、どうして自分が選ばれなかったのか、は薄っすら理解できている。彼と個人的な親交があった祖父の名前を出しても袖にされたことからも明らかだ。
スラグホーンが大切にしているのは横の繋がり。その上、ダンブルドアと懇意にしている彼は正義側の人間だ。
本来のスラグホーンの感性では生まれた家、も個人の有する才能の一つに数えられる。公平ではあるが平等ではない彼が上流社会との繋がりが著しく重要視される英国魔法界で純血貴族という立ち位置を無視することはありえない。
彼の様子から見ても今のマルフォイ家はそれほどに難しい立場にいる。死地から一筋の光を見つけることの難しさを、目の前の男は知らない。それをひどく羨ましいことだと思う。
レイの目はいつも通り。甘くて緩い。この身に宿している悪事の種を見透かしているわけではないらしい。
誰に話すわけにもいかない、この悪徳をどうして彼になぞ言えよう。外様も外様、英国人ですらない彼に。
「そっか、じゃあそれは先生への賄賂?」
「ご明察。スラグホーン教授のお好きな蜂蜜酒です。かなりの年代物ですよ」
紙袋から瓶を見せればようやく納得したようだった。彼の鼻の良さは聞き及んでいたが、さすがに開いていない瓶から薬物を検知することはできないようで安心したドラコである。
「教授に直談判なんて情けない姿を見られたくなくて、この時間に渡りをつけただけです。ほっといてください」
「そっか、わかったよ」
ほら、甘いんだこの人は。甘すぎていっそ恐ろしくなるほどに。平和ボケした彼には一生理解できないだろう。ドラコは無事に躱せたと安堵し、レイの横をすり抜けようとした。
しかし、生涯の目標である教職に足を踏み出した彼は例年とは一味違ったのである。
「じゃあ、一緒に行こうかな」
「僕の話を聞いてましたか」
「あのだね、ドラコ。時として教授のお気に入りというのは絶大な力を誇る。それに僕は童顔で有名な日本人だ。どうしてドラコはダメなんですか……?ってウルウルアイで聞けば先生だってイチコロだよ」
「仕留めないでください」
レッツゴー!と気安く肩を掴まれた。性格がおかしくなりすぎている。自分たちは決してこういう関係ではなかったはずだ。パーティで出された酒に酔ったのだろうか。彼がこう見えてウワバミであることを知っているドラコはその可能性を捨てる。そして完全に諦めた。
「レッツゴースラグクラブ!ミードを浴びるように飲めば人類皆友達!」
「っあーーーー!もういいです、もういいですから。寮に戻りますよ!」
「夜だから静かに、ね?」
「誰のせいだと」
地下に向かって足を進めるドラコの背にレイは優しく微笑む。あんなに思いつめた表情で誰かのところへ行く、なんて。万が一がないとも限らない。優しいドラコが不必要に傷つくのは避けたかった。
勿論。レイは気づいていた。あの蜂蜜酒の封が開いていたことを。香りは流石にこの鼻にも届かなかったが、蓋のずれはごまかせない。無意識に失敗を望んでいるとしか思えないそれ。誰の命かはわからないが、決めきれないのが彼の淡さだ。
背を追って並べば嫌なものを見る目を向けられた。嫌われたかもしれない。それは悲しいレイである。
「で、さぁ。本当はどうしたの。なんか困りごとがあるんでしょう?」
思いもしなかった言葉にドラコの動きが止まった。心の内を開かれたのかと焦るが、レイにそこまでの魔法テクニックはまだないらしい。閉心術を用いてぴっちりと閉じている扉はそのままだった。
何を読み取られたわけでもないのにそっと核心に触れるような物言いに肝が冷える。
「さっきから何なんですか。まるで尋問みたいに。構わないでください」
「そんなに余裕がなくなるくらいのことに巻き込まれてるって、僕にもわかるんだよドラコ。今の言葉理解できる?僕にすら、理解できるくらい君は消耗してる」
「は?」
ひびが入ったみたいだった。
自分は完璧にいつも通りを演じていたはずなのだ。それなのに、なぜレイみたいなちゃらんぽらんにそんなことを言われなければならないのか。
どうせあてずっぽうだ。それっぽいことを言って自分を絆そうとしているに違いない。闇の帝王から目をかけられた自分と、スラグホーンごときの後ろ盾を得る彼では天と地ほどの差がある。
ひたすらに心がざらついた。こちらのことを何一つ知りもしないで随分な言葉をかけるではないか。
ぞっとするような赤い瞳を持ったあの御方に参上したこともないのに。安寧の光の中で生きているくせに。困りごと、なんて安っぽい言葉でレイは自分を測ったのだ。あまりの侮蔑に体が震える。
「随分と上手になりましたもんね、そうやって人に取り入って」
「ドラコ、あのさ、」
「僕が知らないとでも。アンブリッジの件で味を占めたのはそっちだ」
「はぁ!?知ってたの!?」
「バレてないと思う方がおかしい」
ドラコが指摘すればレイはひどく狼狽えたようだった。その姿を鼻で笑う。結局、彼も何も考えていないようなフリをして権力に絡めとられたのだろう。そうでなければアンブリッジに対してあんな態度をとらない。
「え、えぇ……あれは不可抗力というか、」
言い淀んだレイにドラコはさらなる攻撃を仕掛ける。暗い怒りに熱が乗れば、らしくもない言葉ばかりが漏れた。
「能力をひけらかして尻尾を振ったんでしょう」
その言葉には流石にむっと来たレイである。どうして、ここまでのことを言われなければならないのか。
自分は化け物蛙退治に精を出したつもりであり、蛙アイドル化計画に手を貸したわけではないのだ。元気いっぱい担ぎ上げたドラコと同列で語られたくない。
ゆえにレイも珍しく言わなくてもいいことを言ってしまう。
「ドラコこそ、やり方もやり様もある中で、世界の過半数以上を敵に回すのにも気づけないほど楽しかった?」
全寮制の学校という社会の縮図において悪であると認定されることの愚かしさと危険さ。これらはおそらく貴族的学問の中で学ぶべきことだ。
人間というものは総じて愚かであるため、自分より良い生活を送っている者に敵愾心を抱きやすい。広い庭付きの大きな家に住み、高級な食品を浴びるほど食べ、金銭に糸目をつけず趣味に没頭する。それも、はた目から見たら労働階級ではない者が、だ。
どんなに良い人間であっても妬み疎まれる社会で、バランスを誤れば聖女が一転、魔女に変わる。
去年のドラコはライバル憎さに祀り上げてはいけない神輿を担いだ。それがプライドを傷つけるなんて思いもせずに。
プライド、とは。高慢でも、傲慢でもないのだ。魔法貴族たる高貴な尊厳。無論、その理念を知っているのはドラコも同じ。今更レイに説かれたところで刺さりはしないだろう。
それでもレイはドラコに考えてもらいたくて、言葉を続けてしまった。
「僕たち蛇は賢い選択をすべきだと思うよ」
そのセリフにドラコは奥歯を噛みしめる。
なんて、簡単そうに物を言うのだろう。
これだから異邦人など嫌いなのだ。自分がその場に身を置いていないから、立場をわきまえず正しいことが言える。ドラコにとってみれば地に足のついていないセリフにしか聞こえない。
大切な人を人質に取られていないからそんな簡単なことが言えるのだ。
「そんな良いこと言ってますけどね、アンブリッジの犬だったこと忘れてませんよ」
「犬!?犬って言った!?う、うわー恥ずかしい……好き好んで恥ずかしいあの蛙に付き従ってると思われてたの、恥……」
ローブのフードをかぶって身もだえする奇行。それを見てほんの少しだけ冷静さを取り戻したドラコは会話に違和感があることに気づいた。
お察しの通り、彼らの間にはとんでもない情報の行き違いがある。アンブリッジ事変に際しドラコはあのレイすらも天下に近づきたいと思っていた、と認識したのだ。もはや、彼からはそうにしか見えていない。
「僕が知らないとでも思いましたか」
「そら、同じ屋根の下。悪事はバレると思っていましたとも」
「悪事」
「俺が薬使ってアンブリッジ追い詰めて失脚させて、あまつさえそのことを本人に分からないように忘れさせたのまで知ってるってことでしょ?」
「なんの話をしてるんですか」
「薬に関しては?どこまで分かってる?いやー、ドラコには感づかれてると思ったけどさぁ!あべこべ薬使ったことだけは内密にして!人生最高レベルのしくじりなんだから!」
「あの、え?知りませんけど?」
「こっちだって別に好き好んで危害を加えたわけじゃないよ。危害を加えていいと思ったとかじゃないし、言葉を選ばずに言えば復讐だし、えへへ、恥ずかしい……」
「恥ずかしいで済ませていいレベルなのか、それは」
思ってもみなかったことを言われると人というのはその事実をかみ砕くために冷静になるものだ。今のドラコは間違いなくそれである。
勝手に良い子ちゃんになった知人を侮蔑するために放った言葉が、想像だにしない真実を連れ帰ってくるなど誰が思おう。
ドラコの認識ではこれまで権力に興味もなかったくせに突如アンブリッジに取り入って、彼女の失脚と同時にその事実をなかったことにした負け犬、だったのだ。知人だからそこを突かないでいてやろうと思っていたのに。
「最初から話してください。なにしたんですか彼女に」
「え?何って、ドラコの知ってる通り……」
「僕は何も知りませんよ」
「またまた、御冗談でしょう?」
「……」
「なにも、知らない……?」
レイは顔を青ざめさせると今度こそ完全にローブの中に埋もれて壁に頭を押し付けてしまった。
ほぼ成人男性がその喉から発せる高さレベルを優に超えた音を発しながら恐慌状態のレイをなぜか宥めてやらねばならなくなったドラコである。人生というものは様々なことが起こるものだ、と改めて感じた。
「う、先輩面して近づいた俺が悪かったですよ、うっ……」
「そもそも、貴方のことをよく知ってる僕相手に先輩面を振りかざそうとすることが間違いです」
「ら、来年から教師をやろうというのに……」
「ピレオス社が薬剤師探してましたよ」
「そこは元気づけてよ!ねぇ!」
話していたことで少し落ち着いたのか、レイがドラコの顔見る。戸惑いに揺れるそれは出合った頃と変わらず、たれ目下がり眉のお手本のようなパーツ配置。情けなくて危機感なんてこれっぽっちも抱いていないであろう表情をしている。
果たして、彼相手にまでピリついていた自分は正気だったのだろうか。彼に言われてしまった言葉がいまさら襲い掛かってくる。
「アンブリッジの件はあれとして、もしかしてスラグクラブも?」
「美味しいもの、あるって言われて、ういっす、」
「あなたはそういう人でしたね。そうでした……」
本当に単純に心配されていただけだったのだ。レイにも感情があるために、今回は売り言葉に買い言葉となってしまっただけで。
あぁ、レイごとき、と自分で思ったくせに。短期間の努力で変わって見せた彼のことをどこか脅威であると認識してしまったのかもしれない。今も昔も自分と彼は幼馴染。五光年向こうの関係なのに。
ドラコはなんだか気が抜けてしまった。闇の帝王との取り決めからこっち、久方ぶりに少し肩が軽い。何も変わっていないはずなのに。いいや、何も変わっていないからこそ。レイのことがまぶしく思えた。
「もうなにをしたかはこの際不問としますから。僕の話を聞いてください」
込み入ったことを話すつもりはなかった。これは家の問題だ。よそから首を突っ込まれてどうこうできる話ではない。父の、ひいてはドラコの背負って行くべき責任の話である。
これは本来一人でやるべき問答。百に居たら百通りの答えがあるだろうから、なんの参考にもならない。それでもドラコはそれが良かった。
「ねぇ、レイさん。そんな立場にない場合はどうすればいいですか」
「立場って?アンブリッジの犬の話してる……?」
「いいえ、彼女のことは忘れてください。賢い選択、の話です。選択に見せかけた強制。提示された道は二つあるように見えて、本当は片方にしか道がない。そんな場合」
どことなく悲壮感に溢れるドラコの表情。親に愛されて自尊心高く育った彼を知っているレイにとって、その表情は初めて見るものだった。
父から聞いた話では、ドラコの家は今大変難しい状態にあるらしいのだ。ハセオ家を英国魔法界の問題に巻き込むことを是としなかったルシウスはしばらくの間、ハセオ家との貿易をマルフォイ家の持つフロント企業に預けている。
深からぬ縁があるのは間違いないので、できる支援はしたいと申し出ている。とはいえ、どうしたって英国魔法界におけるマルフォイ家は闇側にほど近い。元来損得のバランスで動く商人が利益ゼロで動くことはないだろう。
ドラコも多くは語らない。いいや、語れないのだ。それこそが子煩悩なルシウスが出張ってくることができない理由なのだろう。
レイの手元にある事実を組み合わせて絵を描く。少ない事実から推理して答えを導くのは間違うことも多い。それでも、何も考えないよりはマシだ。
おそらくは。マルフォイ家そのものに"何か"があったのだろう。深いことはわからないがドラコが彼の身内を人質に取られているのは明らかだった。
であれば。レイができることは何もない。蠢く闇の勢力に敵対心を燃やしたとて何になる。自分がダンブルドアレベルの天才であったとしても、超一流の闇の魔術の使い手を複数人相手取って大立ち回りはできない。
可愛い後輩がそんな立場に置かれていることに憤慨する。それでも、レイにできることは声をかけるくらいのものなのだ。
レイは深く息を吐いてからドラコに向き直った。彼が求めているのは聞こえの良い正論じゃない。無論、耳に優しい慰めでも。
「俺は強制された道に好きな人が居てくれるならそれでもいいや」
「言ってることがさっきと違うじゃないですか」
賢い選択だなんて言ったくせにとドラコはアイルブルーを曇らせる。なんの参考にもならない、だなんて諦めたくせに自分は案外、人が変わったようなレイに何かを期待していたのかもしれない。
突然魔法が上手くなったことや、アンブリッジにしたことも含め、何か強大な後ろ盾でも得たのではないか、と。
それはとんでもない見当違いだったのだ、とドラコは肌で感じる。彼の本質は変わっていない。
「友達を守るため、大切な人を死なせないためだったらプライドなんて塵以下だよ。でも権力におもねる、とかそういうんじゃない。それはスリザリン的じゃないから」
面白半分で敵を増やすことは推奨される行いではないのだ。そこでできた敵がいつ自分に牙をむくかもわからないから。だったら、内側に入り込んで身を守るべきなのだ。本来ドラコにはそれができるだけの立場と才能がある。けれど。情勢がそれを許してはくれない。
「君の家で何が起きているか、聞いても僕には何もできない。でも、優しいんだなぁって思う。ドラコ、今君の心の中にあるその線だけは踏み越えてはいけないよ。君はきっと、深く傷つくだろうから」
さぁ、フィルチに捕まっちゃうから戻ろうか。
足を止めさせたのは自分なのにドラコを急かしてみた。今度こそ、きちんと帰路に就く。門限目いっぱいということもあってかメイン通りなのに人間はおろか、ゴーストやピーブスともすれ違わない不思議な体験ができた。階段の動く音だけが廊下に響く。
一人だったら恐ろしくなって大きな鼻歌を歌っていたかもしれない。偶然、とはいえドラコが居て助かった。
お喋りではない二人はしずしずと急ぐ。その途中でドラコはほんの戯れに三歩ほど下がって着いていくことにした。
「え、なんで?姿が見えないです怖いです」
「いますから、安心して進んでください。振り返らず」
「どうしてこんなことを?」
「面と向かっては言いづらいことを、少々」
「ひゅー……」
こつこつ、廊下を叩く革靴の音はきちんと二つある。それでも姿を見てはいけないものにつけられているのはあまりいい気分ではない。関係ないとはわかっていても、この形の神話に思いをはせてしまうのだ。
どうしようか。寮に返ったら何食わぬ顔で談話室にドラコが存在していたら。そんな恐ろしい創造までしてしまったレイである。恐怖の根源は大概想像力だ。
「レイさんは変わりましたね」
「自分でもそう思うよ」
「やっぱり、喪失というのは耐え難い体験ですか」
「そうだねぇ、もう二度と体験したくないねぇ。みんな長生きしてくれって思う。僕が先に死ぬから」
「……。最近は綺麗な仮面も手に入れましたけど」
「でも、ドラコの前ではなんだか上手にできないんだよね。不思議。いつも通りでもいいと思ってるのかも」
へへへ、といつも通り笑う照れた声。彼は本音を投げるときにはにかむ癖がある。
自分たちは文化もコミュニティも違う幼馴染だ。自分は英国魔法界の特権階級で彼はそうではない。自分の受けた教育をレイは受けていない。親にそうあれと言われて引き合わされただけの、友達にさえなれない間柄。それでも、親近感だけはあった。本物の友達を知らない。ある意味では一人ぼっち。近くて遠いその場所からお互いを望遠鏡で見ていた。はずだったのに。
ドラコの足が止まる。レイは、ただ一人を見つけたのだろう。五光年ぽっちの差が途方もなく開いて、気が遠くなるようだった。
「ドラコ、ドラコ!?おっかないんだけどついてきてるよねぇ!?」
「ここからは一人で帰れますか?」
「むりです!こっわぁあぁあっ!!!!」
「教師になったら夜間の見回りがあるんですよ。しっかりしてください」
耐え切れなくなって振り返れば呆れた顔のドラコがいた。顔はいつも通り白い。それでも、思い詰めた様子は少しだけなりを潜めていた。こちらを心配させないためなのだろう、その配慮にレイは悲しくなってしまう。
彼の持っている途方もなく尊い名前。父母に愛された証、ではない方。脈々と繋がっている歴史が彼の弱さを許さない。
「君はいつでも優しいなぁ」
「そんなこと言うのはあなただけです」
レイは空いた距離を自然に詰める。そして彼の手を取った。意外と暖かなそれに、そういやコイツ、スポーツマンじゃん、と思い出すのだ。今はもうこの城に居ない双子くらい、温かくて硬い指先だ。
「だから、僕は君のこと助けたいって思うんだよ」
「それ、みんなに言ってるんでしょう」
「まっさか!僕は公平で公正な素晴らしい魔法使いになりたいと思ってるけど。それ以上に、大事なものをみんな守れる人間になりたいと思ってるんだよ。ドラコは僕にとっていなくなって欲しくない人の一人だ」
だからね、ちゃんと帰ろう。今晩はよくない日取り。レイは彼の手を握ったままに帰路を急ぐ。可愛い猫の気配がしたのだ。
レイは圧倒的猫派だが、この学校における深夜の猫ちゃんはいい結果を招かない。お昼であれば撫でさせてくれと迫ることもあろうが、今は絶対にダメだ。
あっという間に階段を下りて、地下。スネイプの居室の前も音を立てないように進む。
いつだったか、そう。彼がもっと幼いころ。深夜徘徊の咎でとんでもない減点を食らったことがあった。レイがあれって何点だったっけ、と聞けばドラコは苦々しそうに五十点だという。どうにも五十という数字は天国にも地獄にも通じているらしい。
「ま、でもドラコはすぐに取り返してたしね」
「あれはスネイプ先生の贔屓です」
「そうでもないよ。スネイプ先生は不正はするけど不当なことはしないから。褒められるところでちゃんと褒めてる」
レイがそう言い切ったところで、寮の前にたどり着いてしまった。ここから先はいつも通り。感情を揺さぶるような本音はここから先にふさわしくない。
だから、最後に。ドラコはどこか震えたようにも聞こえる声で、レイに問うた。
「どうして僕のことそんな風に思ってくれるんですか」
「だって、学校で居場所を作ってくれたのはスネイプ先生だけど、英国魔法界で最初に声をかけてくれたのは君だから。たとえルシウスさんに言われたから、であってもそれは変わらない。ドラコは僕に親切にしてくれる。だから、できれば。怖い目にも痛い目にも合わないでくれって思ってる」
「そう、ですか」
二人は扉の前で息を整えるといつも通りに戻った。方やスリザリンの貴公子、方やスリザリンの異邦人だ。きたる卒業まで、いいや卒業しても。この寮における立場は変わらない。
「「純血」」
口に馴染みきった合言葉はきっと寝ていたって唱えられるだろう。開いた扉の内側に入ればちらほら談話室に人影が見えるが、ドラコとレイを気にも留めていないようだった。
「……この合言葉、僕が卒業するまで一度も変わってないと思うんだけどさ。うちの寮って防犯意識どうなってるの?」
「そういえばほかの寮では定期的に変わったりするんでしたっけ」
「グリフィンドールは結構頻繁に変わってたと思う。レイブンクローはそもそもクイズに答えることができたら入りたい放題で、八ッフルパフは出入り自由なはず。でも蛮勇猛々しい獅子寮がさ、敵対してる寮の合言葉知ったらやりたい放題されると思わない?」
「……。確かに、防犯意識については考えるべきかも知れませんね。寮監に助言しますか」
「そっか、スネイプ先生の仕事か。うーん。このところ忙しそうなんだよなぁ……やめとこ……」
つい癖で、準備室に繋がる壁を見たレイである。こんな簡単な合言葉なのに今までグリフィンドール生が乗り込んできたことがないのが何よりの証拠。おそらく、合言葉以外の防御策があるに違いない。
深まる宵にちらほら談話室を後にする影たち。彼らと同じようにレイもベッドルームに下がろうと階段に足を向ける。
それに待ったをかけたのは珍しく名残惜しそうなドラコの声だった。
「レイさん」
「なに?」
「守りたいものを守ることが悪だったとしても、貴方は足を進めますか」
「勿論。どこまでだって行くだろうね」
「それは、愛だから?」
「あー、愛かぁ……」
一人の人間が守れるものの大きさには限度があるとレイは思うのだ。限度があるうえに、手の内に入れたからと言って必ず守り切れるかというとその限りではない。
自分は闇が跋扈する世界で間違いなく頼りないだろう。強力な魔法こそ尊ばれる時代が来たら、魔法薬学特化の自分など、取るに足らない存在のはずだ。
それでも、守りたいと思うものがレイにはある。その感情の働きを愛、とは名付けたくない。これが愛ならあまりにも低俗だから。
「愛、にしちゃってもいいんだけどさ。仮に愛だとしても僕のこれは偏愛でしかないよ。だって、世界のために身を捧げるのこそが愛だ!なんて御立派なこと言えないから。こんな短い手で目に見えるもの全てを守りきって見せる、なーんて大それたこと言えるわけない」
だから、できるだけ側に居てね。そしたら頑張る。
朗らかに笑う顔はあまりに柔らかい。こちらの力が抜けてしまうくらいには。いつまでも子供っぽい人だ。考えは浅いし甘ちょろい。いつの間にか加わった人の良さが輪をかける。
無論、それは彼にとっての身内に対してだけの顔だ。暗い小道をそっと照らす月光。だからこそ、その側は酷く居心地がいい。
「じゃあね。おやすみ、ドラコ。早く寝るんだよ」
「えぇ、おやすみなさい」
レイを見送って、ドラコは一人、談話室のソファーに腰かけた。
世界に対する正しさ、を考えればダンブルドアに今すぐ事と次第を報告するのがいいのだろう。父母を人質に取られ、貴方を殺すように命じられたのだ、と。
そうすればきっと、あの老人は手を貸してくれるだろう。でも、それに確信が持てない。
スリザリンである自分に彼が目を向けるだろうか。ハリーポッター、ひいてはグリフィンドール贔屓のあの老人が、闇と繋がり深いマルフォイ家になど。
それに、もしその案がどこかから漏れて親に危害を加えられたら。あの闇深い人はきっと考えられる限り最悪の方法を持って彼らを害するだろう。そんなことになったら耐えられない。
彼を前にしたらこちらの選択に正しさなんてなくなってしまうのだ。彼のための道理と彼その人の思い描く正しさだけが存在する世界。でも、純血で強い魔法界のためには仕方がない。魔法界には圧倒的な統率者が必要だと、ドラコは思ってしまうのだ。
幼いころよりずっと。そうであると育てられてきたから。今更あの人が恐ろしいだけの悪魔の化身だと言われたとて。彼を前にして恐怖に魂が慄けど。名誉なことだ、と飲み込むしかないのだ。
ドラコは短く息を吐くと立ち上がり、大窓のカーテンを開いた。月光が差し込んで、揺れた波の影を談話室に連れ込む。そうして、ドラコの心の奥まですっかり冷やしてしまったのである。
父と母を守るためだった。家族を危険な目に合わせたくなかった。彼に従えば大切なものだけは守られるだろう。ならば、やるしかないのだ。この手で。
◆
翌日。ドラコは一人で校内を歩いていた。誰一人側に置かず日陰の道を進む。それは彼の人生にとっては初めての経験になった。その経験は周りの景色すらも変える。ホグワーツはこんなに寒くて静かな場所だっただろうか。
誰も彼もが日向に向かって歩いてゆくように見える。やはりこの選択は間違いなのでないか。それでも父と母の、愛してくれる人たちの怯えた顔を思い出すとたまらない気持ちになるのだ。
もし、これで。作戦が成功となったら。あのお方はマフォイ家をまた高い場所においてくれるかもしれない。ブラック家ほどは無理でも、きちんと扱ってくれるかもしれない。
そうしたら、父と母はこれ以上虐げられなくてよくなるだろう。あの恐ろしい人は、優しいのだ。チャンスをくれた。その期待に応えることができれば、それでいいだけの話だ。
期待に応えることこそ、我が人生だっただろう。いつもと同じだ。父に愛されるためにしていたことと何ら変わらないではないか。
「僕はできる、大丈夫さ。今回だってかけられた期待に応えればいいだけだ」
レイとの密約で必要の部屋に関しては知っていた。件の羽ペンと引き換えに手に入れたこの城の神秘。
七階にある何もない壁。その前にたたずんでみてもレイの嘘なんじゃないかと思うほどだ。
それでも、信じなくては始まらない。
「計画が外に漏れず、なおかつ成功させることができる設備のある部屋、」
唱えながら廊下を往復すれば音もなく扉が現れる。今の今まで存在していなかった部屋に入れば、無数のがらくたが積み上げられていた。
がらくたに触れてしまわないように細心の注意を払って部屋の奥へと誘われる。どこにどんな呪いがあるか分からない。双子の呪文のかかった物体があったらとんでもないことになるだろう。慎重を期すに越したことはないのだ。
道行を彩る銀の煌めきや蛇のモチーフが本当にいいのか、まだ間に合うのではないかとドラコに問いかける。けれど、ドラコを急かすのもまた蛇なのだ。逃げるように小走りになり、何時しか最深部へと押し込まれてしまった。
少し開けた場所にある、埃っぽい布をかぶった背の高い何か。一目見た瞬間に求めていたものがこれなのだと悟る。これが何なのかはわからない。でも、これだ。これしかない。
ドラコは自らが汚れることもいとわずに布をのけた。人生においてみたことのない量の埃が舞い上がり、部屋の中をぼやけさせる。慌てて口元を押さえたが時すでに遅し。体内に入り込んだ埃を吐き出そうと肺がわななく。涙目になるほど咳き込んで、ようやく落ち着いた。
徐々に正常に戻る視界。映ったのは重厚な黒。その存在感は計り知れない。ドラコはそれが一体なんであるかを知っていた。
「姿をくらますキャビネット棚……」
発した声が部屋内に響く。反響が返ってきて、真後ろから声がとんできた。その音に肩を跳ねさせる。
これがまるきりの悪事であることには自覚があった。
この経過が進めば確実に誰かが死ぬだろう。闇を統べるあのお方はそういう人だ。
悪事、とは元来一人で働くものである。
秘密裏に誰かの喉元をつけ狙うために。
振り向いても、誰もいない。
取り巻きも、父も。母も。
暗い、暗いこの道行きに供はいない。
「そう、か。僕には誰もいないのか」
キャビネットを開けば、油が切れているらしく甲高い金属音が鳴る。黒檀で作られた内部は宇宙の果てを思わせる深い色。
開かれた秘密の部屋。カンテラの明かりだけが揺れていた。