彼女に触れることができたあの日から丸三日。レイはひたすらに神経を張り巡らせていた。あの不可思議な感覚は、気を抜くと全身に回ってしまうのだ。そうなったが最後、肉体と魂とが分離し、確実に肉体が死んでしまうだろう。その予感があった。
「精神統一が一番難しいんだよこれ、あー、俺ってば煩悩まみれだからなぁ、あと、ここうるさいし……」
悲鳴が響く地下実験室でレイは覚えたての技術を完全に身に着けようと繰り返す。
マートルの場合は最初から霊体なので、彼女の中に触れるべき魂はない。しかし、レイの本来の目的は生きている人間の肉体を無視して直に魂に触れること、だ。
指先に魔力を集中させて肉体を忘れる。するとそこに意識が残る。その意識体を意識せずに動かして自分の手だと思い込む。ここまでに関しては随分とスムーズに運ぶようになった。後は、他人に試すだけだ。
それにはモルモットが必要不可欠。レイは鎖に繋がれた実験体の中から一際小さなものを選び取った。暴れる可能性も低いし、レイ一人でも扱いやすい。
震えているそれを椅子に座らせ、胸に手を当てた。心臓の音、温かい肉体。これを、通り抜ける。
レイの身体からはみ出した意識体は皮膚という、本来であれば内と外とを隔てる防壁を悠々とすり抜けた。通常生きていればありえない感覚に泣き叫ぶ子ネズミ。ただ、レイにその泣き声は届かない。
胸中をまさぐれば、人さし指に何かが当たった。ザラリとした指当たりには馴染みがある。レイはそれをつまむと胸から手を引き抜いた。
「折り紙みたいに見える」
質量を持って現れた魂、は思っていたものとはまるで違う見てくれをしていた。中心には淡く光る魂魄があり、その周りを柔い半紙のようなものが覆っている。半紙のようなものの端を握りつぶせば意識を失った彼の肉体が面白いように跳ねた。
「分霊、はこの紙を引き裂く行為なのかな、それとも魂魄側に干渉して割れたりするんだろうか、不思議がいっぱい。魂を引きずり出しても肉体は生きてるみたいだし、やっぱり魔法使いの心臓って魔力なんだなぁ。こうなると純粋なマグルでも同じ実験してみたくなるよね。……あ、そっか。この子の親は両方とも人じゃないのか。だったらすぐに使えるね」
レイは魂の端っこをちぎ切り取り、彼の中に戻した。とはいえ、ちぎったそれはすぐに塵となり、空気中に溶けてしまう。本体から切り離されては存在できないのだろう。
少年は意識を取り戻すも、焦点が合わない。悲鳴を上げないから静かでいい。ただでさえレイは大きな音が苦手なのに、高音は殊更耳障りなのだ。レイはにっこり笑って実験を続ける。
その晩、やれるだけのことをやったレイが行き着いたのは魂は意図的に形を変えることができる、ということだった。であれば、理論的にそれを応用すれば魂の圧縮だってできるはずだとレイはほくそ笑む。
それは、子供の時から考えていたことだった。魂の圧縮ができれば、魔法を行使するとことがもっと容易になるはずなのだ。魂魄を取り巻いている部分が人の二倍あるのだとすれば、そこを圧縮してしまえばいい。圧縮し、固定してしまえばようやく人並みになれるだろう。
ここまでの目途がたった今、自分が作るべきは魂を任意の形で固定するための薬である。こちらに関してはそこまで難しい話ではない。魂に干渉する薬草や魔法生物の類はとうにリストアップ済み。作ったら自分で飲んで効果を試すのが手っ取り早い。
そして、実際に薬そのものは一週間もかからずに完成した。それは、別の世界線では誰に言われるまでもなくレイが生み出した魔法薬。けれど、処方があまりにも違った。
向こうのレイが作り出したのは魂そのものを薬の力で圧縮するものである。文字通り今あるものをそのまま半分にまで押し縮めるのだ。イメージとして近いのは圧縮タオルだろう。タオルに圧をかけて真空状態にすることでタブレットサイズにし、運用しているのだ。
ゆえに、魂そのものは損なわれない。向こうのレイは必要に駆られていないので作ってはいないが、魂をもとの大きさに戻す薬も理論上作成が可能なのである。
けれど、こちらのレイが作ったものはまるで違う。魂に触れる、という秘術を持ってして、魂を好きな大きさになるまで握りつぶす。そして、くしゃりと丸まったそれを薬の力をもってして固定する力技なのだ。
確かに、基礎能力は上がるが、一度ついた皺はもう二度と戻らない。それに、ヒビが入らないとも限らなかった。常人であれば決して取らない手法である。
それでも。レイにはこれしかなかった。
魂に触れることができると知った今。これに働き掛けないなんて勿体ないことどうしてできよう。
レイは薬を片手に私室に拙い結界を張る。声が漏れてスネイプにでも助けられてしまったらことだ。それに、もし腐れサディスティックレストレンジが入ってきたら普通にそのまま殺されるに違いない。
だからこそ何があってもこの扉が開かないように、彼の魔力の上限を叩いて精いっぱいの防音呪文、および侵入防止結界を張ったのだ。
「俺にだったらできる」
レイに右手の指先は肉体を忘れる。靄のような半透明が自分の胸中に入り込んだ。それは実に不思議な感覚だった。在るのに無い。無いのに在る。薄気味悪いのに心地よくて、悲しいのに嬉しい。
レイは自分の魂に触れる。そして、容赦なく握りつぶした。とたん襲い来る怖気。肉体への苦痛はないのに存在しない器官が疼痛を訴える。見えるわけではないため、レイは何度も何度もそれこそ手に平に収まるようになるまで、執拗に潰す。
そして、思い描いたサイズになったところで魂を握ったまま、レイは左手で小瓶の蓋を開けた。
「よっし、かんぱーい。ファイアウイスキーみたいなもんでしょ!」
そう嘯いてレイは中身を飲み干す。今の自分に必要なものだと確信して。効果さえ出れば、それを認めさせることができたら。あの男は確実に自分を信用するだろう。
できないのであれば、この薬の苦痛に耐えきれずに死んだことにすればいい。それだけのことだ。成功したら欲しいものが手に入り、失敗しても自分が死ぬ程度のことだ。そんなメリットしかない賭け。この命をかけるには十分すぎる。
喉を通る冷たい液体。言いえぬ寒気に身が震えたのは一瞬で、すぐさま灼熱が襲う。意識体になっていた右手もすぐに痛みに焼かれて現実へと押し出されてしまった。
肉体は爆発してしまいそうなほどなのに、魂は氷みたいに冷たい。折りたたまれ、引き伸ばされ、時も空間もわからなくなる。いっそ殺してほしいと思うほどの苦痛。それでも、死ねない。魔法族の心臓を動かしているのは魔法力。高炉が爆発してしまわない限りこの苦痛は続く。
意識を失うことすらできぬ絶望の中、レイは自分の身を抱くことしかできなかった。
それから、どれほどの時間が経っただろう。小康状態か、はたまた苦痛の終わりか。それすらわからず、レイはかろうじて動く指先で自分を取りもどした。口元を拭えば唾液と鮮血。叫び過ぎて喉が切れたらしい。
もうすでに笑っちゃうほどぼろぼろなんだけどなぁ、と鼻で笑うことができた。気になってそっと手を伸ばせば鼻はそこにある。魂をいじった実績解除ではあるが蛇顔にはなっていないようだ。よかった。
酷い筋肉痛と関節の痛み。体中がだるい。インフルエンザで長患いをした小学一年生の冬を思い出す。病み上がりの布団の中から窓の外の雪を眺めていた。そんな記憶。
それに浸っているのも悪くはないのだが、自分は大人である。指先から少しずつ動かせば、痛みは酷いながらも起きあがることはできた。最低限の尊厳は破壊されていないことに安堵しながら不調を探す。鏡を出して顔を見れば、幾分か痩せている気さえした。丸い子供顔はレイも気にしている所ではあったのでこれはこれでいい副作用ではなかろうか。
「……およ?」
よくよく見れば、ローブの袖元やパンツの裾がつんつるてんになっている。ここに来てからというもの、その身にぴったりとあった装いが求められていたのでこれは由々しき事態だ。
「なるほど、なるほど……?」
どうにも、この筋肉痛と関節痛はうっすらとした成長の証らしかった。魂を固定した際に、魔法力側に体が合わせたのだろう。どうにもこれが自分のマックス値らしい。
もう少しだけ身長伸びてくれよ!と嘆けども、基本的に英国紳士どもを相手にするから見劣りするだけである。日本人的にも小柄だということはもうこの際、忘れることにした。
ともかく、これは狙った通りの効果と言っても過言ではないだろう。魂にも作用し、形を固定するなんて滅茶苦茶な薬は彼の天才的な才能をもってこの世に生み出されてしまった。
「……、ステラカスカディア」
杖を振れば、明らかに今までとは異なる出力で効果が表れる。優しく降り注ぐ星屑。一般的な魔法使いより一段階劣った効果でしかなかったが、レイからすれば十二分だ。
久方ぶりにレイは笑った。これでようやく、セド先輩に手を伸ばすことができる、と。