彼女に触れることができたあの日から丸三日。レイはひたすらに神経を張り巡らせていた。あの不可思議な感覚は、気を抜くと全身に回ってしまうのだ。そうなったが最後、肉体と魂とが分離し、確実に肉体が死んでしまうだろう。その予感があった。
「精神統一が一番難しいんだよこれ、あー、俺ってば煩悩まみれだからなぁ、あと、ここうるさいし……」
悲鳴が響く地下実験室でレイは覚えたての技術を完全に身に着けようと繰り返す。
マートルの場合は最初から霊体なので、彼女の中に触れるべき魂はない。しかし、レイの本来の目的は生きている人間の肉体を無視して直に魂に触れること、だ。
指先に魔力を集中させて肉体を忘れる。するとそこに意識が残る。その意識体を意識せずに動かして自分の手だと思い込む。ここまでに関しては随分とスムーズに運ぶようになった。後は、他人に試すだけだ。
それにはモルモットが必要不可欠。レイは鎖に繋がれた実験体の中から一際小さなものを選び取った。暴れる可能性も低いし、レイ一人でも扱いやすい。
震えているそれを椅子に座らせ、胸に手を当てた。心臓の音、温かい肉体。これを、通り抜ける。
レイの身体からはみ出した意識体は皮膚という、本来であれば内と外とを隔てる防壁を悠々とすり抜けた。通常生きていればありえない感覚に泣き叫ぶ子ネズミ。ただ、レイにその泣き声は届かない。
胸中をまさぐれば、人さし指に何かが当たった。ザラリとした指当たりには馴染みがある。レイはそれをつまむと胸から手を引き抜いた。
「折り紙みたいに見える」
質量を持って現れた魂、は思っていたものとはまるで違う見てくれをしていた。中心には淡く光る魂魄があり、その周りを柔い半紙のようなものが覆っている。半紙のようなものの端を握りつぶせば意識を失った彼の肉体が面白いように跳ねた。
「分霊、はこの紙を引き裂く行為なのかな、それとも魂魄側に干渉して割れたりするんだろうか、不思議がいっぱい。魂を引きずり出しても肉体は生きてるみたいだし、やっぱり魔法使いの心臓って魔力なんだなぁ。こうなると純粋なマグルでも同じ実験してみたくなるよね。……あ、そっか。この子の親は両方とも人じゃないのか。だったらすぐに使えるね」
レイは魂の端っこをちぎ切り取り、彼の中に戻した。とはいえ、ちぎったそれはすぐに塵となり、空気中に溶けてしまう。本体から切り離されては存在できないのだろう。
少年は意識を取り戻すも、焦点が合わない。悲鳴を上げないから静かでいい。ただでさえ大きな音が苦手なのに、高音は殊更耳障りなのだ。レイはにっこり笑って実験を続ける。
その晩、やれるだけのことをやった彼が行き着いたのは魂は意図的に形を変えることができる、ということだった。であれば、理論的にそれを応用すれば魂の圧縮だってできるはずだとレイはほくそ笑む。
それは、子供の時から考えていたことだった。魂の圧縮ができれば、魔法を行使するとことがもっと容易になるはずなのだ。魂魄を取り巻いている部分が人の二倍あるのだとすれば、そこを圧縮してしまえばいい。圧縮し、固定してしまえばようやく人並みになれるだろう。
ここまでの目途がたった今、自分が作るべきは魂を任意の形で固定するための薬である。こちらに関してはそこまで難しい話ではない。魂に干渉する薬草や魔法生物の類はとうにリストアップ済み。作ったら自分で飲んで効果を試すのが手っ取り早い。
そして、実際に薬そのものは一週間もかからずに完成した。それは、別の世界線では誰に言われるまでもなくレイが生み出した魔法薬。けれど、処方があまりにも違った。
向こうのレイが作り出したのは魂そのものを薬の力で圧縮するものである。文字通り今あるものをそのまま半分にまで押し縮めるのだ。イメージとして近いのは圧縮タオルだろう。タオルに圧をかけて真空状態にすることでタブレットサイズにし、運用しているのだ。
ゆえに、魂そのものは損なわれない。向こうのレイは必要に駆られていないので作ってはいないが、魂をもとの大きさに戻す薬も理論上作成が可能なのである。
けれど、こちらのレイが作ったものはまるで違う。魂に触れる、という秘術を持ってして、魂を好きな大きさになるまで握りつぶす。そして、くしゃりと丸まったそれを薬の力をもってして固定する力技なのだ。
確かに、基礎能力は上がるが、一度ついた皺はもう二度と戻らない。それに、ヒビが入らないとも限らなかった。常人であれば決して取らない手法である。
それでも。レイにはこれしかなかった。
魂に触れることができると知った今。これに働き掛けないなんて勿体ないことどうしてできよう。
レイは薬を片手に私室に拙い結界を張る。声が漏れてスネイプにでも助けられてしまったらことだ。それに、もし腐れサディスティックレストレンジが入ってきたら普通にそのまま殺されるに違いない。
だからこそ何があってもこの扉が開かないように、彼の魔力の上限を叩いて精いっぱいの防音呪文、および侵入防止結界を張ったのだ。
「俺にだったらできる」
レイに右手の指先は肉体を忘れる。靄のような半透明が自分の胸中に入り込んだ。それは実に不思議な感覚だった。在るのに無い。無いのに在る。薄気味悪いのに心地よくて、悲しいのに嬉しい。
レイは自分の魂に触れる。そして、容赦なく握りつぶした。とたん襲い来る怖気。肉体への苦痛はないのに存在しない器官が疼痛を訴える。見えるわけではないため、レイは何度も何度もそれこそ手に平に収まるようになるまで、執拗に潰す。
そして、思い描いたサイズになったところで魂を握ったまま、レイは左手で小瓶の蓋を開けた。
「よっし、かんぱーい。ファイアウイスキーみたいなもんでしょ!」
そう嘯いてレイは中身を飲み干す。今の自分に必要なものだと確信して。効果さえ出れば、それを認めさせることができたら。あの男は確実に自分を信用するだろう。
できないのであれば、この薬の苦痛に耐えきれずに死んだことにすればいい。それだけのことだ。成功したら欲しいものが手に入り、失敗しても自分が死ぬ程度のことだ。そんなメリットしかない賭け。この命をかけるには十分すぎる。
喉を通る冷たい液体。言いえぬ寒気に身が震えたのは一瞬で、すぐさま灼熱が襲う。意識体になっていた右手もすぐに痛みに焼かれて現実へと押し出されてしまった。
肉体は爆発してしまいそうなほどなのに、魂は氷みたいに冷たい。折りたたまれ、引き伸ばされ、時も空間もわからなくなる。いっそ殺してほしいと思うほどの苦痛。それでも、死ねない。魔法族の心臓を動かしているのは魔法力。高炉が爆発してしまわない限りこの苦痛は続く。
意識を失うことすらできぬ絶望の中、レイは自分の身を抱くことしかできなかった。
それから、どれほどの時間が経っただろう。小康状態か、はたまた苦痛の終わりか。それすらわからず、レイはかろうじて動く指先で自分を取りもどした。口元を拭えば唾液と鮮血。叫び過ぎて喉が切れたらしい。
もうすでに笑っちゃうほどぼろぼろなんだけどなぁ、と鼻で笑うことができた。気になってそっと手を伸ばせば鼻はそこにある。魂をいじった実績解除ではあるが蛇顔にはなっていないようだ。よかった。
酷い筋肉痛と関節の痛み。体中がだるい。インフルエンザで長患いをした小学一年生の冬を思い出す。病み上がりの布団の中から窓の外の雪を眺めていた。そんな記憶。
それに浸っているのも悪くはないのだが、自分は大人である。指先から少しずつ動かせば、痛みは酷いながらも起きあがることはできた。最低限の尊厳は破壊されていないことに安堵しながら不調を探す。鏡を出して顔を見れば、幾分か痩せている気さえした。丸い子供顔はレイも気にしている所ではあったのでこれはこれでいい副作用ではなかろうか。
「……およ?」
よくよく見れば、ローブの袖元やパンツの裾がつんつるてんになっている。ここに来てからというもの、その身にぴったりとあった装いが求められていたのでこれは由々しき事態だ。
「なるほど、なるほど……?」
どうにも、この筋肉痛と関節痛はうっすらとした成長の証らしかった。魂を固定した際に、魔法力側に体が合わせたのだろう。どうにもこれが自分のマックス値らしい。
もう少しだけ身長伸びてくれよ!と嘆けども、基本的に英国紳士どもを相手にするから見劣りするだけである。日本人的にも小柄だということはもうこの際、忘れることにした。
ともかく、これは狙った通りの効果と言っても過言ではないだろう。魂にも作用し、形を固定するなんて滅茶苦茶な薬は彼の天才的な才能をもってこの世に生み出されてしまった。
「……、ステラカスカディア」
杖を振れば、明らかに今までとは異なる出力で効果が表れる。優しく降り注ぐ星屑。一般的な魔法使いより一段階劣った効果でしかなかったが、レイからすれば十二分だ。
久方ぶりにレイは笑った。これでようやく、セド先輩に手を伸ばすことができる、と。
■
レイの実験の成功をどこからか聞きつけたらしい帝王は彼を呼びつけた。レイが興味のない人間のバックグラウンドを気にしないたちだと言えど、相手は稀代の現役大量殺人鬼に変わりはない。一対一で対面を許されているだけありがたいが、嫌なものは嫌である。レイはかの帝王様の放つ地獄のような圧迫感に耐えるためにいくつかの薬を飲んで彼のいる部屋へと向かった。
今日も今日とて高い位置から自分を見下ろす彼はさながら猫ちゃんであるが、蛇顔すぎる。あぁ、どうせなら本当に猫ちゃんだったらいいのに。もしも彼が、スリザリン生でなかったのならば、ライオンだったりしただろうか。そんな風に考えるのも現実逃避にすぎなかった。
「帝王様本日もご機嫌麗しゅう。下っ端研究者に何の御用で?」
レイが問えば彼は無言で何らかをレイの足元へと投げつけてきた。避ける必要もなくぴったり止まったそれはあまりに見事なコントロールである。床に瞬間接着剤でも塗ってあったのだろうか。
「これは……」
レイが観察するまでもない。随分と平たい彼はジニーの友達である。最後に見た時にはなかったカッコいい牙飾りが施されてこそいるが、見間違いようがなかった。つまり、自分が三年生の時に今は亡き英雄ハリーポッターによって壊された分霊箱である。要するに、誰がどう見てもお喋り日記帳としての機能を完全に失った紙の束だ。
「直せ」
「無理じゃないですか?だってこれものの見事に死んでるって言ってもいいでしょう。それともあれです?魂って毒では死なない?毒蛇の王も肉体を持たない相手には形無しってわけですか?」
「黙れ。俺様がやれと言っているのだ」
「できないことをできないっていうのもまた学者としての務めと言いますか。できないですよ?」
「ならば、この石、貴様の前で砕いてみせようか」
「やりますともええ!やらせてくださいませ!ぜひこの俺に!」
「ちなみに、刺さっているのはバジリスクの牙だ」
ひっ、と息を飲んでからレイは手袋を嵌め、さらに浮遊呪文で大鍋の中に放り込んだ。これに関しては教えてくれてありがとうございます、と純粋な感謝の気持ちが湧いてくる。
バジリスクの毒がいかに恐ろしいものかを知っている者として、これをそんなに雑に扱わないで欲しいと思うが、色々人類を超越し始めているこの人にとっては些細なことなのかもしない。
念のため、といまだぬらりと輝く液体を銀のスプーンで掬えばたちまち黒く染まった。ちっとも薄まっていない効果、呆れるほど強い毒である。流石のレイも舐めてみたいとは思わなかった。
「それを戻せ」
「戻せと言われましても」
「時間はくれてやる」
有無を言わさぬ帝王の圧。レイは恐ろしい毒を纏った日記帳とともに研究室に押し込められてしまった。問答無用というやつである。しかし、諸々の実験道具や分霊箱に関する文献が積まれていたのはありがたい話だった。意外と話が分かる人なのかもしれない。
レイはそのうちの一冊をめくってみるとそれは物の見事に超高度魔法理論の書籍だった。見なかったことにして一度閉じる。前言撤回、他人にも自分と同じだけの能力を期待する奴のことを話が分かる人、だなんて呼ばない。
「んえぇ……そもそもさぁ、これをどうやって作ったかとか教えて欲しいんだけどなぁ……」
せめて、口頭で、こっちの質問が許される状態で講義してくれよ、と文句を言いたくなるのも仕方がない話である。なにせ相手はトムリドル、ホグワーツ開校以来指折りの天才だ。
そんな彼が最初に作った分霊箱。マートルの命を使った特級呪物である。なんか面白いからマートルに見せに行こうかな、とも思ったのがさすがのレイと言えど理性が勝った。
「そもそも、毒で死ぬ日記帳って何?」
レイは完全防備の状態で鍋から日記帳を取り出す。それはそれとしてバジリスクの毒はあまりに貴重な資源であるため回収することも忘れない。
「……よし、取れるだけ取りました。これで何もかも忘れて手袋状態で顔面こすったら死ぬから先に全部の処理をしますよ、俺。こんなところで死んでる場合じゃないんで」
細心の注意を払って日記帳から牙を抜く。こんなに時間がたったというのにいまだ衰え知らずの毒にレイは正直言って恐怖を感じるとともに興奮していた。マンドレイクをはじめとした魔法生物の由来の素材には微量の魔力が乗っている。バジリスククラスの魔法生物ともなればその影響力は計り知れない。
「はー、こんだけ牙が太いと毒の出る穴も大きいんだな。人間のサイズ感なら、かすったら致死量ってわけね。こっわ」
全てのパーツが自分以外の何かを害するためにあると言っても過言ではなさそうな脅威の素材にレイは身震いするほどだった。
「さて、毒の解析からしないとね。日記帳をできれば素手で触りたいから……」
これはレイの得意分野である。ゆえに毒の解析はかなりすんなりと進んだ。解析できたからといって解毒ができるかといわれれば話は別だったが。即死、から気を抜くと死ぬ、まで危険度を落とせただけにすぎない。ここまでの毒は何があろうとも死にはする。
「でもな、結局はここから魂の欠片を取り出さなきゃいけないわけで、絶対に素手で触らなきゃいけないだろ……?うーん、そもそもこれ壊れてるんだからさ、ほんとにどうしろってんだよな」
レイは様々な薬品を塗りたくりながら更なる弱毒化を進める。それと同時進行で、これから魂の欠片を取り出す、そんな無茶について思いを巡らせた。
そもそも、日記帳に己の魂を付与する、という凄まじい無茶苦茶をどういう原理でもってして成したのか。そこを教えてもらわない事には始まらない気がするのだが、あの蛇顔帝王様はなんだかんだ忙しいのだ。それに、かなり簡単にご機嫌斜めになる厄介ヒューマンに教えを乞いたいとは思わない。
「おわ、これか。すげー、はー、この毒が。ほほん。魔力の循環阻害、これでもって魔法使いの息の根を止めてるってわけね……」
バジリスクの毒に様々な試薬を垂らして解毒パズルをするのは何よりも楽しいひと時だった。許されるのであれば薬学の師匠たるスネイプを呼び出してひとしきり盛り上がりたいところである。
けれど、どう考えてもこの結果を利用して行う事、にいい顔をしないだろう。だからこそレイは羊皮紙とお友達になることを決めた。
そんなこんなで飽きることなく三日目。どれほど弱毒化が進もうともこちらの分野のみでは分霊箱の解読には至れない。レイは図書館から魔法理論の初級読本を借りてきてひたすら読み込んでいく。
「はん、わかる。ようは、物体への強化付与ってわけね?日記帳というコモンアイテムにトムリドルの魂をエンチャントするってわけだ。でもそれって普通の魔法使いであれば意味としての付与しかできないだろ?付与ってか、魂の欠片を封じ込めた本にするのが精一杯のはずでさ。しかも術者の死後も残る、なんて永続魔法にはならない」
レイは薬液でビシャビシャの日記帳を匙でつつきながら、かつて出会ったリドルの日記について思いを馳せた。何か一つでもヒントになるものがあればいいと思ったのだ。
しかし、残念ながら十数年前のたった一日の記憶。そのうえ、この手帳は文字を飲み込んでしまうから記述も見つからないだろう。
「あのトムってめちゃくちゃ自我っぽいものがあったよな?その上、ジネブラの魂食ってポッターを叩きのめそうとした……うーん、つくづくおかしい。日記帳へのエンチャントってレベルはとっくに越えてるんだよなぁ……」
仕方がないなぁ、とレイはついに初日に諦めた本へと手を伸ばす。何を言われているかさっぱり分からないだろうがないよりはマシだ。それに、付け焼刃とはいえ開いた瞬間眠くなる、という事はなくなっているようだった。
「いきなり大ボス倒そうって方が無理だよね。エンチャント効果永続のための魔法理論、あー……あったあった、って多分これやっぱり全然違うな!?なしなし、この考え方なし!」
レイは本を閉じて薬液の中から日記帳を取り出した。そして、冷水にさらす。不思議なことにこの日記帳は水に溶けない。紙部分には明確に保護魔法がかかっているようだった。
それでもぱっと見は何の変哲もない日記帳だ。真ん中に大穴が開いているだけの。
穴が開いている付近を筆などで撫でて毒や血液を洗い流す。そして、厚手のタオルの上にあげると、手袋を外してそっと患部を撫でた。
「あ、やべ……指痺れる。まだ早かったか。でも触れるとこまで来た。バジリスクの毒は見事弱毒化成功!」
そこから再度薬液に浸し、流水洗浄を経てリドルの日記は無事に素手でも触れるようになった。
いよいよ、分霊箱としてのこれに迫っていかねばならない。とはいえ門外漢。苦しい戦いになるのは確かだ。
「分霊箱、ねぇ。裂いた魂を保存して隠すってのが簡単な考え方だろ」
干されてすっかり乾いた日記帳。開いてみると中には何の記載もなかった。戯れに文字を書き入れてみるも、やはりただの日記帳である。文字が吸い込まれたり、あまつさえ語り掛けてくるようなことはなかった。
「やっぱり、ポッターに壊されちゃったとみるのが正しいだろうな。でも、帝王様はそれじゃ納得してくれないし。俺は一休さんか」
けれど、確かに腑に落ちない。帝王に全面賛成するわけではないのだが、バジリスクの毒で魂の欠片が砕けるだろうか。そこに納得がいかないのだ。
「魂なんていう物理的には触れられない存在に、いくら魔力を帯びてるからって言ったって毒が効くとは思えないんだよなぁ……」
けれど、実際にリドルの日記、は機能停止している。バジリスクの毒は確実にこの日記の存在意義を消し飛ばしているのだ。
「有機の身体を持たぬことで自由を得た魂に通る物理攻撃、そんな矛盾がありますか?いーやー、えー、なんでぇ?」
すり、と日記の穴をなぞる。この日記に縛られていたから、これこそが肉体であると勘違いしたのだろうか。流石にそれはありえない。日記と魂を繋いでいるのは魔力ではなくヴォルデモーとのリンクのはずだ。稼働するためのエネルギーではあってもそれが本体ではない。
ホグワーツの噂によると、秘密の部屋においては肉体のようなものを顕現させていたらしいが、正しく肉ではないだろう。どう考えても魔力の塊を肉に見せていただけだ。
「ん、いや、まてよ、」
レイは己の少なすぎる魔力を日記に注いでみた。しかし、うんともすんとも言わない。流石に自分程度のごみ魔力では天才のおもちゃの再起動はできないようだった。
「本当は本人に再起動依頼をしたいけど、怖くてやだな、間違ってたら痛い目にあうし、物理的に……」
今の考えはこうだ。バジリスクの毒、には魔力の循環阻害を起こすものがある。トムリドルの魂、はここに引っかかって破壊されたように見えているだけではなかろうか。
日記帳としての機能が死んでしまったため、魂も死んだように見えた。奪った魔力の循環が止まってしまったが故に、ハリーの目の前で滅びたように見えたのではなかろうか、と。
もしこの仮説が正しければ、この分霊箱は完全に機能停止しているに過ぎない。おそらく、毒牙が刺さったままだったため、必要最低限の魔力すら蓄えられず本体とのリンクも切れてしまっているのだろう。
分霊箱として機能していない、という状態は正だ。しかしながら、この分霊箱は死んではいない。魔力を貯めておくための器が壊れているだけだ。適切な量の魔力を注ぐことができ、なおかつ日記帳として正しく機能させることができたならば、トムリドルの日記という分霊箱は復活するだろう。
「あくまで仮説だけどね」
それは恐ろしい話だった。レイはトムがどんな人間かをその末端とはいえ知っている。優しく、頼りになる、素晴らしい優等生。もしも、その仮面を彼に返してしまったら。その狡猾さを彼に与えてしまったのならば。数年のうちに世界は完全なる闇に飲まれるだろう。
レイの手元にあるのは眠れるドラゴンだ。ホグワーツ流にいうなれば起こしてはならない怪物。それでも、レイの持っている天秤の傾きは変わらない。彼は躊躇なく日記帳に魔力を注いだ。しかし、足らない。他の手段を考えるべきだ。より強力で、より呪術的な側面の強い方法を。
「俺がすっからかんになるまで注いでも無駄っぽいんだよな。何人か実験室から借りる?でも、なんか、我が君にマグル生まれの魔力を注ぐとは何事かって各方面から文句言われそう。文句言われた上でズタボロにされそう。じゃあ、喜んで協力してくれそうなベラトリックスあたりの協力を仰ぐ……いやだぁ、怖いもーん……」
それに何より、確実じゃないのだ。見通しの甘い実験に適当な人選で取り組むと何が起きるかはレイもよく知っている。注ぐべき魔力量も分からないままに他者を応援に呼ぶなど間違いの第一歩な気がした。
「……となると、あー、もうそれしかないか。献血一本勝負」
自分の手首をじっと見る。結局、魔力濃度が高いのは生体である。魔法使いの良いところはノートを血液浸しにしてしまってもスコージファイの一言で原状復帰できるところだ。やるだけやってみるしかない。
それに、かつて自分はちょっとしたしくじりでこの日記帳に血液を垂らしている。それを起点に、日記帳の記憶と記録を引き出せれば魂の回収に近づくかもしれない。随分と鉄臭いサルベージ作戦だ。
体重に対する失血死ラインを丁寧に計算してレイはノートがぴったり入るサイズのバットを用意した。成人男性である故、四百までは余裕である。それ以降は限界までぶち込めばよいだろう。それで戻らなかったら本人に突撃する。
「おっしゃ、四百で手を打ってくれ、頼む」
レイは止血剤と包帯を用意してから躊躇なく皮膚を裂いた。そしてビーカーに血液を採るとバットに流し入れる。日記帳はあっという間に赤黒く濡れていく。せっかく綺麗にしたのだが、仕方がない。
「あはは、今思ったんだけどジップロックとかの方が無駄がなかったな、反省」
適当に手当てをして日記帳を眺める。正直、当のヴォルデモーですらここまで望んでいなかったが、レイは覚悟が決まっていた。それに、ヴォルデモーにとっては軽い読み物でもレイにとってのあの魔法理論の書籍群は途方もない難度である。馬鹿は体を張るしかないのだ。
「意味がなくてもやるしかないから……なんか、少しでも、一個でも手がかりが見つかれば行幸」
規定量を注いでも血濡れの日記帳は何も変化がないように見えた。それでも、一つ言えるのは吸い上げられている量が一定なのだ。このままであれば確実にノートはレイが文字通り身を切った分だけ血を吸収するだろう。
そして、血液を吸っているのに、大穴から見える紙は白いまま。レイはその様子に成功を悟る。
「トム、おかわり欲しい?流石に倍プッシュは厳しいかもしれないけど」
バットと日記帳は何事もなかったかのように美しさを保っていた。
レイが表紙をめくるとどこにも血痕などない。むしろ古い紙特有の甘くて埃っぽい香りがする。試しに書き込んでも返事はない。しかし、インクはジワリと滲み、レイの記憶の何倍もゆっくりとではあるが彼の言葉を飲み込んでしまった。明らかに普通ではない独特な反応に成功を確信する。
「ビンゴー!じゃあ、あと少し……」
レイは再度傷を開く。そして面倒だったのでそのまま紙に血を垂らした。そして、丁度その時である。レイ専用の研究室の扉が開かれたのは。
「貴様、何をした」
「何って、献血?」
「今すぐやめろ」
「えっ、でもあと少しで、日記帳復活……」
「エピスキー」
「おーん、問答無用」
ぴったり綺麗に閉じてしまった傷口を撫でる。そして確実に【怒】なヴォルデモーに目をやった。心なしか顔色がいい。もしかしてこの部屋の外は温かいのだろうか。蛇は変温動物だというし、季節外れの夏の陽気かもしれない。
「何をした」
「壊れたおもちゃのお医者さん……?」
なんだか生意気なことを言われた気がしたのでヴォルデモーは無言でクルーシオを繰り出した。真っ青になり、苦痛に染まる表情。チョーカーのせいで思った効果は出ないが少し溜飲が落ちたのは言うまでもない。
彼は適当な羽ペンをとると日記帳に何かを書き殴った。それはラグなく飲み込まれ代わりに文字が浮かんでくる。
『あーあ、あと少しだったのに』
ヴォルデモーはそれに腹が立ったのだろう。日記帳をレイの顔面に向かって投げつけた。完璧な精度で鼻梁を捉えた背表紙でレイは鼻血を出してしまう。それはばたばたと日記帳に零れた。
「いーーーっ!!!」
「っああ!エピスキー!!」
「いっっ!!」
ただでさえぺったんこなのに曲がりかけた鼻が元に戻る。なんでこんなことになってるかちっとも理解ができないレイは困惑のまま日記と彼とを見比べるしかなかった。
「貴様」
「は、はい……」
「日記から魂を復活させたのは褒めてやろう」
「ありがとう、ございます……?」
「俺様は俺様の願いを叶える者にはきちんと褒美を出す。しかし、だ」
「俺なんかしましたか?」
レイが純粋な疑問から彼に問うと彼は日記帳を蹴りつけた。仮にも自分の魂なのにそんなにも乱雑な扱いでいいのだろうか。
「浅はかさに反吐が出る」
『久々に繋がったと思ったらこれだから。老化の恐ろしさには新鮮な驚きを隠せないよ』
「この人ら、もしかしなくても自分と喧嘩してる?」
レイはすっ飛ばされた日記帳を拾ってやった。やはり、本の形をしたものが乱暴に扱われるのはこう、心に良くないのだ。埃を払ってやって、随分狭そうな空間に現れた文字を見る。そして、その内容を認識するとヴォルデモーその人に見えない様に日記帳を閉じた。罵詈雑言の極みである。
「で、なにゆえ日記帳に烈火のごとく?」
「貴様にも非がある」
「何故……」
レイは可哀想な日記帳を抱きしめると本人的にはかなり真面目な顔で問うた。意味の分からないケンカに巻き込まないで欲しい。
「俺様は本を読んで魔法理論を組み直し、魂を取り出せと言ったつもりだった。貴様は何をした?」
「貰った本がちんぷんかんぷんだったので、別の方面から可能性を見出し、献血しました。日記帳に」
「何を言っているのだ」
「いや、だから。バジリスクの毒には魔力循環阻害系の成分があって、日記帳は分霊箱としての機能がなくなったわけではなく強制ストップ?封印?されてるのではないかという仮説に行きつき、だったら綺麗にして魔力ぶん回せばいいよねって思ったんです。でも、俺の魔力全部注いでも動かないだろうからもうね、お前は生体エネルギーで行け、と」
「は?」
「無事稼働してよかったですね」
「もう二度とするな。倒れるぞ」
微笑んでいるレイに気色悪い、という感情を抱いてしまったヴォルデモーである。無理もない話だろう。確かに、血液は多分に魔力を含んでいる。かといって、こんな使い方をするべきではないのだ。魂が小さくなってしまった闇の帝王の方が正論を言ってしまうのも無理はない。
なにより、混ざり合う感覚に怖気だったのだ。いつか、トムが取った手法を彼は否定する。自分こそが尊ばれるべきであり、なにかと混ざりあうことなどあってはならない。たとえそれしか手段がなくとも、血液、のような極端な魔力要素を取り入れるべきではない。
「失ったはずの魂がリンクされた感覚に驚いてみればこれだ。その上、内部を撫であげられるような薄ら寒い感覚に襲われた」
「失ったと思ってたんですか!?」
「万が一、という言葉がある」
「約束された失敗だったってことですね……」
「成功しているから誉めている」
「……」
「なんだその目は」
問答無用のクルーシオ。レイは日記帳を落とさないように悶絶する。なぜか離しがたいのだ。存在しないはずの揺れる赤い瞳の記憶。それがレイの深層心理に作用する。
『まさか、自分がこんな風になっているなんてね。繋がったことですべて見えたけれど、これは失敗作だ』
小さく狭い世界、硬質で意固地な感性。それが彼を狭めてしまっていることに、最早自分では気づくことすらできない。だからこそ、トムは彼に吸収されることを望んだ。今の自分であればこの老いぼれをとって食えるだろう、と。肉体を取り戻して今度こそ、失敗のない世界を作り上げることができるだろうと。トムは日記帳の中でほくそ笑んだ。