闇の世界の歩き方を覚え、地位を確かなものにしていくにつれレイの周りから人が離れていった。本人の内向的な性格も要因の一つではあるがその厄介な立ち位置も原因だろう。
教師の仮面さえ被っていれば軽妙で話しかけやすいため生徒からは人気の教師であったが、その親や、死喰人達からは腫物を触るように扱われる。
正直に言ってしまえば、他人から話しかけられることを煩わしいと思う性質であったし、扱いそのものに不満はなかった。
いよいよもって闇の帝王以外でレイに好き好んで関わる大人は旧知であるドラコを除き、人間同士の覇権争いに興味のないフェンリールグレイバックや、レイを蹴落とす策を淡々と練っているベラトリックスくらいのものである。
寄ってくるのがロクでもない人間ばかりになっている自覚はある。だからこそレイは自分の意思でスネイプを避けていた。無論、誰しもに互いの弱点であることは周知されているだろう。それでも、彼ら薬学教師陣は闇の帝王のお気に入り。そう認識されることで仮初の平和を手にしている。
この手がいくら血に染まろうとも、自分は彼の生徒で、同僚。自分が自分でいるうちはスネイプは自分のことを見てくれるだろう。その思いがレイの全てであり、この場に立っているための杖だった。
魔法がちっとも上手くならない、自分の才能を最初に見つけてくれた人。この場にいてもいいのだと初めて認めてくれた人。
だからこそ、今のレイはスネイプの側に寄れなかった。助教授の立場でありながら生意気だな、と自分でも思うが、今の自分のことなんて知られたくなかったのだ。薬学の研究を疎かにし、魂と不老不死の研究ばかりしている、こんな自分のことなんか。
相反する二つの感情の渦。それに巻かれながらも、あの人だけは自分を見てくれると信じているのだ。
レイは今日の授業のために準備室に向かう。暗い廊下を渡って、本物の蝙蝠になった気分だ。石造りの校舎には最早温かみを感じない。ろうそくの火さえ凍えているかのように見える。
一方で、絹を裂くような悲鳴にも動じない上級生たち。こちらを見るとふわりと表情を柔らかくする下級生。子供にとっては変わらぬ学び舎であると錯覚するほどだ。
今や、寮制度はすっかり崩壊している。組み分け帽子は過去の遺物として物置に投げ込まれた。
それもそうだろう。この学校に通うことができるのは純血の子息子女。そして闇に傾倒した半純血の子供までだ。生まれながらに選別されており、まかり間違ってもグリフィンドール的資質のある人間は入学すら許されない。レイも彼らにいい印象がないので丁度良かった。
「先生!」
「んー?」
呼びかけに振り返ればそこにいたのは半純血の生徒だった。彼は薬学に明るく、見どころのある生徒である。抱えられているのは旧時代の闇の魔術に対する防衛術の教科書。張られた付箋の位置から内容はなんとなく推察できた。
人狼について、だろう。その上で魔法薬学教師であるレイに聞きたいこと、となれば答えはたった一つだ。
「珍しいこと質問しようとしてるねぇ、君は」
脱狼薬。それはこの世界における無用の長物。レシピは燃やされ、もはや製作できる者すら一握り。
なにせ、闇が塗り潰した世界で人狼は尊ぶべき存在になっているのだ。誰かを苦痛を減らし救うための知恵は、今や遠く。その力を封じ込めるための薬は悪しきものへと変わった。
満月の王はフェンリール。彼こそはマグル生まれの不幸で不気味な子供に力を与える者。
本来、マグル生まれは魔法使いとは認められない。しかし、認めようが認めなかろうが、マグルから魔法族は生まれる。大陸の人間でただの一滴も魔法使いの血が入っていない人間など本来存在しないのだ。みな、どこかしらで混ざっている。
九分九厘マグルの祖先の中に一滴混ざった魔法族の血。それが時を経て突然開花する者がいるのだ。今までであればホグワーツ城の特別な機構でそう言った子供たちを学校という場に呼び寄せることができた。
しかし、今は違う。現行法において魔法は魔法族の物であり、マグル生まれはその魔法力を強奪した咎人となる。
特殊な力を持つ不気味な子供、は行き場を失ったのだ。その果てにネガティブ魔力を制御できずに周囲を傷つける。そんな子供に張られるレッテルは考えるまでもないだろう。マグル社会は魔法使いを許容しない。
親でさえ持て余す不気味な子供達は陰鬱に押し込められる。時には蛇蝎のごとく嫌われ、その肉体に傷を負った。その度に彼らは渦巻く憎悪を大きく、強くしていくのだ。
こうして不気味な子供がマグルの社会問題になったころ。闇の帝王が目を付けた。無論、ここまでのすべてが彼の謀である。彼の吹いた笛の音で問題のある子供たちは全て魔法界の手に渡った。
マグル方の政治屋たちは問題の解決をもろ手を上げて喜んだ。こうして恩を売り、顔を売り、帝王はゆっくりとイギリス全土を掌握し始める。
特別な力はあるが、魔法使いではない子供。親を憎み、世間を恨み、闇に溶けるしかない透明な子供達。マグル界にも魔法界にも居場所がない彼らに彼は物語を与えたのだ。
それが理性なき満月の王、ウェアウルフである。
彼は何にもなれない不気味な子供たちに噛みついた。抑圧されていた感情が、気味が悪いと虐待されて肌に残った傷跡が。力なき子供の鬱憤が。全て力に変わる。
鬱屈を晴らすように。欲求不満を満たすように。突如与えられた圧倒的暴力で親の頭蓋をかみ砕いた子供はフェンリールをを崇めるようになった。
魔法界に呼び込まれたマグル生まれは獣に堕とされた。緩解は望めても完治のための薬がない以上、もう人間に戻る方法もない。
闇の軍勢にとって人狼は食客。番犬にはならぬ粗暴さがあれど、それでも闇の主人には従順な友だった。
そんな世界において脱狼薬は何の役にも立たない。むしろ、狼の祝福を穢す厄介な存在扱いだ。
いくらレイが中道派の教師と言えどこの薬に関して質問をするというのは半純血の彼にとってリスキーな行為のはずである。
「昔の論文を読んだんです」
「学術的興味から?」
「はい、勿論」
揺らぐ視線を捕らえる。嘘つきの目だがここではそう言うしかないだろう。レイは懐中時計に目をやった。授業までは一時間ある。スネイプとのミーティングは授業前三十分だ。一つため息をついて、レイは空き教室を指さした。
「勉強熱心なのはいいことだね。教師として支えてあげたくなる。三十分だけ、それでもいいかな?」
「は、はい!もちろんっ!」
中に入って鍵を閉める。軽く防音呪文を施せばようやく落ち着いたのだろう、目の前の青年は深くため息をついた。
本当は魔法でちょちょいとおやつでも出してあげたいところであるがレイの魔法力ではそうもいかない。適当に腰かけて、話の詳細を問う。
「時間がないから端的に。僕でできる事だったら力を貸すよ」
「友達の、妹が、その、その……」
「その友達はマグル生まれってこと?」
「いいえ、純血魔法使いなんですが、彼女は、その」
「あぁ、スクイブ」
それじゃ仕方ないね、と言いたい気持ちを抑え込んでレイは彼を見つめる。魔法使いとして帝王様の役に立てないのであれば、とスクイブはそうとわかったら即座に人狼に捧げられるのだ。
しかし、絶望こそしていても世界に対する恨みがないその子供たちはどうしても弱い。結果としてマグル育ちの子供に虐げられる。家に恵まれながら力を持たない欠陥品、なんてお題目は純粋な魔法族への留飲を下げるためにはちょうど良いのだ。
「先生は、脱狼薬作るの得意なんですね」
「僕ができるのは、味の良い薬を作ることだけだよ。論文、読んだんでしょう?」
それでも、彼女の苦しみを少しでも和らげられるなら、と懇願されてしまえばレイは断ることができない。
彼の言い分も理解できるのだ。だからこそ、それが浅はかな考えであると言ってやれなかった。何かが起きて世界がもっとより良い方に変わって欲しい、と思うわけではない。そう思うだけの希望がレイの中には残っていなかったから。それでも、教師としてできることをしたいと思うのはきっと。心に住んでいる大切な人の面影がそうさせるのだろう。
「僕はね、子供が傷つくのが一番嫌なんだ。だから本当はフェンリールのことも大嫌い。アイツは個人的には消えて欲しいと思ってる」
これは内緒なんだけどね、と微笑めば彼の表情に笑顔が戻った。この世界において誰を信じるか、というのは一番大事なことなのだ。ほんの少し歯車がかみ合わないだけで地獄への片道切符になる。
「それに、約束がある」
「約束、ですか」
「すっかり意味がなくなっちゃった約束、ね」
もう作らなくていい薬は、この世界で最も不要な薬になってしまった。けれど、必要ないモノなんてこの世にはない。レイはポケットに入っている手帳からページを一枚切り取る。そこに書きつけられているのはレシピ。
「ここに書かれてるのはね。どんなに美味しく作っても味見だけはできない薬。したが最後、医務室で胃洗浄だ」
青年はレイの顔とレシピとを見比べる。素材だけを見れば容易に手に入るものばかり。見る人が見れば即座にこれがどんな効用をもたらすか分かってしまうだろう。だからこそレイはこの紙に魔法をかける。
「僕の手の内にあるときはこの内容でも大丈夫。僕が魔法薬学狂いだってのは周知の事実だしね。どんな薬のレシピでも怒られることはない。でも、君が持っているとしたら話は別だ」
レイが杖の先で二度叩けば紙片は全く別の内容にかわる。レベリオを受ければこの程度の偽装はひとたまりもないだろうが、しないより何倍もいいだろう。
「その紙が僕と君との約束の証。レッスンの時には必ず持ってきて。忘れた時、もしくは僕からの確認がない場合は危険の合図としようか」
彼に言葉をかければ、目を真っ赤にする。泣かせるつもりはなかったが、後ろ盾が一切ない半純血の生徒にとってはかなりの賭けだったろう。
生徒、は。子供は。守るべきものだ。まだそう思えている自分にレイの方が安心したのは勿論彼には言わない。
「僕の身体が空いてる放課後に特別レッスンを開くから、それでいいね?」
「ありがとうございます……!」
何度も頭を下げる彼を見送ってレイは自分の手を見た。まだ救えるものがあったのか、と笑う。欲しいものは彼の魂。それと、それを現世に繋ぐための肉体だ。ただ一人の友達を取り返すためだけの攻防。このところ防戦一方だけれどまだ戦える気がする。
表情を作り直して空き教室からでる。今一度時計を確認すれば丁度頃合いだった。
「今の研究内容を考えると魔法薬学教師であることを忘れそうだけど、ちゃんとそれっぽくできてるかな」
もういっそ、新しい学問体系でも作ろうか。神秘学、とか。レイはそんな風に自分をあざけりながら薬学教室へ足を進めた。
今日は久しぶりの助教授としての授業だ。あの瞬間だけはこの冗談みたいな悪夢のことを忘れられる。
教室の扉の前。特別製の元気爆発薬を胃に流しこんだ。体の芯からふわりと体温が上がってひどく心地がいい。
「先生、おはようございまーす」
「重役出勤とは恐れ入りますな助教授殿」
へらへら笑いながら入ってきたレイをスネイプは見つめる。相変わらずの軽薄具合であるが抱える教材は洗練されており、説明をされずとも今日の教材が分かるほどだ。
「準備万端なんで許してください」
レイが気分を切り替えるために深呼吸をすれば準備室はいつも通り良い香りがした。流石、スネイプが管理している場所だ。他の場所とは清廉度からして違う。
「今日の授業内容はこれでいいですかね、念のためレジュメに目を通してください」
「……。過不足ないだろう」
「よかった。これで進めますね」
スネイプはその様子にため息をついた。心配と呆れが八対二のそれはレイには気づかれていない。それどころか今の彼は授業が楽しみなのだろうどことなくウキウキソワソワしていた。精神状態は悪くないらしい。
その一方でレイの目元にはくっきりとしたクマが浮かんでいる。と、いうことは心配させるまいと元気爆発薬でも飲んできたに違いない。これは今も昔もあの薬を作るのが異様に上手いのだ。
選んだ道を否定する気はない。世界が闇に飲まれた今、できることはもういくつもないから。それに、自分を遠ざけている理由もなんとなく理解できるのだ。自分たちはどこか似たところがある。
だからこそ、スネイプはたった一言。レイに問う。
「ハセオ、お前はそれでいいのか」
その言葉を聞いてじわり、滲んだ魔力は明らかにレイのものだけではない。日本人にしては幾分か薄めの茶の瞳の外郭線は淡い桜色。明らかに混じってしまっているのは見て取れた。
「大丈夫、大丈夫だから心配しないで、先生。ドラコも先生も俺が守るから、ね」
守護霊の呪文もろくに使えない彼のために紡がれた魔法。傷を隠すためと誤魔化したその親愛のアミュレットを大切そうに撫でて、青白い顔のレイは笑った。
そして、スネイプは自分の失敗を悟る。
分かっていたではないか。闇の帝王がどれほど慈悲深い人間であるか。その甘言がどれほど心の内の闇を照らしてしまうか。それを知っていてみすみす生徒を闇に手渡してしまったのだ、自分は。
レイという人間の入れ込みやすさや、他者への依存性を一番理解していたのに。囚われてしまった彼を、どうして今更助けることができよう。
しかも、だ。レイは一度情を傾けたものを決して捨てることができない。それどころか危機が迫ろうものなら自分が破滅したとしても守ろうとしてしまうのだ。スネイプの存在はそんな彼にこの場所を守るため、という大義名分を与えた形になる。
「いいわけがないだろう。座れ」
「でも、」
「時間がない。座れ」
半ば無理やり椅子に座らせる。ソワリと落ちつかない様子ではあるが、恩師に言いつけられてしまっては聞かないわけにいかないレイである。
彼に従えばハニーミルクが提供された。暖かなそれに口をつけてため息をつく。すれば勝手に涙が零れてしまった。せっかくつけていた仮面が面白いように引きはがされる。
だから、嫌なのだ。彼の前にいる自分は、子供のままだから。この世界に耐えられなくなってしまうから。
「せ、先生、俺に優しくしないでよぉ」
「いつも通りだろう」
「は、早く……もう何にもわかんなく、なっちゃいたいのに。飲み込むつもりならとっとと飲み込んでくれればいいのに。全部全部、中途半端」
子供みたいにべそをかいて泣く彼の精神状態がまともではないとすぐにわかった。何をされているのか、何があったのかは推し量ることができない。しかし、帝王の様子と漏れ聞こえてくるレイの研究内容を照らし合わせれば仔細はわからずとも概要の理解はできてしまう。
「開心術と真実薬どっちがいい?」
「教師として生徒に繰り出しちゃいけない二大巨頭」
「残念ながらお前はもう生徒ではない」
「え」
「今の立場は教授と助教授だ」
「あはは。であれば」
レイは先生ならどっちでもいいよ、と心の戒めを解く。闇に沈んだ世界において閉心術は必須技能になってしまっているだけで、レイにその気は一切ないのだ。プライバシーもへったくれもない行為にスネイプは一瞬ためらったが彼の隠し事を覗くことにした。
そして、事態が思ったよりも随分と深刻であることを理解してしまう。
「なんと、まぁ……」
今のレイには受けたストレスを解消する術がない。それでも爆発してしまわないのは、その体質のせいでしかないのだ。レイの魔力回路の構造からすればネガティブ魔法でおかしくなってしまっても仕方がない状況である。
けれど、そうなることすらできない。過度な激情、つまり強力なネガティブ魔力は彼の意志とは無関係に外に漏れだしてしまうから。常人であればとうに気を狂わせていたことだろう。けれど、レイは正気のままで魂を砕かれ続けている。
「どうなりたい」
スネイプは思わず問うてしまった。そんなことわかりきっているのに。傷の形すら似てしまった自分たちの、望みなど、この世には一つしかないと分かっているのに。
マグカップで指先を温めつつ、レイは口を開く。
「先輩に会いたい、今までのこと全部なかったことにしてほしい。明日目が覚めたら入学式の前日に戻ってて欲しい、でスリザリンに入りなおす、」
「ハッフルパフでなくていいのかね」
「だって、そっちに行ったら先生は俺を見てくれない」
セド先輩に会いたいけど、先生がいないのはもっと嫌だ。大玉の真珠みたいなきらめきが眼のふちから落っこちる。それらは黒いローブに染み込んですぐにわからなくなってしまった。けれど、吸い込まれた事実は消えないのだ。
一緒に逃げようか、とは言えない。自分が彼を攫ったとて何になる。逃走と逃亡の果てに追い詰められて彼の命まで危険にさらすくらいであればスネイプはそれを選ばないだろう。レイもまたしかり。
それに、もう互いにこの場から離れられる想像がつかないのだ。未練と後悔の箱庭。ここは全ての未来へ通ずる可能性があった墓場。卵の中で死んだ雛にいまさら何ができるというのか。
レイはマグに口をつけて中身を飲み干す。底に残ったはちみつで一段と甘いミルクに味覚を焼かれた。甘くて優しい夢があるから、まだもう少しだけ。レイは世界と戦えそうな気がした。
「もう、引くに引けないところまで来ちゃったから。俺はいくよ、先生」
「飽きたら戻ってきてもいい」
「うん、……うん。それだけでもう少し頑張れそうな気がする」
時計の針はどうしたって止まらない。たった三十分しかないミーティング時間は瞬きの合間に消費されてしまう。レイは涙をぬぐって、笑顔の教師の仮面をかぶる。スネイプもそれを否定したりはしない。
「さぁ、授業だ。ハセオ」
腕がなまってる、なんてことは許されませんぞ。わざとらしく翻されたスネイプのローブ。それが床に落ちる前にレイはもう一度だけ、大丈夫、と唱えた。言霊というのは不思議なもので、耳から入れば本当に大丈夫、な気がしてくる。
「はぁい、先生。フォローお願いします」
「フォローさせないほど完璧な授業をしたらどうかね」
「えへへ、それはね。そう」
先生がいれば、耐えられる。もう少しだけ頑張れる。レイにとって、彼は最後に残った砦だった。ちっとも正気じゃない自分の。正気だと思い込みたい自分の、唯一絶対の道しるべ。