五つ目の魂を継いだ次の日は授業があった。月に数度しかない癒しの時間に穴をあけたくなかったレイは怠い体を薬の効能で無理やり叩き起こして、準備室に向かう。
昨日かなり深くまで踏み込まれた心が痛みを訴えるけれど、今更治せやしないのだ。それに、多少アンバランスなくらいが自分の常。今更労わったところでなんになろう。
「……作るのめんどくさい薬なんだけどなぁ」
レイはポケットに入っていた小瓶を一つ取り出した。彼の来訪が一日ずれたことですっかり無用の長物となってしまったそれは魂保護の薬である。
闇の帝王との愉快なお喋り、レベルとなると自作の魔法薬の効果も形無しだ、と思っていたのだが、心理的ダメージの蓄積具合を鑑みると案外馬鹿にならないらしかった。
通常は会うことが事前にわかっているからこそおまじない感覚で飲んでいたのだ。それも、彼に気づかれず、理性を閉じ切ってしまわない限度目いっぱいの濃度もの物を。
世界が闇に落ちて、自分がこの世界に慣れることはないと理解した時からレイは人の魂を健やかに保つための薬の研究をしていた。その結果生み出されたのが、ディメンターの対症療法になる薬、つまりは魂保護薬である。
それすなわち、脅威と感じる根源的恐怖に対し、自身の感性をマスキングする。恐ろしいものは恐ろしいと思わなければそもそも問題にはならないのだ。
事実、通常品を常飲しているレイはこの闇の世界を上手に渡れるようになっている。怯えや恐怖という感情はこの世界の頂点に立つ者たちにとってあまりに扱いやすい感情だ。何かを、誰かを守りたいと思うレイにとって、彼らと渡り合うために必要なものであると割り切っている。
「なんか最早物理的に息苦しいまであるもんな、オーラ?威圧感?慣れちゃったけどさぁ……」
レイは高濃度の保護薬を棚の定位置に戻す。そして、通常品の在庫を入れている箱へと手を伸ばした。そして、持った瞬間に顔を顰める。あまりに軽いのだ。確実に中身が入っていない。後で作ればいいや、の怠惰が招いた結果にため息をつくしかない。普段であればしないような在庫の管理ミスに心がささくれ立った。
「なんかの間違いで、一つ残って~~ない!空っぽ!俺の馬鹿!もー、嫌なことって続くんだからさぁ……」
今晩絶対作るぞ、と意気込んでレイは改めて高濃度のそれをしまった棚を見る。飲んでもいいが、いかんせん対闇の帝王バージョンである。常飲しているものとは効果が桁違いなので体への負担も大きいのだ。少なくとも、授業がある極めて日常的な日に飲むようなものではない。
珍しく、在庫管理を怠った三日前の自分を恨む。薬を新たに作っている時間はないので、レイは今日だけ我慢することにした。むしろ、ラッキーだったかもしれない。彼の襲来というテンペストは昨日の段階で去っている。よほどの用事がない限りしばらくは凪が続くだろう。
「先生とだから、大丈夫。今日は俺も先生だから誰かが構ってくることはないだろうし、うん、チョーカーあるし、平気平気……」
レイは自分にそう言い聞かせて身支度を済ませると部屋を出た。
授業そのものはある程度決まったカリキュラムがあるため準備さえ整っていれば問題なく遂行できる。今日は座学より製薬メインであるし、きちんと目を配らせていれば失敗もないだろう。
レイはあくびをかみ殺しながら教室へと足を進めた。教師になっても相変わらず好んで歩くのは人気のない廊下。誰の目を避ける立場でもないのに習慣というのはそうそう変えられるものではない。
何より、一人というのは酷く落ち着くのだ。闇にも光にも属せていない自分にとって取り繕わなくていい時間というのは。そんなはずないのに、この廊下では大人の自分でいなくてもいい気すらして。
「ハセオ」
「あっ、れ。先生?」
なんとなくスキップでもしてみようか、と思った瞬間に後ろから声をかけられた。陽気に上がりかけた片足をそっと降ろす。別に、彼にであれば見られてもいいが、いくら何でも恥ずかしさが勝った。
「先生珍しいですね。こんな廊下に、ようこそ」
「ようこそ、とは。いつからここは君の私道になったのかね」
「学生時代からこの薄暗い廊下の住人なんでぇ。こっから中庭に行って本読んでたんですよ」
「であれば、我輩の方が先達だな。ようこそ、ハセオ」
「あはは、先生もこの廊下の住人でしたか。大変失礼しました」
人気のない廊下は、闇に支配されてからというものより一層人気がなくなった。レイにとっては都合がいい。スネイプは別として、誰にも会いたくない日というのはよくある。今の自分はひどく不安定だという自覚があるため、余計にそう思うのだ。
手当たり次第に暴力を振るいたい、という欲求は生まれてこのかた抱いたことはない。しかし、人間である以上、虫の居所が悪い乱暴な気持ちの日、というのはレイにだって存在するのだ。
「ちょうどいいので授業内容確認しながら準備室に行ってもいいですか?」
「君の話は脱線するきらいがある。端的にまとめたまえ」
「はーい」
持っていたレジュメを複製するとスネイプに渡した。流石にこれくらいの魔法であればレイにも扱えるのである。魔法の行使が相変わらず下手なだけで、教師として十五年も務めればもう実力は疑いようがない。それでも、彼に逐一確認をとるのはレイの甘え、という側面もあった。
それにスネイプには何か言ってやれる資格すらないのだ。彼の手綱を最初に手放したのは自分。であれば、せめて。可愛い生徒が自分のもとでだけでもいつも通りを演じることができるように。場を整えてやることくらいしかできないのだ。
だから、本当に。タイミングが悪かったとしか言いようがない。普段であれば流せていただろう。いいや、人の言葉であると認識すらせず気にも留めなかったに違いない。
廊下から廊下を渡る。階段の乗り継ぎの都合もあり、途中でメイン通りを通ることになってしまった。ここは地下牢へと続く悲鳴と怒号が絶えない愉快な廊下だ。普段であれば絶対に避けただろう。それでも。カリキュラムチェックに夢中になり、二人は足を進めてしまった。
憧れの教師との歓談。それはいつだってレイのささくれだった心を和ませる。この人だけは自分を見捨てたりしないのだ、と深く深く信頼しているのだ。魔法薬学の学者、というには怪しいところまで来てしまったが、それでも変わらず弟子の顔をさせてくれる。だから、ここ人の顔を曇らせる全てをレイは許さない。
「裏切者!」
そう叫んだ声の方へ眼をやれば死喰い人に抱えられたみるからにマグル生まれが一人。醜悪な顔をして明らかにスネイプを見つめている。はて、裏切り者とはいったい誰のことだろう。人間によく似た生き物がいきなり自分の大切な人を罵ったものだから驚いてしまった。
「躾がなってないったら」
レイは何の感慨もなしに杖を振るった。ごく小さく呟かれた呪文と杖先から放たれた緑色の閃光。彼を貫いて音がなくなる。
「ちゃんと黙らせ呪文使ってから運びなよね」
レイは死喰い人にそう言いつけて杖をしまうと、なんてことなしにスネイプとの会話に戻った。日常の一幕である、とでも言わんばかりの行動。しかし杖の魔法を得意としない彼としてはありえない挙動にスネイプの視線が刺さる。
「ハセオ、今何をしたのかね?」
「えぇ、っと?」
本当に困ったように。レイは笑っていた。何を言われているのか理解できないとでも言いたげな態度はスネイプの心を逆撫でる。
「その呪文は誰に習ったのだ、と聞いている」
「呪文、ああ、死の……?あれ。俺、」
習ってなんかいなかった。けれど、見慣れた光景。シレンシオ感覚で禁じられた呪文を人に向かって放った。
気づいてしまえば、もうダメだった。元より血の気の薄かった顔色が真っ白になる。目の下に浮かんだクマと相まって死人のようだ。
「いいや、違う。あれは人じゃないから大丈夫。人の子じゃない。人によく似てるけど、違う。絶対に違う」
唇を震わせたのは言い訳じみた物言い。しかし、それは到底許される考えではなかった。人の命は平等である、その至極当たり前な理念さえ今のレイの中からは消え去っていた。そうでなければ、耐えることができなかったから。犠牲者の数を数字にしなければ、そうやって処理をしなければ。気が狂うのはこちらが先だ。
手が震える。杖を取り落としそうになる。どうして、簡単な魔法すら使えないのにこんなに怖いことができてしまったのだろう。なんでこんなことばかり正しく行使されたのだろう。ヤナギの杖は、人を癒す杖のはずなのに。
「先生。違うんです、これは」
足元に転がる死体。何故だか黄色のローブの幻覚を見る。アーニーマクミラン?ハンナアボット?いいや、これは違う。誰でもない。違う。こんな怖いことがホグワーツで起こるはずがないのだ。だって、先輩はいるし、あの談話室は、本当にいつも通り平和なんだから。
「あは、違うって、なにが?」
「ハセオ」
恐慌状態でも彼の声は一番に耳に入る。それはたった一言。名前を呼ばれただけ。けれどその瞬間、終わってしまったのだと気づいた。スネイプからの視線に明確な非難が混ざったようにすら感じられる。
そうでないことはわかってる。先生は俺に失望したりしないって。
それでも。湖の底。月光降り注ぐ美しい談話室。甘くて優しいハニーミルクに彩られた子供の記憶。あそこにはもう戻れないのだと悟った。もう、彼に期待してもらうための魂が、自分の中にはない。粉微塵になってしまったこれが元の形に戻ることはないのだから。
「どうして、どうして、なんでっ……」
スネイプの制止も聞かずに走り出した。誰かに助けて欲しくて。誰でもよかった。誰でもいいのに、思い浮かぶ顔が一つしかない。いてもよい場所がそこしか思いつかなかった。
夕暮れのままで止まった時間。何もかもが偽物。すれ違う人の顔すら分からない誰そ彼。落陽の影がかかる美しい横顔。
レイは約束もないのにあの部屋に走りこんだ。この城で薬学教室の次に居心地がよくなってしまった部屋。ここにあるのにどこでもないそんな場所。
行為への嫌悪感すら抱かずに人を殺した。だって、うるさかったから。先生と俺が話してるのに、邪魔したから。先生を侮辱したから。その考えが恐ろしいことだなんてちっとも意識しなかった。
喉の奥が締まる。それがチョーカーのせいなのか、漏れる嗚咽のせいなのか、わからない。どこまで壊れているのだろう、いつから壊れていたのだろう。もう、先生の元には戻れない。いいや、ここまですり減った魂では、どこにも。
レイはカウチソファーの左端に座る。靴を脱いで、フードをかぶり、膝も抱え込んだ。子供っぽい仕草は、今の見た目であれば違和感はない。それほどまでに粉々だった。
「せんぱい、」
星の光は遠く、短い自分の手では届くはずもない。湖の底に沈んだみたいに、指先から冷えが来る。一人が恐ろしくて手を握るけれど、熱はちっとも戻ってこない。
ならせめて、想像の中だけだっていいから。大好きな先輩に助けを求めれば、いつだって彼は手を引いてくれた。大変だったね、もう大丈夫、と頭を撫でてくれた。オレンジと白の甘いキャンディーの記憶。心の一番奥にしまったはずのそれは、何回も何回もダビングして解像度が落ちてしまったテープみたいに荒い。
いいや、そんなはずない。これがあれば生きていける、先輩の声はどんなだっけ。どうやって名前を呼んでくれるっけ。瞳の色は、髪の柔らかさは、体温は、貰った言葉は。
思い出そうと必死になればなるほど遠ざかる。粉々の魂は幸せな記憶を再生する篩として機能してくれない。
何もかもが闇の帝王の思い通りだということに気づかず、思い出せない恐怖にレイの心はさらに砕かれる。
「浮かばない、そんなはずないのに、思い出せない、ぜんぶぜんぶ、わかんない、」
だって、自分にはもう。
「今日もここにいたのか」
かけられた声に反射的に顔を上げた。黒髪、一見しただけであれば人好きのしそうな美丈夫、人を魅了してやまない美しい瞳。自分をこんなにしてしまった諸悪の根源。それでも、歩んでしまった歴史が彼を拒むことを許さない。
ただ、言葉が出なかった。無視しよう、なんて気概は今のレイにはない。どうしたらいいか、もう何もわからなかったのだ。
夢の中のあの人は、もうこちらを向いてくれないのに。どうしてこいつは俺に優しくするんだろう。どうして、俺の名前を呼ぶんだろう。お前は俺の本当の友達じゃないのに。
「ぅ、」
来るな、も言えない。助けてなんてもってのほか。レイは何も考えたくなくてその場で固まっていた。
大好きな先輩との二人の放課後、はレイが本当に欲しかったもの。その対価として肉体の自由すら明け渡していること、闇に飲み込まれ、使えなかったはずの死の呪文すら使えてしまったこと。
そしてなにより、レイの眼前にいるはずの彼の容姿がノイズの向こうの『先輩』にどこか似ている、ということ。そのすべてがレイの持っている価値観の天秤を狂わせてしまった。
「レイ?」
声色は、まるで心配しているかのようにレイの耳には届いた。それに大きく肩を震わせる。彼に背を向けてソファーの上に丸まるとローブの中に隠れてしまった。本物の子供のような反応にいっそ驚いたのは彼の方である。ここまで苛烈な反応は久方ぶりに見た。
「何か嫌なことがあった?」
甘くて優しいキャンディの記憶。触れる熱、自分の名前を呼ぶ声の質感。何もかも違うのに。どうして優しくなんてするのだろう。どうせ壊すなら、もっとちゃんと壊してくれればよかったのに。そうしたら何にも気づくことなんてなく、ちゃんを自分を殺せたのに。
ソファーがレイの体重以外を受け止めて沈んだ。近くになんて来ないで欲しい。小さく丸まっていたレイの頭に手が置かれる。撫でるわけでもなく、置かれただけ。大きな掌。じわりと掛かる心地よい圧。
それを合図にいつかの思い出が脳裏を駆けた。ざらり、ざらり、と、ノイズが走る。優しくて、綺麗で、少し意地悪。時折褒めてくれるのが嬉しくて、この人にも人間っぽい心持があるんだなって、知って。それで。
「それで……?」
レイは頭をあげた。分からなかったのだ。何もかもが二重に見えた。あの人との思い出を明確に掌に載せたはずなのに。指の間から零れた。そ、っと振り返れば笑顔の先輩、がそこにいる。
「あ、あれ、えっと」
綺麗な黒髪、スリザリンの、先輩。奥底まで見透かす赤い瞳。自分からすべてを奪ったはずのそれが細く、甘やかに細められている。
人と人は目と目のあった数、言葉を交わした数、そして触れ合った回数で情を抱くという。であれば。この十五年はレイにとって一体なんであっただろうか。
思考を共有し、同じ場所で甘いものを食べ、不本意ながら体まで許した。この記憶は。
レイの中にあるのは現実と理想の乖離。どうにか取り繕っていたそのバランスはあっけなく崩れレイの精神を侵してしまった。
涙にくれて紅潮していた顔から血の気が引く。彼を見つめたまま、ゆっくりと世界の色が滲んで失われていくのを感じた。
「ほら。もう、曖昧だ」
「ちがう、ちがう、そんなことない」
彼は指先一つで魔法を行使する。ほんの少し柔らかくした黒髪、華やかで優し気な灰色の瞳。ローブの色は黄色。その姿でレイに微笑みかけた。
「僕、が欲しかったんだよね?」
レイが、自分以外の名を呼ぼうものなら、現実を見せてやるつもりだった。この男はもう死んだのだ、と。嫉妬、というには生ぬるい激情が彼の心に渦巻いている。レイの望むものを途方もない裏切りであると感じるのに、同時にレイが哀れで仕方がない。可哀想だから助けてやらねばならないだろう。それが先輩としての務めだ。
彼はその姿のままレイの首に手をかける。常であれば愛の守りで痺れる指先がいつまでたっても痛みを覚えなかった。そして、ゆっくりと圧を強める。
「ほら、呼んで。レイ」
瞳の奥、誰が写っているかなんて開心術を用いなくとも手を取るようにわかる。薄茶色の瞳。覗き込まれた姿は鏡のように赤い瞳を写し出す。それに気づき、彼が手を離せばレイは咳き込む。それが収まってようやく、口を開いた。
「ごめ、ん……なさい、せんぱい……」
ぐずぐずの思考。まだ大丈夫、まだ大丈夫と自分さえも誤魔化す。考えることさえできれば。抗うことができる自由だけあれば。まだ、まだ戦える。
どうにかこうにか笑顔を繕ってレイは距離をとる。常であれば彼はレイを過剰な暴力で追い詰めただろう。けれど、もう。魂の形はほとんど全盛期と同じ。レイを取り逃がす短慮が、傲慢が、彼の中にはなかった。
「あぁそう。わかった。じゃあ、これでも飲むと良い」
彼は彼の姿へと戻るとまた杖を振った。机の上、現れたのは香りのいいカフェオレ。てっきり害されると思っていたレイからすれば青天の霹靂に等しい。
本当に子供だった頃は魔法薬学を究めるために紅茶ばかりを飲んでいた。だから、この場の外では今だってそうだ。この香りは、この温かさはここにしかないもの。彼しか許してくれない子供っぽさの象徴。それがいつしか全てを塗り潰していることに気づいた。
「君は、僕の淹れる甘いカフェオレが好きだろ」
「……」
「僕は君にしかコーヒーなんて淹れない」
どうぞ、と机を示される。躊躇うべきなのに自然とマグカップに手が伸びてしまった。これが今のレイが持っている当たり前なのだ。この場所にしか居場所がないのにどうして拒絶なんてできよう。
「俺だけ?」
「そう言った」
「……そっか」
震えていた指先が温もりに曝される。その心地よさが痛い。今この場にあるすべてがレイにとっての堕落であり、祝福になる。
俺なんかがあの人の隣にいることすら許されない。そう、もうセド先輩は俺のこと許してくれないんだ。今の俺と会っても笑いかけてくれないに決まってる。思い込んでしまえば、それ以上に傷つかなくて済む。
そろり、口をつければやけどしない適切な温度。苦みなんてほとんどない、黒と白とが混じりあった物。
最初から分かっていた。この男に取りすがってしまったあの瞬間から。大好きな先生の言葉を無視して、この背に手をまわしてしまったあの時から。
唇に残る甘い余韻、体にゆっくり熱がともる。つまっていた呼吸すらほどけてすべて、甘いカフェオレに溶ける。
もどれるなんて、どうしておもいこんでたんだろうね。
「もう、いいんだ」
レイがはらりと零した涙をみてヴォルデモーは自身が冷静でないことに気が付いた。その感覚は人生において、まったく覚えのないもの。快や不快といった単純な言葉では言い表せず、かといって他のものでは言語化さえ不可能だった。彼の中にはまだないのだ。この心持ちを現す適切な言葉が。
それでも悪い気はしなかった。机に置かれたマグカップ、自分に向かっておずりと伸ばされた手、こちらを伺う不安げな目元も、全部。
選ばれたのだ、と。思った。蛇の持つ薄ら暗い純情な欲が首をもたげる。
「おかしいだろ。僕は今、君の先輩になりたいと思ってる」
あえて、レイの手を取らず言葉だけを返す。欲の一方で胸の中にある戸惑いもまた本当なのだ。触れれば、きっと。これは本物になる。答えがなにがしかの情になることだけはわかりきった簡単な計算式だ。
「いいよ」
「ならない」
「先輩がいい」
彼はたまらずにその手を引いた。抱き寄せられてレイは目を瞑る。一度目は誰かのために。そして今度は紛れもなく自分のために伸ばした手。成長することをまるきり忘れてしまったみたいな、細い手首。求められたのは一体何であろう。あぁ、でもそれはきっと、考えるだけ意味のないこと。
「レイ」
ヴォルデモーは、いいや、トムは幾度となくレイに放った、苦しみだけを呼び起こす禁じられた呪文を想う。そして、肌には残らぬ傷を想起し、その箇所を撫でた。ないものに触れるだなんて実に無意味で不合理なことである。悪いことをした、だなんていまだに微塵も思ってはいない。
「レイ、痛かったね」
明らかに今までとは違う態度にレイが無意識に自分を戒めていた閉心術が緩む。当人が許してしまえば他者がかけた守りの効果などあってないようなものだった。
魂を暴かれる感覚をそれとわからぬままに受け入れてしまえばもう二度と、知らなかったころには戻れない。
知らないものを探求し尽くしたいもの同士。賢くも、それが許されなかった二人の答え合わせ。時代が違えば、順番が間違ってさえいなければ。真の友になれたかもしれない二人の初めての邂逅だった。
偽物の談話室、偽物の学生生活。何もかもが偽りで、どこにも本当なんかないはずだった。けれど、レイと呼ぶ声の優しさも。それに返す笑顔も。いつしか、本物と遜色無くなっていった。
おもちゃであったはずのそれに名前があることを知り、その名前を口にすることの甘さで魂が震える。嫉妬や独占欲すら超えた欲望には名前があるらしい。けれどそれを知ったが最後。もうけっして一人ではいられなくなるのだろう。
たからまだ、彼はこの感情に名前を付けることをしない。